ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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ZEROのルイズ(1)

 自分の左腕にかかる強い圧力を感じて、イングリッドは眼が覚めた。瞬間的な覚醒だった。一瞬で切り替わった意識は、直ちに周囲に向けられて無意識の警戒態勢に入る。それこそがイングリッドの日常だった。

 窓の外では2つの月が西の空に消えかけ、東の空から濃密な太陽の力を感じる。

 空に浮かぶ雲は、地平線の向こうで世界を照らす力を万全に整えた存在が発する強力な力の残滓を一足早く、その身体に蓄えた水の力で地面に向かって反射して、大地を薄く照らし出しつつあった。大地に存在する様々な事象に陰影という存在感を示して太陽は、自身の力の大きさを誇示しつつあるようだった。

 急速に藍から青へと色を変える空の高いところを窓の外に見やりながらイングリッドは、自身の身体に絡みつくルイズの手足に嘆息する。肌に感じられる体温が、酷く熱く感じられた。

 

 幼き子供のようじゃ。

 

 イングリッドは、そっと右腕で押してルイズの身体を引き剥がす。

 小さくむずがったルイズだったが、幸いにして抱きつき返したり、眼を覚ましたりと言う事は無かった。毛布に包まれた身体を「こてん」とひっくり返して、イングリッドからあっさり身体を離した。ただしその勢いで、イングリッドの身体から毛布をすべて引き剥がして持っていってしまう。

 その仕草に「ふっ」と小さな笑みを浮かべたイングリッドは、ベットの上で音もなく上体を起こして慎重な仕草でゆっくりと、そして大きく伸びをした。

 

 ぼきぼきぼきっ。

 

 淑女にあるまじき音が身体のそこかしこから響く。

 首を右方向に、次いで左方向に。前に後ろに。

 ぐにぐにぐるぐるといった仕草で回して動かす。

 

 ぽきこきかき。

 

 それなり以上に健康に留意し、身体の構造と状態を把握しているつもりのイングリッドだから、そういう動作をしてうっかり神経を傷つけて、首を回したら下半身不随になった等と言う情けなくも悲惨な結末を迎える様な事は無かった。ほどほどに慎重さ保ったストレッチ、のつもりであったが、予想外に体中が凝っていた事にイングリッドは小さく驚く。

 「ふむ」と、左右に首を傾げると、上半身が離れたことで重量バランスが変わり、接地圧が高まった事で、ベットに大きく沈み込んだ自身の下半身を見つめる。

 

 やわらかすぎるんじゃな。

 

 ルイズの寝姿を邪魔せぬように、下半身をそっと回してベットから突き出し、ゆっくりと身体を動かす。ベットの形状が急激に変化してルイズの体が跳ねたりしないように、慎重な態度で重心を移動し、床に体重を移して立ち上がる。

 立ち上がった状態で、もう一度大きく伸びをする。今度はイングリッドの身体から音が鳴り響く事は無かった。

 それを確認して、イングリッドは本格的にストレッチを始めた。身体を解すことは闘争の可能性がある状況の前段として、事の外重要なのだ。

 闘争というのは自身の都合を考えてはくれない。予想外のとき、予想外の場所で、いきなり状況に突入することがある。そんなことは日常茶飯事なのだ。その段になって、足が攣りました。やられましたでは、イングリッド個人はともかく、ルイズの身の安全を第一に考えなくてはならない今のあり方にあっては、非常に都合が悪い。イングリッドが自身の骨格筋を良好な状態に整えておくことは極めて重要であった。

 静的ストレッチを十二分に時間を掛けて―――しかし、素早くこなしていく。自身の身体に神経を研ぎ澄まして、必要性が感じられる部分に特段の注意を払って解していく。

 

 身体が凝っていたのはともかくとして、精神的に随分と楽になっている自分に気が付きイングリッドは驚く。

 周辺周囲から微弱な『力』が発せられて、自身の肌を刺激し続けている状態には変化が見られなかったが、そういう得体の知れない状況でずいぶんとリラックス出来た自身の精神状態に首を捻る。

 

 こんなにも落ち着いて寝ていられたのは、何年振りじゃ……。

 

 十分だ。そう判断してストレッチを終える。本来であれば、ここから動的ストレッチでウォーミングアップ。徐々に体温を上げていって、バリスティックストレッチへと進みたいところだが……この場でそんな騒ぎを起こせばルイズが飛び起きるであろう。イングリッドは自重した。

 

 前日深夜、或いは早朝であったかもしれないが、寝る前の大騒ぎでいろいろと精神的ダメージを―――それも、自身の日常である闘争の場で受けるものに、勝るとも劣らない大ダメージを受けていた自覚があるイングリッドとしてはそれほど長くはない睡眠で、それらがすっきりと解消されて全快状態にある身体を不思議そうに見回す。

 

 これほどまでの快眠を得られたとは。どういう理屈じゃろう?

 

 いついかなる時も、それこそ寝ている時ですら僅かの油断すら出来ない地球での生活を思い出しながら、ネグリジェが入っていたクローゼットに近づく。3つある(!)それと、さらにその横で存在感をアピールするクローク。ネグリジェの入っていたクローゼットを下着、寝具用。他の2つは学業用、外着用。クロークはその他の上着、或いはタオルやハンカチが入っているのだろうと益体もない考えを思いながら昨夜、ネグリジェを取り出したクローゼットの前で腰を落とす。

 2段の引き出しに首を捻って、一瞬の躊躇の後にまず上を開ける。

 想像した抵抗も引っかかりもなく、滑らかに引き出された引き出しは音も無くその中身を露にする。幾度目か思い出すのも億劫になってきた、もはや考える事すら馬鹿馬鹿しい、造作の素晴らしさに溜息を吐いて中身を確認すると、美しく整理整頓された大量のキャミソールが、一つずつ区切られた枠の中で、自身の出番を静かに待っていた。

 僅かの躊躇の後に、淡い桃色で統一されたその中身から適当に一つ取り出して、自分の脇の床に置こうとする。

 床に置くのもどうかと、若干の躊躇はあったが、埃どころかチリ一つなく、傷一つ見せない床の姿に大丈夫か、と思い直してそっと、手にしたキャミソールを降ろした。

 ゆっくりと引き出しを戻す。

 次いで下の引き出しを開けるとイングリッドの想像通り、一つ一つ区分けされた中に、パンティが自分達の出番を待ち受けている。これまた薄く淡い桃色で統一された色彩の中から一つを取り出して床に置き、引き出しを押して戻す。ゆっくりと戻したつもりだがそれでも乱暴だったようで、僅かの衝撃で上の引き出しが、外に向かって押し出された事に呆れるほどの感嘆を覚えてしまう。造作の優れた家具にはままある現象であり、そのような事態に出会うのは地球では久しく経験がなかった。

 

 100年ぐらい前なら、「今」となっては驚くべき事ではあるが不特定多数が利用する公共交通機関である鉄道の一等車の窓や扉でもそういう現象を経験出来たなと、イングリッドは思い出す。窓袋に向かって勢い良く窓を押し込んだら、その隣の窓を開けて窓枠に顎を乗せてだらしなくいびきを響かせていたおっさんの顎を、その下から飛び出した窓枠でしたたかに打ち据えた記憶を思い出して、小さく笑う。

 空気が勢い良く動かないように、上下の引き出しをそっと押すと、クローゼットの下あたりから、空気が押し出される感覚を感じつた。ようやく引き出しがクローゼットに納まる。こういう家具にはこういう理由で空気穴が必要だと『現代人』は知っているだろうか?

 

 床の2つを手にとって、お茶をしたテーブルの上に置かれた自身の服の上に重ねる。脇に寄せられたプレートに僅かに残るクッキーを手にして口に放り込む。造られてから結構な時間が経っているであろうそれは、そうであってもなお、その元の味を失っていなかった事実にイングリッドは驚き、そして満足する。

 一人で暮らす中では、余りにも大きすぎて邪魔にも思えるサイズのテーブルだった(その精巧にして繊細でありながら重厚なつくりにはもはや感想を考えるのも面倒である)が、ルイズとイングリッド自身が座った椅子以外にも、壁の前で所在無げに並べられたいくつかの椅子を見て納得する。寮生活等というのは勿論、学校生活すら送った記憶のない自身の人生経験から想像するのは困難であったが、暇つぶしに眼を通したふわふわもえもえの漫画雑誌にあった描写のなかに、女学生達が自身の寮生活の場でかしましく過ごしている姿が描かれているのを思い出して、まあそういう必要性もあるのかと合点する。

 

 かなりの勢いで青から白へと変貌する光を浴びながら、さっと着替える。

 脱いだネグリジェを手にして一瞬悩むが、昨日のルイズの行動を思い出してクローゼットに戻そうとして、刹那の躊躇を経て、考えを改めた。他人の体臭が付いたものをクローゼットに戻されるのはさすがに嫌であろうと常識的判断を下す。手にしたネグリジェをそのままテーブルの横に置かれた籠に投げ入れた。

 きょろきょろと見回して、必要と思った目的のものを見つけられなかったイングリッドは首を捻り、一つ納得してクローゼットの扉を開け閉めすると、一番右側のクローゼットの扉に平滑で美しい反射を誇る、傷も曇りも歪みもない大きな姿見の姿を認めて、その前で自身の服装を整える。この世界でも、鏡は無防備に外に曝す物では無いと言う様な考えがあるのだろうか?

 キャミソールの上に服を着る経験はイングリッドが生きた世界では遠い遠い昔に過ぎ去った過去であったから、彼女は上着の形が崩れることを予想して若干の危機感を抱いた。だが、幸いにして、下に着たそれが服に影響を与えない事を確認出来た。大きな白いリボンを僅かに弄ってイングリッド自身にしか理解出来ない拘りを満足させてから「うん」と頷く。

 

 予測通りに様々な種類の外着が納められていたクローゼットの扉を音が出ない様に、また、扉を閉める動作によって下の引き出しが飛び出してこない様に気をつけながら、そっと閉める。室内を音もなく素早く動くとテーブルの横に置かれた籠を手にして持ち上げる。

 まったく予想もしていなかったが、その瞬間に、想像以上のきしみ音がその籠全体から湧き上がってイングリッドは、ぎくりと身体を竦ませる。振り返って見たベットの上ではルイズが幸せそうに、それは本当に心の底から幸せそうに緩ませた表情で、口をむにゃむにゃしながら安らかな寝息を立てていることを確認出来て、イングリッドは安堵の息を吐く。

 清浄な空気に包まれた室内で、その音も思ったよりも大きく聞こえて、またぎくりと肩を震わせたが、それもイングリッドの気にしすぎの様で反応はなく、ルイズに気をかけすぎな思考の偏りに気が付いて肩を竦めて廊下へ続く扉に向き直る。

 

 昨日この扉を潜った時にも気が付いた通り、取っ手も突起もくぼみない、ただそこに施された彫刻が壁と顕著な差異を醸し出しているという1点に於いて「扉かもしれない」と思わせるそれは、扉を開けたいという意思を持ってそこに触れただけで静かにその口を開けた。

 この部屋に来た時は、ルイズが触った瞬間に部屋の内部に向けて扉が開いていたので、今も当然手前に向かって扉が開くのだと予想して後ろに下がったイングリッドだった。だが、それを笑うように、扉は廊下に向かって開いた。その姿を若干の呆れと共に見て外に出る。開かれた扉の、予想以上の分厚さを誇る縁に意思を込めて触ると、それは音も無く動いて刹那の後に壁と面一に戻る。

 壁に施されたものとは異なる彫刻を見なければ、もはや扉があることすら判らない、もう、何を考えてこんな面倒な構造にしたのか予想も想像もできない【推定:6000年以上前】の設計者や建築者の考えに首を捻りながら、戻って来た時にルイズの部屋を発見出来なくなる可能性に身を震わせてイングリッドは、思わず周囲を見回す。

 扉が「あった」上にネームプレートがあり、ルーン語に()()()()()()()で家名も含めたルイズのフルネームとクラス名が書かれているのに気が付いて安堵の息を吐く。ふとイングリッドは、それに違和感を覚えたが危機感を感じなかったので、その場を立ち去って階段の方に足を向ける。

 

 円を描く廊下から扉で区切られていない階段室に入ると、目の前にエレベーターの扉が姿を現す。エレベーターは使用人専用であるという昨日聞いた説明と、その作動原理の不確かさにそれを敬遠して、エレベーターシャフトに巻きつくように弧を描いて、上下に段数を伸ばす階段を下に向かって音も無く、静かに素早く降りていく。

 一フロアの天井が呆れるほど高いために、昨日感じた体感よりも多くの時間を費やした気がしたが、強く萌える緑の気配が濃厚に漂う1階に、しばしの時間を経てたどり着く。

 生徒達の部屋は、2階以上にあって、1階は寮専属の使用人達が詰める部屋と、その簡易な生活のスペース、仮眠室に、彼女達のためのトイレやキッチン、リネン室に倉庫等と、生徒達が気にかけるどころか眼にすることも殆どありえないような施設が軒を連ねてひしめいていた。昨日の段階ではルイズに意識を向けることに忙しく、気が付く事の無かった施設の配置を頭に入れておく。殆どありえないだろうが、まさかに、この学院が戦闘の場となった時に、それらの記憶が一瞬の生死を分ける事態にならないとも限らない。判断材料と選択肢は多ければ多いほど良いのだ。

 その向かい側、出入り口に近い場所にある歓談室のみが貴族たちの興味を引くスペースとなっていたが、それなりに重厚な拵えを見せる調度も立て篭もるにはバリケードの材料ぐらいにはなりそうで利用価値がありそうだと記憶しておく。

 それも基本的に寮棟の外を行き来するのが普通だという生徒達が利用する頻度は高くない様で、それら、品のいい調度で飾られたサロンのような部屋は、柔らかな明かりに照らされながらもどことなく空虚な装いを感じさせた。上層のフロアとほぼ同じ位置に上下を重ねて、何人も同時に用を足せるトイレがあったが、それも使用された形跡は殆どなかった。

 

 

 

 ルイズや使用人達が着る服装のデザイン等から、トイレの存在を強く示唆されてその実、イングリッドは大いに安堵していた。このハルケギニアと言う世界の現状が、地球上の文明が辿った、どの歴史に近しい世界かはいまだに正確な予想ができていなかったが、極東のごく一部地域や古代辺りまで見渡さないと、自称文化的国家の殆どでその歴史上、トイレの存在が重視されたことが殆ど無かった事実に若干どころではすまない危機感を覚えていたのだ。

 表に見える煌びやかな装飾の陰で、たいていに於いて酷くおざなりにされてきたのがご不浄の歴史である。金色に飾られたおまるを跨いで腰を下ろして用足し、そして窓からその中身を投げ捨てるような生活を強要されるんじゃないかとイングリッドはひやひやしていたのだ。

 それが常識であった時代であった世界に身を置いていた頃であれば、イングリッドもそれをする事に何の疑問も覚えなかった。何しろそれが普通であり常識だったのだから。

 だが、こと水周りで急激に長足の進歩を見た近現代の100~200年程の歴史の変化を実体験として経験してしまった身としては、人通りのある街路の奥で尻を出す生活はもはや想像も出来ない。多くの歴史家が無視しがちな事実であるが、実際に歴史を肌で感じて駆け抜けたイングリッド自身から言わせると、19~20世紀は戦争の世紀の前にトイレ革命の世紀であったとすら思う。特に極東のある国家で異常なほど発達したアレとかソレの機能はそれはそれは凄まじくも素晴らしいものであったと知っている。

 アレの快適性に慣れた身で、15世紀辺りのヨーロッパに投げ込まれては恐らく「ご不浄行為」で憤死、いや悶死するだろう。

 この分ならこの世界ではぼんやりと街路を歩いていても、上から汚物を浴びせかけられる心配もあるまいと詮無い慨嘆を覚える。

 

 どうでも良いようで、実は恐ろしく重要な問題を考えつつトイレの周囲を見回す。いやーな臭気が漂っているかとも思ったがそれはない。それだけでこの世界のトイレに対する期待が高まる。実際に使ってみる段でどういう状況が展開されるかは乞うご期待といったところだった。ベットの上で意識がなかった期間も考えるとその手の欲求が湧いて来るのも時間の問題だと思われる。尿瓶でも使われていたらアレだが、自己分析する限りではその可能性はなさそうだった。

 イングリッドは自身に要求される仕事の特性上、その手の欲求を我慢する事に慣れていた。極地探索等では、それらの行為を行う事が命の危機に繋がる場合すらあるのだ。極寒の地では尻を出した瞬間に凍死というかショック死に近い状況を曝す事がある。男でも竿を出すぐらいは何とかなるがそこから液体を迸った瞬間に膀胱内部まで瞬時に凍り付いて悶絶死と言う笑えない最後を迎える場合すらある。だが、ココはそういう場所ではないし、どれほどにトイレがアレであっても、トイレがあるという事実は変わらない。であれば、我慢せずに済ませられる可能性があるのだからそれに越した事はないのも確かなのだ。

 ビック・ジョンを我慢しておなかぽっこりは女性という立場からしても避けたいし、闘争になだれ込んで腹パン。そのせいでうっかりあああああ!と、なってしまっては穴を掘って埋まりたいどころではない。ましてやルイズの前でとなれば……。

 

 思考が尾篭所ではない所まで飛んだところでイングリッドは頭を振ってその話題を振り切った。とりあえずは棚上げするしかない問題なのだ。廊下を歩く自分の体の前後に、次々に明暗のある影が流れる事に刹那、気が付く。

 そういえば、ここに至る内も随分と照度を下げたにせよ、暗くて歩行に困難を感じるほどではない光に包まれていたなと思いながら、生真面目な顔をした使用人、メイドが顔を見せる小窓に小さく会釈を投げかけて横を抜けて外に出る。

 

 

 

 左右から上り、頂部で互い違いにして段差になった部分に大きな換気口を設けて、水蒸気と言うには濃い、白く、大量の湯気をもうもうと吐きながらその下の喧騒が透けて見えるクリーニング室らしき施設を視線に入れる。

 この手の阿呆みたいに大量の使用人を抱える施設では、仕えるべき貴族の服装がどうこうと言う前に、使用人たち自身の服装を整えるのに酷く難儀するのをイングリッドは経験則として知っている。

 『今』でもわずかばかり生き残っている「大貴族」の邸宅には使用人専用のクリーニング室がまま存在していて、家を清潔に維持管理するだけで大量に出る洗濯物も含めて、24時間体勢でかたすのに四苦八苦するものである。

 本気で上級を目指す貴族であれば、1時間おきに使用人を着替えさせるのを普通とする場合もある。そうなれば、何百何千と言う数の服が飛び交って大混乱どころでは済まない事態に陥るのだ。

 日がな1日、洗濯するだけの人、干すだけの人、プレスをかけるだけの人、アイロンをかけるだけの人とかもいて、貴族の邸宅に仕える使用人の中でモリモリマッチョメンといったら、コック以外の最右翼はランドリーマンである。別に要塞を爆発させたりはしないだろうが。

 貴族の服と使用人の服が同じ施設で洗濯されるのは「現代」ならともかく、過去に於いては殆どありえなかったにせよ、呆れる程、大量の水と燃料を一日中大量消費するそれらの設備が遠く離れた場所に分けて建てられている非効率は殆ど考えられないので、まずはあの湯気の立ち上る場所に向かえば洗濯もできようと、イングリッドは目的地を定めて早足で歩く。

 

 

 

 そのイングリッドに慌てたような気配をまとって誰かが走りよってきた。

 僅かに疑問を顔に浮かべて立ち止まり、訝しげに振り返ると、昨日見かけたブルネットのメイドが大きな胸を揺すりながら此方に近づいて、息を切らした。

 

「はあはあ……あしが……はやいんですね……」

 

 何とか息を整えようとする彼女の前で、何事だろうと身体を傾いで待つイングリッド。

 昨日も思ったが、なんとなくどこかで見たような、この世界には似つかわしくない肌の色と顔の造姿を、じろじろと見てしまう。

 

 その視線の強さにたじろいて、僅かに身をひいたメイドはしかし、背筋を伸ばしてイングリッドに相対する。

 

「あの……お客様?手にされたものをどうされるんですか?」

 

 視線を外さずにしかし、強く問うメイドにイングリッドは小さく笑う。

 

「うむ。主に洗濯を頼まれたのでな」

 

 隠せない疑問を顔に表して、小首を傾げる姿が酷くかわいいと思える立ち振る舞いだった。イングリッドはこのメイドが天然のたらしで、純朴そうな表情の影で、うぶなねんねなら一撃必殺で撃滅、屍累々だろうと思った。

 

「ええっと、その、お客様が……?」

 

 困惑に混乱が差し込むメイドの表情に頭を捻って、気が付いて1つ頷く。互いの勘違いにしょうがないであろうとイングリッドは思いついた。

 

「お客様と言うのはやめてくりゃれ」

 

「?」

 

 ますます困惑するメイドにイングリッドは笑いかける。

 

「我は我が主、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール様に仕える……昨日より、仕えることになった使い魔じゃ」

 

 おそらくはルイズの身の回りの世話もするのであろうメイドに、それが有効な動作であるかどうかの僅かな疑念を抱きつつ、右手を差し出した。

 僅かに見開いた黒い瞳を持つ眼を、一瞬くりっと反応させてから表情を微笑みに変えて、刹那の躊躇いの後にメイドの手がイングリッドの右手を包んだ。

 

「あなたがるい……」

 

 さっと頬を朱に染めて顔を僅かに振って小さな声でつぶやく。

 

「いけないわ……私」

 

 小さく首を傾げたイングリッドの前で慌てたように、イングリッドの右手から手を離し、両手で手を振った。1歩下がって胸に手を置いて息を吐き、大きく腰を折ってから、背筋を伸ばし、きりっとした表情でイングリッドを見つめ直す。

 

「すいませんミス。私。この身はメイドにある、シエスタと申します。よろしければその高貴にして寛大なるあなた様の身に於いてお許しを得られれば、そのお名前を卑しき身分のこの身の耳にいただける栄誉を授かれば、この私めは大変に光栄にございます」

 

 あんまりにも時代かかった慇懃無礼な態度に大いに驚きうろたえたイングリッドは、その自身の覚えた動揺を突いて思わず、声を上げて笑った。

 その姿に恐ろしい程の緊張感を噴出して汗を流したシエスタを見てイングリッドは、手を振りながら肩に触ろうとする。シエスタはびくりとして飛び去りそうな反応を見せながらしかし、強い意志力を持ってその場に留まって、屠畜場で〆られる順番を待つ牛のような表情でイングリッドに目を向ける。

 突然の表情の変化に驚きながら、反応が激しすぎることに僅かの逡巡を得て、左手にした籠を取り落としてイングリッドは、慌てて彼女の両肩をつかんだ。

 もう、覚悟は出来たとでも言いそうな表情を自身の顔に引き寄せながら、イングリッドは捲くし立てる。

 

「違う違う。違うのだシエスタよ。我は使い魔じゃ。平民じゃ。主らと同じ立場じゃ!そのような悲しい表情を我に見せないでおくれ!」

 

 その態度に、無表情から混乱へ、そして困惑へと表情を崩し、最後に無表情に戻った顔を急速に朱に染めて、今度こそ飛び退って、大きく頭を下げたシエスタ。

 

「申し訳ありません。ミス。かような態度をいたしましたることまことに……」

 

 焦りを表情に滲ませたイングリッドは、そのシエスタの謝罪の言葉に被せて大声を上げた。

 

「おおーい!そのよう態度は無用じゃシエスタ!」

 

 びっくりして顔を上げる彼女に、近寄ってまた肩に手を置くイングリッド。

 大きく溜息を吐いて、顔を上げ、ニヤッとイングリッド自身が表現する笑顔を浮かべる。

 

「イングリッドじゃ」

 

 突然に口にされた聞いた事の無い言葉に、刹那の疑問符を飛ばすシエスタ。

 その表情に、邪気の無い風を装ってイングリッドは、再び笑顔を浴びせかける。

 

「我の名じゃ」

 

 ふうと溜息を吐いて、僅かにステップを取り、距離を離す。

 

「ただ、イングリッドと呼び捨てしてもらえばありがたい」

 

 「え?」と、呟やいて難しい顔をするシエスタに、悲しげな表情を向けてもう一度溜息を吐くイングリッド。

 

 

 難儀な世界じゃ……!

 

 

 右手を上げて強引にシエスタの右手を引っ掴むと、あわあわする彼女を無視してぶんぶんと上下に振るった。

 

「イングリッドじゃ、イングリッド。シエスタと申したか我主」

 

 酷く取り乱したシエスタは、混乱のままこくこくと頷く。

 

「我は貴族ではない。主らと立場は一緒じゃ。以降、見知って、出来得れば、なかようしてもらえればありがたい」

 

 ここに来てシエスタが混乱を呈する理由にようやく思い至ったイングリッドは、頷きながら手を離し、右手で自分の顔を指し示す。

 

「このしゃべり方は我の癖じゃ。もう直らんのじゃ。混乱させたようじゃの。許せ」

 

 大きく首を傾げてようやくのこと混乱から抜け出た風なシエスタは、頬に手をやりながら大きく腰を折った。

 

「申し訳ありませんイングリッド様。私……」

 

 顔を上げたシエスタに、酷く悲しそうな表情を見せるイングリッドが認められて、なにか粗相をしたのかと再度の混乱で表情を強張らせた。そのシエスタに、イングリッドは肩を竦めて笑いかけた。

 

「イングリッドじゃ」

 

 幾度めかもわからない疑問に、幾度目かもしれない困惑とともに首を傾げるシエスタ。

 小さな声で笑いながら、イングリッドは更に笑いかける。

 

「ただ、イングリッドと」

 

 しばしのときの後、シエスタもようやく何を言われているか気が付いて、大きな笑みを浮かべた。

 

「イングリッド……様、でよろしいですか」

 

 しばし悲しげな顔を張り付かせたイングリッドであったが、大きく溜息を吐いて、芝居がかった姿で両手を振り仰ぐ。

 その姿にくすりとして、シエスタはあわてて顔を緊張させる。

 

「うん……まあ、立場もあるし……しようがないの。それでよいか」

 

 顔の前で右手の人差し指を出して、ゆっくりと振る。

 

「敬語は要らん。せめて普通にしゃべってくりゃれ」

 

 シエスタは刹那の緊張を解いて表情を笑顔に戻し、いたずらでも思いついたかのように奇妙に歪めた微笑でイングリッドに言葉を返す。

 

「イングリッド様。ではイングリッド様もそのような態度で私どもに対応されなきよう、お願いできますか」

 

 イングリッドは「ぐぬぬ」と妙な唸り声を上げて仰け反った。頭を掻いて首を振る。

 

「ぬ……ぬう。一筋縄ではいかぬのシエスタよ……しかし、その、なんだな、我は、いや、わたすぃは……」

 

 痛い。かみまみた、などと呟くイングリッドの姿を見てシエスタは遂に声を上げて笑い声を上げた。

 

「ごめんなさいイングリッド様。此方もよろしくおねが……よろしく、ね?」

 

 楽しそうに身体を振って、後ろ手にしつつ身体を傾げるシエスタの顔は輝くような笑顔が浮かんでいる。

 こやつは酷く手ごわい手合いじゃと内心で嘆息しながらイングリッドは苦笑いした。

 

「お……おう、シエスタ、こちらこそよろしくじゃ」

 

 シエスタは、今度は躊躇い無くイングリッドの右手を両手でつかんでぶんぶんと手を振る。

 

「ああ、よかったわ。ミス・ヴァリエールにこんなにいい人が()()()()()()なんて!」

 

 その表現に訝しげな表情を向けてしまうイングリッド。

 あっと、驚いた表情を浮かべてシエスタが小さく舌を出す。

 

「ごめんなさい、イングリッド様。イングリッド様はミス・ヴァリエールの使()()()ですものね」

 

 そのニュアンスに極めて微妙な感情が、あるいは認識の相違が含まれている事に気が付いたイングリッドは、僅かな怒りを覚えてシエスタを見返してしまう。

 

「そうじゃ。我はルイズの使()()()じゃ。そこにおかしなことなどない」

 

 その言葉に、本格的に首を傾げるシエスタ。

 

「ええ、イングリッド様はミス・ヴァリエールの使()()()()()()んですよね?」

 

 大きく頷いてイングリッドは答えた。

 

「そうじゃ。我はルイズの使()()()()()()のじゃ」

 

「……?」

 

 妙な沈黙の後に、そのニュアンスの違いが指し示す彼女の、あるいは彼女達使用人に蔓延って広まったであろう認識にイングリッドは、酷く重い溜息を吐いた。

 

 

 「無能」。

 「失敗」故か……。

 

 

 その言葉がどこまでもルイズに……おそらくはイングリッド自身をいろいろな面で苛み続けるのであろう事実に気が付いて。気が付かされて、ルイズを酷く汚された思いを抱いて怒りが激発しそうになったが、ぐっと堪えて表情を保つ。

 

 

 しかたが、ないんじゃろうか……?

 

 

 イングリッドは首を振って、顔に笑みを戻す。苦いものが多いがちゃんとした笑みに戻ったようには、見えた。

 シエスタが不思議そうな顔で、それを見て、ついで地面に置かれたままの籠に視線を移す。

 

「イングリッド様、洗濯物はおもち……もって行きます。終わったらミス・ヴァリエールの部屋に返しますから、気にしないでね」

 

 若干の怒りをぶり返してシエスタを見返すイングリッド。

 

「いや、我がおおせつかった仕事じゃ、場所を教えてもらえば……」

 

 笑いながら首を振って否定するシエスタ。

 

「パンはパン屋に、ワインはワイナリーに。ですよイングリッド様」

 

 シエスタはさっさと籠を手にした。

 

「正直に言ってね、イングリッド様。素人がランドリーに入っても迷惑です」

 

 口調は厳しいが声は優しい。イングリッドを心配するような響きも感じられる。

 

「私たちも『使用人』です。それをご理解ください。『使い魔』の仕事は取りませんから、今までどおりに私たちが出来る仕事は私たちに任せてください」

 

 籠についた芝生のかけらを払いながらシエスタは、籠の中身を確認する。

 

「イングリッド様は『使用人』の真似事なんかせずに『使い魔』をしてくれればいいんですよ?」

 

 夜のルイズと交わされた言葉を考えると俄かにうなずけるものでもなかったが、言っている事はシエスタが全面的に正しい。イングリッドはそれを理解した。

 判っているのだ。イングリッドにとって洗濯といったら洗濯機にぶち込んでボタンを押すだけ。コインランドリーであるならば、ボタンを押す前に指定の金額を入れる作業が割り込むが。

 ある一部の国では洗濯用の洗剤のブランドがやたらと細分化されているために、自分自身が選んで買い込んだ洗剤を入れて蓋を閉め、洗剤にあった設定を入力してボタンを押す必要があるが、大抵の先進国の洗濯機用洗剤といったら有名どころが数社あるだけで、それが洗濯機の自動投入装置に最適化されているがために、本当にボタンを押してお終いの場合が多かった。洗剤の量が足りない時は警報が鳴る。その時だけ洗剤を投入口に継ぎ足せば良い。洗濯時間や濯ぎ時間、脱水時間などを事細かに設定出来る洗濯機というのは少数派なのだ。手動で設定を事細かにやる必要がある自動洗濯機を自動洗濯機と呼んでいいのかという意見が大勢なのだ。それはともかくとして、電気も蒸気も何にも無さそうなこの世界では、そもそも洗濯機の存在自体怪しい。となれば手洗いだろう。

 過去には、手洗いした事もある。歴史の流れからすれば、手洗いでの洗濯経験のほうがはるかに長い。しかし、ここ数十年で全自動洗濯機に慣れ親しんでしまったイングリッドには、今更手洗いというのは荷が重い。洗濯機がない場所を往く場合でも、数日から最悪でも数週間程度で洗濯機のある場所にたどり着けたから、洗濯機がない間は河原で下着をすすぐ程度で済んでしまった。下着等は最悪の場合、使い捨ててしまえばよかった。そんなに嵩張らないし。

 手洗いしなければならないのだとしても数度程、洗濯をすれば思い出す程度の忘却だろうが、自分の服はともかく、ルイズの持ち物を練習で扱うのはどうかとも思う。はっきり言って力加減を間違えてびりびりとなる未来が確定しているような気がする。

 洗剤はどうするんだ。すすぐにも蛇口を捻ってお終いとも行かないだろう。絞るときはどうするのだ。脱水は。乾燥は。

 それらを思ってイングリッドはぐっと言葉に詰まると、僅かな時間を硬直で過ごして、どうしようも仕方が無く溜息を吐いた。のろのろと顔を上げて、疲れた表情でシエスタに頷く。それでもシエスタに対する応えは言葉にするのは若干躊躇われた。しかし、刹那の躊躇を経て、結局は言葉として口を出でた。

 

「う……うむ。そうしよう。頼んだ」

 

「頼まれました」

 

 くすくす笑いながらシエスタはふと気がついて、籠の中から一つ、洗濯物を取り出す。

 

「あら……変わった、下着?かしら。何かしらこれ……?」

 

 ブラジャーを手にして右に左に揺すっているシエスタ。そういえばブラジャーの誕生はいつごろであったろうかと首を捻るイングリッド。とりあえずは説明しておいたほうがよいと、何であるか説明しようとあれこれと言葉にする。

 

「うむ。それは肩から紐でつって、胸を下から支えるものじゃ。脇から紐で括って抑えて胸の形が歪まないよう整えるように……」

 

 説明を遮って唐突に「まあ!」と声を上げるシエスタに、イングリッドはびくりと身体を震わせる。

 

「これが『ブラッシエール』ですか。始めて見ました。へー、話で聞くよりずっと良く出来ています。すごいですね、これ。私も欲しいです」

 

 彼女の首の下、健康的な肌色を見せる首から繋がった身体のラインを急激に左右へと「掻き乱す」ソレを見ると、イングリッドの表情はなんとも微妙になる。何をするにしてもゆさゆさというかゆっさゆっさで、尚且つ、おっぱいぶるんぶるん!なソレを見て、まあ、そうじゃろうなと悲しくも大きな納得を覚える。

 シエスタは顎を撫でて首を捻る。

 

「これだけ繊細なものは……まあ、ワイヤーで抑えてるんだ。ゴムも入っているし……すごい!こんなに小さくて精巧な金属で……?ええっ、これでとめることが出来るんだ!」

 

 顔色を赤くしたり青くしたりしながら、ためすがえすするシエスタの言葉に昨日から自分が思ってウンザリした思考と同じものが入っている事にイングリッドは苦笑いする。ブラジャーが芸術的建造物と同じ評価になるとは……!

 ひとしきり肌触りを確かめたり、中身が無くても形を崩さないその部分をもみもみしたり、首を捻ったり頷いたりした後にシエスタは心配そうな表情を顔面に浮かべてイングリッドに顔を向けた。

 

「これ……普通に洗って大丈夫ですか?」

 

 イングリッドも首を捻る。ドラム式の洗濯機に服やら靴下やらと一緒くたに投げ込んでも形状が崩れる事は無かったが、まさか棒で叩いたり足で踏んだりするようなまねをされれば跡形も無かろうと想像する。過去にはそういう洗濯方法が一般的であった時代があったのだ。腐った小便で満たされた器で踏み踏みとかいう事すらあったという。さすがにその時代の洗濯を自身が経験したことは無かったが。

 

 

 それ以前に大多数の女性からは、イングリッドの適当極まる洗濯方法は大いに非難されるだろう。

 外行きの服だろうが、下着だろうが、ズボンだろうが、パンティだろうが、何でもかんでも混ぜこぜにして洗濯機に放り込むスタイルは便利な機械の恩恵に与った、だらしない女……と言うより、だらしない人間の代表みたいなものだった。

 イングリッドにしても一応の言い訳はある。激しい「運動」を伴いがちな「仕事内容」からすれば、下着やストッキング等は使い捨て同然なのだ。そういう仕事に就いている者がストッキングを愛用するのはどうなんだという問題はあるが、イングリッドの揺るがせない拘りだから()()()()()

 現代、イングリッドを知る者がイングリッドを思い浮かべてデフォルトの服装だと考える、青い服。つまり、今現在着用している服に関しては、色々な技術が使われてやたら滅多ら頑丈頑強なので、そう簡単に損壊する事態はありえない。至近で爆弾が炸裂しても、ブラジャーやパンティ、ストッキングはずたずたになっても、服と、その中身たるイングリッド自身は無傷という状況が出来る。それぐらいの超技術の塊だった。それが故に、逆にイングリッドの洗濯作業がことさら適当になっているという問題もあった。

 そして、自身の洗濯にかかわる思考が、他とは()()ずれている事に自覚が無い訳でも無いイングリッドだった。だからこそ、シエスタの意見をあっさりと受け入れたのである。

 

 

「ん……うむ。基本的には手洗いじゃな。微妙なところを覆うものじゃ。毛羽立ったりすると酷く困ることになる。金属も細くて弱いからの。錆びることは無い金属じゃが、細かい造作に糸やゴミが絡むとちとややこしいぞ」

 

 「うん」と、シエスタも納得するように首肯する。

 

「そうですね……紐も見た目よりもずっと丈夫みたいですけど、絡まったら怖いわ。金属部分が引っかかると他の服が大変になりそうだし、ブラッシエール自体に絡んだらそれこそ大変ね。高価な品だけはあるわ。特に気をつけるように注意しないと……」

 

 イングリッドは顔を引き攣させながらそれに応える。

 シエスタの中ではそのブラジャーが、芸術品並の価値を持った至高の高級品!という立ち位置で固定されてしまったようだった。だが、イングリッドはあえてソレを否定しない。

 現状、替えがないという点に於いて、確かにそれは「至高の一品」だからだ。

 

「む……うむ。そうじゃ。面倒をかけるが、そうしてくりゃれ」

 

 シエスタは「はい」と大きく頷いて、ベルトをたたみこむとカップの中に収めた。そしてそれを大事に手で包みながら、そっと籠に戻す。ソレを見届けてイングリッドは、いつか訪れる結末を思う。アレが失われたらサラシでも巻こうか……。

 

「よかったです、確認できて。ショーツもすごく高価な品のようですし、こんな肌触りの品は見たこともないです。しっかりと伝えて慎重に洗わせますね」

 

 動揺を浮かべた変な表情を隠せずに、イングリッドは頷き返す。

 笑顔で頷くシエスタは答えを期待しない言葉を続ける。

 

「ミス・ヴァリエールの使()()()の身に着ける品だといえば、絶対に粗末にはさせません。ご安心くださいね」

 

 そういえば、自身が寝て過ごした間になされたであろう洗濯ではどういう風にしたのだろうという疑問を持ちながら、イングリッドは大様な仕草で頷いた。

 

「では、失礼しますね、イングリッド様。よい一日を」

 

 大きく腰を折って、背筋を伸ばすと、鼻歌でも歌いだしそうに軽やかなステップを刻んでシエスタは、湯気を噴出し続ける建物に向かう。やはりあの建物はランドリーなんだろう。

 それを切なそうな表情で見送って、イングリッドは僅かに顔をうつむいて小さく苦笑し、すっかり夜が明けた空を振り仰いで身体を翻す。

 

「仕事がなくなってしもうたわ……」

 

 徐々に騒々しい喧騒が見られるようになってきた寮塔を見上げて、その入り口に足を向けた。

 太陽に照らされて、俄かに湧きあがった草の臭いがイングリッドの鼻を刺激し、さわやかに駆け抜ける風が髪の毛を撫でた。

 

 

 

 イングリッドはそこで思考を停止したが、この世界にブラジャーが存在している事に関して考えを巡らせるべきだったのかも知れない。そこには主たるルイズを守る上で看過できない「かも知れない」問題が潜んでいる「可能性」があった。

 

 ブラジャーの起源や誕生時期については諸説ある。最も古い「ブラジャー」らしきものでは4000年近く前の中国の墳墓から出土した例すらあるのでよくわからない。「ブラジャー」的構造を持ったアンダーウェアの歴史を俯瞰すると、意外にも全世界各地で相当に古い歴史があることがわかってくる。

 極めて早い時期に「サラシ」で満足してしまって、後の発展が逆に阻害されてしまった極東の島国を除くと、多種多様の創意工夫の痕跡が世界中に分布しているのだ。それだけ女性にとって身体の前方で揺れる脂肪の塊を押さえ込む需要が大きかったのだと想像される。

 しかし「現代」ブラジャーの直接の始祖と見られるアンダーウェアの発生は戦争で負傷した兵士を世話する女性看護師が、当時女性のアンダーウェアとして一般的であったコルセットの腹部分を撤去して、胸を押さえることに特化したものを現地ででっち上げたものであるとの説が有力である。

 胸を押さえるという意味での必要性は勿論のことながら、腹を押さえ込まされるコルセットを禁忌して、屈みこむことが出来るように工夫されたものがブラジャーの起源であるらしい。

 

 本来であれば「そう」である蓋然性は無い。ヨーロッパは椅子の文化であるから、屈む必要性は無い。傷病者を横たえる場所もベットであるので、屈む事が難しいコルセットを装備していたところで問題はない。床に落ちたものを拾うにしても、背筋を伸ばしたまま腰を落として手を伸ばせば何とかなる。東洋人が見たところ不自然極まりないあの姿勢というのはコルセットを装備しているが故である。別に淑女たるもの常に背筋を伸ばしてあれなんていう理由ではない。単純に腰を曲げる事ができないからあんな姿なのだ。

 ところが、技術の進歩がそんな悠長な事を言っている暇をなくしてしまった。

 

 縫製技術の進歩が、ではない。

 

 軍事技術の進歩が、である。

 

 具体的に言えばクリミア戦争辺りからであるらしい。

 そのあたりの戦争で、傷病者の数が爆発的に増えた。幾何級数的と言い換えても良いかもしれない。単位時間当たりの負傷者数が激増した事によって、戦前に予想された被害想定を軽く上回る負傷者が野戦病院に持ち込まれることでベットの数が足らなくなった。

 冷たい床に負傷者を横たえることはそれだけで戦病死者を増加させる原因になりえるので、ひとまずは藁束の上に負傷者を寝かせたりした。早い段階でそれは衛生的に問題があると判ったので、藁をシーツで包んで簡易な敷布団を用意する事になった。良かれと思って用意された藁束に寝かされた重傷者が、石畳の床に寝かされた重傷者よりも重篤な感染症を発症する例が続出したのだ。

 それはともかく、布団は比較的素早く用意できたもののベットとなるとそうは行かなかった。

 記録ではクリミア戦争前に一方の当事者が用意したベットは2000床ほどでしかなかったらしい。それでも相当におごったつもりになっていたという。

 現実に発生した戦病者は15万近くに上った。その人数が全て同時期に発生した訳ではないが、このうちの70パーセント程度が戦場に蔓延した感染症によるものであるとの報告がナイチンゲールによってなされている。そうであればなおさらのこと、マットの上に横たえるべき人間が多数に上った事になる。

 しかしベットが足らない。戦場に展開した艦船からかき集めてもベットの数は集められなかった。士官以上しかベットを持たず、兵や下士官がハンモックに包まる事が常態の当時では、艦船にもたいした数のベットはなかったのだ。

 大量に用意された藁を、これまた大量に用意されたシーツでくるんだ簡易な敷布団は床に近いレベルである。コルセットをしている女性では、とてものことではないが、まともな医療行為を行え得ない。

 

 かくしてコルセットはブラジャーへと進化したのである。

 

 そこに至る遠因に軍事技術の進歩が潜んでいる。幾何級数的に負傷者を増やす原因がまわりまわって近代的ブラジャーの成立を促したのだ。その軍事技術とは……。

 

 

 しかし、仕方がないと嘆息するしかない部分でもあった。イングリッドはそのことを知らなかった。自身の「仕事」に直接関係しない部分であったから、ブラジャーは便利な道具であるとの認識で終わっていた。それの誕生に軍事的問題が隠れているなんて言うことは想像の埒外だった。

 永い生を持って広く浅い知識を持ったイングリッドとはいえ、知らないことを想像する事は土台無理である。自身の見聞がやたらと多いが故に一般的な書籍に知識を求める努力が足らなくなりがちな部分も影響した。ブラジャーの根源的な歴史がどうとかはともかくとして、あらゆる部分でイングリッドの知識や経験は歪み、軋み、そして、おかしかった。

 

 

 

 


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