ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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銀髪の使い魔(4)

 どれほどの時間が過ぎたのか。コルベールには判断がつかなかった。

 

 ほんの僅かな、一瞬の邂逅かも知れないし、或いは数刻の触れ合いかも知れないとも思った。

 だが、僅かに黄色を深める外の風景は、実際にはそれ程の時間が過ぎている訳ではない。その事を、コルベールに知らせていた。

 見上げる。

 2人の少女は眼を閉じたまま、ゆっくりと唇を離した。触れ合うには遠いが、唯向き合うには近い距離で相対し、しばしの後、どちらからともなく眼を開いた。

 2人の唇と唇の間に渡った透明な糸が急速に力なく垂れ下がり、そして切れ、粒となって床に吸い込まれた。それを、なんとなく視線で追ったコルベールは、無意識にそれを残念に思った。そうしてから、そのような考えを思った自分に驚き、しばし赤面した。

 コルベールには幸いな事であったが、2人はその事に気が付く事はなかった。

 若干の間を持って、2人とも、知らず、硬直した身体を弛緩させた。それから、イングリッドは小さく首を捻った。

 

「うまくいったのかや……?」

 

 ルイズに向けられた視線が、ルイズの疑問と不安の入り混じった表情を捉えた。それに気がついたイングリッドは、その疑問に染まった顔を床に座るコルベールに移す。

 その視線にばつが悪そうに僅かに身じろぎすると、小さく咳払いをしてコルベールは立ち上がる。

 

「成功しているならば、あなたの身体のどこかに、使い魔の証となるルーンが刻まれる筈です」

 

「るーん?ルーン文字かえ?それが『刻まれる』と、な?」

 

 俄かに身体をよじって、腕、足、肩、胸、と、あちらこちらに視線を這わせるイングリッド。

 それを不安そうに眺めるルイズ。

 その身体は僅かに震えて、しかし、表情はどこか恍惚としたものが混じり、朱が入る。

 

 2人に視線を交互に移すコルベールには不安の表情は無かった。

 

 

 大丈夫です。間違いありません。

 

 唇が触れ合ったあの瞬間の2人に交わされた、言葉なき交流とその結末に無言のまま太鼓判を押す。

 教鞭をとるものとして、コントラクト・サーヴァントにおける、現在までに顕在化したことは無いが、その特性上、当然考えられるのに……しかし見過ごされてきた危険性を鑑み。儀式の見届け人として。幾度となく志願して、コントラクト・サーヴァントに何度となく立ち会った者として酷く恥ずかしい事ではあったが。

 コントラクト・サーヴァントにあれほどの神秘的情景が見られるとは思いもよらなかったが。

 そうであるが故に、経験則に照らして判断をする事の出来無いもどかしさがあったが。

 

 だが、彼の直感は、あれは間違いなく、疑いようもない成功だと告げていた。今の彼は、その自身の直感を信じてまた、遡ってサモン・サーヴァントも成功であったと断じた。

 

 ふと気がつくと、難しい顔をしたイングリッドが僅かに左腕を上げて、その手の甲に視線を集中する。眼が細められて視線を切り、ついっとルイズに視線を戻された。

 

 

「左手に刻まれているようじゃの」

 

 その言葉にルイズの表情がぱっと明るくなる。

 だがイングリッドの表情はますます硬くなる。

 それに気がついたルイズの表情が、また、不安に揺れる。

 

「どうしたの……?」

 

 イングリッドは小さく肩を竦めて嘆息した。

 

「わりかし痛いんじゃが」

 

 ルイズはびくりと身体を震わせて、慌てたように捲くし立てる。

 

「すぐ終わるから!ちょっと我慢すればいいから!!」

 

 眼を細め右手で顎をなでつけながら、イングリッドは小さな仕草で天井を仰ぐ。

 

「これほどの痛みを、使い魔達は。突然の召喚の後に、我慢しとるのか。驚きだな。よく、暴れださんもんじゃ……」

 

 ふとイングリッドは何かに気がついてコルベールへと視線を振る。

 

「なるほどの。じゃから、主がいるわけか」

 

 得心がいったようにうんうんと頷くイングリッドの姿に、幾度目かの驚愕をコルベールは漏らしてしまった。この少女はいったいどれ程までに聡いのだろう?そう疑念してしまう。

 その会話の意味を理解出来なかったルイズは、小さく首を捻りながらイングリッドに心配そうな表情を向けたまま、ただ見つめ続ける。

 その彼女が頷く。

 

「ようわからんが、終わったようじゃぞ」

 

 不安が晴れないまま、ルイズが頷く。僅かに青褪めた表情は、いまだに自身の行為の結果を信じられないでいる事が読み取れた。

 コルベールはその不安を取り払おうとして2人に近づく。ルイズに寄り添って、肩でも叩こう、いやそれは「せくはら」かなどと思いながら。しかし、その顔前にイングリッドが肩の高さまで持ち上げた結果として、コルベールからも良く見えるようになった彼女の左手が目に入る。そのルーンの刻まれた左手に視線を移して、そこに刻まれたものに疑問を覚える。

 

「ほう……これは……!?」

 

 妙な声を出したコルベールに、一層不安げな表情を張り付かせて、ルイズはびくりと身体を震わせた。

 コルベールがイングリッドににじり寄って左手を見ようとする。イングリッドから見てその姿は、今まで凛として存在していた教育者の姿がどこかに走り去って、突如として殻を打ち破って湧き出した研究者、と、いうかある種のナードの表情だと思った。その手の時と場合によって、理屈ではその行動に押さえが利かない類の人間が苦手なイングリッドは、突然の豹変を遂げたコルベールを嫌そうな表情で見つめる。

 どう考えてもそれに気がついている風には見えないコルベールは、委細構わずといった態度で、イングリッドの左手を取ろうとする。

 

「これはめずらしいルーンだ。是非、良く見せてもらって……」

 

 コルベールの言葉が終わらないうちにひょいっという仕草で、それを頭の上に振り上げてイングリッドは、直前までコルベールに向けていた胡散臭そうな表情を引き締めた。宝物を取り上げられた餓鬼のような表情を浮かべたコルベールから視線を逸らした彼女は、生真面目な表情に変容した顔をキョトンとした表情を浮かべるルイズに向ける。

 

「我が主ルイズよ。この、ルーンとやらは他人に見せてよいものなのか」

 

 突然浴びせられた声に戸惑いを隠せなかったルイズ。その言葉の意味が、言葉に込められた意味が一瞬では理解できなかった。そしてその言葉の中に想像以上に重たい意味があった事を刹那の瞬間に気がついて、隠し様のない喜びが顔面いっぱいに広がった。

 

 この少女は……イングリッドは……!

 

 溢れそうになる涙をごまかすように、ルイズは慌てて首を振ってしかし、イングリッドの言葉には肯定するように、言葉を返す。

 

「ううううううん、ううん。うん!いいいいいいいの。いいの!コルベー……ミスタ・コルベールには見せてあげてもいいわ!イングリッド」

 

 何度もつっかえて言い直すルイズに、イングリッドは相貌を崩し小さな笑みを向けて、左腕を下ろす。

 

「承知」

 

 左手をコルベールに良く見えるように突き出した。

 その手を取って、ほうほう、と頷いたり、ふむふむ、と呟いたり、これは……と喚いたりしたりするはげちゃびんを視界の脇に置きながら、うつむいて、震える、しかし、今までとはまったく違う質の震えに身を委ねるルイズの顎を右手で支えて、イングリッドは無理やり彼女の視線を自分に合わせた。

 

「おめでとう。我が主」

 

「?」

 

 震えたり、不安を浮かべたり、眉間にしわを寄せたり、喜んだり、落ち込んだり、頬を染めたり……。まあ随分と忙しく変遷したルイズの表情を思い浮かべながら、イングリッドも邪気のない笑顔を浮かべた。

 

「2度目の、成功じゃな」

 

「!」

 

 疑いようのない喜色がルイズの整った顔に広がる。

 その姿をうんうんと満足げに見つめながら、左手をつかんで、うぐぅとか、むふぅとか妙な唸りを上げているコルベールを振り払う。ゴミでも散らすようにひらひらと手を振って、まず自身の左手を見、それから刻まれたルーンがルイズに良く見えるよう、彼女の眼前に差し出す。

 

「証拠じゃ。もう、だれ憚ることもあるまい」

 

「!!」

 

「主は、間違いなく魔法使いじゃ」

 

「!!!」

 

 こわばった表情でまじまじとイングリッドを見つめるルイズを、彼女は真剣な表情で見つめ返して、すぐに元の笑顔に戻した。

 

「我が保障する」

 

「!!!!」

 

「誰が否定しても、我は否定しない」

 

「……!!」

 

「主は、どこに出しても恥ずかしくはない……立派な魔法使いじゃな」

 

 その言葉にルイズの表情は遂に決壊した。身体を支えていた力が脆くも崩れて、ぺたんと腰を落とし、腕を投げ出したまま顔を天井のほうに向けて、遠慮会釈なく大声で泣いた。幼い子供のように泣き出した。

 困ったような微妙な表情を浮かべてイングリッドはその正面に腰を下ろし、その手をルイズの頭に載せようとして、躊躇し、結局、その騒々しい少女の前で小さな笑顔を向けながら、ただ、泣き止むのを待った。

 

 コルベールはコルベールで、一瞬の好奇心に身を委ね、自身の教え子に対して真っ先にかけるべき言葉を言えなかった自身の迂闊さを呪った。

 自分自身に対して隠し様のない嫌悪をのせて、大きなため息を吐く。

 

 さあ、て、と。いつか、ミス・ヴァリエールに祝福を与えることが出来るのでしょうか。自分は。

 

 切なそうに首を振る。

 

 

 

 コルベールは、魔法学院が嫌いだった。

 いや、今の魔法学院のあり方が、嫌いだった。

 

 無気力な同僚。やる気の欠片も無い生徒。自分達にも、生徒達にも、隠し様の無い嫌悪が透けて見える、平民の使用人。

 個々の人々に対してはいろいろと思うこともあったが、総体としての魔法学院に対してはいっそ憎悪していると言って良い程の感情が渦巻いていた。

 晴れやからぬ貴族社会を泳ぐ者としての練達者である校長のオールド・オスマンなどは、トリステイン王国と言う国家の中では他に比べようも無い程の大きな尊敬を、実務者に対する感想として抱いていたが、人間としては別だった。あからさまに言って、少なくとも自分が生きている内は自分の視界に入ってほしくは無い類のモノだとすら思った。

 200年以上にわたり、トリステイン魔法学院の実務上の頂点として君臨してきたオールド・オスマンは、その滲み出る内面の黒さ故に、200年の時をそこに据える事が出来たのだとコルベールは唾棄する。

 様々な理由により、貴族社会をドロップアウトした、だが、野に捨てるには惜しい、言い換えれば、野に解き放つには危険なメイジであり、貴族では無くなってしまった者の受け皿としての魔法学院。その余り知られていない存在意義を一人で切り盛りするオールド・オスマンのあり方は「素晴らしい」かったが、その奥に見え隠れする彼の本心や本音は、視線を逸らしようが無い程に汚らわしいとコルベールは思っていた。

 その汚らわしい世界の筆頭に自分が位置している事実は、吐き捨てるほどに忌々しい葛藤を覚えさせた。

 そして、そういう感情を自分が持ってそれを外に撒き散らす権利等は持ち得ていない事にコルベールは憤慨した。

 

 だが、とりあえずは、それに関しては『大人』の態度を持って振り切る。

 そうして、何の希望も未来も持たない惰性のような日々をすごして幾年。

 

 その中にある日忽然と現れたミス・ヴァリエールは、彼には眩しかった。

 眩しすぎた。

 

 彼女はその存在が、余りにも眩しかった。

 

 

 魔法の使えない貴族。

 

 

 その地位や、それに課せられた責任以前の人間として、唯暮らしていくだけならばどうでもいいところに、魔法が使える事という、但し書きが乗っかっている事が当然の理である「貴族」のありように溺れ苦しんでいる、ルイズ。

 それが如何に苦しく、辛い事であるか。本質的な意味で貴族としての職責を果たした事が無いコルベールには、想像する事は出来ない。しかし、そうであるが故に、唯無責任な視線で、貴族社会を生きようともがくルイズがどれほどの苦悩に塗れて、どれほどの屈辱に塗れて生きているかを予想するのは容易かった。

 単なる夢物語として語るにあたってすら、余りにもあり得ない、貴族として生まれた「無能」な貴族。

 現実とはどれほどまでに空想の物語より奇なるものか……。残酷で、残忍な世界を、必死で生きるルイズ。

 

 気がつけば、彼は、そんな少女の生き方に魅せられていた。

 

 どれほどの侮辱を受けようとも、いかほどの侮蔑を投げかけられようとも、ただ「魔法が使えない」という一点のみを例外として、彼女はまごう事なき「貴族」であった。

 

 眩しかった。

 

 そうであるが故に、その周囲にある、貴族社会が汚らわしかった。

 彼女の生き方故に、貴族の生き方には本質的に「魔法」の存在が絶対では無い事実に、コルベールはいつしか気がつかされていた。

 むしろ、魔法を持つが故に霞んでいるだけで、それを持たざれば、貴族どころか平民にすらもとる者達が如何に多いことか。そこに気がつかされた。

 目線を移してみれば、ハルケギニアには、魔法の能力云々を重視せず、金さえあれば貴族という「立場」を買える国がある。

 そういった国を無責任に……いっそ、無邪気な他観的視野で「野蛮」だと思う場合もあった。だが、人間社会を生きるにあたって、完全無欠ではないにせよかなりの部分で絶対的指標になり得る財産の多寡によってのみ、評価して、貴族という立場に出入りできる形と言うのは、コルベールの人生経験上納得し難くはあったが、一つの見識であろうとは理解出来た。理解出来る様になった。

 理解出来てしまった。

 現実問題としてルイズという少女は、魔法の使用の有無等どうでも良いところで間違い無く、絶対的な貴族の姿を体現していた。

 これは魔法学院で魔法を教える立場の人間としては、深刻なコンフリクトを抱かせる事だった。

 

 魔法の有無が貴族の優劣を決める絶対的評価基準では無い……。

 

 トリステイン以外で魔法学院と言う形の教育の場が廃れたのも当然であろうとすらコルベールは考えてしまう。

 

 だからこそ、もどかしかった。

 歴史だけ営々と積み重ねて、腐臭すら漂わせるトリステインと言う国において存在する……()()()()()()()()、ある1点のみに眼を瞑れば、極めて優秀な貴族の卵であるルイズ。

 もし、もしもありえざる奇跡の末に、彼女が魔法の存在等どうでも良い国や土地において、その生を受けていたらとしたら……。

 

 だが、そこでコルベールは悩んでしまう。

 

 ルイズという存在が現在、誇り高き貴族の姿を体現しているのは、魔法の存在が絶対であるトリステインのあり方故と言う、皮肉な現状があるからだと気がついてしまう。

 ルイズという少女が端から、魔法の使用を是としない場に生を受けていた場合、はたしてそのルイズはこれ程までに誇り高い生を続けてこれたであろうか?

 ルイズが体現するその生き方は、侮辱と迫害に塗れた周囲の環境故と言う反律(Antinomie)の中に育まれた、奇跡の果実ではないのか?

 ルイズという存在は、歴史と伝統を誇るトリステイン王国のなかにあってなお、伝統と格式を誇るヴァリエール家という、彼女にとっての地獄のような環境があって初めて芽を吹いた、奇跡の花ではないのか?

 

 コルベールは苦悩した。

 だからこそ。だからこそ、魔法が使えないルイズを哀れんだ。ルイズに僅かばかりの恩寵すら与えない世界を憎んだ。そうしてあがく少女の姿に何の影響を与え得ない自身の無力さを嫌悪した。そして、彼女の苦悩に僅かばかりの感心すら示さない魔法学院という存在に恐怖した。

 

 なぜ。

 

 なぜ、ルイズに、ほんの少しの祝福すら世界はお与えにならないのか?

 

 

 

 そうした部分で、過去の自分のあり方に絶望し、貴族社会のあり方に幻滅し、そうやって危険な状態を膨らませて腐り続けていたコルベールは、ルイズという存在のあり方とその環境によって、世界に憎悪しつつあった。時と場所があわされば、ある瞬間に彼自身が世界の破壊者となって、地に立ちかねない危険な状態にあった。

 彼が性急に破壊の使者へと身を翻さなかったのは、ほかならぬ「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」と言う、地獄のような状況下にあってなお、自身が希望をゆるがせない存在があった。彼女の行く末を見届けることが、このトリステイン魔法学院で教鞭をとる教師としての責任であるという矜持がコルベールにあった。ルイズと言う生徒を見守るうちにそれが出来た。だから、ある意味において、あのサモン・サーヴァントと言う場は、二重、三重に崖っぷちであった。

 

 そこに今、微かではあるが、日の光が差した。

 

 まさに福音。

 

 まさに恩寵。

 

 奇跡。

 

 コルベールはこの瞬間を生涯忘れまいと心に誓った。

 その先に訪れる結末が、いかなる幸福に()()()()とも。いかなる絶望に()()()()()とも。

 

 

 

 泣き喚くルイズをなだめてすかしてどうにか立ち直らせたイングリッドが、妙な疲労感を張り付かせた表情をコルベールに向ける。

 その何か問いたげなイングリッドの表情に、コルベールが頷いて先を促す。それをうけてイングリッドも頷いた。

 

「さて、後はどうすればよいかの?」

 

 イングリッドが首を捻って、身体を傾げた。

 そんな姿をコルベールは微笑ましく見つめながら、少し考える。

 

「そう、ですね。コントラクト・サーヴァントの成功は、確かにこの私、コルベールが見届けました。私の責任において上に、間違いなく報告しておきましょう」

 

 「ん」とイングリッドは頷く。

 ルイズも、喜色を張り付かせた顔のままそれに続いて小さく頷く。

 

「もはや時刻も遅い。随分と時間をとられてしまった。ミス・ヴァリエールも明日からは普通に授業に出ていただいて結構でしょう」

 

 少し頭を捻って言葉を選ぶ。

 

「んんー。そうだ。後は積もる話もあるでしょう。ミス・ヴァリエール。私がいては言う事の出来ないこともあるでしょうから、彼女をつれて寮に戻りなさい。自室で仲を深めるとよいでしょう」

 

 その言葉に何故だか頬を染めるルイズ。

 ちらと、それを見てからコルベールに視線を向けるイングリッド。

 

「そうか。それなら、我が主……」

 

「ルイズ!」

 

 唐突にルイズが声を張り上げる。小さく驚いてイングリッドがその顔をまじまじと見つめる。

 ルイズがそれにニヤリと笑みを返すと、胸を張ってどこか誇らしげに叫んだ。

 

「ルイズ、よ!」

 

 首を捻り、次いでその紅い瞳をくりくりと瞬かせながら、視線を交わす。次の瞬間に、楽しそうな軽やかな笑い声を上げてイングリッドは頷いた。

 

「んむ。ルイズよ。では、案内してくりゃれ」

 

「わかったわ。ついて来なさい!」

 

 楽しそうに笑みを交わしながら、大きな音を立てて扉を開けるルイズ。その後ろをついて、イングリッドは廊下に一歩足を踏み出してから、ふと何かに気がついたように足を止めた。

 

「ルイズ。すまぬな、一つ、コルベールに確認しておきたいことがあるんじゃ」

 

「なに?なら一緒に……」

 

 訝しげな表情のルイズを手のひらでそっと抑える。

 

「すまぬが、廊下で待ってくりゃれ。すぐに終わる」

 

 「むー」と、ふくれっ面をつくるルイズの頭を優しくなでつけて、ついで両手で頬を包みまっすぐに見つめる。

 

「なに。そんなに時間はとりゃせん」

 

 ルイズは頬を優しく包む手に、自身の両手を触れ合わせて後、小首を傾げた。小さく嘆息して、頷く。

 

「早くしてよね」

 

「承知」

 

 

 

 イングリッドが後ろ手に扉を閉めて、どこか不安そうなルイズの顔が遮られて消える。

 先ほどまでの暖かな雰囲気が突如、霧散して、肌を刺すような緊張感がコルベールを包む。

 彼は俄かに冷や汗をかいた。

 

 「ついっ」と、音も無く彼の元に近づいたイングリッドをコルベールは知覚出来なかった。気がついたら眼前に、銀髪を翻す少女の顔があった。彼女の顔は無表情で、特段の意識の表れは無かったが、視線にこめられた力は強かった。

 

「いろいろと聞きたいことはあるが、まあ、どうでも良い。おいおい知ればよかろうよ」

 

 囁く様な声を上げながら一切の音を立てる事無く彼女は、彼の周りで一定の間隔を空けて円を描いて歩く。緊張で身体がこわばるコルベールは意識のみでそれを追って、視線は扉から離さない。

 

「主よ……。我の、()()気がついた?」

 

 彼はうっと言葉に詰まって、更に冷や汗を噴出す。

 やばい。やはり彼女は聡い。

 自分が彼女の力に()()()()()()()、とっくに()()()()()()()

 思い出す。

 そう、あの瞬間、あのときの対応が「人間が呼び出されたという状況の特異性」に対する警戒の結果ではなく、「イングリッドと言う特異な力を持つ存在が現れたという特殊な状況」に対する警戒の結果であったと見抜かれている!

 

 固まっている彼に構わず、イングリッドが言葉を続ける。

 

「おかしい……。おかしいんじゃ、主の言葉は」

 

 ごくりと唾を飲み込む。

 

「召喚の説明で、主はこの世界の動物や生物が、召喚に応える、と言った」

 

 コルベールは僅かに頷く。

 

「だが、主のいくつかの対応は、まるで、我が、遠い場所……少なくとも、お前達自身が唯の一度も交流した事がない場所からやってきた人間……」

 

 言葉を止め、コルベールの前で顔を向け合う。

 

「人間の『ようなもの』に対応するような意識が透けておった。……自分達と意見を交換でき、交流は可能な、だが、得体の知れない『異生物』、に対する意識じゃったな」

 

 それは疑問ではなかった。確信。

 

「主よ。我の何に気づいた」

 

 彼女の紅い瞳には強制する様な力は感じられなかった。純粋に、疑問があった。彼が彼女をどう思ったかに関する疑問ではなかった。彼、コルベールがなぜ、イングリッドの特異性に気がついたのかという疑問。

 

 ごくりともう一度唾を飲み込んで息を2度、3度と吐く。コルベールは自身が随分と長い間呼吸を忘れていた事に驚く。

 イングリッドに視線を送っても、もはや彼女がこれ以上の言葉を紡ごうとしないのは確信出来た。彼女はコルベールの言葉を待っている。もしかしたら、コルベールが答えない事すら想定しているのかもしれない。

 

 どうする。

 

 コルベールは残された時間が少ない事を自覚してめまぐるしく思考を走らせる。

 

 どうする。言うべきか。信じられるのか。

 

 静かな時の流れの中で、刹那の紅い光を急速に失わせて、夜の帳が近づいてくる。廊下の外に煌々と照らされた魔法の輝きが、扉の隙間から漏れる。

 

 召喚の場、この短い交流。そして彼女に治療を施し、邪気無く眠る姿を思い浮かべ、次いで、悩み苦しんできたルイズという少女の希望の見えない1年を振り返る。

 

 違う。

 言い換える。

 希望を与えられない無力な自身の無能を振り返る。

 

 いつの間にか自らの無意識、否、無責任でイングリッドの瞳から逸らされた自らの視線を強い意志力を持って動かして、彼女を強く見つめ返す。

 無反応だがなにもかもを見透かすようなその瞳に、僅かながらの恐怖を感じ、そして振り払う。

 信じろ。信じるしかない。使い魔はメイジの一生のパートナー。自分は言った。使い魔はメイジに近しいものが現れると。メイジに必要とされる存在が応えると。

 そうだ。つまり自分は、イングリッドこそがルイズに必要とされた存在であると断じた。それを翻すというのか。

 ならば、私がここで彼女の疑問に答えるのは……。

 

 廊下の方を気にしながらコルベールは、小さな声で早口に言葉を紡ぐ。

 

「……あなたの力は、あなたから感じる力は余りにも大きかった」

 

「……」

 

 「それで?」とも言う様な無言の圧力を感じた。コルベールはそれを受けて小さく頷く。

 

「それ自体は実は、それほど不思議ではない、そう思いました」

 

 「ふむ」イングリッドが小さな疑問を表情に浮かべて首を傾げる。

 

「大きい力を持った使い魔が現れるのは、当然だ、と思ったのです」

 

「!」

 

 イングリッドは驚きを隠さなかった。コルベールの独白は続く。

 

「ミス・ヴァリエールは魔法行使の段においてはまったくの失敗の連続でした。しかし魔法の『力』そのものが無いわけではなかった」

 

「気づいておったのか……」

 

 イングリッドが納得したように頷く。コルベールも頷き返した。イングリッドがルイズに対してコルベールが下したのと同じ判断を下していた事には、もはや驚きも無い。

 

「ですから、呼び出されるものがあれば当然、彼女の『力』に似合った……ドラゴンや、或いはそれに類する『力』をそなえた強大な幻獣が現れると思いました」

 

「我が気がついた時点で主がやる気満々だったのは、そういうことか。なるほどなるほど」

 

 小さく嘆息したコルベールは、しかしイングリッドから目を逸らしてしまった。イングリッドはその態度に訝しげに首を捻る。

 

「?」

 

 コルベールはそれを認めつつも、そのまま言葉を続ける。

 

「あなたの力は……魔法的『力』に近しいと思った……。だが違った。近いが知らない……得体の知れない種類の『力』だった」

 

 「ふむ」イングリッドは頷いた。それはイングリッド自身による肯定の意。

 

「だから『人間』ではないと?」

 

 コルベールは頷き返す。

 

「少なくとも、我々が知っている場所、土地に住まう人間とは、明らかに違うと」

 

 イングリッドは微かな笑みを浮かべて、コルベールに頷く。

 

「なるほどの。主よ。やはり、主は、唯の教師では収まらんの」

 

 コルベールは大きく動揺して言葉を詰まらせる。それを認めてイングリッドは声を上げて笑った。

 

「よい。詮索はせん。我が主に危害を加えん限りは知らぬ。勝手にするがよい」

 

 強張った表情持ってしかし、視線をイングリッドから外せないコルベール。

 彼女はそれに頓着する事無く、身体を傾げて右手を大きく振り、一瞬空中にとどめる。そうしてから腕を折り曲げて、頭を飾る大きなアクセサリーを撫でるように、手を動かす。

 

「ふむぅ。と、なると、わしの力は見せぬのが吉か……」

 

 コルベールは肯定の意思を乗せてゆっくりと、しかし深く頷いた。

 

「少なくとも、()()()()()()()()()()がこない限りは」

 

 イングリッドは「んー」と唸りながら、顎を撫で付ける。

 

「不便じゃの……。判断を仰ぐもんはおらぬのかや?」

 

 胡乱げな瞳がコルベールを刺す。

 地位的に言って間違いが無い、政治的地位から行っても絶対的な上司であり責任を持っている、()()()()()()()()『はず』の立場にあるのは、ロマリアから派遣されているカステルフィダルド、トリステイン魔法学院監督官である。コルベールはその、でっぷりと太って、いつも汗を撒き散らしている、香水の臭いの塊のようでその実、肉の塊である彼の顔を思い出す。次いで、実務面での最高指導者であるオールド・オスマンの顔を思い浮かべる。

 

 駄目だ。

 

 

 カステルフィダルドは問題外であった。コルベールの見聞きした中で、彼にこの様な微妙な問題を委ねる事は、愚かしい以前の判断であった。

 

 では、と、オールド・オスマンの顔を思い出す。

 深い彫が刻まれた、細い面立ち。そこから地面へと伸びやかに身をくねらせた白い髭。身体全体を覆う白いローブ。

 

 駄目だ。

 

 実務者としてはともかく、人間としては……否。実務者として優れているからこそ、疑い様もなく、イングリッドと言う存在の事実を、イングリッドと言う現実に感じた自身の感想を取り扱わせるわけにはいかない……!

 

 彼は、大きく首を振った。

 

 それを認めたイングリッドが呆れたように鼻を鳴らした。

 

「おらぬのか」

 

 頷く。

 

「一介の教師の判断が、間違いないと?」

 

 その言葉には、言外にこの魔法学院には無能な者しかいないのか?という疑問が含まれていた。

 

 一切の誤解も勘違いも無く、イングリッドの言葉を完全に理解した上で、それも含めてコルベールは頷く。勿論、一般的な意味で無能な者しかいないわけではない。学院運営の実務面とかいった点では寧ろ、自分よりもよほどに有能な者がいる。その筆頭は間違いなくオールド・オスマンその人である。それはコルベールも疑いようが無い。その上で、この問題を取り扱う上ではどれもかしこも「無能」だと断じるしかない。

 

 イングリッドは大げさに肩をすくめて両の手のひらを上に向けた。

 

「ぐはっ。想像以上に厄介な世界に来たようじゃの」

 

 世界?

 

 イングリッドの言い回しに疑問を浮かべたコルベールは、それを問いただそうとしてしかし、果たせなかった。

 

 

 

 扉が勢い良く開かれる。

 

「イングリッドー。まだー?待ちくたびれたよー」

 

 かすかな不安を乗せた言葉にハッとする。もはや互いの顔を判別するのも困難な暗闇の中で、廊下から溢れる光を背にしたルイズと思しき姿を見やる。その後ろに困った表情を浮かべたメイドが二人、所在無げに立っている。

 イングリッドから苦笑いしている気配が漂ってきた。コルベールも苦笑する。

 

「すまぬ。思ったより時間を取らせてしまった」

 

 ルイズが杖を天井に向けてコマンド・ワードを唱えた。

 

「封じられた力に望む。その力を発して、望まれた業を我らに示せ」

 

 ぱっと明るくなった部屋に、音も無くメイドが立ち入って、テーブルの上を片付け始めた。

 ルイズがその姿を眼で追いながら、メイドたちに声をかけた。

 

「シエスタ、レン。どちらでもいいわ。スタンドに余っているものを包んで、後で私の部屋に持ってきてくれないかしら」

 

 黒髪のメイドが一度背筋を伸ばしてルイズに向き直り、腰を折った。

 

「畏まりました」

 

 顔を戻して、問いかける。

 

「お飲み物も用意しますか」

 

 ルイズが首を捻って、顎をさする。

 

「んーそうね。大げさなものは必要ないけど……そうだ。そのフレーバーは冷やしてもおいしいのかしら?」

 

 メイドが小首を傾げた。

 

「申し訳ありません。私どもでは判断がつきませんので……」

 

 あわててルイズが言葉を遮る。

 

「ああ、ごめんなさい。当然よね。あなた達に聞いた私が無作法だわ。いけないわ、私。

 そうね、おいしいアイスティーがあればそれでいいの。多めに用意できるかしら?カップは二つね」

 

 手をひらひらさせながらメイドに謝罪する。

 

「ごめんなさい。無理を言って」

 

 その言葉に、金髪のメイドがびくりと肩を震わせる。

 

「?」

 

「?」

 

 イングリッドとルイズは顔を見合わせる。

 

「……畏まりました。お時間は、いかがいたしましょうか」

 

 ルイズは指で額を軽く揉んだ。

 

「そうねぇ……あなた達の仕事がひと段落ついてからでいいわ。急ぐ必要は無いから。慌てないでね」

 

 イングリッドは、コルベールに小さく会釈をしてから、ルイズに近づく。それに気がついたルイズは、彼女を伴って扉を潜り、ふと気がついたように振り返った。

 

「そうそう。ガレットもパンもクッキーも。それに紅茶も。とってもおいしかったわ。つくった人に、お礼を言っておいてね。みんな喜んでいたって」

 

 片付ける作業に戻っていた2人のメイドは驚いて手を止め、すでに立ち去っていった2人の姿を追うように視線を彷徨わせてから、居残っているコルベールに視線を移した。

 コルベールは苦笑した。

 

「二人とも、片づけが終わったら、部屋はそのままにしてよい。報告もいらない。明かりは後で私が落としておくし、施錠もしておこう」

 

 自分がいては2人の邪魔になると気がついたコルベールは、さっさと歩みだした。早く食堂に行かないと夕食が冷めてしまうし、使用人たちに迷惑がかかると思った。今日、これから口にする食事は、きっとここ数年で一番においしく感じるに違いない。

 食堂に向かうコルベールの足取りは疑いようもなく軽やかなものだった。

 

 

 メイドが2人だけになった部屋で、やや乱暴になった仕草で片づけを続けながら、くすんだ色の金髪のメイドが黒髪のメイドに声をかけた。

 

「貴族が『ありがとう』だって。『ごめんなさい』だって……」

 

 胡散臭そうな表情を隠そうともしないきつめの視線を浴びながらしかし、黒髪のメイドは素朴な表情に笑みを浮かべた。

 

「ミス・ヴァリエールはそういう人よ」

 

 その表情は少し、ほんの少しだけ嬉しそうで、そして誇らしそうだった。

 

 

 

 

 

 

 イングリッドは無策にルイズとの使い魔契約を承知した訳ではなかった。

 召喚の場で自身に向けられたのが強力な殺傷力を持つ攻撃の術だと思っていた彼女は、魔法の行使が術からず爆発するのだというルイズにある事実を予想していなかったから本気で驚いたが……ルイズとのつながりを持つことは、自身の身に課せられた使命のくびきもあって、必要と断じた。

 半ば以上、勘に頼ることが大きかった。だが、こうしたときの勘は、ごくわずかな例外を除いて信じるべきであるというのがイングリッド自身の見解だった。

 イングリッドには核心めいた思いがあった。

 

 極東の街中をぶらぶらと歩いていた最中に現れた、力の塊。一見して鏡を思わせるそれから発せられる力は、人外どころではなかった。

 いつか遠い日にうっかりかかわって完膚なきまでにずたぼろにされた、赤と青に分けられた、化け物というにも優しい力の権化に立ち向かわざるを得なかったとき。その時に、背筋を震わせた『力』にも等しい恐怖が自身を貫いた。

 正直に言おう。

 イングリッドの手に余る『力』だった。

 だから無視を決め込むことにした。

 

 出来なかった。

 

 無力で、無害な少年が。

 自分達が守り、そして我が感謝されることも無く、彼は唯知らぬままに人生を送り、知らぬまま悪くは無い経験を振り返り、それなりの満足に包まれて死ぬべき存在が。

 しかし、彼は、彼が、時に世界をも揺るがす人の力の原罪とも言える『好奇心』という『力』の一側面を全開にして、「鏡」に対してあれこれと仕出かし始めた瞬間をイングリッドが目にしてしまったときには、息が止まるかと思った。

 それを愚かと言う権利はイングリッドには無かった。あれは不思議なものだ。イングリッドすらそう思ったのだ。力を感じなければイングリッドすら好奇心を持って相対しただろう。

 ましてや力を感じる事もできない普通の人だ。普通であることは罪ではない。普通であることが当たり前なのだ。普通で無いことは普通で無い人が―――つまり、自分が、対処すれば良いのだ。

 そして自分は対処しなかった。あれを無視して立ち去ろうとしたのだ!

 放っておけなかった。放り出して良い事ではなかった。

 やにわに力があふれ出し、純朴な雰囲気の少年の表情に驚愕が湧き上がったときには、危うく少年にサンシュートをぶち当ててその場から吹き飛ばすところだった。

 無論、そのような事が許される筈も無く。

 何がしか以上の鍛錬を経た人間でなければ、サンシュートを食らって無事で住む可能性は無かった。制限されている状態であっても―――だからこそ、直ちに対処できないと、とりあえずの「無視」を選択したのだが、そうではあっても、少年が少年ではなく、凶悪犯罪者であったならば躊躇する理由は無かった。だが、平和を謳歌する、多くの同志たちが守りいつくしむ世界の片隅で、罪もない少年を焼き尽くして街角に、俄かに焼死体を転がすような情景を作ることは許されなかった。

 だいたい、イングリッド自身が最悪な判断をしでかしたのだと自身を断罪した。

 放っておいてよいものではなかった。何故そう考えたか、今その瞬間には理解できなかった。例えその場では及ばずとも、何らかの方法であの『力』に直ちに立ち向かうべきであったし、或いは及ばずとも、仲間の助力を信じて、出来うる限りの対応をとるべきであった。

 ()()()()()()()()自身の力が『アレ』に及ばないであろうというのはイングリッドの都合であって、少年には関係の無い事だった。『アレ』のようなモノに対処するのはイングリッドに課せられた使命であって、それに他人を関わらせてしまうのはイングリッドの罪であった。

 そうであるが故の、少年に降りかかった危機。

 見放せる訳が無かった。

 

 ぎりぎりのところで間に合った。

 吹き上がった力が少年を捉えて、鏡『のようなもの』に少年を引きずりこむ寸前に、その随分と強力だが随分と脆い力の線を断ち切った。

 必死の形相を浮かべて、全力で力に抗っていた少年と眼があった気がする。

 しかし、そこで自分が無力であった事を思い知らされた。

 

 鏡は一度接触した獲物を逃すまいと、また力を噴出した。少年がそれに捕まり、それを自分が断ち切るのを繰り返した。埒が明かなかった。イングリッドは焦った。一度に湧き出す力が尋常ならざる勢いで急速に強力になっていった。その状況が行き着く先は、少年のみならず、周辺全体への大規模な影響となる想像が容易に思い浮かんだ。それを根本的にどうにかする手段をイングリッドは刹那の間にいくつか思い浮かべたが、それは『鏡』を粉砕して終わりになる事ではなく、周辺全てを巻き込んでの大惨劇を伴う想定だった。

 許される事ではなかった。

 少年が急速に疲労の色を濃くする事も焦りを加速した。また悪い事に、自分達の周辺に、大勢の人間(野次馬)が集まってきたのもイングリッドを恐怖させた。

 予測された近しい未来の惨状に恐怖したが、それ以上に、ごく僅かの自身の下らない対応の失敗が、その惨状を惹起するのだという不甲斐なさに戦慄した。

 急激に取り得る選択肢が失われていく中で、イングリッドは嘆いた。永い永い生を続けてきた自身が、これ程までに幼くも未熟な対応を取ろうとして……あるいは取らなかったが故に、発生するかもしれない大惨事。

 

 イングリッドは決断した。

 

 一瞬の力の収束を経て、まずはサンシュートを鏡にぶち当てた。つもりだった。

 

 彼女の掌から放たれた太陽の力の残滓は、光り輝く残滓を残して、そのまま鏡を潜った。なんの反応もなかった。自身の知らぬ場所へと知らぬ方法で飛び去ってしまった。

 もはや迷っている暇は無かった。

 自身に力を収束した。出来る限り素早く。出来る限り濃密に。それがために、周囲が薄暗く淀んでしまった事に気がついたが、構う暇は無かった。

 爆発寸前の励起状態にまで収束した力を抱えて、まず少年を力いっぱい、しかし出来る限り優しく突き飛ばした。少年の身体は周囲で遠巻きにする人間を何人もなぎ倒したが、最終的には多くの人間が集まっていたことが幸いして、数人の腕によって受け止められた。それでもなお、彼を追う事を諦めない力を打ち砕きながら鏡に飛び込み、そして、力を解き放った。

 先ほど無駄撃ちになったサンシュートを見て、咄嗟の判断で決断した行為だった。

 サンシュートが何の妨害もなく鏡面を素通りした。純粋な力の塊が、である。で、あるならば鏡が出す力の行き先が少年であろうとも鏡そのものには通り過ぎる何かを選別する能力は無いのだろうと推測した。

 内部で力を解き放ったとき、その力を出来うる限り小さく収束した。自爆寸前の収束具合であった。自身の眼前で爆発させたに等しいぎりぎりの発散であった。イングリッドが収束した力は太陽の力そのものであるから、世間一般的な解釈で言えば、イングリッドが放った力の発散は、核融合爆発―――つまるところ水爆の爆発そのものだった。それをフィールドで包んで鏡の内部空間そのものにぶつけた。

 まったく咄嗟の判断であった。それで何とかなる確証等なかった。勘だった。しかし、信じた。こういうクリティカルな状況で思い浮かぶ「勘」が最善手である場合が多いことを……多かった自身の経験を信じた。信じるしかなかった。

 はたして『内側』から見た『鏡』の鏡面はそれで砕け散るのが判った。執拗なまでに力に襲われていた少年は、無事に、力から逃れることができたのまでは確認できた。そして暗転した。

 

 

 

 ルイズの後を続いて歩きながらイングリッドは思う。

 徐々に状況が明らかになるにつれて、イングリッドの考えも酷く揺らいだ。

 或いは、ルイズが呼び出すべきルイズの力になりうる存在に、イングリッドが割り込んで切り捨ててしまったのではないかとも思った。

 その贖罪のために……ルイズの使い魔になる筈だった少年の変わりに自分が使い魔になるべきだとも思った。

 

 しかし、召喚の場で感じたルイズの力。実際に自身の身体で受け止めたルイズの力。至近でそれなりの時間をかけて観察したルイズの力。

 この世界に溢れる力。

 この世界の理。

 この世界のありよう。

 

 判らないことはまだまだたくさんある。

 知らないことは多すぎる。

 

 しかし、このホンの僅かな邂逅であってすら、この世界が現代社会を生きるごく一般的な人間にとっては余りに過酷な世界である事が理解できたと思った。

 

 今、ルーンを刻んだ左手を無意識にさすりながら、イングリッドは、あの時あの場所であの少年を助け、あの鏡を自身で潜るところまで含めて、運命ではなかったかと思う。

 永い()()を歩んでいると、必然とか、偶然とか、そういうのを軽く超越した、後で振り返ってみると、誰かが敷設したレールの上を全力疾走しただけであったと思わせる出来事にぶち当たることがある。

 きっと、そう。これもそうなんだろう。

 

 ルイズの側にいる。

 ルイズの役に立つ。

 ルイズを守る。

 

 それこそが運命なのだろう。

 

 

 イングリッドは自身の思考がある瞬間から奇妙に捻じ曲げられて、異様な方向に歪んでしまったことに気がつかなかった。

 

 

 

 

 

 

「ほんと?それ」

 

 クッキーを乱暴にバリバリと噛み砕きながら、ルイズが多少胡乱な表情を隠さずにイングリッドの発した説明の言葉に応える。

 自身のココに至る経緯の説明をひとまず終えたイングリッドもルイズに遠慮することなく、そしてルイズもそれに頓着することは無く、クッキーを口にほうばる。

 2人は細やかで繊細な細工を施された、重厚で、品質の良いテーブルを差し挟んで、薄いのに十分なクッションを持った木製の椅子に腰掛けて、会話を続けていた。

 

 アメリカンナイズドなリビングダイニングですらかくやというだだっ広い部屋に、もう、どうしようもなく高価で貴重とすら思える高級さをバリバリと醸し出す、統一感に満ち満ちたインテリアに囲まれて、部屋の片隅にある天蓋付きのキングサイズのベットに目を奪われて、なおかつ、ここが生徒の個室だと言われて、しかも、狭くてゴメンねなどと寝言を言われて、イングリッドはどうしようもなく疲れ果ててしまっていた。だが、情報の交換は重要であるし、互いに意思を疎通しておくことは使い魔としての立場をとるためには絶対的に外せないことであったので、疲労の濃い表情を何とか隠して辛うじて会話を続けていた。

 

 イングリッドは頭痛に苛まれる額を強く揉んで、自分の置かれた状況を言葉を選んで説明した。

 

 少年が引き寄せられたとか、それを遮ったとか、鏡を粉砕したとかの部分ははしょった。ただ、町を歩いていたら鏡が現れて、引き寄せられたとだけ説明した。自分が普段歩き回っている国や土地の説明は全部適当に済ませた。あまりに技術体系も政治体系も違うことが判ったからだ。特に政治体系でいえば、民主主義社会が全能だとは思いもよらないが、大いなる過去から組織の仕事の一環として様々な国々の歴史を実体験し、悲喜こもごもの結末を見届けてきた者としては専制君主国家に対してそれなりに思うところがあるので、変に論争等にならないよう、特に注意深く話題を避けた。ルイズは当然のことながらルイズ自身の知っている常識の及ぶところでない話をすることは出来ないので、イングリッドが避けた部分の内容を突き探すことはなかった。それで事はすんだ。

 

 自身の仕事もとりあえずはごまかした。自警団じみた仕事の内容をでっち上げて、それらしく説明した。隠したつもりは無い。本当の事を言っていない事に対して妙に罪悪感が沸くが、正直に答えたところでそれを信じられる者等いやしないだろうという()()()()()を優先した。

 

 年齢のこと等、それこそ口に出来ない。イングリッドが実年齢を語って「ふーん。そうなのかー」ですます者がいたら、そいつは殴り飛ばして簀巻きにして病院に叩き込んだほうが良いだろう。自分の存在のあり方はそれほどまでに異常なのだ。その事に自覚はある。

 とはいえ、当然の如くの反応を示されて、あれこれと弁明に時間を費やして夜が明けるのを待つのも愚作なので、当たり障りの無い嘘を言っておいた。とりあえず、飲酒したりするのに都合がいいだろうということで21歳としておいたが、ルイズは仰け反る程に大げさな反応を示して驚いた。なにか失敗したのだろうか?イングリッドは頭を捻る。

 

 自身の力もひとまずは隠しておく。コルベールのような人間がいて、それが一介の教職にあることを考えると、実のところ自身の力を隠したところであっという間にすべてを明らかにされそうな気配も濃密にあったが、隠せる限りは隠しておいたほうが良かろうと思った。必要となれば、ましてやそれが()()()()()()ことに必要と信じる場合であれば、自身の全力を尽くすことはやぶさかでは無いが、必要とされることが無い以上は、積極的に明かす必要もないと考えた。

 

 政治体制やら、社会情勢やら、周囲の地勢やら、経済情勢やらと、軽く表面をなぞって確認しておく。あんまりな違いと、ちぐはぐな世界観に、頭痛が激しくなる。よかった。ほんとうによかった。そう嘆息する。

 

 あの少年が鏡を潜っていたら、とんでもない悲劇が現出していただろう。自分の選択に間違いは無かった。

 

 魔法というモノを使う者達がいて、空を飛んだり地を駈けたり、物を創ったりということ自体に驚きは無かった。だが、それらが社会全般に強力に根付いていて切り離せないという事実は驚愕した。

 魔法っぽいものを扱う人間としては、ローズみたいな者がいて妙に自分に突っかかってきた経験がある。明らかに魔法としか良いようの無い力の行使をしていた存在としては、マリオンがいたことを思い出す。

 ああいうのが存在している以上はイングリッドが知らないだけで、結構な数の「魔法使い」の存在が地球上に現にあることを示唆していた。しかし彼女達は「地球」におけるイレギュラーだった。イングリッド自身がその位置に近しいからこそ出会ったマイノリティだった。

 だがこの世界は魔法があってこそ世界が成り立っているという。

 

 そして、世界、というよりその社会情勢がはっきりとした記録が残っていると信じられている範囲内において、6000年以上も飽きることなく続いている事実は驚嘆した。

 人間が住まい、生きていく以上、どうしようもなく争いや諍いがあることには変わりなかったが、ある特定の血筋が6000年以上の年月を、魔法というどうしようもなく説得力のあるお墨付きを得て、とぎれることなく受け継がれているという事実には絶句するしかなかった。

 

 そして。

 

 

 ちらと窓の外を見やると、2つの月が空に浮かんでいるのが見える。

 

 あれはないわ。

 

 酷く重苦しいため息をつく。刹那、かしましく説明を続けていたルイズが口ごもって心配そうにイングリッドを覗き込む。

 

 あれほどに大きな月が、2つも同一惑星の軌道上を巡っていたら、ほんの1000年と持たずに世界は滅亡じゃ。ほんの100年単位で惑星の回転軸がごろんごろんとひっくり返って、砂の惑星になってしまうだろうに。その仕舞いに月が降り注いでカプリコンじゃ。

 きっと、帝國の陰謀が絡んでるのじゃろ。

 

 想像以上、否、想像を絶するファンタジーを主張するハルケギニアの異世界っぷりに眩暈がする。2つの月が……人間的視界を持って見る限り、殆ど同じ大きさ、同じ軌道をそれが巡るなんて、どんな宇宙物理学を捏ね繰り回したって説明出来様も無い。NASAあたりに就労している人間がこの世界に至ったら、夜になった瞬間に憤死すること間違い無しである。そういう状況でなお頭痛を助長するのは、そうでありながらルイズの言葉の節々に現実と変わらない、世界の暗い裏側が見え隠れすることだった。イングリッドは頭を抱えたくなった。そんなところばっかりリアルにしなくてもいいのに……!

 

 時刻は夜。それはそれはもう、どうしようも疑いようも無く夜。しかし、2つの月に照らされた世界はとんでもなく明るい。月の力も濃密に感じて肌を震わせる。イングリッドにとってありがたいことかどうか判断の難しいところではあるが、月明かりというのは、月の表面が、太陽の光を浴びて反射する光であるので、その内包する力が月の表面に大多数が吸収されたうえで月の力に変換されて再放出されるとはいえ、変換仕切れなかった力は太陽の力そのものとして地球に反射される。反射する月の表面積が大きいためか、或いはこの世界における月の光学的反射効率が大きいためか、そうして降り注ぐ太陽の力は相当なものである。

 地球の夜よりはよほど大量の太陽の力が夜にも濃密に降り注いでいるのは、自身の力の発現に対する大きなアドヴァンテージだった。

 それを確認できただけでも、この話し合いの成果は大きい。

 

 しかし、突然に消えた自分。恐ろしく濃密で強力な力を発露していた鏡。多数の目撃者。巻き込まれかけた少年。

 あれほどの騒ぎがあれば組織も放っては置けないだろう。若干心配なのは、あれほどの力の発現が観測されたのであれば、例えば過去のシャドルーのように、それを悪しき方向に利用しようと画策する組織が出ても不思議ではないだろうという想像だ。

 難しい表情が隠すことも出来ずにイングリッドの顔に現れる。

 過去の闘争の原因となった太陽のアンクルに、無意識に手が伸びる。なんとなくイングリッドはアンクルを撫でつけた。

 

 あれが新たな闘争の火種にならなければ良いのじゃが。

 

 不安げな視線をイングリッドに送って黙り込んでいるルイズに視線を移す。

 

 我が主がそれに巻き込まれようものなら。

 

 小さく頭を振ってその妄想を振り払う。

 

 窓の外には、様々な施設が見える。12階建ての寮塔(棟ではない!)の6階から見える風景はウンザリするほどにクリアだった。この世界の科学技術の発展が殆どなされていない事実の証左でもある。

 地球ではまず感じることの出来ない静謐な空気がどこからとも無く漂ってくる。久しく忘れていた感覚ではあるが、余りにも力が濃密すぎて、身体が沸騰しそうだった。地球の過去においてむやみやたらと太陽の力が強くて酷く悩まされた時期があったがその時、自分はどうしたんだっけと首を捻る。

 なにか対策を考えないと、その内に身体から太陽の力が噴出して、自分自身も含めてすべてを焼き尽くしかねない。闘争を前提とした場合、力が強いことは良い事だったが、力が強すぎるのがこんなにも早くに自身の立ち振る舞いに影響を与えるとは想像だにしなかった。建物の中や、夜間等、太陽の力が微弱な状況で自身をサポートするために頭につけた太陽のアンクルだが、どうにも、むしろのこと、自身からあふれ出る力を吸収させるために使ったほうがよさそうな気配だった。

 本来あるべき自身の力を制限する意味が大きい太陽のアンクルだが、そうであるが故に、消費しきれない力がイングリッド自身の身体の中で吹き荒れている状況だった。余りに太陽のアンクルに依存し過ぎると、過去にそうであったようにそれ自体が闘争の原因になりかねない危うさはあったが、今のところは、太陽のアンクルに寄りかかる以外の方策が見えなかった。

 太陽のアンクルは正直なところ容量も能力も底知れぬところがあって、それがために途轍もない大騒ぎを引き起こした前科があるが、まさかにこうした使い方をする日がこようとは、イングリッドも苦笑いしきりだった。

 

 学院の敷地とその外部、境界を遮る石造りの分厚い壁。コンスタンチンと比べるのはアレだが、15~18世紀レベルの技術であれをぶち抜くのは難儀だろうと思える。

 壁の上の通路の広さも、胸壁の高さもその創りも、10階建てのビルに相当すると思しき壁塔もあまりにも実戦的過ぎる気配が濃密に漂う。その上をやる気の無い衛視が見張りと言うにはおざなりすぎる態度でうろついている。

 その先には自身が呼び出された草原が風に吹かれていて、彼女の視力で見える範囲に、辛うじてルイズが引き起こした爆発の残滓が踊っているのが見える。驚くべきは、ルイズの力の噴出した残り香がいまだにその周辺に濃密に漂っているのが見て取れることで、よくもまあ自分の身体が木っ端ミジンコにならなかったものだと、冷や汗が出る。

 その先、南東方向には白い頂を持つ大きな山々が見え、その手前にはうっそうと生い茂る森が地面を遮る。様々な動植物が蠢いているのがひしひしと感じられる。

 地球で見られる常緑樹の森とは違う。ヨーロッパや南アメリカには、今だ人の手つかずと言って良いほどの濃密な温帯性の森林がある場所もあるが、あれ程までに大量の生物の気配が犇き合っている場所はありえない。

 あのレベルになると、アフリカやブラジルあたりに目を向けないといけないが、そこに広がっているのは熱帯雨林である。あの森とはあり方が根本的に違う。

 あの森にもブランカの亜種見たいのがいるんだろうか……?雰囲気的にはどちらかというと、雲をつくほどの大男か、着の身着のままといったほうが良いような粗末な服を「胴着」だといって憚らない若者あたりが飛び跳ねていそうだが。

 

 そんな奴がこの世界にもいるのだろうか?

 

 その点については要観察。と、頭の中のメモ帳に記しておく。

 

 敷地の中央にある極めて巨大な教育棟を出て、どこもかしこも良く整備をされた敷地内を突き切り、何時か遠い過去に見た中世の城砦のような風景に囲まれたその場所を右へ左へとしばしの時間歩いて、ここにたどり着いた。

 ただの物見遊山であればウッキウキのワックワクで済んだであろうが、これから生活を送る場であるということを考えると、様々な困難を想像させる物だった。頭が痛いことばかり。

 どこもかしこも必要以上に広くスペースが取られて、何をするにも広すぎる。

 3人ぐらいで仲良く集まってぱっぱっぱらっぱと衰退しても誰の迷惑にもなりそうにない広い通路。閉塞空間であるにもかかわらず全体を煌々と照らす得体の知れない力。何の力で動くか判らないが故に大変に気味の悪いエレベーター。驚くことに、貴族のために用意されたものではないと言う。生徒達は普段、自身の魔法を使って建物の外を飛んでそれぞれの部屋の窓から出入りするのだそうだ。生徒はそれですむが、貴族である生徒達の生活を快適に維持する役割を持つ平民の使用人が、毎日毎日、ひいこらどっこいしょと上へ下へとよれよれ言っていたら、悲しい程までに生活力の無い生徒達がみな腐界に沈んでしまうために絶対に必要な設備なのだそうだ。

 外から出入りする。そりゃ結構!でも、だったらこれほどまでに広い通路も階段も必要ないよね。だいたい雨が降ったり、それこそ嵐になったりしたらどうするの?

 その疑問に、だから通路が広いのよ、と返された。

 通路を唸り声を上げて飛び交う少年少女を幻視して、はあ、そりゃどうも、と気のない返事をしてしまうイングリッドだった。壁にぶつけて90度ターンとか、壁にぶつかって360度攻撃とかしてるんだろうか?

 

 あれやこれやと思考が上下左右斜めに飛び交ったイングリッドだが、思考を強引に戻して、目の前のルイズに視線を戻す。気分を切り替えるつもりで、薫り高い紅茶を口に含む。

 もっきゅもきゅと口いっぱいにクッキーをほおばるルイズを視界に入れて、イングリッドは思わず、ぶーと紅茶を噴出した。

 

「きゃあっ!なにすんのよ、イングリッド!」

 

 げほげほとむせながら、イングリッドはルイズを指差した。ルイズの口から大量の食べかすが飛び散る。

 

「うぇっへん。えへん、えへん!なななんちゅう食い方をしとるんじゃ!」

 

 かあぁっと顔を朱に染めながら両腕をふるって抗議するルイズ。

 

「だだだだだだって、仕方が無いじゃない!仕方ないじゃない!おなか空いてるんだもん。おなかがすくんだもん!」

 

 「うへあー」とか言いながらレースを三重にあしらった、豪奢な刺繍を施されてはいるが、良く使い込まれたハンカチで、飛び散ったかすをふき取る。ルイズも浴びせかけられた紅茶をあわあわ言いながらふき取る。

 

「だって、だって、心配で心配で、食事も咽喉を通らなかったんだもん……」

 

 最後は消え入るほどに小さな声で、呟くようにルイズは答えた。イングリッドは硬直した。まじまじとルイズの顔を覗き込む。

 

「だって、しょうがないもん……」

 

 まっかっかにゆだった顔を見つめて、イングリッドは「はぁ」と小さなため息を吐いた。

 

「すまんかったな」

 

 イングリッドは大きく頭を下げた。テーブルに額を擦り付けそうなほどの深い深い謝罪の仕草であった。「んにゅっ!」とか聞こえそうなリアクションで、ルイズが椅子の上で小さく飛び跳ねる。

 

「いいいいいいのよ!使い魔の心配をするのは、使い魔の管理をするメイジとしてはととととととぉぜんじゃない!!」

 

 すばらしいドヤ顔を真っ赤に染めて、イングリッドに指を突きつける。頭を上げて、その2つを目にしたイングリッドは刹那、大きな笑い声を上げた。ルイズは不満そうにそれを眺めたが、結局つられるように笑い声で唱和した。しばらくどうしようもなくとめようの無い笑いの輪唱がルイズの部屋を包んだ。

 

 ひとしきり笑って、ひいひいと息を吐きながらイングリッドは、ルイズに視線を戻す。ともすれば変なテンションで、笑いがぶり返しそうではあったが、無理やり押さえ込む。

 

「さ……さて、我が主ルイズよ。最後に使い魔のあるべき姿についてお教え願えないじゃろか?」

 

 無理やりにつくろった表情を見て、なんどもなんども笑いの発作を抑えるルイズだったが、大きく息を吐いて落ち着かせたようだった。

 まじめそうな表情を顔に張り付かせてイングリッドに向き直る。

 

「そうね。そうよね」

 

 「ふん」と気合を入れると、ルイズは腕を組んで目を閉じた。

 

「基本的には使い魔ってね、居る事だけが重要だったりするものなの」

 

「居る事だけって……」

 

 ルイズはそのイングリッドの言葉を受けて「うん」と頷いて目を開く。

 

「あのね、メイジって言うのは様々に困難な仕事を請け負ったりするの。そういう困難に望んで立ち向かうのも貴族としてのあり方なの」

 

 それに頷くイングリッドではあったが、ルイズのメイジと貴族が癒着して切り離すことが出来ない思考のあり方が気になった。が、とりあえず保留にしておく。

 

「そういうときにね、心の奥底で繋がった、自分を信じて疑わない存在があるっていうのは心強いことなの」

 

 指を振って答えるルイズにイングリッドは、呆れた声を投げかける。

 

「それじゃあ、ペット(愛玩動物)じゃ……」

 

 慌てたように手を振って遮るルイズ。

 

「勿論それだけではなくてね」

 

 イングリッドの前で指を1本突き立てる。

 

「まずはね、使い魔は使役者の目となって、使役者の見ることの出来ない狭い場所や遠い場所を見たり、同じように使役者の耳となったりする能力があるわ」

 

 その言葉を最後まで聞きとめてイングリッドはあごをなでつけながら立ち上がり、窓際によって遠くを見る。イングリッドは内心で、精霊や『力』の流れがごく当たり前に視界を彩る自身の視界を思って、激しく冷や汗を流した。

 

「見えるかや?」

 

 目を閉じて何度かうなり声を上げるルイズが小さくため息を吐いて、顔を上げた。

 

「無理、みたいね……何も見えないわ。人間同士だとうまくいかないのかしら……」

 

 イングリッドはルイズに気が付かれないように安堵のため息をついて、椅子に戻る。

 

「そのほうがよいだろうよ」

 

 その言葉を自身を貶める事だと勘違いして感情を激発させるルイズ。声にならない叫び声をまあまあと遮って、宥めて落ち着かせるイングリッド。

 

「考えても見てみい。ルイズは我がトイレにしゃがんでいる姿や、酔っ払って中身をぶちまけている姿なんかを見たいんかや」

 

 うっとつまって、視線をそらすルイズ。

 

「それはともかくとしてな、ルイズ。人の視界が得られるということは、自分の視界が二つあることに等しいんじゃぞ」

 

 その言葉に、ルイズは疑問符を浮かべる。

 

「ルイズは、自分の視界にあるすべてのものを間違いなく捉えておるつもりかえ?」

 

 ますます変な表情を作るルイズ。

 はあとため息をついて、両手で丸い筒を作り、自身の眼の前にやって説明する。

 

「人の眼と言うのはじゃな、実は人が想像する以上に高性能なんじゃそうだ」

 

「?」

 

 ルイズは首を傾げた。

 

「ところが、じゃ。人の認識力が低性能過ぎて」

 

 目の前の手で作った筒をぐにぐにと大きくしたり小さくしたりする。

 

「うん、まあこんなもんじゃろ」

 

 大きさを調整した「筒」をルイズの眼にあてた。

 

「これくらいしか認識できておらんのじゃ」

 

 ルイズも自分の手で「筒」を作り、大きくしたり小さくしたりを繰り返す。

 

「えっ……ええっ!小さい。小さいわイングリッド!これ以上大きいと、見えているのに何が見えているか判らないわ!」

 

 イングリッドはルイズの前で頷く。

 

「単純に、視野、と言ってしまえば、ああー、その、な。眼で見える範囲で言ってしまえば、顔に物理的に遮られた以外の正面すべてが見えておるはずなんじゃが」

 

 自分の頭を指して、つんつんとつつく。

 

「人間の能力ではせっかくのその広い視野を生かしきれんのじゃ」

 

 ルイズは「視野」という部分の説明には納得して「こくこく」と頷く。

 

「でも、それがなんで『そのほうがいい』になるの?」

 

 イングリッドも「うん」と頷く。

 

「自分の目の能力だけですら扱いかねておるのに、同じくらいの能力を持った生物の視野を自分の視野に重ねたら」

 

 頭の上で手のひらをぱっと広げる。

 

「頭が爆発するわい」

 

 ぶるる、っと身体を震わせる。

 にははと、笑いながら手を振るイングリッド。

 

「まあ、それは言いすぎだが、かなり厄介なことじゃろて」

 

「どういうこと?」

 

 直角に近い角度まで首を捻るルイズ。「むふう」と、顎に手をやりながら首を捻るイングリッド。

 

「ルイズは右目で見ているものと左目で見ているものを両目を開いている状態で、区別できるかや?」

 

「???」

 

 激しく眼を瞬かせるルイズ。

 

「あーつまりじゃな、位置的に言って、鼻を境に、人間の眼の位置ではどうしても右目だけに見えているもの、左目だけに見えているものがある筈なんじゃ」

 

 「ああー」とルイズは大きく頷いた。

 

「普段は意識しておらんから、そんなことはわからんじゃろ」

 

 ふんふんと大きく首を振る。

 

「つまり、じゃ。普段自分が見ているものすら、どう見ているかも判断できていないのが人間じゃ。ましてや、同じ種族である人同士。モノの見え方は変わらん。ただ違う場所で違うものを見ているだけじゃ。その視界が重なったとき、ルイズは果たしてその視界が使い魔のものと認識できるかや?」

 

 ルイズは「あっ」と、声を上げて驚く。

 

「恐らく、じゃ。区別できんじゃろて。四六時中繋がるモンでもないんじゃろが、使い魔の視線を共有できる利点は……そうじゃの。闘いの場などで、自分の後ろを見たり、通路の角の向こう側を覗いたりしつつ、自身の視界も確保して闘えるところにあるんじゃろ」

 

「……使い魔の視界を使い魔が見ているものだって区別できなかったら……」

 

 その言葉を受けてイングリッドは肩をすくめた。

 

「まぬけじゃの」

 

 がっくりと肩を落とすルイズ。イングリッドは軽やかに笑った。

 

 実のところ言えば、余りにも『普通の人』と在り様が異なるイングリッドの視界をルイズが得れば、即座にそれがイングリッドの見ているものだと判別できるだろうという予測は付いた。

 だが在り様が『普通の人間』な他人が極めて情報量の多いイングリッドの視界を手にしたら、恐らくは情報を処理しきれずに脳がオーバーヒートするだろうとの予測もする。

 若干、その在り様が『普通の人間』とは異なるルイズであればもしかしたら……という予測もあったが、現実に視界の共有が出来ないのであれば、確かめるすべも無い。

 また別の予測もある。

 最初から視界にフィルターがかかっている可能性だ。

 召喚の儀の場にはドラゴンがいた。最強の幻想種である。恐らくは人の目など比べ物にならないほどの情報量があるだろうと想像する。あれの主がその視界を手にしたとき……そのままなどと言うことはちょっと想像し難い。それこそ脳みそパーンだろう。だから人が見れる程度まで勝手に能力が抑えられるか、或いは人が認識できる能力分しか伝わってこない可能性もある。

 ドラゴンどころではなくても、梟とか、カメレオンとか、ミミズ、オケラ、アメンボとかの視界がそのまま人間の目に投影されても役に立つどころか眼を回してひっくり返るのがオチだろう。

 コレに関しては実際に召喚して使役しているものに確認したほうが良いだろうと思う。

 

「まあ、ま。そう肩を落とすなや。そう考えると、見えんことは寧ろ良かったと納得できるじゃろ」

 

「そうだけど……」

 

 なだめてすかして続きを促すイングリッド。

 気を取り直したルイズはイングリッドに向き直り、2本目の指を伸ばした。

 

「……使い魔はね、使役者の望むものを使役者の願いに沿って、採取することが出来るのよ。

 うーん、そう。例えば、秘薬の材料ね」

 

「秘薬?」

 

 イングリッドの疑問にルイズはこくりと頷きかえした。

 

「ある特定の魔法を行使するのにその能力を拡大したりするのを助ける役目を持つのが秘薬。物によっては、秘薬なしでは行使できない魔法もあるの」

 

 「ほう」と、イングリッドは頷いた。

 

「例えば?」

 

 首を捻りながらルイズはいくつかの例を思い浮かべる。

 

「そうね……風の力が凝縮された風石、みたいな貴石っていう括りの鉱物とか、ある種の薬草とか」

 

 「ふむー」と唸りながらイングリッドは首を振るう。

 

「ここは我が住んでいたところから随分遠い様での。たぶん、我の知識ではどうしようも出来んじゃろ」

 

 しおらしく溜息を吐くルイズ。

 

「だよねー……」

 

 まあまあと両手でルイズを慰める。

 

「どうしても必要であれば勉強するから、言ってくれれば努力もしよう」

 

「でも、人間だから」

 

 首を捻って石や薬草を拾い集める自身の姿を想像するイングリッド。途中でその姿がトリュフを探して鼻を引くつかせるメス豚に入れ替わる。

 

「つまり、動物の嗅覚や、聴覚が必要とされる特殊なものもあるということじゃな」

 

 ルイズはそれに頷いて言葉を連ねる。

 

「うん。それ以外にも、人が入り込めない穴の中とか、高い山の上とか」

 

 イングリッドは表情をしかめた。

 

「あー、納得じゃ。予想以上に使い魔の仕事は重要で過酷じゃの」

 

 2人で見詰め合って、大きなため息をつく。

 

「しょうがないの」

 

 随分と力の無い首の動きで頷くルイズ。

 先を促すイングリッド。

 ルイズは3本目の指を立てた。

 

「場合によっては、これが一番重要視されることがあるんだけど……、使い魔は、使役者である主人の身の安全を図るものなの。本来なら人間ではない使い魔の、人間には無い能力を駆使して、人間では真似の出来ない能力を発揮して使役者の身を守るの」

 

「ほう……!」

 

 ものすごい勢いで納得するイングリッド。それが一番重要視されて、尚且つ、その他の機能がその片手間であるというなら、確かに自身が呼び出されるのに大きな動機となる。イングリッドはなるほどと大きく頷いた。

 

「でも、イングリッドは人間だから、モンスターと戦ったりは……えっ!」

 

 大きく首を上下させるイングリッドに気が付いてルイズは仰天した。

 

「ええっ!でもイングリッドは魔法を使えないんでしょ!女の子……なんでしょ!」

 

 その言葉に心外だ、と、イングリッドは大きく息を吐いた。

 

「その最後の言葉の間が納得いかぬの」

 

「そこなの……」

 

 脱力してテーブルに突っ伏すルイズ。

 しかし、すぐに復活してイングリッドを見つめる。

 イングリッドの言い方は、途轍もない自信を漲らせている風に感じられる。

 

「でも、凶悪な幻獣とかは……」

 

 それを遮って、イングリッドはルイズに尋ねる。

 

「召喚の場にドラゴンがいたの」

 

 小さく頭を捻って、その風景を思い浮かべる。

 

「そうね。風竜を呼び出した子がいたわ、たしか」

 

 うん。と頷いてルイズを見つめる。

 

「そうか……風竜というのかあれは」

 

 にやりと笑ってイングリッドは、ルイズの左手を自身の右手で握る。

 

「あれぐらいなら相手に出来るぞ」

 

 ルイズは鳶色の眼を大きく見開いて、唾を飛ばして叫ぶ。

 

「竜よ!幻獣よ!最強種よ!普通、魔法も使えない平民が立ち向かうことなんてありえないわ!」

 

 握られた手を振り払って、興奮して唾を飛ばしまくるルイズの顔の前で指を左右に振りながら、イングリッドはちっちっちっと声を上げる。

 

「あの程度のやからなら、我の住まう場所では日常茶飯事じゃ」

 

「どんな天外魔境よ……」

 

 ルイズはトリスタニアの街路で建物を吹き飛ばして爆走する火竜や、土を巻き上げて地面の穴から立ち上がる土龍(土竜ではない)に立ち向かうイングリッドたちとその周りで普段どおりの生活を送るイングリッドたちの姿を幻視して眩暈を起こした。恐ろしいことに、イングリッドの闘争の場における普段の光景は、戦う相手はともかく、そこで撒き散らされる力の奔流とそれを遠巻きにして迷惑そうに通り過ぎる住民や、場合によっては積極的にはやし立てる野次馬がいるという点で、ルイズの妄想があながち間違っていないという驚愕の事実があった。

 

 はあ、と気の抜けた溜息をルイズが吐く。

 

「……期待しているわ」

 

 「むっ」と、ふくれっ面をルイズに向けるイングリッド。

 

「信じとらんな?」

 

「はいはい……」

 

 ひらひらと手を振るルイズに不満を隠さないイングリッド。

 ひとまず湧き上がった怒りを静めていつの間にか乗り出していた身体を椅子に戻す。

 イングリッドは小さく首を捻った。

 

 なんで、こんなに興奮したんじゃ?

 

 普段の自身の性格からはありえない自身の態度に首を捻るイングリッドを胡散臭そうな視線で見やりながら、ルイズは億劫そうに口を開いた。

 

「しょうがないわね。あなた……」

 

 何かを言いたそうな視線に気がついて言い直す。

 

「……イングリッドの出来そうなことをやらせるわ。掃除に洗濯に、買い物の荷物持ちとか、授業で必要な道具を持つのを手伝うとか」

 

 まったく不満を隠さないイングリッドではあったが、不満そうな表情のまま腕を組みつつ大きく頷いた。

 

「しかたがないの……」

 

 その声にルイズは胸を小さく痛めた。

 イングリッドの大言壮語は俄かに信じられないものがあったが、それなり以上の自信があったのに違いないとは思えた。

 しかし、イングリッドの語った生活や生活環境には魔法の存在が殆ど感じられなかったから、強力な魔法を行使することがままある、こちらの幻獣を舐めてかかって、うっかりと死んでしまう事態は絶対に認められなかった。

 ルイズはイングリッドにほのかな親愛の情を抱きはじめていたのだ。

 その彼女があっさりと自身の目の前から掻き消えてしまうという未来は容認できなかった。

 ルイズは判断力も理解力も人並み以上にあるがために、数少ないイングリッドが語った彼女自身の情報から、イングリッドの身の安全を図りたいと思ったが故に、そうやって突き放すような態度をあえてとったのだった。

 不幸なことに、彼女が判断を下すにあたって得た、数少ない情報自体が恣意的に選択された本質の歪められた情報であったとまではルイズには理解の及ぶものではなかった。そのために、ルイズとイングリッドの間にある認識の違いの溝は随分なものであった。

 

 イングリッドはイングリッドで、魔法行使を失敗するだけで秘められた能力は随分と大きいルイズが呼び出すものが「ドラゴン」であったら格が釣り合うみたいな事をコルベールに聞いていたことが判断ミスに繋がっていた。

 自分でも原因が良くわからない感情に突き動かされた結果と、ルイズの力を至近距離で浴びた結果として、周囲の状況判断を疎かにしてしまった嫌いがあったが、1クラス30人程度の生徒の中に、2人の「ドラゴン」を呼び出す可能性がある確立で、能力を持った生徒がいるというのは、この世界がとんでもない能力者で溢れかえっている事実を予感させた。

 能力を行使する技術と言う面で現状、ルイズに劣るとは思わないイングリッドではあったが、単なる力のぶつけ合いを想像すると、現実、抑えられている自分程度の能力では、ルイズにずんパラサとばかりにされてしまうのは確実なだ。であるから、そも、サモン・サーヴァントとは少なくとも使役者よりは能力が劣る―――つまり、使役者が実力で捻じ伏せられる程度の実力を持った者が使い魔として呼び出されるものだと理解した。

 だからと言って、自身の力を解放する選択肢は考え難いイングリッドだった。

 強すぎる力は、唯それだけで闘争を引き寄せる。

 「俺より強い奴に会いに行く」。

 そう言って憚らない馬鹿がいたのである。そんな奴らを引き寄せたら自分はともかくとしてルイズの安全を保障できなくなる。その危険性を鑑みれば、自身がサイキョー!と無邪気に力を振りかざすことは最悪の結果を招きかねない。難しいところだ。

 そう考えると、あの鏡に引き寄せられそうになっていた少年に罪悪感が募る。

 最初からあの鏡は自身を捕らえようとしてそれを無視しようとしたがために、近くに現れた少年を仕方なく捕らえようとしたようにも思える。

 それはともかく、おざなりの周辺状況の把握の中でも、なかなかに力を持った能力を持つことが理解できたドラゴンを「ぷちっ」と捻れる術者があの場にいた、と、なれば、ルイズ並とは言わないまでも、それに継ぐ実力者と言うのが、確率的には1/15でこの学院には存在することになる。

 その確立を単純にハルケギニア全土に拡大できるかどうかという疑問は、現状の乏しい情報量という点でイングリッドには確証が持てなかったが、魔法学院がハルケギニア全土でここ一つしかないということを考えると、なかなかにいろいろと考えさせる事態である。

 確かに、これはまったく楽観できる数字ではない。正直、現状の自分を一捻り出来る人間がごろごろいるという可能性に繋がる訳で、更に言えば、肌で感じる単純な力でいっても相当の使い手と見受けられた―――だからこそ、睨み合いで終始したコルベールのような実力者が「教師」で甘んじている状態で、ハルケギニアの社会が特に不便を感じないとなれば……。

 

 大いに不満があった。イングリッド自身が推測した結果から鑑みれば、現状における自身の実力的に言って、そういう判断をルイズにされてしまったところでしょうがないと納得できる筈なのに、イングリッドはなぜか不満の感情を抑えられなかった。

 そのことに大きく動揺するが、様々な特異な状況や情報を知って、更に疲労が蓄積しているが故の、神経の高ぶりが収まらないだけなのだと無理やり納得する。

 本当は「その程度」で冷静さを欠くのも「ファイター」としてどうなんだ、と言う問題もあるが、なんだか良くわからない胸のもやもやを説明する術を彼女は持たなかったので、それで納得することにした。

 

 表情を抑える事は出来ていなかったが……。

 

 

 

 イングリッドの表情を複雑な気分で見つめたルイズは眼をそらして、わざとらしくあくびをした。

 それを視界の隅で捕らえて、イングリッドも表情を崩す。

 それを確認してルイズも、安心したように小さく笑顔を見せた。

 

「いろいろしゃべっていたら、眠くなってきちゃった」

 

 イングリッドは肩を竦めた。窓の外を見やる。

 

「そうさの。随分と時間が過ぎてしまったようじゃ。授業に出るとなると、はよう寝てしまったほうが良いの」

 

 ルイズはそれに頷いた。それを見て、イングリッドは部屋を見回し、ベットを見て、それから部屋の片隅に積み上げられたわら束に視線をとめた。それを眼にして片眉を跳ね上げたイングリッドは、立ち上がってブラウスのボタンに手をかけていたルイズに視線を戻す。

 

「我は、どこで寝ればいいんじゃ。我が主よ」

 

 ルイズの表情が曇る。脱ぎかけたブラウスにかけられた手が止まる。

 

「そ……そうよね。そういえば……」

 

 ふかーい溜息をついて、イングリッドはルイズににじり寄った。自分の顔の前で指を3本立てて、それをルイズの顔の前に持って行って付き立てた。

 

「3日、じゃったか。我が眠っておったのは」

 

「うっ!」

 

 たらーりと汗がルイズの頬を伝う。

 

「我を使役するつもりがなかったのかや……」

 

 むむむ、と様々に表情を変えて、次いで顔を真っ赤に染めてルイズは大きく両手を振って叫んだ。

 

「しかたがなかったじゃない!いろいろ心配で!イングリッドが……その……!」

 

 じと眼を崩さない、傾いだ身体に、左腕だけ腰に当てられた体勢。右腕はぷらぷらと身体の横にぶら下がっているが、右掌は随分と力が入っているようだった。

 コルベールの顔をつかんで身動きを取れなくした彼女の力の強さを思い出してルイズは、イングリッドが実は本当に風竜ぐらいなら何とかしちゃうのではないかとも思ってしまう。

 ルイズは一瞬の葛藤の後に、一度背筋を伸ばして直立し、刹那、大げさに腰を折ってイングリッドに謝った。

 

「ごめんなさい。忘れてました」

 

 それを認めて僅かな硬直の後、「ぷっ」と吹き出してイングリッドはルイズの頭をなぜた。

 

「まあよいわ。いろいろあったんじゃろ」

 

 小さく溜息を吐いてルイズは頭を上げた。イングリッドに頭を撫でられるのが嫌ではなくなってきた自分の気持ちに気が付いて、僅かに頬を染める。それをごまかすように、ベットへと視線を移す。そういう若干の混乱をはらんだ思考状態で、最初から前提の狂った仮定を口にしてしまった。

 

「ベットは実家に手紙を出して手配するから。たぶん、使い魔のためだと言えば、もうひとつは用意できると思うわ」

 

 豪奢で巨大な、普通のシングルベットの3倍はある天蓋付きのキングサイズのベットを見ながら切なそうに溜息をつくルイズを見て、イングリッドは慌てた。

 

「まてまてまて。それをもう一つ用意する気か!」

 

 ルイズは肩を怒らせてイングリッドに向き直る。ルイズは頭がよいのだ。しかし頭が良い人間が常に最善手を選べるわけでもない。それを成すには人間として経験が必要である。

 そういう方面で見る場合、ルイズという少女は所詮、16歳に過ぎないのである。よってイングリッドの言葉から早手回しに自身の想像する結論を導いてしまったのも仕方がなかった。この一日の経験で晴れやかな方向に振れたルイズの思考だったが、咄嗟の想像がネガティブに揺れる部分が払拭されたわけでもなかった。

 だからイングリッドに対する応えが激昂の形を取るのは仕方がなかったのかもしれない。

 

「しょうがないじゃない!これくらいのだと、平民の一人暮らしの家が一個、買える位はするのよ!小遣いで買ったら、一年間、休日の食事は水と残飯になっちゃう!」

 

 小遣いで買えるんかい!というツッコミはイングリッドの立場では恐ろしくて声に出せなかった。あっさり「そうよ!」と胸をはって答えられてしまったらイングリッドのいろいろなところが再起不能になりそうだった。

 例えばワンルームマンションなら、日本の地域地方、立地条件にもよるが、安くとも新築で1500万はする。

 配属先、出身大学による差別……おっと、区別もあるが、大卒のサラリーマンが、初年度年収500万に届くかどうか、ということを考えると、年収の3倍。実際は、給料のすべてを家につぎ込んだらすっぱで餓死という愉快な状況になるから、おそらくは「庶民」の給料では10年ぐらいはがんばらないと買えない「ベット」。

 

 おいおいおい……!

 

 ルイズの想像以上のウルトラお嬢様っぷりにイングリッドは、この世界に現れて出でて最大の驚愕に身を震わせる。

 

 こ……これが、格差社会か……!!

 

 むかしむかーしに比べれば随分と快適になったとはいえ、それでも、ポンチョで組んだ風避けの下にウレタンマットを敷いて寝袋とか、1泊1500円のカプセルホテルとか、隣の宿泊者の放屁の音もその臭いも感じられそうなモーテルとかをとっかえひっかえして1年の大半を過ごす事が多い自身の生活を振り返ってイングリッドは切なさに涙が溢れそうになった。今までこれっぽっちも疑問に思わなかった人生が急速に色あせる感覚に、イングリッドの意識が揺らぐ。でもがまん。だって私、女の子だもん……。

 

 あまりの超現実に意味不明な妄想で頭を混乱させるイングリッドであったが、いろいろと経験や記憶の使い方を間違っている面があった。各地各国に定宿はあっても定住経験がないイングリッドの人生のあり方も誤解の元だった。

 宿代わりに安いアパートメントや、賃貸マンションを借りることはあってもどこまでも一時的な滞在の範疇だった。どちらにせよ、自身で家を一件買った経験などないイングリッドだった。

 

 14~18世紀くらいのヨーロッパであれば、土地の個人所有は建前上、庶民に許されてはいなかった。土地を所有するのは国王であり、例外として教会が専有する土地があっただけである。だから、領主や教会の許可の下、実際には土地の所有者に周囲の管理を付託された代理人の元、土地の区分けを受けて材料を揃えて家を建てる段取りになる。

 その際、中、長期的な永住を考えて1家族が家を建てるとなれば専門の職人の召集は避けられないから、価格は大きく跳ね上がる。そのため実際に、富農による分家とかでもなければ災害や戦争でもない限り、家が新築される事は殆ど無かった。

 貴族の館であっても同じである。基本的には代々受け継がれるのが貴族の家というものである。時代が下がると敷地内に離れがやたら滅多ら増築されたりしたが、台所がないとかトイレが設置されていないとか、引篭もるには大変に不都合な構造である場合が多かった。これは20世紀を迎えるころまで、建築物を建設する段では水周りにかかる費用と手間が飛びぬけて大きかった時代が長かったせいもある。

 家族制度からはじかれて、1人暮らしを余儀なくされる男児が1個の家を建てたり、小さな家を買うとなると、殆どの場合は掘っ立て小屋よりはそれなりに上等というモノに成る。すべての土地が、村単位街単位で管理されて、建材を得るにも勝手に森から木を切り出せば犯罪者としてばっさりやられることを考えると、材料費は現代の人間が考える程には安くない。だが、実際に材料を揃えて家を建てる段では、基本的に完成する筈の家に住む予定の本人を含めた周辺住民のボランティアによって建築されるから、人件費は唯となる。

 無論、完全に唯、とは言えなくて、食事を振舞ったり、酒を配ったりと言う事は求められる。だが、家を建てるという行為そのものにはそんなには金がかからない。

 なぜ、周辺住民がボランティアで家を建てる手伝いを積極的に行うかと言えば、適当な家を建てて火を出されたら大惨事であるし、嵐で潰れるような掘っ立て小屋を建てられて、実際に道を塞いだとか、畑を潰したとか、他の家を巻き込んだとなれば大迷惑ではすまないからである。だからそうして「ボランティア」が行われるのは、地域コミュニティを守る上での暗黙の了解みたいなもんである。そういう行為が普通になされていたからこそ、欧州諸国で現代的な意味での「ボランティア」が現在、隆盛している理由であったりもする。

 それはともかく。

 何が言いたいかというと、このハルケギニアという世界においても、ある程度以上の大きさの家を建てようとすると突然に果てしなく価格が高騰するが、1人暮らしの家となれば「新築」では材料費のみと言う考えになるのだ。

 ルイズもそれを念頭に答えたのであり、そう考えるとワンルームマンションの建築にあたり『現代』人件費や諸経費は全体価格の2/3ぐらいが順当なところであるから、この部屋に鎮座ましますベットの価格は『現在』の貨幣価値に換算して500万程度と推測できる訳で、それほど常識外れに途轍もなく高価と言う訳でも……。

 

 要審議対象。

 

 ―――閑話休題。

 

 イングリッドの混乱を不満と見間違えたルイズは、怒りにこめかみを震わせる。

 

「そりゃ、寮の個室に入れるベットだから小さいし、組み立てる材料も大きく出来ないから拵えもよくは無いけど、まさか、ちゃんとしたベットが欲しいなんて言わないでしょうね!」

 

 いいぃーっ!

 

 イングリッドは叫びそうになった。

 

 これが「安物」だと!

 

 イングリッドは大慌てで両手を振ってそれを遮る。

 

「ちがうから。いらないから。こんなに立派なのは!ええっと、そうだ!私が3日間寝ていた、あのベットみたいなので十分すぎるから!ああーっ、あのベットの寝心地は良かったなー!」

 

 混乱して捲くし立てるイングリッドの口調がおかしくなって普段と違うものになっていたが、ルイズもイングリッド自身も幸いに、それに気が付くことは無かった。

 

「……ホントにあんなのでいいの?」

 

 ぶんぶんぶんと、イングリッドは大きく首を縦に振って肯定する。引き攣って青褪めた表情に、ルイズはしばし呆けて、そして勘違いに気が付いた。

 

「あ……ごめんなさい……平民ならそうよね……。これじゃあ逆に落ち着かないか」

 

 ルイズは肩を落としてしおらしくうつむいた。

 慌てた表情のままルイズの肩をつかむイングリッド。

 

「おうおう、そうじゃ。こんな豪奢なベットでは寝た気になれんわ……傷をつけるかと思うと、緊張して眼を閉じることも出来んぞ」

 

 失敗を理解してぽりぽりと頭を掻くルイズ。

 なんでそのような反応をしたかは理解したつもりだった。

 イングリッドの行動の端々に、どことなく品格が透けて見えて、なんとなく姉や両親と会話を交わしている気分になっていたのだ。だからベット1つにしても、自身の必要をそのままイングリッドに当てはめてしまった。

 町や村で暮らす平民の本当の生活はルイズ自身も詳しく知っている訳でもなかったが、時々見るとはなしに眼に入る、この学園の使用人の寮室の家具を思い出してみれば、この「程度」のベットですら大げさに過ぎる事に気が付いた。

 

「そうね……今日は私と一緒に、これで寝ると良いわ。明日すぐってわけには行かないけど、申請すれば使用人のベットを分けてもらえるかしら?いざとなればトリスタニアで注文して……」

 

 ふと気が付いてわたわたするイングリッドに微笑む。

 

「使い込んでるから、傷なんか気にしないわ。壊されて寝れなくなったら困るけど、そんなに寝相が悪いってこともないでしょ」

 

 刹那、硬直して大きく息を吐いたイングリッドは、大袈裟な仕草で頷いた。

 

「ありがとう。そうさせてもらおうかや」

 

 そうして安心したように笑顔を見せた。

 

 ようやく落ち着いたルイズはブラウスのボタンを外し、下着を露にする。それを見てイングリッドも服を脱ごうとしてはたと困ってしまった。

 それに気がついたルイズは手をとめて、不思議そうにイングリッドを見つめる。

 

「しまった……我は着たきりスズメじゃ。寝巻きなんぞ用意できんぞ……!」

 

 あっと、ルイズも理解する。

 

「ああ……ごめんなさいね、いやだわ。下着の替えなんかも無いんでしょ。まず1番にイングリッドの生活用品を買い揃えなくちゃあいけないのに」

 

 頭を捻る。

 

「ううん……そうね。明日すぐには無理だけど、使い魔のためだと言えば明後日ぐらいは大丈夫でしょ。トリスタニアに出て、イングリッドの生活用品を買い揃えないと」

 

 その言葉に、またイングリッドが慌てて遮る。

 

「まて、我が主よ。授業をサボらせてまで我の生活水準を上げ様とは思わんでも……」

 

 ルイズは下着姿のままで右手を上げてイングリッドの言葉を遮る。

 

「使い魔に不便をさせてなんとも思わない程私は冷酷なつもりは無いわ。早急にイングリッドに不自由ない生活を送ってもらいたいの」

 

 プリーツ・スカートのバックルを外して、それを床に落としてまたぐ。ブラウスとスカートを手にとってテーブルの上に置き、キャミソールに手をかける。

 

「それに、ここ1週間ぐらいの間の授業は1年の復習をするだけなの。先生達も本当は新入生を纏めるのに大忙しだから、2年生や3年生に関わっていられないのよ」

 

 イングリッドは、「ほう」と顎に手をやって納得する。しかし、と首を捻る。

 

「召喚の儀式はどうなんじゃ?」

 

 パンティを脱いで、テーブルの上に重ねられたキャミソールの上に乗せる。

 

「あれは、新入生を迎える前日にやる行事なのよ。あれに失敗すれば進級は出来ないから、失敗した人はそのまま翌日、新入生の中に放り込まれるわね」

 

 「失敗」という言葉がルイズから発せられた瞬間に、僅かにイングリッドは身体を強張らせたが、ルイズはなんとも思わずに自然にその言葉を口に出していた。

 それを見届けたイングリッドはふっと笑うと、テーブルに積み重なった服を見やる。

 ルイズは部屋に入った時点で外されて、椅子の背にかけられていたマントをハンガーのクリップで留めながら、皺にならないように引っ張りつつ、すっぱのままベットに近寄って、天蓋の支えから突き出た棒に引っ掛ける。そうしてからあらためて、その下にかかっていたネグリジェのかけられたハンガーを手にする。

 ふと気が付いて振り返るとルイズは、それをイングリッドのほうに突き出した。

 

「ねえ、イングリッド。これならあなたも入るんじゃないかしら?」

 

 ハンガーにかかったままのネグリジェをイングリッドの身体に押し付ける。

 ルイズの身体には大きめで余裕のあるその淡い桃色のネグリジェは、イングリッドの身体には―――胸のサイズも含めて―――ぴったりフィットしそうだった。

 

「ん、大丈夫そうじゃの」

 

 頷いたルイズはハンガーからネグリジェを外しながら顎でクローゼットを指し示し、自身はそのまま両手でネグリジェのすそを広げながら頭から被った。

 

「あっちにいっぱい入ってるわ。好きなのを選んで勝手に着てね」

 

「判った。そうしよう」

 

 さっと服を「分解」しながら、イングリッドも裸になってクローゼットをあけ、ハンガーにかかっている、それはそれは凝った刺繍で彩られた、一つとして同じものが無いネグリジェに眉を引くつかせたあと、一番に「質素」に見えるネグリジェを選んで取った。

 寝床のシーツの皺を寄せて枕を整えて満足したルイズが振り向いたときには、すでにイングリッドは自分と同じ姿になっていた。

 余りの早業に小さく驚く。

 一度ベットから降り立ち、自分の脱いだ服と、その隣に積み重ねられたイングリッドの服を見てルイズは、自分の服の山に指を差す。

 

「申し訳ないけど、明日の朝にはこれを洗濯して貰えるかしら。あなたの……イングリッドの服は、洗濯したら替えがないし、イングリッドに制服を着せるわけにもいかないし、余所行きの服は作業には向かないから……どうしようかしら?」

 

 キャミソールを手にとって興味深そうに裏返すイングリッドは「よいよい」とばかりに手を振った。

 

「これなら下着も使えそうじゃ……人に下着を貸すのが嫌だと言われると困るが、服のほうは、返された時点で洗濯されておったからの。一週間ぐらいはどうと言うことはないじゃろ。どうじゃ」

 

 パンティのゴムを珍しそうにみょんみょんと慎重に伸ばしたり縮めたりするイングリッドの仕草にルイズは、そういえばゴムは貴族向けの服飾品にしか使われていなくて、平民はサスペンダーショーツとかパンドルショーツといったニッカーズ、場合によっては下着をつけないこともあると聞いたことを思い出した。

 

「うん。構わないわ。明日は私の下着を使えばいい。クローゼットの引き出しに入っているからどれでも自由に選んでね」

 

「了解じゃ」

 

 パンティを洗濯物の山に戻して、イングリッドはルイズの脱いだ服と自身の脱いだ下着と靴下を纏める。しばし視界を彷徨わせて、部屋の片隅に転がされたかごを見つけるとそれに洗濯物を押し込んで、テーブルの横に置いた。

 

「うむ。準備はこれで良いじゃろ」

 

「じゃ、明かりを消すわ」

 

 ルイズが杖を振ると、ランプが急激に照度を落とし、部屋に暗闇が訪れた。しかし窓の外の月明かりは大した物で、動き回る分にはそれほど困らない明るさが部屋に残っていた。

 杖を、勉強机と思しき机の上に置かれた杖専用と思しきそれなりにしつらえのいいスタンドに立て掛けると、ルイズはもそもそとベットに入る。それを待ち、ルイズの動きが落ち着いたころを見計らってイングリッドもベットに入った。

 

「ん……結構明るいの」

 

「えっ、そう?」

 

 イングリッドはその言葉に首肯して思い出す。この世界の人間にとっては月が2つ夜空を照らすのが当たり前なのだ。イングリッドの感覚からすると結構どころではなく、相当に明るい気分だが、ルイズには全然普通であるようだった。

 すでに意識が朦朧としているようなルイズを横に感じながら、ふかふかの布団、たっぷりとした枕に身を委ねて今日最後の驚愕をイングリッドは思い出していた。

 

 ゴム、か。

 

 永々と生を過ごしてきたイングリッドであっても個々の工業製品の誕生すべてに眼を通しておける訳では無い。だからして、確信等は無い。だが、うろ覚えな記憶を手繰れば、イングリッドがゴムを使った製品を手にしたのは確か19世紀の後半だった様に思う。軍事製品とか高級な服飾品にはもっと早い時期から使用されていたような記憶はあるが、ゴムを使った服飾品の発生はイングリッドにとっても大いなる福音だった。パンツを履くのに面倒がなくなった上に、激しい運動……つまり闘いの最中にパンティがスカートからこんにちはする事が滅多に無くなったのには酷く感謝と感動の念を覚えた記憶がある。なにしろイングリッドの行う「運動」ときたら全身にある筋力の津々浦々まで全力で動作させる訳であるから―――普通の人間であるなら一生涯にわたって全力機動する事が無いであろう筋力まで酷使されるのであるから―――パンツの紐なんて簡単にぶ千切れた。だから闘争一回で、下着は塵布になってしまうのが日常だった。それが劇的に改善されたのは衝撃的事実であったから、多少の前後はあっても、そう大きな間違いはないと断言した。

 

 なんともちぐはぐな世界じゃ。

 

 窓から差し込む月の光から地球で感じるのとは随分違う、太陽の脈動を受けつつ思考を深める。

 

 せいぜいが15~18世紀ぐらいかとも思ったが、驚くほど進んだ技術が見られるものよの。魔法が科学技術をある程度カバーしているということか。

 

 眼を閉じて、周囲から漂ういろいろな力の波動を遮る。

 

 これは早急に武器や兵器等を確認する必要があるのじゃ。

 マスケット銃や2ポンド砲(40ミリ砲ではなく、前装式の騎兵砲)程度ならどうしようも出来るが、75ミリ野砲や機関銃が山のように持ち出される戦場が当たり前と言うなら、戦場で主を守ることは困難じゃ。

 

 それでも1人で戦場を走るなら、戦車の大集団が断続的にぶつかり合う涙の谷であっても、夜間に無傷で走り回る自信がイングリッドにはあった。だが、さすがに誰かを守ってそれを突破するような事態にはまったく自信が持てなかった。

 基本的に、いついかなる時もスタンドアローンであるのが普通で、当たり前で。そもそれに疑問を持つ事すらなかったイングリッドの地球での経験は、ルイズを横に置いてのこれからの暮らしでは殆ど役に立ちそうにもない不安があった。

 

 早いところ、この世界を深く知る必要があるの……。

 

 いつしかイングリッドの意識は柔らかな心地よい闇の中に包まれて、落ちていった。

 

 


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