ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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銀髪の使い魔(3)

 コルベールの背を仰ぎ見て後を続くルイズは、最初はおとなしく歩いていた。だが、階段を降り、角を曲がり、1階の通路に出たときにはその背中を追い抜いて走り始めていた。

 

 ルイズに、何か深い考えがあったわけではなかった。しかし、彼女の胸に湧き上がる期待と僅かな不安が、その小さな身体を突き動かしていた。

 

 

 早く逢いたい。

 

 走る。

 

 逢ってどうするの?

 

 走る。

 

 私の使い魔。

 

 走る。

 

 ……人間の使い魔?

 

 立ち止まる。

 

 

 医療室、救護室と並んで奥にある。その病室の扉の前にたどり着いて、急激に膨れ上がる不安にルイズは胸を痛めた。

 

 

 ()()()使()()()

 

 ありえない……。

 

 

 突然に歪んだ視界で、病室と廊下を隔てる大きな引き戸をぼんやりと眺める。

 

 

 本当に、あれは、私が呼んだの……?。

 

 たまたまあそこを歩いていただけの平民だったりして……。ただ、『私』の魔法の行使に発生する結果に巻き込まれただけの―――

 

 ―――不幸な平民かも知れない……。

 

 

 

 魔法学院の周囲は、魔法学院が管理するという建前がある。

 

 生徒を周囲の雑音から隔離するという意味以外に、国内外から有力な貴族の子弟が数多く集まるためという理由もある。

 貴族の子弟が親元を離れて集団生活を送る。ここ以外では王都の王宮周辺の貴族街でもなければありえない特異性が「魔法学院」という場所だ。しかも彼らはハルケギニア全土から集まって来ている。安全面から言って本来は、不特定多数の往来出入りが激しい町など近傍にあっては警備に負担がかかってしょうがない。

 貴族や貴族の卵が異常な集中密度を持って生活する魔法学院の存在は経済活動の面からいって、非常に魅力的な場所であるはずだが、そういう理由から商人達は歯噛みして眺めるだけである。……表を見れば、の話だが。

 

 魔法学院自体の箔付けという理由も存在する。ハルケギニア中で貴族同士が土地の奪い合いを繰り広げる中で、魔法学院はこれほどまでに広大な土地を所有しているんだぞ、というハッタリだ。

 

 実際的側面として、魔法の修練において危険な攻撃魔法等を、能力の未熟な者が実技練習するのに、広大な土地があると何かと都合が良いという側面もある。

 攻撃魔法の中には、術者の能力云々という限界はあるにせよ、視界が通る距離ならば射程は理論上無限という物が存在する。

 現実的な有効射程はどれほど能力が高いメイジであっても、数百メイルがせいぜい(ただし魔法の種類にもよる。無差別広域殲滅魔法等には「長射程」のものがあることが知られている)だが、学校という場における教育という側面からすると、とりあえずの限界を知るために、個人の能力いっぱいの実力を発揮させて、有効な距離を探るという方法が取られる。すると、とにかく視界を遮る物がないやたらと広い土地が必要になる。

 

 実践的側面で言うと、森や丘など、ごく当たり前にある地形の変化に対応した魔法の訓練を行うことが必要であり、これまた広大な土地が必要になる。

 別段、攻撃魔法のみにおいて必要という訳ではない。例えば、いくつか方法のある、空を飛ぶ魔法、或いは、地を駆ける魔法を使う場合に、土地の起伏や、障害物の存在というのは非常に重要になる。

 土を弄る魔法にしても、土、砂、砂利、岩と、様々な種類の材料があったほうがいい。

 水を扱うにしても、清らかな清流。激しく流れ狂う濁流。淀んだ水溜り。地下より湧き出して停滞する井戸。

 いろいろな水の状況があると良い。

 或いは魔法を行使するに当たって様々な量と種類が必要とされる秘薬の材料を得るためにも土地は広いほうが良い。どうしたところで特殊な材料と言うのは特殊な土地でしか得ることが出来ないが、すべての秘薬が1から10まで特殊な材料の組み合わせでしか得られない訳ではない。

 どこにでもあるありふれた種類の植物や鉱物の組み合わせが、ある種の秘薬の材料となってメイジを助ける事は多い。

 で、あれば、単純に量を求める上でも、或いは採集行為そのものの「実技練習」のためにも、広大で肥沃な土地があったほうが都合が良いのである。 

 

 実戦的な面で言えば、ありとあらゆる地形が必要になる。山、川、池、茂みに森、洞窟。そういった自然地形。

 或いは、村や町、砦等も必要になろう。道路とか橋、小麦畑に野菜畑、ボカージュといった人工的地形も必要になる。戦争は場所を選ばないし、戦場は人の息づく場所すべてが選択肢となるからである。

 

 「国家」の屋台骨を支える「事になっている」貴族の数ある存在意義、或いは、義務と言い換えても良い。貴族たちが行うべき行為の一つに、戦争に置いて率先して戦場に立つという物がある。

 ましてや、長子ではない貴族の子弟が集う場所だ。一丁有事ともなれば「国家」のためというよりも「家」のために積極的に「死に急ぐ」必要性すらあり、要は、有効な死に方を学ぶ場所が必要なのである。

 

 

 ここで問題になるのは、その「学びの場」に少なからず平民が紛れ込んでいる事実である。

 

 形骸化が進む魔法学院とは言え、貴族が「死に様」を魅せる必要性はむしろ増大していると言えるから、時代が過ぎるにつれ、戦闘訓練の場としての魔法学院の所有する土地の重要性は高まっている。

 魔法学院が、自身の所有する土地の管理を半ば投げ出してしまって、一種の治外法権化しているにもかかわらず、平民が押し寄せることが現実的に起きていない理由がこれである。

 魔法学院によって建築された街「のようなもの」や村「のようなもの」に勝手に住み着いて、そこで戦闘訓練が行われた場合、力を持たない平民はただの標的である。

 よしんば反撃等しよう物なら苛烈に狩り立てられて、ましてや捕らえられた場合に、その後に起きる結末は想像するに容易い。

 貴族は領民たる平民の生活を守るのが建前とは言え、魔法学院が収める土地は治外法権である。この場合の治外法権は、平民のみならず貴族に対しても平等である。

 平等である以上、貴族に対して平民が反撃を食らわせることも許され得る筈ではあるが、貴族がそこに住まう平民に対して私刑を行うこともまた自由なのだ。ここにいる彼らは「唯の平民」であって「領民」ではないのだ。存在しない人間であるから、貴族による「平民」の扱いは自由である。

 

 そうではあっても例外のない法則はなく、魔法学院の周辺には少なくない数の平民が居を構えている。畑もあるし、町じみた場所もある。建前上、魔法学院としてはそのような存在を認めてはいないが、例えば土メイジが、土地の改良を行う実践的練習の場として不法居留民の畑を弄る事もあるし、その結果として、不法居留民が利益を得る事もある。無論その逆の結果を得る可能性もあり、そうなれば不法居留民という立場であるからして、まったくの泣き寝入りになるが、魔法の修練としての作業となればよほどの偏屈物でもない限りは成功を望んで魔法を行使するのであるから、畑を弄る事を生業とする人間にとっては、これはかなりの魅力となる。

 

 不法居留民の負傷により水メイジがその力を振るうことも少なくない。メイジの実践的練習の場にもなるからだ。

 負傷を治療する魔法を、まさか、同級生で試す事は憚りがある。専門の療士が仕事として、事故等で負傷した生徒を治療するならともかく、能力的に未熟な生徒が他の生徒を(応急ならともかくとして)治療するのは危険極まりない。

 失敗は勿論、寧ろ、後に影響を及ぼすような障害を残せばいかなる悪影響が残るか。想像するだに恐ろしい。とんでもない遺恨を残す事になるだろう。

 ましてや、練習のために他の生徒を故意に傷つける事が許されよう筈も無い。何しろ貴族なのだ。教師や使用人に傷を負わせる事も許されない。彼らが失われれば、当然の事ながら生徒の生活や授業に大きな影響を及ぼす結果になる。よって「どうなっても構わない」人間の存在は貴重である。

 

 不法居留民の生活の場を犯すモンスターを退治する事で、火メイジや風メイジが実戦的な修練の場を得る事もある。特にこの場合においては、何かを守りながら戦う練習という面で非常に価値が大きい。なにしろ魔法学院の生徒は貴族ばかりだ。練習とはいえ、貴族が貴族を守るという形を作るのは様々な理由によって難しい。だからと言って、魔法学院で働く使用人を授業で引っ張り出すことも難しい。

 彼らは魔法学院内で貴族が快適な生活を送る上では死活的に重要な存在である。また、ハルケギニア中から貴族が集まるという特性上、その貴族と直接接する彼らは、その身分が徹底的に洗われた平民ばかりである。

 そういった、貴族にとって「信用の置ける」平民の募集と言うのは存外に困難であり、魔法学院に住まう生徒達の中にはそういった部分を理解しているとは言いがたい愚かな者も居たが、少なくとも教職員の間では、彼らを使い捨てにするが如くの行為に投げ込むわけには行かないという認識があった。

 しかし不法居留民という領民でも使用人でもない平民を「守る」のは非常に気が楽である。技術的に優しいのではなく、後処理的に優しいのである。

 存在しない筈の人間であるから、であるにしても人間であることには変わりないから、護衛任務としては極めて実戦的でありながら、失敗しても死守等せずに、放り投げて逃げ出せばいいのだ。非常に()()である。

 

 状況的に魔法学院が管理する土地に犯罪者が潜伏する事もあったが、今では余程の事がない限り、そういった本当に危険なものが紛れ込む事は無くなっている。

 

 なにしろ「存在しない筈の人間」の集団に紛れ込もうというのだ。

 

 犯罪者が人間の集団の場に好んで紛れ込むのには様々な理由があるのだが、その中に、罪のない人間の集団に紛れ込む事で取り締まる立場の人間による強硬手段を封じて身の安全を図る、という部分がある。

 ところがこの場所は、ここに住んでいる事自体が罪である。

 町じみた場所であっても、極端な話、犯罪者が紛れ込んでいるという情報があれば町ごと殲滅すれば良いのだ。そうすれば非常に楽であるし、また、町を殲滅するために行われる行動自体が術からず戦争の訓練になるので何かと都合が良いのだ。

 「本当に危険な者」として、例えばテロリストやアサシンが紛れ込む可能性はありうる。なにしろありとあらゆる国からありとあらゆる立場の、或いは、将来的にそういった立場に立つかもしれない貴族が集まっているのだから。それを狙う人間の出現は、ある意味で魔法学院とその周辺にとっては究極のカントリー・リスクである。しかしそういった者であればなおさら、町「じみたもの」に潜伏する事によって発生するであろう危険性を鑑みれば、彼等がそこに潜伏する可能性は極めて少なくなって来るので、やはり「安心」する事が出来た。

 ただし町「じみたもの」にある種の理由をもって出入りする貴族は後を絶たないから、それを狙って一仕事をする犯罪者やテロリストの存在の可能性は否定できない。

 

 町「じみた」場所は本来的な意味での町と変わらぬ利用価値もある。いや、この土地が貴族の所有では無いという意味では、むしろ魔法学院に住まう人間にとっては高い利用価値があると言えよう。

 魔法学院はこの土地に存在する「定住する人間」を認めてはいないが彼らは実際に存在する。だから彼らも生活する以上は食料等の生活必需品を扱う必要性があり、そうなれば当然流通等の経済活動が発生する。

 そしてこの土地には税金が存在しないため、物価が妙に安いという結果が生ずる。

 本来は、魔法学院の所有する土地、という閉じた空間に持ちこまれる物品には外から中に至る流れの中で、どこかで税が支払われる筈ではあるが、貴族内の争いが頻発して各地の統治が緩んでいる現在、租税を回避した物品が流入して、活況を呈する結果となった。

 輸送時に税を回避することは容易いが、腰をすえて店を開けば、税の徴収は容易く、逃れるのは難しい。だがここは魔法学院が所有管理する土地である。魔法学院が租税の徴収に無頓着である以上は、店を開いたところで税を徴収される可能性は無い。よって、一攫千金を狙って、魔法学院の土地に入り込もうとする商魂たくましい人間が出てくる事にもなった。

 しかも、通常のルートに乗せ得ない秘薬や、出自不明の芸術品等が持ち込まれる事も多い。なにしろ貴族の大集団がありえないほど集中して存在しているのが魔法学院である。高価な物品を売るのも容易い。

 更に言えば、意外な事に、偽物や贋作、粗悪品が出回る事は殆どありえない。

 貴族をだますことは魔法技術という技能の存在により非常に難しいし、ありとあらゆる意味で治外法権であるこの土地で貴族をだますような行為は極めて容易く町「じみた」もの自体の滅亡へと繋がってしまうので、かなり強力な相互監視と自警圧力が自然と成り立っている。

 非常に皮肉な事ではあるが「魔法学院が所有する治外法権の土地」はそうであるが故に治安が安定して、しかも安心して物が買える場を提供する事になった。

 

 つまるところ、内部の人間であっても秘薬の材料を手に入れたり、服飾品の購入やその他の嗜好品を購入するのに非常に都合がいいのである。魔法学院の使用人達にとっても大変に都合が良い。魔法を持たず権利も持たない彼らは、魔法学院内で手に入れる事が出来ない品を購入するには、普通に乗合馬車で移動して往復で2日かかるトリスタニアに出る必要があるのだ。移動だけでまるまる2日かかってしまうので恐ろしく手間のかかる状況である。それがちょっと足を延ばせば手に入る場所にある。

 しかも経済活動とは需要に対して供給が発生するから、使用人達の要求が、そのまま供給者達の努力によって用意される。これほど都合の良い事は無い。

 また、生活するにおいて絶対な必要性を持たないのにもかかわらず生活の深いところに根ざしている嗜好品というのは租税の狙い撃ちを受けやすく、よってかなりの可能性で「通常の土地」における価格が高騰しているものだが、ここでは殆どの物が絶対的に外部よりも安く手に入った。

 更に、外部の人間がこの場所を俯瞰した場合に得られる結論として、永住するには危険ではあるが、ここ以外の場所で手に入らない何かを手に入れようとする場合は非常に利用価値が高い土地。という事になる。

 外部の人間が外部で普通に手に入る物をここで安価に仕入れて、外部に持ち出した上でそれが明るみに出ると大変にややこしい事態に陥るので、この場所を頻繁に利用する者はそういったリスクは犯さないのが普通である。それが、この自由都市の様相を呈してきた箱庭の存在を外部が許している理由でもある。

 この町「じみた」ものがたいていにおいて外部からの流入と内部流通と内部消費でそれなりに回っているのはやはり、存在の根底からして魔法学院の存在が大きいのである。

 こうして魔法学院がこの土地に住む不法居留民の存在を積極的に黙認している現状では、貴族間の複雑なパワーバランスもあって、周辺の貴族たちも苦々しくは思っても文句の言えない状態である。そのために、平民のみならず、実のところ各地の貴族や貴族の代理人の流入すらかなり活発におきているのが現状である。

 

 

 

 ルイズがここにきて危惧したのは、活発な交流、人の出入りがありえる結果として、魔法学院周辺に無案内で紛れ込む平民や貴族の使い、或いは貴族そのものが立ち入る可能性を排除出来ないと言う事実である。

 

 

 

 ルイズは「召喚」された、少女の姿を思い浮かべる。あの時あの瞬間。あの少女には、貴族の外見的な尚且つ、絶対的な証となるマントや杖は見当たらなかった。

 

 杖に関していえば、実際に杖である必要はなく、例えばナイフやレイピア、或いは箒や棍を「杖」にしている者も多くはないが、それなりに少なくもないので、大多数の平民が思っているほどには貴族を見分ける方法になり得なかったりする。だが、マントに関しては別である。

 何らかの後暗い理由や、何らかの任務でも受けない限り、公の場において貴族がマントをしないというのは、裸で街路を駆け抜けるほどに恥ずかしい行為であるとされている。

 平民に対して理解を求めるのは大変難しい概念であるが、それがハルケギニアの貴族にある常識であるから仕方がない。

 よって、ルイズの知る常識から理解する限りは、あの少女が貴族である可能性は限りなく低い。

 

 

 何らかの後暗い理由をもっていた場合……そもそもあの場にいること自体がありえない。

 何しろ魔法学院である。出自の怪しい人間がうろつけば、それだけで問答無用な事態になりかねない。魔法学院の人間が不法居留民の住まう場所に出向くことは珍しいことではないが、その逆はそもそも考えられない。

 魔法学院から見渡せる範囲内に関係者以外の人が歩いているだけでもずんばらりんとなってもおかしくはないのだ。実際に魔法学院に住んでいると忘れがちになることだが、魔法学院、と、言うよりも魔法学院に住まう人間の価値とはそれほどまでに高い。その場所に無関係な人間が故意に近寄るのは余りにもリスクが大きい。

 あの時、ルイズたちは、魔法学院の校舎や諸設備から随分と遠くはなれた場所で、召喚を行っていた。

 召喚に伴って発生しかねないリスクから、学院の関係者や生徒を引き離す当然の処置ではあったが、校舎が見えないほど遠くではなかったし、どう考えても見落とすことの出来そうに無い生徒のかしましい集団である。好んで近づくような馬鹿はいないだろうと結論付ける。

 

 

 貴族の遣わせる使者等と言うのはもっとありえない。何らかの品を秘密裏に買い求めるために使わされた使者が、何の関係もない魔法学院に近寄ることは考えられないし、屋外学習を行っている生徒の集団に近づくことはますますありえない。

 彼らが間違って、道に迷って、学院に近づいてしまう。それこそそんな馬鹿な、と言うところだ。重要任務を持った人間が無能。それを遣わせる貴族も含めて極めつけの大馬鹿、である。

 少し昔ならいざ知らずレオ・アフリカヌス大陸開発運動の失敗を経て、無能な貴族が大抵淘汰されつくした後の現在である。レオ・アフリカヌス大陸開発運動の失敗は様々な負の側面を抱えてハルケギニアを苦しめるが、糞の役にも立たない貴族どもを纏めて本当の糞のように地面に叩きつけたという点では大きな利益があった。ルイズはそう評価している。

 そこから魔法学院に弾いて捨てられる彼らの子弟はともかく、彼ら自身に対するルイズの評価は悪いものではない。そこから導き出される結論からすると、そういった人間があそこにいたという可能性は限りなくゼロであろう。

 

 

 魔法学院自体に対する遣いであるという可能性も考えてみる。

 直前直後ではそれを排除しきれないが、コレだけの時間が過ぎてしまうとその想定は難しくなる。

 遣いの者が行方不明になれば遣いを出した側が何らかの行動を起こすであろうし、少なくとも確認ぐらいは取るであろうから、現状はすでに限りなく低い可能性に過ぎない。

 だいたい徒歩である時点でありえない。最低限馬を使うし、急がないのならメール・ボーイでよい。急ぐなら自在伝書鳩である。秘密があるなら貴族が直接乗り合い飛竜や自前の竜籠を使うだろう。

 

 

 魔法学院に住まう平民、つまり使用人に用事がある誰か、と言う可能性を考える。

 これまたありえない。

 場合によってはどこぞの貧乏貴族よりも余程のことに信頼も信用もある人間達である。

 そうであるがゆえに彼らは、この場所に出入りしたり情報をやり取りしたりするルールを極めて厳格に守っている。

 手紙のやり取りは、専門のメール・ボーイが特定のコースを特定の時間に移動するし、例えば家族の訃報等は、平民であっても自在伝書鳩を使うのが普通である。

 たまたま自在伝書鳩が使えなかったとしても、広大な魔法学院の所有地を徒歩で横断は馬鹿げている。最低限、ロバなり、何なりであろう。

 外部に居る恋人と会う、或いは会いに来る場合であっても、必ず申請を届けて、そして申請された日時に、学院の敷地の外周部にある面談室を使うのがルールである。無論、それらを振り切って内部で逢引が行われる可能性をゼロにすることは出来ないが、真昼間にそういう目的の人間が学院の至近に存在する可能性は殆ど無いだろう。またそれらの人間が授業中の生徒の集団に好んで近づくというのは想像する事すら難しい。

 

 

 単なる平民が誤って近づく可能性というと、これもまた疑問である。

 やはり、彼らにとって危険な魔法学院が遠くない場所にある訳であるし、同じく生徒達に近づく可能性の存在も疑問である。

 余り無い事ではあるが、休日に素行のよろしくない生徒が、一人で歩いている平民を「狩る」事があるらしい。

 ルイズ自身が見た事はないし、そのこと自体、たまたま耳にした噂程度ではあったが、去年1年間の学院での生活を振り返るとそういった事をやらかしかねない素行を見せた人間が居る事までは否定できない。その噂やあるいは推測がどれほど「平民」の間に広まっているかと言う疑問もあるが、その立場上、つねに耳を研ぎ澄ませているであろう「不法居留民」が自分達の不利益になる可能性を無碍にする事もまた考えられない。

 よって、不法居留民が好んで魔法学園の生徒に接近する可能性もない。

 

 

 それらすべての可能性を斜め上に横切ってありうる可能性としては、余程の阿呆で間抜け、となるが……その時には、それこそ「処分」してしまえばいいだろう……。

 

 

 

 否定する。あれは人間かもしれない。サモン・サーヴァントで人間が呼び出された記録なんて知らない。ルイズには酷く利用しがたい環境ではあったが、トリステイン王立図書館よりも充実しているとされる魔法学院図書館にあるサモン・サーヴァント関連と思われる本は出来うる限り読み込んだ。少なくともその中にはそんな記述は匂わせるような物すらなかったし、そもそもコルベール先生も否定した。

 しかし、あれは間違いなく私が召喚した。人間を召喚したというありえない結果。だが、絶対。絶対間違いない。

 

 押さえつけようのない緊張で身体が震える。

 

 絶対間違いない。あれは、あの少女は、私が、召喚した!

 

 言い聞かせる。

 

 扉に手をかけて力を入れる。そして、動けなくなってしまう。

 

 

 ルイズは努力家であり、頭脳明晰であり、勉強家であり、つまり頭が良かった。

 頭が良いだけにとどまらない。

 学業の成績が良いと言うだけにとどまらず、実は、創意工夫や応用、或いは空気を読む能力、そして想像力―――思春期にありがちな妄想という意味ではなく、自分や周囲の行動や行為の結果を見通すと言う意味での想像力も溢れるほど持っていた。

 望んで得た力ではない。そうならざるを得なかった。

 自身が望んで得たわけではない魔法の特性上、その望まざる能力を得てしまっていた。

 それがある可能性をルイズに想像させる。

 

 

 

 ルイズは魔法を行使すると、尋常ならざる結果を導く事が多かった。否、すべての結果が一つに収斂した。例外は無い。否、それもどうかは今となってはわからない。少なくともあの瞬間以外の結果はすべてが同一であったし、あの瞬間の直前までの結果もまた、同じであった。

 そしてあの瞬間の直後もまた、同一の結果であった。

 ルイズはあの場所で、何度も何度も同じ結果を導いてしまっていた。それによる周囲の被害は酷い物だった。そしてそれによって周囲の状況に与えた変化もまた、酷い物だった。

 あれほどの爆音とあれほどの煙を噴き上げて、そしてそれを何度も繰り返した結果である。

 まったく視界が通らない状態であった。

 ルイズ自身のみならず、あそこに居たクラスメイトすべてが覆いつくされる程の自身の魔法がもたらした結果。

 

 客観的に見てどうであろう?

 

 草原に湧き上がる轟音。立ち上る煙。最初からそれを視界に捉えていたならともかく、いや、轟音に気がついた者が居た場合、それを何であるか確認しようとした者が居た場合。

 普通は逃げるだろう……。ルイズの少ない人生経験からすればそういう推測がなる。ルイズならば少なくとも「近づく」選択肢は無い。自身の理解が及ばない現象に望んで近づく。そんなことはルイズの行動における選択肢には存在しない。

 しかし、ルイズが読んだ書籍の中にはそういった状況が現出した場合に異なる行動を選択する者が少なからず存在する事が示されていた。

 必ずしも納得のいく説明がされているとは言い難いが、訳のわからない状況の現出に対して、それを近くに寄って確認しようとする者が多いと、彼女に理解させた。そういった者達は大抵物語における最初の犠牲者になっていたが、それとは逆に、物語の主人公となって最後まで生き残る場合も少なくなかった。

 つまり、ルイズの想像もつかない程に優秀な頭脳を持った人間があえてそういう行動を取るのかもしれないという予想もあるのだ。

 単なる空想の物語ではある。しかし、空想の物語で語られる行動や行為が現実の世界で驚く程に繰り返し現出する様をルイズは幾度となく見てきた。現実は物語より奇なり、という表現がある。これは翻って言えば、人の生活の中でおきる事件、事故、或いは人の行動選択という物の大半が物語の中で表現されているという事実に他ならない。

 今回の事態は、そうやって幾度となく頻繁に現実に発生する類の現象では無いとはいえ、物語の中でそういう行為をあえて望んで行う人間が居ると言う事を表現している以上は、現実世界においてもまた、あの場所で発生した異常事態に望んで足を踏み込む誰かが居る可能性が実際にあるのだと示していると思える。

 

 そう、たまたまそこにいた平民。その可能性がゼロにならないのだ。

 ほかならぬ自分の行った行為によって。

 

 

 

 サモン・サーヴァントと言う魔法の行使に自信が持てないというのも大いなるプレッシャーであった。

 

 何しろ失敗失敗また失敗の連続であった。あの()()()()()()()()をして、唾を飛ばして叫ぶほどの繰り返しを失敗と言う結果にした。

 あの少女の存在で、私は魔法を成功したと信じた。

 そう。

 信じた。

 信じただけだった。

 

 それによって私は気が大きくなっていた。

 すこし羽目をはずしていた。

 常にあった緊張を解いてしまっていた。

 常に持った慎重さを欠いていた。

 

 実は、あの「成功したかもしれない召喚の結果」の後に起きた意味のわからないじゃれあいも、悪い気はしなかった。ちょっと楽しかった。

 早く、コントラクト・サーヴァントをしなければという思いはあったが、私が魔法を成功させたのだという「事実」が焦りを吹き飛ばしていた。

 それとともに、過去の自分の生み出していた結果の記憶も吹き飛ばしてしまっていた。

 あの少女に向かって撃ち出した……撃ち出そうとした「エア・ハンマー」は絶対とまでは言わないが、相当な自信があった。事実、あの日あの時までとは異なる何かが自身の身体を駆け抜けた気がした。

 

 気がしただけだった。

 

 当てる気はなかった。足元をちょっと弾けさせて、あの少女を驚かすだけのつもりだった。それにより自身の力を見せ付けると言う打算もあった。そうなればいいなと思った。そうなると思った。そうなって当然と思った。

 

 そうならなかった。

 

 

 結果に戦慄した。魔法を失敗したと言う結果にも驚いたが、その後に突きつけられた結果に戦慄した。

 

 少女は倒れていた。

 

 恐ろしい経験だった。そのままショックで命を失うかと思った。

 

 恐ろしい結果が眼前に突きつけられていた。

 

 そして、それは、その失敗は。その失敗したという現実は。

 

 

 

 直前の「成功」と信じた行為の結果に対する深刻な疑問となった。

 

 

 

 その後は良く覚えていない。

 

 

 気がついたら制服のまま、自室のベットの上で呆けていた。

 

 どうやってそこまで移動したか、何も記憶がない。部屋で気がついたのは、何かの残り香が自分の鼻をくすぐると言う事実だけだった。どこかで、それも頻繁に感じたことがある香りだと思ったが、召喚の儀の場で起きた事が余りにも衝撃的で、どうでも良くなってしまった。

 

 時間がたてば何とかなるかとも思った。

 気のせいだった。

 あの瞬間から3日が過ぎた。

 

 時間が経てば経つほど悪い予感が湧き上がってくる。

 或いは少女がそのまま死んでしまえばいいのにとも考えてしまった。

 そんなことを考えた自分の浅ましさに反吐が出た。

 自分はそんなところまで堕ちた訳では無いと、自室から身を投げ出すほどの衝動に駆られた。それをしなかったのは、本当の結末がまだ示されていなかったし、それを見届けなくてはならなかったからに過ぎない。

 

 確かに、あの少女が死んでしまえば、あの少女が実際に召喚された者であろうがそうでなかろうが、召喚自体はやり直すことが出来るであろう。だが、自分のエゴが理由で何の罪もない一人の人間を犠牲にしてしまえるかもしれないという思考の澱みは絶対に受け入れがたかった。

 平民であるとかどうとかは関係ない。何かを望んで犠牲にしてその先に立つ事を善しとする考えはルイズの知っている、ルイズの信じている貴族像には存在してはならないモノだった。

 刹那の妄想とはいえ、だからこそ、絶対にそれを認めることは出来なかった。

 

 

 

 頭の良すぎるルイズは、思考の迷路に迷ってしまった。考えすぎた上に、余りにも滑稽な内容の想像に思考を迷い込ませてしまっていた。

 考え過ぎとしかいえない妄想の爆発で固まってしまったルイズに、コルベールが追いつく。

 表情を強張らせている事が傍目からもはっきりと見て取れる彼女の姿に彼は躊躇したが、意を決して声をかけようとして。

 

「ええぇっと。ミス・ヴァリエール様。何をされているのでしょうか?」

 

 扉が開いた。その中から、困惑した表情の、白衣を着た女性が声を上げていた。

 なんともしまらない結果に、コルベールは薄い頭を掻いた。

 

 

 

 看護婦に先導され、魔法で照らし出された病室を進み、少女の居る場所に近づくにつれてルイズの動悸が高まってくる。

 

 これは何?

 

 期待?

 不安?

 恐れ?

 それとも……罪悪感?

 

 空っぽのベットが置かれた空間を6箇所ほど抜けて、魔法の光に加えて日の光が差し込むことで明るく輝く突き当りを目指す。目的地が近づくにつれ、ルイズは身体がどうしようにも抑えようもなく震えることを自覚した。

 

 なんて言えばいいの?

 どうすればいいの?

 相手はどう思うの?

 相手はどう反応するの?

 

 召喚の儀、その最後の瞬間に自身が起こした結末を思い出して、大きく身体を震わせる。

 

 あの少女は、わたしに、どういう感情を持つの?

 

 恐ろしい。怖い。背を向けたい。逃げたい。この場から走り去りたい。

 しかし、それは許されない。

 この出会いにいかなる結末があろうとも、それはすべて自分の行動の結果である筈だ。

 そこから逃げ出すことなど許されない。自分の犯した行動の結果に責任を持たなければならない。

 

 ルイズはルイズの信じる貴族という幻想にすがって、最後の一歩を踏み出した。

 

 

 

 開け放たれた窓から吹き込む風。

 たなびく銀髪。

 差し込む光を反射して様々に表情を変えるその銀糸。

 頭に留められた髪留めと思われる大きなアクセサリー。

 白い大きなリボンが風に揺れる。

 肩で二重になった裾がはためく。

 こちらに向けて大きく開いたスカートが、その奥にあるショーツの存在を想像させる。

 片膝を立てて、丸めたタイツを手に……。

 

 ……。

 

 紅い瞳が此方を捉える。

 ルイズの後ろからコルベールが顔を出して、少女のほうに視線を向ける。

 その脇を看護婦が窮屈そうに通り抜けて少女のほうに顔を向けて一つ頷き、そしてコルベールのほうに慌てて向き直る。

 看護婦の手にしたボードが彼の顔の前に差し込まれた。

 顔を朱に染めたコルベールがばつが悪そうに顔を背けて弁解する。

 

「……その。申し訳ない……ミス……」

 

 緊張が霧散して、崩れ落ちそうになる身体を、ベットの枠で支えながら、しかし敵わずに、ルイズは少女の方に崩れ落ちた。

 

「お……おい? 大丈夫かや? 少女よ」

 

 なんともしまらない再会になってしまったと、ひそかに涙した。

 

 

 

 

 

 

 すっかり身奇麗になったイングリッドとルイズをつれて、コルベールは医療室に移動して仕切り直しを試みる。

 コルベールがわざとらしく「コホン」と小さく咳払いをする。

 1クラス30人の生徒が入ってなお十二分の余裕がある殺風景な部屋の片隅、窓際にある質素だが趣味のいいデザインをしたアンティーク調で大き目の丸テーブル。なかなか凝った細工のテーブルクロスが大きく縁を垂らす。その周りにこれまた趣味のいい彫刻が施された椅子が並べられている。

 とはいっても、3つ並べられた椅子に座っているのは2人。コルベールは少し離れたところで、締まらない表情で鼻を掻きつつ立っている。

 腰をかけるのはイングリッドとルイズ。看護婦は居ない。広い室内には3人の姿だけがある。

 廊下から静かだが、やや耳障りな音を響かせてワゴンが此方に近づく気配がする。

 それが部屋の入り口で止まると、控えめな強さのノックが二度、三度とならされる。

 

「どうぞ」

 

 コルベールがテーブルのほうに視線を向けたまま声を上げる。

 

「失礼します」

 

 素朴な雰囲気を漂わせる、黒髪の少女が大きな胸を揺らせながら、扉を開けて室内に小さく頭を下げる。金髪の少女がワゴンを押してその脇を抜け、それを見届けてからブルネットの美しいその少女が、扉を閉める。

 その二人のメイドは、ゆっくりとテーブルに近づくと、ワゴンを寄せて、テーブルの前で頭を下げた。

 

「ご用意させていただきます」

 

 ブルネットを小さく揺らせながら手馴れた様子で準備を始める。

 銀細工が施されたと思われる金属性の瀟洒なデザインのスケルトン・ケーキスタンドが中央に置かれると、ワゴンの上でドームカバーがはずされて、ガレット・ブルトンヌが乗せられたプレートが顔をのぞかせる。その途端に、香ばしい香りが2人を包む。それはプレートごと1番下にセットされた。最初から16等分に切れ目が入れられている。

 次のドームカバーの中には小山になった様々な形や大きさのクッキーがセンス良く盛り付けられている。ジャムとクロテッドクリームが横に盛り付けられている。プレートの縁に差し込まれた様々な種類の果物が良いアクセントになっている。

 中段にセットされる。

 最後のドームカバーの中にはほのかに湯気を上げる、様々な種類のパンが並べられている。

 小さく切り添えらられたバゲット、フルート、複雑な造形を見せる、結び目細工が美しいフィセル。ブール。シャンピニョン。クロワッサン。

 最上段にセットされる。

 

 ケーキスタンドの用意の横で、それ以外の道具のセットも行われる。

 ナプキンが手早く敷かれ、フォーク、スプーン、ナイフが置かれる。大きさも形状もさまざまで、細工も品質も美しい。

 それぞれに、都合10種類は置かれた。表情を変えないままイングリッドが呆れる。ただし視線はルイズを向いたままである。

 

 ルイズ、イングリッド、空いている椅子の前に、プレーン・プレートが置かれ、その半分ぐらいのサイズのプレートが10枚くらい、それぞれの椅子から手の届く範囲に積まれる。ルイズと空き椅子の前にはそれぞれ右手側に。イングリッドの前だけ両方に置かれる。

 それに気がついて視線を這わすと、2つの椅子の前では、何らかの法則にしたがって、スプーン、フォーク、ナイフが別々に置かれているが、イングリッドの前だけ、一応の法則性を持ったそれらが両手側に肩身狭そうに並べられている。

 

 畳み込まれた何枚ものナプキン。水を張った大きなボウル。中央で小さな炎が踊るガラス細工のティーワーマーがセットされ、様々な模様が施されたガラス細工のティー・ポットが上に乗せられる。

 最後に豪華な細工の施された、だがかなり使い込まれたことが一目見て分かるアクアマニールが数枚のタオルと共にテーブルの中央付近に椅子の数と同じだけ置かれる。

 兎、ドラゴン、一角獣を模したそれらは、それぞれの顔がそれぞれの椅子に対面するように音も無く置かれた。

 口で言うには容易いが、水が入ってかなりの重さがあるモノである。それを腕を伸ばした不自然な姿勢でテーブルの中央に置いたのである。アクアマニール自体も中に水を入れる道具であるという特性から結構重い道具である。それを音も無く置いたというのだから、このメイドたちは見た目ほど華奢という訳では無いのだろうとイングリッドは想像してしまう。

 

 五分ほどの時間をかけてそれらの用意を終えると、2人のメイドはテーブルから離れて小さく頭を下げる。

 

「お付になれなくて申し訳ありません。後刻お下げしますので、御用が済みましたらそのままにお帰りください」

 

 音もなくワゴンを押して扉に近づくと、入ってきたときとは逆の手順を踏んで2人は部屋を出て行った。

 ワゴンの音が遠ざかる。

 足音はまったく聞こえない。

 

 

 イングリッドは呆れた。遠慮なく呆れた。それはもう途轍もなく呆れた。

 

 

 急に表情を崩したイングリッドにルイズとコルベールが緊張する。

 

 イングリッドは行儀悪く足を組むと、腹の前で腕を交差させる。

 

「で、どうするのじゃ?」

 

 ルイズとコルベールが顔を見合わせる。

 

「えっと」

 

 おずおずと口を開くルイズをイングリッド右手で制する。

 

「!」

 

 僅かに眉を上げて、イングリッドがルイズに対する視線を強める。

 

「名前じゃ」

 

 ルイズが首を傾げる。

 

「我主の名前を、我は知らん」

 

 少しく硬直した後、ため息を吐いてルイズは口を開いた。

 

「ルイズ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと申します」

 

 緊張ゆえか、知らず知らずのうちにルイズは敬語で応える。

 イングリッドはそれに頷いて応えた後、小さく首を振って、コルベールに視線を向ける。

 彼は小さく頷いた。

 

「コルベールと申します。ミス・ヴァリエールの教師をしております」

 

「ふむ」

 

 イングリッドもコルベールに視線を合わせる。

 コルベールは、何かを問いたげなその視線に僅かに逡巡すると、合点が言ったように小さく頷いた。

 

「唯の、コルベールと」

 

 「なるほど」とイングリッドが頷く。

 次いでルイズに視線をやる。

 

「ルイズ、と、呼べばいいのかや」

 

 何故かぐっと言葉を詰まらせたルイズだが、すぐに小さく頷いた。

 それを確認してイングリッドは小さく頷き返して口を開く。

 

「我はイングリッドという。ただの、イングリッドじゃ」

 

 ルイズとコルベールが僅かに頷いた。

 その仕草に畳み掛けるようにして彼女は口を開く。

 

「で、」

 

 イングリッドがテーブルの上を見渡す。

 

「これは食っていいのか」

 

 その言葉と同時に遠慮のかけらも感じさせない、優雅さとは程遠い音が、イングリッドの腹から鳴り響いた。

 コルベールはずっこけそうになった。

 

 

 

 もう、いろいろと台無しだとルイズは思った。

 いろいろと緊張感をはらんだ再会だと思ったが、のっけから滅茶苦茶になった。コルベールのタイミングが悪かったとも言い切れない。扉の前で、悩んで立ち止まったルイズの行動がなければ、イングリッドのあのような姿は回避できた筈だと思う。

 

 ルイズは対面する少女の姿に眉をひそめて、眉間にしわを寄せる。イングリッドはそれに気がついたがかまわずパンにがぶりつく。

 

「うむ……うむ。これはうまいの。ここまでのパンはなかなかに口に出来るもんじゃないの」

 

 ルイズはその言葉に小さく驚く。

 

 「ここまでのパン」、「なかなか口に出来ない」。

 

 この言葉は、魔法学院で貴族に供されるような上等な料理を、頻繁にではないにせよ口にする事が出来る立場であることを想像させる。

 緊張感がぶり返す。ルイズはこの少女への評価があちらこちらへと揺らぐのがわかった。

 

「ふむ。このガレットもいけるのー。余り好きでは無いのじゃが、こいつならば幾らでも腹に入るわ」

 

 コルベールも驚く。

 そもそもガレット・ブルトンヌのように凝った食品はある程度以上に立場、地位がなければお眼にすることも出来ない。

 パンに関しては、実は、コルベールの経験からすれば、魔法学院で口にするのと同等の味を保障できるブーランジュリーが結構な数、そこここの町に存在して、平民の食卓に上っている事を知っている。

 しかし、ガレット・ブルトンヌはない。そば粉のガレットならばともかく、かなり凝った製法を持つガレット・ブルトンヌが庶民の口に入ることは殆どない。

 結婚式やそれに準じた特別なときでもない限りはそういった料理が平民の眼に入ることはありえない。

 

「ハーブの香りは余り好めないんじゃが、このフレーバーはなかなか良いの。これなら紅茶も悪くない」

 

 ルイズもコルベールも揃って驚く。

 現在のトリステインではアルビオンから輸入される紅茶が主であって、それらが平民の口に供される事は無い。大体、今、貴族の間に出回っている、現状、最もはやっている類の紅茶自体がレオ・アフリカヌス大陸開発運動終結以後に、今は亡き先代トリステイン王によってもたらされた物であるから、貴族の間にも十分に出回っているとは言いがたい。

 しかも彼女の言い回しは、記憶の中だけとはいえ、何種類もの紅茶の味を比べられる程に紅茶の味を知っていると言う証左となる。

 ルイズは唸った。

 テーブルマナー等知らんと言いながら、適当な仕草でパンを食べるイングリッドの姿は、常に貴族足らんとするルイズには怒髪天をつきかねない風景であった。

 それも、世間知らず。否、貴族社会を知らない平民だからしょうがないと思えば諦めることが出来た。

 しかしこのイングリッドと言う少女は、行儀作法はともかくも! 言葉の端々に貴族社会、或いはそれに近しい世界を知りうる立場にあることを証明する内容が含まれている。

 

 なんなのよ、こいつは。

 

 ルイズは知らず知らずのうちに胡散臭そうな視線をイングリッドに向けてしまう。

 その視線の先でイングリッドが湯気を立てる紅茶を一気に飲み込んで、かなりの勢いでソーサーにカップを戻す。

 

「よいお手前じゃった」

 

 うんうんと首を縦に振る。

 

 コルベールは混乱する。

 乱暴にパンを口にするイングリッドはなるほど、マナーのかけらもないところにあるように見えた。

 しかし、勢いよく下げられたカップはソーサーに音もなく置かれた。食器の音を立てないというのはマナーである上に、貴族の格を知る手段ともなりえる。

 

 食事中に音を立てない。言うは易いが実行は果てしなく困難だ。非常に多くの「実戦」を経てようやくたどり着ける極み。それを行える人間はイコール、格の高い貴族。そういうマナーを徹底的に教え込んで実行させ得る貴族。という評価になる。交流の無かった貴族が初めての顔合わせでその場を食事にするのは、そうやって相手の格を諮る材料が得やすいという事実があるのだ。

 彼女は勢いよくカップを振り下ろした。それ自体は行儀が悪い行為、である。

 しかしそれはソーサーの上に音も無く吸い込まれた。

 行儀が悪い行為をしている彼女が擬態なのか、あるいは偶然音も無くカップがソーサーの上におさまったのか。

 悩むコルベールの前で、彼女は澱み無く次の行動に移った。

 空っぽになったポットを迷いなくプレートの上に水を含んで置かれた小さな厚手のナプキンの上に移すと、他の食器から離して置かれていたくすんだ色の大きなスプーンの腹で、ティーワーマーにゆれる炎を押し消す。

 この少女はテーブルマナーを心得ている!!

 だらしない格好で、だらしない仕草を隠そうともしない彼女だが、その内実は見た目に惑わされる訳にはいかず、なかなかに手強い事に改めて気がつかされる。

 

「で、どうするんじゃ」

 

 鋭い視線がルイズに向けられる。

 

 優雅な手つきでガレットを口にして、ナプキンに手を伸ばそうとしていたルイズは目を見開く。

 

 お行儀が悪い。

 

 人がものを食べている事を気にする事なく声をかけるのは、酷いマナー違反である。

 眉をぴくぴくと痙攣させながら、ルイズは口の中にある物を飲み込む。

 

 ……なんなのよ、こいつは!

 

 コルベールも悩み、眉間にしわを寄せる。

 どういう意図があって、そのような行為に及んだか想像できない。

 

「あのね、あなた……」

 

 ふんっ、と鼻息であしらわれる。

 

「イングリッド」

 

「?」

 

「イングリッドじゃ」

 

 ルイズはわなわなと肩を震わせる。

 

「イングリッド……あなたねぇ……」

 

 イングリッドがニヤリと笑みを浮かべる。

 

「怖い顔をしなさるな。我主よ。主には笑顔が一番じゃ。そのように眉間にしわを寄せるでない」

 

 イングリッドがそう言いながら、自分の眉間を指差して楽しそうに笑う。

 

「……」

 

 ぎりぎりと音が出そうなほどにルイズの口が歪む。

 「ふむ」と一つ、小さく首を振って、イングリッドはコルベールに顔を向けた。

 

「説明してくれるんじゃろな」

 

 

 

 イングリッドは、まあ、テーブルマナーを知らない訳では無かった。

 しかし、この世界のテーブルマナー等知らないと言う点では、間違いは無かった。

 イングリッドはどうしようもなくおなかが空いていたから、目の前で良い香りを立ち上らせる食い物の山に遠慮をする理由は無かった。

 場合によってはこの場における常識を揺るがすような酷い粗相を仕出かす可能性すらある、自身の知るテーブルマナーを披露する必要性は感じ無かった。

 どうせ、行儀が悪い姿を見せる可能性があるのであれば、端から失礼の限りを尽くしてしまえという開き直りもあった。

 少女(自称)という形から言えば、立ち振る舞いに関して一家言あったが、空腹の攻めはそれを横に退けてしまったというのもある。よって、適当にしたいように食べ散らかしたつもりであったが、無意識のうちに知る限りのティータイムの常識が、彼女の行動を制限してしまっていた。そして、イングリッド自身はそれに気がついていない。

 

 そうしてイングリッド自身が十分に満足をしてしまったので、ルイズに声をかけただけである。

 十分に無作法な方法で。

 妙な緊張感に包まれている場を「和ませる」つもりの行為であったが、ルイズにとってはそれどころではない様であると気がつく。

 

 んむ。ルイズは我の想像以上にお上品であらせられるようじゃの。

 

 ややこしい事になりそうな気配を悟り、イングリッドはコルベールに眼を向ける。

 

 

 

「召喚……。召喚のう?」

 

 大体にして予想できる範囲内の説明を受けたイングリッドは、首を捻りながらルイズに向き直る。

 焼け糞気味にクッキーをほうばるルイズが片眉を上げて応える。

 

「なによ」

 

 難しい顔をしながら、頭を撫でて、顎に手をやり、次いで天井に視線を移す。

 せわしなく視線を移すイングリッドをルイズの目線が追う。

 

「そんなことだろうとは思っておった。納得じゃ」

 

 その言葉でルイズは密かに心のわだかまりが一つ、大きな音を立てて砕けるのがわかった。

 やにわに小さな震えを覚えて、それをどうにかして抑えようとするルイズに気が付かぬまま、イングリッドが言葉を続ける。

 

「あそこに来る時に、な」

 

 イングリッドは、ぐるっと視線をコルベールに移してその先を口にする。

 

「鏡を潜ったんじゃ」

 

 コルベールが小さく唸る。

 

「うむ。そうとしかいえないものじゃったな」

 

 顎を大きく撫で付けつつけながら、何かを思い出そうとするように、イングリッドが言葉を紡ぐ。

 

「あれは……かなり、不思議なものじゃったな。アレに飛び込んで……引き込まれて、気が付くと、今まで居たところとはまったく別の風景があったのじゃ」

 

 彼女は窓の外を見つめる。コルベールも釣られてそちらに視線を送る。

 寮塔と、その向こうにある学院を囲う城壁が眼に入る。

 しかし、コルベールはイングリッドの視線がその先にある召喚の儀が行われた草原に向いているのだと思った。

 

「召喚。なるほどの。納得じゃ」

 

 イングリッドはルイズに向き直って言った。

 

「我はルイズに召喚された」

 

「……!」

 

 ルイズは胸の中で膨れ上がる感情を必死で押さえつける。

 イングリッドは小さく頷いて、ルイズに断言するような口調で言った。

 

「間違いない」

 

 口の中にあったものがいつの間にか咽喉を通り、すべて腹へと消えたことに気が付いた。

 ルイズは酷い渇きを覚えて慌てて紅茶を口に含む。

 

 心を震わせる感情を押さえつけて、顔面に現れそうになるそれをごまかすように、口いっぱいにクッキーを放り込む。

 

 しかしイングリッドは首を傾げた。顎を撫で付けるながら疑問を口にする。

 

「人間が召喚されることは、普通にあることなのかや?」

 

 ルイズの視線がピクリとゆれる。

 イングリッドにはそれだけで答えが得られた。

 ルイズはわなわなと震え始めた。

 クッキーのかけらを飛び散らせながらルイズは大声を上げる。

 

「わっ私だって、わたしだってね!」

 

 クッキーが飛び散る事実に気がついたルイズは慌てて口を閉じるともごもごと口を動かして、次いで咽喉を鳴らし、乱暴に紅茶を口に含んで飲み下して、イングリッドに視線を戻した。

 イングリッドは小さく笑った。

 

 途方もないお嬢様じゃの。

 

 何度か肩を上下させて、紅潮した顔色を戻しつつ、幾分か落ち着いた声で、ルイズはしゃべり始めた。

 

「私だって、人間じゃなくて……」

 

 難しい表情を浮かべたイングリッドに気がついたルイズは、眼を閉じて、歯を食いしばり、表情を落ち着かせた。

 

「ごめんなさい……。あなたが怒るのも」

 

「イングリッドじゃ」

 

「……」

 

 話の腰を折るその言葉に、ぴくぴくと眼を痙攣させて、ハアと息を吐くルイズ。

 

「イングリッドも迷惑よね。急に呼び出されて」

 

 イングリッドはルイズのその愁傷な態度を見て「ふむ」と頷く。

 推移を見守っていたコルベールが慌てて割り込む。

 

「申し訳ありません。ミス・イングリッド」

 

「イングリッドじゃ」

 

「……」

 

 イングリッドは眉間にしわを寄せたルイズに睨まれる。

 困った表情を一瞬見せたコルベールだったが、健気にも言い直した。

 

「申し訳ありません。イングリッド」

 

 イングリッドは小さく頷き返す。

 

「人間が召喚される事態等、私の知る限りにおいてはありませんでした。無論、私自身がすべてを知っている訳もありませんが、記録に残っていない以上は、もしかしたらあまりよくはない事例として、つまりは事故として隠された可能性はあります」

 

 その言葉に伺うような視線を送るルイズ。

 それに気がついたコルベールであったがかまわず言葉を続ける。

 

「あなたも、不満はおありでしょう。しかし、召喚の儀でミス・ヴァリエールに()()()のも事実。この場で確約は出来ないのですが、かならず、あなたの生活していた場所にあなたを返す方法を探して見せます。ですから、どうか」

 

 コルベールが視線をルイズに移し、幾分か厳しい表情を作ってイングリッドに向き直る。

 ルイズは悲痛な表情を崩せずにいる。

 イングリッドは沈黙するままだ。

 イングリッドは内心ではコルベールに感心している。この人間はこの期に及んでどうにかルイズの心の重荷を解こうと、あるいは重荷を背負わせぬようにと、四苦八苦していることが理解できる。

 そしてコルベールの思考が、おそらくはコルベール自身のあずかり知らぬところで無意識の内に歪んでいることも理解した。

 コルベールの言いようは、細やかに配慮しているようでありながら、結局のところイングリッドの立場を一切考慮していない。どこかしら、こちらを見下してそれが扱く当然であるという常識が見え隠れする。

 それがこの世界のありように関わる部分にあるのだろうと推測した。

 

「どうか、ミス・ヴァリエールの使()()()()()()()()()()()()()いただけないでしょうか。お願いです。ミス。ミス・ヴァリエールの力になっていただきたい!」

 

 眼を閉じてコルベールは身体を震わせ、なおも言葉を続ける。

 

「……あなたを元の生活から引き剥がして、これが、虫の良い願い事ではあると理解しています。正直、あなたを元の場所に戻す算段があるとも言いがたい。しかし、ここは、伏して私の願いを……!」

 

 そのまま絶句してしまう。

 イングリッドはそのコルベールの姿に首を捻る。

 

 ほう。こやつはなかなかに出来た人間じゃの。

 しかし……こやつの言い分は、私がこことは別の……少なくとも遠く離れた、今までに接触のない場所からの来訪者であると結論しているようにしか聞こえんな。

 

 強い視線でイングリッドを見つめるコルベールにイングリッドも視線を移す。

 

「コルベールよ」

 

「は……はいっ」

 

 緊張で、汗を流すコルベール。それを拭う事もしないでいる。

 イングリッドは右手で自分自身を指し示して、笑う。

 

「イングリッドじゃ」

 

 コルベールが呆ける。震えが収まった身体の上で首を小さく捻り、次いで刹那のときを経て小さく顔を紅潮させた。

 その姿に、イングリッドはまたも笑う。

 呆れたようにルイズが嘆息した。

 

「あなた……イングリッド。あなたねぇ……」

 

 イングリッドはついに声をあげて笑い出した。

 

「すまぬすまぬ、コルベールよ。冗談じゃ」

 

 楽しそうな笑い声がしばし、部屋を駆け抜ける。

 

「んふ。からかいがいある二人じゃ」

 

 頬をひくつかせて、腰を上げかけたルイズを右手で制してイングリッドが視線をルイズに移す。

 

「よいぞ」

 

「えっ?」

 

「!」

 

 ルイズは一瞬、言葉の意味が判らなかった。

 混乱した表情でイングリッド、ついでコルベールに視線を彷徨わせる。

 

「わまわぬ、と、言っておる」

 

 イングリッドは言い直して、頷いた。

 

「しかし……いえ。ありがとうございます……!」

 

 コルベールが大きな仕草で頭を下げた。

 ルイズが眼を見開く。小さなかすれた声で問いかけた。

 

「本当に……いいの」

 

「よい」

 

 イングリッドは大きく頷いた。

 その仕草にルイズの顔に影が落ちる。

 イングリッドは首を捻った。

 

「なんじゃ?」

 

 いくらかの躊躇の後に、ルイズは顔を上げた。

 

「私……あなたに、ひどいことをしたのよ……」

 

「?」

 

 先ほどとは反対方向に首を傾げるイングリッド。

 

「あなたを殺すところだった……」

 

「!」

 

「あなたを殺すところだったのよ!!」

 

 慌てて遮ろうとするコルベールを振り切ってルイズは大きな声を上げた。叫ぶような声だった。

 ルイズの眼に大粒の涙が浮かび、堪える間もなく頬を伝って床に落ちた。

 

「いつか、あなたを殺して……うううん。傷つけてしまうかもしれない」

 

 いやいやをするように首を振るルイズ。

 蒼白な表情を浮かべるコルベール。

 無表情でルイズを見つめるイングリッド。

 僅かに身じろぎして、眼を何度か瞬くと一転、花がほころぶよう笑顔をルイズに向けた。

 

「ルイズよ」

 

「……何?」

 

 大声で泣き出しそうなのを堪えるように口を振るわせるルイズにイングリッドは顔を近づける。

 

「イングリッドじゃ」

 

 さっと眼を伏せて歯を食いしばり、そして、肩を震わせるルイズ。

 ぐっとこわばった口を結んで、キッと顔を上げ、大きく口を開いて絶句し、何度かパクパクと口を開いては閉じ、少しの時間を置いて落ち着いたのか、ずいっとテーブルの上に顔を突き出した。

 

「あああああああなた、あああああああなたね、ああああああああなたねぇ! わたっ、わたしがっ! 私が!! どれほど! どれほどに! あなた……イングリッドに……!!」

 

 激しくどもって、身体を震わせるルイズに満足そうな笑みを浮かべてイングリッドは、両手で紅潮したルイズの頬を乱暴に包んだ。

 「へいぅ!」みたいな、変な悲鳴を上げてルイズがよろける。

 

「ん。許した」

 

「ほへっ?」

 

 今度こそは間違いなく声で返した。キョトンとしたルイズが椅子に身体を戻す。

 立ち上がったイングリッドはルイズの側に歩み寄り、肩に手を置こうとして一瞬、手を迷わせ、次いで、人差し指でルイズの頬を突いた。

 

「かまわんよ。あれは我も悪かった。やりすぎじゃったな。すまぬ。この通りじゃ。許してくりゃれ」

 

 イングリッドは一歩後ずさって、大きく頭を下げる。

 びっくりしたルイズも立ち上がってわたわたと両手を振る。

 

「いや、いやいや、いやいやいや! あれは! どう考えても! 私がっ!」

 

 つっかえひっかえ手を振り身体を振り回しながら弁解するルイズの両肩をつかみ、イングリッドがその動作を制止する。

 「ふっひっ!」みたいな声を上げて、ルイズがイングリッドを見つめる。イングリッドは破願した。

 

「貸し借りなしじゃ」

 

 大きく首を傾げるルイズの口にイングリッドの指が触る。

 

「いい表情じゃったぞ」

 

 一瞬にして沸騰したルイズが右手を振り回した。さっと、バックステップを取って、イングリッドは笑う。

 イングリッドに走りよろうとしたルイズの頭を左腕で抑えて、笑顔のままコルベールに視線を向ける。

 

「で、どうするのじゃ」

 

 状況の変化についていけずに呆けていたコルベールが慌てて表情を引き締める。

 イングリッドの声を反芻して、悩ましげに首を傾げる。

 

「どうするかと言われましても……」

 

 ふむ。と首を傾げて、興奮冷めやらぬルイズに視線を戻す。

 

「ルイズや」

 

「なによ!」

 

 ルイズは瞬時に沸騰する。

 イングリッドは苦笑いを浮かべると、少し腰を落として、視線の高さをルイズに合わせた。

 

「呼び出して、終わりなのかえ?」

 

 え? とルイズが驚く。

 

 「むふ」と変な声を出して、イングリッドが顔を寄せる。

 

「召喚して終わり、なんてことはないんじゃろ」

 

「……!」

 

 一転して酷くこわばった表情がルイズの顔を覆う。

 コルベールも緊張した。ブワッとばかりに汗が顔を覆う。

 

「そう……なんだけど……」

 

 酷くつらそうな表情を見せるコルベールと、酷く悩ましげに顔を苦悩で覆うルイズ。

 イングリッドはその二人の仕草にぐりぐりと音を立てそうな勢いで首を捻る。

 

 イングリッドは過去の経験や、ペーパーブック、小説、漫画、アニメ等で得た情報から、召喚の後に何らかの契約か、召喚した証を自身に与えるだろうという予測を立てていた。

 隣の部屋で目が覚めた後、派手に2度寝をかました訳だが、再度、目覚めた後に、服を着替える段になって自身の身体に目視できる範囲内で何ら変化がないのは確認済みだった。

 自身の内面に対しても変化はなかったと思う。無論、視覚出来ない部分や、知覚出来ない部分で変化がある可能性は捨て切れなかったが、ルイズとコルベールとの間で交わされた会話の結果からは、そういったイングリッド自身を縛る「契約」が行われていないであろうことは容易に想像がついた。

 だからこそ「それだけではすまない」と、話を振ったのだが……2人の示す、妙な反応にイングリッドは戸惑ってしまった。

 

「なんじゃ……どうした? 二人とも」

 

 青褪めた顔を隠すこともなくイングリッドから距離を取りつつ、ルイズは言う。

 

「あのね……また、イングリッドに怪我をさせちゃうかもしれないの」

 

「??」

 

 ぐりんぐりんとクエスチョンマークを飛ばしながらイングリッドはコルベールを見やる。

 痛ましげな、いっそ、悲壮な表情を浮かべてルイズを見ながらコルベールは答えた。

 

「コントラクト・サーヴァント、という魔法が必要なのですが……それをして、召喚の儀は終わるのですが……」

 

「?」

 

 イングリッドは僅かに顎を突き出して先を促す。それを受けてコルベールは小さく頷いた。

 

「その……彼女の魔法は……」

 

 その言葉に囁く様な声でルイズが自身の声をかぶせた。

 

「爆発しちゃうの……」

 

 イングリッドは妙な表情でルイズを見つめる。

 ルイズは泣きそう顔でイングリッドを見つめ返す。

 

「爆発しちゃうの!」

 

 ルイズが頭を振り乱しながら、叫ぶように声を張り上げる。

 

「わたしっ! 私の魔法は! みんな! 爆発しちゃうのよっ!」

 

 予想もつかなかった告白にイングリッドが「へうっ!?」と意味不明な声を上げて驚く。

 ルイズは取り乱したように早口で捲くし立てる。

 

「爆発しちゃうの! 私の魔法。爆発しちゃうの! みんな、みんなっ、爆発するのっ! みんなっ、ふっとばすの! みんなっ、ぶっこわすの!」

 

 興奮に身をよじり、頭を振り乱す。

 

「きっと、いえ、絶対にっ! 酷い事になっちゃう!!」

 

 ルイズは俄かに全力疾走したように肩を上下させてうつむく。荒い息が紡がれる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃに彩られた顔が痛ましい。

 妙な表情を張り付かせて、口を引き攣らせながらイングリッドはコルベールを見る。

 彼は、そっと眼を逸らした。

 

「……そうです。彼女の……ミス・ヴァリエールの魔法は、その、なぜか、すべての結果が……」

 

 イングリッドは顔を正面に向けたまま、少し間抜けな仕草でこくこくと首を動かして唸るような声を上げる。

 

「爆発すると……」

 

 悲痛な表情が張り付いたコルベールが顔を向ける。

 

「ええ……」

 

 身体を傾いでざっと右手をふるい、少しぎこちない動作で右腕を曲げると、手で額を揉む。

 

「なるほど……」

 

「?」

 

 コルベールは顔面に僅かな疑問を浮かべて、イングリッドの次の言葉を待つ。

 

「それで『使い魔という立場』になってくれ、か」

 

「!」

 

 コルベールは大きく身体を仰け反らした。

 確かにコルベールはそういう意図を持って、その言葉を発した。しかしコルベールも、イングリッドがそれに対して、その僅かなコルベールの心の葛藤を見透かして、ここで話をつなげられる事になるとまでは思っていなかった。

 

「んむ。使い魔になれ、ではなく、立場になれ、か」

 

 芝居じみた仕草で肩をすくめてイングリッドはルイズに向き直る。

 

「ルイズよ」

 

「何よ」

 

 イングリッドは僅かに腰を落として、ひどく近い位置でルイズと顔を付き合わせる。

 

「いいのか?」

 

「?」

 

 ルイズのぐちゃぐちゃな顔に疑問がさす。

 イングリッドはふんっと鼻を鳴らした。

 

「使い魔の『ふり』をする我でよいのか?」

 

「!」

 

 僅かな驚愕がルイズの顔に表れる。

 コルベールも驚きを隠せない。

 

「使い魔でない我をそばに置いて満足か、と問うておる」

 

「!!」

 

 うつむいてふるふると身体を震わせるルイズ。

 地の底から響くような声が漏れる。

 

「いいわけ、ないじゃない……っ!」

 

 その声に満足げに頷くイングリッド。慌てて二人の横に近づくコルベール。

 

「否、しかし、それはその、ありがたくはありますが、しかし!」

 

「危ないのよ!!」

 

 コルベールの言葉を遮って、ルイズはまた頭を振り乱して叫び声を上げる。

 

「危険なのよ! 爆発するのよ! 怪我させるのよ! ううん。今度こそ殺してしまうわ! イングリッドを」

 

 ばん、と音でも出そうな勢いでルイズの両肩をつかんでその華奢な身体をイングリッドは引き寄せた。

 

「やるがいいぞ、ルイズ。恐れるでないわ」

 

 殆どデコが触れ合うほどの近さで、ルイズに囁く。

 

「我を呼び出したのは失敗じゃったか?」

 

「!」

 

 ルイズの表情がこわばる。

 

「我主は、我を呼び出したのは本当に失敗であったと感じたのかや?」

 

「!!」

 

 

 

 ルイズは思考の底であの瞬間に感じた手ごたえを思い出した。

 

 違う!

 

 叫びたかった。

 

 違う!

 

 あの手ごたえ。あの力の奔流。あの身体を駆け抜けた「何か」の感触。

 

 違う!!

 

 そう。違う。あれは違う。あれは違っていた。あれは間違いがない。あれは勘違いの仕様がない。だから私は、あの瞬間に、眼を凝らした。身構えた。顔を上げた。間違いなく成功したと思った。

 否。あれは、成功だった。

 イングリッドを呼び出したのは、成功だった!!

 

 イングリッドがそう言ったからではない。

 

 私の感じたとおりに、成功だった!!

 

 

 

「ミスタ・コルベール!!」

 

 何かを決意した、強い感情の乗ったその声に、コルベールがうろたえる。

 

「な、なにかね、ミス・ヴァリエール」

 

 ルイズはイングリッドを引き剥がしながら、コルベールに向き直り、懐から杖を出して、それを掲げた。

 

「やらせてください! コントラクト・サーヴァントを!」

 

 ルイズは僅かにうつむき、瞳を震わせて、そして大きく顔を上げて正面にコルベールの顔を捉えた。叫ぶように決意を表明する。

 

「見届けてください! ミスタ・コルベール」

 

 後ろで、大きく2度、3度と頷くイングリッド。

 

 

 

 正直に言って、あのサモン・サーヴァントが成功した行為であったとは、コルベールにはとても思えなかった。いつもの失敗にしか思えなかった。

 あれは成功の結果として、イングリッドを呼び出されたとは思えなかった。

 あの場でコルベールのみに気がつけた理由によって、イングリッドが、どこか別の場所からその場に突然現れた存在であることは瞬時にして理解できたが、そうであってすら、何らかの伺い知れようのない理由で、或いは事故によって、イングリッドがその場に現れたのだと思った。

 極端な想像を言えば、ルイズの魔法の行使の結果としてあの場にイングリッドが現れたのではなく、イングリッド自身の瞬間移動か何かそれに類する謎の力か技術によって、たまたま偶然にあの場に、イングリッドの意思で現れたのではないかとすら疑っていた。

 ……実のところ「イングリッドの意思」が介在したのだという点に於いてはコルベールの予想はかなり正確であったが、そこにイングリッドが現れた現象面での原因は間違いなくルイズの力であった。

 しかし「イングリッドの意思」を強く感じたコルベールは、だからこそ、ルイズの魔法が『失敗』したのだと判断してしまった。そう思ったからこそ、あの場でイングリッドに、あれほどまでに執拗に状況説明になるであろう言葉を吐いたのだ。

 一見して、非常に聡いイングリッドであればあの中途半端な説明であってもある程度の理解を示してくれるであろうと言う、期待、いや、願望が、あの場での対応であった。

 この話し合いの場で得た結論は、非常に有意義なものであった。疑いようもなくイングリッドはコルベールの想像通り、いや、想像以上に聡い少女であった。

 

 その彼女が、コントラクト・サーヴァントを望んでいる!

 

 コルベールは大きく動揺した。

 

 そんな馬鹿な! あれが成功だと! 少女がサモン・サーヴァントの結果であると!

 そんなことはあり得ない!!

 

 

 

 コルベールは動揺に身を震わせながら、ルイズに顔を向けて翻意を促そうとする。

 

「いや、ミス・ヴァリエール。それはきけ……」

 

 その顔にアイアンクローを食らわせて、イングリッドがコルベールを黙らせる。

 「うがごぎぎぎ」みたいな声を出して悶える彼だが、イングリッドの腕は離れない。

 

「ルイズ。コントラクト・サーヴァントとはどうやるんじゃ」

 

 視線をイングリッドから離さないルイズは、強い口調で答えた。

 

「呪文を唱えてキスをするの!」

 

 一瞬で、決意に溢れてこわばった表情が、赤色に染まる。頭の先から湯気でも吹き上がりそうな程の見事な朱、だった。

 「んふ」とイングリッドが声を上げて、アイアンクローをはずす。唸り声を上げて、コルベールがしりもちをつく。

 それを視界の片隅に置きながら、ルイズの視線を外さぬ様に、ルイズの身体に再度近づく。

 

「それは、呪文を唱えた瞬間に、成立するのか? それとも、キスをした瞬間に成立するのかや?」

 

 ルイズは首を捻った。あの召喚の場で、自分以外のもの達が、コントラクト・サーヴァントを行い、そして、その結果に喜びの声を上げた姿を思い出す。

 

「キス、を、した瞬間だと、思う……」

 

「ほう……」

 

 イングリッドは優しい表情で未だ、立ち上がることの出来ないコルベールを見下ろした。腰をさすりながら顔を上げた彼の目が彼女と交錯する。

 

「生徒思いじゃの……主よ」

 

「!」

 

 コルベールは慌てて顔をそらした。

 その行動に疑問符を浮かべながら、ルイズはイングリッドの前に杖を掲げる。

 

 ルイズは緊張した身体を震わせながら、眼を閉じて魔法を紡ぐ。

 

「我が名を使い魔が召喚に応えた、貴様に伝える。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。我は我と貴様の信じるがところに於いて望む。我が望みは貴様が我とともに歩み我の力の一助となりて、貴様が我とともに歩み我のそばにいることを貴様自身の心に於いて望むことを願いたもう。五つの力をつかさどるは、その術形、その名をペンタグラム。そこにあるは五つのエレメント。この者に、大いなるその見技より出でて、我らに与えられしエレメントの祝福を、この者にも等しく与えられんことを」

 

 カッと、眼を見開いて力ある言葉の最後を紡ぎだす。

 

「この者を、我が使い魔となせ!」

 

 刹那の逡巡を振り切って、イングリッドに飛びつくように身を投げ出すと、イングリッドの頭を掻き抱いて勢い良くルイズ自らの唇でイングリッドの唇をふさいだ。

 

 一瞬、ほんの一瞬、眼を逸らしたことをコルベールは恥じた。

 そして、コルベールが自身の教え子に抱いた疑問、懐疑の念を、その生涯にわたり、恥じた。

 

 この瞬間に、確かに契約は成った。

 

 爆発はしなかった。

 光ることすらなかった。

 煙が吹き上がることもなかった。

 空気が震えることもなかった。

 

 ただ少女が二人、強く、強く、唇を求めただけだった。

 

 しかし、コルベールには見えた。

 力が。

 確かに、力が、力としか言いようが無いものが、二人の唇を互いに行き来して、二人の体の中へと吸い込まれていくのがわかった。

 

 力。

 

 コルベールとしても、そう短くはない人生のなかで、コントラクト・サーヴァントをこれほどの至近距離でまじまじと見つめた経験はなかった。

 こうして互いに力のやり取りがあるとは知らなかった。

 

 「この者に、大いなるその見技より出でて、我らに与えられしエレメントの祝福を、この者にも等しく与えられんことを」

 

 これこそが祝福。大いなる見技の恩寵かもしれない。

 

 そう信じた。

 

 


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