ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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 宗教観念に関しては自分の意見であるというわけではありません。とりあえずは世間一般的な通念上の不正確極まりない観念をそのまま書き連ねたようなものです。あくまでブルミルと地球での宗教観念の違いを明らかにするための描写に過ぎませんので、読み飛ばしても構わないような適当な内容で収めています。気にしないで下さい。


初めてのお買い物(1)

 大きかった。

 何が大きいかと言えば、全体的に大きかった。イングリッドにはそう表現する以外の方法が思いつかなたった。いちいち、部品、部位ごとにやたらと大きかったのだ。

 理由は想像できるし、実際に見て、触って、納得できた。大きく、太く、そして小さく小分けにしたうえで更に、一々補強してあった。つまりは、部品単位ごとであってもそれら単体ではともかく、組み合わせて必要な機能を持たせようとした時点で、周辺部品から伝わってくるストレスに対抗できるだけの強度が足らないのだ。だから何もかもが大きくなっている。

 

 ルイズ達が選んだ乗り物は、ハンサム・キャブリオレであった。その実際の姿を見てイングリッドは唸ってしまった。イングリッドであっても見たことのない形状の「自動車」だったのだ。

 見たことが無い形状だといっても、ある一定以上の常識を持った現代地球人が見てば、100人が100人「自動車だ」と理解できる外観を保っている。しかし、そのエクステリアは他に比べるものが無かった。個性的な外観だと言う外無い。

 全体的には地球の歴史に於いて自動車が社会一般に受け入れられた時期にありがちな、馬車のキャビン(客室)にフロントボックス部分を付け足してモーター(エンジン)を乗せたキャブ(ボンネット)を加えた「無骨」な形状であったが、全体的なデザインで言うと妙に洗練された形を見せていた。

 

 地球の歴史にあっては、自動車の形状というのは馬車に自走走行装置を付けるところから始まった。馬車の中でも操行装置を持っていたヴィクトリアやランドーと呼ばれる形態のキャブで、座席の下にモーターを搭載した変形ワンボックスRRが始まりだと言われる。次いで、座席の下に納まらなくなってしまったために、前方にモーターが追いやられた2ボックスFRという方向に進む。純粋に技術的制約下で生まれた形状が2ボックススタイルである。

 技術開発が進展して大出力モーターが現れると、ワゴネットやピクニックワゴン、更に大きくなって、コーチ等が自動車化されることになる。

 面白い事に、取り扱いの難しい多頭立ての大型馬車こそ、早期に自動車化した場合の利得が大きいのは明らかであったのに、そられらは一旦、自動車化の波から取り残されてしまう。モーター技術とそれが発生させる動力を動輪に伝える周辺技術が未熟だった故にカーゴ(トラック)や、コーチ(バス)が自動車化するのはかなり後になった。ガソリンを燃料としたモーターは極めて早いうちに大出力を手にしたが、それを実際に動力で取り出す段になると必要不可欠な、歯車やチェーン、シャフトの製造能力が貧弱であったために、自動車の動力となりえなかった。また、タイヤに使うゴムの技術が未熟であった点も影響している。大量の荷物や人間を搭載しつつ、馬車とは比べ物にならない速度で走る自動車に履かせるには当時のタイヤはお粗末に過ぎた。大出力エンジンが巨大で重かったのも問題である。シャーシが耐えられなかったのだ。

 そういった理由で産業革命期のロンドン等では、数人が乗る自動車の群れをぬって馬が引くコーチが大勢の人間を乗せて走り回っていた。それでも最終的に、コーチはバスへと進化する。

 

 都市間を結ぶ長距離馬車(駅馬車)は、更に混沌とした経緯をたどる。

 モーターの技術進展と遠距離を故障なく運行できる信頼性を得る前に鉄道技術が大きく先行したために、一時的に歴史の舞台から消えてしまった。1930年代後半まで自動車とは壊れて当然。特に、モーターはありとあらゆる場所が壊れるものだった。それらを出先でたいした道具もなく素早く応急修理してしまえる事が良い運転手と呼ばれる必須事項だったぐらいだから、自動車の信頼性の低さがうかがい知れる。所謂「駅馬車」と言われるような長距離輸送の手段としてみた場合、当時の自動車はあまりにも心細かった。国土が狭い国ならともかく、何百キロと言う区間で人家も見当たらないと言う地域を走るには信頼性がなさ過ぎたのだ。うっかりすれば遭難である。

 例外的に北アメリカで1920年代に長距離バスが隆盛するが、貧困層向けであったり、開発途上の州への片道切符であったりした。客が片道切符であったばかりではない。大陸を横断してそのままスクラップになるバスが続出したという意味でも片道切符だった。

 当時のアメリカ合衆国が大々的に移民を受け入れていたのも大きい。ヨーロッパと違ってアメリカの鉄道は導入当初より、広く一般大衆に門戸を開いていたのだが、それらの敷居ですら跨ぐ事が困難な、裸一貫の人間が長距離移動をする需要があったのだ。鉄道と違い、極端な話、とりあえずバスを買ってバス会社でございと言えば起業出来てしまうのも、アメリカで長距離バスの増大する土壌となった。しかし、やはり当時の技術水準では無理があり、相当数のバスが移動途上で失われている。乗客にも少なからぬ被害があった。

 

 そういった一般的ではない特殊事例はともかくとして、都市間交通の一部としての馬車は、第一次世界大戦直前まで生き残ることになった。大戦後にそれらが復活しなかったのは、馬が戦場で大量に「消費」されてしまったからである。最も過激な推計では、騎兵や伝令等に使用されて前線で失われた馬が500万頭以上、輸送などの後備使用馬も含めれば1200万頭以上が失われたとされるから、影響は激甚だった。

 そのような情勢下で、既に鉄道網が完備されている状況では、都市間をドアtoドアに近い形で運行される馬車の復活は認められなかった。数少ない馬は農耕用や、運搬用途に集中されて、農村部でスパイダータイプ等の馬車が生き残った以外は、貴族用などの例外をのぞいて常用馬車は壊滅状態となる。馬が使えないならバスを使えばいいじゃないかとはならなかった。都市内完結交通としての路線バスや、鉄道のフィーダー輸送としてのバスはともかく、長距離輸送にあてがうには当時のバスは問題が多すぎたのだ。起伏の激しい地域を踏破して国家間を跨ぐような移動では未だ、技術的信頼性が無かった。駅馬車の系譜はここで途絶えてしまう。

 

 第一次世界大戦で、乗用馬が壊滅的な情勢になった故に自動車産業が大きく花開いたのは皮肉な結果だ。

 極少ない馬を取り合う状況が発生したために、農耕馬や駄馬であっても価格が急騰した。農家にとっては耕作に使用する馬の存在は死活問題であったから、ヨーロッパの大抵の国で政府が介入して馬を買い取り、農業従事者に配分することになった。そのために、なおさら馬の価格が跳ね上がった。その時点でもなお高価であった自動車の価格に、余剰馬の価格が肉薄する事態になったのだ。

 

 直接的な影響を免れた南北アメリカ大陸でも馬の価格は急騰する。ヨーロッパで馬が足らない事から大々的に輸出されたのだ。行き過ぎた自由商業主義的思考が儲けを重視する商人に横溢して、アメリカの国内需要を無視した勢いで、新大陸から馬を奪っていった。しかも管理が杜撰であった為に、輸送途上で大量に馬が死んでしまったことが更なる混乱の元となる。生きて海を渡ったものの中にも船酔い等で弱りきって使用に耐えず、港に停泊する貨物船から海上に突き落として処分されるような状況が続出した。ついでのように、北アメリカ固有の家畜伝染病がヨーロッパにもたらされてとどめとなった。これがアメリカ国内で馬の需要を圧迫する。アメリカ国内の馬の需給バランスの崩壊は政府が介入すべき情勢にまで進展していたのに、下らない別の状況が発生して、無視されてしまう。

 禁酒法の成立だ。

 これで下級官吏が腐敗に飲み込まれてしまったために、馬の需給と適切な管理システムが崩壊してしまった。馬車の基本構造が犯罪組織に大いに利用された影響も大きい。頑丈なフレーム構造の上にキャブを載せるのが基本形態の馬車は、密造酒を隠して運搬するのにまことに都合が良かったのだ。そういった理由で、誰も予想しなかった勢いで馬車とそれを引く馬が失われていった。滅茶苦茶な状態だったのだ。

 そこで大量生産技術を確立して自動車産業が発展を見たのは極めて大きな影響を世界に与えた。そうやって世界情勢とは複雑に絡まっているのである。

 

 駅馬車の復権は、高速道路網の発展と、比較的小型で大出力のディーゼル機関が安価に供給され、それに加えて材料技術と構造技術の発展により、大型のキャビンを持った箱型車体を頑丈軽量に組み立てる事が出来るようになって以後となる。セミモノコック構造を持った近代的大型バスの構造は、コーチタイプの乗り合いバスとは技術的に断絶しており、寧ろ飛行機の構造を引き継いでいたから、運行の考え方自体は駅馬車を引き継いでいたのに、技術的には馬車の特徴を何一つ受け継がなかった。

 

 乗合馬車であるコーチを出自として、都市内完結交通の一部として発展した乗り合い乗用バス、所謂路線バスは、自動車としての構造も、外見のデザインも、永く馬車の系譜を引きずったのだが、高速バスの開発がきっかけとなって構造を一新した。フレーム構造を持った都市内乗用バスは、もろにコーチタイプの馬車を引きずって高床構造が多かったが、高速バス向けの構造を路線バスに適合して、急激に進化する。やたらと背が高いのに頑丈なフレームの上に客室が乗っている故に、狭くて天井が低い車体構造の古典的構造をもった路線バス向けの中型バスはあっという間に廃れて、ワンモーションタイプの箱型構造を持った近代的中型バスに取って代わられた。乗用自動車の形状はバスよりかなり早い段階で馬車の外観から遠ざかっていたから、セミモノコック構造のバスが大量生産され始めた1960年代後半で、自動車は馬車の呪縛を完全に振り切ったと言える。

 

 貨物自動車に関してはまた別の話である。頑丈なフレームの上に架装する形態を持つトラックの荷台構造は、材質や組み立て方法に関して随分な技術進展があったが、基本構造のみに焦点を当てると、馬車から何も進歩していない。

 荷馬車の前、御者席部分にエンジンとドライバーが乗るキャブを加えたのがトラックだと言ってしまうと乱暴すぎる結論だが、あながち間違っていない。馬車の系譜は貨物自動車の荷台に息を潜めて隠れているといえるかも知れない。

 

 一般乗用自動車に関しては、極早い段階で、手荷物等を客室内に持ち込みたくはないという理由から、車体後部に手荷物を収める区画を設置すると言う、純粋に利用者の立場から生まれた後部隔離区画―――つまりトランクを持った3ボックス(セダン)へと移行して行ったのだが……、地球にあってはごく一部の例外、例えば、ロンドンタクシー等を除けば、その時点で馬車の意匠をエクステリアに引き継ぐのをやめた。3ボックス形態の馬車なんていうものは存在しなかったから、当然の結果ではある。

 また、馬車が基本的にやたらと床が高いと言う不満が自動車になって強烈に噴出した事も大きい。男性ならともかく、女性では自力で乗り込むことも降りる事も困難だった馬車から、自動車に移り変わってまず強く要求されたのは、客室床を下げる事だった。踏み台が無ければ客室にたどり着けず、降りる際には下で待つ従者の胸に飛び込まなければ降車も出来ない馬車の不便さは女性にとっては不都合どころではなかった。これは自動車技術の黎明期に、女性用ロングスカートが大流行した事実も大きく影響した。ロングスカートを着用した状況では、馬車を自力で乗り降りすることは事実上不可能だったのだ。

 そういった理由もあって、一般乗用自動車は急速に車高を下げた。セダン・デザインが受け入れられたころには、馬車の臭いは自動車から完全に失われていたのだ。

 

 

 イングリッドがルイズたちと共に乗っているハンサム・キャブリオレという自動車(オトモビル)は、地球の産業界が精練させてきた工業製品としての自動車とはデザイン発展のベクトルが明らかに異なっていた。

 貴族が乗る事を前提とした重厚長大なデザインの馬車(ボアチュール)にモーター区画を取り付けて、そこから更に基本的デザインを馬車に定めたまま発展させる方向性だった。馬車の意匠を残したまま自動車としての機能性を追及、発展したと思しき姿なのだ。馬車の中でもランドーと呼ばれるタイプを発展させた形状だった。ただし、御者席もキャビンで囲っているので、その部分は馬車よりも進化していると言える。馬をモーターに置き換えた時点で、手綱もムチもいらないわけだから、御者席をオープンで残す意味はなくなるので、車体全体が屋根と壁に覆われるのは当然の結果ではある。

 地球でもそうであったように、トランクの要請と必要性が、3ボックスっぽいデザインをオトモビルに強制していたが、全体から受ける印象はまさに馬車だった。そう言う印象を強く見せつつも、実態は馬車ではなかった。やはり自動車なのだ。矛盾した表現だがイングリッドにはそういう表現を思う以外になかった。生産性とか取り回しとかの要請で地球の自動車が失った馬車の雰囲気を色濃く残しつつ、自動車としての機能性を発展させた形状だった。つまるところ一言で言ってしまえば「効率が悪い」形だった。地球的意味での「自動車」と比較してという意味で。

 

 ルイズたちが乗る自動車の、基本とするエクステリアデザインは柔らかく円を描くものだった。車高は3メイル弱ほど。1メイル以上の大きさを持った巨大なタイヤに支えられているシャシー下には40サント近いクリアランスがあるため、乗り込むための折りたたみ式ステップが設けられている。運転席、助手席用の簡単なつくりのステップとは別に、客席用のステップは幅も広さも十分の2段式ステップで、なんと自動展開式だった。車体下に折りたたまれたステップはイングリッドたちが乗り込む時にゆっくりと車体側面に姿を現して、同時に客室扉も自動で開いた。そのためイングリッドは顔をひくつかせる事になった。

 

 車内は1.7メイル近い高さがあった。それでもキュルケには窮屈だが、イングリッドも含めた他の3人にはまったく問題が無かった。イングリッドの身長は152センチしかないのだ。実はルイズよりも極僅かに低い。タバサにいたってはその身長142サント。車内で立って何の問題も無かった。ただし、車高が3メイルで地面とのクリアランスが40サント。差し引き2.6メイルで車内が1.7メイルしかない。つまりシャシーが分厚くてその上に載る床も分厚いのだろうという推測がなる。天井もまた分厚い。車体を構成する部材も一々分厚いので、当然客用扉もありえないほどに分厚い。事実、各所に設けられた窓ガラスは、大きなくぼみの奥に嵌っている様な物だった。

 室内にふんだんにあしらわれた木材。前傾したフロントウインド。精度の高い設えのドア。前に運転席区画。客室と運転席は壁で区切られているが、そこには横開きのガラス窓が備えられている。その下に後ろを向いたソファ・シート。キュルケほどの身体を持った人間でも3人横に並んでなお余裕がある。それがそのまま車体幅だった。いや、室内幅というべきか。室内幅は1.8メイルから2メイル。ドアのある部分めがけて弧を描いて大きくなっているのだ。上から見ればキャビン部分は前と後ろを平行に断ち切った卵型といったところだろう。フェンダーの張り出しを考えれば2.4メイルほどが最大車体幅となる。

 シートの横には縦長の窓。観音開きの客用ドアが車体の両脇にある。そのドアにも窓ガラスがはめ込まれている。室内の床には毛並みのたっぷりとした絨毯が敷き詰められている。それを挟んで前を向いたソファ・シート。お互いのソファ・シートの間には1.7メイルもの間隔がある。それはドアの開口部幅でもある。頑丈なヒンジとそれを支える車内に張り出した太目の構造があるので1.7メイルがそのまま有効開口というわけではないが、自動車に備えられたドア開口としてはありえないほどの広さではある。相対したシートの間隔はキュルケ2人が対面して足を投げ出してもなお余裕たっぷりといったところだ。後ろのシートの脇にも縦長の窓。そして後ろの壁。そこにも窓があって後ろを見る事ができる。そして寸詰まりのトランク区画。後ろから観音開きのドアで中にアクセスできる。ゴルフバックなら縦にして8コぐらいは2列に並べて押し込めるぐらいの大きさだ。

 

 客室全長3メイル強。幅1.8メイル。室内高1.7メイル。イングリッドの感覚から言えばこれを「タクシー」と呼ぶには躊躇するどころではなかった。極東の島国でやたらとはやっているタイプの「乗用車」ですらなかなか無いような豪勢な自動車だ。

 

 車内は全体が高級そうな布に囲まれている。ドランカーズパスで飾られた室内はイングリッドにとってはやや「うるさい」印象だが、窓が小さい故に自然光が差し込みがたい室内を華やかな雰囲気に飾っている。

 自然光が入りがたいだけであって、実際の室内は明るい。魔法の光が天井全体を仄かに照らしているが、若干不自然な白色光であってイングリッドの神経を逆なでする。それについては仕方が無い部分があった。多分に慣れの問題だろう。イングリッドに馴染みのない輝きではあるが、ルイズたちには気にならないようだった。

 

 全体的に一々重厚なデザインであるから「古臭い」ものだと言うにも躊躇がある。地球の高級車であってもなかなかありえないほどの遮音性と断熱性を持って車内は極めて快適だった。息苦しいわけでもない。足元のスリットからそよぐ風はエアコンデショナーを通り抜けたかのように一定の温度と湿度を保って車内環境を守っている。

 ドアが開いた時点でイングリッドは気がついたが、分厚いそのドアが開いたその時に、車体からきしみ音一つしなかった。つまりそれだけ車体剛性が高いのだ。西部開拓時代にアメリカ国内を駆け回った駅馬車等では、屋根の上に荷物を載せて車内に人が乗るとシャシーが歪んで、扉を閉めるのに御者が蹴りを入れたなんていうのが常態だったから、その技術の高さは驚くべき事である。地球の現代でもトラックやバスで、荷物や人を乗せすぎるとドアが閉まらないとか、振動で勝手に開くという事故がそこそこ起きうる事を考えれば、強度を保ちつつ不便ではない広さを持ったドアを自動車の設計に適合させるのは存外に難しい事なのだ。見た目はアンティークと言って良い外観の自動車が、それを裏切ってさり気無い高度な技術を主張している。異世界なのだなあとイングリッドには声も無い。

 

 全体的な印象を総括すれば、地球の自動車と比べるのも難しいが、無理やり当てはめればロンドンタクシーにシトロエン11CVあたりのボンネットを差し替えて、全体的な特徴にシトロエン2CVの雰囲気を混ぜて、巨大化したとでも言えば良いのか……。全長5メイル以上で幅が2.4メイルとなればずいぶんとずんぐりした自動車である。相当に無理やりな言い方であるが、それだけ自動車としては地球人的感覚から外れたデザインだった。特に車高が3メイルという点で大きな違和感があった。

 

 

 広い街路を滑るように走るハンサム・キャブリオレは時速50リーグほどの最高速度を持って、自動車の群れの中を泳ぐ。乗用車だけでなく、トラックやバスも走っている。相当な混雑なのだが、驚くべき事に周辺の空気は清浄そのものだった。イングリッドの特殊な視界であっても排気ガスらしきものはまったく捉えられなかった。

 片側3車線の道路はよく整備されていて、坂は多いものの、穴が開いていたり、蓋のない溝が横切っているわけでもない。滑らかな石畳の舗装が輝きすら見せている。

 中央に幅2メイルほどの贅沢なつくりの中央分離帯が備わっていて、手入れの良い楓の街路樹が窮屈そうに路面に影を連ねている。車道の両脇に硬く締められた土の路面(馬路)があって、「普通の馬車」や単騎の馬、1人から2人程度の人間を乗せた「馬っぽい動物」などが列を成してお行儀よく一定の速度で進んでいる。そして両脇を植え込みが囲んで、秩序だって建植されたマロンの木が整列している。その向こう側に広々とした歩道。大勢の人々が行き交って、あちらこちらにベンチやテーブルが配されている。非常に活気溢れる風景だった。

 イングリッドは感心する以上に溜息を吐きたくなった。

 

「すばらしいの……。トリスタニアはどこもこんな風なのかや?」

 

 独り言じみた声を漏らしたイングリドだったが、外部の喧騒と懸絶した車内では思ったよりも大きな音になった。キュルケと会話に興じていたルイズが振り向く。後ろ向きのソファ・シートにイングリッドと並んでいるルイズは、進行方向左側の窓に張り付いていたイングリッドに身を寄せて、その脇から首を伸ばしてイングリッドの眺める外を見渡した。そうして小さく笑う。イングリッドの右肩を軽く叩いて首を振った。それに気がついてイングリッドもルイズのほうへ首を回した。

 

「あはは、さすがに大トリスタニア全部がこうってわけじゃないよイングリッド。この通りはトリスタニア一番の大通りだからってだけだよ」

 

 その言葉にイングリッドは、いつの間にか緊張していた肩から力を抜いて溜息を吐いた。

 

「……で、あるか」

 

 ルイズは笑みを乗せた顔を窓に近づけて外を見回す。

 

「トリステイン観光としても定番だし」

 

 同じように前向きのソファ・シートから外を見回していたキュルケも、その言葉に続けた。

 

「海外から来た観光客向けのぼったくり価格のアクセサリー店とか、何ちゃってファッションショップとか、とりあえずカッフェとか、いろいろあるからねぇ」

 

 タバサはキュルケの右側でぼんやりとしていた。借りてきた猫のように、シートの上にちょこんと乗る姿にイングリッドはおかしみを感じて笑みを浮かべた。杖を抱えてそれを所在無くいじいじと撫でる姿もまた可愛らしい姿であった。

 

「ラべニュー・デ・シャンゼリーゼは大トリスタニア一番の大通りだし、トリスタニア観光で行くべきお約束の観光地はだいたいこの通りに沿ってるから、余計に混雑するのよ」

 

 右手人差し指で天を指し、ややあごを突き出して得意げに語るルイズの姿にキュルケは眼を細めて肩をすくめた。

 

「まあ、見事な通りよね。通りに面したファサードも見事だし、通り自体の手入れも抜群に良いから『トリスタニアは道路も観光名所にする』っていうのも納得だわ」

 

 イングリッドはその言葉に僅かに眉を跳ねて、キュルケの顔に視線を移す。

 

「ん?こういう光景はトリスタニアでも特別なのか?」

 

 その言葉にキュルケは皮肉げな笑みを浮かべて首を傾げた。小さく首を振る。

 

「ちがうちがう。トリステインが特別なのよ。さすがは夢見る国よね」

 

 キュルケの毒のある感想にルイズが眼を見開いて抗議する。

 

「なによ。ゲルマニアみたいに年がら年中戦争ごっこに現を抜かしている国とは違うのよ」

 

 苦笑いを浮かべたキュルケは「はいはい……」と溜息を吐いた。

 

「そうかもね……。トリステインは平和だわ。それが一番良いことなのにね」

 

 直前のキュルケの言に、短気を爆発させそうになって勢いよく身を乗り出したルイズは、やけに存念の篭ったキュルケの呟きに毒気を抜かれて、腰を浮かせたところで固まった。怒りとも苦笑いともつかない微妙な表情でキュルケに視線を送ったところで、首を捻りながら、シートに腰を戻す。

 

「ん、まぁ、そうよ」

 

 その2人の姿をぼんやりと眺めているタバサ。妙に反応が薄かった。

 イングリッドは微かな笑みを浮かべながら3人を視界に納めつつ、別のことを考えていた。

 

 

 シャンゼリゼ大通り(極楽浄土通り)とはね……。

 

 あからさまにフランス系の名前である事にも驚いたが、それ以上にエリュシュオン(シャンゼリゼ)という概念がこの世界にあることに驚いた。

 社会学的概念としては事実上の一神教として理解している始祖ブルミルを奉じるこのハルケギニアで、エリュシュオン(極楽浄土)とは違和感しきりである。

 社会通念上は天国と極楽は同じようなものとして理解されているが、厳密には違う。特にイングリッドの()()()からすると、絶対に同じものとして扱えない。正確な説明を求められると100万の言葉を尽くしても足らないが、あえて正確でない簡単な説明を試みるなら、天国とは「神」が管理する「桃源郷」である。大抵の一神教が掲げる天国のあり方とはそういうものである。一神教ではないが、北欧神話で言われるところのヴァルハラ(オーディーンの館)も例外的ではあるが同じ概念の世界観である。

 対して極楽とは「神」も含めたありとあらゆる生ある(生あった)存在が全て平等に列する、「浄土」して最後にたどり着く世界である。神様未満、人間以上を奉じる宗教観念における極楽浄土がこの概念だ。その系譜の宗教をひとくくりにするといろいろと憚りあって文句を言う人もいるし、概念自体に対しても様々な解釈の違いがあるが、世間一般に流布されている極楽の概念はそういった感じである。何でもかんでも受け入れる心広い観念方向の分派が唱える理念であるから「本流」側から強い異議を突きつけられる言い方ではあるが、社会一般ではそう理解「されてしまって」いる。だから「正確ではない説明」という言い方である。

 

 正確でない社会通念上の理解であっても、天国と極楽浄土の間にはこれほどの大きな違いがある。ハルケギニア全土を覆っているらしい始祖ブルミルがどうやら「神」では「無い」らしき部分まで考察を進めると、なおさら一国の首都の、それも一番の大通りに「極楽浄土」等と名づける者の気が知れないという話になる。

 ましてや魔法を使う者はすべからずブルミルの直系の子孫とされている世界観を持つハルケギニアである。概念上の差異は大きい所ではないだろう。何を考えているんだか……と、いったところである。一個の人間個人としてはどうでも良いような話なのだが、イングリッドの()()を言えばこの話はこだわってしまう部分である。

 

 ただ、それをイングリッドがことさらに言い募る事もなかった。この考えは例え自身の主たるルイズに問われたとしても、決して言葉として出でる事のないイングリッドのひそやかな思考であった。内心の葛藤で押さえ込める程度の「違和感」で済ませられるぐらいにはイングリッドは「大人」だった。世界がそれを許容している限りに於いてはイングリッド側から藪を突くような事をしない。この手の話は突き探して蛇どころか竜が飛び出す話なのだ。想像上の言葉遊びで終わらしたほうが良い。

 それでもそのような想像をするのは、そういう得てして激しくぶつかり合いを行いかねない「概念」があっさり同居している世界観が、ルイズ周辺世界に与える実際の影響を思えばこそである。そういう「厄介」どころではすまない事態がルイズに影響を与えかねないかもしれないという想像は、イングリッドにとっては無視できない問題だ。そういう「宗教概念」の衝突があるのかないのかという判断は、イングリッド自身の立ち位置を考える上でもきわめて重要だった。そういう意味では、ブルミルの名を奉じる貴族たちの頂点にある王の住まう場所に「極楽浄土」の名がすんなり収まっている状況というのは、ある意味で大変に安心できる材料でもある。

 アメリカ人的なあっけらかんとした楽天的思考形態を持って「字面がカッコイイから」などという理由で通りの名が決められていたら、それはそれで厄介なのだが……まあ、そういうことを気にしないような、ある部分に対しても無頓着な人間性が普通であるのがハルケギニアであるというなら、それはそれで平和な事である。

 

 ある種、極めて重要にして特殊でありながら普遍性を持った特別に危険な問題を、至極適当に切って捨てたイングリッドは、そういう思考を持っていたことを3人に悟らせぬまま、にこやかな表情で会話を続けた。1人はいつも以上の鉄面皮で顔を強張らせていたのだが。

 

 

 イングリッド達が乗る自動車は、通りを進んでいく。その歩みは順調とは言い難かった。走っている車両の数が多いために、ストップ・アンド・ゴーを断続的に繰り返している。そのあたりの雰囲気も現代地球の大都市的雰囲気が色濃い。とはいえ、馬車も自動車も同一の車道に群れていた19世紀ごろのヨーロッパも似たようなものだった。それとは大きく異なっている点として、トリスタニアの人々のほうが交通ルールに対してはるかに厳密だという事実がある。

 地球における自動車交通の黎明期はどこも混沌としたものだった。技術の進歩に法整備も環境整備も教育も間に合わなかった。事故は頻発するし、マナーなんて無かったし、馬糞は散らかり放題だった。

 トリスタニアでは、自動車は車線をきっちり守るし、ロータリーがメインの交差点はスムーズに流れるし、馬糞を回収する係員がかなりの頻度で馬路に出ていた。フランス風の町並みで左側通行なのが違和感を感じさせるところだが、道路を横断したい歩行者のために、横断地下道が各所に設けられている姿に気がついて、異世界の風景であるのだと、イングリッドは何度目かの納得を得る。

 余りにも眼に入る風景が、地球の文明社会ににじり寄るので相当に強く意識しないとハルケギニアが異世界なんだという事実がイングリッドの脳裏から飛んでいってしまう。唯の物見遊山ならそれで構わないだろうが、イングリッドにはルイズの護衛という重大な任務がある。精神的に「普段の世界」と変わらない部分を残していると、異世界ゆえの面倒が発生した際に対応を間違う恐れがある。イングリッドがことさらに異世界なのだから、と、思考をループさせる理由はそこなのだ。

 

 

 しかし、トリスタニアの街路を眺めながら、この町が地球と決定的に違っている部分があることをイングリッドは理解していた。

 

 とにかく綺麗なのだ。

 

 「美しい」という意味の「綺麗」ではない。全体的な印象として、文字通り「綺麗」なのだ。

 

 ぱっと見て、現代ヨーロッパ人ならトリスタニアの光景は驚くべきものだろう。建物のファサードは白を基調として光沢すら感じられる。窓からてんでに下げられた洗濯物が乱雑な印象を与えるがしかし、妙にこぎれいだった。

 路面の石畳も白が基本で、タイヤの痕があちらこちらに黒い筋を残している点が残念だが、太陽の光に照らされて美しい。土埃が舞っているわけでもなく、ひび割れた姿を見せているわけでもなく、陥没が見られるわけでもなく、汚水が溢れているわけでもない。

 車線を区切るラインはかすれひとつ無く、運転手の視覚に必要な情報を訴えている。秩序だった路面情報は幾何学的な美しさすら感じられる。馬路と車道の間にいくつも建植されている標識はうっとおしく思えるほどの数ではなく、それでいながら鮮やかな赤や黄色で彩られて、視覚を刺激する。それすら美しさを感じさせる。

 列を成す自動車の群れも美しい。左右に車線を動く車両は殆どいない。マナーが大変によろしい。そういう姿もまた美しさを感じさせる。

 

 そういった個々の印象以上にイングリッドを強く感心させるのは、なにしろ空気が綺麗な事だった。余りにも空気が綺麗過ぎて違和感を感じつつ、その違和感の原因を思い至るのに時間がかかってしまったほどだった。

 精白純麗なのだ。

 これだけ人工的構造物に覆われて、そして大量の自動車が群れている大都市。であるのに空気は純潔。まったくありえない光景だった。

 例えば、1960年代の地球の大都市と言ったらどこも酷い有様だった。何しろ空気が汚かった。澱んでいたとか言う意味ではない。物理的に汚かった。工業地帯に隣接した大都市となると猖獗を極めていた。酷いものだった。

 健康を害する、生物を苛む様々な種類の物質が宙を舞っていたのだ。ヨーロッパのとある島国等は、産業革命以後、基本の服装が黒色で統一されたほどだった。それはとりもなおさず空気が汚かったからだ。黒色以外の服装では、あっという間に薄汚れてしまった。とにかく汚かったのだ。観光客が今現代の街角を眺め、古い建築物の外観を振り仰いで、重厚で落ち着いた風合い等と観想するのは滑稽な事だ。

 産業革命を潜り抜けた古い建物は、凄まじい大気汚染に晒されて好むと好まざるを得ず、黒ずんだ姿を得てしまった。大規模機械産業が進展する以前の町並みは、自然石や煉瓦の風合いが色濃いファサードが美しい町並みだった。「今」のヨーロッパの古い建物の意匠がどれもかしこも「重厚」なのは建築者の意図するところではない。

 そして、現代であっても、町が清潔だとは言いがたいのが地球の姿である。

 最も公害が酷い時代と比べれば、現代地球の環境ははるかに綺麗だといえる。しかしそれは最悪な時期を基準とし、それと比較しての話である。中世の世界から比べればはるかに汚いのだ。

 年代基準が曖昧な暗黒時代と呼ばれるヨーロッパでは、確かに人の営みを見せる場所は汚かった。しかしそれは洗練されていないという意味が強く、人間工学的に滅茶苦茶だったが故に、一見した印象的に汚かったのであった。古代ギリシャの都市などより、都市建設に対するポリシーが退化してしまったために「汚ない」情勢だった。ただし、臭いとか、視線をどこに向けても汚物が転がっているとかはあっても、空気は綺麗だった。空気を顕著に汚すものと言えば煮炊きの煙ぐらいで、後は鍛冶屋が大量の煙を吐いている位だったが、世界全体を汚すほどではなかった。あの当時の「空気感」とも言えるものは、イングリッドが見たところ、地球に於いて再現される場所は既に無いだろうというのが嘘偽り無い感想である。

 山の頂だろうが、人の手の入らない秘境だろうが、南の果ての極地だろうが、どこに逃れても人の営みによる空気の汚れはついてくる。どうしようもなかった。科学文明の発達は、どれほどまでに環境技術を進展させても、完全に清浄な排気を作り得るわけではない。最悪の時代に比べれば、圧倒的に清廉だとは言え、僅かながらの汚染物質は空気中に排出され続けている。個々の排出量が少なくなっているとはいえ、排出者の絶対量は増える一方なのだ。絶対的な量が減らないのでは、汚れは蓄積するばかりである。人口が増え続ける限りは仕方が無い現実なのだ。

 

 しかしトリステインの空気は綺麗だった。清浄と言っても良い。ハルケギニアの人口から言ってトリステインのような大都市がそこここにあることは確実な事を考えると、トリステインが綺麗だという事はハルケギニアが……否、この世界全体が綺麗なのだ。そう断言するほか無い。イングリッドの知覚出来ない超技術でハルケギニアがドームのような物で覆われて、強力な空気清浄装置が動いているとかいうのでもなければ、この場所で感じられる空気の清浄感は、そのまま世界が清浄である事を示している。

 

 この事実はイングリッドを戸惑わせてしまう。

 

 この世界のハルケギニアと呼ばれる狭い範囲内ですら、3億もの人間がひしめいているのだ。地球の第一次世界大戦前夜にあるヨーロッパの状況に比肩できる世界で、中世以前の美しさを保つ世界。違和感どころではない。なにより、3億人の人間を養う後背技術を考えると恐ろしくもなる。地球の歴史で3億人の人間を養う科学技術の進展は、そのまま世界を汚す技術でもあった。仕方が無いのだ。全てを自然に任せた技術背景では、ウラル以西で養える人口の限界は5000万程度なのだ。食糧生産のみを考えれば5億人分の食料を用意する事が可能であろうが、環境を汚す最大の排出者たる先端運送技術を排してしまうと、食料の効率的配分が不可能になって、結局は人口を維持できない。3億人を養う技術はどうしようもなく世界を汚してしまう。

 

 工業製品に関しても同じだ。

 建築物が高層化するのは、とりもなおさず工業力の技術進展の結果だ。土木建築技術の発展は科学工業技術の進化ゆえである。建築物を見ればその地域の技術進展の度合いがわかるのだ。ギゼーのピラミッドやピサの斜塔のように、少数の高度技術を駆使した建築物がポツンとあるのは、費やされる時間を無視してしまえるのであればなんとでもやりようはある。極端な話、100階建ての超高層建築物を古代に人力のみで建築する事すら不可能ではなかった。100階建ては大袈裟にしても、現実にアレキサンドリアの大灯台や中東のミナレットといった実例もある。単純に時間と労働力と間接的要因としての社会的安定性がどれだけ確保できるかという問題はあったが。

 しかし、イングリッドの視界に入るトリスタニアの町並みのように、軒を連ねる高層アパートメントという風景を作り出すには、工業技術の発展が絶対に不可欠だ。すべてが人力だったら、これほどまでに外観の揃った建物で大地を埋め尽くすなんていう芸当は不可能なのだ。見渡す限り建物で埋め尽くされている町並み。高度な建築機材が揃っていなくては無理な話だ。

 

 労務提供環境という点でも世界を美しく保つのは難しい。大量供給、大量消費が確立されて始めて、労働環境が整い、人口を急激に押し上げる原因となる中産階級の発生となる。つまり、工業技術が大発展して、大量供給がなり、それに釣られて大量消費が発生しなければ、人口の増大は望めない。供給と消費は同じ紙の裏表という話ではあるが、3億の人口を支えるには大規模工業の存在が不可欠という結論は変わらない。そうなれば空気が汚れるのは必然なのだ。働く場所が無ければ金を得ることが出来ない。よって子供を育てるのもままならない。そうなれば人口は増えようが無い。

 狭い場所に大々的に人間を押し込めて労務を提供する環境が無ければ、人口の集中は起きないから、アパートメントなんて建築する意味がない。トリステインのように100万の人口を擁する大都市の形成が意味のない状況となる。100万の人口を維持する物資の供給技術も相当な負担になる。

 極東のとある国では相当の昔からありえないほどの人口集中を見せた都市を何百年と維持してきたが、それは、そういう都市が一箇所だけだったから何とかなったのであって、国のあちこちにそういう都市があったら、あっという間に国家崩壊だったろう。件の国であっても、人口の一極集中ゆえに、それを円滑に維持する労力は中世技術では莫大な乱費だった。都市人口を3割程度に抑えて、国土に人口を分散させておけば、はるかに円滑な国家運営を永く続けられたはずだ。

 科学技術の裏付けが無い人口の一極集中は害悪しか生まないのだ。

 その科学技術の進展が、人口の一極集中を可能とした。遠隔地で採集される生鮮食料品を高速で安定的に大量輸送する事が可能となる技術的裏づけがあるが故に、1000万の都市圏などという途方も無い世界が可能となる。そしてそこから供給される労働人口を吸収できる工業があって初めて1000万の人口集中の動機となる。どの方面から見ても科学技術の発展が人口増大圧力の発端となるのだ。

 

 そしてそれらが生む結果として、世界は汚れる。

 

 どういう方向から見ても、トリスタニア……ハルケギニアが綺麗なのは不自然極まりないのだ。イングリッドが知る常識からは、ハルケギニアの世界を冷静に俯瞰できないのだ。しかも6000年の歴史である。3億の人口を擁する世界としてはこの世界は異様に「綺麗」なのだ。イングリッドには理解できない。

 

 イングリッドの見るこの世界には、まるでアニメーションで描かれた町並みを見るような、奇妙な違和感があった。

 

 ルイズの横で、シートに座ったイングリッドは、窓から街路を見渡して顔を顰めていた。それを横目にルイズは、イングリッドが顔に浮かべる表情に理解が及ばなくて戸惑ってしまう。腕を組んで背筋を伸ばし、シートに浅く腰掛けるイングリッドの姿は不機嫌そうだった。組まれた腕を、イングリッド自身の指が不規則に叩いている。ルイズならば貧乏ゆすりを発生しかねないほどに不機嫌な雰囲気が溢れていた。そういう2人の姿に気がついていたキュルケは、ことさらに明るい声でルイズに会話を投げかけた。必死で話題を捻り出そうと努力を続けていた。会話を受けたルイズが隣にそれを投げ渡して、話題に乗った瞬間は穏やかになるイングリッドだが、話題が途切れると、ふとした瞬間に難しい表情を浮かべて、頭を捻ったり、顎を扱いたりする。その姿を見て、ルイズが眼に見えて落ち込む。それに気がついてキュルケが頭を絞って話題を振る。それが繰り返された。

 それを苦痛とは思っていないキュルケもなかなか良い思考していたとも言える。実のところ激しく面倒見が良いのがキュルケの長所でもあった。生来のお姉ちゃん気質とでも言おうか。出自的にまったく孤立した人生を歩んできたキュルケであったが、そうであるが故に、そういう気質を磨いたと言うならキュルケにとっての僥倖だった。よい気質を育んだと言えるし、面倒を背負い込む性格になったとも言える。人生のある一面で大いに損する人間性だった。

 そういうわけで、無意識に何くれと2人の面倒を見るキュルケだったが、苦痛は感じていなくても疲労は鬱積していた。本当に損な性格である。

 

 

 

 パレス・デ・レ・アル(トリスタニア中央市場)入り口は大混雑だった。

 パレス・デ・レ・アル正面入り口から200メイルは、自動車が出入りするのに便利なように左折用レーンが2車線用意されていたし、馬路と車道の間にもう一車線増やせそうな路肩も用意されているが、そこからはるかに離れた場所まで大渋滞だった。左折待ちの車が本線まではみ出して混乱を助長する。馬路も混雑がはなはだしく、それを嫌った馬や馬車が車道にはみ出したり、単騎駆けの者の中には歩道を走り始める者まで現れて混沌に拍車をかけていた。

 のろのろと動くキャブリオレの中で4人は辛抱強く待っていたが、その視線の先で、同じように列に並ぶハンサム・キャブリオレが路肩に寄せて、客が降りる姿を見ると、キュルケが遂に爆発した。

 キュルケはシートから飛ぶように跳ねると、思い切り天井に頭をぶつけた。その様を見てタバサがびくりと身体を震わせる。唐突な行動とその結果を見てルイズもイングリッドも呆けた風で頭を抱えるキュルケを見つめる。

 

「つうぅ……」

 

 涙を湛えた瞳を上げて、慎重に身体を起こしたキュルケは、目の前のイングリッドとルイズの表情に気がついて刹那、顔を赤らめたが、首を振って前に向き直る。我慢できずに「ぷっ」と噴出したルイズを無視して身体を傾げて首も傾げ、折り曲げた右腕で天井を下から押さえつけて身体を安定させながら、客室と運転席を仕切る窓の前に身を乗り出して、それを乱暴に叩いた。

 ルイズとイングリッドは、その2人の身体の間でシートに左腕をついてそういう行動を取るキュルケの意図を測りかねた。そうして無表情に見つめるイングリッドの視線の先で窓が開いた。渋滞に一番ウンザリしているであろう運転手が、疲労の隠せない表情で顔を覗かせる。

 

「どうされましたか、お客様?」

 

 その言葉をかけられている最中に右腕で懐を探ったキュルケは、こちらを見る運転手の鼻先に硬貨を2枚差し出す。

 

「ここで降りるわ」

 

 その言葉に溜息を吐いて頷いた運転手は、ひとまず差し出された硬貨を無視して左側のサイドミラーに眼をやり、次いでルームミラーを見て後ろを確認する。首も回して左右の安全を確認した後、ハンドルを大きく回して路肩に車体を寄せた。ブレーキを踏みながらサイドブレーキレバーを引き、インパネにある幾本かのレバーの中から2本を選んで下に押し下げると、軽く空気の抜けるような音と共に車体左側の客席ドアが開いてゆく。

 運転手はそれを確認してから、差し出されたままだったキュルケの手のひらからゼッキーノ金貨1枚を受け取った。

 

「お釣りを用意しますので少しお待ちくだ……」

 

 前に向き直ってコンソールから財布を取り出した運転手に、キュルケはもう1枚の金貨を投げつけた。

 

「チップよ。釣りはいらない。ここまでアリガトね!」

 

 辛うじて金貨を受け止めた運転手に声を投げかけて、あわあわする彼を無視して身を屈めつつ、キュルケは飛び降りた。渋滞する馬路をさっさと横切って、植え込みを軽い仕草で飛び越え、歩道に立って伸びをする。鼻先を掠められた馬が嘶いて抗議の意を評するがキュルケは気にも留めない。

 意外なほどに身が軽い仕草を見せたキュルケを見送って、イングリッドは苦笑いと共に溜息を吐いた。運転席側に左手を挙げて運転手に無言の感謝を告げると、イングリッドも開いたドアに身を寄せる。

 首を出してさっと左右の安全を確認すると、路面に降り立ち、ステップの横に移動する。妙に疲れた表情を見せるタバサがゆるゆるとした仕草でドアに近寄ったので、イングリッドが手を差し出す。タバサは素直にそれをつかんだ。ステップを踏んで、タバサがゆっくりと路面に降り立つ。

 呆れた表情でキュルケを見送ったルイズは盛大に溜息を吐いて車内に立ち上がり、前に振り向いて、多すぎるチップに戸惑う運転手に作り笑いを向けた。

 

「ここまでありがとう、ね。運転手さん。お金は受け取っておきなさい」

 

 ルイズもドアの横に移動すると、それを認めてステップに片足をかけたイングリッドが、その腕を取る。

 イングリッドのエスコートで路面に足をつけたルイズの背中に、運転手の声がかけられた。

 

「有難うございました。またのご利用をお待ちしています!」

 

 その声に前を向いたまま左腕を挙げて手をひらひらさせたルイズは、イングリッドに手を引かれたまま馬路を横切り、植え込みのとことどころに設けられた横断用の通路を迂回して歩道に移動した。まっすぐに全てを横切ったキュルケから若干離れた場所で歩道に達した3人は、首をふるふると回して腰に手をやり、ストレッチじみた行為を見せるキュルケに合流した。

 キュルケが3人に気がついて、首を戻す。身体を回して3人に相対する。腰に手をやって両足を軽く開き、背筋を伸ばして顎を僅かに突き出し、芝居じみた仕草で髪をかき上げて、小さな笑みを浮かべて喚く。

 

「おそーい!」

 

 その声を無視してすたすたと歩くルイズは、そのままの勢いを保ってキュルケのわき腹を両手で押した。突き飛ばしたと言ったほうが自然か。キュルケが倒れそうになって、慌てて踏ん張った。僅かに強張った表情で、身を落としたキュルケがルイズに振り向くが、次いで出されようとした声を遮って、腰に手をやったルイズがキュルケに強めの視線を浴びせた。

 

「はしたない事しないの、キュルケ。マントを翻すような事をしないで!」

 

 イングリッドは、どこかの女学生がスカーフを翻すような事ははしたない事なので、常日頃から気をつけて歩いているような話をしていた事を思い出す。それと同じ事なのかと合点したが、魔法学院内では割合に皆、マントをはためかせるのを普通にしていたとも思い出す。つまりは、外向きでの話かと勝手に納得して自己完結した。

 うんうんと頷くイングリッドを薄い疑問符で彩った表情で見るタバサ。しばし見つめた後、キュルケのほうに視線を移して歩く。つい先ほどまでの微妙な表情は消えて、常日頃の表情が戻っていた。

 不特定多数の人間が往来する歩道に何気ない仕草で視線を移ろわせながらタバサの背中も見るイングリッドは、ルイズとキュルケが気がついていなかったタバサの微妙な変化に想像を走らせる。

 

 ……きっと、自動車のような乗り物に弱いのだろう。そう評価する。

 乗り物酔いしやすい体質というのは、ただ単純に「弱い」以外に、空間把握能力が高い者、という場合がある。他の、もっと普遍的な理由があるのに、一番最初にそれを思ったのはタバサの姿であるからだった。

 動く風景の中で自身の位置を素早く特定できる者の中には、自分自身が操っていない乗り物の動きと、自己の意識する位置関係が微妙にずれていく感覚をうまく補正できずに「酔う」場合がある。三半規管に優れた能力を持ち、視力がよく、聴覚も良いという者に顕著にそういった症状が出る。こういった者は、丁寧で癖の無い運転手が操る自動車や、厳密な規格で敷設された鉄道であれば動きを素早く理解して、酔いが収まるものである。また、一定速度で動いている自動車では酔う事はない。

 ところが船のように、予測不可能な動揺があると、酔いをおさめがたい。慣れることも出来ない。渋滞に巻き込まれた自動車というのも都合が悪かった。背が低いタバサは当然座高も低いので、前を見る事ができる窓があるといっても、それは高い場所にあったので、タバサでは前を見る事は事実上不可能だった。つまり、断続的に発進、停車する自動車の動きを予測できない状態だった。進行方向に対して横か縦かと言う違いはあるが、タバサにとっては船に乗っているのと同じ感覚であっただろう。

 片目だけ視力が悪いとか、片方の耳のみ悪いとか言う場合も同じように「酔う」のだが、そういった者は慣れないと、自分が運転する自動車の動きですら酔ってしまったりする。タバサの場合は、自分で運転する場合には平気、という手合いだろうとイングリッドは見立てた。

 乗り物に酔うというのはそれ以外にも様々な要因があるが、タバサに対する評価はそういうものと結論したイングリッドである。

 そういう情報がどこで役に立つか判らないが、いちいちそういうことに思考を飛ばしてしまう自身の思考形態に苦笑いを浮かべつつ、イングリッドは、肩を並べて歩道を歩き始めた3人の、その背中を追った。

 

 

 

 パレス・デ・レ・アルは大盛況だった。窮屈に軒を連ねる商店の狭間に20メイルほどの幅を持った街路が貫くが、せっかく広いその道を出店が埋め尽くしている。どこの世界でも変わらない市場の風景だった。

 貴族の姿は見られなかったものの、明らかに貴族の使いといった風体のフットマンやポーターが食料品や日用雑貨を抱えて歩き回っている姿も見られる。消費財を抱えて歩き回っているというのも変な話だが、彼らが腕に抱えているものは、高級品とか掘り出し物とかそういった類のモノなのだろう。日常的に消費される食材とか雑貨品ならば、貴族の家に直接出入りする業者があるはずである。そういう意味でも貴族がこういった場所に姿を見せるなんて殆どありえないのだろう。

 よって、混雑を作り出している人間の群れとは、つまりは平民なのだ。治安を預かる警邏とか、違法販売品の取締りを行う役人とかの姿もあったが、現場に出る人間は、基本的に平民なのだ。イングリッドが観察するところ警邏にせよ役人にせよ、想像以上に魔法の杖を持っている者が多い。しかし彼らはマントを身につけていない。であればメイジであっても貴族ではないのだ。よって疑いようも無い貴族であるルイズたち3人と、その後ろを付き従うイングリッドに近づく者はいない。大げさな間隔を開けてみんなが道を空けてゆく。あからさまに迷惑そうな表情を浮かべる者も多いが、視線を直接向けてくる者はいない。有名観光地の商店街ほどに足の踏み場も無いような混雑が、イングリッドの視線が通る範囲内の全てを埋め尽くしているが、4人を避けるぐらいの隙間を作るのは容易である様だ。4人を避けようとする人の波が、買い物をする人の波とぶつかって、商店や屋台の商品の山を崩したりする騒ぎがそこここで起きるが、イングリッドの前を歩く3人はそんな下々の出来事に気を向けるそぶりすらなかった。平民の人波を歩く貴族にとって、出エジプト記のような光景などは当たり前なのだろう。文化がちがーうと叫べばいいのだろうか?イングリッドは苦笑いするばかりである。

 

「……まずは、どこへ行くのじゃ?」

 

 周囲の状況を見渡しながら問いかけるイングリッドに刹那振り返ってルイズが頭を捻る。立ち止まったルイズにキュルケとタバサが訝しげな表情を浮かべつつ、数歩たたらを踏んで立ち止まる。その姿を見て同じように立ち止まったイングリッドにルイズが溜息を付いて、戸惑うイングリッドを引っ張った。

 

「一緒に歩こうよ、イングリッド。そんなに離れなくて良いからさ」

 

 戸惑いを収められないイングリッドが引っ張られるままにキュルケとタバサの横に押し込められた。4人が横一線に並んだ姿を見て、周囲の人間が迷惑そうにする。狭い通路にルイズ、イングリッド、タバサ、キュルケの順に並ぶ。迷惑どころではなかった。

 

「まちなされ、我主ルイズよ。これでは酷く邪魔じゃぞ」

 

 その言葉に3人が一斉に首を捻ったのを見てイングリッドはこけそうになった。3人は真実、自分達が周囲に混乱を撒き散らしている現実を理解していなかったのだ。本当に貴族なのだ。

 イングリッドはルイズに腕を取られて身体を寄せている。しかしその右でタバサもキュルケも十分な間隔を開けて普通に距離を取っている。会話をするのに不自由は無く、歩くのに腕をぶつけない自然な距離だ。学院で構内を歩くにはまったく自然な間隔だったが、こういう混雑した場所で歩くにはありえない姿だった。3人はそれを理解していない。

 イングリッドは眼を震わせながら、左腕に引っ付いたルイズを引きずってタバサに近づいてその体を押し、キュルケに寄せる。疑問符を浮かべたタバサは押されるままにキュルケに近づくが、同じように疑問符を浮かべたキュルケは、寄せられるタバサを避けて距離を取ろうとする。

 その姿を見てイングリッドは、口元を震わせながら右腕を延ばしてキュルケの左腕をつかみ、タバサの右側に引き寄せる。

 

「ん、まあこんなもんじゃろ」

 

 街路に立ち止まって3メイル以上の幅を取っていた迷惑な貴族の集団は、イングリッドの努力で2メイル以下に収まった。周囲を避けて歩く人々の群れが心なしかスムーズになる。その状況にタバサが最初に気がついた。

 

「ん……気がつかなかった」

 

 その言葉に再度首を捻るルイズとキュルケ。タバサは首を傾げて密着する身体を離そうとするキュルケの左腕をつかんで引き寄せる。

 

「迷惑」

 

 ゆっくりと周囲を見渡すタバサの視線に釣られて、同じように視線を動かすキュルケとルイズ。背の低いルイズはともかく、人の群れの中で頭一つ飛び出したキュルケの姿を見て、視線から逃れようとする平民が、一部で押し合いする。その騒ぎが横に伝播して、衝撃を受けた哀れな出店屋台の商品が崩れ落ちて店主が慌てる。幸いにして通路側でなく店内側に崩れたために、更なる混乱を招く事態には至らなかった。

 そこまで見て初めて2人は合点したようだった。僅かに顔を下に傾げたキュルケはばつが悪そうに鼻をかいた。ルイズはいっそうイングリッドに身を寄せる。

 

「気づかなかった……」

 

 イングリッドに顔を向けるルイズは気恥ずかしそうに首を振った。それに笑顔を向けたイングリッドは口を開きかけて何かに気がつき、一瞬で表情を緊張させてルイズに相対する形で身体をすばやく回す。ルイズの身体を前抱きにして、タバサとの距離を取る。左腕をルイズに取られているために、そうせざるを得なかった。その横でタバサが遠慮なくキュルケを右に突き飛ばし、タバサ自身はそうして空いた空間に身体を避ける。ただし、身体だけ避けたので、地面に突き立てられた彼女の長大な杖はその場所に残った。左腕につかまれた杖は斜めに傾ぎ、何かの罠のように空間を遮った。

 

 そこを走り抜けた男がいた。当然のごとくタバサの杖に足を取られてつまずき、派手に顔面から4人の前方に身体をダイブさせる。「ずさっ」と音を立てて身を滑らせた男は即座に身を引き起こして刹那振り返り「ちっ」と声を上げて人の群れを掻き分けて走り去る。突き飛ばされた人々が抗議の声を上げた。

 ルイズが呆れた表情で男の背中を見送る。

 

「……何アレ?」

 

 身体を元の位置に戻しながらイングリッドはタバサを見る。地面に腰を落としたキュルケを引っ張りながらタバサもイングリッドを見つめる。その仕草を横目に、腰を払いながら立ち上がったキュルケが溜息を吐く。

 

「スリね」

 

 びっくりして眉を跳ねたルイズがキュルケを見つめる。眼を細めたキュルケはやれやれとばかりに小さく両手を振り仰いで首を振る。イングリッドとタバサが頷く。キュルケはその姿を見てタバサの頭を撫で付けた。

 

「あいかわらずカンが良いのね」

 

「ん」

 

 頭を撫でられながら、タバサは再度頷いた。そこから視線をルイズに戻したイングリッドは、そして周囲に気を配るように眼を揺らす。ルイズはそんなイングリッドに感嘆を滲ませてた。

 

「気がつかなかったわ……」

 

 しかしその言葉にイングリッドは表情を緩めない。難しい表情のまま、後ろを流れる人の群れの中、一点を見つめる。ルイズは首を傾げた。

 

「どうしたの……?」

 

 眼を細めるイングリッドの腕が妙なところに伸びている事に気がついて視線を移すと、ルイズ自身のポーチをかばうように、力の入った事が見て取れるイングリッドの手のひらが見えた。

 

「?」

 

 疑問を浮かべてイングリッドに視線を戻すルイズ。イングリッドは刹那、ルイズに視線を移して、元の場所に視線を戻す。

 

「……魔法を使ったスリと言うのもあるのかや?」

 

 その言葉を受けてキュルケが慌ててイングリッドの視線を追う。タバサが僅かな緊張を滲ませて周囲を見回す。ルイズが口元を強張らせた。

 それで、イングリッドは緊張を解いた。

 

「こちらが気がついていることに相手も気づいた様じゃな……3人は確認した」

 

 身体を傾げて右腕を水平に突き出し、次いで、髪をまくって首を振ったイングリッドの仕草に、銀色の髪が輝きを散らす。そうしてその視線がタバサに下ろされる。

 

「どうじゃ?」

 

 タバサは3人にのみ辛うじて確認できる小さな仕草で頷いた。

 

「2人一組。別の場所に見張り。多分もう1人、掏り取ったモノを受け取る役割の子供。あと、さっきの男がコッチを見つめてた」

 

 その言葉に天を振り仰いだイングリッドが顔を右手で扱く。

 

「おおう……、5人いたか。そこまでは気づかんかったわ。タバサは優れて気が効くの」

 

 ルイズを引きずってタバサに身を寄せるイングリッドは、右腕を伸ばしてタバサの首、その後ろ側を撫でた。頭の上にキュルケの手が乗っているので仕方が無かった。鉄面皮の影にこそばゆい表情が見え隠れする。そのタバサの姿にイングリッドは眼を細めた。

 瞬間、イングリッドはルイズの身体を引き剥がしてタバサに押し付け、一瞬で数メイルを跳ね、4人を避けて歩く人波から1人の男の顔をつかんで引きずり出す。160サントはあるそこそこ屈強な出で立ちの髭面がなす術も無く引きずられる姿を認めた人々が、あっけに取られて立ち止まる。

 顔面をつかまれて、仰向けに引きずられる男は顔を強くつかまれているがために言葉にならない言葉を喚いていたが、刹那、勢いよく投げ出されて地面に転がる。慌てて立ち上がろうとしたその胸をイングリッドの右足が押さえつける。軽く乗せられたような仕草だったが、それで男の動きは完全に封じられた。必死で地面をかく男は微動だにしないイングリッドの足に、腕を叩き付けた。それが岩か壁かとばかりに頑強である事に気がついて動きを止め、脅えた視線で見上げる。その先には端を跳ねた奇妙な笑みを口元に浮かべた顔があった。

 語気を強めて、周囲に響き渡るかのような声をイングリッドは発した。

 

「舐めんでもらいたいの貴様等!失敗したのだからケツを捲くれば良かったのじゃ!」

 

 鋭い視線で男を見下ろし、次いでもったいぶった仕草で周囲を見渡すイングリッドの姿に脅えた周囲の人々が距離を取ろうともがくが、前後から押し寄せる人の波が動きを滞留させる。その中でことさら大袈裟に人を掻き分ける背中に視線を送るイングリッド。

 

「貴様等の臭いは覚えた」

 

 数人がびくりと肩を震わせる。1人がこちらを思わず振り向いて、その先に間違いなく自分を見つめるイングリッドの冷たい視線があることを理解して、慌てて視線を振り切って身を屈めた。

 それを見送ってイングリッドは地面を這い蹲る男から足を離し、腰に左手を当てて、おデコにひさしを作るように右手を掲げた。下から見上げる男の視線の先で、眩しい太陽光を遮られたイングリッドの顔が露になる。

 黙っていれば万人が美少女と評する顔には表情が薄かった。しかし、視線には隠さない強い感情が含まれていることに気がついて男は、一層身体を振るわせる。ニヤリと口元を吊り上げたイングリッドは、怒気を含めた声を男に振り落とした。

 

「3度は無いぞ」

 

 その言葉に含まれているモノの意味を刹那の間をもって理解した髭面は、かくかくとした動きで首を上下に振る。それを受けて右手も腰にやったイングリッドは、束の間、男を無表情で見つめた後、溜息を吐いてルイズに視線を送り、あっけに取られている姿を見て小さく笑い、左手で「しっしっ」と男を振り払った。

 

「去るが良い。……2度と我に顔を見せるなよ」

 

 腰が砕けた男は、地面を滑稽な姿で這いながら、イングリッドの声に振り向く。その顔にイングリッドの視線が突き刺さる。

 

「……たいして永くない一人の一生。忍んで沈むもはじけて散るもの自由じゃが……後悔の無い人生を送ることじゃ」

 

 先ほどとは一転、妙に爽やかな笑みを浮かべたイングリッドの姿に、情けなくも涙を湛えた表情を隠すことなく、男は慌ててどうにか立ち上がると、人波に突進してそれを掻き分けて走り去った。周囲に立ち止まった人々と、それに遮られて戸惑う視線がイングリッドに集中する。肩を竦めたイングリッドが小さく首を振って、顔を上げ、周囲に視線を送る。

 

「見世物では無いのじゃがな……」

 

 「ピッ」と突き出された右腕が空気を切り裂いて、微かに甲高い音を立てる。まっすぐに突き出された腕は、次いで、ゆっくりと曲げられてイングリッドの耳に触れる。そのまま髪の毛の内側に差し込まれた腕が、髪の毛をまくって、大きく銀色を撒き散らした。

 それで我に帰った人々が、慌てて自身の目的を思い出したかのように、動作を再開する。三々五々に散って、市場に動きが戻った。右側のアンクルを擦りながら、やれやれとばかりに首を振り、ルイズの前に戻ったイングリッドは相対する桃色の髪の毛の下に、あんぐりと口を開けた表情を見つけて、苦笑いを浮かべながら僅かに首を傾げて腰に手をやり、溜息を吐いた。

 

「やりすぎたかの?」

 

 ルイズの横でタバサが首を振る。

 

「ん。いい薬」

 

 左足に体重を寄せて、右足を斜めに投げ出したイングリッドはタバサに視線を向けて笑った。

 

「で、あるか」

 

 笑みを浮かべたままルイズに視線を戻したイングリッドは、呆けた表情の肩に、手を乗せて軽く揺すった。

 

「で、だ」

 

 のろのろと表情を戻すルイズの顔を覗きこみながらイングリッドは尋ねる。

 

「……まずは、どこへ行くのじゃ?」

 

 キュルケはその言葉に溜息で答えた。

 


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