ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

22 / 27
 いろいろ大事な事が書かれた話です。じっくりと読んでください。


初めてのお出かけ(5)

 着地の衝撃でシルフィードから振り落とされたイングリッドは、ようやくその段になって正気を取り戻した。正気は取り戻したが、なす術もなく硬く舗装された地面を転がった。()()のイングリッドを知る人間なら、なかなか衝撃的なシーンが展開されたことになる。

 

 地面を転げるイングリッドの姿をシルフィードの広い背の上で見送って、顔を見合わせたキュルケとルイズは、着地の際に感じた衝撃の大きさから、シルフィードがあえてハードランディングしたのだと理解した。だが、それがシルフィードの自主的な判断によるものか、はたまたタバサの命によるものか。その判断はつかなかった。ただ、離陸時に一切の衝撃を与えぬままに、ふわりと浮き上がったシルフィードである。地面に穴でも穿つのではないかと思わせる今の衝撃は、少々予想外だった。

 そうは言っても、2人にとってもかなりうざい状態になっていたイングリッドの姿を見れば、投げ出したくもなるかな、というのが2人の、口にしないまでも統一された見解だった。ましてや尻尾の付け根に抱きついて、ごそごそと下を見回していたのだから、シルフィードには「うざい」どころではなかったであろう。あの状態で安定した飛行を保ったシルフィードは大変にご苦労様なことであったし、それを見越した上でなのかどうかは判らないが、不安定な場所で身体を乗り出して「ふぬふぬ」言っていたイングリッドも大変にお疲れさまであった。

 ただし、投げ出されたイングリッド自身の身体に関する心配は2人にはなかった。投げ出された程度の衝撃でイングリッドがどうこうなるとは2人には想像できなかった。よって、心配するだけ無駄だろうという意見である。まったくありがたくも、それぐらいには信用されているイングリッドだった。

 それ以前にルイズにとっては、飛行の最後の段階で、やたらとおかしな行動をとるイングリッドの姿がある意味で衝撃的であったので、呆れた感情が心の大部分を占めて、イングリッドを心配する気持ちがどこかに押しやられていた部分もあった。

 キュルケにとっては、謎だらけで怪しい雰囲気のあるイングリッドだが、見た目に不相応な行動をとりつつ、時に、見た目に相応な行為を行うことには好意的な評価を付けがちであったので、地面を転がるイングリッドを見て苦笑いするだけだった。その外観を見ればどう上を見ても15か16歳程度であるのだから、19歳のキュルケとしては背伸びをして大人ぶる妹を見守るような気分だったのだ。

 イングリッドがルイズに告げた、それを告げられたルイズ本人も大いに判断に迷うところのある自己申告年齢を聞けばキュルケはひっくり返ることになるであろうし、本当の年齢を聞けばショック死するところだろう。

 タバサは鉄面皮のままで転がるイングリッドを見つめるだけだった。

 

 そういう生暖かい視線の中でしかし、周囲の人間が起こした反応が大変だった。その立場に慣れきって、さらに外部と遮断された学院という箱庭のなかでは貴族という自覚が乏しい3人にとっては、イングリッドが地面を転がる姿は笑い話ですんだが、飛竜場職員としては冗談ではなかった。

 特に、シエル・デ・ドラグ・マズルカに乗ってやってきた=貴族という固定観念があるエプロン職員は、目の前で発生した「貴族様の転落事故」には大慌てである。「わっ」とばかりに皆がイングリッドに走りより、大の字になって空を見上げる少女の身体の状態を酷く心配させる事態になった。最初にたどり着いた者がイングリッドを引き起こす。

 その姿が想像以上に美麗で、その肢体が美しいことに気がついたある男性職員は、手に取ったイングリッドの右手が手袋に包まれていることに落胆しつつも、この日のシフトに入って仕事が出来たことに関して、永くブルミルに感謝の念を抱き続けたそうである。

 それはともかく、そうして頭をさすりながら熱を持って自身の尻を苛める地面に腕をついて周囲を見渡し、自分を囲んでいる男達に気が付いてイングリッドは小首を傾げたが、その仕草一つで顔を赤らめる羽目になったのは、男達にとっては情けなくも正しくもある反応だった。その中の一人がこわごわといった風情で、イングリッドに声をかけた。

 

「あの……!大丈夫ですか?」

 

 その言葉を受けて疑問を表情に宿し、ゆっくりと周囲を見渡して、こちらに苦笑いを送りながらシルフィードの背から降り立つ3人を見て取り、そして自分の状況を理解して、イングリッドは取り繕うように顔に小さな笑みを浮かべて頷いた。

 

「……おぉう、我の手抜かりじゃ。うっかり振り落とされてしまったわい……。大事無い」

 

 声をかけた職員が差し出す腕を取り、反動をつけて立ち上がったイングリッド。

 

「よいっしょ!」

 

 両足をピンと伸ばしてかかとを軸に、左腕を大きく振った反動と、男の腕のサポートで軽々と立ち上がった姿は、周囲に集まっていた職員に「この人に怪我はない」と納得させるに十分な説得力があった。安堵のため息が満ちる。その姿に気が付いて、イングリッドは大げさに頭を下げた。

 

「うむ。迷惑をかけた用じゃな。許せ」

 

 互いに顔を見合わせる彼らに頭を挙げたイングリッドは、笑顔を見せて首を傾いだ。

 

「ありがとう、の」

 

 腕を貸していた男を、握手というにはやや激しく振り回して、次いで手を離した。イングリッドの照れ隠しだった。手を振り回された彼も、酷く赤らめた顔で頷き返した。

 やれやれとばかりに手を振り仰いで男達は、それぞれの持ち場に戻る。ただし、イングリッドに触れていた男はやたらと他の男にちょっかいを受けつつ、背中をバシバシ叩かれながら、アレコレと立ち並ぶ資材の裏手に集団で「立ち去った」。あれが男の友情というものかと妙な誤解をしたイングリッドは、他の職員の前で、なにやら手続きらしき行動をしているルイズたち3人を見守る。

 その後ろで、ドーリーが用意されてシルフィードがのそのそと足を乗せる。8本足のぎりぎりグロテスクに見えないですんでいるぐらいのデザインの「馬」が、トーイングバーを介してドーリーに連結され、馬の上に運転手?が乗る。明らかに魔法的道具と思しき機材が、それも含めてエプロンを行きかっていることにイングリッドは感心した。

 その後ろで次のイズルカが降り立って、シルフィードに行われたのと似た動きが続く。現場の動きは迷いがなく、迅速で、秩序だっていた。文化的にも社会的にも成熟した世界が垣間見れたる光景だった。

 

 しかし、それらを眺めつつ、イングリッドは内心で動揺しきりだった。つい先程までの自身の心のありように衝撃を受けていた。僅かに過ぎ去った時間の中で、自分の行動が()()()少女のようであり、思い出した瞬間に顔から火が出るかと思ってしまった。

 

 

 見た目のありようから想像もつかないはるか過去から存在するイングリッドであるが、見た目は美少女(自称)で固定されている。余りにも長く固定された外見に自身で慣れきってしまい、その外観が周囲に与える影響を時に、考慮しないが故の混乱を巻き起こすイングリッドだが、そうではあっても、心のありようは風貌と一致していない自信が合った。

 筈だった。

 ドーリーに乗せられて、格納庫?厩舎?へと引っ張られてゆくシルフィードを見送り、こちらに足を向けたルイズたちを見るイングリッドはしかし、心ここにあらずで、ルイズの姿も唯視界に入っているだけであり、認識している訳ではなかった。近寄って声をかけようとしたルイズが、イングリッドの状況に気が付いて顔を顰める。呆れた表情で見る3人に、数瞬遅れて気が付いたイングリッドは、咳払いをくれてそっぽを向いたが、その内心は千路に乱れていた。

 

 まるで、姿容に引きずられたかのような自身の行動。それを自覚することも出来なかった結果。どうにもこのハルケギニアに召喚されてからの一々で、ちぐはぐな行動に終始しているような気がする。やることなすこと普段のファイターとしてのあり方から逸脱しているような気がする。

 過去を思い出してもそのような状態にある自分というのは想像できなかったし、思いだせる限りに於いてはそんな風なあり方を持つことはなかった。ような気がするとイングリッドは思う。しかし、今のイングリッドあり方は、前代未聞の状況だった。自己評価としても未曾有の事態に刹那、呆然とする。一体自分は……。

 

 そこまで思考を進めたイングリッドの頭に、小さな手が当てられた。縦に。それなりに勢い良く。所謂チョップというものであった。

 

「アイテテー」

 

 大して痛くもなさそうな声を反射的に上げて、大げさに頭をさすりながらイングリッドが振り向くと、ルイズが腰に手をやって溜息を吐いていた。いつの間にか建物側に移動していたのだ。イングリッドはそのことに気がつけていなかった。そのことにも驚いてしまうイングリッドだった。随分と迂闊なことである。

 

「なにぼうっとしてるの?ここに居ると邪魔になるから、すぐに移動するよ」

 

 表情が失せた顔を表して頭をさすり続けるイングリッドの姿にもう一度溜息を吐いたルイズは、イングリッドの右手をつかんで強引に引っ張った。が、地面に突き立てられた杭かとばかりにびくともしないその身体につんのめって、勢いよく倒れそうになる。

 イングリッドは慌ててルイズの腰を抱き寄せてかばう。意図せずに2人の体は密着した。

 

「おおう。大丈夫かやルイズよ。慌てて怪我をしてもつまらぬぞ」

 

 先ほどまでの葛藤を瞬時に投げ捨てて、ただルイズを心配してその顔を覗き込むイングリッドに、ルイズは一瞬で沸騰した。

 

「ば、馬鹿!誰のせいだと思って……」

 

 首を捻って覗き込むイングリッドの顔を、ルイズは下から両手で支えた。視線を思いっきり反らす。

 

「近いから、顔!」

 

 イングリッドの顎を右手で支えつつ、左手で突き飛ばそうとしたルイズだったが、イングリッドの身体は小揺るぎもしなかった。ルイズの反応の作用が彼女の身体を支えるイングリッドの右腕に伝わり、そのまま反射してルイズの意図とは逆に、2人の体の密着度が高くなる結果をもたらした。よって、周囲から見ると、あたり構わず肌を触れ合わせることを好む、ある方面の特殊な趣味の2人組が場所もわきまえずに乳繰り合うような光景が現出した。

 思考の混乱を引きずるイングリッドは反応が遅れ、ルイズはルイズで学院入校以来、肌で触れ合うような類の濃厚な人付き合いが薄かったが故に、ルイズ自身の思考を裏切って、その身体が大げさに反応してしまった。この場合は反応できなくなったと言ったほうが良いかもしれない。そうして2人は忙しく走り回る飛竜場職員の視線の中で、何がしかの演劇の1シーンのように見詰め合って固まった。見つめあう瞬間、好きだと気づいたとでも言いかねないような、一種幻想的な光景だった。このような場所で展開するようなものではない、という意味でも幻想的だった。

 純情な若い男児が多い飛竜場職員の中には、慌てて目を逸らす者もいれば、逆に眼を見開いて視線を釘付けにする者もいた。ドーリーで移動しながら首を回してタバサたちに視線を送るシルフィードは、やれやれとばかりに首を振った。

 

 その2人の頭をぽかり、ぽかり、と杖で殴ったのはタバサである。常なる鉄面皮の下から隠しきれない呆れの感情が滲み出ている。その後ろを追って、手にした財布の口を閉めながらキュルケが近寄る。何がしかの書類を渡されたタバサは、瞬間、書類に視線を走らせると顔を上げてキュルケに頷く。それに頷き返したキュルケは飛竜場を吹き抜ける風を身体で遮りながら、慎重に書類を折りたたんで、タバサのマントをめくり、その下から現れたサイドポーチに納めた。

 

「はいはいはい。仲が良いのは知ってるから、はやくカウンターに行って処理しましょ。時間がモッタイナイわ」

 

 ぱんぱんと軽く手を叩きながら、ルイズ、イングリッド、タバサの順に視線を送るキュルケ。最後に苦笑いを浮かべながら周囲を見渡すと、数人の職員が慌てて顔をそらして、彼ら自身の仕事を思い出して慌てる。

 左手で自身の腰をもみ、右腕を途中で折って、手のひらで空を仰ぎつつ、片目を髪の毛で隠しながら軽く頭を傾げて溜息を付くキュルケ。目が上を向いて軽く泳いでいる。絵になる姿だった。そういう部分でも一々計算されたポーズを自然にこなす姿は、キュルケならではだった。その横でタバサが棒立ちになって、無表情にルイズとイングリッドを見る。が、内心にいらだたしさがあるのか。右手の杖がゆらゆらと揺れていた。

 それに気が付いたイングリッドはわざとらしく大げさに咳払いをして、ルイズから僅かに距離をとる。茹だった表情のルイズの両肩をつかんで、回れ右をさせて、ここから見上げるとV字をこちらに開いている様に見える建物の、その付け根に身体を向けさせた。

 

「さあさ、ルイズよ。そろそろ行こうではないか。時間がモッタイナイよぞ」

 

 ルイズの身体を強引に押して歩き出したイングリッドの姿を認めてタバサを見下ろすキュルケ。タバサは「なに?」とでも言いそうだった。

 肩を竦めたキュルケは、2人を追う。タバサもその後ろを付いて行く。

 4人の姿が失われたエプロンでは、安堵とも残念ともつかないため息がそこかしこから漏れた。

 

 

 

 

 イズルカに騎乗し単騎で訪れるものは、極僅かな例外を除けば貴族であるので、イズルカ騎乗者用の到着ロビーは相応の設備だった。建物2階にあるロビーは、華美ではないがそれなりに手間もお金もかかっていそうな調度が飾られている。天井が恐ろしく高いのも「現代地球的な空港施設」を思い出させる光景だった。軽く20メイルはあるのだ。一階の天井は5メイルほどしかないが、それも建物の天井高としては破格の構造だった。そいった部分をのぞけば、全般的にはシンプルな装いだが、格調高い雰囲気で周囲を包んでいる。V字を見せる建物の付け根にカウンターがあって、そこでいろいろな手続きが行えるようになっている。

 カウンターと言っても、何十人もが同時にやり取りして困らない広さを持つし、それだけ広くてもなお行列が出来ているのだから、大変な混雑だった。イングリッドの見たところ、まさに空港そのものであった。

 行列の後ろでは、各々の手荷物がおかれるスペースがあり、麻薬探知犬のような「犬っぽい」モノを連れた警備員らしき姿がそれらの間をぬっている。明らかに魔法的な生き物であるから、危険物を探知することが出来るように訓練されているか、最初から危険物を探知できる能力を持った何かなのだろう。それらの生き物がやたらとイングリッドを気にして振り返るのがうっとおしかった。

 今イングリッドたちがたむろするロビーは、長辺の真ん中で切り取られて断絶している。吹き抜けがあって、その間にブリッジもないのだから隔絶した空間だった。東西に別々に区分されたスペースとなっている。V字の内側がイズルカ用。外側がマズルカ用と見えて、マズルカ向けのロビーは、イングリッドたちの場所に負けず劣らずの大混雑だった。時々怒号に近い声が上がり、係員や警備員に利用者そのものも含めて走り回っているから騒がしい。その騒ぎにベンチソファーに座るルイズが顔を顰める。

 吹き抜けから一階に眼をやれば、エプロンから断続的に人々が押し寄せている。長辺の真ん中で区切られた外側はそこそこ激しい混雑を見せるが、内側はお行儀の良い人々が僅かに群れるだけである。それを見て勘違いした人間が「外側」から「内側」に押し入ろうとして警備員と揉めている。それに軽蔑の眼差しを送って、お行儀の良い人々が、ポーターに荷物を引かせて2階に上がってくる。僅かな「壁」を境に世界が懸絶している姿が見れた。

 

「さわがしいの」

 

 苛々している風が傍目から見て取れるルイズの気を反らそうと、イングリッドがその横顔に声をかけた。彼女は即座に反応した。やはり苛々しているのだろう。

 

「ほんとね。まったく、躾が成っていないんだから」

 

 その言葉に苦笑いを浮かべたイングリッドがふとイズルカ・エプロンを見ると、翼を激しく羽ばたかせながら両翼50メイルになんなんとする竜籠が舞い降りる姿が見えた。地面を撫でる激しい風圧に、飛空場職員が身体を落として耐えている。

 実際に着陸をも行う場所を「エプロン」と呼んで良いかに刹那の疑問を抱いたイングリッドだが、それ以上に疑問を感じさせる光景に、慌ててルイズに問いかけた。

 

「ルイズよ。あれも竜籠と呼んで良いのかや?」

 

 周囲を見渡していたルイズはイングリッドの声に視線を移して、イングリッドが見たものを捉えて、小さな感嘆の声を上げた。ほぼ全面ガラス張りと言っても良い「壁」は、だが遮音性も断熱性も高いようで、建物内の騒がしさもあって、イングリッドに言われるまで、ルイズは竜籠の姿に気がついていないようだった。

 

「ええ。あれも竜籠と言えるわね。でも、本当の意味での竜籠よ。なかなか見れるものじゃないわ」

 

 イングリッドは首を傾げた。

 

「竜籠というのは術からずマズルカではないのかや」

 

 その言葉にルイズは小さく微笑んでイングリッドに視線をあわせる。

 

「うん、そうね。一般的な認識ではそれで良いのだけど、ああいう昔ながらの竜籠も、まだまだ残っているのよ」

 

 イングリッドはルイズの言葉をしばし頭で反芻して頷いた。

 

「あれが『本来』の竜籠というわけか」

 

「そうよ」

 

 

 

 つまりは、やはりイングリッドの最初に想像した竜籠の姿が本来的な意味での竜籠であったということだった。

 昔の竜籠は―――今でもわずかばかりに運用されているのだから完全に過去のもののように言ってしまうのはおかしいのだが、生きた飛竜に下げられたゴンドラに人が乗るものだった。ただし御者は飛竜の上に乗らないといけない。シルフィードのように、飛竜が使い魔であるなら、ゴンドラ内部から遠隔で指示することも可能であろうが、そして過去にはそういう例もあったのだが、捕獲、調教した通常の飛竜を腹の下から指示を出して操るのは不可能なため、そうせざるを得ない。

 そうであれば素人考えでも思いつくいくつもの困難がある訳で、飛竜を操る御者というのは極めて特殊な技能の持ち主ということになった。例えば、飛竜を操るなら飛竜の頭頂部に腰掛けることは合理的だろう。しかし腹の下にあるゴンドラが見渡せないので、着陸地点の選定が困難になる。本来の飛竜であれば、理論上、足が納まる場所があればどこでも着陸可能となるが、足が跨ぐ位置に馬車でも置いてあったらゴンドラが大変なことになってしまう。

 言うまでもなく飛竜はゴンドラを吊るすために生まれてきた生物ではない。足に獲物をつかんで飛ぶことは可能であるし、時に自身とほぼ同じ大きさの獲物をつかんで何十リーグも飛翔することが知られているから、大きな飛竜であればゴンドラを吊るすこと自体に不自由はない。ただし、足と足の間にあるスキマに腹を回したベルトで固定されたゴンドラをつけることは調教した後という話になる。幼い内から調教できた場合は除くとして、すでに自分の能力で自由に空を飛ぶことを知った飛竜となると、降りろといわれれば、足の置き場さえあればどこでも下りてしまう。大きな岩をまたいで、ゴンドラが岩と飛竜の腹に挟まれてぺっちゃんこになりました、となってしまえば、大惨事どころではないので、そういう部分も考慮して飛竜を操るのが御者の役割となる。

 だいたい、何十人も乗って、その荷物も載せて底が抜けないゴンドラという重いものを腹の下に吊るして、空を自由に飛べる飛竜などという存在がごろごろしていたら大変である。注意深く調教したから竜籠をぶら下げてくれるのであって、野生の巨大な飛竜にとっては本来、人間は唯の餌である。

 竜籠が素早く空を移動できる道具として便利でありながら長い間―――少なくとも4000年前までは超高級な乗り物であったのはそういう理由である。

 

 実際には巨大な体躯を持った飛竜は珍しい存在であるし、傷をつけずにそれを捕獲することは何十人ものメイジを動員した一大事業になるしで、さらに、傷をつけぬように捕獲をする困難さは言うまでもない。調教するとなればいかなる難題となるかは想像も付かないし(非捕食者が捕食者を飼いならそうというのだ!)、維持管理も考えると、どれほどの手間隙がかかるかというものだ。

 シエル・デ・ドラグ・マズルカというものが発明されて、突然に竜籠の門戸が庶民に開放されたのは当然のことで、大量の物資を運搬するような使用には適していないが故に、飛行船や飛空船が淘汰されていないのだが、こと、人間が移動するのであればこれほど便利なものもなかった。だから、多少は料金が嵩めど、野宿の用意とか、夜盗に脅える旅路とかを想像するならば安いものだと、あっという間に普及したのである。マズルカを当初開発した者が純粋な研究者だったことも功を奏した。最初の制御オーブの開発には1000人以上の犠牲が出たという伝説があるが、そうであったのに彼は、制御オーブのコピーに頓着しなかったのだ。

 外観や構造のコピーはトライアングル・メイジ一人か、複数のライン・メイジが協力すれば難しくはなかったので、シエル・デ・ドラグ・マズルカの普及はなおさらに急速だった。国家間の国家権力競争思考も含めれば、国策として大々的に普及が図られた面もあるから、改良型の開発競争も激烈だった。かくして古典的竜籠の経済的意味での存在意義は失われたのである。

 

「で、あれは?」

 

 窓の外を指差すイングリッドの身体の向きとは逆の位置で……タバサとキュルケはカウンターで喧々囂々である。いや、2人が喧々囂々ではない。一方的に騒いでいるのはキュルケだった。エプロンで手付けとチップを支払って仮書類を作り、それをカウンターで正式なものにする作業を行っているのだが、飛竜場使用料にシルフィードの預かり賃といろいろと金がかかるのだが、シルフィードの大きさについてキュルケが譲らなかった。

 外形5メイルおきに料金が変る制度だが、累進加増制度なので、大きくなればなるほど急激に高額になる。エプロン職員はシルフィードの大きさを、地面に書かれた目安の印と見比べて20メイル程度と判断して、書類にも20メイルと書き記した。

 

 これがキュルケがごねる元になってしまった。20メイルが「以上」なのか「未満」なのか。常識的に考えて、20メイル以上25メイル未満と言うつもりの「20メイル」なのだろうが、書類に書き記す数値として不備があったのは間違いがなかった。厳密に「20メイル以上25メイル未満に該当する」ことがはっきりわかる書き方―――つまり、適当に23メイルなどと書いても良いし、本来ならば、そもそも規則上は「20メイル以上25メイル未満」と書くべきだったのだ。

 キュルケがシルフィードを20メイル未満と強弁するのは、飛竜場側のミスであるとも言える。取り扱いが極めて面倒なイズルカである。もともとの料金が高いのも当たり前なのだが、キュルケも必死である。本来はタバサが払う金であるのだが。

 そしてタバサはそれに頓着していなかった。迷惑そうにキュルケを見上げて、唾を飛ばすその姿ををぼんやり見ている。カウンター職員も相手が貴族であるとはいえ、ここで引き下がれば他の貴族に「我も我も」とやられてなし崩しになるのは確実だから「決死」の覚悟である。

 

 そうなると、騒ぎは短時間で収まらないだろうと思いつつ、イングリッドは知らぬ風を貫く。まあ、キュルケであるので騒ぐだけ騒いで満足すれば引き下がるであろうという目算もあった。キュルケがめんどくさい思考を持つことに気が付きつつあるイングリッドだが、引き下がるとなればあっさりと矛を収めるだろうとも思っている。キュルケが満足するまで騒がせておけばよかろうと無視して、巨大な飛竜に視線を戻した。

 

 ルイズは、イングリッドが何を見て視線を反らしたかに気が付いて、自身もそれを無視しつつ、飛竜を見た。

 

「まあ、貴族の見栄ね」

 

 

 

 言葉通りである。

 得ることも維持することも困難な「竜籠」であるから、それを所有しているだけで貴族の格が上がる。マズルカの普及で貴族以外ではことさらに新規に古典的竜籠を得ようとする者が少ない現代では、なおさら「実用的ではない」とされるシエル・ゾ・ドラグーン(古典的竜籠)を所有することの意味は高いとも言える。

 マズルカの普及以前からでも竜籠の所有はステータスであったから、逆に、今になって古典的竜籠の所有欲求が大きくなっている部分もあった。皮肉な話である。

 それでも巨躯を持つ飛竜の絶対数が少ないのであるから、どれほど需要があっても古典的竜籠の数が急速に増大する結果とはなっていない。そして需要があるのに供給がないとなれば、その対象価格は高騰するわけで、ますます古典的竜籠のステータスが上がる訳である。

 今、確実に古典的竜籠を得ようとするならば、もともと所有している貴族に頭を下げて金貨を積み上げるぐらいしか考えられない情勢なのだ。新規の古典的竜籠を得ようと思えば、相当以上の幸運を祈るのでなければ何十年というスパンで見る大事業となってしまう。先祖伝来の竜籠を持っている貴族となればそのステータス性は格別なものである。

 

 

「先祖伝来とな?飛竜とはそんなに長生きなのか?」

 

 首を捻るイングリッドに、首を振りながらルイズは溜息を吐いて応えた。

 

「イングリッドって時々ものすごい馬鹿……うっうん!世間知らずに見えるわね」

 

「馬鹿って……お主」

 

「ルイズよ」

 

「……」

 

 

 

 飛竜の生物学的寿命は確定していない。竜種全般がそうなのだ。なるほど、一度飛竜を手懐ければまさに貴族にとって、かけがえのない財産となる訳である。一生モノどころか末代まで轟き渡る業績のひとつと見られる理由である。

 無論不老不死という訳でもない。困難とは言え、人が打ち倒すことも可能だし、飛行中に悪天候に阻まれて墜死という例もある。しかしそれ以上に飛竜が死ぬ原因として知られているのは、何十年かに一度行われる脱皮である。

 脱皮一回で5分から一割は大きくなるといわれる飛竜である。脱皮をすればするほど幾何級数的に大きくなることが知られているが、ある程度の大きさを超えた竜種の脱皮は非常に危険が大きいのだ。

 

 脱皮行為自体が無防備を晒す状況であるし、実際に、竜種を狩る、飛竜を捕獲するという行為を行う上での最大のチャンスは彼らの脱皮中なのだ。

 無論、彼ら自身もそれに自覚があるが故に、深い森の中とか、険しい山の奥とか、巨大な自然洞窟の突き当りとかで脱皮を試みるのだが……体躯が大きい竜種は、脱皮に手間取って敵に襲われることもあるし、脱皮そのものに失敗して、息絶えることすらある。年老いた巨大な竜であれば、そもそも身を隠すことも困難になる。

 脱皮自体が途方もなく体力を消耗する行為であるし、脱皮に失敗して身体の自由を失い、衰弱死ということもある。大きくなればなるほど、どうしようもなく脱皮に伴う体力消耗も激しくなるし、大きくなれば手先の器用さを失うのだから、脱皮はますます困難になる。大きく育った竜種は一般的に、体表が分厚く頑丈になることが知られているので、それもまた脱皮を困難にさせる原因となる。だからと言って脱皮を我慢すれば、自らの表皮に締め付けられて圧死などという愉快な事態になる。だから竜は脱皮に命をかけざるを得ないのだ。

 よって、彼らの寿命とは脱皮が不可能になったそのときではないか?というのが現在の主流な学説である。

 

 学説が学説にとどまっている理由は、人間の手によるものである。ヒトに飼われる飛竜であるならば、それがいつまで通用するかという疑問はあるにせよ、脱皮をヒトが手伝えるのだ。道具や魔法を使って表皮をはがしてしまえば良い。ただし脱皮を手伝う行為は普遍的ではない。脱皮に苦しんでいる飛竜に突然近づいて表皮を引き剥がそうとすれば攻撃されたと勘違いして流血の騒ぎである。実際に何度もそういう事故が発生したのだ。それでもヒトが手伝おうとするのは立派な飛竜を維持したいという打算もあるし、単純に苦しんでいる飛竜を助けたいという純粋な好意もあった。しかし、大抵は飛竜の死と言う悲劇的な結果に終わっている。

 飛竜の寿命が永久に近いのに竜籠の数が純増しない最大の理由なのだが、例外があって、脱皮が簡単に済むころから積極的に脱皮を手伝っていた貴族がいたのである。

 まったくの偶然でしかなかったが、最小でも一日がかりの脱皮を、時間がかかってはそれだけ飛竜を使う機会が減るからという理由で、飛竜が幼い内から脱皮を手伝った貴族がいたのだ。

 竜籠としてではなく、イズルカとして使っているうちからそういう扱いを常態として、飛竜を甘やかす貴族がいたのだ。

 柔らかい表皮を持っている時代に、手作業で撫でるように外皮を毟ることをしているうちに飛竜も、人間が脱皮を手伝ってくれるのだと理解したのだ。そうして、大きくなって脱皮に困難と苦痛を得る状況になっても、寧ろ積極的に人間に脱皮を手伝わせるようになった要領の良い飛竜が少数生き残っている。その中には始祖の時代から生き残っているとか、背に始祖を乗せたことがあるとまで言われている飛竜までいるのだから、やはり竜種の寿命は謎だとしか言いようがない。

 

「んむ。なれば、あれは有名な貴族の持ち物……と、言うことかの」

 

「ジュネス・ジョワ・ドラグ・エスポワーレね」

 

 その言葉を聞いて、イングリッドは噴出した。

 

「大仰な……いや、すごい名前じゃの」

 

 イングリッドの笑い声に、首を伸びやかして眼を見開いたルイズ。その顔には驚きとも呆れともつかない表情があった。

 その妙な表情のまま、しばしイングリッドを見つめた後にルイズは肩を顰めて身体を屈め、イングリッドに擦り寄ってその顎を下からつつく。その目は半眼で、睨みつけるような形状になって、首を大きく傾げながら見上げる形になった。

 

「あなた……イングリッドの事が時々わからないわ、私」

 

 そのルイズの態度に半開きの口を固めて、首を傾げるイングリッド。その表情を認めてルイズは、イングリッドから身体を離すと、肩を竦めて、ガラスに遮られたエプロンの方向を向く。

 巨大な飛竜は、片足に一つ、2基の大型ドーリーに乗せられて、大型の牽引機(牽引馬?)からY字のトーイングバーがドーリーに連結されるのをおとなしく待っている。大勢の職員が忙しく足元を走り回り、首の上には御者が座って首を撫でている。

 あれだけ巨大なモノの足元となれば、感じる威圧感、或いは恐怖感も半端ではなかろうというのがイングリッドの感じた素直な感想だった。翼を畳んでいるとはいえ、地面から20メイル近くの高さに頭がある巨大生物だ。イングリッドですら気後れするかもしれない。鯨が地面に打ち上げられてもこれほどまでの存在感を発揮することはないだろう。こんな姿を見せる生物なんて、地球では想像の埒外だ。

 逆に言えばハルケギニアでは、当たり前な情景なのかもと思いなおす。が、ルイズの言葉を信じるならこれだけの巨大な飛竜はこの世界の人間にとってもお目にかかることが難しいのだと言うのだから……。まあ飛行場職員がジャンボ旅客機を恐れない様な物なのかと納得しておく。イズルカとしては珍しくとも、今までに見たマズルカの中には、見たところ100メイルオーバー等というのもいたから、大きい乗り物に対する恐怖はないのかもしれない。周辺を這う人間に、飛竜を恐れる雰囲気は感じられない。それだけ信用されている、或いは慣れているということなのか。

 飛竜の足元でぺこぺこと頭を下げる職員に、大様に頷く男。実務的なことはその隣で別の人間が担っているようだった。バトラーであろうとイングリッドは判断する。

 長身の、見るからに貴族といういでたちの中年男性とそれを取り巻くバトラーにポーター、フットマンにメイド、メールボーイと、セルヴァン(サーヴァント)に傅かれた姿は、見た目という意味ではまったく古典的貴族中の貴族という光景だった。

 

「アリ・ニコウル・ド・ラ・モット伯ね」

 

 集団を作る貴族の姿を見つめて、ルイズが呟いた。あまり良い感情が感じられない。

 

「お……おーお、なるほど。ジュネス・ジョワ・ドラグ・エスポワーレは、そのモットとやらの持ち物か。あれほどの竜籠を持つ貴族となれば、モットとやらは権威ある大貴族なのかや?」

 

 その言葉に即座に首を振って否定するルイズ。俄かに肩を怒らせてイングリッドに振り返る。その右手人差し指がイングリッドの鼻先に突きつけられた。

 

「あんなのが貴族だと思われたら迷惑千万よ!成り上がりよ、成り上がり」

 

 ルイズの表情に浮かんだ僅かな嫌悪を見てイングリッドは、まさかヴァリエール家と敵対するような貴族なのかと思った。そうではなかった。貴族としての関係がどうとか以前に、人間としてのモットを嫌っている雰囲気があった。

 そのことに気がついて、何故だか安堵したい気分になったイングリッドだった。そして、ふと、なんに安堵したのかわからなくて、首を捻った。それを見て誤解したルイズは、身を乗り出してイングリッドに迫る。

 

「成金よ!新参よ!野蛮よ!レオ・アフリカヌス開発運動で儲けた、数少ない貴族なのよ!」

 

 いやに興奮するルイズに身を引きながら、イングリッドは迫る肩を抑えた。

 

「んー、レオ・アフリカヌス開発運動とやらは何度か聞いたが……それは、みんなで儲けるために始めた事業なんじゃろ。結果的に儲からなくとも、それは自己責任じゃなかろうか。儲けたというなら堅実だったのか、能力があったのか……」

 

 それに言葉を被せてルイズが唾を飛ばす。このあたりの興奮具合はキュルケと変わらないような気がしたイングリッドだった。実は似たもの同士なのかもしれないと、ルイズにとっては甚だ不本意であろう想像をしてしまう。

 

「そりゃね、ウチみたいに儲けたところもあるけど、あそこは違うのよ。卑怯なのよ!」

 

 その言葉に何か違和感を感じたイングリッド。何かまでは理解が及ばないが、その直感は間違いなくて、無視できない重要な意味を持っていると信じた。だがその疑問を解消する暇もなく、ルイズは言葉を連ねる。

 

「あそこはね、開発運動に参加しようにも、資金を用意できなかった貴族相手に高利貸しまがいのことをやって儲けたの。あいつが今もっている城も、あのドラグ・エスポワーレもあいつが差し押さえたものなのよ」

 

 その言葉に新たな疑問を感じて首を捻るイングリッド。真面目な顔に表情を繕って、まじまじとルイズの顔を見てしまった。

 

「まて、ルイズよ。城とは領地とセットであろ。接収しました、貰い受けましたなんぞとできるものなのかや?」

 

 イングリッドの疑問は、地球における中世の観念から言えば当然だった。多分に形骸化していたとはいえ、貴族の領地というのは、王から管理を委託された土地であって、貴族の立場とは建前上、賃貸物件の大家か管理人ぐらいのものなのだ。当事者間で勝手に抵当に入れられるものではないし、勝手に収用できる物でもない。当然の事だが、そういうやり取りをして許されるものでもない。そういう「常識」だ。

 無論、ハルケギニアの常識ではないのだといわれればそれまでだが。

 

「……あこぎなよ、あいつ」

 

 イングリッドから身をはがして前を向くルイズ。肩を落としているが、顔には反吐でも吐きそうな嫌悪感が隠せない。

 

「……アイツには子供がいっぱいいてね。それを相手に押し付けて、相続の権利を得て、互いに納得した形でアイツが、アイツの子供が相続したり生前贈与を受ける形で、どんどんアイツ自身が肥え太ったのよ。立法上は問題ない体裁をとっていたから非難する言われはないけど、さ。アイツのせいで野に下った貴族は多いのよ。

 どれだけの人間が泣いたのか……。それを考えると納得している者は少ないよ」

 

 興奮して支離滅裂に近い言葉を吐くルイズ。余程に嫌っているらしい。しかもどうしても名前を呼びたくないようだ。何故そこまで嫌うのか。そこに、好き嫌いの感情以外の何かがありそうだとイングリッドは感じた。顎に右手をやり、左手を膝に打ちつける。ルイズがびくりとしてイングリッドに再度、顔を向ける。

 

「んー。差し押さえた事実がダークなのはわかるが、一応は、法に沿った行為なのじゃろ。それに、金を借りた事実は変わらん。自業自得の面もあろう。違うのかや?」

 

 その言葉にルイズは首を竦めて、刹那、ゆっくりと頭を振った。

 

「貸す時もね、早手回しに銀行とかから大々的にアイツが借り受けてね。レオ・アフリカヌス開発運動が正式に決まる直前で、一応は、秘密にされている時期だったから、銀行なんかは大喜びで金を貸したって言う話よ。

 大銀行は、景気が低迷しているときだからとアイツに貸した時には低金利で融資したのに、すぐ後にレオ・アフリカヌス開発運動が発表されるでしょ。どうなると思う?」

 

 イングリッドは感嘆とも取れるような表情をして、頷いた。あくまで地球の歴史と比べた場合という話ではあるが、妙にちぐはぐとした文化的成熟度を持つハルケギニアで、そういうインサイダー取引まがいの事を意図的に行ったとすれば、モットというやからはそれなりに頭が良いと考えるべきなのだろうとイングリッドは思う。

 

「金利が暴騰したのか……」

 

 ルイズが頷く。

 

「開発運動の話が秘密って言うのも、さ。紳士協定で、別に文書にされてたわけではないから、罪というわけでもないのよ。でもさ、そういう抜け駆けができるって言うのは、少なくともアイツ以外は間違いなく黙っていたってことでしょ。そうじゃなきゃ抜け駆けできないし」

 

 その言葉にイングリッドは唸る。やはりモットは頭が良かったのだろう。インサイダー取引みたいな行為が常態としてあるなら、当然それを禁ずる何がしかの手が打たれる筈である。それがないというならば、モットが行った詐欺まがいの行為は、彼のオリジナルな思いつきなのだろう。

 低金利で市場から流動性資金をかき集めて、その後で、資金が必要となる状況が出来るのなら。モットが何を考えたかがわかるような気がするイングリッドだった。

 

「むう。それだけで、恨まれる……と、いうよりは、まあ、他の貴族は眉を顰めるじゃろな」

 

 ルイズが頭から湯気でも出しそうな勢いで言葉を連ねる。

 

「アイツに金を出したところは、別のところに融資する余裕が無くなったし、アイツに金を貸していなかったところは当然金利を上げるし、金を貸せる銀行自体が少ないから、トリステインでは他国に比べて金利の高騰が急激だったしで、大変なことになったわ」

 

「ん。しかし、金がないなら諦めれば良いのではないのかや?」

 

「そこでアラトリステ・レオ・アフリカヌス分割諸国会議が影響するの」

 

「……」

 

 

 

 ガリアのジョゼフ1世が提唱した、諸国配分の方策はジョゼフ1世によるトラップであったと後に分析されている。レオ・アフリカヌス開発運動は、参加国家の人口ごとに土地を割り振り、諸国の出動兵力や配分を固定してしまった。

 その数値の上限で各国が持ち出さないといけないという決まりがあったわけではないが、国家の利益を追求する立場とあっては、手抜きも難しかった。

 皆が様子を見て、徐々に進出していったというならともかく、なにしろガリアが初手から参加限界で兵を出動したのだ。貰い受ける土地の広さを配分しただけで、大陸のどこがどこの国のものとまでは規定していなかった協定の趣旨を考えると、早い者勝ちは明らかだった。と、なれば、どこの国も初手から協定で許された上限いっぱいの全力でレオ・アフリカヌス大陸に打って出なくてはいけないことになる。

 ジョゼフ1世が周到な用意を持って、アラトリステ・レオ・アフリカヌス分割諸国会議で協定案をぶち上げたのであろう事実は、そこで明らかになったが、それ自体について歯噛みをすることはあっても文句を言うことは憚れた。ジョゼフ1世の提案した協定を認めたのは会議の参加国自体である。反故にしては、敵を作りすぎるし、そも国家の信義を貶める。と、なれば、各国はとる物もとりあえず、直ちに兵を上げる必要があったのだ。

 

 

 

「トリステイン常備軍を出すのは不味いし、動員するにも時間が足らないし。そうすると、出兵は貴族軍を出すしかないでしょ。王が出兵を命令すれば貴族も嫌とはいえないし、出兵すれば、貴族の取り分が大きくなるって言う打算もあったから、どこも出兵自体は拒まなかったけど……」

 

「金がない、か」

 

 ルイズは頷いた。

 

 

 大きな銀行はモット伯に金を貸していて、当座の金がない。レオ・アフリカヌス開発運動による経済の活性化を考えれば金融商品開発を行って、預金を集めることは難しくはないだろうし、出資者を募ることも出来たはずだ。だが、ガリアの出兵が迅速であったせいで時間がない。金を用意して兵力を準備したころには、レオ・アフリカヌス大陸沿岸はガリアの旗で埋め尽くされていたとなりかねない。それでは意味がない。

 

 アラトリステ・レオ・アフリカヌス分割諸国会議で決定された領土配分も各国の利害が絡んで曖昧にされていた事がここで災いした。得られる土地の広さを絶対的数値にせず、各国の相対的数値にしてしまったいたのだ。

 つまり、先手を取った国が広い土地を得れば、後から出てきた国が誰にも文句を言われる事なく同じ広さの土地を得ることが出来るのだ。ただし、先手を取った国が抑えた場所以外の土地を自力で占領しなければならない。

 会議事態は何年もかけて行われたので、各国はそれなりの準備を行っていた。ただし会議の行方がどうなるかなんていうのは誰も想像がつかなかったので、占領部隊も段階的に増派すれば良いという考えだったし、各国の派兵状況を見極めてバランスを取りつつ行えばよかろうという「常識的」対応策が考えられていたのだ。

 紛糾する会議の最終段階で突如として持ち込まれたジョゼフ1世の提案は、どこの国にとってもそれなりに納得のいく妥協案であったから、数ヶ月程の調整でほぼ原案通りに通ったのだが、原案どうりに通してしまった事がガリアにとっての果てしなく大きなアドヴァンテージになるのだという事実をガリア以外の国が予測できなかった点が「トラップ」だった。

 

 大慌てで出兵を言い募る政府に対して、貴族が取れる手は少なかった。政府自身が出兵準備を行うのは当然としても、小回りの効く貴族が政府より素早く兵力をかき集められるはずだった。ところが小さな銀行は用意できる資金が限られていた。儲かることが確実なのだから、金利を暴騰させて貸し渋るのは愚手だが、そうせざるを得なかったのだろう。運転資金まで手を出すことは出来ないし、海千山千の状態であるレオ・アフリカヌス開発運動に全てをかけて、国内金融を崩壊させては元も子もない。

 貴族が自身で資金の手当てをすることも難しかった。一部の貴族のみが出兵するというのなら問題ないだろうが、ほぼ全ての貴族に動因が下令された状況では、広く出資者を募るのは難しい。領地内に呼びかけるのが精々だろう。

 出資する側にも問題がある。自身の領主が優れた者であると言う評判ならば良いが、そうではなかったら。だからと言って、評判の良い他の貴族に融資するのは難しい。自分が住む場所を治める貴族に知られればどんな難癖をつけられるかわからないし、出資に応じられる資産を持っているならば、商家とか資産家ということになろうが、ライバルにその行為を難癖つけられてしまえば後の商売に差しさわりが出かねない。

 そうして、貴族たちは資金調達に窮したのだ。しかし、迅速な出兵は規定路線だ。と、なれば。

 

 イングリッドは感心した。そこまでの話はさすがに想像できなかった。そこまで計算したのだろうか?そうであったらとんでもなく危険な手合いとなるが……流石に偶然だろうと思う。ただし、ギャンブラーとしてならば、時に偶然をつかむのも資質の一つだ。詐欺師と見られるような行為を行うものであってもそれは、制度の不備をついたのであれば、投資家と言い換えることも出来る。投資家としては稀代の成功者ということか。

 

「モット伯に頭を下げに行くか……」

 

 ルイズは再び頷いた。

 

「……貴族間の金融取引はかなり厳しい規定があるんだけどね。そのときはそれどころではなくて、あいつの行動にいろいろ納得できない状況だったけど、トリステインとしても、道理を曲げるしかなかったみたいなのね。ベルダン財務卿やリッシュモン高等法院卿の後押しも合って、アイツに貴族間取引を行う特例を作ったらしいのよ」

 

「……らしい?」

 

 ルイズがイングリッドに視線をあわせて、もう一度頷く。

 

「……口頭詳述で、書類は後から作るみたいな話だったようなんだけど、良くわからないのよね」

 

 ルイズは両手で空を仰いだ。

 

「記録が残ってないらしいのよ」

 

 イングリッドは鼻から勢いよく息を吐いてしまった。ルイズの顔を見つめてしまう。

 

「なんだ、それは」

 

 ルイズは肩を竦めた。

 

「記録を見ると、レオ・アフリカヌス狂乱といわれる10年は、みんなで横車の押しあいって感じなのよ。最初の最初で特例が通っちゃったから、特例や勅令が乱発されて滅茶苦茶になったの。ハルケギニア年代記のトリステイン史を見ても、そのあたりの記述は混乱しているわね。新版が発行するたびに内容が変遷して、何を信じれば良いか判んない」

 

 顔を右手で覆っているルイズに、イングリッドは納得した視線を向けた。イングリッドも前に向き直って、飽きることなく騒いでいるキュルケを見つめる。

 

「ああー、うまくいっている間は誤魔化せるが、そんなんでは少しでもややこしい問題が起きれば……」

 

 

 

 出所怪しからぬ書類が乱発されている状態で、融資が焦げ付いたとなれば、後はなし崩しであったろうとイングリッドは想像する。つまり、南海泡沫事件が再現されたという事だ。大混乱だったのだろう。普段ならどうと言う事はない、短期の運転資金がショートしたとかの騒ぎは、普段ならどうと言う事はないという常識がある故に、市場に与える影響は激甚だったろう。

 手紙のやり取りに数ヶ月とかかかるなら、影響の広がりは緩やかだったはずだが、竜籠に代表されるそれなりに高速の連絡手段が確立された世界だ。影響の広がりは南海泡沫事件どころではすまなかっただろう。まさにバブルがはじけたのだ。

 ルイズの言葉は呟きとなって続いている。

 

「徳政令を出そうにも、民衆に与えた影響も大きかったし、なによりアイツが反対した。ベルダン財務卿は徳政令やむなしという意見で、王もそれに賛成したんだけど、外からお輿入れした人だったから、意見を押し通せなかったのよね。

 リッシュモン高等法院卿なんかは原則論を振りかざして、それに乗っかった行政書士も多かったしで、結局、徳政令は出なかったの」

 

「……破産した貴族は多かろうの」

 

 ルイズが首を振った。イングリッドは首を傾げる。

 

「アイツが助けて回ったわ。恩を押し付けてね」

 

「……あー血縁縁故政策か」

 

 ルイズはイングリッドの言葉に一瞬驚いて、小さく頷く。

 

「殆どの貴族が名前を残したわね。でも、本家筋だけがアイツの領地で部屋住まいって言う状況よ。野に下った貴族はどれだけいたことか。学院にも、アイツのところから来ている貴族が多いし」

 

 ルイズはイングリッドの顔を見つめる。

 

「ま、そういうことをするのがアイツよ。あれが貴族だなんて認めたくはないわ」

 

 ようやく話が纏まったのか、キュルケとタバサが連れ立ってこちらに歩いてくる。ルイズは立ち上がり、腰に手を置いて伸びをした。

 それにあわせて立ち上がろうと、ソファに左手を置いたイングリッドの右腕をとって、ルイズが引っ張る。

 エプロンで起きた騒ぎで、イングリッドの身体が固い、或いは重いと無意識に想像したルイズは、力いっぱい引っ張ってしまった。

 油断して力を抜いていたイングリッドは、跳ねるようにソファから引き剥がされて、勢い良くルイズとぶつかってしまう。ルイズもそんな事になるとは想像もしていなかったから、たまらず後ろに倒れこんだ。

 イングリッドは即座に身体を回してルイズと身体の位置を入れ替える。ごくごく僅かの瞬間で、ルイズをかばったイングリッドは、ルイズを前に抱いて、背中から派手にロビーに投げ出された。

 大きくはないが、こういう場所で発生する音としては想像もしない質の音の発現に、ロビーにたむろする人々の視線が一斉に集中する。タバサは僅かに眉を跳ね上げただけだったが、キュルケは天を振り仰いで右手で顔を扱く。次いで「やれやれ」とばかりに首を振ると、大またでルイズたちに近寄る。

 床に抱き合った状態で転がる2人の前で、周囲からもはっきりと判る大げさな仕草で溜息をついて、眼で天を仰いでしばし視線を泳がし、キュルケは大げさに肩を竦めた。右手を差し出す。イングリッドはルイズの下から自身の右手を差し出してそれを握ると、勢いをつけたキュルケの腕の動きにタイミングを合わせて、ルイズを抱きしめたまま刹那に立ち上がった。

 赤面して、明らかな混乱に顔を歪めるルイズを、先ほど立ち上がったばかりのソファに座らせて、イングリッドは頭をさすった。ルイズがしっかりとソファに座った事を確認して、キュルケに視線を移す。

 

「すまぬ。ありがとう、の」

 

 キュルケは腰に手を当てて溜息を吐いた。

 

「あー、もう、さ。言うのも馬鹿らしいけど、さ」

 

 身体を傾げて立つキュルケの脇に、タバサが追いつき、2人は何となく視線を交わした。キュルケはそれからゆっくりと、ルイズ、イングリッドの順番で視線を移す。

 

「ホント、仲良いよね」

 

 ここで予想外の事がおきた。タバサが大きく頷いたのである。しかも、感想らしき言葉も吐いた。

 

「同感」

 

 その言葉に、イングリッドは大いに顔を歪めて苦笑した。

 

「ああー、まあ、そのな……」

 

 

 その後の言葉をイングリッドは続けられなかった。

 周囲の人間からの注目は既に外れていたのだが、不躾にどやどや言いながら集団がロビーに上がってきて、一瞬の躊躇いの後に、大きな足音を立てながらこちらに近づいてきたのだ。

 その気配にイングリッドは表情を消して、ルイズをかばうようにして立ちふさがる。

 イングリッドが予想したとおりに、先ほどまでの話題の中心にあったアリ・ニコウル・ド・ラ・モット伯その人が、相対していた。キュルケとタバサは、見た目は違うが、真実姉妹であるとでも言いそうな雰囲気をまとって、無表情で脇に避けた。キュルケの切り替えの速さに苦笑いを浮かべそうになったイングリッドだったが、そういうことが学院内でいらぬ騒動を引き起こしたのだと思い出すと、意識して無表情をつくった。キュルケとタバサは無表情であったが、イングリッドがつくったそれは能面というレベルだった。

 

 モット伯はイングリッドによって遮られた視線を訝しんで、身じろぎする。イングリッドはそれを器用に遮って、ルイズの姿を見せない。マントを持たないイングリッドの姿に、無礼とでも思ったのか、咳払いをして大様に手を振ったが、イングリッドは無視する。

 ルイズがこやつを嫌っているから顔を見せたくない。

 そういう訳ではなかった。先ほどの醜態で、ルイズの表情が人に見せられるものではないから、視線を遮っているのである。彼らが2階ロビーに上がる前の話だったので、ルイズの痴態が、それはとりもなおさず自分の痴態でもあるのだが、それが見られた可能性はなかった。だからこそ、呆けているルイズをモット伯に見せるわけにはいかなかった。

 モット伯に付き従う者達の視線までは遮れない。しかしイングリッドはそのことを気にしない。貴族に使える立場の者である。それなり以上に空気を読む能力に長けているだろうと想像する。はたして、彼らは、ルイズの状態に気がついている風だったが、疑いようも無く大貴族であるルイズの状況に気がついて、お行儀良く眼をそらしていた。

 だが、モット伯は空気を読めない。空気を読まない。去れとばかりに振られた仕草を完全に無視した「平民」の姿に、俄かに顔を赤らめた。その仕草を見てイングリッドは不審を感じた。

 

 ルイズとの会話で現れたモット伯のあり方は随分とずる賢い姿だった。イングリッドはモット伯に高い評価を与えたと言って良い。

 行った行為の結果はともかくとして、優れた行為であれば素直に賞賛するし、資質も評価する。行為の貴賎はともかくとして、能力が優れているならば、その能力に敬意を表するべきなのだ。それがイングリッドのあり方である。

 しかし、実際に対面したモット伯はイングリッドの想像と違っていた。拙速に状況を断定して勝手に状況を悪くしている。イングリッドが何をしているのかを考慮しようともしない。随分と尊大な態度だった。

 確かに服装を見れば、イングリッドがセルヴァンであるという判断は難しいかもしれない。事実セルヴァンではない。しかし、ルイズの側にいて、ルイズを守るような振る舞いをしているのだから、何がしかの想像は出来るはずだ。しかもルイズとあわせて3人の貴族と共にあるのだから、何らかの立場を予想しても罰は当たらないだろう。それが全て誤解であったとしても、ルイズの立場を考えれば、ルイズと共にある者をぞんざいに扱って許される事でもないだろう。

 イングリッドならそう判断する。だのにモット伯は勝手にボルテージを上げている。貴族の卵ならば短い期間ではあるが山ほど見てきたイングリッドでも、その姿を見てハルケギニアの貴族に対する評価とはしなかった。評価の材料になるとは思っていなかったのだ。しかしモット伯は、学院教育棟で相対した阿呆と同じような姿を見せている。ハルケギニアの貴族とはこの程度のものなのか?

 口を戦慄かせるモット伯は強い視線でイングリッドを見つめる。イングリッドは内心で冷や汗をかいた。失敗を繰り返したのかもしれない。何度も何度も気をつけると言いながら、結局、また同じように自身の固定観念で相手をしたと言うのか。本当の貴族となれば、どういう騒ぎになるのだろうか。イングリッドには想像できない。ハルケギニアの貴族に対する行動としては、ルイズをかばう行動は下手であったのか。

 

 しかし、その想像も違うようだった。モット伯のバトラーが彼の肩に手を置いて、素早く耳打ちする。刹那身体を跳ねさせたモット伯は一転、こちらを伺うように視線を揺らす。イングリッドは、素早くそれも遮った。そこまでしてようやく合点したようだ。気恥ずかしげに咳払いをして、妙な沈黙が降りる。

 イングリッドは能面を維持したまま、内心で首を捻る。モット伯に対する評価が定まらない。

 そうしていると、背後でルイズが状況に気がついた気配が伝わってきた。それを察して、イングリッドは素早く左に避けた。タバサやキュルケがいる場所とは反対側である。これは無意識の行動だった。ルイズを守るのはイングリッドのみ。タバサやキュルケは戦力として数えていなかった。一度騒ぎになれば、2人は寧ろ邪魔だった。なるべく自由を確保して戦いたい。スペースを確保して、背後に邪魔を置かない場所を選んだのだ。ルイズとの会話から、今、揺らいでいるとはいえ、モット伯が危険な存在かもしれない、そして、ルイズの態度からモット伯がルイズの敵対者である可能性を除去できないのであれば、その態度はまったく自然だった。

 

 ルイズが慌てて立ち上がって、頭を下げた。

 

「これはモット伯。お久しぶりです」

 

 そこで言葉が途切れた。あからさまなルイズの態度に、イングリッドは呆れてしまう。表情には出さなかったが。

 貴族同士で相対するなら、かなりぎりぎりの挨拶だった。本来であれば面倒くさくも秀麗な美麗賛辞を尽くして、本題とは何の関係も無い会話を数分は交わすべきなのだ。それが貴族同士の付き合い方というものだろう。

 それについてはイングリッドの想像ではない。確信があった。カウンターの前の騒ぎで、やたらと面倒な会話が飛び交っていたのだ。イングリッドの耳はその会話の全てを聞き取っていたから、この世界の貴族とはそういうものなのだと理解していた。面倒な付き合いだが、そのあたりは地球と変わらないと思った。その考えが先ほどの態度をとる理由となっていたのだが。

 

 はたしてぞんざいなルイズの挨拶に、モット伯は微かに唇の端を跳ね上げた。イングリッドがそっと視線を移すとキュルケが無表情をつくる努力の中で、僅かに唇を震わせている。視線も揺らいでいた。そこから極僅かにもれ出る感情は、嘲笑だった。相当に嫌われているのだろうか?

 

 そうではあっても流石は貴族だった。一瞬で気を取り直し、軽く咳払いをして一転、笑顔を取り繕った。しかし、咳をする際に顔をそらさずに真正面を向いたままだったのだからモット伯も大概だった。流石に拳で口を隠していたが。

 

「これはヴァリエールの3女どの。ご機嫌麗しゅうことで」

 

「ありがとうございます。モット伯にあっても、壮健な様で何よりです」

 

 とても親しいとはいえない雰囲気が僅かな会話で漏れ出でて、イングリッドは頭痛を感じた。控えめにいっても犬猿の仲だ。どういう関係なんだろうと観察する。

 

「このような日に、学院を出てトリスタニアにいるとは。そのようでは母上が嘆きますぞ」

 

 その言葉に、ルイズは舌打ちでもしそうな表情を一瞬だけ見せたが、それは本当に一瞬だった。モット伯は気がつかなかっただろう。

 ルイズはぎりぎり不自然には見えない笑顔で、モット伯の長身を見上げる。イングリッドの見たところ、その視線は顔をむいているが、彼の眼には向けられていない。どうも、鼻の下にある髭に向けられているような気がした。

 

「いえ。よんどころ無い事情がありまして。学院長の正式な許可の下に、外出しております」

 

 そう言いながら、きわめて自然な仕草で偉そうに顎でキュルケを示した。その仕草に自然とモット伯の視線もキュルケに移る。イングリッドは感嘆した。下々に心優しくあるだけでなく、こういう場の態度も実に堂に入っていて、貴族として眩しかった。キュルケはルイズに頷いて、懐から外出許可書を取り出す。

 キュルケはそれを自分の顔の前で広げて提示する。無論のこと表紙の部分だけである。それ以外を見せる事に必要を感じていないのだろう。

 一瞬顔を歪めたモット伯は、無意識にそれを手にしようとして、それに対してキュルケは避けて、後ろに下がった。彼の顔が更に歪んだ。しかし、ルイズはそんな事はお構いなく声を続ける。

 

「ご不審がありましたらオールド・オスマンにご確認ください」

 

 僅かに顎を引いて、不愉快さを滲ませた彼はしかし、鼻から息を吐いてルイズに向き直った。

 

「これは失礼しました、ミス・ヴァリエール。お手を取らしましたな。よいお使いを、お祈りしておりますぞ」

 

「ありがとうございます」

 

「うん。では失礼する」

 

 軽く頭を下げたモット伯は、身体を翻す刹那に、一瞬殺気にも似た感情を乗せてイングリッドに視線を送った。似ただけだった。イングリッドにとっては児戯にも等しい感情だった。ダンのほうが強い殺気を表す事ができるだろう。単純に評してショボイ。捨て台詞より質が悪い。イングリッドの内心でモット伯の評価が混乱する。

 マントをはためかせながらカウンターの脇を抜けてゲートをくぐる。手続きはセルヴァンの内の誰かが済ましたのだろう。スタッフが頭を下げる中を、胸を張って歩み去る。見た目はまさしく貴族の中の貴族だった。

 

 手にした外出許可書をたたみながらキュルケが溜息を吐く。タバサは手にした巨大な杖を揺らしている。ルイズは腰に手をやって、酷く大げさに溜息を吐いた。頭を軽く振って、それからイングリッドに視線を移す。

 

「どうだった、アレ。イングリッドの感想が聞きたい」

 

 イングリッドも溜息を吐いた。イングリッドを見るキュルケとタバサの視線に好奇心が溢れている。右手をさっと横に突き出すと、数瞬、ためて、ゆっくりと眉間に動かし、中指、人差し指、親指で、軽くもんだ。

 

「ん、イバるのは小心者の証拠よの。あやつの心の惨めさに泣きそうになったわ」

 

 その言葉にキュルケもタバサも眼を見開いた。ルイズも一瞬呆けて、次の瞬間に声を上げて笑った。

 キュルケは表情に呆れを滲ませて、イングリッドを見つめた。

 

「言うねぇイングリッドってば」

 

 ルイズはイングリッドの肩を叩きながら、笑いをおさめる事が出来ないでいる。イングリッドはその姿を見ながら呟いた。

 

「どう見ても親しいとはいえん間柄のように見えたが……それでも挨拶するのが貴族の礼儀なのかや?」

 

 笑い続けるルイズを見ながらキュルケが肩を竦めた。

 

「別にー。挨拶したくなければ無視すればいいのよ。視線があったら挨拶しないわけには行かないけどさ。さっきのイングリッドの行動みたいに遮られたなら、頭の一つでも下げて、そのまま立ち去ればいいのよ」

 

「む。先ほどの我は流石に無礼とも思ったが、あれでよかったのか?」

 

「流石にぎりぎりな感じだったけど、まあ、互いに納得できる範囲だったと思うよ。普通、あそこまであからさまにやる人なんていないし。前例が無い事だから、どういう対応をとっても自由ってのもあるかもねー」

 

 イングリッドは顎に手をやって、唸った。流石にやばかったのかと思う。しかしモット伯のバトラーはこちらの真意を察していた。それであれば、その場を立ち去っても良かったのに、モット伯はことさらにルイズに声をかけようとした。何がしたかったのかさっぱり理解できなかった。2人の会話の最中、モット伯の後ろに控えていたセルヴァン達の表情はひどいものだった。

 つい先ほどまで高い評価を与えるべきと評したモット伯が、実体はアレであった。擬態なのだろうか?何がしかの考えが合っての事なのか?判断できない。しかし今までの短い間でもルイズの言葉に信憑性があるのは理解できている。ルイズの他評が優れている事を考えると、即断は危険とするほか無い。

 

「むう。あやつ、何がしたかったのか……よう判らんのじゃが」

 

 ルイズが腹をさすりながらようやく笑いをおさめた。肩を震わせながら、荒い息を吐いて、イングリッドにもたれかかる。今度はイングリッドはそれを間違いなく支えた。油断は無かった。さり気無くルイズの腰に右手を回してその身体を軽く支える。

 

「きっとね、ヴァリエール家とラ・モット家が同格だって、周りに示したくてたまらないのよ。きっと、ね」

 

 右肩に乗ったルイズの顔を見つめながら、その耳に負担がかからないようにイングリッドは囁いた。

 

「逆効果だったようじゃが……」

 

 ルイズは噴出した。声こそ上げないものの、ルイズは身体を震わせる。

 

「レオ・アフリカヌス開発運動でしこたま儲けたけど、それが恥ずかむべき事だという自覚はあるみたいなのよ」

 

 ハアと溜息を吐いたルイズはイングリッドから身体を離した。腰に手を当てて肩を顰める。

 

「ヴァリエールは、さ。ツェルプストーとの……ゲルマニアとの最前線だから、兵は動かせなかったらしいの。その代わり、艦隊の一部を動かして輸送を請け負ったり、泣きついてきた貴族に金銭を融通したりで、まあ、結果的に相当儲かったのよ」

 

 キュルケが何かを思い出して、顔を上げてイングリッドを見た。

 

「そうそう。チェニスタニア撤退作戦ではゲルマニア兵も相当拾ったみたいだから、ウチの国からも相当な謝礼が出たって話だったよね」

 

 その言葉に眉を跳ね上げたルイズがキュルケを睨むように見つめる。

 

「現地で素寒貧になったあんたのところの貴族にも相当資金を融通したんだけど」

 

 意地悪な物言いだったが、キュルケは複雑な笑みで頷いた。

 

「そうだったね」

 

 その言葉に満足したルイズは、それでイングリッドの方に視線を戻したが、次いで呟かれた万感の篭った言葉をイングリッドは、イングリッドの耳は捉えてしまった。

 

「置き去りになった私も、母も。あなたの家に助けられたのよ……感謝しているわ」

 

 イングリッドが表情を変えなかったのは、長い人生経験の賜物だった。その短い言葉で全てを理解できるものではなかったが、キュルケがやたらとルイズに親愛らしきものを感じている理由の一端が垣間見えた気がした。

 キュルケの言葉に気がつくことのできないルイズは、イングリッドに言葉を連ねる。

 

「やったことは全然違うのにさ。儲けた事だけを頼りに、ヴァリエールはラ・モット家と同じ孔の狢だ!って言いたいんじゃないかな」

 

 ようやくルイズがモットに対して何を怒っているのかが理解できた気がしたイングリッドだった。

 

「む。つまり、ヴァリエール家を貶めて、自身の格を維持したいとかでも言うのか、あやつは」

 

 ルイズが頷く。

 

「小物よね」

 

 

 

 ようやくすべてが収まって、やる事が済んで、ゲートをくぐる4人。

 その最後尾で、かしましく騒ぐ3人(一人は相変わらずだんまりだが)を眺めながら、イングリッドは考えをめぐらせた。

 どうもモットのあり方がおかしい。インサイダー取引じみた行為も、その後の行動も、見たままのモット、聞いたままのモットを考えるとちぐはぐだった。偶然にしても結果を見ると、それだけと切って捨てるには得たものが大きすぎる。しかし、ルイズとのやり取りを見ると、評価が難しい。

 

 そうすると、一つの仮定が持ち上がってしまう。

 モットは、誰かの手のひらで踊っただけではないのだろうか。

 

 否定する。即座に否定する。

 

 それは陰謀史感という類のモノだろう。余りにも手が込み過ぎている。モットだけでなく、ベルダン財務卿とやらやリッシュモン高等法院卿とやらもかかわってくる事になる。実際にあったであろうやり取りを想像すると、影響は計り知れないほどに大きいだろう。そんな事が出来る者がいるだろうか。それも10年単位の陰謀である。物語ならともかく、ここは現実なのだ。想像できない。それでも陰謀だったのだと言うなら。

 もっとはっきり言えば、シナリオを書いたのは誰か、となると……。

 

 イングリッドは首を振って否定する。

 話が大きくなりすぎる。幾らなんでもありえないだろう。馬鹿馬鹿しい。

 

 

 品の良い調度で飾られた通路は、どこまでも貴族用と見えた。スロープで上に上がり、騒がしい平民用のロビーを見下ろせる3階通路は、下の喧騒の上に浮いているようなものだった。通路の両側には、おしゃれなカッフェや、レストラン、売店などが、重厚なたたずまいを見せて軒を連ねている。窓際に寄せられた通路と、中央を穿つ谷間には、等間隔に橋が渡されて、ショッピング・モールのようだ。しかし、下と上では世界が懸絶している。ここまではっきりと区別されていると、貴族の特権階級のほどが、余りにも大げさとも思えてしまうが、それはこちらの常識に慣れていないゆえの感傷なのだろうか。

 

 長い通路の先に、中央のドームが見える。あそこまで行くと、地下までの直通リフトが存在して、車寄せがあるという。そこでリムジン・ハックニー・コーチに乗りあうか、ハンサム・キャブリオレを雇って、街に出るのだという。リムジン・ハックニー・コーチはバスに、ハンサム・キャブリオレはタクシーといったところだろうか。どんな「からくり」が飛び出すか乞うご期待というところか……。気が滅入ってしまうイングリッドだった。

 

 

 気が滅入ると言えば、イングリッドは、学院に於いてルイズがやたらと排斥される理由の一端も見た気がした。その勘は間違いないだろうと思えた。ルイズとの会話で得た違和感は多分これだろうとあたりをつける。

 

 大勢の貴族が没落したレオ・アフリカヌス大陸開発運動。没落は免れても、相当な痛手を被った貴族も少なくないだろう。あからさまに言って、体裁を気にしつつ貧乏にあえいでいる者も多いのではないかと想像する。

 先ほどのようなモットの底の浅い活動はしかし、それを信じたがる者も多いのではないだろうかという想像につながる。ヴァリエール家が隆盛して、我が没落する。ルイズに聞く限りでは、ヴァリエール家が家力を伸張したのは多分に偶然によらしめるところ大であったが……それを感情で否定する者もいるだろう。ましてや、モットが、ヴァリエール家がラ・モット家と大同小異で、華やかならざる手管で儲けたのだと喚いて歩いている。らしい。それを信じたがっている者がいるのではないか。

 

 そこに「ゼロのルイズ」である。貴族にあるまじき事に、魔法が使えないルイズ。なるほど。歴史も格もある家に、泥を擦り付ける理由になりえる。ヴァリエール家があのモットと同じであるというならば遠慮するいわれは無いのだろう。

 地球で経験した中世世界のあり方からすると、隆盛を誇る公爵家の実子に中傷をするなど自殺行為以外の何者でもないだろうというのがイングリッドの考えだった。しかし、僅かに2日ほどの経験でも、声にならない視線や、或いは声が届かない中傷も含めて、ルイズに対する生徒たちの扱いは酷いものだった。表立っていないのはやはり、ヴァリエール家という家名の霊験あらたかなところだろうが、こそこそしているつもりでも、イングリッドには筒抜けであった。それによるイングリッドの精神的疲労は酷いもので、夜を過ぎれば心機一転というところだったが、学院内を歩けば1時間と経たずにイングリッドの心を掻き乱すものだった。

 そんな些細な事をルイズに伝える気が無いイングリッドだったが、いくら陰口とはいえ、ヴァリエール家のあり方からすれば、御注進とやる人間は出そうなものだと思ったのだが。

 

 その裏にこういう理由が隠れていたとなると、イングリッドは溜息を吐くことしか出来なかった。おそらくはルイズの両親にも声は届いているだろうと思う。しかし、レオ・アフリカヌス開発運動の結果のみを見れば「説得力がある」誹謗中傷だと言える。そしてモットという糞虫がそれを補強して歩いている。とんでもない状況だった。

 ルイズの両親がそれを否定していないわけはないと思うが、国境を守る立場ゆえに中央にその声が届き難いのだろう。あるいはそのような事に対して声を上げる事を恥と考えている可能性もある。そうであれば何たる誇り高い貴族よ。となる。それで子供が傷ついているのだからそんな埃は払ってしまえとイングリッドは表情に怒りを滲ませた。

 

 常なる冷静さの無いイングリッドだったが、そのことに自覚が無いまま、暗い感情を発散し続けていた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。