ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

18 / 27
使い魔の日常
初めてのお出かけ(1)


 

 ハルケギニア暦 - 5996年

 

 フェオの月 / ヘイムダルの週 / イングの曜日

 

 

 

 

 今日、イングリッドの身の回りの品を買い求める予定であったことは、ルイズの脳裏から綺麗さっぱり失われていた。

 

 まあ、無理からぬことと言えなくもない。

 ルイズが遭遇した出来事は、激動の日々が始まったその最初の4日間。イングリッドを核として余りにも激しい有為転変だった。始まりの日々と言い換えてもよさそうな4日間。その最後の1日に起きた出来事は、その発端がイングリッドにあったとはいえ、それがルイズに対して、そしてルイズの周辺に対して招来した結末は斜め上過ぎた。ハルケギニアの当事者にとってそうであったし、もう片方の当事者たるイングリッドに対してもそうであった。

 最後に突きつけられた現実。その結果。その後の数時間。ベットの縁に腰掛けたルイズは寝入るそのときまで腑抜け同然だった。

 イングリッドにはそれを捨て置くという選択肢は無かった。反応の薄いルイズを必死で御して、着替えさせたり、身体を拭いたり、髪を梳いたり、トイレに引っ張ったりと忙しかった。イングリッドが気がつかぬ内に、メイドのレンを呼んで軽食を持ってこさせたのはキュルケであったし、ルイズに無理やり食事を採らせたのもイングリッドとキュルケの共同作業だった。

 腫れて酷い見た目になったルイズの顔を、どうにか見れるように治めたのもキュルケだった。

 ルイズの顔面を揉んだり、冷水で拭いたりと手際よく世話を焼くキュルケの姿はイングリッドも感嘆仕切りで、イングリッドはその自身の長い経験の中に存在しようのない「他人の面倒を見る行為」を一生懸命になって記憶に焼け付けた。これから必要になることが確定的であったからである。

 スタンドアローンである事が日常だったイングリッドには、ハルケギニアで訪れた新たな日常生活をこなす上で、そういったキュルケの姿を見ることは貴重な時間だった。

 その数時間。イングリッドがキュルケを認識して僅かに1日弱という時間だったが、妙に2人の距離が縮まった思わせる時間だった。

 

 目を覚まして一応の元気を取り戻した様に見えるルイズだったが、イングリッドが忙しく動き回らなければならない事に変わりなかった。

 表情のみを見れば普段通りを装っていたが、のろのろとして心ここにあらずという雰囲気をかもし出されていては仕方がなかった。

 肩を落としたイングリッドは、ルイズの服を着替えさせて、洗面所に押し込んで顔を洗わせて、尻を押して移動し、朝食を採り……。しかし、部屋に戻ってようやくの事で能動的に動き出したと思えば、のそのそと勉強道具を取り出したルイズの姿を見て、流石にイングリッドも呆れて声を上げざるを得なかった。

 

「今日は買い物に行く日ではなかったのかや、ルイズよ」

 

 一瞬呆けて、刹那、首を傾げ。次いで、ようやくの事で自身の宣言を思い出したルイズは、さっと顔を青く染めて、ゆっくりとイングリッドに振り向いた。

 ルイズのかくかくとして角のある動きは、それを眺めるイングリッドには出来の良い操り人形を思わせた。首を竦めているのが減点ではあったが。

 

「え……、その……、あの……」

 

 あうあうと口をパクパクさせるルイズに溜息を一つ吐いたイングリッドが、次いでニヤリと笑いかけ、扉に触れると、扉は()()に向かって口を開いた。

 姿を現した廊下には、廊下を照らす淡い光を背に、腕を組んで呆れた表情を浮かべたキュルケが立っていた。

 右手に持った紙をひらひらさせながら、ゆっくりとルイズに歩み寄り、キュルケはその紙をルイズに突きつけた。

 無意識にそれを受け取ったルイズは、そこに書かれている文字を読んで小さく驚く。

 

「外出許可書……?」

 

 ルイズの呟きを耳にしてイングリッドとキュルケは顔を見合わせる。イングリッドは腰に手をやって、かすかに笑いながらルイズを見やりつつ肩を竦めた。キュルケは深い溜息を吐いて、肩を落とした。

 

「買い物行くって、さ。昨日、言ってたじゃない。オスマンに申し出ておいたのよ」

 

 呆けた顔のルイズに近寄ったキュルケは、腰を折って顔を近づけると、やにわにその両頬をつまんで引っ張った。

 

「貸し、だからね」

 

 「へむへむ」と声を上げて力なく抗議するルイズから書類をもぎ取ったイングリッドは、三つ折にされた書類の冒頭部分を読んで納得し、次いで書類を広げてそこに書かれた文章を読みこんで小さく驚嘆した。

 

「ダエグの曜日まで自由に学院を出入りすることを許す?トリスタニアであれば外泊も許可する……。

 その他の場所で外泊する場合は別途許可を申請すること。

 ……イングリッドの身の回り品については学院の名前を持ってバンカーズ・チェックを切って良い。常識の範囲内と認められる限りに於いては上限を設けない……なんだこれわ」

 

 最後の部分を読み上げるとともに首を捻りながら顔を上げたイングリッドの姿に「いっ」と変な声を上げてキュルケが肩を竦ませる。その瞬間に力が抜けたのか、ルイズはキュルケの手を振り払って部屋の隅に逃げた。

 イングリッドがじっとりとした目線でキュルケを睨みながら書類の続きを読み上げる。

 

「この書類の効力の及ぶところは以下の者である。

 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールとその使い魔、イングリッド

 キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー

 タバサ

 書類に疑念のあるところは、直ちにオールド・オスマンに確認すること」

 

 イングリッドは書類を右手に持ったまま、両手を振り仰ぐと溜息を吐いて、表情を引き締めた。キュルケの顔を仰ぎ見るように、やや見上げた視線をぶつけながら、キュルケを大きく避けるようにして部屋の中央に置かれたテーブルを避けてルイズに歩み寄り、手にした書類を広げたままの状態で手渡す。

 引っ手繰る様にしてそれを手にしたルイズは、眼を皿にして書類に視線を這わせる。

 

「……なによこれ。ななななな、なによこれっ!ずいぶんなことが書いてあるじゃない!」

 

 斜めに傾いだ体の上で、更に傾いだ顔をキュルケに向けて。左腕を身体に沿わせてぶら下げて、右手を上に向けて肩を竦めたイングリッド。ジト目を崩せない。ため息というか、感嘆というか、イングリッドの鼻から何かが漏れた。

 

「えらく奢ったものよの。随分と毟ったではないか、キュルケよ」

 

 「え、え、え」と、変な声を上げてきょときょとと顔を動かすキュルケ。腰が引けて、首が竦められている。

 

「えーと、イングリッドてば、文字が読めないんじゃなかったの?」

 

 その言葉を受けてルイズとイングリッドは首を傾げて向き合い、疑問符を飛ばしながら再度、キュルケに視線を向けた。

 

「何でそんな勘違いをするんじゃ?」

 

 純粋に疑問を浮かべて首を傾げるイングリッドに、汗を流したキュルケが両手のひらを振って弁解する。

 

「え……その、お金の使い方が判らないって言うし、その、なんか、常識に通じてないって言うか……アレ?」

 

 滑稽なほどに顔色を激しく変遷させるキュルケを見て、「ぶっ」といささか下品な噴出し笑いを同時に放って、2人は顔を見合わせ、今度は大きく笑った。

 

「イングリッドを出汁に、適当にサボったり買い物したりするつもりだったのキュルケ?ここに書かれたことはどう誤魔化す気だったのよ!」

 

 腰を落として後ずさりしながら、両手を身体の前で振って冷や汗を流すキュルケだった。あっという間に壁に追い詰められた。別に誰かが迫っている訳ではなかったのだが。

 

「あははー、そのね。外出許可のところだけ見せて、すぐに取り上げれば、ごまかせるかなー、なんて」

 

 そこに何かを感じたイングリッドは素早くキュルケに近寄り、その身体を上から下まで視線を這わせると、一つ納得して、刹那の躊躇いも無くそこにある豊満な胸元に自身の腕を突っ込んだ。

 

「あ、だめ!いやーん」

 

 胸元から数十枚が束になった小切手が顔を見せた。それをイングリッドはルイズに向けて投げ渡す。

 ルイズはそれに学院の紋章が描かれていることを確認した。裏紙にはオスマンの手書きのサインが記されていることも確認した。ぱらぱらとめくると、一々ご苦労なことに、金額欄が白紙のままであるにもかかわらず、全てにオスマンのサインと捨印が押されて、ちゃんと未決サインと保障サイン、有効期限を保障するサインまで間違いなく記されていた。ざっと見て30枚はある。それら全てに流麗な文字が躍っている。まったくもって準備万端になっていることがわかった。

 俄かに眩暈を覚えたルイズは瞳を震わせながら大きく振りかぶってその小切手の束を振り上げると、勢いよく机に叩きつける。

 

「却下よ却下!イングリッドの持ち物は全部っ!私自身がっ!支払うわ!!」

 

 「えー」と不満げな顔を隠さないキュルケは机の上に投げ出された小切手に手を伸ばしたが、ルイズは素早くそれを取り上げて振り回した。

 

「自身の使い魔を世話するのに、人の施しなんていらないわよ!!」

 

 「うがー」と歯を見せて威嚇するルイズを呆れた表情で見やるイングリッド。

 肩を竦めて溜息を吐くキュルケはしかし、顔を上げると幾分か表情を真面目に取り繕って、更に言葉を連ねた。

 

「でもさ。武器を買うぐらいはさ、小切手を使わないとさ、きっと足らなくなっちゃうよ」

 

 その言葉に首を捻って顔を見合わせるルイズとイングリッド。

 目を細めながらイングリッドはキュルケのほうに振り返る。

 

「ん……確かに昨日、我に武器を持たせてみよとは言っておったが……。そんなに高価なものなのかや?」

 

 後半の言葉をルイズに投げかけながら視線を戻したイングリッドだったが、そうして見たルイズの目は真ん丸く見開かれて、妙な強張りを持って口を一文字に閉じていた。

 

「……聞いておらなんだな、主よ」

 

 「てへっ!」とばかりに右手を頭にやるルイズの頭を、両手で乱暴にがしがしとまさぐるイングリッド。

 2人のじゃれ合いを呆れた顔で見ながらキュルケは小さく溜息を吐くと、肩を竦めて両手を叩いた。

 

「はいはい。仲の良い事はわかったから、とりあえず準備をして、早く西門に向かいましょ」

 

 互いに頭をまさぐりあいながら顔をキュルケに向ける2人。キュルケは口を引き攣らせた。

 

「タバサが先に行って、シルフィードを用意しているわ。待たせちゃ悪いでしょ」

 

 その言葉に顔を見合わせた2人は頷いて、次いで弾かれたように慌てて準備を始めた。

 とはいっても、イングリッドは小切手を手にとって懐に入れれば準備完了だった。服装は完璧だった。一着しかない服を、パリッと着こなしていた。後はルイズの準備を手伝うばかりである。

 ルイズは、イングリッドに手伝ってもらいつつ、制服の上からマントを背に身に付け、スカートの下、パンティの上からキュロットパンツを履く。ローファーを脱ぎ散らかして、外行きのブーツを引っ張り出す。イングリッドに支えてもらいながらそれに足を通そうとする。

 かなり良い材質の革なので、紐を通したまま放置すればあっという間に「型」がついて見苦しくなりそうな、イングリッドが一見しても高価なブーツであった。非常に手入れがよくなされて、やわらかく柔軟に保たれていた。

 グリスアップやシーリング、ブラッシングもルイズ自身が行っているのだろうか?イングリッドは微かな疑問を思って首を捻る。

 乗馬ブーツと遠歩きや山歩きを目的としたトレッキング・ブーツの合いの子という感じで、見た目よりも実用性を重視している形状であり、靴底が厚いのに持ってみると軽くて思わず肩透かしを食らってよろけたイングリッドだった。

 ハイソックスに包まれたルイズの足に触れて持ち上げると、それが歳不相応に硬くて思った以上に大きかったことにイングリッドが気づく。その理由が思い浮かんだが慌てて振り払って、足を差し入れる。しかし、微妙にサイズアウトしているのに気がついてイングリッドはルイズを見上げた。ルイズも、指先が圧迫されているのに気がついたようだ。

 

「あー、入学のときに用意したものなのよ。最初の内はよく履いて外に出ていたんだけど。魔法実習が始まってからは……」

 

 微妙な表情で目をそらすルイズ。要らんことを言わせてしまったと凹んだイングリッドだったが、とりあえず、ルイズに気が付かれない様に指先に熱量を集めると、慎重に、だが素早く引き伸ばして形を整えた。その状態で一度、ルイズの足にブーツの先を強く押し付けて形を作り、次いで、強制的に熱を奪って形を固定した。

 

「どうじゃ?」

 

 眼を真ん丸く見開いてルイズが見下ろす。ブーツに包まれた足を上下に振った。

 

「え……、なに?何をしたの??」

 

 イングリッドはブーツを……ルイズの足をつかむと、先から揉み解して徐々に上に向かって腕を動かしながらブーツ全体の形を整えた。

 

「これでよかろう」

 

 あっけに取られたルイズは信じられない思いで足を揺する。

 

「ぴったりだわ……」

 

 腕を組んで指を揺らせていたキュルケが、疑問符を浮かべてルイズを見つめた。それに気がついたルイズがキュルケに視線をあわせて呆然と呟く。

 

「あわなくなっちゃったはずのブーツが……イングリッドが直しちゃった」

 

 眉を上げてイングリッドの後姿を見つめるキュルケ。

 イングリッドはもう半靴にルイズの足を納めて、同じように揉んでいた。傍からは揉んでいるだけにしか見えなかった。

 

「へえ?イングリッドって靴屋でもやっていたの」

 

 すっかりと形を整えて満足したイングリッドは、靴紐を握って半瞬、手の中を滑らせた。それだけでアイロンが掛けられたように鈍い光沢が紐から漏れる。これにはキュルケもルイズも仰天した。

 

「なにをしたの……!?」

 

 ルイズが手を伸ばして紐を取ろうとしたが、イングリッドはそれを押し留めてさっさとブーツに紐を通し始めた。

 

「うむ。手入れがよいブーツじゃ。紐もグリスがよく乗っておるようじゃの」

 

 手元を覗き込むキュルケの気配を無視してイングリッドはルイズのブーツに手早く紐を通す。片方に2本。全部で4本の紐が美しく編み上げられていく。指に圧力がかからないように、先端部をフットバックで通し、下から4つ目辺りからループバックで複雑な網目を作って両側を押さえつつ、きつくなり過ぎないようにしながら硬くとめるという、矛盾した、しかし合理的な形で固定した。

 最後に見事な蝶結びを下向きに拵えて、強く抑えて捻ると、美しい結び目が現れた。

 

「どうじゃ」

 

 表情を崩すことが出来ずに両足で立ったルイズが飛び跳ねると、結び目が軽やかに舞った。

 

「すごい、すごいわ、イングリッド!完璧なはきごごちよ!」

 

 膝を払いながら立ち上がったイングリッドは腕を組んでうんうんと頷いた。

 

「それは重畳」

 

 はきごごちを確かめて満足したルイズが足を止めると、腰を落としたキュルケが好奇心を持ってブーツを撫で回した。首を捻りながら、イングリッドを見上げる。その視線の先には得意げに顎を挙げた顔の上で、細い眼がキュルケを見下ろしていた。

 

「はあー、すごいのね。私もブーツを治してもらおうかしら?」

 

 その言葉に、やや不機嫌そうな表情を作ってイングリッドは言葉を返した。

 

「ルイズの足だから触れるんじゃ。他人の足等知らぬ」

 

 そう言ってイングリッドはぷいと視線を反らした。その言葉にルイズはさっと顔を赤らめて顔を反らし、キュルケは立ち上がりつつ呆れて鼻を鳴らしてしまった。

 

 気を取り直したルイズは、腰に巻かれた細くて光沢のあるベルトを引き抜き、外向けのいかにも頑丈そうなごつい見た目のベルトに付け替えて、ポーチを2つ取り付けてバックルでとめる。杖を治めるホルスターを右足の太ももにベルトで留めると、腰の後ろ側にシークレット・ホルスターを回して予備の杖を差し込んでカバーで覆い、ボタンで留める。

 ハンカチにタオル、鼻紙を取り出して左側のポーチに押し込み、机の中から女子が持つには余りにも大きすぎる、凝った装飾を施された財布を取り出して、右側のポーチに押し込む。

 引き出しを戻そうとして一瞬硬直し、思い直して再び開けると、ヴァリエール家の紋章が記された小切手を取り出してそれもポーチに投げ込んだ。

 

 イングリッドの手を借りながら準備を続けるルイズを、呆れ顔で見ながらキュルケがぼやく。

 

「どれだけ買い物する気よ……」

 

 慌てて髪留めを前髪に差込み、伊達眼鏡を取り出して装着しながらルイズはキュルケに応える。

 

「一応よ、一応!備えあれば憂い無しよ!」

 

「はいはい……」

 

 キュルケは肩を竦めた。イングリッドが苦笑いで応える。

 そうしてからイングリッドはルイズに向き直って、やや表情を引き締めて尋ねた。

 

「で……だ。ダエグの曜日とはなんぞや」

 

 キュルケもルイズも揃って肩を落とした。

 

 

 

 

 準備を整えた3人は階段を降りながら、かしましく騒ぐ。

 キュルケの横にフレイムの姿は無い。お留守番であった。寂しそうに顔を見上げるキュルケの使い魔の姿がイングリッドには心苦しかった。

 

「ハルケギニアの統一暦ではね、一年は384日、12ヶ月なの」

 

 早足で階段を踏みしめ、ルイズがイングリッドに説明をしているのを見ながらキュルケはイングリッドの背中を見下ろしていた。

 

「ん、つまり、一ヶ月は32日と言う訳かや」

 

 キュルケは小さく驚いた。その気配を察したのか、ルイズのほうに顔を向けていたイングリッドの視線がこちらを一瞬だけ向いて、すぐにルイズの方に戻った。

 

「大の月とか小の月なんていうのは……うむ。なさそうじゃの。なんでもないわ。忘れてくりゃれ」

 

 ルイズが首をかしげた。

 

「なにそれ……、何で一々さ、一ヶ月の日数を変える必要があるの?そんなことをしたら日にちと曜日がずれるし、ややこしいじゃない」

 

 イングリッドも驚く。2重の意味で驚いた。

 

「なんと!ハルケギニアの一週間は8日間なのか!」

 

 ルイズはその言葉を受けて再度驚く。キュルケは噴出しそうになった。忙しい2人だった。

 

「え!一週間は8日でしょ!そうしないと曜日と日にちがずれちゃうじゃん!」

 

 何故だか苦みばしった表情で、顔を顰めたイングリッドが視線を揺らす。

 

「あー、まあ、そうじゃよな……。一致しているほうが合理的よな……」

 

 純粋な好奇心を乗せた視線をルイズから向けられたイングリッドは、首を竦めて右手で太陽のアンクルを撫でる。

 

「んー、我のいたところでは一週間は7日で、一ヶ月は30日と31日が交互に来ることが基本での。例外があるのじゃが、更にそれとは別に、まあ、日にちを調整する月があってじゃな……」

 

 首を捻ったルイズは、少し、ほんの少し考えた後、疑問を強めたような表情をイングリッドに向ける。

 

「イングリッドのところでは一年は13ヶ月なの?でも、そうすると、一回は18日間の一月になるわよね……例外があって、小の月?とかが続いても、余りうまくは調整出来なさそうだわ」

 

 眉を跳ね上げたイングリッドは一瞬ルイズを見つめる。自然と足の動きが遅くなったがすぐに元に戻った。そんなイングリッドに訝しげな視線を送ったルイズの頭をイングリッドは撫でた。

 

「なによ」

 

 突然にやさしく頭を撫でられたルイズは、僅かに頬を紅潮させてそっぽを向いた。ルイズの視線の先にはエレベーター・シャフトの外壁があった。

 

「うむ。ルイズは頭が良いの」

 

 その言葉でルイズは、瞬間的に激昂してイングリッドの腕を振り払い、イングリッドに飛び掛った。

 

「馬鹿にしてるの!馬鹿にしているのね!算学も録に出来ないとか、子供じゃないんだから!そんなわけ無いじゃない!算学なんて出来て当たり前でしょ!」

 

 予想以上に激しい反応を示したルイズの姿に泡を食ったイングリッドが慌ててなだめた。

 

「違う!すまぬ!言い方を違えた!」

 

 壁に追い込まれたイングリッドは、両手を振ってキーキー言うルイズの肩を叩きながら弁解した。

 

「頭の回転が早い。そう言うべきじゃったな。すまぬ。要らん誤解を招いたのは我の落ち度じゃ」

 

 一転してキョトンとした表情のルイズをイングリッドが冷や汗を流しながらなだめてすかす。

 キュルケは苦笑いを隠せずに、ルイズの頭に手を乗せて、わしゃわしゃと撫で付けた。ルイズは嫌そうに身じろぎして飛びのく。

 階段の踏み代が広いのが幸いだった。普通の階段でそのような動作をすれば、ルイズは転げ落ちたであろう。無論、ルイズは足元の状況を理解した上でそういう動作をしたのだった。普通の階段であれば、ルイズはキュルケのなすがままだっただろう。キュルケは、それを残念に思った。

 

「はいはい、ルイズ。あんたもイングリッドを誤解させるようなことを言っちゃだめよ」

 

 「むっ」とした表情を見せるルイズと、苦笑いするキュルケの間で視線を揺らしたイングリッドは、疑問符を浮かべてキュルケを見つめた。

 

「どういうことじゃ?」

 

 

 

 再び階段を降りつつ、キュルケは説明した。

 ハルケギニアでは算学どころか文字を読むことすら怪しい人間が山のようにいるという説明だった。

 キュルケの()()であるゲルマニアでは、貴族ですらそういった者が多いということだった。

 その説明に、キュルケの予想に反して、何故かルイズが驚き、イングリッドが納得したように頷いていた。

 イングリッドの反応にはキュルケも驚いたが、ルイズの反応に対しては、一瞬の驚きの後に、刹那の思考を経て納得した。

 

 これは、ルイズの頭の中で「貴族」=「メイジ」という常識が抜きがたい固定観念になっていることが影響している。

 メイジがメイジであるためには、魔法を使えることが必須であることは言うまでも無い。

 メイジが魔法を、人間として生まれた瞬間に、空気を吸うように、本能的に行使できるのであれば何の問題も無い。だが、無論のことそういうわけではない。魔法を使える能力というのは(ここに極めて稀な実例があるにせよ)メイジの先天的な特徴であるが、魔法を技術として行使できるようになるのは、後天的な努力の結果なのである。

 つまりは、魔法を知り、魔法を学び、魔法を練習し、その上でようやく魔法の行使へと段を進められるということである。

 その中で、1人の貴族がメイジへと足を進めるのに、別のメイジが1人、付きっ切りで教え込むのであれば問題は無いが、無論のこと、様々な理由によりそれは難しい。1人の熟成されたメイジは、メイジである以上は様々な仕事をこなして義務を果たさなければならない。暇なメイジ等ハルケギニアのどこを見渡しても存在しないといって言い。例外の無い法則は無いが、それは置くとしても、そもそも、何をするにしてもメイジが手を出さないと何も進まない社会秩序が出来上がっているハルケギニアである。しかも、平民とメイジの人口比は極めて歪なのだ。平民の生活を円滑なさしめるには、メイジが走り回っている必要があった。

 そうすると、1人のメイジを育て上げるのには、誰かが専属で教え込む以外の何らかの方策が必要になるわけで、その中で大きな比重を占めるのが書物ということになる。

 6000年に渡るハルケギニアの歴史の中で、多くの人々によって研究熟成された魔法体系は、後代の者に伝える術として、当然のことながら書籍、書物という形をなした。そしてそれを円滑に使用する術として基本になるのは無論のこと、文字を読む能力に長じることである。つまり、ルイズの中では「貴族」=「メイジ」すなわち「文字を読める」という図式が完成する。

 

 算学についても同じような図式が成り立つ。

 魔法を行使するに当たっては、文字が読めることはまず持って、魔法を学ぶための必須に近い手段であるが、算学は魔法を効率よく扱うに当たっての必要な技能となる。

 例えば、威力を高めた攻撃魔法を扱うに当たっては、魔法は威力と射程距離のトレードオフが成り立つことが普通である。

 必要十分の威力を維持しつつ、必要十分の射程距離を測るには、意外なほどに面倒なことであって、無意識下で計算能力が活躍することになる。

 自身の能力、その限界、その残量、その効率を定量化して、なおかつ、それらをバランスし、更に後刻の魔法行使の必要性を鑑みて、さらには、時間当たりの回復量も予想する必要がある。

 仕事として魔法を行使するならばきわめて重要な技術である。そこの辺りをうまく計算できないと、やたらと疲れきって、就業時間中に役立たずなメイジが寝っころがる事になるし、逆に行けば、力を出し惜しみするケチがいると後ろ指を刺されることになるだろう。

 戦場でとなれば、開戦直後に力尽きた阿呆は、平民にすらずんばらりんされてお終いになるし、そんな馬鹿についてくる部下等いやしないだろう。だからといって、出し惜しみしていいものでもなく、先を見通して、その場その場で出しうる限界を見極めつつ、許される最大威力を探り続ける事になる。戦場とは、優れた算学者のせめぎあいなのだ。

 つまり、ルイズの中では「貴族」=「メイジ」すなわち「算学に長じた者」という図式が完成する。

 

 この図式が実際に当てはまるのはトリステイン王国、ガリア王国、アルビオン王国の三ヶ国のみである。ロマリア連合皇国にもメイジは溢れているが、ここは宗教国家であるので、貴族がメイジである必要性は低い。寧ろ、貴族がメイジではないほうが都合がいいので、尚の事、いろいろな面で「ルイズの常識」が通用しがたい場所である。

 

 帝政ゲルマニアも含めて、他の国の貴族は存外に識字率は低いものなのである。

 キュルケは寧ろ例外であり、通常の貴族に於いて最も重視されることは他人を顎で使う能力に長ける事なのだ。

 メイジである貴族というのは、実のところ、他人が出来ない能力を持っているという一点で、自ら動き回り、力を発揮する必要があるわけで、真面目なメイジであればあるほど、領地を走り回る貴族という姿が出来上がる。そこに優雅さは無い。

 三ヶ国の貴族こそが実は例外であって、ゲルマニア辺りの成金貴族から言わせると、領内を走り回って魔法を行使する貴族などは随分と泥臭いものだと嗤っている位なのだ。その辺りはゲルマニアからの留学生であるキュルケだからこそ理解できる感覚であり、始祖三ヶ国と他の国の貴族との間に横たわる埋め難い溝なのだ。

 イングリッドの感覚からすれば、偉そうにふんぞり返って顎で人を使うのが常態の貴族像からすると、始祖三ヶ国の貴族は、やたらと勤労な庶民の奉仕者ということになる。なかなかに皮肉な情景だった。

 

 算学についても同じ理屈が成り立つ。

 数字をこねくり回して頭を悩ます貴族というのは、余りカッコいい物ではないという考え方がまかり通っている。

 始祖三ヶ国ではメイジであるがゆえに算学に長じていることから、領地経営で必然的に発生する数字いじりを片手間に難なくこなせる事から、それほど不思議がられることも無い。だが、他の国に於いては、収入や支出の管理、そういった経済活動もろもろで起きる数字いじりというのは専門の官吏が扱うべき仕事なのだ。

 分業として、職業の選択肢を増やし、職制を当てることで勤務箇所を増大させ、平民を引き上げる場として存外に重要な部分があるのだが、第一義には、貴族が扱う仕事としては華やかならざるという観念が強い。

 地球の歴史でもそうなのだが、それが故に、貴族が平民出の下級官吏に出し抜かれて資産を横領されたりする事件の発生を招いたりするのだが、だからと言って始祖三ヶ国のように領地経営が厳密に貴族と平民の間で断絶してしまうと、そこに発生する意識の差異が抜き差しならぬところに進展して、平民の領民意識を減退させて無気力な国民を大量生産させることになり、ひいては国力の衰退に繋がることになるのだから話が難しい。

 高度な算学を治めようと、文字を読む能力に長けて書類仕事がこなせるようになろうと、それらを生かす場所として頂点にある国政参加の道が無いとなれば、平民が学を修める動機を失わせることになる。

 国力の伸長というのは、貴族、平民の区別の無い、国民の就学力の高さとその結果が根本になるので、これが妨げられてしまう状況が放置されると、国家機能としては大変に不味い状況を招致しかねない。

 始祖三ヶ国で国力が衰微し続けているのは極めて当然の結果なのだ。

 

 なお、地球における全般的な識字率の高さと言うのも実は大したことがない。地球世界では独立して、個人として生活可能な人間のほぼ全員が文字を書いて、文章を捏ね上げて、そして間違いなく読むことができる等と言う()()()()()()国があるが、とびきり例外中の例外である。

 所謂先進国であっても、識字率は9割を超えない。自分の名前を書ける。読める。程度でとどまっている人間が存外に多い。文章を読むことができるが文章を創り上げる事ができない、という部分まで区分を明確にすると、文章を創り上げる事が出来ない―――つまり、報告書をテンプレなしに書き上げるとか、論文を書くとかが出来ない人間の比率はびっくり仰天するほど多くなって、極東の島国の国民ならば顎が外れる事になりかねない。

 それくらいに世界と言うのは文字から縁遠い人々で溢れているのである。

 

 数学にしてもそうである。

 算数レベルまで敷居を下げると、文字を読めない人よりもよほどに状況は改善するが、一次関数レベルで絶望的な谷間が広がったりする。多くの国では一次関数で既に(教育制度としての)数学のレベルに足を踏み込んでしまう場合があるのだ。対数関数以上は選ばれた人のみに許された世界である場合が多い。

 ホワイトカラー製造機みたいな教育制度を曲がりなりにも維持できている国なんて少数派と言うよりはありえない奇跡とすら言い換えてよい。

 そういう意味ではハルケギニアはイングリッドの見るところ、地球に近しい文化状況と見て取れると言えなくもない状況である。

 

 何しろ地球では、生涯で最後まで読み終えた本が一冊しかないと公言して憚らない大国の大統領と言う存在が許されているぐらいなのだ。ハルケギニアの情勢も、まあ、そんなもんかで済んでしまう。イングリッドの個人的感想ではあるが。

 

 

 空を飛び交う生徒達を見上げながら、西門に向かって歩く3人の中で、想像もしたことも無い「常識」に触れて頭を悩ますルイズを眺めながら、キュルケも内心は疑問がいっぱいだった。

 ルイズを慰めたり、ルイズの言葉に答えを返したりするイングリッドの姿が、イングリッドの能力が、よくわからない。

 

 昨日の授業風景を思い浮かべれば、やたらと驚いたりしている姿を見て、常識が足らない田舎者と判断して納得しかねない部分がある。

 しかし、外見を見ると、マントの有無こそあるが、その姿はその辺に転がっている有象無象よりもよほどの事、貴族らしくもある。

 

 黙っていれば美少女と断じて良いイングリッドだが、人の容姿とはかなりの部分で生まれ瞬間に決まってしまうアンフェアな勝負事である。だが、そのスタートダッシュで得た馬身を生涯にわたって維持するのは存外に困難な事なんだろうという自覚がキュルケにはある。

 ゲートを抜けた先で差をつけたことに安寧とすれば、ただ馬場を走るのみで草臥れる容姿が後方から迫る競り合い絡むことになる。ただ無策であれば、同じ時計を刻む馬場を走る以上は簡単に横に並ばれるのだ。

 キュルケの見たところ、イングリッドの容姿は明らかに発走時から大きなアドヴァンテージがあるタイプであった。しかし、それを維持し続けることに費やされたムチはいかほどのものかとキュルケを悩ませる。

 枝毛一つ見られない艶やかな髪。滑らかで瑞々しい肌。引き締まってバランスのよい体躯。見る者を緊張させる程に均整のとれた容姿。どれもかしこも簡単に手に入れられるものでもないし、生まれた瞬間からそれを持っていたとしても、簡単に維持できるものでもない。

 ほかならぬキュルケ自身が必死で悩み、苦しんでいる事なのだ。それをなすにはどれほどの財が、努力が必要なのかと、キュルケはイングリッドを斜めから見てしまう。つまり、キュルケの見立てたところ、ただその容姿だけでイングリッドが浅からぬ立場を持っているのではないかと推測させてしまう。キュルケならではの見立てである。

 「美少女」であることを維持し、それを明日に残せる立場というのは、まさに貴族でもない限りは極めて困難な「個人的事業」なのだ。それがキュルケの納得するところである。

 

 ルイズが今のところ、たいした努力も自覚も無く、悩むことなくその容姿を維持していることをキュルケが知ったのなら、キュルケは怒り狂っただろう。イングリッドに関して言えば、その辺りは余りにも人のあり方から外れている。キュルケのみならず、世の中の女性の9割ぐらいは、イングリッドにある真実に触れれば、崖から身を投げかねない。イングリッドは「そういう方向から見ても」飛び切りのイレギュラーであるし、ルイズもまた「今のところは」イレギュラーだった。そして今のところは、キュルケはそれを知る立場に無い。幸運な事なんだろう。

 

 キュルケがイングリッドの内面を探ろうと思考を走らせると、更に余計な混乱に見舞われてしまう。

 まず、しゃべり方。

 偉そうだ。

 以上。

 

 問題は、その偉そうなしゃべり方をして、なお、自然と受け入れてしまう雰囲気がイングリッドから濃密に漂っていることである。

 オールド・オスマンとの間で交わされた茶番劇を省みると、現実に、あの「嘘」をあの場でうっかりと納得し得るだけの説得力があった。それだけでは済まされない。しゃべり方のみならず、しゃべっている内容も、酷く説得力が合った。それはつまり、相当な知性をイングリッドから感じているということである。

 先ほどの会話でキュルケは確信に至っていたのだが、実際にイングリッドは相当に頭がよかった。

 384日で12ヶ月。そこから即座に一ヶ月を32日だと暗算していた。ルイズはそれが常識であるという部分から軽視したようだが、一ヶ月が30日であったり31日であったりする国の常識を持った人間からすれば、そういった発想を持つには、当然のことながら計算するしかないわけであり、指も使わず、紙に書くこともなく、一瞬で計算してしまったイングリッドが唯の平民であるわけも無かった。キュルケの周りでも算学ができる事=暗算ができる事、では無いのが普通なのだ。2桁以上の計算は紙に書いたり、地面を抉ったりしてようやく行え得る者が多い。この世界における算学というものは「通常は」、その程度なのだ。

 

 イングリッドの発した僅かな言葉から、イングリッドにとっての常識たる暦を暗算したルイズも、また大した者ではあったが、ルイズに関しては、まあ当たり前だというのがキュルケの感想である。ルイズが疑いようも無く頭が良いのはキュルケも認めるところである。

 

 その後に、イングリッド自身の言葉から発せられたルイズの疑問を受けて、一週間が8日だと談じたやり取りは、結果だけ見れば当たり前の結論を導いただけにも思えるが、実際にその場で、客観的な立場で結論に至った会話を聞いたキュルケとしては、仰天するところだった。

 少ない会話から、あの結論に至るには相当な洞察力が要ることは明白だった。複数の事実を自然とつなぎ合わせて別の結果を導いたのだ。頭が良いだけではない。実際に頭の回転が早いのだろう。そうでなければあのような会話を澱み無くできるはずが無い。

 

 キュルケにはイングリッドの評価が定まらない。

 ルイズとじゃれあうイングリッドに視線が固定してしまう。

 これでメイジではないって、どういうことかしら……?

 

 結局のところ、キュルケもメイジに対する「常識」が抜き差しなら無いところで凝り固まっている現実があったのだが、キュルケ自身に自覚できることではなかった。

 

 

 

 西門の手前に広がる「屋外実習場」の端っこ、或いは、西門と教育棟の間に広がる無為な土地とも呼べる広場に、タバサとシルフィードが待っていた。

 イングリッドがタバサの使い魔たる風竜の名を「シルフィード」だと知ったのはつい先ほどの事だが、別に疑問を持つ必要も無かった。

 風竜がタバサの使い魔であることは十二分に理解にいたるだけの経験と経緯があったわけだし、あのように美しい体躯を持った風竜の名が「シルフィード」というのであればなんともお似合いの、納得のいく名前だったから、妙な緊張感を漂わす「幼い顔立ち」の西洋竜とその前で所在無さげに立つタバサを見て、イングリッドは少しく首を傾げた。

 

「うわあ……やっぱり綺麗な子だね、シルフィードってば」

 

 キュルケが感嘆の声を上げつつ、タバサの脇を走り抜けて竜の首に抱きついた。おとなしいものだが、その顔面にはどこと無く嫌そうな雰囲気が漂っているのが見て取れた。

 ハウザーに比べれば1000倍は可愛げのある顔に、イングリッドも思わず相貌を崩してしまう。イングリッドはその趣味嗜好に()()の特異性があるものの、基本的に「カワイイ」物に目がないのだ。

 突然走り抜けたキュルケを目で追って、ふと気がついて振り向くと、イングリッドすらもシルフィードの側に走り寄っていることに気がついて、ルイズは溜息を吐いた。タバサと視線をあわせて、肩を竦める。タバサの表情は普段と変らぬ鉄面皮だった。

 ルイズとタバサが不可思議なコミュニケーションを取っている側で、イングリッドはシルフィードの正面に立ち、その視界がイングリッドの全身を十分に捉えられるであろう距離を取って立ち止まった。

 イングリッドは眦の下がった瞳をシルフィードに向けながら、まず両手を身体の前に出し、手のひらと手の甲をためすがえすしてふと気がついて、慌てて手袋を脱いでポケットに捻じ込んだ。

 キュルケを首にぶら下げ、緊張感を保ったままのシルフィードがイングリッドの仕草を目で追い続ける。イングリッドは再び両手を差し出して、自身が何も持っていないことをシルフィードに認めさせた。

 大きな体躯を誇るシルフィードであるが、今、首にキュルケを巻きつけているがために、随分と低いところに顔があった。ただ立ち尽くせば、イングリッドとシルフィードの視線は直接交錯するぐらいの位置であったが、イングリッドはあえて腰を低くして、両手を差し出したまま、シルフィードの顎の下に腕がいく程度の姿勢を保ってゆっくりと近寄った。シルフィードはシルフィードで、随分な緊張感を漲らせて、イングリッドの視線を受け止め続けている。

 遂に竜の顎の下に手を差し込んだイングリッドは、そのままやさしく顎を撫で付けてシルフィードの顔を両側からなで上げて、頭をゆっくりと押し付けた。

 次いで、そのまま鼻を押し付けて大きく匂いをかいで、首まで回した腕で大きく円を描いてさすり、なでて、シルフィードが肌の感覚で知覚し続けられるように両腕をゆっくりと顔の前に動かして、最後に口元に寄せた。

 戸惑ったように小首を傾げてイングリッドを見上げるシルフィードは、刹那、ためらいを見せた後に、その手のひらを嘗めた。

 その様に、にっこりと笑ったイングリッドはシルフィードの顎を両手で持ち上げると、躊躇い無く自身の口をシルフィードの口に当てて、嘗めた。シルフィードの首の脇でイングリッドの行動を眺めていたキュルケはびっくりして飛びのいてしまう。

 タバサも表情を変えぬまま、しかし、左手を思わず突き出して、そこで硬直してしまう。

 ルイズは、あっけに取られて立ち尽くすばかりだ。

 唇……?の辺りを嘗められたシルフィードは暫し戸惑った後、自分が嘗められたことに気が付いて、目を丸くしていたが、ぐりぐりと顔を押し付けられて、頭を撫でつけられている内に妙な表情になって、遠慮会釈無くイングリッドの顔を嘗め始めた。

 

「おうおう。ういやつめ。主はめんこいの」

 

 いつの間にかわっしわっしと羽をバタつかせながら顔をイングリッドに押し付けているシルフィードは遂にイングリッドを押し倒して、地面に倒れたその顔を、そしてその身体をべろべろと嘗め回した。

 

「わわわ、やり過ぎじゃ、シルフィードよ。少しは遠慮というものをだな」

 

 苦笑いを浮かべながらもがくイングリッドの上で、ぐいぐいと顔を押し付けるシルフィードの脳天にタバサの巨大な杖が突き刺さった。

 

「いたい!」

 

 どこからか、ここにいる四人以外の声が響いて、タバサ以外の3人が驚愕に表情を歪める。タバサは……大変に珍しい事ではあったが、苦い怒りに表情を歪めて杖を振り上げた。

 

「やめるのね、お姉さま!それはいたいのね!」

 

 今度こそ声を発する主を認識した3人は、驚きを顔面に貼り付けたまま、シルフィードの顔を見つめる。

 シルフィードの随分と激しい親愛の行為から開放されたイングリッドは、身体を払いながら呆れた表情を浮かべた顔をシルフィードに向けつつ、タバサに問うた。

 

「……竜というのはしゃべれるものなのかや?」

 

 タバサが答える前に、ルイズとキュルケが激しく首を振る。

 タバサはぶるぶると身体を震わせながら杖を更に振りかぶったが、いやなのね!いたいのね!と喚いて首を竦める竜に視線を移して肩を落とすと、大きな溜息を吐いた。

 

「秘密」

 

 なんとなく距離を取って一塊になった3人は顔を見合わせる。

 そこで気がついたルイズはポーチからタオルを取り出すとイングリッドに手渡した。イングリッドも気がついて、ありがたく差し出されたタオルを受け取ると、乱れた髪をなでつけながらべたべたの顔を拭う。

 その横でキュルケが呆然として呟いた。

 

「韻竜……!」

 

 タバサがその言葉を聞きとがめて、ゆっくりとキュルケに近寄る。折檻を免れたシルフィードが疑問符を浮かべて自身のご主人様を視線で追う。

 

「秘密にして」

 

 やや強めた視線を見上げたキュルケに投げかけて、次いで、ルイズ、イングリッドの順に視線を移す。そのタバサの表情にはどこと無く諦観が滲んでいるように見えたのはイングリッドの気のせいだろうか。

 

 キュルケはこくこくと首を振り、ルイズは首を捻り、イングリッドはタバサを見つめ返して言葉を吐いた。

 

「珍しいのかや?」

 

 タバサは首肯した。キュルケが大きく腕を振って声を上げそうになり、だが声を出す前に気がついて腰を落として、他の三人と同じくらいの位置に視線を落とした。囁くような調子で躊躇いがちに言葉を続ける。

 

「……珍しいどころじゃないわ。韻竜っていうのはとっくの昔に絶滅したといわれる、伝説的な存在なのよ。

 風竜が呼び出されたってだけでも結構レアなのに、風韻竜だなんてことがわかれば大騒ぎじゃすまないわね」

 

 キュルケの言葉の中段部分でイングリッドは眼を見開いたが、それを疑問として口に出す前に、横合いから青い顔が割り込んだ。

 

「絶滅なんて酷いのね。勝手に殺さないで欲しいのね。シルフィはここにいるのね。珍しいとか物扱いされるのは心外なのね!」

 

 こちらを上目使いで見上げる大きな顔に呆れた視線を向ける3人。その対面でご主人様たるタバサは身体を震わせて、杖を振り上げる。

 

「約束は?」

 

 脅えたシルフィード改めシルフィは、首を竦めて後ずさる。

 

「約束。約束?えーと、約束ね。その、えーと、ね。人前では迂闊にしゃべらないのね!」

 

 そこまで喚いて首を捻った。

 

「アレ?」

 

 その頭に杖が振り下ろされる。

 

「いたい!いたいのね!やめてほしいのね!そんなにされたらシルフィは馬鹿になるのね!」

 

 ぽかぽかと殴りつける杖はしかし、見た目こそ痛そうだったが、十分に配慮が透けて見える勢いで、躾けていると言うよりは、どことなくじゃれているような仕草だった。

 肩を落としたルイズが、深い深い溜息を吐いた。

 

「はあぁ……。なんか、ここのところ、私の周りで大きな騒ぎが立て続けに起きているような気がするんだけど。気のせいかしら」

 

 その言葉にキュルケとイングリッドが顔を見合わせた。次いでイングリッドが刹那にキュルケから視線を反らしてルイズに視線を戻し、それを虚空に僅かに彷徨わせながら肩を竦めた。

 

「ぬ……まあ、なんじゃ。類は友を以て集まる、とか?」

 

 片眉を跳ね上げたルイズがイングリッドを睨む。

 

「あんまり良い意味で言われている気がしないんだけど」

 

 にははと笑うイングリッドの横で、キュルケは腰に手を当てて身体を伸ばす。

 

「アレね。そう、同じ羽毛の鳥は群がるって言うじゃない」

 

 キーと声を上げてルイズがキュルケに視線を移した。

 

「同じ意味じゃない!」

 

 じゃれ合いを始めたキュルケとルイズを見、地面をのそのそと逃げ回るシルフィを一定の間隔を置いてゆっくりと追いかけるタバサを見、イングリッドは両手を振り仰いだ。

 

「やれやれ。いつになれば出かけられるのかの」

 

 それは独り言のつもりだった。その言葉に対する反応が帰ってくることを期待していなかったイングリッドだが、腰に飛びついたルイズを引きずりながらキュルケが近寄ってきて、イングリッドの身体に顔を寄せて、鼻をすんすんと動かした。

 

「もっと遅くなるわね」

 

 首を大きく傾げてイングリッドはキュルケを見つめる。

 キュルケは指でイングリッドの顔を指し、そのまま下に降ろしてイングリッドの服を指した。

 

「匂うわよ」

 

 あっと驚いたイングリッドは両腕をすぼめてすそに鼻を当てる。匂いを嗅ぐ前に濡れ雑巾のようになった服に顔を埋める羽目になった。あわてて顔を離すイングリッドの鼻頭から、粘っこい糸が下向きのアーチを描いた。

 キュルケから離れたルイズもイングリッドに鼻を近づけて、顔を顰めた。

 

「……臭い」

 

 イングリッドはがっくりと肩を落とした。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。