陽光に照らされて、基本を青に、しかし、角度によって虹色とも取れる複雑な輝きで世界を照らして、シルフィードという風韻龍が空を切り裂く。真大気速度、時速800リーグという、恐らくは彼女を中心とした周囲数百リーグ以内で空を飛ぶモノとして、もっとも速い存在だった。
その彼女は、自身の背に乗せた少女の姿をちらと見上げた。
タバサ。
偽名で飾られた自身の主人。
シルフィードの広い背中に胡坐をかいて、足の上に本を広げている。
地上では絶対に得ることが出来ない、ぎらぎらとした輝きの太陽に照らされた青い髪が、通常の人生を送る人間であれば見ることもかなわない濃い群青の空に混ざる。シルフィードの遮蔽フィールドを越えて耳朶を打つ風に巻く、鮮やかな青。
シルフィードの持つ能力を駆使すれば、完全に遮断できるはずの空気が、主の身体をなでている。
過去にそのほうが都合が良かろうと空気の流れを完全に遮ったところ、青い顔を見せたタバサに杖で頭を何度も殴られた。だから、背にヒトを乗せるときは、ある程度の空気の流れを残す必要があると知ったシルフィードだった。
今、タバサは、深く透き通った湖の底を思わせる青を湛えた瞳を本に落としている。微妙な仕草で目線が文字を追っていることがシルフィードには見て取れた。
その瞳は青。どこまでも深い蒼色。僅かな揺らぎも見せない、地中の奥底に隠された湖で見ることが出来て初めて納得を得るであろう静謐さを備えた蒼だった。
タバサ。明らかな偽名を奉じた名。
ガリアの
今シルフィードが翔る空は、対地高度10000メイル。ドラグーンはもとより、飛行船も飛空船も滅多に現れることがない孤高の世界だ。なんの対策もなく人がこの場に投げ出されては、数瞬の猶予なく意識を混濁させるような、そんな場所だ。
シルフィードであるから、シルフィードと共にあるから、そこにあることが許される世界だった。
シルフィードは遮蔽フィールドを持って空気の流れを遮断するだけでなく、自身の前で吹き付ける風を圧縮して、その結果として熱くなったそれをシルフィード自身の周囲で外気に晒して回し滑らせ、最後に自身の首筋に送って噴出すという面倒な行為を行っていた。
高いところを飛ぶことでヒトが意識を朦朧とさせてしまうことに、シルフィードはタバサを背にして初めて知ったことだったが、それが空気が足らないがゆえと気が付いて自身の創意工夫で自分の背中に快適空間を現出させたのは、シルフィード個人の好意だった。
どう説明して良いのかシルフィードには説明の余地が無かったから、高高度飛行に身構えたタバサも、2度目以降で快適な空の旅を得て不思議に思ったが、それに納得のいく理由を得られなかった。シルフィードが人に説明しようにも、人間の言葉の語彙が少な過ぎてうまい説明が出来なかったのだ。
ただ、タバサにとってシルフィードがかけがえのないパートナーなのだという確信を深める役目だけを担った結果だった。
両翼20メイルになる細くも長く柔軟な翼をゆっくりと傾けて、5メイルほどの尻尾と首を慎重に揺らせて方向を定める。
気圧のわだかまりや澱みの結果として湧きあがる風や雲は滅多にこの高度に姿を見せない。この孤独な世界を突き破る雲は、そうであるが故に強力で狂乱だが、シルフィードの尋常ではない視力がそういった擾乱を遠くで捉えて慎重に避けて飛ぶ。
更に上、数千メイルの幅で、渦巻く東へ向く風の流れがあり、季節や、下の天気に影響されて、下に降りて来たりする事があるが、今の周辺状況は、シルフィードにとっても快適そのもの。
何にも邪魔されない世界がどこまでもどこまでも広がっている。
その空を翔け、一騎と一人は、
秘密を是とするそのあり方からすれば、いかなるものの目に付くこともない10000メイルという世界は、まったくの都合の良い領域であった。
沈黙。
びょうと耳を打つ風。
世界を見るために必要な情報。
視界に映る物も、耳に入る物も、肌に触れる物も、肌に感じる熱も、肌を打つ感覚も、世界を知るにはすべてが必要で無駄がない。
だからタバサの身体を痛めることなく、自身の首のみを遮蔽フィールドの外に突き出して世界を見る。
自身が守るべき存在であるタバサ。それが自身の背にある限りは、安寧を献げてその心を穏やかに。そのあり方に特殊性があると、竜のあり方からであっても感じることが出来るタバサを、せめて自分の背にあるうちは安心と安穏に包まれるように。
いじらしい配慮の様がシルフィードのタバサに対する心根のあり方だった。
しかし、沈黙。
耳鳴りを覚えるかのような静寂。
シルフィード自身を打つ轟音は、しかし、唯の自然の咆哮であって、気にする必要も無い。
自身の今のあり方からすればそうなって当たり前の自然であって、危険ではない。唯の情報。邪魔ではない。
今シルフィードを打つ由々しい事態は、その心を苛む閑暇。
暇なのだ。
人の世に現れて出でて、自身の知らぬ世界で自分達とは違う存在と話す新たな世界。
こんな経験は風韻龍の中でもここ数百年来、シルフィードにだけ与えられた特権だった。
知らない、見たことの無い世界。
それと共に歩むヒト。
しゃべりたい。話したい。コミュニケーションをとりたい。
タバサ。
黙りこくっているだけでは余りにもモッタイナイ!
よってタバサの耳にうっとおしくはならない程度の音声で届くように注意深く調整された声をシルフィードは発した。
「お姉さまお姉さま。シルフィのお相手をして。シルフィと話しましょ。きゅいきゅい!」
その恐ろしげな顔からは似合わない、その体躯からも似合わない甲高い声を発して、シルフィードはタバサにねだる。
しかし、タバサの視線はその足元に広げられた本から動かない。視線がページの中を踊っている。時折風の悪戯で、ページが捲り上げられそうになるのにさっと反応して、右手が動く。
何とかタバサの気を引こうとしたシルフィードは、自身の遮蔽フィールドを弄って悪戯をしようかと思いつき、刹那、首をぶんぶん振ってその考えを押しのけた。
フィールド内部に空気を送ることをやめればたちまちご主人様は意識を失ってしまうだろう。この暴虐の世界は空気が足らないだけでなく湿度も低く、圧力も低い。
意識がなくなるだけならともかく、鼻血を噴出したりメンタマが飛び出したりしたら大惨事だ。干からびた死体を乗せて地面を目指すなんて真っ平なシルフィードは一瞬でも恐ろしいことを考えた自分が許せなくて瞳に涙を滲ませた。
メンタマがーとか干からびちゃったなんていうのはシルフィードの考え過ぎであったが、彼女の一瞬の激しい動きは図らずもタバサの意識をシルフィードに向けさせることになった。
「なに?」
数瞬の恐慌を押しやって、タバサが意識の向きを変えたことに無邪気に喜びを感じて、シルフィードは刹那に思いついた、ここ数日思い悩むことを隠すことなく喚いた。思慮深いのか抜けているのか判断しかねる反応だった。
「ねえお姉さま。ヴァリエールのおちびが呼び出したアレはすごかったのね!アレはちょっとないのね!きっとすごく格の高い精霊様なのね!」
突然ありえない拝察の混じった意味を推測しかねる科白がシルフィードから飛び出して、タバサは僅かに眼を見開いて身体を反らせた。
「どういうこと?」
シルフィードは目を細めて尻尾をぶんぶん振る。空気の薄い高空で急激な動きが空気を掻き乱してシルフィードの体勢を崩したが、無意識で操られる風の力がシルフィードを支える。そうでなかったら失速していただろう。
その「些細な」事実を無視してシルフィードは、自身がイングリッドと言う存在に対して感じた、感じ取った特異性を思いつくままに喚きたてる。
「あれは太陽よね!お日様の精霊ね!きっと!
あんな小さな身体にあんなに大きな力を溜め込んで、その、すごいのね!
あれはないのね!人間ではないのね!竜でもあれは真似できないのね!」
タバサは小さく眼を見開いた。自身の膝の上に開かれた本のページを右手で抑える。
それ自体には何の意味も持たない行為だったが、タバサが思考を弄ぶ上ではそれは必要な行為だった。
タバサは膝の上に本を広げていた。それは間違いではなかった。確かにシルフィードが見たとおり、タバサは本を広げていたし、そこに書かれた文字を視線で追っていた。
追っていただけだった。
実際にはそこにある文字情報はタバサの頭に入ってきてはいなかった。ただ追っていただけだった。
ここ数日来、タバサを悩ませる問題が、彼女をしてシルフィードの上で無為な行為を強要していた。
実は、タバサはシルフィードが自身も知らない何某かの能力を発揮して、タバサ自身の思考を読んだのかとすら思った。
実際問題として、タバサは確かにそのとき、シルフィードが話を振った対象そのもの―――つまりイングリッドと言う存在に対して思考を飛ばしていた。
しかし、タバサはシルフィードに答えを返さない。シルフィードの問いに応えない。
タバサは自身の悩みに対して、僅かばかりの情報の追加と、更なる困惑が加わった事に嘆息して、黙りこくった。埒の明かない悩みに、ひとまずの打ち切りを宣言する。彼女の内心のみで。
現に、イングリッドの存在はありとあらゆる意味でイレギュラーだった。
最初に現れて出でて、そのときその瞬間。タバサは即座にイングリッドの存在に警戒した。警戒せざるを得なかった。他でもない。シルフィードが大きな困惑と、その後に警戒を抱いたのだから。
しかし、タバサにはイングリッドを測る材料が乏しかった。だからと言って無視して捨てるにはイングリッドの存在は余りにも大きかった。だから積極的に関わろうとした。関わるより仕方がなかった。
無視して存在を脇に追いやり、そうして自身のあずかり知らぬところで何を成すというのか。それを想像すると、わからないままで捨て置くことも、それに対して意識をそらす事も難しかった。無関心でいられない存在だった。
で、あるならば判らないなりに近くにあって、途切れず観察を続ける事。それくらいしか解決法を思い浮かばなかった。
その結論にタバサは歯噛みする。
その中途半端な解決は、実に自身の無能さ、或いは経験不足を自覚させる。所詮自身がひ若い存在である事を認識させる。
仕方が無かった。事実としてタバサには経験が足らなかった。
シルフィードが看破した様な、或いは特殊能力があり、それによってイングリッドの特殊性を能力として知りえることが出来るのだとしても、それを実際に生かすには経験に裏打ちされた推測を導き出す必要があった。それがしてしかし、イングリッドがタバサの目的を邪魔する存在であるか、或いは路傍の石となるかの推定につながるとまでは、タバサにも理解できた。
理解できただけだった。
タバサが理解に及んだのはイングリッドを分析する上での前提条件であり、イングリッドそのものに対する考察の段に進めなかった。
自身の足らない部分をシルフィードが補ってくれている。事実、タバサがイングリッドに対して警戒を表せたのはまごう事なきシルフィードからの警告であったし、今またここで、更なる情報の追加があった。
情報だけだった。
分析したわけではなかった。分析作業に入れなかった。
イングリッドの存在がイレギュラーすぎて、果たしてどこからイングリッドに対する考察を進めて良いか。そこの部分からしてタバサにはわからなかった。よって、タバサは件の少女についての思考をペンディングするしかなかった。
だからタバサは膝の上に広げられた本に対して本格的に意識を向けて、それを読み込むことに集中する事にした。
シルフィードの鋭い感覚―――能力は、タバサが激しい反応を何とか押し隠したのだと言う残滓を、鋭く見抜いていた。
しかしそこでもまた見抜いただけで終わっていた。
情報をヒトの身あらざる故に、鋭く、細かく、深く知る事のできるシルフィードはさすがはドラゴンの端くれと言うべきものだったが、なにしろシルフィードも若かった。経験が足らないのだ。
無意味な情報の乱出を受け止め、それを情報として溜め込み、そしてそれだけだった。
ドラゴンであるが故の能力から得られる情報は、人間から見れば情報の洪水としかいえないものだった。それを受け止め、記憶する事がシルフィードには出来た。さすがはドラゴンと言うべき能力だった。それで終わってしまった。
洪水として流れ込む情報から有為なデータを引き出すことがシルフィードには出来なかった。ましてやそれを咀嚼して次の行動に……この場合はタバサに相対するときの「態度」に生かすことが出来ないで居た。
シルフィードもまたひ若い存在でしかなかったのだ。
よって刹那の疑問を話題としてあげて、声に出す以外に方法がなかった。
「ねえ、お姉さま。何の本を読んでいるのかしら?」
タバサはその声に、僅かな溜息を付いて眼を細め、数瞬の躊躇の後に、本の端をつかんでひっくり返し、表紙をシルフィードに向けた。
「『ハルケギニアの暗部に巣食う魔物―――吸血鬼に対する考察とその実例』?まあ恐いわ。もしかしてもしかしなくても、お姉さまの次に相手にするのは吸血鬼なの?なの?」
見せ付けられた表紙から得られた情報に、少なくはないタバサとの「任務」の記憶を照らし合わせてシルフィードは狼狽に身を揺らせた。任務の内容とその結末を見た記憶。そこから推測すれば、次に激突する相手が吸血鬼であることは明確だった。
極端に無駄を省くのがシルフィードの主の常なる態度である。そうであるならば、ガリアへ向かう道すがら読む本が唯の暇つぶしであろう筈もない。と、なれば。
確かにシルフィードはひ若い。経験が足りない。人間社会を共に生きる上での経験は決定的に少ない。しかし、極僅かな経験からでも、自身の推測できる範囲内から推測すべき情報を得ることは出来た。それぐらい程にはシルフィードは優秀であった。
タバサは今度はシルフィードの問いに端的に応えた。頷いたのだった。
タバサの従姉妹であり、現在ガリアの王位継承順位筆頭であり、現状、北花壇護衛騎士団の団長たるイザべラから届けられた手紙には、珍しくも討伐対象が特定されていたのだ。
「吸血鬼は危険な相手ですわお姉さま!陽光に弱いことを除けば、お姉さま達と見分けがつかないし。
先住の魔法は使うし!
きゅいきゅい!恐い!恐いわ!」
そうやって喚いて身を震わせるシルフィードの首を眺めてしかし、タバサが同様を身にやつす事はなかった。じっと手元の本に視線を落とすばかり。
「吸血鬼は本当に危ない奴なんですよ、お姉さま!血を吸った相手を手足のように思うが侭に操るって言うし!」
視線を本に落としたままタバサは眼を細めた。
そうなのだ。
確かに本にはそう書かれている。
メイジが一つ、使い魔を使役できるのと同様、吸血鬼は血を吸った相手を一人、
「お姉さまが幾らお姉さまでも大変だわ!危ないの!吸血鬼は冷酷で残忍なやつなの!きゅい!」
シルフィードはそうやって喚き、騒いだがしかし、タバサはなおも黙りこくっていた。ただ静かに本をめくるだけだった。