ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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伝説の使い魔(6)

 ルイズの前を歩くロングビルという人間は、イングリッドが一見しただけでも胡散臭いどころの話ではなかった。

 唯の「第一印象」である。特にこれといった判断材料があったわけではない。なんというか……そういう匂いをイングリッドが嗅ぎ分けた。それだけである。

 単なる勘違い……ということはありえなかった。断言できる。イングリッドは自身の「この手の勘」が外れたことはここ数百年で唯の一度も無かったことを「知っている」。

 だからイングリッドの中ではロングビルの存在は、この世界にイングリッドが現れ出でて初めて、明確に危険人物であるとイングリッドに認識された記念すべき第一号になった。

 そのロングビルに対する危険性の評価は断定的なものではあったが、個人的意見でしかなく、他人と共有できる類のモノではない。つまり、自身の主たるルイズに対してその危険性を惹起できない点でもどかしかった。

 

 余裕のない表情をした猫背の少年等は、ヤバイ奴ではあっても危険ではなかった。イングリッドの中の評価はそうなっている。

 彼が巻き起こした出来事は、うっかりすれば危険どころでは済まされない部分があったが、それ自体はイングリッドの認識不足、或いは対処のミスといったところで、彼自身が本質的に危険人物という訳では無いというのがイングリッドの見立てたところである。

 イングリッドの理解しようのないところで発生させ、うっかり主たるルイズを危険に晒した先ほどの修羅場にイングリッドは反省しきりである。あの問題の本質はイングリッドの関係し得ない部分にあったとはいえ、問題の発生自体はイングリッド本人の行動如何でどうとでもする事が出来たはずである。イングリッド本人の余計な行動がルイズを危険に晒したのだ。避けるべき行為であったし、避けることが可能な危険であった。

 で、あればこそ、イングリッドはロングビルに警戒の意識を向けてしまう。彼女が発する危険性はイングリッドが管制できる部分を明らかに突き抜けている風であった。能動的に発生する危険性の匂いだった。

 自分がこの世界に来て呆けてしまっている点について、大いなる自覚が出来たイングリッドだ。常に持っていた思慮深さを失って、それで主も失いましたでは反省するどころではない。この世界を甘く見ることは出来ないのだ。

 

 

 教育棟を出て、良く手入れされた石畳を右に折れる。そよ風に揺れる花壇を脇に見ながら、大地を割り、聳え立つ姿を見せる職員塔を目指す。イングリッドは僅かに2回目となる職員塔訪問がすでに億劫となっていた。

 

 あの怪しげな内部構造はイングリッドに不安感を抱かせるものだった。事実として6000年間変らず姿を保っていたのだから考え過ぎなのかもしれないのだが。初回の訪問で重砲らしき攻撃の衝撃に耐えた痕跡を見たが、しかしそれがあの建物に対する安心につながることは無かった。イングリッドの知る常識から外れた構造を持つ職員塔は、イングリッドの思考では6000年と1日目で倒壊するのではないかという不安を抱かせていた。

 

 理解できないものほど恐ろしいものはない。

 

 ましてや建築物なのだ。それが崩壊したときの物理的衝撃は想像しただけで恐怖である。

 巻き込まれて自身が命を失う心配等、イングリッドはかけらも恐れていない。落ちて来る物を殴って蹴り飛ばして走り去ることはイングリッドには容易なことであり、自身の体重の数十倍に達する物が静止重量換算で自身の体重の数万倍の威力を持って降り注いでなお防いでしまえる術をイングリッドは持っている。

 問題は我が主ルイズだ。

 アレだけ巨大な構造物の崩壊に巻き込まれて、果たしてルイズを守りながらイングリッドが窮地を脱することが出来るか。甚だ不安である。

 

 先ほど発生してイングリッドを酷く狼狽させた修羅場もそうであるが、イングリッドの経験の及ばない事態でルイズの身を守る困難さは想像を絶する。なにしろ一匹狼であることがイングリッドの人生だったのだ。

 身を守ることもそうであるが、その生き方、そのありようも常に自分1人を優先すればよかった。

 この世界では違う。

 まずもって優先すべきはルイズなのだ。

 ルイズの安寧を守ることこそがイングリッドの存在意義である。

 となればイングリッドが不安を感じる場所や、不安を感じる存在に対して警戒を抱くのも当然だった。

 

 

 イングリッドがルイズに抱く感情が尋常ではない状況にまで達していることにイングリッドは気がつけないでいた。

 

 

 

 ロングビルに先導されてついて歩くルイズ。その後ろにつき従うイングリッド。その後ろに並んで歩くキュルケとタバサ。

 すました表情のロングビルに、不安そうな表情を隠せないルイズ。そのルイズとロングビルの間を僅かに視線を揺らせながら、表情の消えた顔を持つイングリッド。身体をそらして両手を頭の後ろに回し、めんどくさそうな表情を隠さないキュルケ。常なる鉄面皮を張り付かせたタバサ。

 

 怪しげな雰囲気を保つご一行様に気がついて、慌てて走り去る生徒がいる。紫色のマントがイングリッドの眼に入る。

 とっくに午後の授業に突入している時間帯で外をうろつく生徒。と、いうことは堂々たるサボり、という事であろうと思われた。キュルケやルイズが一致して語るところでは、まあサボって当然の時期だというのだから珍しくも無い光景なのだろう。校長が抱える秘書の一人だというロングビルが、そういった生徒の存在に特段の意識を向けていないのだから、イングリッドが気にするだけ損、という事なのか。

 

 ロングビルが緑色の髪の毛を僅かに揺らせて職員塔の入り口を守る衛視に目礼する。

 生真面目な表情の衛視が2人、微かに顔を紅潮させて頷き返す。美人とはなかなかにお得なものなのだなとイングリッドは慨嘆する。

 

 

 実は男子の立場から言えば疑いようも無く美少女―――1人、或いは個人の趣味云々すれば2人は……、真実を知っていれば3人は、美少女、括弧クエスチョン括弧閉じ、というところだが、まあ、健康な男児であれば、外見のみを俯瞰した場合、この5人の集団は疑うことも罪というほどの「美人」の集団である。

 今、後ろにおかれて彼女達を見送る衛視でなくても、その姿を見て、ましてや見つめられれば顔を紅潮させるぐらいは当たり前の反応だった。不意に声をかけられればうっかり前かがみになりかねない。それほどに色とりどりのジャンルの違う趣味思考を満足させ得る集団だった。イングリッドはそこに意識が向かない。そういう反応を示す人間がいることを知らない。そういう反応が世間一般にあることをイングリッドは知らない。

 絶対に油断しない。そう思いなおしていたイングリッドではあるが、結局はイングリッドなのであった。そういう世間一般における機微、或いは「常識」な部分が欠落している。残念な美少女である。

 

 

 ロングビルは階段を無視して、迷うことなくエレベーターに足を向ける。エレベーターの前では書類を持った職員らしき女性やら、掃除道具を持ったメイドやら、大きな荷物を担いだフットマンやらがエレベーターの順番を行儀よく待っていた。

 

 イングリッドは嫌な表情を、隠せずに顔に浮かべてしまう。

 どういう動力を持って動いているかいまいち分からない機械だ。大概にしてただエレベーターといっても、「現代」にあっても結構な頻度で致命的な事故を発生させている機械だ。ごくごく一部の先進国のエレベーターを除けば、年がら年中事故が起きているのは当たり前で、止まった、動かないならマシな方で、墜ちた、床が抜けた、エレベーターの天井を破って何かが降り注いだ、なんていうことは世界的に眼を向ければ日常茶飯事の機械なのだ。

 エレベーターの籠に視線を向けてそうであるし、エレベーターというシステムで見ても、扉が開いた、乗り込もうとしたら籠が無くて墜死。なんていうこともザラにある。危険性が高い。何かの故障が即座に致死性の高い事故に繋がる点で、イングリッドはこの機械自体が嫌いだった。

 

 さらにいえば、籠に乗った時点で密室を強要される点がイングリッドは気に入らない。不特定多数の人間が同時に入って疑問をもたれないという状況を誰にも不思議に思わせることなく発生させるのは至難の業だが、エレベーターは「貴重」な例外の一つである。誰かを守る事を現在、第一義とするイングリッドの現状のあり方には大変に不満な状況だった。

 事実、イングリッド自身も何度も遭遇した状況なのだが、エレベーターに乗ったら異性が野獣になって襲い掛かってきた等という事態は枚挙に暇がない。イングリッド個人で相対するなら相手がナイフを持っていようと重火器を持っていようと指先一つでダウンさせられ得たが、護衛対象があるとなると甚だ不安である。

 

 単純な能力面で見て、現状ではイングリッドを上回る力を持つルイズ。それには劣るが今まで眼にした学院の生徒からすれば相当な実力を持っていそうで、恐らくは対処能力も持っていそうなキュルケ。結構な修羅場をくぐっていることは確実と見られるタバサ。そのあり方は果てしなく怪しいが、実力に関していえば、そうであるが故にそれなりに有りそうと見立てたロングビル。そして自分。

 「ちょっと」したことなら踏んで払ってぶち壊せそうな5人だが、それは数値上の理論値であって、実際に何かが起きてどうなるかは分からない。たまたま寄り集まった3人と一組であって、5人がチームという訳では無いのだ。突発事態に対処するに当たって、ルイズを最優先するのはイングリッドだけだろう。ルイズに気を回しているのが確実であるキュルケだって、野郎!ぶっ殺してやる!となれば優先すべきは自身の身となる筈だ。そうなると、集団を形成している事は逆に弱みになる。他の3人が邪魔になる事も想定しないといけない。

 

 そうではあっても、エレベーターと言う機械は場合によっては使わざるを得ない状況を強要されるという点で、イングリッドにはなおさら嫌な思いをする機械だった。

 何十階という高さを誇る高層建築物で、流石に階段を利用するのはきつい。状況によってはそうではあっても階段を選択したい場面もあるのだが、現代高層建築物ではある一定階層以上の上層部は非常階段以外はエレベーターの使用を強制している場合があるのが困りものだ。階段を選択したくとも、非常階段室の扉を空けた瞬間にけたたましい警報がフロアを駆け抜けるような面倒くさい建物がごまんとあったりする。イングリッドにはありがた迷惑どころではない話だ。

 

 今、ロングビルに先導されて利用しようとしている職員塔のエレベーターは、やたらと待ち人が多いが、その籠は余り大きくは無い。そうであるが故に待ち人が多いのだろうか。エレベーターの到着音としては誰もが思い浮かべる「チーン」ではなく、産業用機械が響かせるような「ジャリリリーン!」という音と共に籠が到着すると、蛇腹の外扉と内扉はそれぞれの場所にいる利用者が自分で引き開ける形のようであった。エレベーターというより、鉱山等で動いている「昇降機」と言った方がしっくりする機械である。書類の束を持った職員が6人程降りてくると、彼女達は走り去って学院の敷地内に散っていく。

 それを避けて籠に入るのは書類を抱えた職員3人に、掃除道具を抱えたメイドが1人。そこで扉が閉められる。だれもその人数に疑問を持っている様でもない。イングリッドが見たところ、押し込めば10人は入りそうな籠だが、つまり、それぐらいの重量にしか耐えられない機械なのだろうということか。

 エレベーターを待つ列が僅かに動く。

 それにあわせて5人も足を進める。

 一瞬訝しげな目をこちらの集団に向けた待ち人の列であったが、その中にロングビルの姿を見て首を傾げ、その後ろにルイズの姿を認めて納得し、慌てて目を背けていた。

 ロングビルがエレベーターを迷わず選んだのもそういう事なのだろう。

 

 そこで一つ重要な事にイングリッドは気がついた。推測はしていたが、確信できなかった事を確認出来た。「平民」である彼らが、ロングビルがエレベーターを待っている、という事態に対して、疑問を呈した。そして、ルイズと共にいることで納得した。

 つまり、ロングビルは普段、エレベーターを利用する必要がないという事だ。それは、ロングビルがエレベーターを使わずとも学院長室に向かうことが出来る……メイジだということを示している。

 イングリッドの中で、ロングビルに対する評価が跳ね上がった。悪い方向に。

 

 13階にある学院長室を目指すのに階段を使うのは、流石のイングリッドでも嫌気を感じさせる行為だった。

 内部構造的な言い方をすれば「13階」だが、1フロアの天井がやたら滅多ら高いのが学院内の建物の特徴である。実質的な高さから換算し「現代」高層建築的な見方をすると軽く20階から25階ぐらいはある高層建築物なのだ。それの最上部を目指す。しかもどこかの遺跡のように外周に張り付いた円を描く階段を昇る。更に言えばそこに手すりが無いと来てる。ちょっと冗談では済まない事になりそうだ。

 となればエレベーターは当然の選択肢なんだろう。イングリッドが知るエレベーターとはまったく異質な轟音を轟かせて、目的のフロアで止まる毎に派手なスキール音とベルを鳴り響かせるエレベーター。

 周囲の空間を飛ぶメイジがその音に顔を顰める位なのだから、イングリッドが胡散臭い視線を送ることは如何程でもないだろう。寮塔でルイズがエレベーターを避ける理由が分かったような気がした。これは酷い。

 もしもロングビルが階段を選んだのであれば、もう隠すことも無くイングリッドがルイズを抱いて飛んでしまえばよかった。そのほうがいろいろな意味で面倒が無いような気がする。

 

 もしそれをすれば最上階で待つコルベールは泡を吹いて倒れたに違いないだろうが。

 

 やっと順番がやってきて5人はエレベーターに足を進めた。

 ロングビルが腰を入れて蛇腹の扉を閉める。それは立て付けがよいとはいえないようで、がくがくとした動きでロングビルの腕に追随した。

 古い電車のマスコンを大きくしたようなレバーが扉の脇にあって、それの前に立つロングビル。今、籠の中には5人しかいない。ロングビルはそれを確認して、1階を指し示しているレバーを13階の部分に回した。

 間違いなくレバーが13階を示している事を確認した上で、その横にある作動レバーを下に下ろすと、ガクンと一つ、大きく揺れて一瞬沈み込んだ籠が、いろんなものがぶつかり擦れる音を撒き散らしながら上に向かって進み始めた。

 イングリッドは騒がしいエレベーターの動きに身を震わせてしまう。今時、鉱山の立孔に設置されたエレベーターですらこんなに騒がしくはないだろう。目的地に着いたら銃を持ったロシア兵がずらりと並んでいました、なんて事になりそうだ。……あれは上ではなく、下に向かった先か。それに、元ロシア兵が混ざっていたかもしれないが、あの場では明確に「テロリスト集団」となっていた。まあ、あの場所ではエレベーターの籠が自由落下する羽目になったのだが……。

 意味不明なフラグを建てていたイングリッドにキュルケが笑顔を向けてその肩を叩く。

 

「リフトは初めて?心配しなくていいのよ」

 

 その言葉に反応して、ロングビルが振り返る。気世話な表情を浮かべて、イングリッドに声をかけた。

 

「あら。申し訳ないことをしましたね。……そうですね。普通、リフトを使ったことのある平民なんていませんもんね……。最初に説明するべきでしたかしら?」

 

 苦笑いでそれに手を振るイングリッド。

 ルイズもキュルケも同じように苦笑いを浮かべてイングリッドを見る。冷や汗をたらすイングリッドを見てロングビルがくすくす笑う。

 

 しかしイングリッドは別のことを考えていた。

 エレベーターではなくリフトと呼んだか。アメリカ英語ではなく、ブリティッシュ・イングリッシュがメインということか?しかし、ルーン。そしてダイアクリティカルマークのあるラテン文字と思われる文字。つまりヨーロッパ的な文字という判断が出来る。いまここに「ロングビル」という明白な英語という例外はあるが、いまのところは古典的ラテン文字を読む要領で問題は起きていない。言語で言えば、明らかなフランス語的固有名称、ロシア語的名称に、ロマンシュ的名称もあった。どういうことだろう?

 がたがたと揺れる籠の中でなんとなくロングビルを見つめるイングリッド。微笑を浮かべたロングビルが小さく首を傾げる。

 この女は明らかに英語圏の名前を持っている。教育棟の中庭で恥をさらした阿呆はともかくとして、基本的にフランス系の固有名称ばかりだった生徒達。コルベールもフランス的な名前だ。キュルケに関してはドイツ系と呼んで良いか、ゲルマン系と言っていいかの判断が難しい。タバサは論外だ。固有名称とは言えない。判断のしようも無い。あえて言えば、ある種、偶蹄目の動物的普通名称であり、その言語学的な由来から言えばヘブライ語かその周辺亜種と判断できなくもないが……言語学的にも混沌とした世界としか言いようが無いし、ましてやその考え方からタバサに隠された真相を探ろうなんて無駄以外の何物でもない。

 寧ろ、エレベーターを「リフト」と呼んだ事に安堵するべきかもしれない。いまのところはヨーロッパ圏だけで話は纏まっている。あからさまにモンゴロイド系の人間がいる訳でもない。アメリカ的英語まかり通っていたり、黄色人種が普通にいるようだと、文化的背景に対する推測が混乱するどころではない。

 

 ブレーキのスキール音を響かせてエレベーターが止まる。一瞬、沈み込んで派手なロック音が響く。「バシーン」と派手な音を立てて作動レバーが上に戻る。

 一応の安全装置はついていることを知って表情を緩めたイングリッドを見て再度小さく笑ったロングビルは、扉に振り返って、蛇腹を開ける。その向こうで、エレベーターを待っていた人々が、外側の蛇腹を引き開けた。

 

 脇に退いた職員に目礼をしながらロングビルが籠の外に出る。それに続く4人。足を出したときに、随分と体が強張っていたことを自覚したイングリッド。その仕草に気がついて苦笑いを浮かべるキュルケ。

 もう……、エレベーターだけはカンベンな!そう思ったイングリッドであった。

 エレベーターと行き来する僅かな部分だけに、申し訳程度の手すりが用意されたバルコニーを抜けて壁に囲まれた広い廊下に入ると、うっかりと安堵の溜息を吐いたイングリッド。笑いながらその腰に肘をぶつけるルイズ。歩きながら、それに手をやって押し返すイングリッドと、傍目にはじゃれあいながら歩いている様にしか見えない2人。

 それを笑いながら見るキュルケ。

 ふと脇を見ると、そんなキュルケをタバサが見上げていた。

 ん?と表情に疑問を浮かべたキュルケはそんなタバサと、前を歩く2人をしばし見比べて、小さく笑みを浮かべてタバサを見下ろす。

 

「私たちもやる?アレ」

 

 右手の親指で指差す2人はとても楽しそうだった。緊張していたルイズの姿はどこかに消し飛んでいる。

 足を止めないままゆっくりとキュルケと2人を見比べたタバサは、小さく首を振った。

 

「……いい」

 

 思わずその頭を撫でてしまうキュルケ。それに対して微かに不満そうな表情作ってキュルケを見上げるタバサ。しかし、その表情のどこかに満足げな雰囲気があるのをキュルケは感じていた。

 後ろでエレベーターが作動する大きな音が響き渡った。

 

 

 

 騒がしい喧騒が漏れる、実用一辺倒な味も素っ気もないつくりの扉が開け放たれた部屋の前を抜けて、その奥を目指す。

 廊下には深過ぎず、しかし、足音は吸収してしまえるほどにたっぷりとした毛並みを整えた絨毯が敷かれている。

 掃除はどうしているのだろうかと、当然の疑問を持ってしまうイングリッド。

 

 中世に於いて絨毯とは、カーペット的な使い方が主流だった。掃除機等思いもよらない時代である。テーブルや椅子のように、メイドであっても3人、4人いれば脇に寄せられる調度ならともかくとして、チェストやタンスに踏まれた絨毯となると、掃除をどうするんだ、という話である。

 普通は、廊下のセンターに引いてあるか、部屋の床、そのごく一部分を飾っているかで、ここや職員室のようにその場所一面に敷き詰められているなんて言うことはありえなかった。それこそ掃除をどうするんだという話である。

 掃除機が出来るまでの地球では、絨毯の掃除と言えば、巻き取って外に干し、たたき棒でビシバシ!が基本である。うっかり洗濯をしようものなら縮んだ、破れた、なんていうことになってしまう厄介な「家具」だった。箒で掃いてどうこうできるものではないのだ。

 そういう意味では裸足で触れて柔らかな感触を楽しむことが出来、香りもよく、拭き掃除、掃き掃除で済ませることが出来て、精々年に一回ひっぺがして外でビシバシ!叩けば、それで何年も使える畳という奴は、スゴイ特徴的な、文化的な道具だった。

 ちょくちょく見受けられる、明らかに地球の文化的背景とは比べる事さえ出来ない事実の現出は、イングリッドにハルケギニアが疑いようも無く別世界なんだなと自覚を迫るように思える。

 

 ランプも燭台も窓もない廊下全体が淡い光に包まれていることも薄気味が悪い。イングリッドは自身がこういうことに慣れる事が出来るか不安を持っていた。

 

 ロングビルはある扉の前(ちゃんと取っ手のある普通の扉だった)に来ると、躊躇い無くそれを引き開けて、中に入った。

 当然、目的の場所に着たら、扉をノックするのだろうと思っていたイングリッドは虚を突かれてしまう。

 ロングビルに続いて入るルイズ。その後を付いて室内に入ると、簡素な調度の部屋で、奥の扉そのものと、そこに続く絨毯だけが豪華な場所だった。

 小さなテーブルと脇に置かれた数個の椅子。すまし顔でその内の一つに座っているメイドがロングビルを認めると、頷いて立ち上がり、奥の扉をノックした。

 

「どうぞ」

 

 くぐもった声が扉をすかして響く。控え室がある構造の建物なんていうのはここ数十年、てんでご無沙汰だったイングリッドは苦笑いを浮かべる。

 そうそう。昔は、そこそこ地位のある人間が住んでいる場所というのはこういう構造だったなあと思い出す。

 ()()の時代、余程の大企業でもない限り、廊下に直接面した社長室とか、事務所の一角をパーテーションで区切っただけの場所とか、職員室の奥に校長室とか、そんな構造が当たり前だったりする。

 イングリッドの立場からすれば「余程の大企業」とか「大物政治家」なんていう存在は時代が下がるにつれて急速に縁の遠い存在になっていた。だからこういう経験は世間一般でなかなか得られるものではない。

 こういう時代かかった構造を「今現在も」最も色濃く残しているのは、大抵は軍隊であったりする。科学技術的な面で常に時代の最先端を行って当然と外部から見られている軍隊が、その内実に、保守的な面を色濃く残しているのは皮肉である。

 

 扉が開けられて、内部が見通せる状態になってメイドが脇に下がり、頭を下げる。

 ロングビルはそれに小さく頭を下げて返すと、背筋を伸ばして中に一歩足を踏み入れ、声を上げた。

 

「4人をお連れしました」

 

 それで頭を下げると、室内で扉の脇に退き、また頭を下げる。

 

「入りなさい」

 

 威厳の詰まった重々しい声が響き渡る。先ほどの「どうぞ」とは違う声だった。「どうぞ」はコルベールの声であったと推測する。となれば、この声の主は、この部屋の本来の主なんだろうとイングリッドは当たりをつけた。

 ルイズとキュルケが顔を見合わせる。

 タバサが僅かに傾いでいた杖を身体に寄せて垂直に戻す。

 イングリッドは肩を竦める。

 ルイズが一瞬眼を光らせて、イングリッドに振り向いたが、イングリッドが僅かに頷くと、溜息を吐いて奥に向き直る。

 

「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。以下4名。お呼びにあがり、参上しました」

 

 薄暗い、部屋の奥で誰かが頷く気配がする。それを認めてルイズが扉をくぐり、イングリッド、キュルケ、タバサの順で室内に入った。

 それを見届けてロングビルは扉に手を当ててそれを引き、控え室に向かって出て行った。鈍い音と共に扉が閉まる。

 

 それなりに明るい場所から、薄暗い場所に入った事で、キュルケとルイズが戸惑う。

 扉が閉まる前から眼を細めていたタバサは、すぐさま視界を取り戻していた。

 イングリッドは何も気にならない。一切の光が失われた場所から投光器が照らし出す場所に飛び出しても何も不自由がないという、特殊な「眼」を持っているのだ。すぐさま室内を一瞥して状況を確認する。

 

 部屋の構造と一体化した設えはともかくとして、調度に関しては質素な部屋だった。

 一番奥の壁には3枚のタペストリーが、いや、言語的な特徴から言えば、タピストリーというべきか、それが吊るされており、室内で明らかに高価な品といったら、目に付くのはそれだけである。

 中央のタピストリーは明らかに国家を示すと思われる紋章が豪奢な刺繍で彩られ、左右のタピストリーは2枚で対になった刺繍を描いている。何がしかの神のみ技を現した一場面といったところか。

 つまり、それで中央に飾られた紋章。すなわち国家が神に祝福された存在であることを示しているのだろう。

 その前に置かれた巨大な机は、黒く光沢のある材質で、ほのかに光を反射している。ただしその上は殺風景だった。ペン立て一つ無い。つまり、普段、その机が執務等に使われる事は無いという事なのだろう。その机とタピストリーに挟まれた場所にある、凝った装飾を施された椅子に、なかなか複雑な印象を感じさせる老人が座っている。

 即座にイングリッドは、この老人を警戒すべき対象であると認識した。

 

 机の前にあるスペースに、長方形の低いテーブル。短尺側に一脚、机に面して1人掛けのソファ。長尺側に3人が腰掛けて余裕があるソファが向かい合わせに2脚。

 

 左右を見渡すと、右側は単なる壁。小さなチェストが扉側にあるのみ。左側を見ると、大きな窓が一つ。ただし、カーテンがその前で揺れている。その横にコルベールが難しい顔をして立っていた。

 扉側に眼を向けると、おままごとでもするかのような小さな調度が置いてあって、これまた小さな籠に、なにかお菓子が盛ってある。

 それだけの部屋だった。

 

 僅かな時間を置いて、奥の老人が立ち上がった。机を避けて、前に出てくる。その左腕は身体の横で自然に揺れている。右腕には彼自身の背丈ほどのねじくれた、特徴的な木の杖が握られている。彼自身の内面を表しているがごときの姿だった。

 1人掛けのソファの横で、柔らかい笑みをたたえて老人が立ち止まった。

 

「さて、立っていてもしょうがない。ソファに座りたまえ」

 

 緊張を隠せないルイズが身じろぎする。

 

「え……でも、しかし」

 

 要領を得ない言葉に、しかし老人は、小さく笑みを浮かべて頷いた。

 

「遠慮することはない。御主らを客として呼んだのはわしじゃ。座るとええ」

 

 顔を見合わせたキュルケとルイズが次いで首を振り、無意識にイングリッドを見つめる。

 視線を浴びたイングリッドは肩を竦めると、首をこきこき鳴らしながらさっさと左側のソファを選んで座った。

 あっけに取られたルイズとキュルケを無視して、タバサがイングリッドの向かい側に遠慮する事も無く座る。

 それを見てもう一度顔を見合わせたルイズとキュルケはしかたなく、それぞれソファに向かった。

 イングリッドの右側にルイズ。それと向かい合わせで、タバサの左側にキュルケ。この組み合わせもなんだか板についてきたようだ。僅かに1日弱程度の時間しか過ぎていないのに。イングリッドは、傾いだ顔で胡散臭そうに老人の顔を見上げながらそう思った。

 この全体としては中世っぽい雰囲気を色濃く見せる世界では、かなり違和感を感じる背丈をもった老人だった。見た目だけで判断できる手合いでは無いと内心を緊張させる。

 

 ジト眼のイングリッドに視線をあわせると老人は小さく笑って、一人掛けのソファに腰を下ろして、手を叩いた。

 

「さて、ここは一つ、わしに見栄をはらせてもらおうかの」

 

 手を叩くと同時に勝手に扉が開き、誰も人がついていないワゴンが無人のまま、音も無く入ってくる。

 そこで老人は杖を振った。些細な事だったが、イングリッドの想像するところ、つまり、扉とワゴンは、杖無しでも、合図をすれば決められた動作をこなせる道具なんだな、そういう物もあるのだな、と記憶しておく。

 ルイズの部屋の扉や、照明と同じ手合いなのだろうと納得しておく。意外と複雑な動きをこなせるらしい事は注意しておく必要がありそうだ。

 扉が閉まると同時にワゴンはテーブルに横付けとなって止まった。老人が杖を再び振るうと、その上に乗せられたティーカップや、ポットが空を滑り、テーブルの上に舞い降りる。

 ソーサーやらナプキンやらスプーンがそれなりの秩序を持ってテーブルに並べられると、テーブルに鎮座していたポットが再び空を舞い、それぞれのカップにその中身を注いだ。

 4人が見つめる先で、よどみなく人外の技が披露されて、僅かの時間でお茶の準備が整えられた。

 微かに感嘆の表情を浮かべる3人に対してイングリッドは意識を背後のコルベールに向け続け、視線は老人から離さないでいた。

 複雑な動きでありながら、かなり正確な動きを見せていた。何故そのようなものを見せる必要がある?つまりは実力を見せ付けるということか?派手な爆発一つを見せるより、はるかに効果的でありながら、実力を持たない者には単なる見世物程度にしか思われない地味な行為だ。つまるところ、彼はイングリッド自身を評価しているという事なのだろうか。そして、それをイングリッドに伝えようとしているということだろうか。

 茶番だな……。お茶だけに。

 

 

 

 香りも味もたいしたものだった「お茶」を飲み干すまでは、どうでも良い会話が交わされた。

 ヴァリエールの家は大変じゃの。長女の婚姻が遠のいたようじゃ。ええ!またですか!

 どうでも良い会話とはいえないような気もしたが、まあ、どうでもよかった。

 左肘をソファの肘掛について、身体を傾げて老人を見つめ続けるイングリッド。

 ちょこちょことそんなイングリッドの態度を気にかけるルイズ。そうして気もそぞろなルイズに視線を送るキュルケ。我関せずとお茶を飲むタバサ。

 紅茶かと思って取ったカップには、黒い液体が入っていた。コーヒーかとも思ったが、香りは中国茶に近い。色はウーロン茶とコーヒーの中間で、ややコーヒーより。温度は70度といったところ。口をつけると淡い香りの奥に、甘めのウーロン茶のような味がした。やや自己主張が過ぎる渋みもあり、控えめな苦味もあるが悪くは無い味であった。短くない人生の中でも感じたことの無い味に、世界とはまだまだ広いのだなと、心の中で感想を漏らしたイングリッド。

 

 いや。

 

 思いなおす。

 

 ここは異世界だったな。

 

 お茶請けが欲しいところだったが、用意されたのはお茶のみ。ワゴンの上に残ったのは水滴を滴らせるウォーターポットだけ。ケチいやっちゃな、と思いつつ、まあ昼食の後だから良いかと思いなおして、空になったカップをソーサーに戻した。

 

「で、駄弁る為に我らを呼んだというのかや老人?」

 

 ぶうっ!とお茶を噴き出したルイズとまともにそれを浴びたキュルケ。あわあわ、きゃっきゃと騒ぐ2人に視線をやって、すぐに老人に視線を戻す。

 

「老人とは挨拶じゃのう……。まだ若いつもりなんじゃがの」

 

 にやりと笑った老人を見下すように見つめて、イングリッドは鼻で笑った。

 

「はっ!あの騒ぎを高みの見物で終わらせて、何が学院長じゃ。貴様等を我が糞じじい扱いしないだけマシだと思え」

 

 芝居じみた仕草で両手を天に振り仰ぐイングリッドの背で息を呑む音が漏れた。それはつまり、肯定の意味。残された3人が息を飲む気配がする。

 一瞬どこを見ているかも分からない様で天井に視線を這わせイングリッドは右手でスプーンを弾いて飛ばし、その行き先を気にすることも無く、老人のほうに向き直る。

 甲高い金属音と小さな悲鳴が上がって、そんな声が起きることを予想だにしていなかった3人がびくりと肩を震わせる。

 

「ちゅっ、ちゅうちゅう!!」

 

 ソファの脇からねずみが飛び出して、扉脇のおままごとエリアに走り去る。

 それをあっけに取られた表情で見送る3人を気にすることも無く、あいかわらず老人を見つめ続けるイングリッド。コルベールが冷や汗を流していた。

 その一連の流れを興味深そうに眺めていた老人は、微かな笑顔を浮かべたまま、小さく頷いた。

 

「うむ。なかなか興味深い御仁じゃの。コルベールの言うとおりじゃ」

 

 イングリッドは右手を差し出して老人の前に手のひらを向ける。

 表情に疑問符を浮かべたその横で、タバサが溜息を付いて、それに釣られるようにルイズとキュルケも溜息を付いた。

 またあのやり取りが繰り返されるのか……。

 3人の予想通りにイングリッドは名前を名乗った。

 

「我の名はフェリシア・ド・アンダルシア・デ・レオニーダ・グリーディアという。主の名はなんと申すのじゃ」

 

 3人の身体が硬直して眼が見開かれる。窓際のコルベールも驚きを隠せない。タバサの眼鏡がずり下がる。

 老人も驚きが隠せず、僅かに眼を見開いた。

 

 あからさまに貴族の名。いや、それだけではない。名前のなかに国号らしき響きが入っている。そんな名前を告げられて一瞬混乱する。苗字の後に接頭子を並べて家名を置き、更に子名を並べるのは何代にもわたって同じ名前が登場することのある由緒正しい貴族の名前のあり方だが、更にその後ろに名を並べるのは家名以外に説明の必要がある名前、つまり国号。或いは領主号である。他の王国等に併呑された地方豪族名や公国名を残す意味がある場合も存在する。こういった名前のあり方が許されるのは、ハルケギニアの常識に於いては王やそれに連なる家名、それに比肩しうる貴族。そうした「高貴な地位」を名乗る場合()()である。

 ルイズの正式な名が、そういう名前なのだ。

 「ラ・ヴァリエール」は本来の家名ではない。歴史のどこかで王家に連なる女性がル・ブラン家にお輿入れしたさいに下賜された「名」なのだ。本来の家名は「ル・ブラン」である。この場合の「ラ・ヴァリエール」は王家の分家筋を示している。

 ただの名前。それだけでは済まされない言葉。

 それだけで済まされようも無い言葉の羅列。

 貴族社会、ハルケギニアの封建社会では途轍もなく重い意味を持つ名前。

 

 身体の前で両腕を組み、轟然と顎をそらして視線をやる姿はまさに王の貫禄。

 考えてみれば、紫という色は極めて高貴な色。特段、明文化された規則でもないが、それを身に纏う者というのは、かなり格の高い貴族か、或いは宗教集団に於いて、相当に高い位を持つ者が優先するという暗黙の了解がある。例えば平民が使うことに対して特別の禁がある訳でもないのだが、その色をあえて使うには相当なリスクを覚悟する必要がある。そうした「色」なのだ。それを自然と着こなす姿は、いと尊き姿。

 身に纏う服は、繊細な刺繍が施され、やや短過ぎるスカートがどうかと思わせるが、それも乗馬等の外向きの用を考えれば、実に自然な活動向きの様でありつつ、そうでありながら高貴さを失ってはいない。

 ベッドフォード・コード織のピケを3本打ち出した純白の手袋は、左が汚れてしまっているがドレス・グローブとしてもあまりにも凝った創りだった。これだけで庶民が一ヶ月は遊んで暮らせるほどに高価なものだろう。

 ヴィノグラドフが先ほどの一件で無礼打ちを選ばずに「決闘」と叫んでしまったのも理解できる。この少女は内面から自然と高貴な雰囲気が漏れ出ていたのだ。ヴィノグラドフが無意識に勘違いをしたのもまったく不思議ではなかった。

 

 突然にその体躯が何倍もの大きさになったと錯覚させるほどのプレッシャーを湧き出させたイングリッドの前で、オールド・オスマンは冷や汗を流した。目が痙攣することを押さえられない。

 

 イングリッドが貴族。

 

 イングリッドが王族。

 

 まったく強烈な説得力があった。

 鉄面皮を張り付かせていることで有名な表情の欠落しているとされた少女も、ボンキュッボンな女性も、あっけにとられてイングリッドを見つめている。イングリッドの横に座るミス・ヴァリエールは左手をテーブルについて、腰を浮かせて固まっている。窓際に立つコルベールは青褪めた表情で身体を震わせている。

 どこかで何かを決定的に間違った気がするオスマンだった。先ほどの騒ぎを眺めて済ませたのには様々な意味と思惑があり、それらが果たされることは無かったとはいえ、それなりの言い訳をいくつも考えていた。

 「野次馬」していたことを見破られているとは思いもよらなかったが、それとて言い訳はあった。それとはまた別の思惑として、本人には言えないことだが、現実問題としてはイングリッドが死んでしまおうと「どうでもよかった」。

 誰にも明かせないオスマンの妄想であったが、イングリッドが死ねばそれはそれで面倒が無くてよかった。めでたしめでたし。

 しかし、イングリッドはこちらを冷めた視線で捉えて見下ろしている。いや、そんなことは無い。身体のつくりからしてイングリッドにオスマンが見下ろされるなどということはありえない。

 だのに、オスマンは見下ろされている。

 そう思ってしまう。

 そう思えてしまう。

 それほどまでに大きなプレッシャーが少女から降り注いでいる。

 コルベールと相談して決めた、彼女に言うこと、説明すること、その段取り。すべてが吹き飛んで、真っ白く染まり、思考が停止していた。

 

 刹那なのか永い時間なのか。

 緊張に包まれた世界で、イングリッドの口がやにわに歪み、小さく息が漏れる。

 緊張が解けない5人が見つめる中でイングリッドは腕を解き、身をテーブルの上に乗り出してオスマンの顔に自身の顔を近づけた。

 顔面を汗が流れるオスマンを、ただ見つめることしか出来ない4人。

 

 目を吊り上げてオスマンを見つめるイングリッドは少しの時間を沈黙で飾ると、もったいぶったように口を開いて、小さな声で言葉を吐いた。

 

「ウ、ソ、じゃ」

 

 にまあと笑うイングリッドの言葉が理解できない5人。それぞれが頭の中で、何度も反芻する。

 

 ウ、ソ、じゃ。ウ、ソ、じゃ。ウ、ソ、じゃ。うそじゃ。嘘じゃ。嘘……?

 

 イングリッドの横で火山が噴火した。

 

「う、ううう、うううううう、うそっ!ううううそって!嘘ですってぇぇぇえ!!」

 

 身体の捻りと腰が入った強烈な勢いで、抉るように右腕が轟音を立ててイングリッドを襲う。イングリッドの右手のひらが軽いタッチでそれを止めた。予想以上に重い音が鳴り響いたが、イングリッドはすましたものだった。

 怒りだかなんだか判らないもので顔面を染めて赤黒くなっているルイズに、イングリッドはにやりと笑いかける。

 

「どうじゃ。なかなか見ものであったろう」

 

 その姿を見て顔を真紅に染め上げたルイズが2次爆発を起こし、滅茶苦茶に両手を振るう。

 

「……!……!!」

 

 怒りの余りに声にならない声を叫び、唾を飛ばし、髪を振り乱してイングリッドに殴りかかる。

 

「おう!おおう!重いの!良いパンチじゃ!!拳闘士になっても喰うには困らんよぞ!!」

 

 腰を浮かして素早くルイズの拳をさばくイングリッドもなかなか堂に入った姿だった。

 

 半開きの口を髭の間から覗かせて、ぽかんと眺めるオスマン。タバサはソファの肘掛に身を預けて下を見つめている。キュルケはテーブルに頬をつけて目を閉じている。コルベールはあっけにとられて騒いでいる2人を眺める。

 

 騒ぎが治まるまで、暫しの時間が必要となった。

 

 

 

 なぜだか猛烈に疲れた表情をしたコルベールが咳払いをする。ルイズはどこかで見たような光景だなーと溜息を吐いた。

 バツの悪そうな表情でオスマンも咳払いをする。

 タバサは何かを考えているかの風に目を閉じて行儀良く座っている。目を閉じているだけだろうか?意識も閉じていそうだった。その隣でキュルケは大きく姿勢を崩してソファに背を預けている。両足もだらしなく広げられていたが、ルイズも文句が言えなかった。ただし、ルイズ自身は、自身のプライドにかけて背筋を伸ばして浅く腰掛け、オスマンの顔を伺う事をやめない。

 イングリッドは……両腕を組んで、足も組んで、背を反らしている。大変に偉そうな姿勢だったが、オスマンもコルベールも文句はないようだった。

 

「ああ……さてな」

 

 のそりと口を開いたオスマンの声に、イングリッドが言葉をかぶせる。

 

「我はイングリッドという。覚えておいてくりゃれ。()()()()()()()()

 

 オスマンは小さく頷いた。が、ルイズ、キュルケ、タバサは顔を跳ね上げて互いに見合わせた。

 オスマンは疑問符を浮かべた表情でその3人に視線を移す。

 あわててルイズが手を振って否定し、隣のイングリッドに小声で訪ねる。

 

「ね、ね、イングリッド。いつオールド・オスマンの名前を教えたっけ?」

 

 それに小さく笑ったイングリッドはルイズに振り返ると、身を屈めて随分と低いところから身を乗り出しているルイズと目線を合わせた。

 

「んむ。決闘騒ぎのときにな、上から聞こえた会話の中にあったよ。随分と高いところの会話じゃったがの」

 

 そう言って頭を挙げると振り返って、窓際に立つコルベールに笑いかけた。

 

「のう。コルベールよ」

 

 にししと笑うイングリッドに冷や汗を流すコルベール。何度目だろうか。

 その姿にオスマンは髭を扱いて頷いた。

 

「うむ。随分と耳が良いのじゃの。羨ましいことじゃ」

 

 オスマンに振り返ったイングリッドは口を開けて笑った。

 

「我は若いからの」

 

 オスマンも笑顔で頷いた。

 

「うむ。わしも歳をとったようじゃの。仕方がないの」

 

 あっはっはっと笑う2人の姿を見て緊張がぶり返した4人。汗を流したキュルケがウォーター・ポットをとろうと手を伸ばすと、いつの間にか杖を手にしたオスマンがそれを振るい、ポットが空を滑ってキュルケの前にあるカップに水を注いだ。

 気勢が削がれたキュルケが「あ、どうも」と気の抜けた声を上げると、オスマンは頷いた。キュルケがカップを煽ると再度、水が注がれてポットが移動し、タバサ、ルイズ、イングリッドと彼女たちの前に置かれたカップに水を注いで、テーブルに降り立つ。

 それと入れ違いでティーポットがワゴンに戻った。

 

 それを横目で眺めてイングリッドがオスマンに視線を送る。

 

「説明、してくれるんじゃろな」

 

 

 

「伝説……伝説のう……」

 

 自身の左手をためすがえすするイングリッドにルイズが視線を注目させる。キュルケとタバサもあっけにとられてコルベールとオスマンの間で視線を移ろわす。

 

「眉唾モンじゃな。何の冗談……ではないようだの」

 

 深刻な表情を浮かべてオスマンの横に移動したコルベール。オスマンは目を閉じて髭を扱いている。

 ルイズの表情は蒼白になっていた。イングリッドが「伝説」であるという説明から即座に深刻な問題に気がついたのだ。蒼白にもなろうというものだった。それにはイングリッドも頭痛を覚える。

 

 テーブルの上に両手をついて溜息を吐き、右手でさっと髪を払って眉間を揉む。

 

「つまりあれじゃ。我が主ルイズは始祖の生まれ変わりとか何とか、そんなところじゃと言いたいのかや、主らは」

 

 目を開いたオスマンは重々しく首を振り肯定の意を示した。

 イングリッドは鼻で笑う。

 それに右手を挙げたオスマンは身を乗り出してイングリッドに顔を寄せる。身体をそらせて避けるイングリッドを僅かに見つめた後、重苦しい表情を保ったまま、ゆっくりと口を開いた。

 ルイズが息を呑む。キュルケもタバサも言葉を待った。

 

「……オスマンじゃ」

 

 あっけにとられた4人を見て満足げに頷くと、オスマンは身体をソファに戻した。

 

「オスマンと呼んでくれれば嬉しいの」

 

 鼻から息を出して両手で天を仰ぐイングリッド。タバサは肘掛に身体をもたれさせて下を見つめている。キュルケは頬をテーブルにつけていた。ルイズはふるふると身を震わせる。コルベールはがっくりと頭を垂れていた。

 ぬふふふふと怪しい笑みを交わすオスマンと、テーブルを見つめていたルイズは同時に顔を上げると口を開きかけたが、イングリッドが気勢を制して声をあげた。

 

「あれか、つまり第5の系統という奴か。そのせいでルイズは苦しんでいると?」

 

 オスマンとイングリッドを除いた4人がハッとした表情で顔を上げる。特にルイズの驚きは尋常ではなかった。自身が伝説に「連なる何か」かも知れないだけでいっぱいいっぱいだったルイズは、一瞬、イングリッドが何を口にしたのか理解できなかった。この話の経緯のどこからそんな話が出てきたか理解できない。

 

 難しい表情を顔に貼り付けたイングリッドがルイズに向き直る。

 

「『五つの力をつかさどるは、その術形、その名をペンタグラム。そこにあるは五つのエレメント』。契約の言葉はこうじゃったな」

 

 ルイズは反射的に頷いた。何度も何度も練習した呪文である。間違いようがない。

 顎に手をやって首を捻るイングリッドは、次いで顎から手を離し、眉間を揉む。

 

「『今は失われたとされる『虚無』。これをあわせて全部で5つの系統がある』じゃったかの?」

 

 それにも頷くルイズ。何度も勉強した。何度も見た一文。自身の系統を探るためにページに穴が開くのではないかというほどに読み返した教科書。文献。

 全てに等しくそう書かれていた。

 イングリッドはオスマンに向き直る。

 

「『今は失われた』系統……『虚無』。なるほどのう。これでは誰にもルイズを教えて導くことが出来ぬわけじゃ」

 

 身を強張らせたオスマンから視線をはがし、次いでコルベールに視線を向ける。視線を向けられたコルベールは緊張して息を呑んだ。

 

「虚無とやらがどんなことが出来たのか。記録も何も、碌に残っとりゃせんのであろう?」

 

 刹那の沈黙の後に、ゆっくりと頷くコルベール。考えが、思考が、こういう風に動くとは予想もしていなかった。

 予想してしかるべきだった。

 伝説の使い魔。

 始祖の系統。

 伝説の再来。

 始祖の魔法。

 並べれば当然、始祖が使った魔法はなんだったか、という話になる。

 

 『虚無』。

 

 言われてみれば当たり前の結論だった。結論から先に聞けば、そういう推論にもって行って当然の結果だった。

 その「当然」が思いつかなかった。

 コルベールは次の瞬間に泣き出しそうになった。

 

 情け無い。なんと情け無い。

 自分はいつからこんな腑抜けになったのか!

 

 内心の葛藤で顔が痙攣するコルベールを無視して、イングリッドは腕を組み、頭を捻る。

 

「なんとも迷惑な話じゃな……そんな大事なことを部外者に知られてよかったのかえ?」

 

 あごで向かい側をさすイングリッド。タバサは無表情で見つめ返す。キュルケは目をぱちくりさせた。

 

 オスマンはゆっくりと頷いた。

 

「うむ。幸い4人は知らぬ仲という訳でもないようじゃ。2人で抱えるには重過ぎる結論じゃからな。3人なら楽になろう。4人なら気楽にもなるじゃろう」

 

 笑いながら部屋を見渡すオスマン。

 

「わしもコルベールも知っておる。6人じゃ。肩の荷も下りよう」

 

 胡散臭そうな表情でオスマンを見つめ、何かを言おうとして……結局口を閉ざすイングリッド。

 その仕草に満足げに頷いてオスマンはタバサ、ついでキュルケに視線を送る。

 

「聡明な2人なら分かっておるじゃろうが、念を押しておく。ここで聞いた話は当然、口外を禁ずる」

 

 小さく頷くタバサ。次いで神妙な表情で頷くキュルケ。それにオスマンも頷いた。

 

「うむ。しかし、ここにいる6人には話してもええ。寧ろ積極的に話すべきじゃな」

 

 呆けた表情でオスマンを見つめるルイズ。

 

「この先、何が起きるかはまったくの未知数じゃ。どんな困難が沸き起こるかも知れん。しかし、おぬしら4人でなら乗り越えることも可能じゃて。わしら6人ならばいかなる困難をも乗り越えられよう。わしはそう信じる」

 

 なぜかタバサを見つめて言い切るオスマン。タバサは目を閉じて小さく頷いた。釣られるようにコルベール、キュルケの順で頷く。

 頷かないイングリッド。それを見つめるルイズ。

 

「なんじゃ、イングリッドはミス・ヴァリエールの力になってくれんのか?」

 

 緊張がぶり返した表情を浮かべたオスマンを無表情に見つめ返すイングリッド。コルベールも僅かに焦りを表情に浮かべた。

 しかし、残りの3人は、興味深そうに、何かを期待するようにイングリッドを見つめる。

 案の定、表情を崩したイングリッドは蔑む様な表情でオスマンを見つめ返して鼻で笑った。

 

「はっ。我はルイズの使い魔ぞ。頼まれるでもないわ」

 

 身を乗り出して顎をそらしてオスマンの長身を見上げる。

 

「我がルイズを守らずして誰がルイズを守るというのかや」

 

 どやっ!と身をそらしたイングリッドはすがすがしい笑顔を浮かべていた。あっけにとられたオスマンが身を反らし、コルベールが何かに気がついて、やれやれと首を振った。キュルケがくすりと笑い、ルイズは無表情で頷いた。タバサも釣られて頷く。

 

「まっ、漏れ出でれば戦争になりかねん話じゃ。襲い来る敵は我が全てぶちのめしてくれようぞ」

 

 そこまで言い切って勢い良く立ち上がりルイズに振り返るイングリッド。突然の行動にあっけにとられたルイズはイングリッドを見上げた。

 

「うむ。やはりルイズは優れたメイジじゃったな!」

 

 拳を握って肩を振るわせるイングリッド。

 眼を見開いたルイズはイングリッドの笑顔を見つめる。ただ、見つめて、見上げる。

 

「『ゼロのルイズ』。うむ。言いえて妙じゃの」

 

 拳を握りこんだまま腕を組む。肩幅に広げられた足が僅かに震えているのがルイズの目に見て取れた。そのまま煙を吐いて天井を突き破り、飛び立ってしまいそうなほどに力が入っている。イングリッドは扉のほうを目を細めて()()見つめ、なぜか満足したように頷くと、再度、視線をルイズに戻す。

 

「『虚無(ゼロ)のルイズ』。うむ。2つ名は体を現す。素晴らしい名じゃ!」

 

 ソファとテーブルの間の狭い床に片膝をつくイングリッド。左腕がテーブルに当たり「がしゃん!」と、テーブルの上が刹那に騒がしくなったがイングリッドは気にしない。呆けたルイズに視線をあわせて、僅かに見上げた。それで2人の視線が交錯する。絡み合う。

 小さな。

 本当に小さな声で、ルイズに囁いた。

 

「おめでとうルイズ。主は、立派なメイジじゃな」

 

 ハッとしてイングリッドを見つめ返すルイズ。イングリッドは小さく頷いて、更に顔を近づけて耳元で囁く。

 

「虚勢を張る必要は無くなったの。本当に主はメイジになったのじゃ」

 

 その次の瞬間にルイズは表情を崩した。ばっ!と、勢い良くイングリッドの胸におかしな体勢で無理やり顔を捻じ込むと、身体を震わせた。

 イングリッドも抱き返して、その小さな背中を撫で続ける。

 キュルケは迷わなかった。テーブルを飛び越えると震えるルイズの背中から抱きつき、イングリッド共々掻き抱いてルイズの頭を撫でた。

 

 コルベールは涙を流した。オスマンの背中側で3人を見下ろしながら、涙を隠すこともなく、隠すことが出来ずに、静かに泣いた。

 喜び、哀しみ、無力感、脱力感、そして怒り。

 様々な感情が入り混じった涙だった。

 

 オスマンも泣いた。静かに涙を流した。うんうんと頷き続けた。

 

 若干、常とは違う、厳しさの増した無表情で3人を見つめるタバサの耳に「美少女3人の絡み!眼福じゃのう……」という万感の思いのこもった呟きが聴こえた気がしたが、タバサは幻聴だと思って首を振り、その言葉を振り払った。

 


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