ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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伝説の使い魔(4)

 床にばら撒かれたのはガレットやトルテリュといった手の込んだ創りのパンたちであった。

 食事をことのほか重要視するイングリッドにとってその姿は酷く悲しくもあり、そして強い憤りを感じさせる光景でもあった。

 昨日食したそれらのパンの味、その創り、そしてそこに含まれた製作者の思いを考えると、イングリッドは思考を沸騰させてしまいそうになった。瞬間湯沸かし器もかくやという思考の変遷である。

 

 一丁一夕に他人に理解してもらえる感情であるとはイングリッドも思っていない。そうではあるが、一瞬の激情に身を任せてその光景の元に、原因の発生元に走ったことは、彼女にとっては必然だった。取り残された3人に、イングリッドが走り去った姿は見えなかった。気が付いた次の瞬間には、彼女の姿は掻き消えて、ふと視線を移せば、やにわに巻き起こった風で自身のマントとスカートが吹き上がっていた。

 慌てて首を回せば、イングリッドの身体は集団食堂の突端部に現れて、騒ぎの中心部で身を屈ませていた。3人は驚く事も出来ずに呆けてしまった。常なる鉄面皮を崩してタバサも狼狽を表情に浮かべている。

 そのことが後に続く騒ぎに口を挟む機会を逸してしまう原因となったのだが、この時点ではそれを理解せよというのが酷であった。イングリッドの行動はそれほどまでに敏捷であったし、また、3人にとってはまったく意表を突く反応であったのだ。

 イングリッドは割れて砕けたプレートの破片と、撒き散らされて無残な姿を晒す多様なパンの残骸の中で、身体を震わせているシエスタの脇に膝を落とし、四方に視線をやった後で、青褪めた表情を隠せないでいる彼女の身体をかき抱いた。

 

 

 アルヴィーズの食堂は、食堂として使われていることは間違いないが、その奥、先端は一種、祭壇の様な光景である。

 6つ並べられた長い机は、どこにそんな木が生えていたのかと驚かせる事に、継ぎ目が無く、イングリッドが見立てたところ、ブレット・トレインの2両分ぐらいの長さがあった。その先、10人ぐらいが横に、或いは縦に並んでなお余裕がある広場を挟んで、まさに祭壇としかいえない段差がある。その上には、教壇といおうか、説教台と言おうか、そういうものが鎮座している。

 段差の上もそこそこの広さを持っていて、聖歌隊が立ち並んでそれなりに様になりそうなほどであり、その背後には荘厳な彫刻が施された壁が、2階の天井までそびえたっている。そこには美しい女性の姿がレリーフ状に刻まれていた。

 不思議なことに、その女性には顔が無かった。

 背後から彼女の頭上を巻いて前に垂らされたブーケに遮られて、俄かに顔をのぞくことが出来ないという意匠を取りながらその実、最初から表情を刻むことを放棄したような彫刻であると見て取れた。何らかの強い意思を持って、その顔を刻むことを拒否したことが分かる表現であった。

 

 

 そんな壮麗な姿の前、開けた場所にはオーダー・テーブルが並んで軽食が所狭しと並んでいる。ある種、滑稽な風景だった。

 ルイズの言を聞けば、ビュッフェ・スタイル、というか、スモーガス・ボードという制度自体が学院成立後、随分と後になって成立した妥協の産物とイングリッドは理解していたが、この光景を見ればそれも納得だった。最初からスモーガス・ボードを想定していたのならこんなちぐはぐな光景はありえなかっただろう。西洋宗教様式的結婚式で、スタンディング・ビュッフェ・スタイルの披露宴が神の像の前で行われた、ぐらいに珍妙な光景だった。

 珍妙な光景ではあったが、それが即座にこの世界の人々の信仰心の薄さに繋がるのだとまでは直ちに認識出来るわけではない。

 場所は場所だし、信仰心は信仰心なのだ。

 

 世情が安定した世界、国で、ある一定以上の教育がなされた人間の集まりであるなら、普段の生活と信仰が厳密に区分されることは自然だ。

 地球の中世ヨーロッパにおける貴族の館では、その成立に当初、その敷地内に礼拝堂を設置するのはごく自然な事だった。そしてそこでは休日ごとに、家主が立って、それなり以上に礼節の備わった礼拝が行われているのが普通な光景だった。

 ところが、イングリッドがあるとき気が付いたときには、どこの貴族の家も、そうやって備えた礼拝堂を別の用途に使っているのが当たり前になっていた。

 倉庫に使うぐらいならまだしも、一時期はやったのは、礼拝堂として使うに当たって備えられた多数の窓を流用して、温室として整備し、オリエンタルな動植物を押し込んで悦に浸る光景だった。そうしたことが大々的に行われていたのを見かけたときには、さすがのイングリッドも目が点になった。 

 そうやって使うのであればごく当然の結果として、酷く湿度が高い状態が維持されて、そうなれば、深く刻まれた彫を見せる頭を垂れるべき扱いの石像は、カビだらけ、コケだらけとなって奥に放置されることになる。

 倉庫として使ってまーすなら、その奥で埃まみれになりましたですまされようが、温室という箱庭世界に置かれて、人工的な自然の営みの結果として前衛芸術じみた色とりどりな姿を見せていることに無頓着な人々の態度は、なんとも言いがたいものがあった。

 それでいて神に対する遠慮が無いわけではなく、彼らはちゃんと教会に足げく通っていたのだし、結婚だ、出産だ、育児だ、独り立ちだ、葬式だとなれば、教会に頼っていたのだからなんともはや……といったところだった。

 そうやって、倉庫だ温室だとなって、取り出されることも無く、建物の奥底で忘れ去られた彫刻が救出されて現代、中世芸術を今に伝える貴重な遺物として再発見される様は、なかなか感慨深いものがある。

 サロンだ、離れだと改造された礼拝堂にあった様々な神の見姿は、砕かれるか、壁に埋め込まれるかしたのだから、歴史の変遷というのはなかなかに興味深いものである。

 下らない想像を頭を振って意識から散らす。

 

 

 突然現れて心配そうな表情を向けるイングリッドに、驚いて視線を向けたシエスタの表情には若干の驚嘆を含んでいたが、刹那の前まで浮かんでいた悲しげな表情は塗りつぶされていた。

 そのことに気が付いてイングリッドは小さく笑みを浮かべた。

 

 やはり、一筋縄ではいかん少女だの。

 

 周囲に十二分に同情心を沸き立たせる、可憐な表情であったと思う。床と彼女自身の間で押しつぶされて形を歪める胸も、健康的な指向を持った男児を相手にするのであれば十分に興味を引き付けられる獲物なり得ていた。

 彼女の周囲を取り巻く貴族の子弟と、状況を見て取れば、何が起きたかはそれなりに想像は付いた。その瞬間の出来事で意識的であるにせよ無意識であるにせよ、咄嗟に「そういう」姿を披露することができるのであれば、やはりこの世界の平民というのは存外に強いもののようだと感想をもった。

 もっともシエスタの行動姿勢がこの世界の平均であると即断することは危険である。その辺りの観察は、明日に回せばよい。

 

 いまここで発生している問題は、いかなる理由があってシエスタが地に伏し、なぜそれを「少年」達が彼女を半周に取り巻いて見下ろし、華やかならぬ笑みを彼女に向けているのかということだった。

 イングリッドが現れたことで下卑た笑みは半分凍って、瞳を跳ねさせているのは道化じみているが。

 

 

 騒ぎに気が付いた者達が、足早に周囲に集まってくる。

 イングリッドとシエスタを半周に取り巻く10人ほどの男児を囲んで「祭壇」を盾に、大勢の黒マントと紫のマントが揺れる。

 イングリッドが見渡すところ、その集団の中に銀色のマントが混じっているのが見えた。

 ルイズの講評から考えてなんの期待も無く、それでも僅かな期待を持って、なんとなく銀マントの生徒に視線を移す。

 想像したとおり、彼の顔には何の反応も見られなかった。単純に好奇心を乗せた顔面をただ、イングリッド、シエスタ、その周囲の男児に向けて揺らせているだけである。イングリッドは溜息をついた。

 少しでも銀マントの意味をその身に宿しているのであれば、という期待は単なる妄想でしかなかったようだ。ほんの少しでも銀マントを頂く本来の意味を理解しているのであれば、前に歩み出でるか、或いはきびすを返して走り去るか。

 走り去るのであれば2つの期待が発生する。

 教師を呼びに行く。

 或いは知らぬと決め込んで逃げ去る。

 先の期待であれば少しは救われようというものだ。ただし、銀マントにこめられた「本当の理由」を考えれば、何の対応もせずに第一に教師の下へと走ったというのだから銀マント失格ということである。

 後の期待、或いは失望であるならば……まあ、行動の如何はともかくとして、人間的にはごく僅かな諦観を抱いてもよい。イングリッドはそう思う。少しは人間的な感情を持っていたということだろう。恥辱の何たるかを忘れたわけではない人間であったぐらいは評価してやってもよい、それ()()()にはイングリッドの心は大きかった。

 ここに足を向け、この場で起きている出来事に対して興味を向けている銀マントの少年は、そのどちらでも無かった。ただ此方を眺めて次の事態の推移を期待している。なるほど、極めつけの阿呆だった。下らない状況の現出の中で、ルイズの見立てが優れて的確であった事実を把握できたことは僥倖であった。そう、乾いた笑みを浮かべてしまう。

 イングリッドの周囲では、集団が大きく育った結果としてか、無意識の悪意が大きくなりつつある。状況としてはどれほどの事でもないが、対応が難しいという点では結構な修羅場が成就されつつあることを理解してまた溜息を吐きたくなる。

 後先考えずに走り出した自身が、長い生を経てなお、唯の少女と変らぬ思考を生かしてきた事に慨嘆してしまう。まだまだ若造ですよ、私。

 こういう手合いに対する対応は、イングリッドは飛び切り苦手だった。イングリッドが今になって思うところでは、この手の問題であるならばキュルケに任せるが吉であるはずだった。間違いなく煙に巻くだろう。それでどこにも角が立つことはないはずだ。極めて短い付き合いだがそれくらいにはキュルケの「力」を信用しているイングリッドだった。

 イングリッドがこの手の問題に首を突っ込んで、自身の「力」を発揮しては「角が立つ」どころではない。角が立つぐらいですめば幸運で、角も壁も踏み潰して粉砕するぐらいがイングリッドの「力」のありようだった。自身の立場を省みるなら「ジャッジメントですの」というわけにも行くまい。ある程度は銀マントにそういう期待があるはずだが、それは忘れ去られている。イングリッドは常識的対応を取ることにつけてはまったくの無力なのだ。その辺の女学生のほうが余程に強い「力」を持っているに違いない。後悔先に立たず。

 

 さて、と。

 

 この世界に出でて、自身の行動がいろいろと情け無い方向に力を向けているような気がするイングリッドであったが、さりとて「勘違いでしたテヘッ」で済ますことが出来ないことは理解していた。状況に飛び込んだのは自身の意思である。よって、状況の収束までを世話する責任があった。

 問題は、イングリッドが介入する事で状況が果てしなく大袈裟になって収集がつけられなくなりそうなことであったが……しょうがない。もう既にイングリッドは当事者だった。ここで局外に立つ事など出来る筈も無い。この世界に立つことになった地球でのあの騒ぎ、自身の不甲斐なさを原因として、騒ぎに巻き込まれてしまった少年の顔を思い出す。

 

 2度は無い。

 

 イングリッドは小さな笑みを浮かべて眼を細めた。

 

 望んで飛び込んだ修羅場である。どうにかしてくれようぞ。

 

 一つ頷くと、状況を打開するために行動を起こした。

 

 

 

「で、諸君。我が友人たるシエスタになんの用ぞ」

 

 人垣の後ろでもみ合うキュルケはイングリッドが発したその言葉に仰天した。

 何らかのちょっかいを出された結果であろうシエスタの姿からその注目を引き剥がす効果としては、その言葉は事の他に強力であった。そういう台詞が発言されるなんて、ここにいる誰一人として想像する事すら出来なかったからだ。

 状況的に言えば、そういう言葉を発するような場ではない。ハルケギニアの常識であれば、何はともあれ床にでこを擦り付けるぐらいが精々だ。そのほうが状況を治めるにはうまい手といえる。プライドとかが邪魔をしなければの話だが、平民が貴族に対して取る対応としては存外おかしなことではない。反射的な対応としてはベターですらある。

 だがイングリッドはそうはしなかった。あの言葉を発するというのは、燃え盛る炎に火薬を投げ込む様なとんでもない行為だった。何かを言うのはよい。弁解もありだろう。キュルケが見立てたイングリッドであれば、うまい言い訳の一つも放ちそうだった。しかし、あの言葉はないだろうに。

 ハルケギニアの常識からは飛びぬけておかしな行動だった。平民の取る行為としては空想の中ですら発せられない、非常識極まる発言だった。

 キュルケが身を凍らせたと同時に、周囲の空気も凍る。

 キュルケが身を凍らせたことで釣られて周囲が凍ったのではない。この場では、イングリッド以外の全てが凍っていた。イングリッドが誰にも知られていない強力な冷却魔法を発したのだとでも言うように。

 

 イングリッド自身の見立てたとおり、イングリッドにはこの手の修羅場に対する対応能力はまったく存在しなかった。また、まったくの別世界の別文化であるという事実に関して、様々なカルチャー・ギャップを経たことで注意が散漫になっていた事実も、イングリッドの思考と行動原理に大きな影響を与えていた。

 何もかもが地球の中世ヨーロッパ風な世界であったなら、イングリッドが挑発としか取れない台詞を口にすることは無かっただろう。もっと慎重に言葉を選んだはずだ。

 イングリッド自身、地球の中世ヨーロッパや、極東地域の中世世界で自身の任務の途中経過として、貴族や王侯、それに類する「偉そうな」立場の人間に接する機会は少なくなかった。封建制度華やかしき頃は、領地内で自由に行動する外部の人間。それだけで排除の理由になる。イングリッドの任務上、いくつもの領地を渡り歩いて探索するとなると、領主の協力―――少なくとも、領地内で自由行動を許すぐらいの消極的協力は積極的に求める努力は不可欠だった。だから、そういった手合いに対応して、彼らをおだててすかして持ち上げて、彼らの逆鱗に触れない様にごまかして煙に巻く行動様式というのは、彼女自身の思考の中にいくつも用意されていた。

 だいたいからして、後先考えずに状況の見極めも無いままシエスタの元にはせ参じるとかいう行動自体もおかしかった。慎重さが無い。彼女の行動が刹那的になっているのも、様々な心理的ダメージの影響が大きそうだった。

 例えば「イセエビ」とか。

 

 イングリッドは実際に死合(しあう)段以外の場で、自身の中にある生きるためのプライドなんぞというものは米粒よりも小さなものだったから、問題を収めるために必要であると断じたならば、頭を地面に擦り付けるも、腹を見せるも容易いことだった。ここはそういう対応が求められる場所であり世界だった。

 しかし、この世界に対する理解を得るのには、イングリッドが目覚めてからの時間はあまりにも短か過ぎた。イングリッドが主と仰ぐルイズの周辺で起きた出来事は、その短い間でも濃密に過ぎた。それらはこの世界にとってもイレギュラーに過ぎることをイングリッドは理解しきれていない。ハルケギニアという世界を理解するにはイングリッドの周辺で発生した事象というのは、実は、混沌として混乱に満ち満ちていすぎた。そこから世界の理を得よというのは酷過ぎた。

 よってここで発生しつつある大騒ぎというのは、イングリッドが騒ぎの発生を聞きつけた時点で実のところ必然であったのかもしれない。

 

 イングリッド自身の行為の結果として、イングリッドの周囲を取り巻く状況は一瞬にして最悪の方向に振れた。刹那の記憶に自身の不甲斐なさの結果たる、被害者の少年の顔を思い浮かべたことが、皮肉にも問題をややこしくする材料となっていた。

 イングリッドの腕に抱かれたシエスタの表情は蒼白を通り越して、空虚だった。シエスタの心の中では自身が何を間違って、この状況を現出させたのだと、まったく彼女自身に責任の無い問題に対する葛藤が渦巻いていた。

 無責任にもそれらの状況にまったく気が付いていないイングリッドは、身を凍らせるシエスタに気が付いて、いっそ無邪気とも言える笑みをシエスタに向けた。シエスタの身体を優しく返し、顔を上に向けさせて、イングリッド自身と相対させる。シエスタはそのイングリッドの表情を信じられない思いで見つめ返してしまう。

 

「ん……大丈夫かや、シエスタ」

 

 イングリッドの放ったありえない言葉が胸に染みてシエスタは絶句してしまう。シエスタはシエスタでこういう風に浅はかな貴族にちょっかいをかけられたり、悪意をぶつけられることは慣れていた。それなりの経験を持ち、自分一人である程度対応することも出来たし、同僚の助力も期待できた。ぶっちゃけて言えばイングリッドのような存在が助けに来る等と言う事はイレギュラーで、精々の期待……想像ではルイズが助けに来て場を掻き乱すぐらいはありえるかも、という予想があったぐらいだ。

 ルイズが現れた場合に関してはいくつかの選択肢を用意していた。そういうのもままあることだからだ。一方的な親愛の情を持つルイズであれば、ある程度の無茶を押してでもなんとしてでも対応するつもりであるし、ルイズという少女自体も元来、聡明で優秀な少女であったからよほどのことがない限りは対応を誤ることもないのだという安心もあった。

 だが、いまここに現れて出でたのはイングリッドだった。そして彼女はとんでもない行動をしている。イングリッドという存在があまりにも遠い。その肌が触れ合った少女の顔は、空に浮かぶ双月よりも彼方にあるように思えた。

 頷くことすらできずに弛緩した身をただ震わせるだけのシエスタ。

 その姿に気が付いてイングリッドは僅かに視線を強めた。勘違いが彼女の身を震わせる。状況の連続が誰にも気が付かないうちに現状を果てしなく悪化させ続ける。負のスパイラルという物はこうして発生するのだという、酷く冷厳な例が示されていた。

 

 イングリッドは右手でシエスタの身体を浮かせたまま、左手が、その美しい白を見せる手袋が汚れることを厭わず、床を払って、ある程度綺麗になったのを確認すると、それに満足して、シエスタの身を横たえた。

 優しい表情が一転、隠せない怒髪天を付いて、瞬間で立ち上がる。

 くの字とでも言うような傾ぎを見せて、左手を腰にやり、右手を水平に突き出すと、流麗な仕草でそれを髪に沿わせて、大げさな仕草で髪を吹き散らした。

 それにあわせて大きく首を振ると、撒き散らされた銀色の残光が周囲を照らして、一瞬の幻想で世界を照らす。

 イングリッドに自覚は無かったが、そういう行為は、イングリッドの立ち姿にことのほか似合っていた。「黙っていれば」超、が付くほどの美人なのだ。それにイングリッドの自覚があれば、その動作だけでこの場は収まってうやむやになったであろう。

 イングリッドの仕草に見とれたキュルケは、そうとまで思ってしまった。それほどまでに騒ぎの中心という舞台で行われたイングリッドの仕草はは美しく、眼を奪われる光景だった。

 周囲を囲む群衆。地に伏す少女。混沌とした状況。

 舞台配置としては完璧だった。これでイングリッドが何も言わずにシエスタを抱き寄せて、この場を立ち去ればそれで舞台は終結。めでたしめでたし。

 そうなると思った。

 

 そうならなかった。

 

 残念なことに、イングリッドは残念な美少女だった。

 イングリッドは自身の美貌にこれっぽっちも理解が無かった。イングリッドにある評価基準というのは、その容姿にあるまじき事ではあるが、まずもって腕っ節であり、それを支える精神力であり、それらを支配する心のありようだった。

 不幸だった。

 イングリッド自身に対しても不幸だった。

 イングリッドが自身の容姿に一定以上の理解があれば、実のところ彼女が歩んできた過去に、避けて通れた問題は想像以上に多かった。イングリッドが普段を過ごす世界では、イングリッドが知らないうちに彼女自身に残念な評価が付きまとっていた。周囲の評価としては、彼女は酷いトラブルメーカーという見立てが定まっていたのだ。彼女自身の容姿と立ち振る舞い一つで避けえたトラブルに、望んで飛び込む脳筋少女ぐらいの評価が出来上がっていたのだ。

 誰一人として指摘をする者がいなかったのも不幸であるし、気を許してそういったことを口に出来るほどの仲を持った人間をわきに置くことが出来なかったイングリッド自身の無力も不幸だった。

 近年に於いて、一番にそこに近づけたかもしれないさくらという存在はしかし、その内実はイングリッドに近しいという点も不幸だった。彼女もまた、口で語る前に拳で語る存在だった。だからこそそれなりの仲を持てたのであるし、なればこそ、イングリッドの自身が気がつけなかった武器を指摘できる可能性の一番高い存在でもあった。

 秋葉原で起きた事件がその可能性を吹き飛ばしてしまったのは不幸だった。

 

 結局は彼女の周囲に巻き起こるトラブルというのは今までがそうであった通りに、今ここであっても必然と諦める以外は無かった。だからキュルケの想像なんていうものは唯の妄想で終わってしまった。イングリッドがベストとまで思いもよらないまでも、まあベターか、或いは状況を動かす一助かと思って行った行動というのは、ベストから果てしなく遠いところにやってきた最悪だった。

 不幸だった。

 周囲にとっても果てしなく不幸で、そして迷惑だった。

 ここで起きている事件が、起きつつある騒動が小さく治まって済ませられる可能性は刻一刻と少なくなっていた。

 

「我が友人を可愛がってくれたのは……誰かや?」

 

 キュルケの背中の後ろで、人垣に揉まれていたルイズはその言葉を聞いて顔を引き攣らせた。

 口にモノを含んでいたら拭き出した所だ。いや、強張って強く閉じられた口に反射して、鼻に集まった空気は2つの穴から勢い良く噴出して、糸を引く湿り気をキュルケのマントに吹き付けた。ルイズはそれに気が付いてあわあわと両手でそれを擦り取る。少々テカりを帯びた残滓がキュルケのマントの一部分に広がった様を見て、タバサが嫌そうに視線をそらす。

 前に出ようと人垣を掻き分けて身を捩っているキュルケは、自身の背後で起きている出来事に気が付かないでいた。

 

 予想だにしなかった出来事に強いショックを受けたシエスタは、完全に身体を弛緩させて気を失った。彼女の心にある貴族に対する強い恐怖心は、目の前で起きている修羅場で増幅されて彼女の許容限度を突き抜けてしまった。

 それに気が付いたイングリッドは一瞬、シエスタの姿を視線で捉えてそれを水平に戻し、引くついた笑みで表情を凍らせる男児にそれを向けた。

 また一つ、勘違いが重なった。

 状況が悪化するばかりである。

 

 唇を痙攣させたイングリッドの視線の先に、見覚えのある顔が合った。

 

 そうではないかと想像していた。それぐらいしかないなとも思った。そうであったらあまりにも予想通りだし、現実とはあまりにも陳腐だと天を仰ぎたくもなった。

 

 彼女の視線の先には、ヴィノグラドフと呼ばれた男が、肩を怒らせつつ強い感情をこめた視線を此方に向けていた。

 思わず溜息を吐く。それに気がついたヴィノグラドフが鼻を鳴らして、一歩、イングリッドに進み出た。

 

「貴様……何のつもりだ……!」

 

 怒りに眉が痙攣している。鼻の穴がひくひくと大きくなったり小さくなったりする様は見ていてなかなかに面白い。イングリッドの常人ならざる視力が、長い鼻毛が一本、彼の右の鼻口から出たり引っ込んだりする様を捉えて、一瞬、彼女の表情を歪ませてしまう。

 悪いタイミングだった。

 その姿は、彼を嘲笑する様としか見えなかった。周囲でことの成り行きを見守っている者達は、キュルケも含めてイングリッドの表情に浮かんだ僅かな変化を悪い方向に解釈した。世界は悪意に満ちている。そうとしか思えなかった。この瞬間に連なる状況は、余りにも悪いことの連続だった。

 一方の当事者はともかくとして、客観的に見て被害者としか見えない少女と、それの前に立ちふさがるイングリッドの側に、望んで問題を悪化させる心算は無かった。

 しかし結果が否定している。

 最悪だった。

 

「……シエスタが、何か粗相を仕出かしたとでも言うのかや、我主よ」

 

 イングリッドのしゃべり方も問題があった。客観的に言って彼女の言葉は余りにも「偉そう」だった。

 或いは現代社会なら「変な個性」ですんだかもしれない。いきなりそういうしゃべり方をはじめた少女が現れて出でたら、たちの悪い厨二病の発症かとも思わせるが、彼女が「普通」の場で普通にしゃべることは殆ど無かったし、彼女と長い会話を行い得た人々はいかなる意味でも「普通」では無かった。

 だからイングリッドは自身のしゃべり方が、実力が示されないまま紡がれたときに、人間社会の通念上、いかなる問題を巻き起こすかという部分に理解が足らなかった。

 ましてや相手は絶対的な立場と自身を信じる「貴族」である。

 ただ、イングリッドが常と変らぬ態度で「会話」を行おうとするだけでその実、恐ろしい大問題を引き起こしかねなかった。

 ここはそういう場所だった。

 今の今まで、その点に関して大した関心を示す者がまったくと言っていいほどにいなかったのは飛び切りの不幸だった。

 一番、その問題に強い関心を示して、イングリッドのしゃべり方に対して強く問題を惹起したのは実は、シエスタであったのだが、ルイズに関わる問題のアレコレや、その後に目にしたブラジャーでそれを中途半端な状態で途切れさせてしまっていた。イングリッド自身にはシエスタがあの場で何を言わんとしたかの想像がまったく出来ないでいた。だから自身の自身が気が付いていない特異性に対する危険を理解する場は失われていた。イングリッドの現状の危機はイングリッド自身が身につけていたブラジャーのせいなのかも知れない。

 

 キュルケもタバサも自身の立場の特異性から、イングリッドの行動様式に問題を感じることが無かった。だからそのまま相対してしまったし、それに関心を示さないでいたのも不幸だった。それに加えて、ある程度以上の実力を兼ね備えた人間にありがちなことではあるが、自身の持つ能力上、相手の能力を無意識下で自然と看破してしまう技能が悪い方向に影響した。

 

 タバサもキュルケもイングリッドの実力を直接、眼にしたわけではない。しかし、タバサは、自身の能力から得られる無意識の審議眼を補強する材料をいくつか得ていた。それらを総合して「勘」等と称するわけだが、タバサの経験上、自身の勘を疑うような習慣を持たない彼女は、それに従って無意識に、直ちにイングリッドの実力を見定めていた。だから、イングリッドの「偉そうな」態度を自然と受け入れてしまって疑問を持たなかった。

 

 キュルケは自身のイングリッドに対する見立てを確信できてはいなかったが……タバサがイングリッドに対して高い評価をしているらしい事実がキュルケ自身の判断を掻き乱していた。

 自身が肌で感じたイングリッドに対する評価は実は、きわめて確度が高いものであったが、経験不足がそれに対する信頼性を揺るがしていた。

 で、あればイングリッドが周囲に対して行う行動に対して疑問を持ったり、或いは苦言を呈したりする、出来る、可能性があった。だが、キュルケがタバサを信頼しているという事実が、それらの可能性を潰してしまった。

 無意識にイングリッドを評価したキュルケの思考を、タバサの言葉が補強してしまった。キュルケはタバサの言を疑うような習慣を持ち合わせてはいなかったから、そのままイングリッドの立ち振る舞いが彼女の実力に見合った自然なものであると、無意識に断じてしまった。それにより、客観的に見て不自然さを感じてしかるべきイングリッドの行動をこれまた無意識に容認してしまう結果となった。

 そういった事で、タバサとキュルケがイングリッドの「偉そうな」行動様式を受け入れてしまったのは不幸だった。

 

 ルイズは……まったく気が付いていなかった。気が付いてしかるべきだったし、出来ればそれを指摘して改善を促すぐらいはするべきだった。だが、気がつけないでいた。

 イングリッドという存在のルイズにとっての特異性が、イングリッドにある立ち振る舞いの特異性に関する違和感を吹き飛ばしてしまっていた。

 事あるごとに、僅かな邂逅の中で、イングリッドの立ち振る舞いがおかしなものであることに気が付ける瞬間があったが、イングリッドの舌禍や、その行動そのものでうやむやにされてしまっていた不幸があった。

 イングリッド自身が特段意識を持って、自身の特異性を誤魔化そうとした訳でもなかったという点も不幸だった。

 彼女自身、自身の特異性を理解しているようで、全然理解が及んでいない部分があることを気が付いていない点も不幸だった。

 

 だから、イングリッドの言葉でヴィノグラドフが瞬間的に激昂したのは必然だった。

 

「きさまー!俺を、俺様を、侮辱する気か!!」

 

 突然の感情の沸騰に当てられて、イングリッドは呆けてしまった。なんでヴィノグラドフという男がコレほどまでに怒り狂うか理解が及ばなかった。

 本当に理解できなかった。会話の持って行き様ではどこかでそうならざるを得ない瞬間があるかもしれないと身構えていたし、そうならないようにあれこれシミュレーションしつつもあった。

 それらを飛び越えて、会話の冒頭で予想した流れが全てひっくり返された現実に、呆然としてしまった。

 イングリッドはなぜ、こんな展開になったのか、本当に、真実本当に理解できなかったのだ。

 

「こんな侮辱はありえん!許せんぞ、貴様!見逃すわけには行かんな!」

 

 滑稽なほどに身を震わせて両の手を身体の前に突き出すヴィノグラドフ。

 呆けたままそれを見つめるイングリッドの前で彼は、自身の手を見て何かに気が付き、慌てて身を捩って、ポケットをまさぐる。

 硬直して動きの無いイングリッドの前で、ようやく何かを引っ張り出した彼は、それに視線を落として眼を三角にした後、一息ついてから、その白い物体をイングリッドに投げつけた。

 悲しいかな、その物体は途中まで勢いよくイングリッドに近づきながら、果たせずに力尽きて広がり、ふわふわと床に落ちて広がった。

 ハンカチだった。

 

 お行儀よくその一連の流れを視線で追って、結末を見届けたイングリッドは最後に視線をヴィノグラドフに戻してかわいらしく首を傾げた。

 

 それで彼の感情は爆発した。

 

「決闘だ、決闘!俺は貴様に決闘を申し込む!!」

 

 「いぃっ!!」っと仰け反って驚くイングリッド。

 ヴィノグラドフの言葉の後に訪れた静寂。イングリッドは気が付いていなかったが、その周囲は酷く騒がしかったのだ。それが静まり、痛いほどの沈黙が訪れた。

 次の瞬間、爆発したように湧き上がる歓声。

 

「え……え……??なに?なに??」

 

 右手で右の耳辺りをさすりながら、きょときょとと周囲を見渡すイングリッド。

 

「決闘だ!?」

 

「決闘だぜ!」

 

「決闘するんだって!?」

 

「決闘かよ!」

 

 決闘。

 

 なんだか場違いな言葉が集団食堂を包み込む。

 外に向かって走り去る者や、意味も無く飛び跳ねる者、唾を飛ばして隣り合った者と大声で喚き合う者。

 イングリッドはあっけに取られたまま、ただ身を傾がせる。

 

 肩で息をするヴィノグラドフが、整った金髪を乗せた頭を振り乱してイングリッドの眼前に立つ。

 背のところ、170センチといったところか。キュルケとどっこいと見て取れる。しかし、慢性的な猫背が彼の立ち姿をいささか情け無い雰囲気で彩っている。

 その体躯は……まあ、イングリッドの見立てたところ、可もなく不可もなく。特段貧弱というわけでもない。だのに、余裕の無い顔立ちと、雰囲気が、随分と立ち姿を悪く見せている。それほど悪いとはいえない顔立ちをしているのにモッタイナイねぇ……。

 

 意味不明な経緯をたどった周辺状況についていけずに、呆けたまま彼を見上げるイングリッド。

 こめかみをひくつかせた彼は、イングリッドの胸を右手で強く押すと、それで彼女を押しのけて、集団食堂の出入り口を目指す。

 その姿をなんとなく眼で追ったイングリッドにヴィノグラドフが大声で言い放つ。それは間違いなく喧騒に包まれる大食堂の隅々まで響き渡った。

 

「中庭に来い!そこで叩きのめしてやる!!」

 

 「はぁ?」と、首を傾げたイングリッドの肩を叩き、頬を叩き、或いはおでこを叩いて、彼の取り巻きがヴィノグラドフの後を付いて走り出す。

 叩かれたところをなんとなくさすりながら立ち尽くすイングリッドの脇を、大勢の人間が走って行過ぎる。

 彼ら、彼女らはもともと立っていた位置関係的にいって、わざわざイングリッドのほうに向かって進んだ後にアルヴィーズの食堂の外を目指す形となった。それだけイングリッドに興味があったということだろうか?

 

「逃げるなよ!」

 

「楽しみね!」

 

「恐かったら言えよ!」

 

「代理ならするぜ!」

 

「逃げても怒られないのよ!」

 

「先生を呼んでくるから待っててね!」

 

「立会いなら任せろ!」

 

 なんだか分からない意味不明な経緯の流れを思い出せば、思ったよりも好意的と思える意識がぶつけられて去り、それもまたイングリッドを酷く混乱させる。

 

 激しい人の流れに逆らってキュルケが慌てた顔を隠せずにイングリッドの元に立つ。キュルケの背が高いことが幸いした。この一方的な流れの中では、強く衆目を集めたイングリッド以外の人間は、流れに身を任せるままになって仕方が無かった。

 ルイズとタバサもキュルケの背に守られてイングリッドに何とか近寄れた風だった。

 

 ルイズが唾を飛ばしながらイングリッドにつかみかかる。こめかみが痙攣していた。

 

「決闘って何よ!何でそんなことになるのよ!何を勝手にしているのよ!」

 

 この混乱の中で、シエスタが踏みつけられなかったのは、彼女の身の回りに集まった使用人たちのおかげだった。

 周囲の注目がイングリッドに集まっているうちに、彼女達はさっさと散らかったパンを集めて、フットマンが割れたプレートをかき集め、手首で振ることが出来る小さな箒を器用に使って、素早くキレイキレイしていたのだ。それと平行して、メイドたちがシエスタを介抱して、フットマンが彼女を担いで、走り去った。

 とっくの昔にシエスタの姿はこの場所から掻き消えていたのだ。

 

 首を傾げて、頭を掻くイングリッド。

 

「なんだろうねー。なんでこうなったんだかねー。……どうしてこうなった?」

 

 普段と違う態度で、本当に困惑した表情でルイズを見つめるイングリッド。

 その態度に毒気を抜かれたルイズが、眼を見開いて固まる。

 キュルケがその脇で、肩を竦めた。

 

「あの態度はまずかったわイングリッド。あそこでやられちゃってもおかしくないよ……」

 

 キュルケのほうに視線を送ったイングリッドは僅かに眼を見開く。

 何も気が付いていないようだったイングリッドにキュルケはやれやれと首を振った。

 

「平民と思われているあなたに、あんな態度を取られたら……決闘なんてならずに無礼討ちよ。そうなっても仕方がないわ」

 

 首を捻るイングリッド。納得がいかないように首を振って頭を強く掻き乱し、刹那、動作を治めて、顔の前に降ろした手のひらを見つめる。

 それを見ているキュルケの前でイングリッドはふと顔を上げて、溜息を吐いた。

 小さく首を捻るキュルケ。

 キュルケの顔を見上げて呟くようにイングリッドは言葉を吐いた。

 

「……イングリッドじゃ」

 

 キュルケはこけた。

 ルイズは頭をイングリッドの胸にぶつけた。

 タバサは変らぬ鉄面皮を保って、うっかり杖を落としそうになり、何とか堪えた。

 

 身体を震わせながら、言葉にならない言葉を出そうとして、結局顔を紅潮させるだけのルイズ。

 

「……!……!!」

 

 お尻をさすりながら苦い笑みを張り付かせてルイズを脇に退けるキュルケ。

 

「はいはい。冗談はそこまで……で、どーすんの?イングリッド?」

 

 表情を緊張させたルイズがイングリッドを見つめる。頭を右手でガシガシと乱すイングリッド。

 

「まあ……奴には、貸しが出来たからの……返してもらわんと」

 

 えっ!と驚くキュルケ。

 タバサも僅かに眼を見開いた。眼鏡がずり下がる。

 ルイズは緊張に身を震わせる。

 

「なに……?何をされたの?」

 

 イングリッドは両手で胸を抱き、その手を僅かに上下させた。

 

「あやつ……我の胸を触っていきよった……!」

 

 キュルケはこけた。

 ルイズもこけた。

 タバサも腰が砕けた。

 

 イングリッドは怒りを瞳にたたえて手を振り回した。

 

「高いぞ……我の身体は!ルイズ以外の誰に触らせるというか!許せん……!!」

 

 その言葉に一瞬顔を硬直させて、言葉の内容を理解した次の瞬間、身体を真っ赤にしたルイズがイングリッドに飛び掛った。

 腰を床に落としたままキュルケはそれを見上げて、次いでタバサに視線を移す。

 

「結局、さ。何があったか分からなかったわね……」

 

 タバサが頷く。

 

 そう、騒ぎの原因も経緯も結果もうやむやになった。シエスタが何をされたかは分からないし、ヴィノグラドフが何をしたかも分からない。

 何が起きてどうなったのか……。

 ここにある結果はわけが分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 まったくと言っていいほどに存在が忘れ去られて、それが普通の中庭。

 日はまともに差し込まず、一年を通して滅多に差し込むことが無い光が、ある一定の期間、差し込むときはゆだるような暑さに晒されて結局は存在を無視される。

 そんな場所だった。

 だが、今は例外である。

 

 よく手入れされた植え込み、芝生。今それは踏み荒らされて滅茶苦茶だった。普段は誰も意識を投げかねないが故に悲しむ庭師も、今この場の状況を見れば、別の意味で涙を流しそうな、そんな状態だった。

 どこから湧き出したのかと思われるほどの人間が、それなりに広い場所を埋め尽くしている。

 

 中庭に入りきれない者たちは4階、5階の窓から鈴なりになって眼下を見下ろす。

 出遅れてなお、なるべく近しい場所でこれから起きる出来事を見ようとする者は、3階の窓枠に足をかけて、身を乗り出している。

 

 その中心部で背筋を伸ばして立ち、両腕を組むのはヴィノグラドフ。

 

 いらいらとした仕草で足を鳴らし、爪をかむ彼に歓声ともつかぬ声が断続的に浴びせかけられている。

 そのたびに取り巻きが叫んだり応えたりとかしましい。全体が大きく高揚してざわめきが最高潮に達しようとするころ、もう一方の当事者が姿を現して、それで観客の感情が爆発した。

 

 怒っとした声が校舎を揺らす。

 窓が震える。生徒達が踏み鳴らす足音が物理的な意味でも中庭を揺らす。

 

 当事者を導きいれるために分かれた人垣から、紫色を光らせて、銀髪の少女が現れる。

 

 その姿を認めた者達は、認めたそばから、その口を閉じて表情を緊張させる。

 徐々に静寂が広がり、数瞬の後に中庭は沈黙に包まれた。

 

 恐怖。

 

 そこに立った少女から立ち上る感情は、はやし立てて騒ぐ類のモノではなかった。

 

 

 ヴィノグラドフは一瞬気圧されて、しかし首を振り、一瞬身を竦ませた後に胸を張って、大声をあげた。

 

「諸君!決闘だ!」

 

 返ったのは沈黙。一瞬声を上げかけた取り巻きがバツが悪そうに顔を見合わせて、身を竦ませる。

 彼らの視線の先には、沈黙と無表情。しかし隠せぬ怒りを身に宿らせたイングリッドの姿があった。

 彼女は目線のみをあちらへこちらへ揺るがせて、なぜか彼の頭上を越えてその先へと怒りをぶつけているようにも見えた。

 

 自分に直接怒りが向いていない事実に気が付かされて溜息を付いたヴィノグラドフだったが、次の瞬間、自分が無視されているのだという事実に気が付かされて苛立ちに顔を歪めた。彼はその怒りを感情に乗せたまま更に大声を張り上げた。

 

「コイツは俺を、貴族を侮辱した!貴族を侮辱したのだ!わけの分からん理由でここに現れて、俺達を馬鹿にしている!」

 

 怒りに震える表情で周囲を見渡して、キッとイングリッドに指を突きつける。

 

「コイツはラ・ヴァリエール家の娘の『使い魔』を僭称して、我ら貴族のあり方全てを侮辱したのだ!!」

 

 

 

 イングリッドの存在に疑問を抱いていた者は実のところ少なくなかった。

 召喚の場に居合わせた者はどうしたところで、ルイズ本人を含めて31人。契約の場にいた者は、僅かに2人。しかもそこには客観的な立場を取れる人間はいなかった。事実は藪の中と言っても過言ではない。

 

 しかもルイズなのだ。

 魔法を失敗するルイズ。

 魔法を使えないルイズ。

 ゼロのルイズ。

 

 本心からイングリッドがルイズの使い魔だなんて信じている者は、学院全体から言えばいないも同然だった。当たり前だ。

 

 人間の使い魔。

 ありえない。

 ありえるはずが無い。

 そういう常識である。

 

 ましてや、ゼロのルイズ。

 

 ヴァリエール家のルイズ。

 

 

 ゼロのルイズという面から見れば、そもそも使い魔がいるということ自体が疑問だった。

 使い魔を召喚できる筈が無い。

 使い魔がいる筈が無い。

 ましてや人間の使い魔。

 

 ありえない。

 

 

 ヴァリエール家のルイズという面から見れば、そもそも人間の使い魔がいるという時点で疑問だった。

 使い魔を召喚できないと2年生になれない学院のシステム。

 緘口令が出されて当事者が口を噤んでいることが分かっている召喚の儀。

 ましてや人間の使い魔。

 

 ありえない。

 否。

 ありえる。

 別の可能性がありうる。

 

 

 口に出さないだけで実は、そう思った人間は多かった。ただ「ヴァリエール家のルイズ」という立場を考えるとそれを口に出せる者はいないも同然だった。

 

 言える筈が無いのだ。

 格において絶対の隔たりがある貴族。

 トリステイン切っての名家と言って過言は無いヴァリエール。

 それに口を出せるのは、王家のみと言ってもいい。

 

 他国の者からするとそのあり方は更に微妙になる。

 

 トリステイン王家の血筋に連なっている公爵家の3女、ルイズ。そういう立場にあるのだ。

 トリステインの国民が忘れていることだが、現在、トリステインの王家は酷く混乱している。

 王が死に、女王は喪に服したまま王位を継がないでいる。

 王の子は、ひとり、娘がいるだけなのだ。庶子の存在すら確認されていない。

 このハルケギニアという世界では、子がある日突然命を失うなどということは珍しくともなんともないのだ。

 衛生面から言ってもそうだし、ましてや王家の子、となれば誰もが納得しつつ納得しえない理由により突如としてその生を終わらせる子など、枚挙にいとまが無い。

 

 そこにヴァリエールである。

 

 その継承権は高い。トリステイン王国の王位継承権のトップ2にはヴァリエール家の長女が立っている。

 いや、王が死に、女王が立たないでいる時点で、ヴァリエールの現当主に王権が移ってもおかしくないのだ。そういう考え方は別段おかしい話ともいえないしそういう形の前例が無い訳でもない。

 この手の微妙な問題というのはどのような国に於いても前例続行主義がまかり通るのだが、前例がいくつもあるならば何の問題もなく、王権が禅譲される可能性があった。

 つまり、トリステインの外部から学院に留学している者にとっての認識は、ヴァリエールの娘、すなわち王族なのだ。とくに王権の行き先があちらへこちらへと忙しい歴史を重ねたゲルマニアからの留学生にとってはトリステイン王国のヴァリエール体制は、もう既成事実と言ってよかった。トリステインの国民や貴族からするとその考え方は飛躍が過ぎたが、国外からトリステインの情勢を俯瞰した場合、そういう認識は無理からぬものがあった。

 だいたいトップが不在という状況がおかし過ぎるのだ。そんな事態はハルケギニアの歴史を眺めてもありえないといってよい。

 ありえない事態が放置されて、ありえる未来が無視されている。ように見える状態。

 となれば想像力豊かな人々が無責任に噂するところでは、現状のトップ不在は王権のヴァリエール家への委譲にあたる体制固めのインターバル、そうなってしまうのである。

 

 

 ヴィノグラドフの言葉はその誰もが躊躇する「事実」の再確認だった。ルイズが使い魔を持っている。その使い魔が人間である。それ以上にありえなかった、ルイズの立場によって抑えられた不満に対する暴露。

 

 一瞬の沈黙。

 そして小さなざわめき。

 

 さざ波のように広がった声の連鎖は一瞬にして中庭を何度も周回し、増幅され、割れんばかりの怒声となってその場を支配した。

 

 大きく口を歪めて両手でその声に応えるヴィノグラドフ。

 両手を振り回して騒ぎを煽る取り巻き達。

 

 満足して確信に満ちた表情でイングリッドに移された視線は、しかしそこに、氷よりも冷えた視線が自身を射抜いているという現実を理解させただけだった。

 

 イングリッドは、治まらない騒ぎの中で、眼を閉じ、小さく首を傾げて右手をさっと横に突き出し、そこからゆっくりと腕を曲げて耳と髪の毛の間に手のひらを突き込んで次の瞬間、大きくそれを吹き散らした。

 

 細く美しい銀糸が僅かな光に照らされて中庭を彩る。

 かすかな輝きが壁に、窓に反射して、光が踊る。

 観衆の耳目は一瞬にしてイングリッドに引き付けられた。

 

 物理的に他の人間の背に遮られているのだという者を除けば、ほぼ全ての視線が、わずか数瞬のイングリッドの仕草のみで引き付けられた。

 それはヴィノグラドフすら例外ではなかった。

 

 顔を僅かに左右に振って、前髪を整え、うっすらと眼を開く。そうして左腕を眼前に差し出したイングリッド。

 沈黙の中で集中する視線は、自然とそこに集まる。誰かの唾を飲み込む音が思ったよりも大きく響く。

 大げさな仕草で左手を左右に振り、手首をつかんだ右手が、左手をおおった手袋をゆっくりと上に押し上げていく。

 

 最後の瞬間に、ぱっとばかりに取り払われた手袋は誰もが注目する中で、注目を浴びないままイングリッドの右手に収まって、一瞬にして彼女の不思議な拵えの服装の、そのポケットに収まった。

 だから、周囲の視線は彼女の左手に集まったままだった。

 

 彼女はまるで周囲に見せ付けるように左手首をゆっくりと振る。

 左右前後に振る。

 次いで視線を前にあわせたまま僅かな動きで身体全体を使って周囲に見えるように、左手を……その甲を見せ付ける。

 

 一部の聡い人間はすぐに気が付いた。

 彼らの驚きと動揺に気が付いた他の人間も、何故そんな反応をしたのかを彼らに尋ねて、或いは少しの時間を経て、自分で気が付いた。

 それでもなお気がつかないでいた者は、周囲がコツいて、あるいは教えて、或いはようやくの事で気がついて、その事実にいたった。

 

 見せ付けている。

 

 その左手に刻まれたルーンを見せ付けている!

 

 

 もしもここにいるのが平民であれば、その仕草はまったくの意味不明だった。

 

 しかしここにいるのは貴族である。

 貴族はすなわちメイジなのだ。

 そして、ここにいる人間はすべからず、黒と紫のマントを纏っている。一部銀色のマントを纏っているがそれについてはどうでもいい。

 

 つまり、全員が間違いなく、一部の例外なく使い魔を持っている。

 そしてルーンがある意味を知っている。

 更に言えば、それなり以上の実力を持っているメイジであれば、使い魔とその主人に、ルーンを通じて繋がるパスがあることが「見える」。

 

 それはつまり、イングリッドがルイズの使い魔であることの証明であり、宣誓だった。これは常識的な能力を持ったメイジからすれば疑うことすら罪な、現実の確認であった。

 イングリッドの背から離れたところで僅かに紅潮した顔を揺らして、胸の前で手を合わせるルイズという存在が使役する使い魔が、疑いようも無くイングリッドであることのこの上ない証明だった。

 

 これでもなお、イングリッドが召喚されたのかどうかを疑う者はごく僅かにいた。

 しかし、疑問を持つこと、疑念を表明することは憚られた。

 ごく僅かの例外を除いて、召喚はイコール契約と意識が繋がっているのが普通だった。

 ここでは、召喚の儀の後、契約が済まされぬままイングリッドが意識を失わせて病室に担ぎ込まれた事実が知られていない事が幸いした。

 

 つまり、彼らの常識……これはハルケギニアにおけるメイジの一般常識と言い換えてもいいが、契約がされている存在イコール召喚された存在という事だった。

 

 疑えなかった。

 疑うことを考える事すら思い浮かばなかった。

 なにしろ契約しているのだ。

 つまりそれは召喚されたのだ。

 それは間違いなく使い魔なのだ!

 

 

 ヴィノグラドフが滑稽なほどの動揺を身に現して身体を震わせた。

 ヴィノグラドフがこの、召喚された事に疑念があり、契約したのか定かでない自称「使い魔」を合法的に叩き潰す手段がこの瞬間に失われた。

 不幸だった。

 彼は間違いなく召喚の場でイングリッドが召喚された姿を見ていた。

 

 疑念は後からやってきたものだった。

 

 召喚イコール契約。

 

 あの場で契約にいたらなかった。

 その事実が「イングリッドが召喚された存在ではなかったのではないか」という疑念に繋がっていたのだった。

 あの場で契約にまでいたっていれば、人間が召喚されて使い魔になったのだという「ありえない事実」も「ありえるかもしれない例外」で済ますことが出来たのだ。

 

 イングリッドを召喚したのがルイズであったというのも不幸だった。

 

 あの場でイングリッドを……人間の使い魔を呼び出したのが例えばキュルケやタバサであったのなら「ああ、あの変人共ならさもありん」と納得できたかもしれなかった。

 だがイングリッドを召喚したのはルイズだった。

 

 繰り返して言うが、ヴィノグラドフはイングリッドがあの場で召喚されたのだという事実に「あの場」では疑念を抱いてはいなかった。

 事実、彼もその周辺も、あの時ルイズに向かって「平民を召喚しやがった!」と叫んでいる。

 平民を呼んだルイズを馬鹿にしたのであって、召喚が出来ないでいるから召喚した風を装って平民を引っ張り込んだという風には思ってなどいなかった。

 召喚イコール契約という思考が彼を縛って、逆に、あの場で契約に進まなかった事実がイングリッドの存在に対する疑念の出発点となった。

 ルイズ自身が後になってやたらとイングリッドの存在に疑念を持ったのも、後から考えてみれば「人間が召喚される」異常性に対する疑義を持ったからであって、あの場所あの瞬間では、ルイズ自身もイングリッドを召喚した事実に対する疑念を持ってはいなかった。

 あの場所でもっともイングリッドが召喚された事実に疑念を抱いていたのはコルベールだったのだ。

 

 ヴィノグラドフがシュヴルーズの授業を途中退場したのも不幸だった。

 イングリッドはあの場で自身のルーンを見せ付けた。

 それどころか誰もが顔を青褪めたあの爆発の威力を知りながら、ルイズと共にあってルイズの側でその爆発を身に浴びるのだと強い決意を漲らせた。

 それこそありえないことだった。

 

 僅かな疑念を持っていたクラスメイトもそれで疑問が払拭されたといってよかった。

 ルーンがあるのだ。

 後からいらぬ疑念を持ったが、確かにイングリッドはあの場所で召喚されたのだ。

 そして爆発を主と共に浴びるのだと叫んだ。

 

 例えば金で雇われたメイジがそこまでするだろうか?召喚の儀で瀕死の重症となった爆発である。

 それが単純なミスであり、事故であったのだとしても、あの威力を知ってなお、偽者の使い魔があれをもう一度望んで受けるか?

 それこそありえない。

 

 イングリッド自身にはそこまでの恐怖とか、躊躇は無かったし、そんなことに頭を回す余裕も無かった。

 ただあの場所でイングリッドは、ルイズと共にあって、ルイズの魔法を見届けるのだと決意しただけだった。

 

 だが、周囲からすればあれはイングリッドがルイズの使い魔であるという事実のこのうえようも無い確認の場になっていた。結果論だが、あの行為はルイズのクラスメイトにイングリッドを受け入れさせるベストな選択だったのだ。

 

 その場にいなかった。

 ヴィノグラドフはその場にいなかったのだ。

 

 グランドプレもグラモンもヴィノグラドフを医療室においた後、タバサに追い立てられてすぐに教室に戻っていた。戻った側であの大騒ぎに巻き込まれて右往左往する羽目になった。

 だからあの2人もイングリッドがルイズの使い魔である事実を自然に受け入れていた。

 ルイズの失敗魔法が故に。

 皮肉な話だが、ルイズがゼロのルイズであるが故に、そのゼロの由来たる爆発に望んで立ち向かったイングリッドはルイズの使い魔以外の何者でもないと納得されたのだった。

 無論、魔法の能力にそれなり以上に優れた者……ライン以上の能力を持った者は、そこまでの行為をしなかったところで、ルーンを見せ付けられた時点で納得を得ていた。

 だがグランドプレもグラモンも能力はドットだった。だからもしかしたらルーンを見ただけではイングリッドに対してどうかと思ったかもしれない。

 しかし既に結果が出ていた。

 

 極めて皮肉な結果だったが、ヴィノグラドフをタバサが「説得」している間に、そういうことが起きた。タバサの説得によってヴィノグラドフがイングリッドを受け入れる結果は得られなかったのに、説得の時間の間にこの上ない説得力のある結果が現れて出でていた。

 

 不幸だった。

 

 ヴィノグラドフは不幸だったのだ。

 

 

 

 静かなざわめきが支配する中庭で、力なくヴィノグラドフは腰を落としていた。へたり込んでいたといったほうが良いかもしれない情け無い姿であった。

 いつの間にか眼前にあったイングリッドを虚ろな眼をして見上げる。

 

 ヴィノグラドフは不幸だった。

 

 最初は間違いなく、イングリッドに侮辱されたのだから決闘だ!と叫んだ。しかし、周囲はそれを受け入れたとは言いがたかった。

 集団食堂から立ち去るその背中には、明らかに決闘の経緯に納得していない多くの声が聞こえていた。

 中庭に立っても周囲からは疑問の声が溢れた。

 真に決闘を望むなら、段階を踏むべきだったのだ。

 

 別段、決闘自体はおかしな行為ではない。

 貴族階級に於いて、決闘という行為は日常茶飯事とまでは言わないまでもそれなりにありふれた日常風景なのだ。

 ただし、決闘には絶対の理がある。

 

 

 1つ。

 

 同じ階級にある立場同士の者が行うこと。

 

 これはつまり、貴族階級の者が平民と決闘すること等ありえないということだ。

 使い魔も同様であるといえる。

 

 厳密に考えると制度上は許されている筈も無いのだが、貴族の男児同士の決闘なら、手袋をぶつけて「決闘だ!」と叫べばそれでお膳立てが出来る。

 そういう慣例なのだ。

 

 しかし、イングリッドとヴィノグラドフの2人ではそうは行かない。イングリッドはその存在に疑惑があったとはいえ、その主が「使い魔」であると強弁していたのだから、同等の立場とは言えない。

 なかんずく、金で雇われた「使い魔」のフリをした流れのメイジだったとしても貴族である可能性は常識的に考えて有り得様も無かったから結局は一緒の事だ。

 真に使い魔であったのだとしても、今の今まで、使い魔が人間と決闘を行える状態にあることなんて唯の一度も無かったからグレーゾーンかもしれない。だがやはり、厳密に考えるならば決闘を行い得るかは疑問がある。

 この場合、大げさな話になるが、場合によっては、王宮に対して伺いを立てるべきであったかもしれない。

 もし、立場的に、階級的に決闘が認められないとなれば、それでなお決闘を望むならば、どちらかの身分をどちらかにあわせる必要がある。

 イングリッドを貴族として一時的に遇するか。

 ヴィノグラドフを一時的に使い魔の立場に貶めるか。

 或いは、双方共に自由民として扱うか。

 

 イングリッドが貴族になる等と言う事はあり得えない。絶対にあり得ない。

 たとえ一時的であっても、下の階級の者が上に立つこと等あり得る筈も無い。例外など無い。絶対に無い。

 使い魔という「立場」が貴族階級より上なのか下なのかという、今の今まで誰も考えたことの無い問題はあるが、貴族たるメイジに「仕える」存在なのだから多分、貴族よりは下の階級なのだろう。

 使い魔の立場にヴィノグラドフがなるというのも難しい。そも「使い魔の立場」とはなんぞや?という話である。

 よってあり得るのは、双方が「自由民」という立場に立つことである。

 

 これもまた大変にややこしい処理を行う必要がある。

 建前だけ「自由民」ですよーで、貴族がずんばらりんとなっては、その後に相続だ継承だと問題になって大騒ぎになる。よって、教会を立てて一度、一族の血縁からヴィノグラドフが存在しないものであったことを証明した上で、王宮がそれを追認しなければならない。

 勝てばいいのであるし「平民」に過ぎないイングリッドが「貴族」たるヴィノグラドフに勝つ可能性なんてありえないのではあるが、可能性とは常にゼロで無いから可能性なのだ。

 本気で決闘を行うのであればゼロではない可能性に留意してすべての処理を粛々とこなした上でないと、決闘という段階に至れないのだ。

 

 これはどんなに急いだところで1週間から一ヶ月は時間がかかる作業である。

 書類の処理とかだけではすまない。

 血縁身者等から疑義があると、それらを審査する必要も出る。

 当たり前である。貴族という階級の「特別」もあるし、例えば長男が当事者であったり、継承権を持った子供である上に、例えば一人っ子だったりしたら話は果てしなく大げさになる。

 一方の当事者が、貴族の地位や財産を狙った何らかの陰謀による存在だったら。他家の悪辣な嫌がらせであったりしたら。そういった可能性は当然考えられるし考慮される。自身の手を汚さずにライバルの貴族にダメージを与えられるのであれば。

 そういう話が吹き出るのは必然なので、貴族対機族の決闘よりも、貴族対その他の階級の決闘の方が準備にはるかに時間がかかるのである。

 そんな騒ぎを起こしていては、決闘に対する情熱も失せようというものだ。

 

 

 実際に、やたらと時間をかけて双方の頭を冷やし、決闘を諦めさせるがためにややこしい手続きを踏ませるという考えがあったりするのだが、それはヴィノグラドフのあずかり知らぬことだった。

 

 

 と、なると、その決闘だ!すぐにずんばらりんだ!とはならないのが2人の立場だった。

 最初から前提がおかしかったのだ。

 

 

 もう1つ忘れてはいけない理がある。

 

 決闘とは男児が行いえる神聖な儀式である。

 

 その時点でヴィノグラドフがイングリッドと直接拳をまみえる可能性は失われる。

 

 貴族同士で、女性対女性、或いは女性対男性という決闘が一切行われていない訳ではなかった。ただしこの場合は決闘裁判所が開かれて、正式な段を踏んで、代理人を立てる必要がある。貴族同士であっても性別が違うものが事に及べば単なる紛争であるし(貴族同士の争いなのだ!)、どちらかが命を失えば単なる殺人事件として扱われる。殺人事件の容疑者に下される罰は死刑だ。これには平民も貴族も区別は無い。こうなると喧嘩両成敗が基本なうえ、騒ぎに関わったもの全てに咎が及ぶので、問題が大きく波及する事にもなる。

 だから時間はかかろうが、面倒だろうが決闘の前段階として裁判を行う必要がある。裁判の開廷は当事者同士が金銭を出す必要がある。審議者は双方の談合の上で認められた第三者を選定しなければならない。王家からの立会いも求める必要がある。

 問題の解決を行う行為に対して前段に裁判が行われるという事実はなかなかに滑稽な話ではあるが、そういう制度なので仕方が無い。

 実際に代理人を立てる段で、金に明かして能力の高い野良メイジを用意しようが、双方で示し合わせて剣闘士を立てようが自由なのだが、これまた時間も金もかかる騒ぎになる。

 この場合であってもイングリッドが「貴族ではない」事実は揺るがないので、つまり、正式にヴィノグラドフがイングリッドと決闘を行おうとするならば、タブーを二つ曲げる必要があったのだ。

 もし、強行してイングリッドを殺した場合、例えヴィノグラドフが「自身が辱められたのだ!」と叫ぼうが、周囲がすべからずヴィノグラドフを弁護しようが彼に突きつけられるのは「殺人者」の汚名であって、彼に訪れる未来は「死刑」である。さすがに例外はあり得そうにも無い。

 だからこそ、イングリッドに「代理ならするぜ!」と声がかかったのだし「逃げても怒られないのよ!」という発言があったのである。

 

 つまるところ、そもそも決闘等は出来る筈も無かったのだ。

 一時の激情に任せて「決闘だ!」と叫んだ時点で話は終わっていた。

 

 

 だから、あの言葉を叫んだ。

 

「コイツはラ・ヴァリエール家の娘の『使い魔』を僭称して、我ら貴族のあり方全てを侮辱したのだ!!」

 

 これならば言い訳になる。

 決闘と叫んでしまった失敗はあるが、つまり、犯罪まがいの行為を犯した、いや、犯罪以上の世界を揺るがす行為を行った者に対する無礼討ちだと宣言したのだ。

 

 コレならば何もおかしいことは無い。まったく正統な行為だった。極端な話、立場的な事を言えば、ここまで騒ぎを大きくする必要性が無かった。そもそも食堂内で魔法を放ってイングリッドを打ち倒してもなんら問題は無かった。実は、無礼討ちという形を取るなら、あんな言葉を叫んで赤っ恥をかく必要性すら無かった。

 単純に「うるさい死ね!」ですんだのだ。

 

 だが、その前提も崩れてしまった。

 他でもない、彼女自身がその左手を掲げて証明した。

 

 彼女は使い魔だった。

 

 疑いようもなく使い魔だった!

 

 

 

 腰に手をやって、微妙な笑みを浮かべてこちらを見下ろすイングリッド。彼はそんな彼女を見上げて、何でこんな騒ぎに発展してしまったのか、大いに頭を悩ますのだった。

 何がなんだか分からないまま混乱して、イングリッドが差し出した右手をつかんで立ち上がった。

 戸惑う彼の前でイングリッドは居住まいをただし、腰をおって大きく頭を下げた。

 ヴィノグラドフは仰天して飛び上がってしまう。

 

「すまぬなミスタ・ヴィノグラドフ。我は我主、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔をやっているイングリッドという」

 

 顔を上げて、ヴィノグラドフの眼を射抜き、そうしてもう一度頭を下げた。

 

「ただのイングリッドじゃ」

 

 また、顔を上げる。

 恥ずかしそうに頭を掻いている姿は、目の前で向日葵が花開いたかと思わせるように美しかった。

 ……向日葵は美しい花と言えるだろうか?

 

「我は遠くから召喚された様での……こちらの常識に疎いんじゃ。我は、主を侮辱するような気はありゃせんかったのじゃ」

 

 背筋を伸ばしたイングリッドは、ヴィノグラドフに正面から相対して見上げるともう一度腰を折った。

 

「このしゃべり方は我の……我が場所では普通の事であるのでな。勘違いをさせて申し訳ないことしきりじゃ」

 

 顔をやや持ち上げて、下から見上げるイングリッド。

 その姿に激しく顔を紅潮させるヴィノグラドフ。

 小さな声で、囁くように声が発せられる。心なしか震えるように聴こえるその声は、ヴィノグラドフの純情を揺さぶった。

 

「許してくりゃれ?」

 

 見つめるその瞳には小さな水滴が乗っている。ますます頭に血が上ったヴィノグラドフはあわあわと両手を振って飛びのいた。

 

「いや!申し訳ない!すまない!迷惑をかけた!ゴメン!」

 

 土下座でもしそうな勢いのヴィノグラドフの手をイングリッドは慌ててつかんで立たせた。イングリッドが自身の身体を触れたことでヴィノグラドフは心臓の鼓動を早めてしまう。彼の肩を伸び上がって掴み、正面から上目使いに見つめるイングリッドは刹那、右手で目じりを拭って小首を傾げた。

 

「出来得れば、主の名を主から教えてくりゃせんか?」

 

 一瞬硬直したヴィノグラドフは次の瞬間に壊れたおもちゃかという如く、首を激しく上下に揺すって僅かにイングリッドから距離を取った。

 

「はい!はいはいはい!私の名は、アンドレ・オルジョニキーゼ・ダ・ネフスキカヤ・ヴィノグラドフと言います!」

 

 ざっと、音を立てて一歩下がると右手を腰の前で払って、大きく身を折り、頭を下げた。

 

「ゲルマニアの北東、ジェダーノフ公国領、ヴィノグラドフ家が2子。以後、見知り置いて頂ければこの身の光栄!」

 

 顔を上げた彼の前に、思ったよりも近い位置にイングリッドの姿があった。仰け反る彼にイングリッドは小さく頷いた。

 

「ミスタ・ヴィノグラドフと呼べばいいのかや……?ダ・ヴィノグラドフであろうか?」

 

 紅潮した顔でヴィノグラドフはイングリッドの右手をつかむと、腰を落とし、頭をたれ、その甲に接吻した。

 一瞬、ほんの一瞬、イングリッドの表情が爆発しそうになったことに気がついたキュルケが腹を抱えて笑う。

 

「アンドレ・ヌーラフ」

 

 顔を上げたヴィノグラドフに首を傾げたイングリッドが疑問符を浮かべる。

 キュルケはあと少しで地面を転がりそうな勢いで笑う。

 

「親しいものはアンドレ・ヌーラフ、と」

 

 ドヤァぁ……。眩しい笑顔からそんな擬音が漏れそうな雰囲気だった。僅かに開かれた口の奥で、彼の奥歯が光る。そんな姿が幻視された。

 タバサが勢いよく視線をそらして肩を震わす。

 

 イングリッドは小さく頷いて、しかし、儚げな笑みを浮かべた。

 

「分かった、が、ここはひとまず、ミスタ・ヴィノグラドフと呼ばしてもらおうかや」

 

 ヴィノグラドフはその顔面に大いなる落胆を浮かべてしかし、頷いた。

 

「このような迷惑をかけてなお、名を読んでいただける光栄。ありがたき」

 

 大げさに3度腰を折ってイングリッドに囁く。

 

「この度の迷惑。必ずや注がせていただく。イングリッド様。いつかこの身を許していただける日が来ましたら必ずやわが名を……」

 

 イングリッドは小さく頷いた。

 

「そのときはアンドレ・ヌーラフ、と呼ばせてもらおうかや」

 

 ぱっと笑顔を見せて飛びのき、4度腰を折った。

 

「ありがたきしあわ……」

 

 そこまでだった。

 彼の頭にチョップが突き刺さる。

 

 慌てて頭を挙げて見回す彼に、取り巻きがせまる。

 

「テメエ……」

 

「自分ひとりでナニよろしくやってるんだ……!」

 

「俺達は道化か……!!」

 

「許されると思うなよ……!」

 

 あうあうと情け無い顔を浮かべて引きずられていくアンドレ・ヌーラフことヴィノグラドフに小さく手を振って、姿が見えなくなったところで、イングリッドは大きく息を吐いてルイズのほうを振り向き、身を震わせた。

 

 次の瞬間に、両手を振り上げて叫ぶ。

 

「うがー!慣れんことはするもんじゃありゃせん!」

 

 両腕をさすって飛び跳ねるイングリッド。

 

「うーうー!さぶいぼがでるで!」

 

 膝を落として息も絶え絶えに、声にならない笑い声を上げるルイズだった。

 

「……死ぬっ!死んじゃう!笑いすぎて、息が出来ない……!」

 

 首を回し、左腕を回し、右腕を折って、こきこきと鳴らし、腰に手をやってルイズに呆れた表情を向けて左右を見渡して、最後にキュルケに視線を送るイングリッド。

 ふと気が付いてハンカチを取り出し、右手にこすりつける。

 ごしごしごし。

 ごしごしごしごしごし。

 ごしごしごしごしごしごしごし。

 親の敵が右手に宿ったとでもいう勢いでハンカチで乱暴に拭う姿に、キュルケが笑いを大きくする。

 

 馬鹿馬鹿しい茶番劇に付き合いきれないと、鼻白んで三々五々と解散していく生徒達。

 イングリッドは、擦り過ぎて朱に染まった右手を光に透かして満足すると、ハンカチを乱暴にポケットに押し込んだ。

 肩を竦めて天を仰ぐ。

 

「……最初から、キュルケにまかすべきだったかや」

 

 ひーひー言いながらキュルケがイングリッドの肩をバシバシ叩く。

 

「だーめ、だめだめ!あれはね、相手よりも背が低いから使える手なんだから!」

 

 一瞬の真面目な表情を保てず、大きく歪めると、また腹を抱えて笑い出すキュルケ。

 痙攣するルイズの背を撫でながら、それに呆れたような視線を送り続けるタバサ。

 

 そう、大変に面倒な問題の出立に、大慌てになった3人は、やる気満々なイングリッドを抑えてなだめてすかして、ごく僅かの間に、出来る限りの悪知恵を働かして、どうにかして問題を軟着陸させようと頭を捻ったのだ。

 その結果が、ここにあった。

 食堂でのイングリッドの姿に妄想を抱いたキュルケが主になって考えた茶番は、何とかうまいところ、落とし処にはまったようだった。

 

 イングリッドは嫌そうな表情を向けて再度、大きく溜息を吐いた。

 

「はあぁー。まあ、あれじゃな。皆みなに、我の立場を納得させることが出来たのじゃ。それは僥倖じゃて……」

 

 息を整えて、咳払いをして、ルイズが立ち上がった。瞬間、ふらついたがイングリッドが肩を抱いて立たせる。

 その後ろでタバサが両腕を所在無く突き出していたが、イングリッドはそれに小さく頷いてルイズに視線をあわせた。

 

「そーね。そーよね。うん。よかったわ、ちょうどよかった!まさか一日二日(いちにちふつか)でイングリッドの事を周知して納得させられるなんて!」

 

 イングリッドから離れてぐいーと身を伸ばすルイズ。

 

「イングリッドの事をどう説明して回ろうかと思うと憂鬱だったのよねー!」

 

 晴れやかな笑顔でイングリッドに笑いかけるルイズ。それに応えるイングリッドは身体を傾げて疲れた笑顔を向けた。

 

「まっ、そうよな。いちいち尋ねられてあーだこーだ言うておっては身が持たん。いい道化っぷりじゃった」

 

 イングリッドは引きずられて去ったヴィノグラドフの姿を幻視して眼を細めた。

 

 ルイズはそれでまた噴き出して身を震わせる。

 それを見たキュルケが笑みを浮かべて、ふと何かに気がついてイングリッドに視線を向けた。

 

「ねえ。そういえばさ、イングリッド」

 

 イングリッドは首を傾げた。

 

「なんじゃ?」

 

 キュルケがイングリッドのささやかな胸を指差した。

 

「……いいの?」

 

 ルイズが眼を跳ね上げてイングリッドを見つめる。

 一瞬の無表情の後「にたあ」といやらしい笑みを浮かべてイングリッドは笑った。

 

「にょほほほほほほほほ!まあ、そうさな!十分に利子を育ててから取り立てるとしようぞ!」

 

 空を見上げて笑い声を上げるイングリッドに釣られてキュルケもルイズも笑い声を上げた。人気がすっかり失われた中庭で、ひとしきり笑い会って顔を見合わせると、誰ともなく頷いて教育棟に入る扉を目指した。

 疲れたように溜息を吐くタバサに、キュルケが微笑んで、頭を撫でる。

 ルイズは妙にうきうきした表情で飛び跳ねるようにして歩く。

 呆れた笑顔を浮かべてそれを眺めるイングリッド。

 溜息を吐いて顔を上げた。

 

「はあ。さて、午後の授業じゃが……」

 

 その扉の前には、薄緑色の髪を流し、整った顔面に眼鏡を抱いた女性が立っていた。

 その視線は明らかに4人の方を捉えていた。

 

「どうも、出ることは出来そうにないの」


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