ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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伝説の使い魔(3)

 教室の清掃が終わった後に、埃を払って、洗面所で手を洗い、顔を洗い、そして鼻の中を洗った4人である。時間はちょうどいいタイミングだった。そうしてルイズが選んだ昼食の場所は集団食堂ではなく、簡易食堂だった。

 

 昼食時間帯における集団食堂のメニューはスモーガス・ボードである。

 現代的な意味でのビュッフェ・スタイルではなく、語源となったスモーガス、つまり、サンドウィッチのような軽食をシッティング・ビュッフェ形式で食べる形である。一応、ドリンク辺りまでは無料のようだ。なかなかアメリカンなスタイルである。

 

 アメリカのビュッフェ・スタイルでは、ソフト・ドリンクどころか下手をすれば安物のアルコール飲料まで飲み放題というところが多かった。そういうところでは無論、未成年者お断りとなるが、東西海岸近傍の都市以外ではそのあたりがむにゃむにゃ……というのはよくあった話である。

 それなのに、軽いアルコールが用意されているが故に、ビュッフェからつまみ出されるイングリッド。なかなか悲しい絵面である。どうしても「そこに入りたい」場合は、穏便な対応で「押し入った」モノだが。

 それは別にしても、コンビニエンス・ストアで買える程度のアルコールなら、買う者は阿呆、という程に何でも無料であったのがアメリカン・スタイル。日本等のごく一部の例外地域を除けばコンビニエンス・ストアが言うほど「コンビニエンス」でもないという現実があったりするのだが。

 北アメリカ大陸の内陸部では、ミネラル・ウォーターのみ有料とか言う場所も過去にはあったが、ペットボトル・ドリンクの隆盛と共に、現代アメリカ合衆国では液体飲料のほぼ全てが無料となった。液体飲料扱いされている「アルコール」も含めての話である。

 世界が相対的に落ち着きを見せた近現代になって初めて―――実は勘違いから、ビール等をたしなみ始めたイングリッドだが、水の変わりに安いワインを飲まなければならなかった時代はともかくとして、現代アメリカでの任務となれば夕食でへべれけになるまで飲んだり、それで厄介ごとに巻き込まれたり、そうしてケンとかアレックスと出会ったり殴りあったりしているので人の付き合いとは分からないものだ。

 アレックスに対してはマーライオン・ブレスを浴びせかけたのが馴れ初めであったのだが。

 

 そのアメリカン・スタイルな集団食堂に対して、簡易食堂では24時間、常時、オーダー・ビュッフェ形式で食事が供される。

 昼食で「ガッツリ食べたい人は……」というのは、後精算で貴族らしい昼食が用意されるという意味であり、簡易食堂で供される食事は、大衆食堂で出される食事よりは余程に豪華であるが、貴族向けの食事としてはかなり格が劣るということだ。またその場で精算する必要がある。つまり、現金を持つ必要があるという点で、煩雑でもある。

 

 簡易食堂の利用に当たって、実は「現金精算」という部分で大きな落とし穴がある。一部の「貴族」に対して。

 

 魔法学院は月謝方式である。

 

 毎月、手形を切ったり現金を輸送したりする面倒を押して月謝方式になっているのはややこしい理由があるのだが、それはともかくとして。

 学院に通う貴族は、本家より払い込まれる月謝によってその地位が保全される。通常の食事や、学院指定の制服、授業で使用される物品、生活するに当たって必要な寮や入浴設備、ランドリーの維持等はそこから賄われる。

 格が酷く落ちる事を厭わなければ、ベットや下着、普段着等すら無料で「貸与」される。

 無論、貴族が学院から何もかもを支給されて生活するなどという事態は外聞が悪いこと甚だしい。よって、ごくごく一部の学院生活を送るに当たって必然となる物品。つまり、制服や学年指定のマント、学院指定の寮等の生活場所、風呂や食堂といった諸設備を除いたすべての生活道具は各々の貴族が自弁で用意するのが通例である。

 一通りの生活道具を月謝が払い込まれる限りは学院が全て用意するという形態は、まったく意味を失ってしまっている制度であるという。これは過去に、有力な後ろ盾を持たない貧乏貴族の優秀なメイジを救済入学させる処置の()()であったようだが、授業中にルイズから示されたとおり、現状の魔法学院のあり方からするとその活用がまったく期待できない形骸化した制度と言える。 

 学院敷地内で現金を使う可能性がある場所は、簡易食堂と売店のみであり、後者の支払いはパーソナルチェックを切ることで、後精算に回せる。

 なぜ、現金精算が罠かと言えば、学院に籍を置く貴族の中には相当な無理を犯して入学を勝ち取った者が少なく無いという事実があるからで、豪奢に着飾ってその実、実家も自分も懐は火の車。という現実に苛まれている生徒がいるという情けない実態があるのだ。

 そうすると、簡易食堂で食事をすることなど夢のまた夢という「貴族」の存在が現出するわけである。

 

 月々の月謝の支払いに対して自転車操業的困難に汲々としている者がいるので、子供に現金を持たせることすら出来ない、という実像が突きつけられる。

 そういう者こそ「形骸化した制度」を使えよと言いたくなるが、その制度は、そもそも「優秀な」者を「救済する」ために用意されている。現状、真に「優秀」なメイジの卵は、そも、大本の本質でどこか歪んでいる魔法学院に足を向ける可能性が無いのであるから「貧乏なだけ」の貴族が制度を利用するのは困難である。

 制度を利用させろと横車を押そうにも、結局は「実弾」が無い事が根本的理由になっているのだと言うならば、どうしようもなかった。横車を押すためにまずは「実弾」が必要なわけで。

 

 なんで簡易食堂が現金精算一本かと言えば、ここには貴族専用というわけではなくて、教師や職員も訪れるからだ。特にメニューが固定されがちな学院指定の食事を嫌って簡易食堂の常連となっている職員も多い。

 集団食堂で供される食事は貴族の子弟向けということで手を抜くことは無いはずだが、ながく学院に勤める教員の中には、結局は3年でローテーションされる食事に飽きが来ることもあろう。教員以外の疑いようも無く平民のみで構成された職員ともなれば(一部例外がいるとはいえ)、学院が用意した職員食堂の食事で3食となるが、一ヶ月どころか2週間程度でメニューがローテーションされてしまうので、食通でなくともどうしようもない事態に追い込まれてしまうのである。このあたり、全てが他人に任せ切りの貴族的社会、というか封建社会の欠陥で、こういった施設における食事情は地球においても実際、使用人のほうが余程恵まれていたりするのはよくあることである。これは洋の東西を問わなかった現実である。

 簡易食堂では『簡易』と冠しながら、現金収入を得る努力を怠らずに、つねに目新しいメニューの開発に熱心であったり、また、貴族向けの食事のように後先考えずに一流の材料を常に用意できるわけでもないので、勢い、その調理に工夫を施すことになる。すると、少なくとも季節ごとにメニューが変遷するわけで、実際には気象状況や流通事情によっても変化が発生して、ごく一部の定番メニューを除けばメニューの変化が大きいので、昼食をいろいろ楽しめるということになる訳である。

 

 ぶっちゃけて言えば、集団食堂のスモーガス・ボード自体が実のところ「貧乏貴族」のための食事であって、横車を押したくても押せない貴族に対する学院による精一杯の好意の表れだった。無理して頑張って月謝を払い込んでくれる貴族が、まともな昼食を取れないがゆえにドロップアウトなどというのでは学院としても損であるし。

 本当にお金がある貴族ならば、貴族らしい食事を嗜む為に、別途昼食を注文してふんぞり返るわけである。

 或いはお金が無いのだが、年齢的肉体的に欠食気味な若者であれば、後清算で個人メニューを注文せざるを得ないということである。

 スモーガス・ボードでトレイ山盛りの「軽食」を運んで席に着くのは貴族のプライド上は大変に難しい行為であろうと予想される。

 本気の本気でお金が無ければ……プライドなんて灰になれ!と、言うことだ。

 純粋に多彩なメニューを楽しみたいのであれば、昼食は簡易食堂で。と、なる訳である。

 

 集団食堂の昼食内容が朝食、夕食に比べて大きく内容が劣る理由はいろいろとある。

 女生徒のなかには意図的に昼食を避ける向きもあったし、男子生徒の中にも、常に間違いなく昼食を取るというわけでもない人間が一定数含まれている。思春期の多彩な興味が尽きない男児であるなら昼食時間、というより、昼の休憩時間は貴重な活動時間であろう。

 教職員になると仕事が忙しければ、食事を取りたくても無理、というものもいるし、重いものを食べたくはないという歳を経た者もいる。食堂施設側としても、朝食からそれほど時間の経っていない時間帯に、朝食と同じレベルかそれ以上の食事を用意する面倒を避けたいという話もある。

 多くの人々の考えが交錯して、やがて昼食がビュッフェ・スタイルへと変遷した訳である。

 

 

 ルイズがイングリッドに説明したところはそんな感じであった。

 イングリッドが予想するところのルイズは、ごく僅かな時間での観察結果から言ってもまごう事なき「本当の」貴族であろうし、現金の持ち合わせが無いなんていうことはありそうに無かった。

 傍目から見ても「美少女」といって差し支えないルイズが欠食児童なんてことは更にありそうにも無いことだったし、となれば、純粋に昼食を楽しみたい集団に位置するのは自明であろう。

 

 『簡易食堂』の名に反して相当に豪華な拵えをみせる内装には溜息が出てしまう。

 貴族がディナーを取るには余りにも軽いデザインであるが、だからと言ってビジネスマンが飛び込むにはちょっと躊躇してしまうような『食堂』だった。

 足元から腰の辺りにかけて、木目が美しい重厚なたたずまいを見せて壁を飾っているし、真っ白い柱は、一々面倒な装飾が施されている。

 木目で飾られた壁と、それをところどころで隔てる柱のコントラストが鮮やかだ。

 何調と言っていいかは分からない。あえて言えば現代バロック調か。どこかのおしゃれなカッフェ、とでもいおうか。もはや「ハルケギニア調」と諦めるべきか。建物の外観や内装からハルケギニアの文化レベルを推測しようとする努力は諦めたほうがいいのかも知れない……。 

 それでいて軍隊の食堂の如くに、サイド・メニューやサラダがセルフ・サービスで用意されているのだから何がなんだか分からない。本当に混沌とした文化的背景があるようだ。もう滅茶苦茶である。

 メイン・メニューは、作り置きの見本がいくつも置かれて、そこから選んでオーダーするようだ。やけにシーフードが多い。シーフードが多い……?

 

「む……海産物が多いのであるな」

 

 入り口近く、大勢の人間が取り巻いている大テーブルに並べられた見本を眺めながら、イングリッドが頭を捻る。イミテーションではない実際に調理された料理だった。作られてからそれなりの時間が経過しているためか、色や香りなどがおちてしまっているのが残念だ。

 首を傾げるイングリッドにルイズが心配そうな表情を向ける。

 

「トリステインの、今の流行なのよ。魚とかは嫌いだったイングリッド?」

 

 苦笑いを浮かべてルイズに否定の意味で手を振るイングリッド。

 

「いや、そうでは無くてな。こういうところでは肉類が多いかと思ったんじゃが」

 

 イングリッドの頭にはヨーロッパの貴族社会で供される食事風景が思い浮かんでいた。勿論フランスやドイツの風景である。どっかの島国の食事風景は記憶に無い。見たことが無いわけではなく、全然記憶に残らないようなしょっぱい食事だったのだ。内容が薄いという意味でも味が淡白で一本道な意味でもしょっぱかった。

 だいたいにおいて、へぼい郷土料理やショボイ宮廷料理が多くて、何度か大陸と戦争するうちに海峡向かいから「それなりに優秀な」料理人を何人も拉致って、そこな料理を食べ始めてテーレッテレー!したぐらいだから本来的内容は押して知るべしといった所だ。

 

 それは脇に置くとしても、海産物が貴族向けに供されることは珍しかったような記憶がある。イングリッド個人が見て、触れて、体験する範囲などは高が知れているので、記憶に偏りがある可能性は否めないが、海辺にある領地でもない限りは内陸地に新鮮な海産物を輸送するのは困難であるが故に、内陸部で食卓に供される海産物と言ったら、貝類が精々なところだった。今、目の前にある甲殻類や魚類が姿かたちを残して料理されているなんて言うのは、なかなかお目にかかれなかった気がする。

 貝類がせいぜいと言ってもなお衛生的な問題が頻出して相当な犠牲者が出ていたことが記録からも知られているし、それでもなお、貝類を得ようとする人間が後を絶たなかったのは、とりもなおさず、肉類に飽きが来ていたと言う証拠でもあったりする。海浜で網を引けばとんでもない量が採れることがあったのも、中世、貝類が比較的、庶民の口に入った理由の一つでもあったかもしれない。

 河川部沿いで人間の生活が営まれた結果として、河口付近の沿岸部が富栄養化して、阿呆みたいに大量の貝や海草が繁殖したことはままあったのだ。

 

 やたら滅多ら貝類で食中毒が発生して、王族にすら少なくない犠牲者が出ていたのが中世ヨーロッパの現実である。魚となれば塩漬けとか発酵食品があるぐらいで、実際には海産物というのは内陸部では珍味扱いだった。

 大河川脇で発達を見たヨーロッパの都市であるが、河川脇に住民が殺到した現実の裏返しとして河川の汚染は深刻であったから、川魚を食する文化は中世から近世辺りで壊滅状況に陥った。水質汚染が収まりを見せつつある現代でも、ヨーロッパの大河川の中流域から下流域では、川魚を採集する行為が復活していない。

 疑いようも無く極めて先進的な重工業が発展して、ありえないほどの住民がひしめいている、先進国家たる日本の都市部の、その大河川の河口部で、わりかし平気で漁業が営まれていて、あろうことかそこで採れた物が普通に市場に流通している現実というのは、日本以外の国から見ると相当に「逝かれた」風景だったりするのだ。

 北海にしろ地中海にしろ内海に近い地勢であるから、重工業の発達に伴って近海漁業は殲滅されてしまったから、ますます魚介類の取得は困難になった。ヨーロッパでそれらが復活の兆しを見たのは、第二次大戦後、重化学工業が衰退の兆しを見せて以降という皮肉な歴史がある。

 ただし北海沿岸域では、枢軸国の総本山たる国家がせっせと生産して溜め込んだ生物化学兵器を戦後、大量に海中に遺棄するという馬鹿なことをしたために、漁業がまともに復権するまでの道のりは恐ろしく険しかった。

 よって、西ヨーロッパではポルトガルやスペインのように大西洋に面した海岸を持つ国を除けば、シーフード料理なるものの登場は近代以降を待たなくてはいけなかった。

 ダディ、クールだね!とばかりに肉を食べてる印象のあるアメリカ人だが、彼らのほうがシーフードの消費量はヨーロッパよりはるかに大きいというのが本当のところで、現代に入ってやっとこ海産物が普通に食べられるようになったというところがピレネー以東の国家の情勢であったりする。

 

 1960年代以降に急激にフランスあたりでシーフードが隆盛したのはとりもなおさず、冷凍技術が発達したからで、大西洋岸で採集される魚介類が長距離輸送可能となった事実が大きい。1800年代中盤には既に氷を大量生産する技術があったにもかかわらず鮮魚が内陸部に流通しなかったのは「氷で冷やす」程度ではいかんともしがたい細菌や寄生虫が海魚に常在していたからである。新鮮な魚というのは本質的には人間が食べるには危険な食物であったのだ。

 マイナス20℃以下の急速冷凍技術の進展を受けて初めて人類は完全に近い形で安全な魚介類を安心して食べられるようになったのであって、生魚、つまり刺身は勿論、鮮魚であっても、煮た、あぶった程度では安全が保証されることは無かったのが海産物の特徴である。ヨーロッパにおける揚げ物や炒め物が、まず魚介類で進展したのは、経験則的に魚介類が危険だということが知られていたからであり、本質的にシーフードというのはリスクが大きな食べ物だったのだ。

 揚げ物にせよ炒め物にせよ、食用油と強力なカロリーを発揮する燃料を大量に消費するわけで、それらを調達するコストを考えれば「今日は魚にしようかしら」程度に気楽に料理を楽しめるものではなかった。また、中世後半になって石材の利用が一般的になったヨーロッパの都市部であればともかく、中世の前半では木造家屋が普通であった人口密集地で、住民が食事時間にオーブン以外の火を起こせばうかっりミス一つで大惨事である。

 殆ど全てのヨーロッパの大都市が、大惨事を経験したからこそ、最終的に石材を使用した都市景観が普通になったわけだが、そういった歴史故、ヨーロッパ沿岸部の都市であってすら火を通す魚の料理と言えば、メインはオーブンで調理される焼き魚か蒸し焼きであった。

 「宅配便」を生業とする魔女が受け取ったパイなんかを思い出すとよい。あれがシーフードを使った料理の庶民的工夫の限界だったのだ。

 先ほどの島国の例で言えば、とにかく焼く。なんとしてでも焼く。親の敵とばかりに焼く。それが料理の基本である。よほど食中毒を恐れたのであろう。小麦でもジャガイモでも大々的に食中毒が発生して少なからぬ死者が出ていた時代があったから分からないでもないが、消し炭みたいな料理がメインですといわれてはげんなりすること請け合いである。フィッシュ・アンド・チップスでも上等な料理だと感心したのだ。

 

 イングリッドが思わず苦笑いを浮かべたのはそういう「経験則」からである。

 推定年代が激しく変遷しているが、朝食内容から特定する分には16~18世紀フランス辺りと見ていたハルケギニアの食文化に対する評価が、うっかり砕け散ってしまった事実に頭を痛めていたりする。もう、本当に、本当に滅茶苦茶である。

 

 イングリッドが苦笑いを崩せずにルイズを見る分には、その顔に魚介類に対する嫌悪感が見られなかった。それはつまり、シーフード料理が珍しくないという証左であって、貴族が食する分にも安全が保障されているという証拠なのだろう。

 一つ一つの通常の生活活動で一々驚かされてばかりである。どこまで、いつまで驚かされ続けるのだろう。イングリッドは自分の神経が保てるか心配になってきた。永い生を過ごしてきたというだけで無闇に物知りになってしまったイングリッドだが、今となっては自分の広くて浅い知識が恨めしい。知らなければイノセンスでいられたろうに。

 

 互いに見つめあう格好になったルイズとイングリッドに妙な視線を送りつつ、キュルケとタバサは本日のメインデッシュをなんにしようかと喧々囂々である。後から後から大勢の人間が押し寄せる入り口で、お見合いを続けるのも迷惑であるから、イングリッドは海老(ロブスター?)の香草焼きを選んで注文した。釣られるようにルイズも同じメニューをオーダーする。

 すると、あーでもないこーでもないと騒いでいたキュルケとタバサも結局は同じメニューを頼んだ。

 4人が連続して同じメニューをオーダーしたのを見た後続の者達も、集団心理とばかりに次々に同じメニューを注文し始めて、厨房でメニューを聞く人間の顔が引き攣る。

 結局、ルイズたちが海老の香草焼きを選んだ後、ものの数分でそのメニューはクローズと相成った。

 

 ルイズたちが知らない、或いは気が付いていないだけで、海産物に対する危険性がまったく失われていない可能性はあった。しかしイングリッドはそれを重視しない。ルイズたち……というより、ルイズを、イングリッドが疑うことは無かった。

 何を食べようかと迷うことはあっても、ルイズが禁忌しないのであればシーフードを選ぶことに対する躊躇いは無かったのだ。

 

 自分達の後ろで海老の香草焼きが人気メニューになって、俄かに厨房が混乱することになった。そんな騒ぎが起きていたとは知らない4人組は、テーブルを一つ占領すると、次々にサイド・メニューを選んでいく。あきれ果てたことにテーブル一つ一つにアテンダントが付いて回って、持ってきたメニューをメモしていく。つまり、それで清算する事になるんだろう。

 契約を行った場で口にしたパンの種類の多彩さと味の良さの記憶から、イングリッドは躊躇う事無く多種多様な種類のパンを、プレートに山盛りになった中から適当に選んで取っていく。

 メニュー・テーブルには揚げ物や焼き物、煮物と、かなり多様なメニューがあって驚いてしまう。これでオーダー・ビュッフェとは疑問である。所謂「バイキング」と違い、ブーランジェテーブルとサラダバー以外には調理人が幾人か付いていて、その場で頼めば、一定量を盛り付ける形だ。つまり、その一定量で値段が決まっているのだろう。中途半端なビュッフェ・スタイルと言える。なかなか人件費がかかりそうなスタイルだ。それを疑問に思って、イングリッドはルイズに尋ねてみた。

 

「うん。昼食のときだけよ。四六時中こんなことやってるわけではないわ。ディナー・タイムや休日なんかは定食メニューだけよ」

 

 一抱えもあるプレートに山盛りのサラダを乗せて運ぶタバサが、よろよろとテーブルに近寄る。それに気がついてキュルケは小さく微笑んでタバサに手を貸す。青い髪を揺らして、小さな顔を上下に振って謝意を示すタバサ。

 

「サラダとドリンクは取り放題、飲み放題で無料よ。授業がある日はパンも昼食に限って食べ放題なのはありがたいよね。メインをオーダーせずにサラダとドリンク、パンだけってのはマナー違反だけどね」

 

 そう言いながら、キュルケがヴァン・ムスーをコップに注いで回る。パチパチという音がテーブルの上に響き渡る。音と共に弾ける泡から発せられる匂いはかなり甘い。糖度が高さそうなワインのようだ。ルイズが苦い顔つきをしながらそれを眺める。

 

「ねえ、キュルケ」

 

 空っぽになったビンに気が付いたメイドがすぐさまそれを回収する。フロア・アテンダントかとも思ったが、昼食時間帯だけのお手伝いといったところだろう。朝食の時間に見かけたメイドやフットマンがあちこちにいるのが見て取れる。

 

「なあに、ルイズ?」

 

 影の無いにこやかな笑顔でルイズに振り返るキュルケ。なぜだかいやそうな表情でルイズはその長身を見つめ返す。

 

「私たちって、こういう仲だったかしら?」

 

 キュルケの笑顔が凍った。

 メインを待ち切れずにもきゅもきゅとサラダをほおばるタバサは訝しげな視線を二人に送った後、我冠せずと咀嚼を続ける。イングリッドはイングリッドでそんな二人のやり取りを見て噴き出してしまう。

 

「なによ!」

 

「なんなの……もう」

 

 にししとばかりに笑うイングリッドを無表情でタバサが見つめる。しかし口の動きはとめようとしない。右手で次々にサラダを口に投げ込んでいくのも止まらない。

 

「いまさらだの。もう素直になっていいのではないかや、キュルケよ」

 

 小さく眼を見開いたキュルケの顔が赤く染まっていくように見えた。実際はそういう雰囲気なだけで本当に赤くなっているかどうかはよくわからない。彼女の体色はそういう機微を見せるには向いていないのだ。

 

「え……、その、あのね……」

 

 わたわたと手を振るキュルケはまったくの無意識でルイズと接していたようである。急に現実に帰って、自身の行動を振り返ったのだろうか。

 イングリッドがキュルケを認識してまだ数時間しか経過していないが、朝の邂逅からも授業中の行動からも、キュルケがルイズに、普段どう接していたかはある程度想像がついているイングリッドだった。恐らくは自分が原因で、キュルケがルイズに向かって積み上げていた壁を無意識かつ一方的に崩してしまったのだろう。彼女はこれから壁を作り直すのだろうか?

 

「え……なに?なんなの、この雰囲気」

 

 思いっきり顰められたルイズの表情がある意味微笑ましい。そこに暗い感情は無い。むずかゆい空気に純粋に困惑するばかりのルイズ。

 そこにワゴンを押したメイドがやってくる。

 

「パリヌルスの香草焼きと、小魚の揚げ物付け合せです。4人分でよかったでしょうか?」

 

 気勢をそがれたルイズは作り笑いを浮かべてメイドに相対する。キュルケはあからさまにほっとしたようだ。タバサは喜色満面といった面持ちだ。雰囲気だけだが。表情は鉄面皮のままだ。鼻腔を強く刺激する香りが心地よい。

 イングリッドは耳にした事が無い海老の名前を聞き及んで頭を捻る。40センチはある巨大な海老は腹を裂かれて茶色く染まった中身を露にしている。褐色の身に様々なハーブが絡んでいるが、海老自体の香りは損なわれていない。かなり高度な調理が施されている。

 だからその正体が分かってしまった。

 

 イセエビかよ!

 

 椅子の上でへなへなと姿勢を崩してしまう。

 

 イセエビだよイセエビ!40センチだと!でかいよ。大きいよ。巨大だよ!髭も立派だよ!色も見事だよ!

 一度湯に通してから焼いてるねっ。衛生面からだろうかねっ!生簀なんて無いだろうから、湯に通して置いておいて、客に出すときに火を通して焼くんだろうね!面倒だね!安全だね!おいしそうだね!ロブスターじゃなかったんかいっ!ロブスターじゃなかったんかいっ!!ロブスターじゃなかったんかいっ!!!大事なことなので3回言いました!!

 

 硬い視線で、ぎこちなくルイズを見つめてしまう。いろいろと心配になってしまう。主に値段的な面で。

 

「る……ルイズや」

 

 大きくは無いテーブルの上でアレコレと置かれたプレートを退けながらルイズがメインデッシュを受け取る。恐縮するメイドから受け取った皿を手にした瞬間の、僅かな沈み込み量から結構な重量があることが見て取れる。

 

「なあに、イングリッド」

 

 ルイズは受け取ったプレートをタバサに手渡して、別の一皿を受け取る。タバサは「よっこいしょ」とばかりにその皿を身構えて受けとっていた。キュルケは自分の分を勝手にワゴンから両手で取り上げてさっさと自分の前に置く。ワゴンから続いてスプーンを手にしようとしてた。メイドが慌ててそれを制して食器を用意し始める。

 ……メイドが両手で抱えたプレートを、ルイズは片手で受け取った。それで、特に困った風にも見えなかった。

 あまりに自然な動作だったので見逃すところだった。だが、それにはイングリッドも仰天してしまう。

 それになにかを思うところもなさそうなルイズは、キュルケを見咎めて唸った。

 

「キュルケ。行儀が悪いわよ」

 

 むーと不満そうに頬を膨らませたキュルケは、髪をかき上げた。

 

「いいじゃない、これくらい。マナーなんてうるさく言う人はいないよ」

 

 ルイズの目が尖る。片眉が跳ね上がった。

 

「私が言うのよ!」

 

 タバサがそれを見て取って、キュルケと同じようにごく僅かに眉を上げる。

 

「面倒」

 

 ポツリと出た言葉にルイズの口元が歪む。

 そこから騒動が起きるかもしれない状況を察して、それに巻き込まれぬようにとイングリッドの後ろに回ったメイドは、こっそりとイングリッドの分を素早くその前に置いた。頭を下げてそそくさとその場を離れる。ただ、イングリッドの心中はそれどころではなかった。

 

「いやいやいや、ルイズよ。昼まっからコレを頼んで財布は大丈夫なのかや」

 

 心なしか青褪めた表情を見せるイングリッドの様子に気が付いてルイズは首を傾げた。キュルケも不思議そうにイングリッドを見つめる。タバサもひとしきり首を捻って、ふと、何かに気が付いてぼそりと口を開いた。

 

「確かに安くない」

 

 ルイズとキュルケがその言葉に反応して互いに顔を見合わせてタバサに視線をやり、次いでイングリッドに視線を移した。

 

「イングリッドが選んだんじゃない……」

 

 イングリッドは慌てて両手を振った。

 

「違う。違うんじゃルイズよ。置いてあった見本は色も香りもおちておったから、我は我の知るもっと庶民的な海老の料理だと勘違いしたんじゃ!」

 

 えっ!と驚いた表情を見せるルイズとキュルケ。引き攣った表情で恐る恐る海老に顔を近づけるイングリッド。いろいろなハーブの匂いに負けずに間違いなくイセエビ特有の濃縮された動物性プランクトンを主とする香りが彼女の鼻に襲い掛かる。やっぱりイセエビだよね、コレ……。

 

「へー、平民はこんなに大きなパリヌルスモドキの海老を食べることがあるんだ」

 

 純粋な好奇心を顔面に浮かべて、キュルケが笑みを浮かべてイングリッドを見つめる。

 ルイズはルイズで若干複雑な表情を浮かべている。

 

「そういえば平民には手が出るようなモンでもなかったわね、コレ。コレを選んだ時点で気が付くべきだったかしら?」

 

 いぃっ!と驚愕に表情を歪めるイングリッド。ルイズが苦笑いでそれに応える。

 

「2人で毎日食べたら流石に月末に苦しくなるかもしれないけど、たまになら大丈夫よ」

 

 大丈夫なのかいっ!!毎日食べても「苦しい」ですむのかいっ!!すかんぴんになって困らないのかいっ!!

 

 どこまで、いつまで驚かされ続けるのだろう。イングリッドは自分の神経がどれだけの間、保てるか心配になってきた。割と早い段階で発狂するかもしれない……!

 

 キュルケも苦笑いを浮かべた。

 

「そうよね。平民の感覚からすれば、昼間にパリヌルスが普通にレストランに置いてあるなんてことは無いモンね。確かに迂闊だったかも」

 

 タバサがフォークでイセエビの身をつつきながらうんうんと頷く。

 

「学院ならでは」

 

 解された身を口に運んで幸せそうな表情が一瞬、本当に一瞬だけ浮かんだのが視界の端に見えた。イングリッドは驚いてタバサの顔を見つめてしまう。

 イングリッドだけでなく、キュルケもルイズも、一瞬のレアな光景に気が付いていたようだ。3人でまじまじとタバサのポーカーフェイスを見つめてしまう。そういえばこの世界にはポーカーというゲームが存在するんだろうか?寮塔1階の応接室にはゲーム・テーブルがあったからカード・ゲーム自体はあるんだろうな。

 混乱が抜け切らないイングリッドは意味不明な思考を頭の中で振り回してしまう。

 教室で相対してから、ごく僅かな時間しかタバサをうかがうことが出来なかったイングリッドだが、この小さな体躯の少女が、酷く歪な思考を抱えて頑なになっていることだけは気が付いていた。

 彼女が表情を固定して崩さないその様は彼女なりのなんらかの防衛本能の発露であると思っていたが……歳相応の小さな笑顔は眩しかった。その記憶だけでこれから食する料理の味が三割増しになるのではないかとすら思えた。

 

 結局は、そのイセエビをいただいた4人である。出された食事を残すのは罪である。ましてや自分で選んで注文した料理なのだ。食べ残すことはありえない。

 マナーがどうとかという意味でなく、ある時ある瞬間に、食べられるものを食べるという行為が存外に難しい事なのだという実感がイングリッドにあるからだ。

 昔に比べて劇的に改善されたとはいえ、今でも地球では、財布に必要なものが入っていれば必要な食べ物が得られる地域というのは多くない。自身が生活する上でも、自身が闘争に身を置く立ち位置にあるという点からも一食一食に大いなる感謝を得ることは自然なことだった。極東の一部地域で使われる、様々な意味のこめられた食事にささげる感謝の言葉「イタダキマス」は、イングリッドの大好きな言葉の一つである。

 

 ちなみにイングリッドの所感では「【不確定名称:イセエビ】の香草焼き」は大変おいしゅうございました。他の3人を見てまわしても大満足だったようである。

 

 

 

 支払いの段になって、激しく目を背けたくなったイングリッドだったが思い直して3人がどれほどの金額を支払うのかを見届けようと向き直った。それもまた、ハルケギニアを考察することに対する一助になるといいなー、と若干後ろ向きに考えたからだ。

 

 自身が予想するよりも強い視線がルイズに向いていたらしかった。ルイズがイングリッドの視線に気が付いて小さく微笑む。

 

「大丈夫よイングリッド。『使い魔』に十分な食事を取らせるのもメイジの責務。あなた……イングリッドに支払えなんて言わないし、私がイングリッドの支払いを立て替えた、なんて思わないでね」

 

 

 その時、ルイズの内心は喜色満面だった。ルイズが持っている金銭が自分が稼いだお金でないことは重々承知していたが、貴族に限らず、自分達が夫婦の営みの結果として生まれ出でた子供に対して、それが独立した生活能力を得られるまでの間、独立を勝ち取るまでの教育と、生活援助を継続することは貴族以前に人間としての責務であるというのがルイズの持論だ。

 現実の要求の結果として、そうではない、そうならない状況があることも知ってなお、そうであるべきであり、外部がどうあれ、いつか訪れる未来で自分がそうあるべきだと信じている。

 よって、今ここで支払いを行う金銭に対して、気後れする事は無かった。

 無駄使いは戒められるべきことであったが、必要なときに必要なだけ必要と信じるべき金額を使うことに葛藤は無かった。

 

 それ以上に、今ルイズを支配している感情は、今までに一度も感じたことの無い喜びだった。まさか昼食一つでそんな慨嘆を得られるとは思っても見なかったというのが本音である。

 

 誰かに何かを与えられるだけの人生だった。友人らしい友人なんていなかった。姉妹も両親も家族であって、血縁者であって、それはそれとして大事で、一生をかけて守るべきものとして定めた存在で。だけど、そこにそれと同じくらい大切で大事な存在が加わることがあるなんて、実感として得られたことは唯の一度も無かったのだ。

 

 一度も、である。

 

 大概にしてルイズは不遇な人生を送ってきたのだ。

 人間が人間として生活を送る上では何の必要も無い魔法だが、あれば便利という程度で、無ければ無いなりに工夫もされようし、魔法が存在しなくても何とかなるのだろうという実感は、ほかならぬイングリッドの存在が証明していると感じ始めているルイズである。

 

 しかしルイズの立ち位置は違った。魔法の存在は絶対である。そういう出生だった。この世界に生まれ出でたその瞬間から、彼女が魔法を行使するのは必然だった。そして彼女はそれに対する能力に大いなる疑問符が付きまとった。

 これでは近しい立場に友人を得よというのが無理な話である。ルイズが家族以外の存在から孤立感を深めたのも納得だった。ヴァリエールの家の中では特に難しい立ち位置だった。

 

 貴族に仕える使用人は、貴族個人に奉仕する前に魔法を使う人間に対して仕えるという前提が会った。ハルケギニアでこの考え方は、個人の無意識に深いところで刻み込まれた絶対的真理であると言ってよい。イングリッドには理解しがたいことであったが、平民と貴族を隔てている現実には、貴族という立場、平民という立場以前に、魔法が使えるかどうかという1点が恐ろしいほどに深い溝を穿っているのだ。

 彼らに自覚があるかどうかは疑問な部分もあるが、魔法を使えると言う事には、単純に技術の有無以前の問題として、始祖ブリミルに祝福された人間とその他という区別があるのだ。

 

 これは恐ろしいほどにこの世界を縛っている。

 

 うっかりすれば、魔法を使える人間がその他の人間を排斥に走ってもおかしくないほどの差別を生みかねない、厳然で冷酷な事実なのだ。ハルケギニアの歴史に於いて、そういった惨劇が発生しなかったのは僥倖であったといえる。単純に魔法を使える人間の絶対数が少なかっただけかもしれないが。

 つまり、現状、魔法を使える者が貴族、そしてそれに仕える使用人というのはある意味、始祖ブリミルとそれに連なるものへの奉仕という一側面があるのだ。実感がどうあれ、この世界で平民が貴族に頭をたれるのは、地位の違い以前の根源的な問題なのである。

 

 そこに、ルイズ。という存在である。

 

 ヴァリエール家に仕える使用人がルイズという存在に対して大いに困惑したことは間違いが無かった。人間的な感情以前の部分からやって来る思考が、ルイズの立場を非常に難しいものにした。これでルイズが目に見える形で両親からの愛情を得ていなければ、ルイズの幼少期は悲惨極まりなかったであろう。もしも失敗魔法を、失敗ではない方向に向けていれば大惨事だったに違いない。

 そうはならなかったのは、或いは、使用人たちがその可能性に気が付いたからかもしれないし、それ以前に、ルイズを取り巻く家族達がルイズに注いだ愛情と教育がルイズをそういう方向性に導くことを許さなかったのだという結果があった。

 しかし、ルイズがヴァリエールの土地で孤立していたことには間違いが無かった。使用人たちは腫れ物を扱うような風であったし、ヴァリエールの領民はルイズに対してどう接すればいいか分からなかった。

 ルイズという存在が直ちにヴァリエール家への疑問に繋がらなかったのは、ヴァリエール家の歴代当主の政治手腕がたいしたものであった証左であるのだが、それはルイズ自身への慰めとはならなかった。

 よってルイズの今までの一生とは酷く寂しいものになっていたのだ。

 

 そこにイングリッドである。

 

 彼女を『召喚』という形を持って()()したのだという負い目はルイズを苛み続けている。恐らくは一生涯を持って担ぐべき原罪なのだろう。ルイズはそう思っていたし、そう信じていた。彼女はこの思いを誰にも悟られることの無いように、一生心に押し込んでいくのだと誓っていた。

 しかし、だからこそ、イングリッドの生活を守る、イングリッドと共にある事こそがルイズの責務だと信じた。そうすることが現在、ルイズの存在理由だとでもいうように。

 だから、今の今まで注がれてきたモノを、受け渡すことが出来る存在としてのイングリッドはルイズにとってあまりにも特別なモノだった。

 

 ルイズにとってイングリッドは、あまりにも複雑な立ち位置だった。それを説明できるとは思わなかったし、説明して回る事も思いつかなかった。心の奥底に押し込めて、いつかブリミルの前で懺悔すべき内容だと思っていた。

 

 そこまで考えて、思考は最初に返る。

 一瞬で走馬灯じみた思考を弄んで、実際には、今のルイズの身を震わせるのは児戯にも似た喜びだった。

 

 誰かに『奢る』。

 

 この行為がコレほどまでに快感だとは知らなかった。

 

 物語とか歴史書とか、誰かの日記だとか、ルイズが読み漁ってきたいろいろな書物で示された人間の性癖の中に、ルイズが納得出来ない、理解できない人間の性癖の一つとして、やたらと誰かにモノを贈り、奢り、終いには自分の生活すら投げ捨てて散財し、路傍で果てたという描写があった。

 理解できなかった。

 そして、今、理解した。

 何という快感。

 何という愉悦。

 しかもイングリッドである。

 

 彼女は無一文なのだ。そうしたのはルイズ自身の責任だという感情はあったが、それを脇に寄せてしまえるほどに、イングリッドが自身を頼る以外に他無いのだという事実は、ルイズにある種の嗜虐感を沸き立たせた。

 ルイズの本質は他人に痛みを与え、痛みを負わせることから喜びを得ることなのか。唐突に湧き上がったその疑問すら愉悦だった。

 

 

 突然ルイズの顔面に現れた不自然な笑みにイングリッドはぎょっとしてしまう。ほんの刹那の時にルイズの中に途轍もない葛藤が流れて消えたのだとは誰にも想像し得ないことだった。だから、ルイズの笑みに理由を見出せる者など存在するはずも無かった。

 

 イングリッドの仕草に気が付いて、キュルケとタバサが振り返る。その手にはメモが握られている。先ほどの食事の内訳が書かれているのだろう。みんなで適当につまんだサイド・メニューをどう支払おうか話し合っていたのだ。

 彼女達が振り向いたときにはルイズの笑みは柔らかなものに変化していた。2人はイングリッドの態度に首を捻る。イングリッドは冷や汗を拭って、まじまじとルイズを見つめてしまう。ルイズは小首を傾げた。

 勘違いであったのだろうか?

 

「……有難う」

 

 なんとかその一言を振り絞ったイングリッドだった。

 その言葉に満面の笑みを浮かべて応えるルイズ。

 

「どういたしまして」

 

 支払いに関して3人でアレコレと悩む。ルイズが最後まで強硬に、自身とイングリッドの分を支払うのだと譲らなかったが、キュルケと、驚くべきことにタバサも、等分に分けて支払うのだと押し切ってしまった。結構な時間を経て、強引に納得させられたルイズが不満を持ちながらも金貨を20枚近く差し出した。

 キュルケとタバサも同じだけの金貨を出す。

 支払いカウンターの上に積み上げられた金貨を係りの者が数える。イングリッドを酷く困惑させることに、そこには機械式のレジスターが存在した。

 初期のタイプライターのようにボタンを押すたびに大きな音を立てながら、ジャーナルを打ち出して金額が出てくる。計算機能もついているらしい。ジャーン!と音を立てて、長く打ち出されたジャーナルが床に向かって垂れ下がる。

 ジャーナルの印字部分の基部につけられたカッターを左右に素早く動かすと、紙が断ち切られて、それが係員の手元に残る。そこに印字された内容とカウンター上に金額を見比べて、ドロワーからつり銭をつかんで数えた。

 

 いくつかの銀貨が差し出されて、キュルケが受け取る。

 その少なくない量の銀貨をどう配分するかでまた一つ揉めた。ここではルイズが押し切って、全額タバサとキュルケで分け合うことになった。

 あからさまな不満を浮かべたキュルケが銀貨を等分にしようとして一瞬硬直し、いやらしい笑みを浮かべて3等分にすると、自分の財布、タバサの手のひらと銀貨を分けて一山、手元に残ったものをイングリッドに差し出した。

 

 ルイズが眉を跳ねさせる。タバサが首を傾げた。支払いの騒ぎの間中、まったくの蚊帳の外にあったイングリッドは唐突に自身に注目が集まったことに狼狽する。

 

「う……なんじゃ、これわ」

 

 変な発音でキュルケに尋ねてしまう。

 

「はい、お小遣い」

 

 ルイズは目を吊り上げて、タバサは目を背けた。イングリッドは目を点にしてしまう。

 

「はあ……何ということでしょう。我は子供かや」

 

 ルイズが頭から湯気を立ててキュルケの前に割り込んだ。

 

「なによそれ!あてつけ?あてつけなのね。私に対する侮辱かしら!」

 

 大声をあげたルイズに笑みを浮かべて、キュルケが「まあまあ」と宥める。

 

「違うって。もともとはあなたの分よ、これ。受け取らないなら、イングリッドに渡したほうがいいと思ったの」

 

 こめかみをひくつかせてルイズが更に言い募ろうとするのを制して、ルイズの顔の前で指を振るキュルケ。

 

「あなたからイングリッドに渡したの。これ。そういうことにしときなさい」

 

 歯をぎりぎりと鳴らしながら一歩下がるルイズ。イングリッドは笑う前に感心してしまった。キュルケの行為をなかなか良い落としどころを見つけたものだと納得してしまったのだ。それ以前にルイズをからかう部分が大きそうだったが。

 

 頭を掻きながら、左手でそれを受け取る。手のひらに乗せられた思ったよりも多い銀貨を眺めて呟く。

 

「我は価値を知らんのだが……」

 

 「えっ」とキュルケがイングリッドを見つめる。タバサも振り向いた。ルイズは慌てて話に割り込む。

 

「だだだだだ大丈夫!明日、明日ね!トリスタニアで買い物するから!そのときに教えるから!」

 

 その言葉でニヤリとするキュルケ。しまったと口に手をやるルイズ。

 

「明日。明日ね。聞いたわよ。聞いたわ。タバサも聞いたよね?」

 

 タバサがこくりと頷いた。眼鏡を「くいっ」と押し上げる。

 

「明日。トリスタニア。買い物。イングリッドと」

 

 文節を区切ってはっきりと応える。

 ルイズは一瞬、表情を紅潮させて肩を怒らせたが、溜息をついて肩を竦めると、もう一度深い溜息をついて頭を垂れる。

 

「ああ……仕方がないわね。失敗だったわ……」

 

 小さな声で呟いた。

 

「荷物持ちができたと思うか……」

 

 その言葉を聞きとがめてイングリッドは噴き出した。だが一瞬、首を傾げると、何かを思い出して次の瞬間、あわててルイズに詰め寄る。

 

「まて、それは我の仕事であろ。我の仕事を他人に押し付けるでないぞ」

 

 キョトンとしたルイズは次の瞬間噴き出して、イングリッドの肩に手を置いた。

 

「だいじょーぶだって。ちゃんと期待している。精々働いてもらうんだからね!」

 

 それに笑みを返してイングリッドも肩を竦めた。

 

「働かしてもらおうではないか」

 

 向かい合って笑いあう。

 キュルケも小さな笑みを浮かべてタバサを見下ろす。

 

「仲いいよね」

 

 タバサも頷いた。

 

 

 簡易食堂を出て、4人はゆっくりとした足取りで外を目指した。午後の授業まで一時間は余裕がある。教室掃除をしていたときに感じた外の風景は春本番といったところで麗らかな日差しが心地よく感じられた。割れた窓ガラスから吹き込んで強制的に押し付けられた空気ではなく、実際に地面に立ってそれを感じたいと、ルイズたちはなんとなく思ったのだ。

 この時期は、どうせつまらない授業の連続なのだ。ルイズの性格上、サボることはありえないが、だからと言って教室で望んで缶詰になりたいという思いがあるわけでもない。

 4人は、特にキュルケは、午後に発生するであろう睡眠欲との激しくも熱い激闘に身を震わせて、まずはリラックスしておきたいと思った。

 教育棟の裏手、聖堂のほうで大勢が巻き起こす騒ぎが聴こえるが知らない振りだ。きっと新入生相手に教職員が大騒ぎをしてるのだろう。

 そういえば彼らは朝食の時のも大騒ぎだった。彼らが遠慮していれば朝食の祈りでサヴァティエ・マーテル・ラ・カステン・ジョーレキべリ君とやらもあれほどの辱めを受けることも無かったであろうに。昼食が遅れているのは時間が押しているのだろうか?やたらと簡易食堂が混雑しているのはもしかしたら、1年生が集団食堂で騒ぐ可能性を嫌った人間が多かったからかもしれない。イングリッドが眠りこけている間にも彼らの悪行はあったはずだから、そういう選択肢を取る者がでるのも当たり前であろうと思う。

 

 魔法の光で照らされる廊下を歩きながら、イングリッドは貨幣単位に対する簡単なレクチャーを受けていた。

 明日、実際に使用するに当たって現地で教える、とルイズは強弁したのだが、それじゃあカモにしてくださいって言っている様なもんよ、というキュルケの言に一理あると納得したのだ。

 

「下からドニエ、スゥ、ダカットね」

 

 ルイズが財布から銀貨と金貨を取り出し、イングリッドに見せる。

 キュルケが補足する。

 

「銅貨、銀貨、金貨と言い換えてもいいわ」

 

 それに頷いてイングリッドは銀貨を手にする。なかなか銀の含有量の多い、いい品質の銀貨だった。ついで、金貨を手にする。光に当てると、イングリッドにだけ分かる理由により、酷く混ぜ物が多いことがわかる。

 

「むう、これで通貨として流通しているとはな。かなり強力な圧力が無ければ、額面どおりで流通させるのは難しかろう」

 

 ルイズ、キュルケ、タバサの3人は、イングリッドの見立てに驚く。3人で顔を見合わせてしまう。

 

「よくわかったわね……」

 

 イングリッドは眉をひそめた。

 

「やはり、か」

 

 ルイズは神妙に頷いた。

 

「ダカットって言うのはね、ゼッキーノ金貨って言われる、ロマリアで発行されたお金なの」

 

 イングリッドは「ふんふん」と頷く。

 キュルケが肩を竦めてあさっての方向に視線を向けた。

 

「ロマリアって言うのは、始祖ブリミルにとっての聖地で総本山だからね。ちょっとむかしまで、普通に流通していたフローリン金貨っていうのを、始祖に対する尊敬がないって言い出してかき集めて、代わりに発行されたのがコレなのよ」

 

 何がおきたのか、だいたいは予測が付くイングリッドだった。

 

「貨幣価値が混乱したのだな」

 

 タバサが頷いた。

 

「迷惑した」

 

 極めて単純化された感想にキュルケとルイズが噴き出す。

 笑いながら、ちょうどいい高さにあるタバサの頭を思わず撫でるルイズ。

 

「知らなかったわタバサ。あなたって辛口だったのね」

 

 キュルケも笑って答えた。

 

「おかげでドニエの価値が下がりすぎちゃってね。平民はスゥの利用が一般的よね」

 

 それをうけてルイズがイングリッドのほうを向く。

 

「一応ね、10ドニエで1スゥ。1000スゥで1ダカットってことになってるんだけど」

 

 キュルケは腕を組んで唸る。

 

「ここ数年の為替だと、750スゥで1ダカットってところよね」

 

「ややこしいの」

 

 キュルケが自分の財布からいくつもの銀貨と金貨を取り出す。

 

「こっちのちっこいのが1スゥ。これが10スゥ。こっちの大きいけど薄っぺらいのが50スゥ。トリプルシルバーって言われて、一番使用量が多いと言われてるわ」

 

 ルイズが残りの銀貨をキュルケの手から取り上げた。

 

「こっちの分厚いのが100スゥ。トリプルシルバーに次いで使う事が多いわね。こっちが500スゥ。大きくて重いし、額面も大きいけど、贋物が一般の平民市場に多く出回ってるから、貴族社会ではあまり使われないわ」

 

 キュルケは金貨を持ってイングリッドに見せる。

 

「さっきルイズが出してたのもコレ。1ダカット金貨。でも、この金貨に関しては500スゥとして使うのが一般的」

 

 ほら、と、イングリッドに押し付ける。

 

「見て、これ。ふちを削る馬鹿が多いのよ。金は薬に使ったりすることが多いから、手っ取り早くゼッキーノ金貨をつぶす奴が後を絶たないのよ」

 

 ルイズも頷く。

 

「だから1ダカット金貨は、1ダカットってだれも言わないの。私たちも金貨っていうつもりで使っていないの。これは」

 

 ルイズがそれを親指で弾いた。

 歪な形のそれは、空中で不規則な回転を見せて、ルイズの右手に戻る。

 

「通称ロマル。500スゥ銀貨の代わり」

 

 イングリッドは溜息をついた。

 

「めんどくさいの」

 

 ルイズは小さく頷く。

 

「私が直接体験したわけじゃないけど、コレの発行で、ロマリアの権威は酷く揺らいだそうよ」

 

 だよねーと、苦い笑みを浮かべてキュルケが笑う。

 

「もっと大きな額面のゼッキーノ金貨もあるみたいだけど、見た事無いね」

 

 イングリッドは呆れて息を吐いた。

 

「なんじゃ、それは。それでは750スゥで1ダカットといっても意味がないではないかや?」

 

 3人とも頷く。「はぁ?」とイングリッドは首を傾げた。

 

「ほら、私はトリステインの国民じゃないからさ、実家からお金を送ってもらうときに為替って結構重要なのよ。だからある程度は知ってるの」

 

 そう言いながらキュルケはタバサに視線を向ける。タバサも頷いた。

 ルイズは苦い笑みを浮かべる。

 

「キュルケの国、ゲルマニアっていうんだけど、そっちじゃ、結局、銀貨が基軸通貨扱いで、その上はフローリン金貨が出回ってる」

 

 ああ、とイングリッドは納得する。

 

「ん、つまり国際的にはゼッキーノ金貨が交換通貨だから、価値の変動が問題になると?」

 

 3人が頷く。

 

「ロマリアの顔を立てることも大事だから、面倒だけど、国境を跨いだ取引はゼッキーノ金貨を使うのが建前なのよね」

 

 キュルケが顔を傾いで両手で天を仰ぐ。なかなか様になる仕草だった。

 

「国内で普段使う分には銀貨で十分だし、貴族間の取引もフローリン金貨、エキューっていうんだけど、わりとおおっぴらにそっちでやってるのよ」

 

 呆れた顔でルイズを見つめるイングリッド。

 

「なんじゃそれは。ロマリアとやらの権威はたいしたことが無かったんじゃの」

 

 んー、と、ルイズが唸る。

 

「一般的な平民の市場からはエキューは完全に駆逐されたといってもいいわ。でも、もともと貴族は大量のエキューを溜め込んでいたから、そんなに困ってもいないのよ……」

 

 キュルケもタバサも頷く。

 

「レオ・アフリカヌス開発運動の頓挫で、その後、どこの貴族も大量のエキューを市場に放出したから結局、流通に影響は無かったのよね」

 

「それでよくもまあ、ゼッキーノ金貨が駆逐されんの」

 

 ルイズは難しい顔をするがキュルケは鼻で笑った。

 

「ロマリアがせっせとゼッキーノ金貨を造るから。価値はどんどん下がる一方よね」

 

 キュルケは手の上で1ダカット金貨を弄ぶ。

 

「国内で使う分には、500スゥです、で、すむけど、お約束、見たいなもんだモンね。いつまで通用するかしら」

 

 イングリッドも肩を竦めてしまう。

 

「これでエキューとやらに贋金が出たら、市場は大混乱じゃの」

 

 キュルケとルイズが顔を顰める。タバサも心なしか硬い表情だ。

 

「それ、やりそうなところがあるのよねー」

 

 半ば冗談で言った言葉に思ったより深刻な内容の言葉が返って、イングリッドは絶句してしまう。

 やや強めた視線で、ルイズ、タバサ、キュルケの順番で視線を向けてしまう。

 3人に大きな身長差があったため、首が大きく動いてしまった。それとともに、大きく扉が開かれた集団食堂の入り口、アルヴィーズの食堂の前で足が止まってしまう。

 

 その話は流してしまってよいものかと、イングリッドは躊躇してしまう。この手の通貨問題が紛争のきっかけとなったことは地球の歴史でも少なくは無かった。それはつまり、イングリッドの守護対象であるルイズの安全に直結しかねない話題であるから、自然と視線が強いものとなってしまった。

 

 硬い表情のイングリッドに、困惑する3人。1人は変らない鉄面皮だったが、雰囲気には隠せない戸惑いが合った。イングリッドはルイズに一歩近づき、肩をつかみそうな勢いで尋ねようとした。

 

「それは……」

 

 その次の瞬間、何かが割れる音と共に、小さな悲鳴が上がり、それに続いて「どっ」と笑い声がアルヴィーズの食堂から響き渡った。

 4人は顔を見合わせて、それぞれに困惑して食堂の中を見る。

 悲鳴の主に聞き覚えがあったからだ。

 


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