トリステイン魔法学院の、実務面での責任者であるオールド・オスマン。
コルベールと言う名の冴えない外見の男性が彼に見出されて20年が過ぎ去っていた。
20年。
オスマンとの出会いの前に、すでに人間としての華やかな部分は殆どが失われていたコルベールである。だが、そこから踏み込んだトリステイン魔法学院の20年は、失意と挫折と失望と共に隊列を組んで行進した20年であった。
ある時、その時。
折に触れて先への希望が見えたような気がする瞬間があった。しかし、それを振り返ったときに見えたのは、それらが単なる願望から来た妄想であったということだった。自身を人ならざる道へと引き込んだ自分自身の過去の経験から振り返ったとき、随分と浅ましい思考をしたものだと慨嘆するばかりである。
しかし情け無いことに、刹那の忘却を経て希望らしきものを見出すことを繰り返して20年。なんど頭を垂れた事か。
もはや嘆息することも忘れたコルベールは或いは、忘れ、繰り返すことこそが人間としてのありようなのかと思い始めていた。
だとしたらなんと愚かしいことなのか。
コルベールが心身をすり減らしていたとき、コルベール自身がその自身と人間と言うあり方に絶望を見出したときに彼自身が迷い込んでいた場所は、愚かであることこそが人間であるというのならば、という薄暗い思考の迷路だった。
教師という制限された立場を持って、ルイズとのささやかな交感。そして、ルイズの生き方に触れ、なお絶望し、そして刹那の希望を得て、その将来に輝く未来を幻視した今。あるいは幾度目かとも判らない絶望にまた囚われるのかもしれないという恐怖に脅えつつ、コルベールはオールド・オスマンの元に走っていた。
二つ名、『炎蛇のコルベール』。『炎』のエレメントに優れ、強力な『火』の魔法を操る彼は、そうであるが故に黒い世界に触れ、そして世界に絶望した。オスマンという存在は或いはそこから自身を救い出し、導く希望であったと幻視した事もあったが幻は幻。単なる幻想であった。しかし、今は感謝するべきではないかとごく僅かに思い始めていた。オールド・オスマンの本心がどうあれ、ルイズと言う存在に出会えた僥倖は間違いなくオスマンの存在あればこそだった。怠惰と、惰性と、そして、ホンの僅かの義務感の中で、辛うじて奉職して来た教師という立場であったが、今、コルベールはその職の本文に立ち返っていた。
『春の使い魔召喚』に於いて発生した尋常ならざる事態で、ルイズが呼び出したその結果。彼はそれを無視することは出来なかったし、それをないがしろにして忘れられるほどにも無責任ではなかった。
教師としての経験のみならず、人生で得た経験のすべての面から言っても、使い魔召喚で人間が呼び出される事態と言うのは単なる空想であって思いもよらない絵空事であった。
そう思っていた。
彼の記憶の中には、華やかならざる世界を生きていたからこそ読み解いた文献もあったが、そういった表に出ない資料の中にさえ、人間が召喚される事態というのは臭わされる事すらなかった。使い魔として人間が呼び出されるなんていう事はありえない、しかし突きつけられた現実の結末。
無意識にその結果たる『使い魔』に投げかけたあの言葉は、彼女達が気が付くことの出来ないほど深い場所から引き出された、コルベールの経験から導き出された、本心からの推測だった。無意識に口をついて出でたからこそ、彼女たちはそれが意図する深い感情に気がつかないでいた。
あの、存在が、立ち位置が複雑な出自を持つルイズが、それに気が付いていたら。使い魔として呼び出された、あの存在が、あり方が複雑にして怪奇なイングリッドが、それに気が付いていたら。
あの場所でのイングリッドと交わされた、2人きりの会話は厳しいどころの話ではなくなっていただろう。彼女は、悪意、嫌悪、哀しみ、憎しみ。そういった感情との衝突に慣れ、敏感に察することが出来たが、そうであるが故に、逆に無意識で放たれる感情の発露に対して疎かったのだ。
それはコルベールにとって幸いであったしイングリッドにとっても幸いだったかもしれない。得られる情報に限りがあって、得た情報の真偽すら確かめる術を持たない状態で、コルベールを信じるに値せずと断じていれば、情報源があたら失われる事態に繋がったかもしれない。不幸中の幸いだったと言えよう。
コルベールは
彼の無意識が囁いた。あれは捨て置いて良いモノではない。
ルーンに対する知識の出所は、教職としての時間の中からであったが、それに囁いた彼の無意識は、20年間押し隠してきた彼の深遠の底から湧き出たものだった。無視できるはずもない。
新任教師として翌日から教鞭を執ることになっていたシュヴルーズに申し送りをしながら、夕食を機嫌よく採っていたとき、唐突にわきあがったその感情はコルベールを戸惑わせた。だが、その魂の囁きに従って彼は、その足を走らせた。突然存在を忘れ去られたシュヴルーズも酷く戸惑ったが、彼女が人間としてそれなり以上に深い経験と、他人に対する洞察力を『持って』、人間として熟成されていたことは僥倖だった。彼女はコルベールの豹変に対し「あらあら忙しい人ね」で済ませてしまったのだ。なかなか『出来た』態度である。
コルベールは全ての仕事を忘れ去ってなげうって、図書館で必死に資料をあさった。一般生徒に明かされることは殆どないが、それゆえに忘れ去られているといっていい貴重な資料群にまでその目は向けられた。焦りと疑問がコルベールを苛んだ。
日を跨ぎ、いつの間にか知らずに完徹し、朝食を取るのも惜しいと調査を続行した。
しかし途中で思い直して、何かの判断材料になるかと朝食の場に赴けば、厄介なことがおきる寸前であった。やはり自身の勘が衰えておらず、それに従った自分の行為は間違っていなかったのだと納得して、もう一度、図書館に飛び込む。そうして調べて一時。
人間が呼び出されるなんてありえない。
使い魔。
その思考にとんでもない誤解、或いは矛盾が隠されていて、自身も含んだ大勢の人々が気が付いていない。或いは、意図して背を向けていた事実に気が付いたとき、彼は驚愕して走り出していた。
彼は今、右手にとある本を抱えて職員塔に走りこんだ。上を見上げて強い視線で先を見据える。朝の授業が始まったことで出入りが一服し、気が緩んでいた入り口を守る衛視は、尋常ならざる雰囲気のコルベールに恐怖した。昼街灯もいいところのコルベールをそうした視線で見ることは今の今までなかったが、本当の意味で実は彼が『昼間に忘れ去られた街灯』であったのかと思い直した。
消灯されることを免れて昼に光を放つ街灯を気にかけられる者は殆どいない。余りにも強力な光源である太陽の光に遮られて、認識できないのだ。しかしそれが弱い存在であるとは決して言えない。それが必要とされる夜間にそれが照らし出す世界は存外に広く、その光は唯見つけるだけであるならばその足元で見上げて想像する以上に遠くからも見出すことができる。つまり『昼街灯』とは必要とされない時と場所では知ることの出来ない優秀性を隠した人間に対する尊称なのだ。
あっけに取られてコルベールに視線を向ける衛視は、彼に対してそう思ってしまった。それほどまでに彼の雰囲気は普段と違っていたのだ。
コルベールは呪文を唱えると、浮かび上がり、一瞬の躊躇を経て猛スピードで唸りを上げて上を目指した。
彼が向かう先は学院長室。
学院長室は職員塔の最上階に位置する。本当はその上に係留設備などが収められた部屋があるのだが、使用頻度が低すぎて皆忘れ去っている。学院の意識では学院の活動の結果として湧き上がる煙を除けば、学院敷地内で最も高いところにいるのはオールド・オスマン。と、言う事になる。
オールド・オスマンの居室は広い。上に向かって絞られた円錐形とも言える職員塔だが、最上部に近いこの場所であってすら床面積は大した物で、何十人と言う人間が押しかけたところでなお余裕がある。
彼が普段腰を据えている執務室も広い。学院のすべてが運営に当たって必然的に吐き出す書類。そのすべてを彼が処理する必要があるわけではないが、最終的な決済を行うのはオールド・オスマンの仕事であり責務である。そうなってしまっている。
本当は全てを彼が処理しなければならないわけではなく、もう一人の責任者がいて、そちらがそれなり以上に書類の処理を行う必要があるのだが、それが機能していない。
それがために、オールド・オスマンの仕事は彼が仕事をするべきと定められた日、時間でこなすにはその量があまりにも圧倒的であった。それらを円滑に処理するためには執務室は必然的にそれなり以上の広さを必要としていた。
学院で生徒を教える必要性から湧き出る些事は、多岐、多種、多様に渡るため、彼は常に書類に埋まっている状態であるから、彼を補佐するためにそれなりに大勢の人間が彼の執務室に収まっている。彼らを養うための実務をこなすにはそれなりの使用人も必要であって、それにより職員塔の最上階における人口密度は高い。
常日頃におけるその場所の男女比が異常に女性側に傾いているのはその場における最上位者の思考を想像させるものであったが、オールド・オスマンの実務能力に関しては、彼が導き出す結果だけを見た場合、まったく疑いようもなかった。そうであるから、普段の執務中の折々に透けて見えるオールド・オスマンの人間性に対して愚痴る人間は数多くいれど、オールド・オスマンの実務能力そのものに文句を言う人間はまったく存在しない。その状態が100年以上続いているというのだから様々な面で大した人物である。
『愚痴』るだけで済まされて、職員塔最上部行きを本当の意味で拒む女性がいないのも、過去の実績が物を言っている。
外部からいろいろと言われることの多いオールド・オスマンだが、彼の元に発生元不明の幼児が出でることは知られている限りに於いてはなかったし、幼児を連れて「オスマンの子よ!」と叫び、押しかける者は少なくなかったりもするが、浅ましい思考を持ったそういう女性が学院に相手にされることがないあたり、本質的な面では強く信頼されているのがオスマンという人間のあり方であった。有能な実務能力と強力な地位を持った人間に対して擦り寄ったり、貶めようとする者が現れるのはある意味で有名税みたいなモノであったが、オールド・オスマンという個人に対して、本当の意味でスキャンダラスな事態が発生したことは殆ど無い。
この学院は学院そのものからして表裏の乖離が激しいが、その最頂部に居る人間こそがそれを身を持って体現しているあたり、学院を取り巻く複雑な問題をより鮮明にしているとも思われた。
この日、オールド・オスマンは普段どおり朝の早い段階から執務をこなしていた。昨日、夕刻から夜にかけては、普段ではありえないような些事が彼に押し寄せていたが、今日の執務に影響を及ぼすには至らなかった。
ルーチン・ワークから外れた突発事態に対応してなお、普段の生活リズムを大きく崩すことなく状況を進行させ得るのは、真実、彼が有能である証であるが、周囲に問題を知られること無く状況をこなす姿は、その有能性を寧ろ押し隠す方向に働いてしまう。よって、有能であればあるほど彼の能力が軽んじられてしまう。難しいところだった。
彼は、事務員が彼の部屋を訪れる前から「普段どおり」に前日の内に処理しきれなかった書類に目を通していた。
椅子に座れば床に着くほどに長く、それでいて見事に手入れの行き届いた白い口髭を扱きつつ、大して纏められてもいないのに彼の視線を邪魔しないように自らの意志で位置を整えているとしか思えない白く豊かな頭髪を揺らして、ゆっくりとではあるが着実に書類を処理していた。
重厚な拵えを見せるセコイアのテーブルは書類の頂に埋もれ、その谷間で彼の頭が揺らめいている。そんな風景だった。
決済が済んだ書類を持って部屋を出る職員と、決済を求めて書類を持ち込む職員はひきも切らない。
彼らの仕事、学院のあちらこちらへと往復する面倒を考えれば、オールド・オスマンが学院で最も高い場所に腰を据えている現実は害悪ですらあった。
しかし、大抵の事務員の生まれ出でるよりもはるかに昔よりオスマンが、ここに腰を据えているという事実は、まったくの疑うことの出来ない常識として彼女達に染み付いる。オスマンという人物が仕事を円滑に進めるに当たって不便を感じる場所に篭っているという事実は、疑問として考えられる事はない、強固な常識となって人々の意識にこびりついてしまっている状態だった。
この場所に、魔法を持たない人間が足げく通う。通わざるを得ない現実がエレベーターの少々無茶な設置の理由となっているわけだが、その便利な存在があるがために、オスマンをこの頂から引き摺り下ろす運動の発生につながっていなかったのは皮肉である。
エレベーターを待つ。エレベーターに乗る。エレベーターの中で待つ。このインターバルが、忙しい職員たちにとっての微かな休憩時間として重宝されている事実も、オスマンをことさら高い場所から突き落とす合理的動機への非合理的抵抗となっている面もあった。
執務室の扉はとてものことではないが閉めておく暇などなく、早朝と深夜以外でそれが閉められる事は、年末年始のごく僅かな期間しかないと皆知っている。つまりそれだけオスマンが勤勉で勤労なのだというのがトリステイン魔法学院に奉職する教職員の共通認識である。
翻って、トリステイン魔法学院に属する生徒達の認識は微妙で、そういった実務を知らない者達にとっては、オールド・オスマンという老人は、何らかの行事がない限り塔を出ることのない引きこもり。その程度の感覚である。
その生徒達からしか魔法学院内の情報を得ることが出来ない、貴族たちの認識もかなり微妙なものだ。
よって実務能力から言っても、その実力からしても、積み上げられた実績から勘案しても、決して甘く見ることが出来ないどころか、警戒すべき人間の筆頭として祭り上げられるべき人間であるオールド・オスマンの巷の評判は酷く歪んだものである。
執務室を出ることができない。出る暇も無い。それこそが真相なのだが、真実を知らない者の気楽な思考である。オスマン自身がそういった生徒の感想に対してことさら述べ立てることは無かったが、常日頃から書類と格闘している人々の間には忸怩たる思いがあった。
沈黙を尊ぶことが美学とも言いそうなオスマンの態度が教職員と生徒の関係を緊張させる材料の一つとなっている現状は、当事者の間では理解されていなかったのが皮肉である。
時には一日一本の割合で消費されることが在る羽ペンをインクつぼに刺して、首を回すオスマンは自室の喧騒に満足げに頷いて、見ていた書類を決済済みの箱に投げ入れた。
そこに即座に腕が伸びて、女性職員が走り去る。
翻ってはためいたスカートの奥に何かの存在を認めて、オスマンはうんうんと頷くと、自分の机の引き出しを開く。部屋付きのメイドが素早い動きで彼の机に近づいて彼の空になったカップを下げ、すぐさま新しいカップを用意する。湯気をくゆらすそれをオスマンの視線が通る範囲に、慎重に配慮して置くと、彼女自身は、また元の位置に戻る。それに気が付いている風もないオスマンは、口を開けた引き出しから水キセル一式を取り出した。
5つある秘書席のなかで、新しいがゆえに部屋になじんでいない席に座る女性が、書類に視線を落としたまま自身の手にした羽ペンを振った。
その動作の後に、僅かな躊躇の時間を経て水キセルが一式が空中をすべり、彼女の手元に降りる。その一連の流れに、少なくない数の事務員達が密かに溜息をついた。
常に顔に張り付いた微笑を絶やさないオスマンの眉がそれを見て僅かにはねた。そのまま水キセルの行き先に視線を向ける。
「年寄りの一服の楽しみを邪魔して何かうれしいことでもあるのかね。ミス・ロングビル?」
やれやれと肩をすくめて、彼はお茶を手にする。彼の腕は、迷うことなく自分のカップの位置に向かってそれを取り上げていた。
湯気を上げるそれに満足したように一瞬だけメイドに視線をやって、小さく嘆息する。
オスマンから視線を受けて、部屋の隅に控えていたメイドは小さく目礼を返した。
そのやり取りを無視して、ロングビルは手元の水キセルを乱暴にまとめてしまう。
「あなたの健康管理も私の仕事と理解してますわ。オールド・オスマン」
仕事熱心だが微妙に空気が読めない新任秘書と言う共通認識が執務室内に成就されつつある彼女が、自身の机の引き出しに水キセル一式をしまいこむ。
その様に苦い笑いを浮かべて肩をひそめるオスマン。
彼は行儀悪く、手に持ったカップから紅い液体を音を立ててすすった。
様々な気苦労が多いと見られているオスマンの気晴らしぐらいは多めに見よ。と、言うのがロングビル以外の職員の認識である。長年にわたって行われてきたその気晴らしの結果として執務室に染み付いた匂いは愉快なものではなかったが、そうやって長年にわたって行われてきた慣習をいまさら取り上げて健康管理もないだろうという意見が支配的である。人手不足は慢性的であるし、ロングビルという女性がそれなり以上に優秀であることは皆も理解していることではあるが、それ以上にオスマンの負担になっているのではないかという意見もある。
これで彼女が露骨に排除されないのは、ロングビルをここに連れ込んだのがほかならぬオスマン自身であると言うのが理由である。普通の経路をたどってここに勤めたものであったら、すでに叩き出されていただろう。
「仕事と言うものはひたすらに連続すれば良いというものでもないんじゃ、ミス・ロングビル。適度な休憩は効率を高めるよい塩梅になるのじゃぞ」
苦味の走った表情に僅かな諦観を載せつつ、紙の山脈から書類を取るオスマン。
彼の顔に刻まれた深い皺が、彼のたどった歴史の長さを語っているようである。その齢、200とも300とも言われるオスマンである。酸いも甘いも経験しつくしたその彼が、ロングビルと言う女性に苦笑いするばかり。彼女のどこに遠慮するいわれがあるのか、2人以外の職員は興味津々であったりする。
そうした微妙な空気は突然の闖入者によって破られた。開かれた扉から、突風をまとってコルベールが飛び込んでくる。
やにわに発生した場所をわきまえない嵐に、書類が飛び、多くの抗議と悲鳴が飛び交って職員が右往左往する。メイドたちも、飛び交う書類に手を伸ばしたり、お茶の注がれたカップに手をかざして書類のダイブが発生しないように自身の周囲を守ろうとする。
その修羅場にのまれ、小さく目を見開いているオスマンの表情も無視して、ことさらに大きな足音を響かせながらコルベールがオスマンの執務卓に歩み寄る。彼は勢いよくオールド・オスマンの執務卓の上に一冊の本を叩き付けるようにして置いた。その振動でゆれる書類の山の行方に、少なくない職員が声のない悲鳴を上げた。この部屋の住民しか知らないルールに沿って「整然と」積み上げられた書類の雪崩と、その後に続くかもしれない混乱を想像して顔を硬直させる。だが、幸いにして彼女達の想像する最悪の事態は免れた。
揺れが収まった山の前で場違いな姿を見せているコルベールに様々な感情が乗った視線が集中するが、彼はそれらの意識を無意識で跳ね除けて、オスマンに強い視線を向けている。ここにも空気が読めない人間がいるのだと職員たちは嘆息して、とりあえずはこなすべき仕事に集中することにした。
ざわめきが収まった部屋で、コルベールは重々しい声で唸るように声を上げた。
「……オールド・オスマン。大変なことが起きました。時間をいただけないでしょうか?」
コルベールの存外に厳しい視線に気が付いてオスマンは表情を作ると、顎の下で腕を組み、頷いた。
だがそれに続いて口を開こうとしたコルベールを制して、オスマンが口を開く。
「きみい。昨日からどこに雲隠れしておったんじゃ?」
むっとした表情をしたコルベールが抗議をしようとして口を開きかけたが、オスマンは構わず続ける。
「きみね。ミス・ヴァリエール君を気にかけるのはよいが、なーんも引継ぎし取らんじゃろ。ミス・ヴァリエール君関係でアレコレあった尻拭いをさせられる身にもなってくれんか?」
疑問を浮かべたコルベールにオスマンは苦笑いで返した。やれやれとばかりに首を振る。
彼の身体が後ろに傾ぎ、歴史を感じさせる椅子の背が、彼の体重を預けられてぎしりと悲鳴をあげた。
「医療室はほったらかしだし、朝食もなかなか取りにこん。来たと思ったら、なーんも言うことも無くミス・ヴァリエールを見つめるばかり。朝食が終わればすぐにどっかに走り去る。
ミス・ヴァリエールが知らん女を連れて歩きまわっとるとどれだけの報告があったとおもっとるんじゃ?」
ハッとした表情で顔を紅潮させるコルベール。呆れたような笑みを浮かべたまま大きく息を吐くオスマン。
「君の悪い癖じゃよ、コルベール君。一つのことに集中すると周りが見えとらん。ミス・ヴァリエールは微妙な立場にあるんじゃから、近くで見ていられる君がもっとフォローせんかい」
そう。コルベールは昨日に発生した出来事を何一つ誰にも報告していなかった。それによって発生したのは学院内での不審者騒ぎである。
医療室に誰かが寝ていることは知られていたし、召喚の儀で何かが起きていたことも大きな噂になっていた。
しかし、医療室の誰かは面会謝絶であったし、コルベールが監督していた召喚の儀の場で発生した事件は厳重な緘口令が布かれていた。よって真実は出所不明の無責任な噂で覆い隠されていたし、それらの出来事を昨日発生した不審者騒ぎに結び付けられる人間もいなかった。真実を見たのはルイズとコルベール、そしてメイドが2人だけである。
問題の、もう1人の当事者であるイングリッドには学院内で発生している話に対して配慮する手段もなければ、そもそも知る立場にもなかった。その立ち位置からいって、そもそも配慮する言われも無い。
よって授業中に注目を浴びて当然の行動を取ったルイズが、その夜に謎の人物を引き連れて学院内を練り歩いているとなると、召喚の儀で起きた事態を直接知っている30人を除けば、どういう類の噂でも立て放題、想像し放題と言う状況だった。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと言う少女がただ無責任な噂で笑うにはリスクの大きい家の子供であったから、対処は難しくはなかったし、キュルケのように積極的にフォローして回った生徒や、使用人側を押さえた2人のメイドもいたことで騒ぎは小さいうちに収めることが出来たが、単なる不幸中の幸いである。
何が起きそうになっていたか、何故そうなったかにすぐさま気が付いたコルベールは紅潮した顔を歪めて大きく腰を折った。
「……申し訳ありません!私が報告しないばかりにオールド・オスマンには……」
目を細めて笑みを深くしたオスマンは手をひらひらさせてコルベールの言葉を遮った。
彼は執務卓の上に身を乗り出して、コルベールに顔を近づけた。
「うむ。過ぎたことじゃ。次より気をつけるがええ」
どのような人間ですら安心させてしかるべきと思わせる「優しい笑顔」でオスマンが大きく頷く。コルベールは緊張した面持ちでそれに頷き返した。
「うむ。納得したようじゃな。で、君の話は何じゃったかな。コルベール君」
椅子の上で背筋を伸ばして腕を組むオスマンの姿は威厳があった。自分に向けられたものでもないのに、事務員たちは自然と背筋を伸ばしてしまう。そういう緊張感を成就する態度がオスマンにはあった。
「はい……」
気を取り直したコルベールが、自身が先ほど執務卓の上に置いた本の表紙をオスマンに見えるように立たせる。隠さない好奇心を見せるロングビルからは見えないように角度をつけてオスマンの身体に向かって押しやる。
それを見たオスマンが眉をひそめる。
「ほう……。これは……」
そこでいったん口を紡ぎ、身を乗り出して本を手にする。コルベールの配慮に気が付いていたオスマンは書類の山の間で本をひっくり返す。
彼は顔をコルベールに近づけて小さな声で囁くように問いかけた。
「『始祖とその使い魔達』……御伽噺の類じゃな。これが?」
侮れない鋭い感覚で、周囲に配慮を見せて声を細めるオスマンに舌を巻きながら、コルベールは黙って懐から紙を取り出す。
昨日、契約の場でイングリッドから見せてもらったルーンを後から思い出してスケッチしたものだった。
机の上に置かれたその絵を見て、オスマンは首を捻る。椅子に背を預けて、しばらく顎を扱いた。再度、椅子の背もたれが悲鳴をあげる。なんとなく静まり返って、2人に注目する職員たちの耳にその音は思った以上に大きく響いた。
刹那の間を経てオールド・オスマンが小さく頷き、小さく目を見開いた。
「……なるほど。君が取り乱すのも無理はないか……。ここではちと話せんの」
コルベールも頷く。それを見てオスマンは立ち上がった。
彼は首を振って、ロングビルに視線を合わすと、ゆっくり近づいた。
「応接室に行く。しばらく誰も入れるな。お茶もいい。2人だけにしてくれ。絶対に誰も入れるなよ」
普段とは違う鋭い目つきのオスマンに驚いたロングビルは反射的に頷いた。それを見て彼は満足げに頷くと、次いで執務室を見回す。
「忙しいところすまんの。そういうことだから応接室に行く。誰も来るでないぞ」
それからオスマンはコルベールに視線を合わせた。それにコルベールも頷き返えして、自身の持ち込んだ本を手にする。
威厳をたたえた重々しい足取りで、杖を手にしたオスマンが部屋を出て行く。それに同じく杖を手にしたコルベールが続く。
足音が遠ざかると、誰ともなく大きな溜息が漏れて、執務室から緊張が溶けた。