※細部を修正。
はるは、あけぼの。――枕草子のその一節は、あまりにも有名だ。
あけぼの、つまり曙とは、夜明けの際に空が明らんでくる時間を指す言葉である。
時間で言えばおおよそ五時頃、場所によって前後するにしても、春ならばそれから一時間足すか引くかが誤差であり。この日の曙――とある春の日の夜明けもまた、それくらいの時間だった。
閑静な、住宅街。一軒家やアパート、コンビニ等の施設が立ち並ぶ、ごくごく普通の通りの一つ。
現在の時刻もあって、そこに人影は殆ど見えず。もう数時間もすればちらほらと人も現れてくるだろうが、今この時見える影は、たったの一つだけである。
青いジャージを着用し、小刻みに息を吐きながら走っている、その人影。
年は二十を数えた頃であろうか、人が見れば悪い印象はそう持たれない程度の外見の青年が、その住宅街をジョギングしていた。
「……ふっ、ふっ。……はっ、はっ」
腕、と言うよりは肘を前後に動かし、一定のスピードを保ちながら走る青年。
明らかに走ること、体を動かすことに慣れているのだろう、少々早いスピードを保ちながらも全く息を乱す気配がない。さすがに汗はかいているようだが、表情は涼しげなものから変える様子も見せなかった。
それもそのはずであろう。実はこの青年、習慣として肉体のトレーニングを小学校時代から続けている、元は夢に青春を捧げた野球少年である。
小中高と運動を生活の第一としてきた彼は、プロになるという夢が破れ、大学で文系のサークルに入った今でも、昔からの習慣を忘れられず。朝のジョギング、そして夜の筋トレは、彼にとって生活習慣の一部であった。
「おっ、君か。精が出るねぇ」
「あ、おはようございます。士郎さんこそですよ、俺が走る時は毎回見かけますもん」
「ははは。そりゃまぁ、僕も君も毎日走っているから、ねぇ」
故に、昔からこの住宅街で走っている青年は、青年と同じくジョギングをしている人間の殆どと顔見知りで。
特にとある喫茶店のマスターの男などは、青年と同じく毎朝走り込みをしていることもあって、青年とは年の離れた友人とも呼べるほどの仲を築いていた。
名を士郎というその喫茶店のマスターは、いつものように青年の姿を見かけると、笑顔を浮かべて彼に近づいて。
ジョギングしたまま青年と並走し、軽い挨拶を交わすと、彼と青年は仲良く話始めていた。
「そういやなのはちゃん、今年で小三でしたっけ? 大きくなりましたねー、あと三年もすれば中学生じゃないですか」
「ああ、親としては嬉しいやら悲しいやら、だけどね。
君は確か、大学の二年だっけ? 君も大きくなったなぁ、初めてジョギング姿を見た時は、今の美由希より小さいくらいだったのに」
「あはは、もう六年くらい経ってますから。……あ、美由希ちゃんと言えば。どうです、料理は上手くなりましたかね」
「ん? あー、美由希の料理、か。そうだね、まあ、何と言うべきか……」
「……つまり、何ら代わり映えがない、と」
「ははは。一応あれでも、パティシエの娘のはずなんだけどなぁ」
ワイワイと言葉を交わしながら、しかし速度を落とすようなことはせずに、住宅街を走って行く二人。
そのまま二人仲良く共にジョギングを続け、彼らが別れたのはジョギングを終える直前、彼らの帰り道の分岐点に差し掛かった時だった。
さすがにここまで来れば彼らも別れ、士郎は軽く手を挙げて青年に別れを告げると、青年の側から軽快に走り去って行く。
青年の方も士郎に別れを告げ返し、自宅の方へと足を向けると、スピードを落とさずに自宅への帰路につき。それから数分ほど、走り続けた頃だろうか。
「――――ん?」
ふと。青年の視界の端に、キラリと青く輝く何かが映り込んだ。
まるで光を反射して輝いたような、と反射的に判断した青年は、思わず足を止めて。
一瞬だけ見えたその光の主が、宝石らしきものだったように思えた気がして、確かめてみようと光が見えた場所に足を運んだ。
そこは道の端によくあるような、空き地に生えている小さな草むらで。
名前も知らない雑草が生い茂る其処を軽く見渡すと、運がよかったのか、草に隠れるようにして地面に落ちていた青く透明に輝く石を見つけて。
そんなに造詣が深いわけではないが、これほど綺麗なものならば間違いなく宝石だろうと、青年は傷つけないように注意しながらそれを拾い上げた。
「……」
じい、とそれを見つめる、青年。
それを太陽にかざし、光ですかしてみれば、非常に青く綺麗な輝きを放っている。
大きさも手のひらに収まるぐらいはあり、あまり宝石に詳しくはない青年の頭でも、これに値をつけるとしたら大層な金額である可能性が高いということは容易に予測できた。
ならばどうする、と考えて。青年が思い至ったのは、当たり前と言えば当たり前であるが、これを警察に届け出ることだった。
ネコババなんて選択肢は、まず論外。宝石のような高級品を黙って自分の物に出来るほど、青年はそんな度胸はないし、良心が小さくはない。
それに警察に届け出れば、この宝石についての殆どを警察に丸投げ出来る。道端に宝石が落ちていた謎、と言えばちょっとしたミステリーだが、わざわざそんなことに首を突っ込むほど青年は暇ではないし、好奇心も持ち合わせていなかった。
だからこれは、警察に届けよう。脳内で軽く思考を巡らせ、そう結論を出した青年は、次に最寄りの交番の場所について脳内検索を始める。
そして思い当たった交番は、ここから走って十分ほどの場所。先程彼が通ったばかりの、ジョギングコースの通り道にある交番だった。
仕方がないこととはいえ、来たばかりの道を戻らなければならないのは、精神的に少々面倒なものがある。
それは青年も同じなようで、交番がある方向、つまり彼が走ってきた方向へと顔を向けると、はぁと小さく溜め息を吐いた。
「……ああ、もう。魔法でも使えりゃいいのになぁ」
そうであれば、転移魔法だかなんだかで、こういう時に無駄な労力を使わないで済むだろう。
そう考えた青年は、ふとそんなこ独り言を口から溢して、
――――キィンッ!
それと同調するかのように、彼の手の中の宝石が光を放った。
「え、うおっ!? なんだ、まぶし――――!?」
その光は辺り一面を覆い、周囲の空間を青く激しい光で塗り潰す。
まるで太陽を直に見たかのような光に襲われた青年は、反射的に宝石を取り落としつつ、急いで手で目を覆った。
十秒ほど経った後、ようやく光は収まって。
急な光でやられた視界も回復し、青年は恐る恐ると目を開けると、何が起きたのかとばかりに周りを見渡した。
「……くそっ。何が起きたって言うんだ、これ」
いったい、今のは何だったのか。宝石が光ったように思えたが、やはり自分の見間違えだろうか。
何度見ても周囲に異常がないのを確かめた青年は、何も分からないと言うように頭を振って。
「――――――いや。ちょっと、待て」
今の自分の声が、明らかに普段よりも高いものだったことに気がついた。
「あー、あー、テステス。
……おいおい、なんだこれ。おかしいってレベルじゃないんだけど」
もう一度確かめるように声を出して、やはり声に異常があることを確認する。
今青年の喉から出ているのは、普段の少し低めの若い男性ボイスではなく、高い子供のようなボイス。それも声の雰囲気から察するに、少年よりは少女に近いものである。
喉仏を触ってみても、やはりというか、そこにあるべき出っ張りはない。喉の調子がおかしいのではなく、どうも青年の喉自体が変化しているようだった。
しかも、一度冷静に戻ってみると、青年が感じる違和感はそれだけではなかった。
何故かスースーする感触を足から感じて、ふと青年が視線を下に向ければ、視界に映ったのは黒に近い紫を基調とした女性向けの服。
シンプルなジャージとは正反対に様々なアクセントが盛り込まれたその服は、全く着た覚えも見た覚えもないにも関わらず、同色のロングスカートと合わさって青年の体を飾り付けていた。
髪も、青年は黒色のはずだったが、何故か栗色に変わっている。
長さも多少伸びており、顎を下回る辺りで綺麗に切り揃えられていた。
そして右手には、いつ持ったかも定かでない、謎の金属製の棒が握られており。
色々と複雑なオプションが付いたその棒は、あえて言葉に表すならば、魔法少女が使う杖に近い印象を受けた。
そして、そして。青年が一番違和感を抱いたのは、何よりもまず。
「……」
ゴクリと喉を鳴らしながら、スカートの端を握り、それをたくしあげてゆく。
太ももが露になるまで捲られたその時、自身の股間を見つめていた青年が見たのは愛用しているボクサーパンツ――などでなく。
水色の、三角形の、布。
所謂女性向けパンツを、自身が穿いており。尚且つそこにあるべき棒と玉が見当たらず、代わりにつるつるの平原が広がっていることを理解した青年は、突然頭が真っ白になるような心地がした。
「……え、え? いや、えっ?」
杖を取り落とし、ペタペタと身体中を確かめるように触りながら、青年は呟く。
肌はすべすべしていて、柔らかなもの。身に付いていたはずの筋肉は跡形もなく、盛り上がっていた胸筋の代わりに少しだけ盛り上がった胸があり、手足はモデルのようにスラリとしている。
青年の体は、自身で見ても明らかに、変化が及んでいた。
慌てて周囲に視線を走らせた青年は、近くに自動車用のミラーを見つけると、急いでその近くに寄っていく。
ミラーに自身の姿が映る位置に移動した青年は、何かの間違いであってくれることを祈りながら、鏡を見て。
彼のよく知る存在にどこか似た、可愛らしいと形容するべき小学生程度の少女が、鏡の中で彼と目を合わせた。
エイプリルフール用にちょっと色々やってたやつの成れの果て、というのは秘密。
いや、別にイノセントとか関係ないですしおすし。