Illusional Space   作:ジベた

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42 猛る絶対強者

 クリスマスイブ。まだ1月3日になっていないどころか新年にすらなっていない。そんな日だというのに俺は一人で篠ノ之神社にまでやってきた。

 今年の1月3日には来ていなかった。ここは嫌でも箒との約束を思い出させる場所で、俺が約束を守ろうとしなかったことを責められるような気もして全く近寄らなかった。そもそもの話、ここ数年は新年以外に来てないのだからほとんど二年ぶりだった。

 年末年始という時期の神社は慌ただしいはずなんだけど、篠ノ之神社は小さな神社であることに加えて管理者である柳韻先生が病院に付きっきりだから静かなものだ。箒と静寐さんが原因不明で昏倒していたという話もこの近所では知られているらしく近寄ろうという人は滅多にいない。

 昔のこの時期はもっと人がいた。束さんが巫女服を着たまま赤い帽子と白髭をつけてサンタに扮してプレゼントを配り始めちゃって、柳韻先生が怒鳴り散らしていたのも今となっては懐かしい。

 

「さてと……ここに何か手がかりがあるといいんだけど」

 

 俺が因縁のあるこの場所にやってきたのは昔を懐かしむためなんかじゃない。今まで俺が見ようとしなかった場所に箒や束さんにつながる何かがあるんじゃないかと思ったからだ。無駄足に終わる可能性の方が高いのは自覚してるけど思いついたことからやっていこうとした結果がこれだから仕方ない。

 鳥居をくぐって7年前に箒と歩いた参道に出る。今年はまだ雪が降っておらず、小石の詰まった通路をじゃりじゃりと音を鳴らしながら奥へと進む。

 箒たちが倒れていたと思しき場所はこの辺だろう。でも1年近く前のことだ。今更やってきて痕跡が残ってるはずもないか。よく考えてみたらISが関わっている事件だったから地元警察だけでなく大がかりな調査団が派遣されてきているだろうし、それこそそこら中を(しらみ)潰しに調べ尽くされた後のはず。

 イスカを取り出してみる。都合よく束さんが俺にしか反応しない何かを残してくれているとか期待してみた。でも流石にそんな旨い話はなくてイスカはただのカードだった。

 

「これは空振りだったかな……」

 

 おもむろに溜息を吐く。

 思い返せば手探りだと思っていた今までは都合よく箒の傍に近づくことが出来ていた。きっとそれは束さんが導いてくれてたからなんだ。

 俺が白騎士を使ったあの日。束さんは俺にちょっかいをかけるのも最後と言っていた。その言葉通りなのか、俺はあの日以来ISVSに入るときに束さんの声を聞いていない。

 束さんの力を借りずに箒を見つけないといけない。それは今まで以上に途方もないことのような気がしていた。

 

「……無駄ついでだ。神頼みでもしていくか」

 

 独り言を漏らして賽銭箱の方へと足を向ける。

 ISVSに関わるまで呪ってばかりいた俺を神様は助けてくれるだろうか。

 

「ん? 誰か人がいる……?」

 

 意外なことに賽銭箱の前には先客がいた。タイトスカートのスーツ姿が似合うスラッとした体型で長い黒髪の女性だ。最近は年上のお姉さんと知り合うことも多いけど、その後ろ姿には全く心当たりがない。

 身内以外に篠ノ之神社を訪れる人がいるとは思わなかった。俺は首を傾げつつ女性が参拝を終えるのを待つ。

 

「これは失礼しました。すぐに場所を空けます」

 

 女性は俺に気づいてやや慌てた様子で階段を下りてくる。その顔にもやはり見覚えがない。だけどどこかで聞いたことがある声のような気がする。

 少し失礼かもしれないけど疑問の方が勝っていたから単刀直入に尋ねてみる。

 

「あのー、どちらさまでしょうか?」

「あ、これまた失礼しました。私はこういうものです」

 

 女性は笑顔のままやたらとフレンドリーに話してくる。上着のポケットをごそごそと漁ったかと思うと名刺を取り出してきた。

 差し出された名刺を受け取って目を通す。

 

「ミツルギ工業の巻紙礼子さん、ですか」

 

 やはり聞き覚えがない名前だ。

 ――と、俺が名刺に気を取られていたときだった。

 首に金属のひやりとした感触がする。気づいたときには目の前の女性の右腕が俺の首もとに伸びていた。

 

「動くなよ。手元が狂うと私が赤いシャワーを浴びる羽目になる」

 

 女性は一瞬のうちに豹変していた。人懐っこそうな笑顔でなく、狂気の混ざった歪んだ笑みは常人の域には収まらない。

 コイツは十中八九、亡国機業の刺客だ。

 完全に油断していた。エアハルトを倒していたからもう俺に固執する敵はいないものだと思ってた。まだ残党が居ることは知ってたはずなのに。

 

「目的は何だ……? エアハルトの解放か? 俺の命か?」

「へぇ。この状況で落ち着いて喋る胆力があるとは。ただ鈍感なだけかもしれねーが使い物にはなりそうだ」

 

 巻紙礼子は鼻で笑うと顔を近づけてくる。

 

「質問に答えてやる。エアハルトなんてどうでもいいし、お前の命なんて奪う価値はない」

「え……?」

「いい顔だぜ? 危険だってこと以外わけがわかりませんって書いてある。その間抜け面は写真にでも収めておきたいもんだ」

 

 高笑いが篠ノ之神社に響きわたる。しかしその態度とは裏腹に巻紙礼子は全く隙を見せない。下手に動けばその瞬間に首を切られる。

 俺が動けずにいると巻紙礼子は左手で腹を抱えて笑い出した。

 

「ドッキリタイムはそろそろ終わりにしてやるよ! いやー、楽しませてもらったぜ!」

 

 唐突に隙だらけになったばかりか俺の首から右手を離す。

 俺は巻紙礼子の右手に握られている得物を見て驚きを隠せなかった。

 

「は? スプーン?」

「ナイフだとでも思ったのか? このオータム様が本気でお前を殺しにかからなくて良かったな」

「お前は一体……?」

 

 オータムと名乗られてもピンとは来なかった。

 いたずらを仕掛けてきたと言っても内容はかなり質が悪い。いつでも俺を殺せたと言いたげなオータムは得意げな顔で俺を見下してくる。

 

「私の名前を知らないか。織斑の後継者だとか新しいツムギを率いる者だとか色々言われてるが、ただの一般人じゃねーか」

「俺のことを知ってるんだな」

「あのなぁ。私がわざわざこんな寂れた神社に来たのは織斑一夏を尾行していたからに決まってるだろ」

 

 やはり俺を狙っていたらしい。だとすると亡国機業か。だけどそれならそれで目的が全くわからない。エアハルトを倒したことへの報復以外に何かあるというのか。

 

「面倒くせえがお前にわかるように話してやる。私は藍越学園を襲ったテロリストだ」

 

 言われて初めて気づかされた。声だけ聞き覚えがあるのは当たり前。声しか聞いたことがない相手だったからだ。

 

「お前があのときの!」

「おっと、殴りかかってくるなよ。いくら私から手出しする気がなくても、お前の方から攻撃されては過剰防衛せざるを得ないよなぁ?」

「ぐっ……」

 

 目の前に数馬を苦しめたあの事件のきっかけが居る。そうわかっても俺には何もできそうにない。ナイフで脅されなくても、あのときのテロリストだったらISがある。俺は今もなお脅されているような状況だった。

 

「そう身構えるな。お前からかかってこない限り、私はお前に危害を加えるつもりはねーよ」

「お前の目的は何なんだ? 俺を追ってきたのは俺を殺すためじゃないのか?」

「さっきも言ったろ? お前に殺す価値なんてない。逆に教えてくれよ。この私がお前のようなガキを殺さなくちゃならない理由ってのが何かあるのかぁ?」

 

 聞き返されて俺は何も言えなくなった。どこの世界に自分の殺される価値を自信満々に言える人間がいるというのか。いたとしても相当な自信家で、ついでに言えば世界トップレベルのバカだろうと思う。

 

「強いて言うなら、さっきのスプーンを見破って反撃してくるようだったら私はお前を殺した。だがお前はナイフだと思いこんで動けなかった。よって私が殺す価値はない」

 

 オータムは歪な笑みを消して至極真面目に答えてくる。それはそのまま俺に力がないという宣告に等しかった。

 現実の俺に力がないってのは俺自身がよくわかってる。父さんの武勇伝を聞いても異世界の話みたいに聞こえるし、千冬姉という生きる伝説も俺には手の届かない存在だ。

 そんなことはどうでもいい。俺は箒を助けるためにできることをするだけだ。だから今はオータムに殺されなければ、どれだけバカにされようが構わない。

 

「そろそろ私の用件を話すとしようか。お互い、これ以上の時間の無駄は避けたいよなぁ?」

「殺す価値のない俺に何の用があるって言うんだ?」

「用があるのは織斑一夏でなくヤイバだとでも言えば納得するか?」

「ISVSか」

「ああ。エアハルトの野郎が負けたせいで私らには今、戦力が足りてない。猫の手でもいいから借りたいってわけだ」

 

 まさかの内容だ。敵である亡国機業の残党が俺を勧誘してきている。

 当然、俺の答えは決まってる。

 

「バカか? 俺がお前たちに手を貸すわけないだろ!」

「予想通りの返答だ。だからこそ、最終的に私の思う答えが返ってくるとも知ってるぜ」

「ふざけるな! 俺は箒を苦しめてた奴らと手を組まない!」

「お前、篠ノ之束のことを知りたいんだろ?」

 

 否定する言葉は出せなかった。俺は正しく今、束さんの手がかりを探してこの場に来ていたのだから。

 

「だからどうした? 俺が束さんを追ってることとお前たちに協力することは――」

「篠ノ之論文は知ってるか?」

 

 俺はまた言葉に詰まってしまう。正直に言ってしまえば、オータムの話す内容に興味が湧いてしまっていた。

 篠ノ之論文。以前にセシリアや店長から聞いていたから知っている。ISVSを作る際に束さんが仮想世界の中に残したとされるISに関する技術が詰まった論文のことだ。

 さっきまでの俺の頭になかった。それは篠ノ之論文がただの技術知識だけのものだと思いこんでいたからだ。でももしかしたら……現実の誰も手にしていない束さんの情報や、箒を探すための手がかりが見つかるかもしれない。

 協力なんてしないという俺の意志がこんなに簡単に揺らぐとは思ってなかった。

 

「知ってるようなら話は早い。今、アメリカのクラウス社を中心としたチームが篠ノ之論文を狙って迷宮を攻略中だ。その迷宮はお前たちが守っていたツムギにある」

 

 俺も入り口にまで行ったことのあるあの迷宮をアメリカのチームが挑戦している。

 そうか。箒以外の皆はISVSから解放されたから倉持技研があそこを守る理由もなくなってる。倉持技研が迷宮に挑んでない理由は詳しくは知らないけど、アメリカと何かしらの取引があったんだろう。

 

「そのアメリカの話がどうした? まさかアメリカが篠ノ之論文を手に入れる前に強奪するから力を貸せとか言う気じゃないだろうな?」

「ちょっと違うぜ。私らは織斑一夏に篠ノ之論文を手に入れさせようと考えている」

「はぁあ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げてしまった。いや、仕方がないだろう。オータムの発言はハッキリ言って俺の理解の範疇を飛び越えている。

 

「それでお前たちに何の得があるんだ!?」

「私らは今のアメリカが気に入らない。連中に篠ノ之論文が渡るくらいなら倉持技研の方がマシとも考えてる」

 

 これは流石に言葉通りに受け取るのは危険か。前の藍越学園の襲撃も藍越学園自体が標的なのではなくて、本当の狙いは倉持技研をアメリカと敵対させることにあった。

 

「そうやってまた倉持技研とアメリカの仲違いを狙ってるのか」

「いや、そうしたいところだがそれは無理だ。ツムギを占拠しているアメリカは量産型マザーアースを大量に並べて防衛もしている。このオータム様が全力で仕掛けないと蟻一匹入る隙間がない。どうやったところで倉持技研でなく亡国機業の仕業だとしか見られない」

「じゃあ、本当にアメリカに篠ノ之論文を渡さないために?」

「どこまで信用するかはお前次第だ。篠ノ之束の手がかりが欲しいんだろ? 私と一緒にツムギに乗り込む気はあるか?」

 

 決して信用しきっていい相手じゃない。

 だけど篠ノ之論文というわかりやすい手がかりがあるのは事実。そして、アメリカを敵に回すかもしれないという状況で汚名を被ってくれるのは俺にとって好都合。

 

「行く」

 

 意見を翻すことにした。

 俺は正義のために戦ってるわけじゃない。

 箒を取り戻すために戦っている。

 一時、敵であったし今も味方だと思ってはいないけど、利用できる者は利用する。

 束さんも言っていた。倒す必要のない相手まで敵に回す必要はない。それは亡国機業ですらも当てはまるのかもしれない。

 全ては俺の直感で根拠はない。でも、俺を殺す価値がないと言ってのけた目の前のテロリストが箒を閉じこめているとはとても思えなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 篠ノ之神社からホテルの一室に帰還したオータムは煩わしそうにネクタイを外してベッドに放り投げた。襟元のボタンを外して喉元をリラックスさせると一人用のソファに乱暴に座る。

 

「あー、超絶に面倒くさかった! スコールの頼みじゃなけりゃ本当にナイフを突き立ててきただろうぜ」

「お疲れさま、オータム。問題はなかったようね」

 

 バスローブ姿のスコールがグラスを差し出して部下を労う。若干気が立っているオータムは受け取ったグラスの中身を一気に飲み干した。

 

「問題があったらここに戻らずに今頃IS大戦争でも始まってるさ。連中もそれをわかってるから下手に私を捕まえようとはしてこない」

「やっぱり織斑一夏に護衛が付いてたようね」

「ああ。だがあの過剰戦力を何のために用意してんのかはさっぱりだ。最初は私対策かと思ったんだが、いくらISを使わなかったからと言って無反応すぎた」

「それはきっと私たち以外の敵を見据えているからでしょうね……」

 

 そう言って重く溜息を吐くスコール。わかりやすく頭を抱えているのは現状に大きな問題があるからに他ならない。

 しかしオータムはその内容までは知らない。

 

「そろそろこのオータム様の恐ろしさを思い出させてやらないといけないか? 旧ツムギが解散してから張り合いのない任務ばかりで溜まってんだ」

「まだその時期ではないわ。今は連中と争ってる場合ではないのかもしれないのよ」

「クラウス社の問題は深刻なのか?」

 

 オータムは自分の知っている範囲で問題を考えてみた。報告も聞いている最近起きた問題が米クラウス社内部の亡国機業のスパイが一掃された件。その関係でクラウス社のチームが篠ノ之論文を独占するとスコールたちに情報が入らないという状況になってしまっている。

 そのためにクラウス社の迷宮攻略にちょっかいをかけようというのが今回、織斑一夏を(そそのか)した目的である。オータムから見れば大勢に影響が出そうにない小さすぎる策に不満を募らせているというわけだ。

 でもそれはオータムが無知だからでスコールには別のものが見えているかもしれない。そう思い直して改めて聞いてみたオータムだったが――

 

「クラウス社が篠ノ之論文を独占してもまだまだ手の打ちようがあるから別にいいの」

 

 当初の想定通りスコールはクラウス社のスパイが見破られた件を大事と見ていない。

 

「じゃあ、どうしてわざわざ織斑一夏と接触してまでレガシーに攻め入ることになってんだ? 戦力を確認した限りじゃ私だけでもなんとかなるレベルだぞ?」

「あなたならできるでしょうね。でもあの迷宮は他と違ってIllのワールドパージと同じ現象が起きている。イーリス・コーリングもいる。あなたにもしものことがあったら困るわぁ」

 

 つまり、スコールは『危険だからオータムを向かわせられない』と言っている。

 

「え、それだけ?」

「他に何か理由でもいるのかしら?」

「いや、嬉しいけどさ……ちょっと過保護じゃないか?」

「それでもいいわよ。あなたが目覚めないだなんてことになるくらいならいくらでも過保護になるわ」

「心配性だな、スコールは」

 

 照れくさそうに後ろ頭を掻くオータム。

 優しげな目で見つめていたスコールはふふっと小さく微笑みながらオータムの肩に腕を回した。

 しかしそれも(つか)の間。顔を引き締めて呟く。

 

「あの迷宮は今まで以上に篠ノ之束が関わっている。リターンよりもリスクの方が大きい気がするのよねぇ……」

 

 現段階での理想は織斑一夏とクラウス社の部隊の共倒れにより迷宮攻略自体が失敗すること。これはただの希望的観測であり、そもそもスコールにも何が正解かは見えていない。

 篠ノ之束が関わっているというだけで、これをきっかけにして恐ろしい何かが始まってしまうという嫌な予感を拭えずにいた。10年前に白騎士事件の引き金を引いてしまった亡国機業の長のことを思い出さずにはいられなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 夜。指定された時間に俺はISVSにログインした。

 場所はツムギから少しだけ離れた海域の無人島。そこから見えるだけでもツムギのドームの周囲にはガトリングを装備した武骨な兵器が大量にずらっと並んでいる。

 遠方の海上を見つめていると近くの木が大雑把に揺れる。木の陰から怪訝そうな顔を浮かべるオータムが現れた。

 

「約束通り来たようだな。だがお前1人だけなのか?」

「当たり前だろ。お前たちなんかに協力するだなんて千冬姉にも言えないっての」

 

 ここには俺1人で来た。流石に今回は皆を連れてくるのは躊躇われた。亡国機業に味方してアメリカを攻撃するなんていう危ない橋を渡らせるのはいくらなんでも無理だ。

 

「そういうお前こそ1人なのか? 戦力が乏しいとは言ってたけど、いくらなんでも少なすぎだろ」

「ハァ……無知もここまで来ると全く笑えねえぜ」

 

 あからさまに呆れ顔を見せるオータムが指をパチンと鳴らす。

 すると周囲の茂みの中から一斉に何かが飛び出してきた。

 隠れていた戦力か……?

 しかしそれらは一様に人型を成していない。それどころか兵器としての形すら成していない。ただのスクラップにしか見えないガラクタが無数に宙に浮いている。

 

「え、何これ?」

「解説するよりも実演した方が早い。まあ、見てろ」

 

 オータムの指さした先はツムギ。ガトリングを装備したモンスターマシンの大群をさらに取り囲むようにして、スクラップの軍隊が海上から現れた。

 パッと見ただけでも異常な数だ。藍越学園のプレイヤー全員をかき集めてもこの数には劣る。オータムはそれをたった1人でコントロールしているとでも言うのか。

 

「祭りを始めてやろう。血祭りって奴だ」

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 

 ISVSにおいて未だかつてないほどの大規模な部隊を用意したクラウス社は今回の迷宮探索で再びアメリカの権威を取り戻そうと躍起になっていた。

 これまでの情報を精査した結果、ツムギと呼ばれたレガシーには篠ノ之束の多大な関与が見られる。その迷宮に眠っている篠ノ之論文にはISに関する重大な情報が眠っている可能性は高い。この篠ノ之論文を手にするのはクラウス社にとっての至上の命題だった。

 レガシーを取り囲んでいる量産型マザーアース“コンクエスター”は個人の力量に左右されないシステマチックなIS部隊を目指して造られた代物で、既に対ISVSプレイヤーにおける制圧力は実証されている。1機当たりに使用されているISコアは3個であり、コンクエスター1機とISVSプレイヤー3人ではプレイヤー側に分がある。しかし数が多くなり集団戦闘になるほどコンクエスターは名前通りにプレイヤーを蹂躙できた。

 配備されたコンクエスターの数は200を超える。1機につき3人の操縦者を必要とするため総勢600人の部隊だ。当然、一般プレイヤーで賄うことなどできず、600人はクラウス社の社員と現役の軍人で構成されている。

 絶対に迷宮攻略の邪魔はさせないという意思表示。他勢力が介入するのならば戦争を仕掛ける気でいかなくてはならない。権威が弱まっているとはいえ、アメリカに表から喧嘩を売るような国などなく、この状況が出来上がった時点で実質的な勝利である。

 ……そのはずだったのだ。

 

「報告します。海中より未確認の機影が複数出現。これは――スクラップ?」

 

 その異常はすぐに全隊に伝わった。ISどころかミサイルの類でもないそれらは一見すると無害だが、宙に浮いている時点でPICの影響下にあることは誰もが理解できている。油断の一切ない冷静な判断で危険だと判断したコンクエスター部隊は一斉に銃弾の雨を浴びせた。

 撃ち抜かれていくガラクタはさらにその形を崩壊させていき無惨な姿へと変貌していく。PICが作用していても何も特別な防御能力があるわけでもなく、ゲームとしてはつまらないコンクエスターが一方的に破壊していく光景が広がるだけだった。

 だが攻撃している側にはまるで余裕がなかった。攻撃は確実に効いている。だからこそ1つの事実に気が付いてしまった。

 

「どれだけ壊せばいいんだ?」

 

 1人の男からその不安が言葉となって出てしまう。最初からスクラップ同然だったものが浮いていたわけであり、さらに壊したところで細かくなったガラクタが宙に浮いている状況は変わらない。

 終わりが見えない。ガラクタの群はガトリングの降らせる雨の中を平然と突き進んでくる。時間とともに急加速するガラクタは銃弾に迫るスピードでコンクエスター部隊を襲う。

 

「怯むな! この程度でコンクエスターは傷つきはしない!」

 

 指揮官の檄が飛ぶ。内容も事実であり、ガラクタをぶつけられた程度では厚い装甲に守られたコンクエスターに損傷らしい損傷を与えられない。

 

「敵のISがいるはずだ。索敵、急げ」

 

 異質な攻撃は一段落した。今度は攻勢に打って出るため、周囲の探索が命じられる。

 

「うわあああ!」

 

 だが指揮官の命令は叫び声に塗りつぶされた。

 

「どうした? 何が起きている!」

「な、仲間が攻撃をしてきてます!」

「くそっ! わざとじゃない! この機体が勝手に動くんだよ!」

 

 見ればコンクエスター部隊のうち5機が突然に味方に向けてガトリングを乱射し始めていた。陣形が崩れるのはもちろんのこと、急造部隊であるコンクエスター部隊の指揮系統は乱れ、仲間同士での同士討ちが始まってしまう。

 

「撃つのをやめろ! まずは制御不能な友軍機の情報を全軍で共有し――」

「敵の新手が出現!」

 

 混乱を極める中、海中からは新たなガラクタの部隊が現れる。陣形が乱れに乱れたコンクエスター部隊にはガラクタの進軍を抑えることなどできるはずもなく、次々とガラクタの突進を受けてしまう。その後、制御不能に陥るコンクエスターの数が増大し、最早どの機体が友軍機なのかも特定できない阿鼻叫喚の図が繰り広げられていた。

 

「くっ……まさか、これは亡国機業のネクロマンサー!? 死体でなくとも操れるというのか!?」

 

 気づいたときには時既に遅し。

 クラウス社の誇るガトリングモンスターの軍はたった1人のテロリストの単一仕様能力1つにかき回される。

 

 幾度となく織斑千冬と渡り合い、ただの一度も敗北がない。

 単一仕様能力“傀儡転生(かいらいてんせい)”により個人で一軍に匹敵する戦力を用意できる最凶のテロリストは戦場から遠く離れた地で愉悦に浸る。

 

 この混乱した戦場で1機のISがレガシーへと進入することは造作もなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 俺は危なげなくツムギの中に入ることができた。正直なところ、あの大量のガトリングの中を突っ切るのは藍越エンジョイ勢の皆の力を借りても難しかったと思う。だからオータムの力の強大さを思い知らされた形となった。

 

「何なんだよ、あれ……あんなのが敵だったのに、よく俺たち勝てたな」

 

 本当に俺が無知だった。オータムは1人でもアメリカの部隊を手玉に取るくらいに強い。俺をツムギ内部に送り込むまでの囮どころじゃなく、相手部隊にこのまま勝てるとも思わせた。

 でも、たぶんそう簡単にはいかない。さっき外で敵の中にナターシャさんの姿も見かけた。流石のオータムでもトップランカーを易々と倒せはしないだろう。だから俺はオータムが時間を稼いでいる間に迷宮の奥へと向かわないといけない。

 迷宮の攻略が難しいってのは門番に追い返されたことがあるからよくわかっているつもりだ。今はアメリカの部隊が都合良くゴーレムを倒してくれていることを祈ろう。

 

 俺は慣れた道を突き進んで迷宮の入り口のある六角形のフロアに辿り着いた。かつてクーが陣取っていたその場所に彼女の姿はなく、迷宮のある下へと向かう階段が覗いている。

 

「よし、誰もいないな」

 

 中を確認。迷宮攻略とオータムの迎撃にほぼ全員が駆り出されているようで、ここまで誰とも遭遇していない。とりあえずはこちらの思惑通りといったところだ。

 

「――前にはいないわね。でも後ろが全く見えてないわよ」

「うわっ!」

 

 唐突に後ろから声がして反射的に俺は飛び退いて雪片弐型をそちらに向ける。

 

「え、楯無さん? どうしてここに?」

「それはこっちのセリフよ。私がやっとの思いで潜入できたところに、まさか一夏くんが来てるだなんて思わないもの」

 

 俺の背後にいたのは楯無さんだった。日本舞踊でも始めそうな和風デザインで武器が扇子しかないISはこの人しかありえない。楯無さんの偽物は違う武器を使ってたからたぶん本物で大丈夫だろう。

 

「俺は……篠ノ之論文に箒の手がかりがあるんじゃないかと思って来ました」

「前にも迷宮に挑戦して逃げ帰ったって簪ちゃんから聞いてるけど、勝算はあって来たの? 見たところ1人みたいだけど」

「いや、それは先に行ってる人たちがなんとかしてくれてないかなって思って」

「希望的観測だけで迷宮に飛び込もうとしてたってわけね。呆れた」

 

 楯無さんが扇子を広げて口元を隠す。扇子には『絶句』とだけ書かれていた。

 

「一応確認するけど、外に来てるオータムとはグル?」

「え、いや、その……」

 

 答えづらいと思った時点で狼狽を顔に出してしまっていた。俺がハッキリ言わなくても楯無さんはうんうんと頷く。

 

「大体わかったわ。一夏くんが何もせずに大人しくしてるわけないもの。たとえ悪の組織だろうが箒ちゃんの手がかりがあるのなら利用する。それがあなたらしさでしょうね」

「俺……致命的なミスをしてますかね?」

「それは君が決めることよ。私の立場だったらオータムをなんとしてでも捕まえたいところだけど、君はそうじゃないでしょう?」

「ええ、まあ」

「今の私の優先順位もオータムを捕らえることより篠ノ之論文確保の方が上。ここは協力しない?」

 

 願ってもない話だ。当然、俺の答えは決まってる。

 

「別に俺は亡国機業の尖兵になったわけじゃないですって。俺としては篠ノ之論文の情報をチラッとでも見られればそれでいいですし、後は楯無さんに任せます」

「よろしい。じゃあ、行くとしましょうか」

 

 鉢合わせたときにはどうなることかと思ったけど、とりあえず悪い方向には転んでなさそうだ。

 戦力が2人になったところで楯無さんを先頭に階段を下りていく。簪さんと一緒にきた迷宮まであと少し。体感的に階段の半ばにさしかかったところで俺はあることを確認する。

 

「やっぱりここではログアウトできない」

「報告にあったIllのワールドパージと同じ現象ね。倉持技研がここの迷宮攻略に乗り出さなかった最大の理由はリスクの大きさにあったから。切り札であるブリュンヒルデが動いてくれなかったのも理由かな」

 

 たぶんそうなんだろう。クーが入り口を占拠してたなんてのは企業レベルでは迷宮攻略を始めない理由にならない。クラウス社に権利を投げずに自分たちで篠ノ之論文を手にしたかったというのが本音のはず。

 これまでの迷宮攻略ではヴァルキリークラスのプレイヤーを投入しても苦戦を強いられたと聞いている。その事実があるために、勝算が薄いのはIS関係者なら誰でも理解できることだ。

 

「でもアメリカのクラウス社はプレイヤーのリスクよりも篠ノ之論文のリターンを取った……」

「それだけの理由があったんですか?」

「ISの分野で世界の覇権を握れるかもしれない。一夏くんにはピンと来ないかもしれないけど、命を張る人間がいるだけの理由になるのよ」

 

 いや、わからないでもない。他人から見れば俺が亡国機業と手を組んでまでここにやってきたのは理解しがたいことなのだと思う。きっとアメリカの動きも同じで、そうしなければならない事情があるということだ。

 そしてそれは俺やアメリカだけの話では留まらない。

 

「楯無さんにもここまで来る理由があったんですよね?」

「……篠ノ之論文を横から掠め取るだなんて、我ながら卑怯だとは思ってるわよ。でもISの技術をどこかの企業が独占したらそれだけで世界の均衡が崩れることになる。相手がテロリストでなくても私たちにとっては完全に味方という話にはならないの」

 

 箒さえ無事でいればいいという俺と違って視野の広い話だった。

 ……世界平和の崩壊か。そんなことは今まで考えもしなかったけど、ISの登場が世界の均衡を壊したという話を遠い過去に聞いた気がする。あれは誰から聞いたんだったっけ?

 ともかく、この篠ノ之論文の話は思っていたよりも大事らしい。やっぱり俺は少しだけ情報をもらうに留めて楯無さんに任せた方が良さそうだ。

 

「広い場所に出たわ。一夏くんはどこまで来たことがあるの?」

 

 俺たちは迷宮の入り口に到着した。以前に門番として立ちはだかっていたゴーレムの姿はなく、部屋の中央には下へと降りていく穴が開いている。

 

「ここで門番に追い返されました。けど、アメリカの部隊はここを突破して先に進んだみたいですね」

「私たちも行きましょう。戦闘は避けていきたいから推進機はなるべく噴かさないで」

 

 いつもは戦闘中でさえ余裕の顔を浮かべている楯無さんの顔が厳しく引き締まる。Illのワールドパージによって敗北が許されない空間に加え、ゴーレムやアメリカ代表のいる中へと突入していくのは楯無さんといえども緊張を隠せないのだろう。

 俺はと言うと、敵勢力の何と遭遇しても厳しいことになると思ってる。ゴーレムには相性的に勝てる気がしていないし、アメリカ代表の強さはISVSを始める前から知っている。できることならどれとも合わずに篠ノ之論文だけを手に入れたいところだけど……難しいよなぁ。

 

 もうやると決めたのだからいつまでも躊躇っている時間はない。俺たちは迷宮の入り口である大穴から飛び降りる。縦に長い通路だ。自由落下でも地に着くまで数秒の時間を要した。

 下に行き着いた俺たちは十字路の中心に居る。四方に伸びた細い通路は入り組んでいるようでその先に何があるのかは行ってみないとわからない。

 

「時間がありませんし、手分けしますか?」

「却下。ここに虚ちゃんたちを連れてこなかった理由をわかってないの?」

 

 言われてみれば虚さんたちがいない。たしか“更識の忍び”と恐れられている隠密行動の集団だったはず。こういった作戦では大活躍できるはずなのにどうしていないのか俺にはわかってない。

 

「単純に戦力外通告よ。簪ちゃんから聞いてたゴーレムの性能だと虚ちゃんはゴーレムを倒せない。そしてそれは一夏くんにも当てはまる」

「俺は足手まといってことですか」

「少なくともIB装甲を持っているゴーレム相手だとね。それ以外だと期待してるから自信喪失はしなくていいわよ」

「アメリカ代表とかは……?」

「もちろん一夏くんに任せて私は先に進む。適材適所よね」

 

 可愛くウィンクされても困る。しかし冗談と言わない辺り、本気で俺とアメリカ代表を戦わせるつもりなのかもしれない。

 まあ、やれと言われたらやるところだ。ギドとの戦いに比べたらまだまだ逆境というほどでもない。ナナともセシリアともクロッシングアクセスしてないのは気がかりだけど。

 楯無さんはしばらく目を閉じて考え込んだ後、一本の道を選んで移動を始めた。BT使いはナノマシンを散布しての索敵も得意としているからこうした建造物の構造も把握することができる。この分野でセシリアの右に出る者はいないのだとマシューが力説していたけど、楯無さんも強豪のBT使いだから信用していい。俺もその後をついていく。

 

「ごめん、一夏くん。ちょっと戦闘になるわ」

「へ?」

 

 移動を初めて割とすぐのことだった。狭い通路の先に見覚えのある形状のロボットがぬっと姿を見せる。両手が足先よりも長いくらいに長い歪な人型は間違いない。ゴーレムだ。

 俺が間抜け面を晒している間もロボット的な動きを見せるゴーレムは右腕の砲口をこちらに向けてきた。狭い通路だと避けるスペースもない。

 

「やばっ――」

 

 慌てて来た道を引き返そうとした。でも楯無さんは逃げる素振りを見せず扇子を正面に向けている。その堂々とした立ち居振る舞いは絶対の自信に満ち溢れていた。

 ゴーレムの右腕が光を放つ。同時に大きく炸裂してゴーレムの右腕が木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

「あら、すごい威力。おかげでこっちは楽できそう」

 

 何をしたのか全くわからない。しかし楯無さんがゴーレムに何か仕掛けていたのは間違いなく、俺と簪さんたちが苦戦していたゴーレムを赤子同然に扱っていた。

 相手は無人機。その思考は俺の知るAIよりも複雑だと思うけど、楯無さんの戦闘パターンにはついていけてない。残された左腕も同じように攻撃しようとして潰され、最終的に全身が爆破されてゴーレムは沈黙した。

 

「い、一体、何をしたんですか!?」

「ひ・み・つ。というよりも説明する暇がないって感じね」

 

 その通りだ。爆破されたゴーレムの残骸を乗り越えて俺たちは先を急ぐ。

 この後、楯無さんは推進機を使ってスピードを上げた。もう先ほどの爆発で敵に侵入を気づかれている。そして敵とはゴーレムだけではない。

 入り組んだ迷宮の道には動かないゴーレムの残骸が無数に転がっていた。既に誰かが通った後なのは一目瞭然。

 それらは皆一様に胸に大穴が空いていた。ENブラスターや荷電粒子砲ならば溶けたような痕が残るはずだが、穴の縁を観察すると強力な打撃でひしゃげていることが確認できる。つまりは物理属性攻撃であり、そのような攻撃痕を残せる武器はシールドピアースの他にはない。

 

「……流石は国家代表の中で最も無駄に好戦的なだけはあるわ。こっちの侵入に気づいて引き返してくるなんてね」

 

 入り組んだ通路を抜けて直径30mほどの球状空間に出た。およそ人が歩くことを考慮していない空間はISでの移動を想定した設計なのだろうか。

 IS同士が戦闘するには狭い空間には通路が2つ。今、俺たちが入ってきた入り口と、反対側にある先に進む出口のみ。そして、楯無さんが脂汗を浮かべて視線を向けるそちらから1機のISが飛び出してきた。

 両手に特大の杭打ち機がトンファーを持っているみたいにくっついている格闘特化の機体は黄色と黒のタイガーストライプにカラーリングが施されている。

 虎柄の機体はISVSプレイヤーならば誰もが知っている絶対強者の証。

 一般プレイヤーの前に最も多く顔を出している国家代表であり、ランキング6位のトップランカー。

 その名は、イーリス・コーリング。

 

「亡国機業の奴らかと思って来てみれば、更識楯無か。もう1人はナタルの言ってた織斑千冬の弟……」

「人違いだったなら見なかったことにならない?」

「悪いな。アタシらも本気で来てるから何もせずに見逃すなんてこたぁあり得ねぇ」

 

 イーリスは完全に戦闘態勢に入っている。話し合いの余地はなく、篠ノ之論文を巡っての対立は避けられない。

 こうなると俺たちの選択は自ずと決まってくる。

 雪片弐型を呼び出す(コール)。陣形を入れ替えるようにして、俺は楯無さんの前に進み出た。

 

「ここは俺が引きつけておきます。楯無さんは篠ノ之論文を」

「無理はしないで。相手はヴァルキリー級の操縦者、それもブリュンヒルデとは違ったタイプのインファイターよ」

「わかってます。だからこそ楯無さんより俺が残るべきですし」

 

 楯無さんは中央を迂回するように壁に沿って奥へと進んでいく。

 すると、まだ攻撃を仕掛けてこないイーリスがあろうことか先への道を譲るようにして開けた。楯無さんは楯無さんでそれを当たり前のように受け取って通路へと入っていった。

 

「見逃さないんじゃなかったのか?」

「それは建前だって。アタシは別に篠ノ之論文が欲しいわけじゃない。この仕事を引き受けた理由に使命感なんて皆無だ」

 

 駄弁るように喋りながらもイーリスの内に眠る戦意がまるで突風のように俺の体に吹き付けられているのを感じる。

 この感覚はギドとの戦いを思い出す。つまり――

 

「戦闘狂か……」

「おいおい。ISVSプレイヤーなら自分より強い奴に会いに行くなんてのは賞賛されるべきで非難されるもんじゃないだろ」

 

 たしかにゲームとしてのISVSならより強い相手との戦いを求めることは普通だ。だけど、この迷宮の中でまで同じ常識が通用すると考えてる時点で十分に一般から逸脱している。

 負ければ現実で目覚めないかもしれないという背水の陣に好んで身を置くのは狂ってる奴のすることだ。

 

「さてと。望み通り、更識楯無は通してやった。だから、エアハルトを倒した実力を見せてくれよ、織斑一夏」

 

 イーリスは部屋の端にまで移動して両足を壁につけた。視線は俺に向いたまま。両膝が縮んだバネのようにエネルギーを蓄えている。

 

「Are you ready?」

 

 俺は無言で雪片弐型の切っ先を向けて答える。

 両者の意思確認は終わり。

 火蓋を切ったのはイーリスの足下の爆発だった。いや、そう錯覚するほどのイグニッションブースト。過去に様々な猛者と戦ってきた俺だけど、今まで見た中で最も荒々しく、最も瞬発力のある加速だ。

 30mの球という狭い空間でイーリスの馬鹿げた加速は命取りなはず。俺は右方向のイグニッションブーストで相手の軌道から外れる。

 だがそのまま壁に激突などするはずもない。直角どころか鋭角に方向転換したイーリスはスピードを緩めないまま俺に向かってきた。振りかぶった右腕には大型シールドピアース“グランドスラム”。もしクリーンヒットすれば白式は一瞬でやられる。

 がむしゃらに雪片弐型を振る。いくらシールドピアースが強力な武器でもENブレードなら打ち勝てる。

 

「まだ曲がるのかっ!?」

 

 イーリスは突っ込んでこなかった。超短距離のイグニッションブーストをしておきながら俺の動きを見てから攻撃を中断。一度壁まで移動した後、急速反転して別角度から俺へと向かってくる。

 迫る右手。避けきるのは不可能。雪片弐型での迎撃は間に合わない。

 ならばアレをやるしかない。俺は何も持たない左手で拳を握り、イーリスの拳にぶつける。

 

「バカか! 素手でこのグランドスラムを受けて無事で済むと思うなよ!」

 

 互いにAICを使用した拳は簡易の物理ブレードに等しい。しかしながら俺とイーリスのAIC強度は互角。お互いに力場を相殺してただの金属で構成された拳でしかなく、装甲同士が打ち合わさるだけだ。

 俺の攻撃はここまで。だがイーリスの攻撃にはまだ続きがある。拳で殴りつけるのに重ねて特大の杭を相手に打ち込む技術がイーリス・コーリングのランキング6位という地位を確立させている。

 全IS専用武器の中で最も対シールドバリア性能が高いグランドスラムが放たれる。ユニオンの分厚い装甲の上からでもアーマーブレイクを発生させる脅威の物理攻撃は易々と白式の左腕を貫通した。

 

「手応えがねえ……まさか!?」

 

 ISのストックエネルギーは絶対防御の発動時に消費される。絶対防御の発動条件は操縦者が負傷するとき。つまり、操縦者さえ傷つかなければストックエネルギーが削られることはない。

 左腕装甲を切り離(パージ)した。切り離された白式の左腕は中身がスカスカの装甲でしかない。いくら強力なシールドピアースであろうとも、プレイヤー自身に当たらなければダメージにすらならないというわけだ。

 

「もらったァ!」

 

 渾身の一振り。ファングクエイクにはEN武器が搭載されておらず、雪片弐型を受け止めることは不可能。この勝負、もらった!

 

「やらせねえ!」

 

 逃げるか受けるか。その2択だと思っていた俺が甘かった。

 イーリスはあろうことか前に突っ込んできた。両手を使わない無遠慮な突進。容易く俺の間合いの内側に飛び込んできた彼女の頭と俺の頭が激突する。

 まるでピンボールのようにお互いに弾かれて壁に叩きつけられる。むくりと壁から体を起こすのは同時。

 

「クレイジーだぜ、織斑一夏! ISでパーツを自分から切り離す発想は普通はしねえ!」

「アンタも大概だ! IS戦闘で刀の間合いよりも中に入ってくるとか普通じゃない!」

 

 俺が取った手段はギド戦のときに使ったものと同じ。左手を囮にして次の攻撃につなげた。相手が格上だからこそ自分の身を削ってでも隙を作らないと勝てないからだ。

 しかしイーリスには通じなかった。原因はイーリスの技量ではなく、その戦闘スタイルによるもの。楯無さんが言っていた『ブリュンヒルデとは違ったタイプのインファイター』の意味をようやく理解した。

 拳とシールドピアースによる接近戦はブレードを使ったものとは別もの。俺の知っている近接戦闘よりもさらに内側がイーリス・コーリングの得意な間合いなのだ。

 いかに近寄るかが鍵だった今までと違う。いかに近寄らせないかも考えなければならない戦いとなっている。

 

「左手は潰した! 次はその翼でも差し出すかぁ? 剣術も戦法もブリュンヒルデには程遠い! それでアタシに勝てると思うなよ!」

 

 所詮は奇襲。もう囮で隙を作ることはできない。ぶつかり合いさえすればENブレードの方が有利だけど、イーリスの的を絞らせない機動が力勝負をさせてくれない。

 直径がたった30mという狭い空間で縦横無尽に飛び回っている。一般プレイヤーならイグニッションブーストなんてできない狭さでもイーリスは躊躇いなく使ってくる。急停止からの方向転換の技術は俺が今まで見てきた猛者と比較してもトップだと言える。

 仕方ない。相手は俺がずっとイグニッションブーストの教科書にしてきた存在だ。宍戸が教えてくれた技術の完成系に俺が追いつけているだなどとは思ってない。

 ……だからって簡単に負けるつもりなんてないけどな。

 

 イーリスがイグニッションブーストで突っ込んでくる。

 俺は雪片弐型の刀身を消してイグニッションブースト。方向はもちろんイーリスのいない方へ適当に。

 

「テメっ――逃げてんじゃねえ!」

「逃げる? いや、これはお前への挑戦だ!」

 

 俺はこの狭い空間の中でイグニッションブーストを使う。すぐに壁が迫るためAICで急停止。さらに向かってくるイーリスの位置を見極めた上で次の方向にイグニッションブースト。極短時間で情報がめまぐるしく錯綜する。

 イーリスへの挑戦とは俺の連続イグニッションブーストの限界への挑戦を意味している。

 俺の技量が劣っているのはわかっている。真っ向勝負するよりも勝率が低い追いかけっこなのも理解している。

 だけどこの戦いの目的はイーリスを打ち倒すことなんかじゃない。楯無さんが篠ノ之論文を入手する時間さえ稼げれば俺の目的は達成される。だからいずれ捕まるにしても、より時間を稼げる方法を選択したまでだ。

 

「来いよ、イーリス・コーリング! まさか俺に追いつけないとか言う気じゃないだろうな?」

「誰にものを言ってる! 瞬発力でこのファングクエイクに勝るISなんてねえ!」

 

 鬼ごっこの開幕だ。お互いに踊り続けるとしようぜ。

 楯無さんが篠ノ之論文を手に入れるまで。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 更識楯無は1人。懸念されていたアメリカ部隊の待ち伏せはなく、ゴーレムの残骸が残るだけの通路を怪訝な面もちで奥へと進む。

 果たして、この先に篠ノ之論文はあるのだろうか。

 イーリスが単独で引き返してきたことからまだ奥にはアメリカの部隊がいると考えられる。すでに篠ノ之論文を手に入れている、もしくはこのルートがハズレだと確定している場合は全軍で引き返すはず。故にまだアメリカは篠ノ之論文を手に入れておらず、このルートも調べ切れていないということになる。

 

「確証はなくても調べるしかないわね。一夏くんに無理させてるし、お姉さんが足を引っ張っちゃ悪いもの」

 

 もし篠ノ之論文が見つからなくても楯無の事情としては問題ない。企業のパワーバランスの崩壊を防ぐことが目的であるため、アメリカに渡ることさえ阻止すれば楯無の目的は果たされるのである。

 しかし成り行きとは言え織斑一夏に協力すると宣言した。簪と本音のことで借りが出来ている上に自分自身も助け出された恩がある。更識当主としてではなく刀奈として一夏に応えてやりたかった。

 

「また広い部屋……」

 

 イーリスと遭遇した場所からは一本道だった。どこからイーリスが引き返したのかは定かではないが、イーリスと行動を共にしていたはずの部隊はまだこの先にいるはずである。

 入り口の端に身を隠して内部の様子を覗き見る。事前に撒いたナノマシンでPICの反応がないことはわかっているのだが、念には念を入れて慎重に行動する。

 

「どういうこと?」

 

 辿り着いた部屋の中は不可解な光景が広がっていた。

 イーリスと遭遇した部屋と同じような球状の空間。その下半球の床にはボロボロのISを纏った人が大量に転がっている。装備を見る限りではクラウス社関連の操縦者と思われる。他にゴーレムの残骸などはない。

 

「アメリカの部隊が全滅している?」

 

 どのISを見ても戦闘不能。ここに留まっているのもログアウト不能であるからだ。

 誰がこのようなことをしたのか。その答えは部屋の中央に立っている細身の人形にある。のっぺらぼうのマネキンを思わせる人形が両手を広げると倒れていたプレイヤーたちが光の粒子に分解されて消滅した。

 

「あのマネキンの仕業……? もしかしてIllなの?」

 

 目の前でログアウトできないはずのプレイヤーが消えた。その現象を楯無は冷静にIllの能力だと分析する。

 なぜここにいるのかなど考えるだけ無駄だ。とっくにここは通常のISVSとは縁のない異界になり果てている。むしろIllがいないと断言する根拠の方が存在しない。

 アメリカの部隊がイーリスを残して全滅した。非情であるがこの時点で楯無の任務は達成されたも同然だった。このまま戦闘をせず引き返すのが更識当主として正しい判断となる。

 

「私もつくづく甘いのよね……またお爺様に叱られちゃうわ」

 

 楯無は部屋の中に足を踏み入れた。部屋の主であるマネキンは異様な雰囲気を発している。もし相手がギドと同レベルであれば楯無に勝算はない。それでも退くわけにはいかなかった。

 

「一般人の男の子が頑張ってるのに、更識の当主が逃げるだなんて間抜けな真似をできるわけがないわ」

 

 部屋の中を見渡す。部屋から出る通路は楯無の入ってきた入り口しか存在しない。つまりは行き止まり。だがそこにいる異様な存在が1つの可能性を示す。

 

「あなたが篠ノ之論文の番人さんでいいかしら? どういう手続きが必要なのかは知らないけど、案内してもらうわよ」

 

 扇子を力強く開く。書かれている文字は『臨戦態勢』。肉眼で目視できないナノマシンが部屋の中を覆い尽くす勢いで広がっていく。

 楯無のこの行為は宣戦布告に等しい。部屋の中央に突っ立っていたマネキンはふわりと浮かぶと、つるつるの顔を楯無へと向ける。

 

「我は閉所に恐怖する(ステノフォビア)。故に我は空間を広げる」

 

 機械の合成音声が響く。この瞬間、楯無は報告にあったIllと違う存在であると直感した。

 遺伝子強化素体ではない。この相手は無人機だ。だからIllではなくゴーレムと同じ部類。

 マネキンの両手に光が生成される。球体となった輝きはボールのように放り投げられ、盛大に爆発を引き起こした。

 部屋全体を閃光と爆煙が包み込む。アクア・クリスタルから生み出した水のヴェールで衝撃を抑えきった楯無であるが、部屋の中に散布したナノマシンは今の一撃で全て破壊された。

 圧倒的な攻撃範囲。その無差別な爆発は屋内においては逃げ道のない強力な兵器である。加えてナノマシンを使った搦め手を得意とする楯無にとって無差別な範囲攻撃はひたすらに相性が悪い。

 一番の問題は自爆に等しい攻撃範囲だったというのに攻撃を仕掛けたマネキン自体には全く傷がついていないということだった。

 再びマネキンの両手には光の球体が生成される。

 

「あれって倉持技研とFMSが開発中のエナジーボムじゃないの!?」

 

 簡単に言えばEN属性の手榴弾である。しかし開発中とされていたそれは投げた本人が無傷で済むだなどという仕様は存在しない。完成予定の品よりも明らかに上位に位置する武器だ。

 閉じた扇子の先を相手に向ける。相手が全方位に攻撃をしてくるためにナノマシンを使ったいつもの戦法は封じられている。通常戦闘を余儀なくされた楯無は扇子の先から水を模した弾丸を射出する。

 マネキンの手の中で光が爆発を引き起こした。楯無の放った弾丸は爆発の中に消える。

 

「くっ――」

 

 防御にアクア・ナノマシンを回さなかったために爆風をもろに浴びてしまった。攻撃を一方的に無力化され、逃げ道のない限定空間では相手の攻撃を避けられない。このまま戦っても無駄なことは一目瞭然だった。

 楯無は後ろに退がる。火力も防御力も高くない楯無の機体では根本的に勝てない相手。この最悪な相性を前にして意地になって戦う気は毛頭ない。

 通路に逃げ込んだ楯無。その後ろをマネキンが追ってくる。手にある光を投擲し、楯無の後方で炸裂した。

 

「まさか追ってくるなんてね」

 

 まだ至近距離での爆発はない。しかし楯無が逃げ込んだのは狭い通路。敵の攻撃は普通の爆発と同じように狭い空間でその威力を増している。

 

「……有効射程は爆心地からおよそ86m。攻撃の間隔(スパン)は2秒強。隙間はあるわね」

 

 通路に沿った飛行を継続しつつ、ぶつぶつと楯無は独り言を漏らす。

 その目は真剣そのもので、集中してナノマシンを操作する。

 

「マッピング完了。爆破予測地点の算出終了。ポイント確定。全アクア・ナノマシンを集結」

 

 追っ手の爆破が徐々に近くになってくる。単純な速さで楯無はマネキンに負けている。逃げていてもいずれ追いつかれることは火を見るより明らかであり、一夏やイーリスの戦っている場所にまで戻ることは出来ない。

 危機が迫っている楯無の口元に笑みが浮かぶ。元より一夏の手を借りるつもりはない。逃げ出した理由は戦略的撤退ではあったが、相手が追ってきた時点で戦う手段が生まれた。

 近距離での爆発を水のヴェールで受ける。押さえきれない衝撃で吹き飛ばされた楯無は通路上を転がった。

 足を止めてしまった。敵のマネキンは両手に光をチャージしながら突き進んでくる。

 

「もう最後の爆発地点は越えたわ」

 

 楯無は立ち上がる。逃げる素振りを見せず、追ってきたマネキンを正面から見据える。力強い視線には恐れなど皆無。相性が悪く、追い込まれている人間のする顔ではない。

 

「元々攻撃は散発だった。それが移動を加えることによって顕著に現れ、地図を見れば爆破された場所とそうでない場所に区分けされている」

 

 楯無は説明を開始する。いかに相手がバカなことをしたのかを実感させるための自己満足。それは既に状況が詰んでいるからこそできる勝者の余裕である。

 

「爆破地点のナノマシンは一掃されている。しかし移動していたせいで私の進む通路全体を爆破の攻撃範囲に入れられなかった。隙間が存在しているのよ」

 

 マネキンが立っている位置は楯無が定めたポイント。ここにはアクア・ナノマシンが結集してあり、エネジーボムによる破壊がされていない安全圏だ。つまり、楯無の攻撃の要であるアクア・ナノマシンが集中して存在している。

 

「チェック」

 

 楯無が指を鳴らして合図を下すと事前に集めてあったアクア・ナノマシンたちが槍状に変形しマネキンの胴体に突き刺さる。それを3本。串刺しとなったマネキンは移動を止められただけと割り切り、両手のエネジーボムで周囲を一層しようと試みる。

 

「それは間に合わさせない。これでチェックメイトよ、人形さん?」

 

 もう一度楯無が指を鳴らす。それを合図としてマネキンに突き立っていた水の槍が内部からアクア・ナノマシンに分解され、それぞれが多大な熱を帯びていく。

 水の槍の急激な爆発。マネキンは機体の内部からの爆発に耐えきれず全身が引きちぎれるようにして吹き飛んだ。

 

「クリア・パッション。爆発を扱わせて私に勝てるだなんて思わないことね」

 

 不利な戦況を罠の一つで逆転する。これが更識楯無の戦い方であり、強者をも打ち倒すことにつながる。

 今回は相手が動いたからこそできた方法。爆発で罠に使うナノマシンを破壊されてしまうことが問題であったのだが、通路を移動しながらと状況を変えたために、爆発の範囲外となるポイントが生まれた。そのポイントにナノマシンを結集して、攻撃直後のマネキンを誘き寄せることが出来ればあとはアクア・ナノマシンで圧倒できる。

 マネキンはバラバラの残骸となっている。楯無はそのうちの一つ、顔の部分を拾い上げた。

 

「倒したけど篠ノ之論文の情報はなしなの?」

 

 また機械音声で何かしら情報が漏れてこないかと期待していた。

 この行動に意味がないことはなかった。

 マネキンの頭からは返答がある。

 

『ステノフォビアが倒されちゃったのか~。これも人間の傲慢さだと受け取るべきなのかな? 悲しいねー』

 

 予想外だったのは最初の機械音声でなくお気楽そうな女性の声が再生されたことだった。楯無が黙って耳を傾けていると女性は続ける。

 

『この神域にまで忍び込む人間たちの増長ぶりには心底呆れ果ててるよ。やっぱりこの幻想空間を人に開放するのは間違いだったのかもね』

「あなたは誰かしら?」

 

 発言内容からゴーレムのような単純なプログラムではない。かといってゴーレムを動かしていたのが亡国企業の遺伝子強化素体とも考えていない。

 幻想空間を人間に開放した。つまり、声の主はISVSの創始者と関わりのある可能性がある。

 

『人間はこの世界に必要ない。ううん、もう邪魔。邪魔者は排除しなくちゃいけない』

「全く会話する気がないみたいね……」

『そこの人間に警告しておく。人間は直ちにこの世界への関与を停止すること。じゃないと、実力行使することになるよ』

 

 それきりマネキンの破片から声が発されることはなかった。

 楯無は額に手を当てて考え込む。

 

「今のはもしかしなくても篠ノ之束の関係者よね。でも篠ノ之束は亡国機業の“生きた化石(ヴェーグマン)”と敵対していたはず……どうして“人間”を敵視するようなことを言っているのかしら?」

 

 強敵のゴーレムを打ち破って手に入ったのは篠ノ之論文でなく疑問だけであった。情報が少なく、現時点では何も結論を出せない。

 

「旧ツムギのメンバーに接触して今の人物の情報を集めてみるべきね。とりあえず今は篠ノ之論文を探しましょうか」

 

 行き止まりに用はない。楯無は来た道を引き返す。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 狭い空間を飛び回る鬼ごっこも佳境に入っていた。初めは単純に俺の通る軌道を追尾してきたイーリスだったけど、差が縮まらないことを理解されて機動の読み合いに発展している。

 そうなってくると俺には圧倒的に経験が足りていない。慣れない連続イグニッションブーストで頭が破裂しそうなのに、イーリスの動きまで計算に入れるなんてことは難しすぎる。

 

「捉えたっ!」

 

 俺の逃げる方向とイーリスの突っ込んだ方向が噛み合った。頭に向かってイーリスの右手が伸びてきて、俺は右手で頭を庇う。するとイーリスは拳をぶつけるのではなく俺の右手を掴んできた。そのまま右手を引っ張られた俺はイーリスと共に床に向かって一直線に落ちていく。

 

「地面とチューしな、織斑一夏ァ!」

「ぐっ――!」

 

 球状の空間の最下部に俺の体が叩きつけられた。右手装甲の切り離し(パージ)を警戒しての攻撃だ。俺の逃げ道はなくなり、グランドスラムをまともに受けるしかない状況が出来上がる。

 イーリスだけでなく俺もそう思っていたんだ。

 だけど思ってもみなかった事態が俺を襲う。床に叩きつけられた俺の体は床を突き破って深く沈んでしまった。

 

「え?」

「何だと!?」

 

 お互いに意表を突かれた間抜け顔を晒す。床を突き破った先には別の空間が広がっている。宙に投げ出された俺は図らずともイーリスから距離が開き、とどめをさされることはなかった。

 それだけでなく、イーリスは俺に追撃を加えようとしてこなかった。その場で唖然としてこちら側を見ているだけ。戦闘に意識が向いていた俺だけどイーリスに釣られて自分の周囲を見回してみる。

 ここまで見てきた迷宮の内装とは全く異なっていた。殺風景な金属製の壁ばかりのSF的な景色だったのに、この部屋だけは木製になっていて趣が和風となっている。障子の貼られた引き戸やコタツなどは日本の古い家屋ではよく見られるものだ。

 俺はこの部屋を知っている。7年前までは頻繁にお邪魔していた場所だった。

 

「箒の家……?」

 

 ここは篠ノ之家の一室に酷似していた。中央のコタツに束さんがよく幸せそうに潜り込んでいたのを思い出す。ISを開発したほどの人なのに『コタツを発明した点は人類を高く評価するよー』などと言っていたっけ。

 コタツの上にはミカンなどの定番でなく1冊の本が置かれていた。その1冊だけはこの場の空気にそぐわない(おごそ)かなオーラを発している。

 これは異物。本という形態を取っているということは……もしかしてこれが篠ノ之論文か?

 

 

『今の世界は楽しい?』

 

 

 俺が本に注目したと同時だった。久しく聞いていなかったあの声を俺の耳が聞き取った。

 

「束さん?」

 

 呼びかけに返事はない。代わりに俺の視界が歪んだ。

 この感覚は誰かと深いクロッシングアクセスをしたときと似ている。

 俺の意識がこの場から乖離して急速にどこかへと飛んでいく。


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