Illusional Space   作:ジベた

28 / 57
28 その名はモッピー

 高層ビルが立ち並ぶコンクリートのジャングルを地面すれすれで飛んでいる。ISが戦うためだけにあしらわれたような町並みには車が走っておらず、道路上を低空飛行していても交通事故は発生しない。

 赤信号など気にするはずもなく、また、道路に従って飛ぶ必要もない。俺は自分から進んでビル間の狭い空間へと入っていく。

 

「ああ、もう! こんな広いステージでやってられるかっ!」

 

 愚痴の1つも言いたくなる。俺の機体“白式”は軽量(フォス)フレームの近接格闘型である。余分な武器を持つ登録容量の余裕なんてあるはずもなく、使える武器は雪片弐型1つだけ。遠くから撃たれては俺は手も足もでない。

 今の戦場は都市ステージ。障害物がある方ではあるが範囲が広すぎるために敵と接近戦をすること自体が難しい。屋内ならばとも考えたが、相手はミサイルを所持している。屋内に引き込もうと俺が入っていったところで建物ごと攻撃されるため却下した。

 というわけで俺が立てた作戦は建物の影を飛び回り、近距離で鉢合わせるまで粘るという消極的なものだった。ハッキリ言って詰んでいる。

 

「見っけ! ほらよっと!」

「のわっ! あっぶね!」

 

 頭上から声がしたあとで射撃が飛んでくる。何も言われずに撃たれていたら多分避けられなかった。つまり、俺は手加減されている。

 対戦相手であるISは右手の長大な銃を俺に定めている。種別はレールガン。サプライエネルギーの消費がある代わりに驚異的な弾速を得た実弾装備であり、実弾に弱い俺の機体の天敵の1つである。

 なんだかんだで敵は俺を倒すチャンスを逃した。俺が勝負を決められるとすればこのタイミングしかない。イグニッションブーストを使用して真上へと爆発的に加速する。

 だけどこれで捕まえられるなら俺は苦労をしていない。

 敵は俺が見ている前で体操座りをするように膝を抱え込むと装甲が組み変わり、手にしていたレールガンが顔の正面に移動。背中の装甲と一体化すると見事な流線型が出来上がる。最後に翼状のブースターを展開すると一気に加速して遙か彼方に飛んでいった。その姿は戦闘機そのもの。

 

「くっそ、速ぇ……」

 

 瞬発力では白式も負けてはいない。しかし敵の戦闘機は移動できる距離が違う。相手は拡張装甲(ユニオンスタイル)ブースター特化型(ファイタータイプ)。広いステージではとても追いつけない。

 エアハルトとの戦いも逃げられたときは同じように追いつけなかった。奴の場合は攻撃方法が俺と同じ接近戦だったから迎撃で渡り合えていたのだが、この相手の場合は――

 

「うわっ! また狙撃された!」

 

 レールガンで遠くから狙ってくる。イグニッションブースト直後に肩に被弾したためストックエネルギーが大幅に削られてしまう。ついでに機動性まで低下していた。

 

「はい、おしまい」

 

 相手の勝利宣言の後、俺に向かって飛んできたのはミサイルの群。回避はとてもできず、雪片弐型しかない俺には撃ち落とすこともできない。次々と命中して、とどめのレールガンを喰らったところで試合終了となった。

 

 

 試合に敗北してISVSからログアウトする。イスカの挿入されたメットを外していつものゲーセンに戻ってきた。

 また負けた。

 情けない戦果に恥じてがっくしと俯いていると目の前に白い手が差し伸べられた。顔まで辿って見ればセシリアである。

 

「お疲れさまですわ。これで100戦目が終了ですわね」

「なんか凹む……」

「ここまでの勝率は33%。大きく負け越しています」

「やめて! 具体的な数字で言わないで!」

 

 セシリアに悪意がないのはわかってるけど、簡単にまとめられると軽くショックを受ける内容である。強いプレイヤーを選んだとはいえ勝率32%は非常に心許ない数字だった。

 

 始まりは千冬姉の一言だった。それは『一夏の腕前を教えてくれ』というもの。

 てっきりブリュンヒルデと試合をするものと思っていたんだが千冬姉的には意味がないらしく、代わりに提案されたのが身近な猛者たちとの10回勝負だった。今は俺が直接Illの調査をする必要もないから、俺自身の訓練と思えば無駄ではない。

 箒の居場所を知ってからの1週間、放課後と休日はプレイヤーとの対戦に明け暮れていた。俺としてもどの程度強くなったのか腕試しをしたいという欲があってノリノリだったのも付け加えておこう。

 

 ……それがこんな結果になるなんてな。

 

「わかりました。口には出しませんわ」

 

 そう言って金髪縦ドリルのお嬢様が満面の笑みで手渡してきたのは1枚の紙。

 俺は素直に受け取って目を通す。途端に悶絶しそうになった。

 

――――――――――――――――――――

【戦績】

VSリン() 5勝5敗

VSバレット() 3勝7敗

VSマシュー 6勝4敗

VSリベレーター(生徒会長) 6勝4敗

VSバンガード 8勝2敗

VSベルゼブブ(幸村) 0勝10敗

VSシャルル 0勝10敗

VSラウラ 0勝10敗

VSアーヴィン 4勝6敗

VSカイト 1勝9敗

――――――――――――――――――――

 

 書かれていたのはこの1週間の戦績だった。今日までに戦った10人との勝敗数が並べられている。

 こうして振り返ると最初の頃は良かったんだ。弾には負け越したけど鈴とはギリギリで五分だったしマシューや生徒会長には勝ち越した。バンガード先輩に至っては圧勝だったと言ってもいい。なのに――

 

「俺、幸村(ベルゼブブ)相手に1勝もできなかったんだよなぁ……」

 

 まさかの相手に全敗した。

 シャルやラウラに勝てないのは仕方がない。ラウラは文句なしのランカーだし、最近のランキングを覗いたらシャルもギリギリ100位にランクインしていた。

 だけど、一度は瞬殺したこともある相手に手も足もでないとは思わなかった。

 

「仕方ありませんわ。一夏さんの機体は雪片弐型の運用に特化した構成ですから相性次第ではこうなっても不自然ではありません」

「それはそうなんだけど、マシンガンが相手ってだけなら弾の奴に3勝できたんだぜ?」

「ベルゼブブ戦での最大の敗因は一夏さんが勝手に混乱して自分からマシンガンの前に飛び出したことによる自滅だった。そうハッキリ言っていいのでしょうか?」

「うん、俺に確認を取ろうとする時点で言っちゃってるから手遅れだよね」

 

 思い出すだけで憂鬱になる。適当に弾丸をばらまかれて道を制限され、飛び込もうとしても近づけずに徐々にエネルギーを削られていく一方的な展開。ついには一度も攻撃を当てられずに試合終了。10戦全てをパーフェクトでやられた。ラウラやシャルにはまだ一撃は当てられていたのに……

 昨日、土曜日に戦った3人には1勝もできなかった。心が折れそうだったけど、今日戦った2人からはなんとか5勝。負け越しではあるけど、少しだけ気が楽になった。負け越し……だけど。

 しかし全体で見ても勝率33%。3回に1回しか勝ってない。そんな俺が千冬姉以上に敵にマークされてる現状を考えると、今のセシリアみたいに笑うしかない。

 ……笑えねえよ。

 

「なあ、なんでセシリアはそんなに嬉しそうなんだ? 俺、負けてるのに……」

 

 もう限界だった。ずっと俺の戦いを見てくれていたセシリアが俺の敗戦を眺めて楽しげだと俺はとても不安だ。彼女が味方でないようなそんな錯覚すら感じてしまう。拗ねたくもなる。

 

「一夏さんが負け続けているように感じるのは1対1の試合だけに注目しているからですわ。安心してくださいな。実戦ではわたくしが見ています」

「あー、そう言われたらそうか。納得していいのかは疑問だけど」

 

 言われて思い出した。昨日、30連敗した後で2対2のタッグマッチも10戦したんだった。組み合わせは俺&セシリアVSシャル&ラウラ。その戦績は10勝0敗。

 セシリアと出会ったときに彼女は言っていた。自分が見ていれば俺は無敵なのだと。まさかランカーコンビを相手にしても圧倒できるだなんて俺だけじゃなくセシリア本人も思ってなかったんじゃないだろうか。

 セシリアが笑っているのは俺が敵に負けると微塵にも思っていないからだ。そうわかった途端に俺の心は安らぐ。

 

「これから、どうなさいますか? 昨日のようにタッグマッチで憂さ晴らしをしますか?」

「いや、今日はもう帰るよ。千冬姉が言いたいことはなんとなくわかったし」

 

 俺がどういうときに勝てるのか。これを見失ったとき、俺は誰にも勝てなくなる。ちゃんと自分の能力を把握しておけということだったんだろう。

 

 俺の単一仕様能力(ワンオフアビリティ)“共鳴無極”。

 クロッシングアクセスをしている対象とエネルギーや装備を共有する特殊な力。

 大事な局面ではずっとこの力に支えられてきた。

 過去に俺が倒してきた強敵は俺ひとりが倒したわけじゃない。

 この1週間の試合はそう見つめ直すのに十分な結果を残したと言える。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 人がぎりぎりすれ違える程度の狭い廊下に楽しげな鼻歌が響く。アカルギのブリッジから出た人影はピンク色のポニーテールを揺らしてスキップする。ツムギのリーダーであるナナだ。少し前までの彼女を知る人が今の彼女を見れば、変なものでも食べたのかと心配することだろう。

 

「なあ、シズネ。ナナの奴、大丈夫か?」

「もちろん。今は何もかもが順調ですよ」

 

 軽やかにアカルギの外へと飛び出していくナナの後ろをシズネとトモキの2人がついて歩く。トモキは素直に疑問を口にしたがシズネは問題ないと断言した。ならば大丈夫なのだろう。しかし、トモキは怪訝な顔を崩さない。

 

「いくらなんでもおかしい。何かあったとしか思えない。それともこれから何かあるのか?」

「知りたがりなトモキくんのためにちょこっとだけ教えてあげましょうか。他の人には内緒にしておいてくださいね」

 

 無表情のままシズネは口の前で人差し指を立てる。内緒の話と聞いたトモキは黙って頷いた。

 

「この世界はISVSというゲームです。現実にいるプレイヤーはイスカというカードとISコア、あるいはその劣化模造品を介してこちらの世界のアバターへと意識を移しています。しかし私たちにとってこの世界はゲームの枠に収まるものではありません。悲しいことですが、今の私たちはこの世界の住人なのです。いつか解放される日まで、私たちは現実と切り離された仮想世界でしか生きられません」

 

 シズネが視線をトモキから外して前を歩くナナに移す。アカルギの外に出たナナが1人の女性プレイヤーと握手を交わす。トモキには見覚えのないプレイヤーだった。

 

「もし逆があったら。もし私たちが一時的に、あるいは限定的に現実へと帰ることができたら。トモキくんはそう思ったことはありませんか?」

「まさか……」

 

 トモキはシズネの言わんとすることが何かを漠然と理解する。

 プレイヤーがISVSに入る。今の自分たちの状況を鑑みて、その逆とは1つしか考えられない。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

「ただいまー……ってあれ? なんか靴の数が多いぞ?」

 

 セシリアと一緒にゲーセンから帰ってきて玄関を開けると、見慣れない靴が並んでいる。2人分、それも女子のものだ。俺には心当たりがないから後ろにいるセシリアの方を振り返ってみる。

 

「わたくしも聞いていませんわ。千冬さんのお客様では?」

「そういや今日は千冬姉が普通に家にいるもんな」

 

 俺たちには関係のない人だろうと結論づけてとりあえず家に上がる。すると2階からドタバタと降りてくる足音が聞こえてきた。

 

「だ、抱きついてくるなっ! 私は愛玩動物などではない!」

「ダーメ。猫は猫らしく僕の膝の上で大人しくしないと」

「それを言うならお前も猫だろう!」

 

 最初に騒々しく1階に現れたのは黒いもふもふの人型だった。袋状の衣服に体がすっぽりと入り、露出しているのは顔だけ。頭には猫耳があしらわれたフードが覆い被さっている。フードの下には輝く銀髪と黒い眼帯があった。どう見てもラウラなのだが、なぜ軍人の彼女がこのような格好をしているのだろうか。

 続けて現れたのは白いもふもふ。ラウラの着ぐるみと対になっているような白猫だ。階段下で方向転換しようと失速した黒猫ラウラにタックルの要領で飛びついた白猫のフードの下にある顔はシャルである。

 

「つっかまえた! ふっふっふ。早速『にゃーん』と鳴いてみようか」

「な、なぜ私がそのような真似を――」

「可愛いからに決まってるじゃん!」

 

 俺の知ってる“夕暮れの風”の紳士っぽい面影が一切感じられない、理不尽な要求をラウラに迫っているシャルの姿は実に楽しそうである。

 2人とも俺たちに気づいていないけど、声をかけるべきだろうか。いや、邪魔しちゃ悪いしこのまま眺めていよう。

 

「じゃあ先に僕がやってみるから。にゃーん♪」

 

 シャルが右手だけ招き猫のようなポーズを取る。するとラウラも恐る恐るといった様子で右手を顔の横に持って行きシャルの真似をした。

 

「にゃ、にゃーん……」

「よーし、録音完了! 次は写真撮影しよう!」

「わ、私のこの醜態を記録に残すというのか!? いくらシャルロットといえど、宣戦布告も辞さない!」

「えーと、携帯のでいっか。もっと性能のいい奴があるといいけど……」

「俺のデジカメで良ければ部屋にあるぞ?」

 

 あ……つい口出ししてしまった。

 その瞬間にじゃれ合っていた猫たちは動きを止める。ギギギという音が聞こえてきそうな鈍い動きで揃って俺たちの方に顔を向けてきた。

 気づかれてしまっては仕方がない。俺たちも彼女たちの輪に入ることとしよう。

 

「面白い格好だな。どうしたんだ、それ?」

「似合うから着てみろとシャルロットが勧めてきたのだ。寝間着として使えるというのもあってな」

「う、うん。もう冬も本格化してくるからいつまでも下着姿で寝てるのは体に良くないって一夏も思うよね?」

「そりゃそうだ。ってか何度も言うように健全な男子高校生の住んでいる家だという自覚は持ってほしい」

「だからラウラがこのパジャマを着れば一夏の目に優しいし、癒されるはずだと僕は考えたわけなんだ。わかってくれた?」

「確かに癒されたかも。2人とも可愛いし」

 

 なんというか、こう……女子の色気抜きに愛でたくなる小動物的な可愛さというものがあった。恥ずかしがりながら猫の真似をするラウラというのもISVSの猛者という普段とギャップがあって良い感じである。まあ、それを口に出すとラウラが機嫌を悪くすると思うので黙っておく。

 シャルがいつの間にか涙目から復帰している。見られて恥ずかしかったのかと思ったけど彼女的にフォローが成功でもしたのだろうか。まあ、解決したなら俺が無駄に口を出すことでもないか。

 

「今日は2人で買い物に行ってたんだな」

「違うよ。このパジャマはさっき貰ったものなんだ」

 

 俺とセシリアがゲーセンに行ってる間に2人で買ってきたのだと思っていたが違うらしい。

 さっき貰った?

 見たところ2人が着ているパジャマは手が込んでいる。結構な値段がするだろうと見積もっていたのだがタダでプレゼントされたらしい。

 誰から?

 そう考えていると客間の戸が開く音がした。トタトタと軽めの足音とともにお客さんが顔を出す。

 ……誰だろう?

 千冬姉の客にしては若い。というかどう見ても俺たちと同世代の女子だった。膝下にまで届いているような長さの袖という目立つ服装をしている。全く見覚えのない顔だけど、どこかで見たような気がする。

 動きのひとつひとつがのんびりとしている。俺にこんな知り合いはいないはずだ、うん。

 

「あ! 推定おりむーが帰ってきたよ~、かんちゃん」

 

 おりむーって何だろう?

 客人と思しき少女……仮にのほほんさんと名付けよう。彼女は俺の顔を見ると後ろを振り返る。

 そういえば靴の数は2人分。俺の視線は自然ともうひとりの客人へと注がれる。のほほんさんが『かんちゃん』と呼んだメガネの少女の顔は俺の記憶にあった。

 

「簪さん……?」

「やっと会えたね、一夏くん」

 

 千冬姉の知り合いだと思いこんでたが俺の客だったようだ。千冬姉が客間の方に通しておいてくれたんだろう。

 彼女は更識簪。まともに話したのはギドとの決戦のときくらいで、あれからずっと会っていなかった。

 

「元気だったか? お姉さんとは仲良くやってる?」

「うん……あのとき、一夏くんとつながって勇気が持てるようになったの。今までずっと言えてなかったけど、本当にありがとう」

「そっか。で、その子は?」

「布仏本音。一夏くんが助けてくれた、私の大切な友達……」

「俺だけの力じゃない。簪さんが自分自身の手で助けたんだよ」

 

 この長い袖の服を着た子が布仏本音か。略したら本当にのほほんさんじゃないか。弾の彼女である虚さんの妹と同じ名前。更識家と布仏家は家族ぐるみの付き合いなんだろうな。

 今日の簪さんは袖の長い服を着ていない。きっとあの服はのほほんさんのもので、簪さんが勝手に着ていただけ。目が覚めない状態でも近くに感じていたかったその気持ちは痛いほどわかる。

 簪さんに紹介されたのほほんさんが俺の前に進み出てきて右手を出してくる。

 

「よろしくね~、おりむー」

「ああ、よろしく」

 

 握手に応じてから気づく。

 

「おりむーって俺のことかぁ!?」

「それでね~、なんとかんちゃんからおりむーにプレゼントがあるんだよ~」

「え……プレゼント……?」

 

 プレゼントと聞いて俺は猫耳パジャマ姿の2人を頭に思い浮かべる。タイミングから考えてあのパジャマは簪さんとのほほんさんのどちらかから貰ったものだろう。

 ……俺にも用意してるってことか? 見るのはいいけど着るのはちょっと勘弁。

 

「こっちに来て……」

 

 簪さんが手招きする。向かう先はさっき出てきた客間の方。プレゼントとやらもそっちにあるらしい。ちょっと見るのが怖くなってきたけど行くしかない。

 ほとんど使う機会のない客間へと足を踏み入れる。特に最近は掃除をしに入ることすらないからまるで自分の家とは感じられない目新しさすら感じている。少なくともセシリアが来るまでは高そうな壷なんて置いてなかったはずだ。

 中には既に座っている人がいる。俺の代わりに簪さんの応対をしてくれていた千冬姉だ。簪さんたちが玄関にまで来ている間、一人でずっと待っていたのだろう……と思っていたのだが、どうやら違うらしい。

 千冬姉は客間に入ってきた俺たちではなく、テーブルの上に乗った二頭身のぬいぐるみと向き合っていた。その目つきは真剣そのもの。

 

「――すまないな。彩華から聞いて知ってはいたのだが、会うわけにはいかなかった。こうして話ができるのもお前たちが自らの手で真実を知ったからだ」

 

 どうしよう。千冬姉が全長40cm弱のちんちくりんなぬいぐるみに話しかけている。まさか千冬姉にそんなファンシーな一面でもあったのか?

 しかし可愛くないぬいぐるみだ。二頭身ではあるが一応は女子を象っている。髪型がポニーテールであること以外に大して特徴もなく、ゆるキャラっぽく描かれた表情は俺の好みに当てはまらない。

 

「あれから7年、一夏はずっと私を探してくれていました。それがわかっただけでも私は満たされています」

 

 ぬ、ぬいぐるみが動いた上に喋った!? それにこの声は――

 

「箒か!?」

 

 電話以外ではISVSに入らないと聞けないはずの箒の声をテーブルの上のぬいぐるみが発している。あのぬいぐるみの中に携帯電話のような機材でも入っているのだろうか。

 俺はついナナではなく箒の名を呼んだ。するとちんちくりんは片足を軸にしてターンして俺の方を向く。そして、

 

「一夏ーっ!」

 

 膝のない足でテーブルを走り、端で踏み切ると俺の胸に飛び込んできた。ぬいぐるみだからかすごく軽い。俺は反射的にぬいぐるみを抱き抱える。

 

「これが本当の一夏の顔なのだな。私の思ったとおりの顔だ。ヤイバの顔も悪くなかったがやはり銀髪だけは好かん。日本男児なら黒髪でいいだろう」

 

 手の中にあるぬいぐるみが俺をまじまじと見つめてコメント。良くできたぬいぐるみだ。ゆるキャラっぽさが消えることはないが、目や口がちゃんと変化するようになっている。

 などとぬいぐるみ自体の観察はさておき。

 

「まだ何も説明されてないから良くわかんねえけど、今、箒と通信してるってことなのか?」

 

 ぬいぐるみにではなく簪さんに確認する。どう考えてもこのぬいぐるみに使われている技術はおもちゃの域を超えている。倉持技研が関わっているのは一目瞭然であり、この場で倉持技研と一番関わりが深そうなのは彩華さんの研究所にいた彼女だ。

 

「厳密には違うけど、一夏くんから見ると同じようなものかな。今、一夏くんに話しかけてきてるのは正真正銘、ISVSにいる箒本人だよ」

 

 何が違うのか説明してくれなかったけど箒と会話していることだけは事実と見て良さそうだ。

 俺が簪さんと話している間、ぬいぐるみはぺしぺしと俺の胸を叩いている。

 

「うむ。少し物足りないところもあるが、全く腑抜けていたわけではないようで安心した」

「何を確認してるんだよ……って見えたり動かせるだけじゃないのか?」

「うん。箒から見ると、まるでこの世界にいるかのように感じられてると思うよ。私たちにとってのISVSのように」

 

 このぬいぐるみがどういうものなのか良くわかった。本当におもちゃなんかじゃない。これは箒が現実に来るためのアバターのような存在だ。会話はもちろんのこと、ぬいぐるみを通して現実の俺の顔を見たり触ったりできる。俺にとってはそこまで大きなことじゃなくても、箒にとっては全然違うはず。

 もしかしてと思い、俺はぬいぐるみの頭を撫でてみた。するとぬいぐるみはちんちくりんな体を必死に捩る。

 

「こ、子供扱いはやめろ! それに、くすぐったいぞ!」

 

 ――くそっ! 急にこのぬいぐるみがとてつもなく可愛らしく見えてきた!

 少し、落ち着け、俺。さっきのシャルみたいな醜態をセシリアに見せるつもりか?

 後ろを振り向く。

 ……あれ? セシリアがいない。

 よく考えてみれば客間に呼ばれたのは俺だけだからセシリアはついてこなかったんだな。今日はずっと一緒に居たからここにもいるものだと思いこんでた。

 

「良かったねー、かんちゃん。おりむー、すっごく喜んでるよ~」

「……頑張った甲斐があった」

 

 腕の中で暴れる箒のぬいぐるみと戯れていると簪さんとのほほんさんが話しているのが耳に入ってきた。

 

「ん? これって簪さんが作ったの?」

「うん。遠隔操作ISの研究もしてて、そのうちの1つを応用してみた。実際に組み立てたのは本音だけど……」

「かんちゃんが理論で~、私が組み立て~」

「難しかっただろうにすごいな。ってそういえばさっき言ってたプレゼントっていうのは……」

 

 期待と嫌な予感が入り交じった目を簪さんたちに向ける。すると答えたのはのほほんさん。

 

「そうだよ~。おりむーにはその“モッピー2号”をあげちゃいまーす」

 

 信じられないことだが、このIS技術まで使われていそうな“モッピー2号”を俺にくれるらしい。少しだけ期待はしたけど、まさか本当に俺へのプレゼントだとは思わなかった。

 しかし俺の口から出てきたのは礼よりも先に疑問。

 

「これって2号なの!?」

「1号はモッピー2号の中の人だよ~」

 

 のほほんさんが言うにはモッピーとは箒のことらしい。きっと俺がそう呼んだら怒り心頭だろうことは容易に想像がつく。俺の中ではこのぬいぐるみだけをモッピーということにしておこう。

 

「本当に俺が貰っていいのか? 機密の塊のような気がするし、何より高いだろ?」

「大丈夫。お金の方は心配ないし、情報に関しても一夏くんが進んで外部機関に売り渡すなんて思ってない。彩華さんの許可も出てる」

 

 色々と心配事が多そうなプレゼントだけど彩華さんが許可してるのなら別にいいか。あの人は基本的に甘いとは思うけど、倉持技研の利益が最優先という言葉に嘘はないだろう。これが倉持技研にとって不利益にはならないって判断があったんだ。

 

「どうして俺にこんなプレゼントを?」

「お礼がしたかったの……一夏くんにも箒にも助けられたから……2人が喜んでくれることはないかって……考えたの」

 

 簪さんは両手の人差し指同士を突き合わせながら、ポツリポツリと理由を言ってくれた。別に気にしなくていいと思っているのは本心だけど、ここまで俺たちのことを考えてくれたのは素直に嬉しい。

 

「ありがとう、簪さん」

「ど……どういたしました」

 

 何故か簪さんは急に顔を俯かせてぼそぼそとした喋り方になってしまった。立て板に水のごとく流れるようにモッピーについて説明をしてくれていたのにどうしたんだろう?

 

「よ、用件はこれだけだから……ま、またね!」

「え、あ、ちょ――」

 

 挙げ句の果てに高速でペコリとお辞儀をして客間から退室。彼女を追って俺が廊下に出たときにはもう玄関から外に飛び出していた。

 

「かんちゃんは恥ずかしがり屋さんだから気にしないでね。お邪魔しました~」

 

 モッピーを抱えて立ち尽くしている俺の脇をのんびりとのほほんさんが玄関へと歩いていく。

 簪さんの後を追いかけるのほほんさんを玄関で見送った後で俺は客間に戻ってきた。中にはまだ千冬姉が残っている。

 

「千冬姉もありがとな。俺の代わりに応対してくれてたんだろ?」

「あながち代わりというわけでもない。あの娘には聞きたいことがあった」

「千冬姉が簪さんに? もしかして事件の関係?」

「この際、隠していても仕方がないから言っておこう。いずれオルコットからも同じ話が出るだろうしな」

 

 千冬姉も簪さんに用事があった。簪さんは偽楯無として俺の前に立ちはだかったことがある。蜘蛛のIllを逃がしていたのも彼女だった。まだ俺は簪さんにその辺りの経緯を確認してない。彩華さんから俺の状況を聞いていたらしい千冬姉が問いつめていても不思議じゃなかった。

 

「まず結論だけ言うと、更識簪は敵のことを何も知らない。更識の連中からも切り離されていたらしく、亡国機業の名前すら聞いたことがないという有様だった」

「俺も同感。何回か俺を襲ってきてたけど、ヤイバの髪が遺伝子強化素体を思わせる銀色をしていたからだったと考えてる。簪さんはそのことについて何か言ってた?」

「記憶に混乱が見られた。ただ敵を追っていた記憶があるだけで、気づいたときには一夏とともにIllと相対していたと証言している」

 

 俺が駆けつけた後からの記憶しかないのか。敵の情報どころか簪さんがIllを追っていた経緯もわからない。簪さんが千冬姉に嘘をつく理由はないから本当だと思う。

 だけど1つ、わかったことがある。

 

「簪さんは勘違いをしていたわけじゃなくて、何者かに洗脳されていたってことだよな?」

 

 千冬姉が頷く。簪さんが俺たちの敵に回ったのには確実に第三者の手が入っている。自らが表に立つことなく、自らの痕跡を残さずに簪さんを操っていた。彼女の中の友達を助けたいという思いを利用して……

 今すぐにその黒幕を殴りつけてやりたい衝動に駆られる。ギドを倒してもまだ奴らとの決着はついてない。俺の中に芽生えた全ての怒りをエアハルトにぶつけてやろう。

 ……ん? エアハルト?

 ここで違和感を覚える。簪さんを利用したのがエアハルトというのはどうもしっくり来ない。

 奴は何度も俺と真っ向勝負をしている。今更、姿を隠す必要なんてない。

 奴には俺と箒に執着している節も見られた。俺との勝負から逃げていると取れるようなことをするとは思えない。

 洗脳と言う手段を取るにしても、もっと俺に対して挑発的に仕掛けてきたはず。

 

「何か気になることでもあるのか、一夏?」

「ああ。簪さんの件だけど、エアハルトの仕業じゃない気がする。だから何だって話だけどさ」

 

 事件に進展のない程度の話だ。エアハルトと違う手口を使う人間が敵の中にいるってだけだろう。

 

「俺のすることは結局変わらない。昏睡事件を引き起こしている奴らを倒して箒を現実に連れ戻す。それだけだ」

「私だけじゃなく静寐や他の皆も忘れるな」

「お、おう……そうだな」

 

 腕の中にあるモッピーの付け足しに戸惑いつつ同意する。千冬姉と話していた間、大人しかったから失念してたけど、今の話も全部箒に伝わってるんだった。失言をしなくて良かった。

 

「いい機会だ。一夏も居ることだし、箒に聞いておきたいことがある」

 

 改まって千冬姉がモッピーに話しかける。またもや真面目な雰囲気だ。俺を交えての方が都合がいいってことは……行方不明になっている束さんに関係することだろうか。

 

「お前たちは付き合っているのか?」

 

 ……何を言っているんだ?

 俺は普段の3倍の速さで瞬きをした。真面目な顔をした千冬姉の言葉が頭に上手く入ってこない。

 問いかけられたのは俺ではなくモッピー、もとい箒だ。ぬいぐるみ姿の彼女はひどく慌てた様子で、

 

「そ、そんなわけありません!」

 

 否定した。たしかにそれは事実。だけど『違う』じゃなくて『そんなわけない』と言われて少し胸が痛くなる。こう感じるのは俺が箒に特別な好意を抱いているからなのだろうか。

 

「あら、何やら面白そうなお話をしていますわね。わたくしも混ぜてくださるかしら?」

 

 このタイミングでまさかの乱入者。声だけ聞けば姿を見ずにわかる。セシリアだ。

 

「いや、セシリア。頼むから今は放っておいてく――」

 

 客間の入り口にいるであろうセシリアの方を向いた俺は最後まで言い切ることができずに固まった。そんな俺を差し置いて彼女は俺の腕の中のモッピーに顔を寄せる。

 

「これがモッピー2号ですか。倉持技研の技術力には驚かされますわね。1号さん、聞こえますかー?」

「ラピス、貴様! 実はずっと話を聞いていただろ!」

「こちらでのわたくしはセシリア・オルコットですわ。お見知り置きを、モッピー1号さん」

「ええい、そのようなふざけた名で呼ぶな! 私は篠ノ之箒だ!」

「あらあら? たしか箒さんが現実に帰るまで、その名前は名乗らないというお話ではありませんでしたか?」

「なぜ貴様がそのことを知っている!? って私が話したのだった!」

 

 モッピーが手玉に取られている。ISVSの中でシズネさんに同じように振り回されていたから特に珍しくもない。

 

「そういうわけでISVSではナナさん、このぬいぐるみにはモッピーと呼ぶことにしますわ。わたくしはぬいぐるみを箒さんと呼びたくはありませんので」

「そうか……心遣い、感謝する」

 

 セシリアは頑なにぬいぐるみに箒と呼びかけない。その理由を俺も箒も察した。もっとちゃんとした形で会えたそのときに、その名前を呼ぶと決めているんだ。

 俺もそうあるべきだった。箒との新しいコミュニケーションの形を提示されて舞い上がっていたのかもしれない。まだ箒は現実に戻っていないことを胸に刻んでおかなければいけないと思わせられた。

 

 やっぱりセシリアはすごいよ。俺が腑抜けそうなところでちゃんと引き締めてくれる。

 だけどさ、そろそろ俺からも言わせてもらっていいか?

 

「ところでセシリアのその格好は何なんだ?」

 

 俺と一緒に帰ってきたときは普段着だった。なのに、ちょっと目を離した隙に、ラウラとシャルが着てた猫の着ぐるみパジャマ(青色バージョン)になってやがる。猫耳フードを被っていてもトレードマークの金髪縦ロールは健在だ。

 

「わたくしも布仏さんからいただきましたので着てみました」

 

 猫パジャマセシリアは右手を腰に当てた立ちポーズを決める。

 ……訂正。全然決まってない。絶望的に衣装と合ってない。

 セシリアが俺をじっと見つめる。何かコメントを欲しがってるのはわかる。けど、言ってしまっていいのだろうか。

 コメントに窮しているとセシリアの顔が笑顔のまま青くなっていく。彼女のパーソナルカラーだけど、顔色まで青くなるのは見てて辛い。なんでこんな真似をしたんだ、セシリア!

 

 俺が困っていると、モッピーが俺の腕から床に降りた。てけてけとセシリアの足下に歩いていったかと思うとセシリアの肩によじ登る。何か耳打ちをしているようだが俺には聞き取れない。

 言いたいことを伝え終えたモッピーがセシリアから飛び降りてまた俺のところに戻ってくる。その間、セシリアは1回だけ大きく深呼吸をした。何やら気合いが入っている。そして、

 

「にゃーん、ですわ!」

 

 さっきシャルとラウラがしていた猫っぽいポーズを取る。どうして彼女は涙目になってまでこんなことをしているんだろうか。罰ゲームなのかな。

 本当は笑ってやるところだろうけど、ちっともそんな気は起きなかった。俺には事情がよくわからないけど、彼女の必死な姿はただひたすらに――

 

「可愛いな」

 

 可愛かった。お世辞なんかじゃない。するとセシリアはくるりと向きを変えて何も言わずに出ていった。結局何だったんだろうか。

 そこへ千冬姉の一言。

 

「わからないな」

「千冬姉もか? 俺もそうなんだよ」

「違う。私がわからないと言ったのは一夏に対してだ」

 

 そう言い残して千冬姉は立ち上がり、さっさと自分の部屋へと戻っていってしまった。

 千冬姉がわからないのは俺の方? 俺も千冬姉の意図が掴めない。長い間、2人で生活してきたけど、以心伝心というわけにはいかないもんだ。

 残ったぬいぐるみに俺は話しかける。

 

「俺って変か?」

「今更な話だな。最初から一夏は変な男だぞ」

「そっか……」

 

 モッピーにまで言われて俺は凹んだ。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 古い日本の屋敷には似つかわしくない大がかりな地下。謹慎中の楯無に用意された部屋の中にまだ楯無は居た。書類と睨めっこを延々と続けていたがもう限界がきていた。持っていた書類を投げ出して机に顔がダイブする。

 

「もう嫌! なんで私がまたこんなところに閉じこめられてるのよ!」

「当主代行にお嬢様の敗北が伝わってしまったのが原因です。諦めましょう」

「虚ちゃんがわざわざ報告したからでしょ! 言わなきゃお爺様にバレなかったのにぃ!」

 

 ギドとの戦いから1週間が経過した。一夏と簪がギドを打ち破った直後に目覚めた楯無は簪とともに布仏本音が入院する病院へ見舞いにいった。楯無に与えられた自由時間はそれまでだった。

 その後、更識の屋敷に帰ってきた楯無を当主代行である祖父が待ち受けていた。代行とは言っても現当主であるはずの楯無よりも権力は上であり、楯無が逆らえない相手である。

 布仏本音を助けるという第一目標を達成した楯無に祖父がかけた言葉は短かった。

 ――1週間の謹慎を言い渡す。

 理由は言われなかったが祖父の怒りだけは感じ取れた。その場は口答えもせずに楯無は引き下がり、以降、学校以外では地下に籠もることを強制されている。

 

「ああ、もうダメ。虚ちゃんが裏切ったせいで私の心にはもやしが生えてきそうだわ」

「どういう例えなのか理解しかねます、お嬢様」

「お日様が恋しいってことよ」

 

 頬を膨らませて不満を露わにした楯無はむくりと机から顔を起こす。しかし側近の少女は主人の機嫌取りなどする気がない。

 ……駄々をこねても困ってくれないから面白くない。

 楯無は不服な現状の愚痴を垂れ流す演技をやめにして投げ捨てた書類を拾い上げた。ここに書かれているのは楯無が依頼した調査の報告である。

 

「それでさ、虚ちゃん。このリストに漏れは無いのよね?」

「はい。倉持技研、第二海上研究所に先週までの1ヶ月間に出入りした人物は全てそのリストに載っています」

「そう。この中で簪ちゃんと面識のある人間は……30人か。意外と多いわね」

「簪様は高校生でありながら多様な研究に関わりがありました。必然的に簪様を訪ねる者も多くなるかと。もっとも、全員が門前払いに近い扱いを受けたようですが」

 

 この1週間。まず楯無が行ったのは簪に近づいていた者の調査である。元から警備が厳重な研究所のため、どのような人物が出入りしているのかは記録を辿れば一目瞭然となっていた。倉持彩華が勝手に招き入れた織斑一夏ですら載っているため、漏れがあるようにはとても思えない。

 簪が研究室に籠もっている間に彼女を訪ねた人物の割り出しも終わっている。しかしその全員が簪に会うことすらできなかったことが判明した。

 何者かが簪に接触していなければ、簪の暴走に説明が付かない。本音のいない間、高校を休みがちだった簪に会うには倉持技研に入ることは必須。

 

「残っている可能性は倉持技研の研究員ですね。倉持会長は更識嫌いで知られていますが、あの織斑と懇意だったと聞いています。あの企業が亡国機業やアントラスと親しいとは考えられないので、スパイが紛れ込んでいると考えるのが妥当でしょう」

「そうなっちゃうわね……だからこそそれはハズレ。考えたくなかった可能性だけど、このリスト見たら納得しちゃった」

 

 報告書を提出した虚に見えなかったものが楯無には見えていた。虚の推論を否定する顔に迷いはない。

 

「あの男が動いてるのだとすれば、この程度の記録くらい簡単に改竄してみせるはず。でも消したことが裏目に出てるわ。私から見れば名前が載ってないこと自体が怪しい。こんなミスをしたってことは、私と情報戦にならない確証があったからとも言えそうね」

 

 まだ可能性の段階ではある。さらに言えば、今見えている敵が全てとは限らない。行動に移すときは殲滅する気でかからなければ、逆に手痛い目に遭う。

 

「しばらくの間、私と虚ちゃんだけで動きましょう。お爺様にも報告はするけど、私が健在である今、もうあの男は集会に顔を出さない。注意を払うべきは本人よりも手足の方。あの男が誰に手を回してるのかまるで見当が付かない。だからたけちゃんにすら迂闊に話をするわけにはいかないわ」

「お嬢様。それはつまり――」

 

 最悪を想定する。虚の部下である朝岡丈明をも疑う姿勢で臨む意味は1つ。

 

「スパイがいるのは倉持技研じゃなくて暗部の一族の方よ」

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 月曜日の朝がやってきた。12月に入ったらもうすっかり冬の気温になってしまっている。布団から出るのにも根性がいるようになってきた。もう少しだけ布団の中で暖まってから出ようと体を丸める。

 

「起きろ、一夏!」

 

 バンと勢いよく俺の部屋のドアが開け放たれた。廊下の寒い空気が一気に部屋の中に押し寄せてきて尚更厳しくなる。

 

「あと5分ー」

「いつからそのような軟弱な物言いをするようになったのだ! さっさと起きろっ!」

 

 強引に掛け布団が剥がされてしまった。全身に冷やっとした空気が降りてきて俺はブルっと大きく体を震わせる。

 

「寒っ!」

「全く情けない。一夏のこのような姿、父上にはとても見せられん」

「たしかに。竹刀まで出てきてボコボコにされそうだ」

 

 ようやく寒さに慣れた。ついでに頭も一気に覚醒してきた。

 ……俺、誰と話してるんだ?

 キョロキョロと見回しても部屋の中に人影が見当たらない。

 

「どこを見ている? 私はここだ」

 

 声は下からした。目を向けるとそこにはやたらと偉そうな二頭身のぬいぐるみが仁王立ちしている。

 記憶を掘り起こすこと2秒。昨日起きた出来事を思い出した。

 

「ああ! モッピーか!」

「うぐ……まあ、その名で我慢するとしよう。私は廊下で待っているから早く着替えて出てこい」

 

 着替えを強要した後でモッピーはテケテケと廊下にまで移動するとドアを閉めた。

 ……どうやって閉めたんだ?

 気になったけど答えが出そうになかったので大人しく着替えることにした。

 今日は月曜日。普通に学校に行く日だから俺は制服に袖を通した。鞄の用意も済ませて廊下に出ると、宣言通りモッピーが廊下に立っている。

 

「どうしたのだ、その格好は?」

「え? 学校の制服だけど……」

「まだ登校には早いぞ。ランニングにはジャージの方が良いのではないか?」

 

 言われてから時計を確認する。朝の5時半。そういえばまだ外は暗かった。気付けよ、俺。

 

「ところでさ。なんで俺、朝に走ることになってんの?」

「え……走らないのか?」

 

 何故か俺の方が常識外れであるかのようにモッピーからは驚きの声が発された。

 運動が健康に良いとわかってはいるけど流石に冬の早朝はきついものがある。俺のクラスでこんな時間に好んで走っているような人間は数馬くらいだろう。小学生時代の俺なら走っていたかもしれないが、今の俺は多数派だった。

 

「そうか……起こしてすまなかったな」

 

 モッピーがしょぼくれる。弱々しい声量で俺に謝る背中はとても寂しそうだった。

 昔の俺の日課を覚えててくれて、一緒に走ろうとしてくれた。

 些細なことなのに楽しみにしてくれていた。

 俺はそんな彼女の思いを裏切ったのか……

 

「あ、なんか急に走りたくなってきた! ちょっと着替えてくるから待ってろ!」

 

 ここで面倒くさいとか疲れるから嫌だなんて言えるかァ!

 急いで部屋に戻った俺は制服を脱ぎ散らかしてジャージを引っ張り出しパパっと着替えを済ませてまた廊下に戻ってくる。

 

「行くぜ、モッピー!」

「仕方ない。付き合おう」

 

 口とは違ってノリノリなモッピーが俺の二の腕に張り付く。無理矢理テンションを上げた俺はそのままの勢いで家から飛び出した。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 早朝のランニングは御手洗数馬の日課である。趣味がISVSである彼だが父親の教えに従って日々の運動は欠かしていない。なお、その父親がランニングしている姿を数馬は見たことがないのだが、今まで全く気にしたことはない。

 平日でも登校前に決まったコースを走る。冬になると日が昇るまでに時間がかかる。必然的に暗く肌寒い時間に外に出る。走っているうちに体が温まる上に日も出てくるから問題はない。数馬にとっては慣れたもので少しも苦にすることはなかった。

 

「寒い……」

 

 しかし最近は数馬ひとりだけではないことが多い。御手洗家に居候している銀髪の少女、ゼノヴィアが数馬の隣で丸まっていた。ジャージ姿に着替えている彼女は両手に吐息を当てて暖をとっている。

 

「家に残る?」

「さらに、私は走ります」

 

 首をブンブンと横に振る。相も変わらず日本語が変なゼノヴィアだったが、その心意気は数馬に十分伝わった。

 

「じゃあ行こっか。そのうち温まってくるし」

 

 2人揃って準備体操を開始。始めた頃は見様見真似だったゼノヴィアも今では数馬を見なくても何をすればいいのかわかっている。

 準備完了。数馬を先頭にして2人はまだ暗い街の中へと駆けだした。

 こうして数馬がゼノヴィアと朝のランニングをするのも1週間以上続いている。1回目こそローペースで走っていた数馬であったが、今はひとりのときと変わらぬ自分本来のペースで走れている。その理由は簡単で、ゼノヴィアが息も切らせずについてくるためだった。

 ……この子は凄いな。将来が楽しみだ。

 何年もかけて辿りついた自分の現状にわずか1週間強で並んでいる少女には才能を感じさせられていた。もしスポーツに打ち込んでいたらその才能に嫉妬したかもしれないが、他者と競おうとしていない数馬の目には単純に嬉しいことにしか映らない。

 走っている間に会話はしていない。数馬に喋る余裕がなく、ゼノヴィアも数馬が答えてくれないことを知っている。お日様の出ていない早朝では外に出ている人も少なく、道路には2人の走る足音だけが木霊する。

 いつもどおりの静かな朝。目覚める直前の街。

 だが、この日はいつもと少しだけ違っていた。

 

「鍛錬が足りておらんぞ! この程度で音を上げるとは情けない!」

 

 説教する女子の声がしてきた。同年代くらいだろうか。しかし数馬には全くと言っていいほど聞き覚えのない声色だった。朝に出会う人間はほぼ同じ顔ぶれである。近所のおばさん方や老人ばかりで、同年代には性別問わず会うことがないのが常だった。

 走りながらもどんな人だろうかと思い描く。数馬の中では自分にも他人にも厳しい道場の娘という和風美人の姿がイメージされた。このまま走っていれば顔を合わせることになる。興味が湧いた数馬は挨拶をするために少し走るペースを落とした。

 

「久しぶりなんだから仕方ないだろ! 腕に張り付いてるだけのお前に文句を言われたくない!」

 

 続いて聞こえてきたのは男の声。数馬の緩んでいた顔が急速に青くなる。それもそのはずで、男の方は馴染みの深い声だったからだ。

 

「な、なんで一夏が……?」

 

 過去に早朝のランニングで知り合いに出会った(ため)しはない。だからこそゼノヴィアと共に外に出歩けていた。もし見つかれば面倒なことになるのは間違いない。

 

 ……一夏なら知られても大丈夫か? いや、一夏は顔に出るから隠し通せるはずがない。

 

 このまま一夏と鉢合わせるのはマズい。そう判断した数馬は立ち止まって後ろを振り返る。急に立ち止まるのは体に良くないが今はそんなことを言っている場合ではない。同じく立ち止まったゼノヴィアに、

 

「ごめん! ちょっと隠れてて!」

 

 身を隠すように懇願した。ゼノヴィアは首を傾げつつも黙って頷いて近くの路地に入っていく。

 今立っている場所から彼女の姿は見えない。角度を変えながら何度も確認して大丈夫だと自分を安心させた。

 

「あれ? 数馬だ。こんなところで何やってるんだ?」

 

 一夏が来た。後ろから声をかけられる形となり一度だけビクっと大きく反応してしまったが、何もやましいことはないのだと自分に言い聞かせる。

 

「い、一夏こそ朝に走ってるとか珍しいじゃん」

「まあ、今日はそういう気分だったんだよ。てっきり数馬も朝のランニングかなと思ったんだが、こんなところで立ち止まってどうしたんだ?」

 

 こういう日に限って一夏の追求がしつこい。たしかに走り慣れている数馬が途中で足を止めているのは妙な話だった。色恋沙汰以外ならば勘が鋭い一夏である。数馬から運動とは違った嫌な汗が流れる。

 何でもいいから答えなければ。

 

「たまに空を見上げたくなるときがあるんよ」

「そうか。でも今日は昼から完全に曇るらしいし、今も微妙だな」

「ひ、日によって形が違う雲を眺めてるのも乙なもんだし」

「そういうもん? 数馬にそんな趣味があったのか」

 

 雲を眺める趣味などないのだが数馬は否定しない。何でもいいからこの場を凌げさえすれば良かった。幸いなことに一夏はそれ以上怪しんでは来ない。

 

「じゃ、俺はそろそろ帰る。数馬も学校に遅刻しないようにな」

「ん。また後で」

 

 数馬は走り去っていく一夏の背中を見送る。彼の左の二の腕に張り付いてるぬいぐるみのことにすら気づかないくらいに数馬はテンパっていたのだが、無事に危機を乗り越えた。一度は思い浮かべた和風美人のイメージも頭に残っていない。

 

「ゼノヴィア、もう出てきてもいいよ」

 

 隠れている連れの少女に出てくるように呼びかける。すると彼女は隠れていた路地から現れた。1人でいる数馬を見るや否や早足で駆け寄る。どこか不安げな顔で……

 

「どうしたん?」

「嫌な感情を抱きます。ここを早く去ろう」

「そうだね。もたもたしてたらまた誰かに見つかりそうだし」

 

 遅くなればなるほど知り合いに遭遇する確率は高くなる。既に東の空は白み始めており、藍越学園の運動部員が登校してもおかしくない時間になってくる。

 しかし、もう手遅れ。

 

「ん? 貴様は……御手洗だったか?」

 

 またもや声をかけられた。おそらくは知り合いだ。一夏と違って接近にすら気づかなかった。

 数馬の隣にはゼノヴィアがいる。今度ばかりはゼノヴィアを居なかったことにして誤魔化すことはできそうにない。

 意を決した数馬はゆっくりと顔を向ける。変な噂をばらまかない人だという淡い期待を込めた。

 その小さすぎる願いが天に届いたのだろうか。そこにいる人物は数馬の想定から大きく外れていた。

 

「ラウラさん……?」

「そういえば貴様には礼を言い忘れていたな。おかげで私は無事に探していた人に出会えた。感謝する」

「ああ、どういたしまして。こんな朝早くにどうしたん?」

「一夏の鍛錬に付き合おうと思ってな。こうして後を追いかけているわけだ」

 

 いつの間にかヤイバではなく一夏呼びに変わっている。そうしたラウラの変化に気づいた数馬だったが、今はそれを指摘している場合ではない。数馬は一夏の家の方を指さす。

 

「もう一夏は行っちゃったけど」

「なるほど、早く追いかけなくてはな。ところで――」

 

 追い払おうとしていた数馬の意図に反して、ラウラは一向に走り出さないばかりか視線を数馬の背後に移す。

 

「その娘は貴様の妹か?」

 

 やはりゼノヴィアの容姿は目立つ。もし彼女が一般的な日本人の外見をしていたら数馬の妹だと勝手に納得するだろうが、数馬とは見た目がかけ離れすぎていた。

 ここで『そうだ』だなどと言えるわけがない。ラウラの質問への肯定は嘘をついていると自白するようなもの。

 

「そんなわけないって。この子はゼノヴィアって名前で、事情があって家で預かっている子なんだ」

 

 嘘をつかない程度に答える。知られてしまったからにはゼノヴィアの情報をラウラから引き出すチャンスとも考えられた。一度は無関係だと諦めていたが、まだ知り合いの可能性は残っている。

 この流れでゼノヴィアに挨拶をさせようとも考えた数馬であったが、ジャージの裾を力強く握りしめて俯いている彼女を見て取りやめる。理由は不明だが明らかに怖がっていた。犬のときのようではなく、ISVSのときと同じように。

 

「英語圏の名前か。確かに妹ではなさそうだ」

 

 ゼノヴィアという名前を情報として与えてもラウラに変化は見られない。数馬としてはゼノヴィアがラウラの妹である可能性を考えていたが、当初の推測通り無関係そうだった。

 

「それくらい髪の色でわかってよ」

「趣味嗜好で髪の色を変える者もいると聞いている。見てくれで判断しないつもりだ。その金色の瞳も含めてな」

 

 ラウラの右目がゼノヴィアを見下ろす。背丈はゼノヴィアの方が若干低い程度の差しかないが、ラウラの尊大な態度によって10cm以上の差がついているようにも錯覚する。

 

「御手洗。この娘を貴様の家で預かっていると言ったな?」

「う、うん。それがどうしかしたん?」

「いつからだ?」

「先月末くらいだったかな。それよりも早かったかも」

「約2週間前といったところか……」

 

 質問を続けた後、数馬の回答を聞いたラウラは考え込む。そうしたラウラの意図を数馬は全く掴めない。わかっているのはゼノヴィアがラウラを怖れていることだけ。

 ……俺がついてるから大丈夫。

 そっとゼノヴィアの頭を撫でる。そうすることでゼノヴィアの手の震えが少しだけ治まった。

 

「おっと、今は考え事をしている場合ではない。早く一夏を追いかけねば」

 

 長考していたラウラが動き出す。このまま立ち去ってくれるのなら数馬にとって都合がよいが、数馬にはまだラウラに言っておかなくてはならないことがある。

 

「悪いけど、俺の家にゼノヴィアがいることを一夏たちには言わないでおいてくれない?」

 

 簡単な頼みのつもりだった。しかしラウラは眉を寄せた顔で振り返った。

 数馬は慌てて付け足す。

 

「や、やましいことがあるわけじゃなくて! 一夏たちに誤解をされたくないんだ!」

「ふっ……了解した。ただし条件がある」

 

 ラウラは鼻で笑った後に表情を緩める。ついでに楽しそうにもなっていた。

 条件。何か妙な要求でもされるのかと数馬は戦々恐々とする。以前に未知なものが怖いとゼノヴィアが言っていたことを身を以て実感することになっていた。

 ニヤリと笑ったラウラの要求。それは――

 

「これから毎日、私が御手洗の家に赴く。貴様はその応対をしろ」

 

 簡単なようで難しいものだった。数馬としては何も問題はない。しかしゼノヴィアのことを思うと、ラウラがやってくるのは厳しい。

 天秤の皿に用意されたのは“数馬ロリコン疑惑”と“ラウラが来ることでゼノヴィアが怖がる”。傾くのは一瞬のことだった。

 

「だったら断る。もう俺を何とでも呼ぶがいいさ!」

 

 投げやりだった。許されるならこの場で泣き出していたかもしれない。それでも数馬はゼノヴィアのために汚名を被る覚悟を決める。

 

「私は……大丈夫、です」

 

 くいくいと数馬の上着が引っ張られた。背中に隠れているゼノヴィアが小さな声で訴えている。自分のために数馬がひどい目に遭う必要などないのだと。

 

「ゼノヴィア、ありがとう!」

「……私が悪人扱いされてる気がするが、どうでもいいか。話はまとまった。明日の夕方から邪魔することとしよう」

「わかった。でもどうして俺の家に?」

「なんとなくだ」

 

 なんとなく。要するに答える気がない。問いつめても無駄だと諦めるしかなく、数馬としても特に知りたいことでもなかった。

 こうしてささやかな口約束が交わされた。

 ゼノヴィアの件を一夏たちに黙っている代わりにラウラが御手洗家を訪ねることとなった。

 あとは別れるだけだが、最後にラウラは数馬に付け加える。

 

「その娘を外に出すのは私がいるときに限定するのだな。その方が知り合いへの説明も簡単だろう?」

 

 渡りに船とはこのことだ。ゼノヴィアの件の根本的解決には至りそうにないが、数馬の悩みのひとつはこれで解決する。あとはゼノヴィアの帰るべき場所さえ見つければ良い。思わぬ収穫に数馬は胸の内でガッツポーズを取った。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 またいつもの学校生活が始まった。本音を言えばISVSに集中していたいところなんだけど、俺の本分は学業にある。もし疎かになどすれば俺は世界最強の姉を敵に回すことになるから真面目に勉強もしないといけない。

 もちろん、いざとなれば学校をサボってでも戦いに出るつもりだ。今はそのときじゃないからこうして教室の自分の席についている。

 

「とは言っても、流石に動きが無さ過ぎだ。ちっとも進展がない」

 

 大きく溜息を漏らす。

 ギドを倒してから一週間が経過した。その間、ISVS内の捜査は千冬姉や彩華さんたちに任せていたのだが、全くと言っていいほど新しい情報がない。

 千冬姉は外国にいる知り合いを通じてミューレイ内部にいると思われるエアハルトを追ったが今のところ捕らえるのは不可能と判断した。そもそもプレイヤーネームしかわからない相手だ。完全に黒と特定できる根拠がなければ身柄を押さえることは難しい。大企業相手に強行するだけの材料がないため、簡単に匿われてしまう。

 彩華さんは倉持技研の所属するプロの操縦者たちを使って未確認のレガシーを捜索していた。ギドと戦った場所、敵の拠点であるトリガミはどこの企業にも所属していないレガシーだったからで、もし発見すればIllの勢力を壊滅させることもできるかもしれなかった。しかしISVSは現実とほぼ同じ世界。地球全体を少人数で1週間探したところで見つかる可能性は極めて低い。この試みは元々、宝くじに当たるようなものだった。

 こちらの動きはこんなところ。ギドという強敵を倒したと言っても敵組織やIllに関わる情報は大して得られなかったということになる。

 

 思ったよりも情報が入らないというのはいつものことだ。俺がもどかしさを感じているのは別に理由がある。

 それは敵の動きだ。ギドが倒されたというのに大人しすぎる。

 敵組織内におけるギドの具体的な立ち位置は不明だ。しかし奴の強さはISVSの常識を遙かに超えていた。エアハルトが持っている手札の中でも強力な1枚だったことは疑いようがない。

 こちらの戦力で例えるならブリュンヒルデが欠けたようなものだ。俺がエアハルトだったらギドを倒した相手を早く処分したいと考える。でなければ戦いを繰り返す度にじり貧となっていく不安がつきまとう。

 

 ここまで動きがないのは何故か。

 

 敵にはギドを超える戦力があるのか?

 ラウラが言うにはISVS内で造られた遺伝子強化素体というのは特殊な存在らしく、複数個体居ることはアドルフィーネやシビルが証明している。

 だが同じ強さの個体が揃っているのならば、次々に送り込んでくればいいに決まっている。ギドが2人もいればこの前の戦いは俺たちの完全敗北だったことは間違いない。そうしなかった理由は、ギドやアドルフィーネが特別だったからしか考えられない。

 

 残った可能性は次の攻撃の準備中ってところか。1週間も時間をかけていることから考えると、製作に時間がかかるというマザーアースか、もしくは現実で俺を直接狙ってくるかに絞られる。できれば前者であってほしいけど、ギドはヤイバの正体を知っていた。俺を狙う計画を練っている可能性は十分にあり得る。

 現実だと俺は無力だ。セシリアとラウラ、千冬姉たちに頼るしかなくなる。何もできない自分を想像するともどかしい。

 

「まあまあ、一夏さん。答えの出ない考え事などしていては体に毒ですわ。待つことも戦いと思って割り切ってくださいな」

「セシリアの言うとおりよ。ただでさえアンタは無駄に責任を抱え込んじゃうところがあるんだから、もっと気楽にしてなさい」

 

 セシリアと鈴の2人が言うこともわかるけど、自分のことを人任せにしているようで落ち着かないのはどうしようもない。

 

「一夏はヤイバとして戦い続けていたのだ。今くらいの休息があった方がいいに決まっている」

「たしかにエアハルトがナナたちを襲撃するよりは今の状況の方がいい。でもこのままじゃ間に合わないんだよなぁ……」

「それはただの欲だ。次の1月3日でなければ死ぬわけでもあるまい」

 

 俺の欲か。たしかにそうかも。元を辿れば、俺は箒との約束を叶えたいってだけで行動を起こしたわけだし。前に彩華さんに語ったような正義なんてものはどうでもいいことというのが本音だ。

 無理に急ぐ必要がないのはわかってる。でもやっぱり俺の戦う理由を考えると、次の1月3日は大切な日と言える。間に合わなくて実際に命を落とすわけじゃなくても凹むのは間違いない。

 ……ちょっと待て。今、俺は誰と話してるんだ?

 

「全く……今のように周りが見えなくなっているとまた足下を掬われることになる。7年前から少しも変わっておらんな」

 

 セシリアでも鈴でもなかった。さっきから俺に説教をしているのはセシリアが腕に抱えているちんちくりんなぬいぐるみだった。

 

「なんでモッピーが学校に!?」

「寂しそうでしたのでわたくしが持参しました。何か問題でも?」

「マズいって! 見た目はただのぬいぐるみなんだから、宍戸に見つかったら没収される!」

 

 俺も一度は学校に持ってこようか考えた。まだ高校を知らないであろうナナに俺がどんな高校に通ってるのか紹介したいと思ってた。お前もここに帰ってこいと言いたかった。

 でもそうしなかったのは宍戸の存在があったからだ。ISVSに関係のないところでは厳しい教師でしかない宍戸のこと。単なるおもちゃと見なされれば容赦なく取り上げられる。

 

「放課後になれば返ってくるでしょ?」

「それはそうなんだけど、ちょっとでも宍戸に取られるのは嫌なんだよ」

「アンタがそこまで言うなんて……この喋るぬいぐるみに固執する理由でもあるわけ? って、このぬいぐるみ、喋ってる!?」

「色々と気づくのが遅いですわ、鈴さん」

 

 セシリアがモッピーを俺の机の上に置いてから鈴にモッピーについて説明を始めた。

 2人のことは置いといて、俺は宍戸への対策を練らなければならない。一番簡単なのは宍戸が見ている間だけ隠れていてもらう方法。

 

「モッピーに頼みがある。HRと授業の間は鞄の中に隠れててくれ」

「折角一夏の通う高校に来たというのに寂しいことを言うものだな。授業参観くらいさせろ」

「お前は俺の保護者かっ!」

「似たようなものだ。という冗談はさておき、私の方で接続を切ればモッピーはただのぬいぐるみとなる。わざわざ隠れるなどせずとも、一夏が鞄にでもしまっておけばいい」

「じゃあそれで頼む」

 

 特に問題なく回避できそうだった。ナナの意識がある状態で鞄に詰め込むとなると凄まじく抵抗があるけど、ただのぬいぐるみなら問題ない。

 ……はずだった。

 

「ところで、一夏。後ろにいるのは先生ではないのか?」

 

 モッピーが右手で示した先。俺の背後には長身の男の姿があった。セシリアと鈴も接近に気づかなかったのか。三十路手前のこの男がクラスメイトのわけがなく、授業でもないときに顔を出すような教師は担任である可能性が高いに決まってる。

 宍戸だ……まだHRには早いのにどうして今日に限って居るんだよ。宍戸の顔には明確な失望が浮き出ている。

 

「織斑、オレは悲しいぞ。お前はオンとオフの切り替えができる奴になってくれたと信じていたが裏切られたようだ」

「いや、宍戸先生。これには理由が――」

「言い訳無用。放課後まで預かっておく」

 

 モッピーに宍戸の手が伸びる。こうなってしまうと手の打ちようがない。力尽くで阻止しようとしたところで返り討ちに遭うのもわかりきっている。

 

「くそぅ! 俺は……俺はぁ!」

 

 現実の俺は無力だ。強大な力を前にして抗う術を持たない。されるがままに蹂躙され、ただ打ちひしがれることしかできない。

 宍戸はモッピーの頭を鷲掴みにして持ち上げる。慈悲などない。自らが作り上げた堅物のイメージ通りに情け容赦なく教師の仕事を全うする。

 引き離されていくモッピーは短い両手を俺に向けて必死に伸ばしてきた。

 

「一夏ぁ……」

 

 机に伏せていた俺も息絶え絶えにモッピーに手を伸ばす。

 

「モッピー……」

 

 哀れ、伸ばした手が届くことはなく、俺たちは無理矢理引き裂かれたのであった。

 

 ……と思ったら俺の手はモッピーに届いてた。

 一度は離れたのだが、再びモッピーの方から近くに来た。つまり、宍戸が俺の手に返してくれたのだ。

 

「あれ? どうして?」

「いいか、織斑。オレは何も見ていない。わかったな?」

「い、イエス、サー!」

 

 有無を言わせぬ迫力で俺にモッピーを押しつけてきたかと思うとすぐさま宍戸は踵を返して廊下に足を向ける。上機嫌に鼻歌混じりなのが凄く不気味だ。

 ……一体、宍戸は教室に何しに来たんだ?

 困惑する俺の腕の中でモッピーが叫ぶ。

 

「ありがとう、恭ちゃん!」

 

 モッピーの言葉を歩き去っていく背中で受けた宍戸は振り返らずに右手を軽く挙げて手を振った。

 ここで鈴が一言。

 

「何よこれ……? わけわかんない。本当にアレ、宍戸先生だった?」

 

 当事者だけど俺もそう思うよ、鈴。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。