合鍵を風見さんに渡そうとしたことがある。
あれは祖父が亡くなって数年後くらいの年の頃。
当時の俺は遺言通りに折角受け継いだのはいいがどうにも自分が持ち主として相応しい人間だとは考えられず、風見さんは毎日足繁く向日葵を眺めるために自宅から通いで来ていて、そんな姿が俺には向日葵郷に相応しいのではないかと愚考した。
土地の権利などは渡せないが、俺はさっそく念のために作っておいた屋敷の玄関に使用する合鍵を事情を説明して預けようとしたが彼女は断った。
「必要無い。私には帰るべき家もあるし、使用人だけど待っているやつも居るわ。それに元々、鍵なんて多く持つべき物じゃないのよ。持てば持っている数だけ守らなければならない秘密が出来てしまうのだから」
遠い言い回しだったが風見さんはそう俺に忠告してくれた。
差し出した合鍵を再び懐へ戻すのは何だか情けない気持ちになってしまったが、密かに決意する決め手となったのは確かである。
その時に俺は向日葵郷に相応しい人間になろうと思ったのだ。
翌日から必死になって向日葵達の世話を始めた。実家から来る前に買っておいた植物を育てる教本を読み、釣瓶で汲み上げた井戸水を毎朝と毎晩に柄杓でばら撒く。果ては肥料を与える期間が五月初めからが良いとのことなので一年を通して向日葵郷に居る時間が増えた。
人里の物資を運んでくる尾崎さんに相談をして農作業に必要な物を用意して貰った代わりに収穫した向日葵の種を等価交換で引き渡す間柄になる。
大体、その頃だろうか。この田舎の地が特殊なの場所だと教えられたのは。
幻想郷。
結界と呼ばれる超常的で不思議な力により隔離した秘境。
此処は妖怪や幽霊、果ては神様まで受け入れ、本来在り得ないとされているものや忘れられたもの達の理想郷、だそうだ。
人間社会で小中高大と一般常識を学校で叩き込まれた俺はその事実を受け入れ難く、他人が見ても胡散臭いなと考えている表情をしていたらしい。それもそうだろう。親しくなった女性から突然に
「実は私は式神で九尾の狐と呼ばれているやつだ。元は妖怪だったのだが現在のご主人様をしている方の目に掛かりこうなっている。ご主人様であらせられる方に八雲藍と言う名を頂いているよ」
頭の悪い冗談にしか聞こえなかった。
それだけではない。一つ矛盾したことがある。
なぜ隔離した結界内に外部の人間である俺が出入り出来るのか、だ。
幻想郷に張られた結界は二種類あり、そのどちらもが俺の存在を素通りさせる筈がないと思ったのだが、結界に詳しい尾崎さん改め八雲藍さんに聞いたら
「稀に結界が作用し難い人間が居るらしい。お前はそれだな」
などと適当な回答が返ってきた。
橙という式神で妖怪猫又が元となったらしい茶髪の元気な子供をあやしている最中だったから面倒臭くなり適当に言ったのではないか、と俺は今でも疑っている。
でもまぁ結局、俺は幻想郷を受け入れた。
決め手となったのは風見さんだ。
幻想郷の住人特有なのか、またしても突然に彼女が思い出したように口を開いて
「実は私って妖怪なの。自慢ではないけれど大妖怪と呼ばれているわ。信じて?」
「信じます」
俺は即行で信じた。
信じない訳がない。
なぜなら風見さんは俺の大事な方だったからだ。彼女が違うというならば常識すら覆る。白が黒くなる。そんなヤクザな世界の親分と舎弟みたいな関係だった。
今ではもっと違った形の関係だけどな。
懐に仕舞ってある鍵を取り出し眺める。
いつかこの鍵を風見さんに渡す日が来るのだろうか。
この鍵が彼女に渡る時、それはきっと――