風鈴奏でる夏の日暮れ。
赤く燃える太陽が向日葵を同様の色に染め上げながら沈んでいく。
暫しの別れを惜しむように頭を微かに下げる花達を肴にし、縁側で一人手酌で注いだ日本酒を豪快に呑み込む。冷やかな冷酒がとても好い喉越しの余韻を残す。
瞼を閉じて耳を澄ませば遠くで祭囃子が聞える気がした。
もうすぐ夜がやって来る。
西へ沈んでいった太陽を追い掛けるように暗き天幕が空に広がり、一点に真ん丸とした御月様が浮かんで暗がりに潜む者達の時間へと変わるのだろう。
想像してみれば都会では観測出来なくなってしまった見事な星々を眺めながら酒をちびちびと舐めるのもいいかもしれない。月見酒か。
あとは隣に美人でも居てくれれば最高なんだがな。
朱色の盃を口元へ傾ける。優しい舌触りが嬉しい。
「月が綺麗ですわ」
「出会い頭にプロポーズですか。斬新な求愛の言葉だなぁ」
眼を開けて隣人を見れば綺麗な美少女が腰掛けていた。
細部にフリルをあしらっただけの簡素な紫色のワンピースを折れそうなほどに華奢な肢体に纏わせ、蜂蜜色の金糸を床に垂らしながら琥珀色の胡乱な瞳に俺を映している。
まるで少女の如き儚さで、毒婦のように妖艶で胡散臭い。
「貴方が八雲紫さんか」
「如何にも、如何にも」
妖怪の賢者。神隠しの主犯。神出鬼没の妖怪。etc……。
数多の二つ名があれど彼女を正確に表現するには至らず。
敢えて当て嵌めるのなら幻想的な妖怪といったところかもしれない。
「何の御用で?」
此方に向かって微笑む。
すると右手に隠し持っていたらしい紫色の扇子をするりと空中に横一直線に引く。
その横線に沿うように毒々しい奇妙な裂け目が開き、漆器製の盃を吐き出す。穴が締まる際に不気味な瞳が覗いていた気がした。
「一献頂けるかしら」
左手で取り出した酒器を差し出してきた。
日本酒の瓶を片手で掴み傾けて注いでやる。小気味良い音が鳴り盃を満たす。
八雲紫は扇子を膝の上に置き、両手で盃を持つと静かに口元へ運び口をつける。
喉が微かに動いて液体を嚥下していく。
「とても優しい味。純米大吟醸酒かしら」
「御名答」
月見酒する隣には美人が居れば嬉しい。更に酒の味が分ればもっと嬉しい。
そういう意味では八雲紫は最上級に好い女だった。同時にほろ酔い気分を長続きさせる魔性の女でもあるがな。
自重するように言い聞かせると酒を口に含んだ。
「もうすぐ」
ふいに聞えた言葉に耳を傾ける。
隣人はまた盃を口へと寄せ呑み込む。
「幻想郷に張られた結界が本来の働き、易々と外の世界へ行き来できなくなるのです」
「それで俺に今の内にどちらかを選べ、と?」
「選択しなさい、と無理強いはしないわ。ただ二つの選択肢以外を選ぶと消えてしまうよ」
「あら怖い、怖い」
涼やかな夜風が甚平の裾を微かに揺らす。
何時の間にか燃えていた太陽は去っており、空を仰いでみれば既に星々が輝いて真ん丸とした御月様が俺を見下ろしていた。
手元の盃を覗いたら中身は空になっている。
「幻想郷に留まるよ。此方で生きていく」
「あら、それでいいの?」
「いいのです。むしろそれがいい」
「あら、あら。啖呵は男前ね。それでは呑みっぷりはどうかしら?」
おどけた口調のまま知らぬ間に彼女の手元へと移っていた日本酒の瓶。
此処で呑まなかったら男が廃れるね。俺は黙って酒器を差し出した。満たされていく朱色の盃。
豪快な作法で流し込むように呑み干す。
「お見事」
「惚れたかい?」
「ふふっ。花妖怪が怖いから止しておくわ」
「俺もあの人が好きだから止されておくよ」
お互いに笑い合う。
瞬きをする。隣人は神隠しにあったらしい。
手酌で盃に酒を注ぎ、中身を覗き込むと無精髭を生やした中年の姿が映り込んでいた。
舐めるように口に含み満天の夜空を見上げる。ほろ酔い気分で思い出すのは過去の時分。此処には居ない想い人を肴にしながら俺は歳を取ったな、としみじみと実感した。