向日葵郷。
そう俺は呼んでいる向日葵畑がある。
元々は祖父が自宅近くに趣味で栽培していたのだが、数年前に祖父が亡くなり相続人が弁護士に預けてあったらしい遺言で孫の俺のものとなった。
祖父は昔馴染みの気難しい性格で親類縁者の類をあまり寄せ付けず、唯一孫の俺だけが夏休みを利用して会いに行くだけで、中には喧嘩別れで結局最後まで会うことがなかった人もいたようだ。
俺はそんな祖父が好きだった。
祖父が育てる向日葵が好きだった。
着慣れた甚平に麦藁帽子を被り、汲み上げてきた井戸水を柄杓で撒く祖父。太陽の方角に向かい光を浴びる夏の向日葵。そして毎年祖父の向日葵を見に現れる翡翠色の艶やかな髪をした少女。
毎年お決まりのシチュエーション。
もう欠けてしまったシチュエーション。
今年も俺は管理序に向日葵郷を訪れる。
祖父の存在が欠けてしまったあの家に。
□
今年も騒がしい夏が到来した。
幾つもの蝉が鳴く声が重なり、騒音を撒き散らしている。
このまま夜にでもなれば近くの湖から蛙の大合唱が始まるのだ。騒がしいったらありゃしない。
茹だるような暑さを誤魔化そうと思考を逸らしてみたが効果がないので、代わりに少しでも涼しさを得るため持参してきた物を倉庫から取りに行く。大きめの金たらいを倉庫から引っ張り出すと、汲んで来た井戸水を流し入れた。
偉大なる先人の知恵。
これでようやく涼を得たのだ、と自慢げに鼻を鳴らす。
縁側で草履を脱ぎ、さっそく両足をたらいに突っ込んだ。
「温い」
溢れる期待が霧散する。世界はどこまでも無情だった。
たらいに溜めた水は既に気温の所為で井戸水独特の冷たさを失っていた模様。
肩を落とし、如何にもならない暑さにがっかりしていると声が掛かる。
「ごきげんよう」
場違いとも思える聞き慣れた涼やかな声に惹かれて頭を上げると目の前には黒赤格子縞が目に入る。毎年見ているけど相変わらず暑そうな柄だ。
「そのチェック柄は……風見さんかぁ」
「あら、不満かしら? 氷菓子を持参してきたのだけれど」
「いえいえ、そんなことはありませぬ。さぁ、どうぞお上がり下さいませ」
「そう? なら遠慮なく」
彼女は上品に靴を脱ぎ、手提げの袋から棒アイスを一本取り出して舐めた。
舌先が艶めかしく動いてなぞった舌の熱で汁に変わり、その汁を啜る。冷たくて美味しそう。
「……頂けないのですか?」
「ひんやりとして美味しいわね。人里で買ってきた甲斐があったわ」
「味の感想なんぞ聞いてないよ!」
声を荒げて突っ込んだ俺の痴態を流し目で確認し、風見さんは本当に嬉しそうな顔をして口角を吊り上げた。
「ふふっ。最初から貴方にあげるとは言ってないわ。持参してきた、とは言ったけれど」
「ひどい! 騙したな!!」
「騙される方が悪いのよ。勉強になったわね」
悪びれもせず、棒アイスをちびりと舐めた。
その様は完全に相手の精神を逆撫でにしにきている。
まったく度し難い程に嗜虐的な性格だ。これは女性相手でも即喧嘩に発展していてもおかしくはない。
まぁ、俺は毎年のことなので慣れているのだが。
俺は風見さんを恨みがましく睨み、風見さんはそんな俺の視線を心地良く思っているのか終始ご機嫌で棒アイスを舐めていた。
しばらくそのまま風見さんが食べ切るまで睨んでいると、風見さんが手提げからもう一本の棒アイスを取り出して俺の口に軽く押し込んだ。思わず呻く。
「冗談よ。お土産なく人の家に来るほど、私は落ちぶれてはいないわ」
さて、と呟き風見さんは縁側から立ち上がると立て掛けてあった白い日傘を開く。
「今年も存分に立ち寄らせてもらうわね」
そう告げると彼女は庭先に見える広大な向日葵畑に消えて行った。
俺はその背を見送りながら文句を呟く。
「アイス……溶けてるんだけれど」
棒に申し訳程度しか残っていないアイスを見て明日も此処に来るであろう彼女にする仕返しを考える。絶対に許さない。この借りは利子を付けて返すべきだろう。