皆様にはご迷惑とご心配をおかけいたしました
雪降り積もる校庭を二人で眺めている。先輩はいつだって、その勝気な眼差しでどこかを見つめている。
「ありがとね」
先輩はそんなことを言った。普段はそんなことを絶対に言わないのに。
それがなんだかうれしくて、そして怖かった。
「最後にいい終わり方できたわ」
そう言って先輩は、目を細めた。
あの日、炎天の下の球場で、白く輝いたボールを。きっと私も先輩も思い出している。
まるで雲に溶け込むかのように、飛び出ていったあのボールを。
「先輩!」
「まーた君か、なあに今度は」
「好きです!」
「あーはいはい、またそれね。ありがとう」
「本気です!本気なんです!先輩!」
「はい、ありがとう。私練習あるから行くね?」
「あ、そんな、せんぱーい!」
先輩はいつも冷たくて、でもそんなところがかっこよかった。
事の始まりは、私が艦娘の一時民間定着プログラムによって軍籍を保留され、この学校に転校してきた時の事だった。
右も左もわからない私の目に飛び込んできたのは、紺色の制服から緑がかったツインの黒髪が零れ落ち、無駄な凹凸の無い華奢で洗練された身体。今から思えば、これは運命だったと思う。
あの日、私が目を覚ました時、瀬戸内の海を堂々と進んでいったあの時と寸分変わらない威容は、すぐに私に彼女があの人だということを思い知らしめてくれた。
栄光の五航戦。そして一番の武勲艦。
私はいつも、その後ろを見送ることしかできなかった。
「しかしねえ、アンタ」
同級生になった女学生が話しかけてきた。
「いい加減辞めたら?それ」
「しかたないじゃない。これは私の生きがいよ」
「トリプルスリーの名が泣いてるわよ」
「……なに?そのトリプルスリーって」
「あれ?知らない?あんたのあだ名。美術・理系・文系の三分野で学年トップを取ったからトリプルスリー」
「誰が決めたのよソレ」
「英語の片町先生じゃないかな。『あいつぁーすげえなあ!トリプルスリーだっ!』って言ったのが元凶」
「片町センセイかぁ……ってそれはどうでもいいのよ」
「いいんだ」
「問題は先輩に対する恋慕の情ですよ」
「ああ、うん。それで?」
「私にものっぴきならない事情があるわけでしてね、諦めるわけにはいかんのです」
「もうちょっとやり方考えなよねー」
「ほう、やり方」
「もっとさあ、こう、好感度を上げていくような」
「好きです!って言われたら好感度上がると思うんだけど」
「馬鹿だねえ。もっと頭よくやるのよ」
「ほう、例えば」
「……まあ、ガンバレ」
「ないんですね」
「ないわよ」
「無責任じゃないですかね」
「他人の恋愛話なんて基本的に無責任よ」
「まあそうですが」
「とりあえず、もっと頭よくやんなって。これだけは言っておくよ」
「ふぁーい」
頭よく、と言われたところで経験がなければどうしようもない。
こういう場合どうすればいいのだろうか。聞いてみよう。
「と言うわけで先輩、どうしたらいいでしょうか」
「それをなんで私に聞くかなあ」
時刻は19時丁度。先輩は部活を終えてバッティングセンターで練習をしている。
「ダメですか?」
「ダメでしょ。なんで答えを先に求めようとしてるのよ」
「いえ、これが一番効率的かと」
「君は恋慕に効率を求めるの?」
「ええ」
「君ねえ……」
呆れながら先輩はバットを振る。脇をしめてコンパクトなスイングから撃ち返されたそれは、軽い音を立てライト方向へ綺麗に飛んで行く。
「あーやめやめ。感覚狂う」
先輩は左打席から右打席へスイッチすると、またバッティングを始めた。
初球、ど真ん中。流れるようなスイングから撃ち返されたそれは、ピッチャー方向へぼてぼてとこぼれていく。
「先輩!ファイトです!」
「なに巷の女学生みたいなこと言ってるのよ。歳を考えなさいっていうの」
「心はいつでも、先輩に憧れる乙女です!」
「何間抜けたこと言ってんのっよ!」
いい加減なスイング。ライナー性の打球がまっすぐレフト方向に伸びてった。
「先輩、さすがです!」
「次の試合、赤高の連中でしょう。今ぐらいのライナーだとショートに取られちゃうんだよねえ」
先輩は7番打者。いわゆる下位打線ってやつだ。
先輩はスイッチヒッターというやつで、左でも右でも打てるすごい人だ。でも、最近はあまり打率が良くない。その理由は、なんとなくわかる。先輩はもともと左打者だったのを途中で無理やり右打者に変えたんだ。だから重心の取り方がうまくいかなくて、スイングがうまくいかないんだ。
「先輩、左で打たないんですか?」
「……止められてるからねえ」
次の球は少し高めのチェンジアップ。特異な球種だけれど、芯を外して打ち上げた。
「先輩、左で打ちましょうよ」
「ダメなもんはダメなのよ。軍令部からも艦政本部からも止められてるし」
続けてきたカーブはゴロ。ぼてぼてとピッチングマシンの前に転がる。
「……軍令部から、戦線復帰の指示が出たわ。たぶん冬にはまた艦隊に戻ることになる。君だってそうでしょう」
「……はい」
「艦娘として、100%の状態で戦えないような状況は作るべきじゃないわ。それは私の信条」
今度の夏の大会。それが先輩にとっての最後の大会になる。
「……先輩は、悔しくないんですか」
「悔しいって、何が?」
「だって先輩、本当だったら四番ですよ。一試合二ホーマーなんて余裕じゃないですか」
「左に憂いがなきゃね」
「でも……私悔しいです!最後の試合じゃないですか!これ終わったら先輩、戦場に行くんですよ!」
「戦場に行くって、それが私たちの存在理由で、そもそもの本分じゃない」
「でも……!」
「しつこいわよ、アンタ」
力任せに振ったバットは微妙に芯を捉え、軽く跳ね上がって飛んだ。ポテンヒットだ。
「私がいいって言うんだからいいの。わかった?」
「はい……」
私はそれ以上、何も言えなかった。
先輩の最後の試合が始まった。先輩はやっぱり7番。先発入りしているのはショートの守備力を買われてのことだ。
私たちのチームは後攻。一回の表一番打者からいきなり打たれ、3点を先制される。更に二回・三回と共にホームランを浴び、あっという間にスコアは7対0。
先輩は攻守ともにいいとこなし。二回裏、ツーアウトランナーなしの展開で大きく空振り三振。のち、三回表ではワンアウトランナー一塁の状態からショートへぼてぼてのゴロ。ゲッツー展開だと思いきや先輩の悪送球で打者は三塁へ。ツーアウト三塁からタイムリー一本とホーマーを浴びて絶望的展開。
三回裏こちらの攻撃、ツーアウトランナーなしの状態から一番の打順。四球を選び、続く二番打者が堅実にレフト前ヒットでツーアウトランナー一塁二塁。三番が見事センターへヒット性の打球を飛ばすものの、センターの素早いバックホームで二塁走者はタッチアウト。
依然、試合は7対0。
「先輩には残念だけど、これは負けかなあ」
友達が四回表を終えたあたりでそう言ってきた。
「まだ四回だよ!」
「でもねえ……」
言った瞬間に、カキンといい音がして打球が左中間へ飛んで行く。いける。私は思った。
打順は周り、ワンアウト一塁二塁の場面で先輩の出番。
「いけっ!先輩!ポテンヒット!」
「どうしてポテンヒット前提なのよ……」
先輩は右打席で構えている。眼差しをピッチャーへ向けて、その時を待っている。
第一球、投げられた。内側いっぱいのストレート。先輩は手を出さない。
第二球、まっすぐのど真ん中。先輩は端っこに引っ掛けてファール。
第三球、投手が大きく振りかぶって投げた。先輩はバットを大きく振る。
「先輩!」
球は外いっぱいへ逃げていく変化球。先輩はそれを、端っこでひっかけた。
球はコロコロ転がって、ショートの真ん前。
セカンド・ファーストと送球され、ダブルプレー。
「ありゃー、だめだこりゃ」
友達があきらめるように言う。
「なんで、なんでよ……」
涙が止まらなかった。本当の先輩はこんなんじゃないのに。もっともっと遠くに飛ばせるのに。
許せなかった。
「ちょっと、どこ行くのよ!」
私は、球場から飛び出した。
「――――――で、以上をもって再呼集を完了とする予定です」
「了解した。五航戦は?」
「姉の方はもうすでに準備完了しています。妹の方ですが……」
白い服に身を包んだ軍人がぺらぺらとページをめくる。
「来年度から合流予定ですね」
「そうか。野球なんかで身体を壊してないといいが……」
私はそこに飛び込んだ。
「あの、すみません!」
「うわ!何だ君は!?」
書類を持っていた軍人は慌てて後ずさりする。
「なんだ、君か。あまり驚かしてくれるな。なんだねいったい」
私は、白い軍服をまとっているその軍人に、頼み込んだ。
「航空母艦、瑞鶴先輩についてお願いがあってきました」
「君ね、言いたいことは分かったが、しかしだね。これは彼女の身体を保護するために必要な施策なんだ。学業、それもひと時のクラブ活動と、国防上のリスクのどちらが大切だと思うのかね」
「それは……」
私は、瑞鶴先輩の左打ち禁止の解除を求めて軍令部まで来た。今、それを頼み込んだところだ。
「でも、これが最後です。最後なんです。最後の一打席だけでいいんです。いけませんか?」
「と言われてもねえ。私達にはそんな権限はないよ」
「それにねえ君。これはもう決まっちゃってることだから、変えようとするならばそれ相応の手続きってもんが必要でね。もう試合は始まっちゃってるんだろう?気の毒なんだけど、もう手遅れだよ」
「あのねえ。あれはね、確かに過剰すぎるきらいがある措置ではあるんだけれど、それでも無意味な措置ではないんだよ。彼女は左投げだから左打ちにすると左肩に負担が行くんだ。だから保護措置として右打ちにさせてるんだよ」
「だいたい、我々は彼女が野球をやることに否定的だったんだ。彼女の野球スタイルはかなり方への負担が強い。野球を続ける事が出来ただけでもとても譲歩した措置なんだよ」
二人の軍人から交互に拒絶される。こうなることは分かり切ってたことだった。
「でも……」
「君もしつこいねえ。もう間に合わないんだよ。お願いだからこれで引き下がってくれないかなあ」
前にも同じ様なことを、先輩から言われたような気がする。
確かに、何かおかしいのかもしれない。こんなことにムキになっちゃって。
たかがイチプログラムの、たかがイチ企画。その中のたかがイチゲーム。
私たちにとってそれは、大したものじゃないし、どうでもいいものでなければいけない。
私たちの居場所はここじゃなく、海の向こうの戦いの場所なんだから。
でも、それでも。
私はあきらめたくない。悔しい顔をした先輩を見たくない。
それが私のエゴだとしても、先輩のこの学校生活の最後は、すがすがしい笑顔で居て欲しいんだ。
「お願いします」
私は先輩が好きだから。先輩の為に、やれることをやりたい。
「たった一打席、最後の一打席だけでいいんです。それでもう終わりなんです。お願いします」
私は二人に向かって頭を下げた。藁にもすがる思いだった。汗ともつかない水が鼻っ柱から滴り落ちていくのが分かった。もう前を視れなくて、ひたすら頭を下げた。
「……さて、我々は仕事に戻るよ」
「そうですね、そうしましょう」
「あー君、球場に戻り給え。ああ、そうそう。そろそろ彼女には軍籍復帰に伴って活動を再開してもらわねばいけない。今すぐ戻って、彼女に左肩の調子を確かめるように言ってくれないかね。いざ戦闘となったら左肩をかばってもいられない。左右共に特に制限なく自由に使いながら調子を整えるように言ってくれ。今すぐだ」
「そうですね、そろそろそんな時期です。ああ、このことはくれぐれも内密に。これは軍機だよ」
「え、あ、あの……」
「ほら、早くいきなさい。試合中なんだろう?」
まったくしょうがない。そんな顔をしながら二人は私を部屋から追い出すそぶりを見せた。
「あの、ありがとうございます!」
私は深く頭を下げて、駆け出した。
「あ、どうしたの?こんな時間まで」
「ねえ!試合どうなった!?」
球場に戻ると、まだ試合はやっていた。
「ほら見てよ!一気に七点取り返してね、また一点取り返されちゃったんだけど、今一点差で最後の攻撃だよ!」
「先輩は!?」
「あー、未だいいとこなし。あ、ほら、最後の打席だよ」
見ると、先輩がネクストバッターサークルに居た。
スコア表を見る。九回裏ツーアウト満塁。一点差だからツーベースヒット以上でサヨナラ。
先輩が打席に立った。伝えなきゃ。私は痛みで悲鳴を上げてる気管支に鞭をいれて走る。
バックネット裏で、先輩に向かって叫ぶ。
「先輩!左で打って!」
先輩は驚いた顔をして振り向いた。
「先輩、軍令部から許可をもらいました。左で打っていいんです。先輩、左で行ってください!」
「なによなによトリプルスリーが言うじゃない。でもダメなのよ。右で行くわ」
「何でですか!」
「左はもう練習してないの。だからいきなり本番じゃできないわ」
「そんなことない!」
「あるわよ。できないもんはできないの」
「私知ってます。先輩が左の方が調子いいこと。左だったら長打も打てること」
「遊びならね」
あきらめたように先輩は笑う。そんな顔を、私は見たくない。
「先輩、左で行ってください」
「なによなによ、二回目よ?ダメなの。右で行くわ」
「……」
これ以上は私のエゴだ。私は黙った。先輩がそうすると決めたんなら、従うしかない。
結局、私のしたことは先輩の役には立たなかったんだ。
「あーもー!やってやろうじゃないの!」
先輩はそういうと、左打ちの構えで素振りした。
「いいわ、左で行ったげる」
「いいんですか……?」
「みんな知らないだけなのよ!私、左の方が打率いいんだから!」
そしてそのまま、左のバッターボックスに入った。
球場が少しざわつく。ベンチは混乱している。もちろん、相手投手もだ。
プレイボール、第一球投げられた。外いっぱいのカーブ。先輩は大きく空振りした。
ああ!と悲鳴のような声が上がる。
先輩はそれを聞いて、ニヤッと笑った気がした。
先輩は構える。いつもバッティングセンターで見た、あの構え。
私だけが知ってる、先輩の秘密。
左の方が、重心のバランスから長打が出やすいこと。
第二球投げられた。内角のまっすぐ。先輩はしっかりと脇をしめてフルスイングをした。
カキン。気持ちのいい音が響いて、白いボールが飛んで行った。
私だけが知っている、先輩の秘密。
左で打った時、打球はライト方向に気持ちよく伸びること。
ライトがバックする。
もっともっと、もっと。祈るようにみつめた。
ライトが歩みを止めた。
その数瞬後、私は客の歓声で、打球が柵を越えたことを知った。
逆転の、サヨナラ満塁ホーマーだった。
「本当にありがとう。最後におもいっきり打てたわ。あんなの初めて」
「先輩、すごくかっこよかったです」
「ありがとう」
そういって、先輩は私に笑ってくれた。
「ねえ、あなたも艦娘なんでしょう?」
「はい。雲龍型の航空母艦です」
「あなた、再呼集は?」
「来年、だとおもいます」
「そっか」
先輩は、何かを思い出しているようだった。
「私、今度は待ってるから。アンタもとっとと前線まで来なさいよね」
「先輩……」
「今度は一緒に戦いましょ、ね?」
「先輩!」
あの時と同じ、堂々とした出で立ちで、出会った時と同じかっこよさで。
私は絶対、この人に並び立てるような艦娘になりたいと思った。
「じゃあね、汽車が出るわ」
「先輩、絶対に先輩のところにまた、行きますから」
「うん、期待してる」
そう言って先輩は、雪の中に消えてった。
「……よしっ!」
私は走り出した。降り積もる雪の中で、足跡を追いかけるように。