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太郎くんへ
こんにちは、太郎くん。お元気ですか? 私は幻想郷にだいぶ慣れてきました。
ここには特別なルールがあってね、人が集まっている里では人間を襲っちゃいけないの。妖怪が人間のお店で買い物していたりするのは、見ていてなんだかおかしかったです。
でも、大変なの。人里で襲っちゃいけないってことは、人里のおトイレで驚かすこともできないってことなんだ。私にとってはとても困ることです。
怖い巫女さんが、里の外にも家があるよって教えてくれたの。呼び出す方法とかは変わってきちゃうけど、誰かを驚かせるならと思って教えてもらったお家に行ったんだけど……
うーん、ごめんなさい。今回も思い出したくないので、今日はここまで。いつか楽しいお話をおたよりできるといいな。
太郎くん、赤い館のおトイレでは驚かさない方がいいです。特に吸血鬼と魔法使いには、気をつけてね。
最近暑くなってきたから、お体を大切にしてくださいね。お化けだけど、なにかあってからじゃ遅いからね。
ずっと元気でいてください。それでは。
花子より
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人里で出会った巫女に教えてもらったとおり、トイレの花子さんこと御手洗花子は湖の畔を歩いていた。
夏も近づく日中であるというのに、とても深い霧に覆われている。この湖は昼だからこそ霧に包まれるのだが、まだそのことを知らない花子にとって一歩先も見えない濃霧は、少しだけ怖かった。
空気中の湿気はもはや水滴に近いものがあり、花子のセーラー服とおかっぱの髪はビショビショになってしまっている。ときどき手櫛で水滴を落とすも、焼け石に水であった。
一応着替えも持ってきているのだが、一番のお気に入りは昔からこのセーラー服ともんぺだった。地方によって容姿が違って伝わっているため、赤いワンピースやロングヘアーのカツラがリュックに入っているのだが、今ワンピースに着替えてもまた濡れてしまうだろう。
もしかしたら、もうリュックの中で湿っているかもしれない。そう思うと、花子はげんなりとした顔になった。厠に住む妖怪である花子にとって高い湿度は慣れっこだったはずだが、立っているだけでずぶ濡れになる湿気は経験したことがない。
湖のふちに沿ってずっと歩いているのだが、今も件の館は見えない。真っ赤で大きな館だからすぐ分かると霊夢は言っていたのだが、伸ばした手が霧に飲まれて見え辛くなるほど視界は悪い。もう通り過ぎてしまったのではという不安にも襲われた。
「もうやだぁ……」
嘆息混じりに呟き、花子はその場で腰を下ろそうとして、すぐに思い直した。地面もぬかるんでいるのだ。座ればお気に入りのもんぺが泥まみれになってしまう。
休憩することもできずに、再び歩き出した。体はすっかりだるくなっている。歩き疲れたというのももちろんあるのだが、湖に着てから、小さな羽根を生やした少女に何度も襲撃されたのだ。妖気の玉をぶつけてきて、花子は頭を抱えてひたすら逃げ回った。
太陽の光すらも遮る濃霧を見上げて、首にかけてある手ぬぐいで頬を拭った。全身を覆う水滴が汗なのか湿気なのかは、もうとっくに分からなくなっている。手ぬぐいもすでに濡れタオルとなっていたので、もはや気休め程度のものだ。
全身ずぶ濡れになり未知の生命体少女に襲われても、花子は健気に歩き続ける。兎にも角にも、どこかのトイレに住み着かなければならない。なんとしても厠の怪異として生きるというプライドが、背中を押していた。
どこかで一息入れたいなと、花子はあたりを見回した。座れそうな切り株でもないかと思ったが、望むものは見当たらない。目に入るものといえば、足元に濡れて青臭い匂いを放つ雑草くらいなものか。うんざりと溜息をついて、再び歩き出す。
ふと、花子は思った。もしかしたら、霊夢に騙されたのではないか。本当はこの湖に館などなく、あの紅白は霧に視界を奪われて湖に落ちてしまえとでも思っていたのではないか。
「……」
そうだ、そうに違いない。花子は徐々に腹が立ってきた。魔理沙と早苗はともかく、あのヤクザ巫女は人権――妖怪権か――を無視してきたではないか。
考えれば考えるほど、花子のボルテージは上がっていく。顔を真っ赤にして頬を膨らませ、今からでも文句を言いに行こうと思い立った。あれほどコテンパンに叩きのめされたことは、もう記憶の外だ。
とりえあず、怒りの丈を湖にぶつけておくことにした。小さな胸を大きく大きく反らして息を吸い、
「っの――馬鹿巫女ぉぉぉぉぉぉっ!」
若干裏返った少女の声が湖に響き渡った。ぜいぜいと息を荒げながら、反響してくる声を受け止める。
少しだけすっきりした気がして、花子は呼吸を整えるために深呼吸をした。額の水滴を拭って視線を上げた、その時。
「……?」
湖の向こう岸に見えたシルエット。自分の叫びで霧が晴れたのか、それともただの偶然か。
花子からすれば天高く聳えると言ってもいいほどの大きな館が、霧の向こうに浮かび上がった。こちらからは背面しか見えないが、それでも花子が言葉を失うに十分な見事なまでの真紅の外壁。
もはや確認するまでもなく、霊夢が言っていた館だ。
「ば……」
濃霧のキャンパスに現れた紅の館を見上げて、花子はぽつりと呟いた。
「馬鹿なんて言って、すみませんでした……」
◇◆◇◆◇
吸血鬼は、高貴な種族である。
大樹を楽々投げ飛ばす腕力、風の如く駆け抜ける俊足、あらゆる魔法を使いこなす魔力。全てにおいて高水準なバランスを持つ吸血鬼こそが、至高の悪魔なのだ。
紅魔館の主、吸血鬼のレミリア・スカーレットはそう自負している。というよりも、揺るがぬ事実であると信じきっていた。
青みがかった銀髪と真紅の瞳。人形のような顔立ちをしている彼女は、十歳程度の少女であった。
もっともそれは見かけだけの話であり、実際は五百年もの時を生きている。容姿で油断する奴はことごとく力で叩き伏せてきたので、今更自分の姿に劣等感を抱くこともない。
その手を掲げるだけで多くの種族が畏怖しひれ伏すほどの圧倒的カリスマ。他のどの種族も到達できない超絶なパワーを持つ吸血鬼は、もはや幻想郷の支配者と言っても過言ではないだろう。
今日も上機嫌にそんなことを考えながら、レミリアは口の周りについた生クリームをよだれふきで拭った。今日のケーキも実に美味であった。空いた皿をトレーに乗せながら、紅魔館のメイド長、
今日もいつもと変わらず、優雅な一日を過ごしている。優雅に目覚め、優雅に朝風呂(夜だが)に入り、優雅に朝食(夜だが)を食べ、優雅に妹や親友と遊び、そして優雅におやつを楽しんだ。
優雅によだれふきを外し、優雅に肘掛に手をつき、届いていない足を優雅に下ろして床に立つ。
そして、優雅にもよおした。
一度この感触を覚えてしまうと、もう無視することはできない。もじもじしながら、レミリアは咲夜を見上げた。
「咲夜、お花をつみに行ってくるわね」
「あらあら、お供いたしましょうか?」
「馬鹿言わないでよ。おトイレくらい、一人でできるわ」
子供扱いしてくる咲夜にイーッと歯を剥いてから、早足でトイレに向かう。
紅魔館はただでさえ大きいのに、咲夜の空間を操る力で内部を広げてある。さすがに迷うようなことはなかったが、それでもトイレまでの距離を遠く感じた。わざわざ宣言しているのだから廊下を縮めてくれてもいいだろうに、咲夜はどうしてかそれをしてくれない。彼女は優秀なメイドだが、肝心なところで気が回らないことも多い。
長い廊下をパタパタと駆けて、レミリアはようやく目的地に到着した。腕を伸ばし、ドアノブに手をかける。小さなその空間は、今のレミリアにとってオアシスであり聖域であった。飛び込むように中に入って、自分ひとりだけに用意された空間の鍵を閉める。
長いスカートをするりと持ち上げ、ドロワーズをよいしょと下ろして、便器に座った。
「……はふぅ」
全ての悪しき者を体から追い出し、レミリアは一人、ほっこりと笑みを浮かべる。
カランカランと音を立ててペーパーを巻き取り、戦いの後を消し去って立ち上がろうとした、その時だった。
小さなお尻に凄まじい嫌悪感。同時に背筋を鳥肌が駆け抜け、レミリアは「ひっ」と声を上げた。
誰かがお尻を触っている。とても冷たい手だ。レミリアは今も便器に座っているというのに、一体どこから――
「うっ……」
お尻を触っていた手がぬるりと伸びて、背筋を撫でる。
どんどん登ってきているそれから反射的に飛び退いて、レミリアは感じた嫌悪感を殺意に変えた。
「どんな妖怪かは知らないけど、この私にケンカを売るとはいい度胸じゃないの。お前の運命を不夜城レッドで全世界ナイトメアにしてや――」
振り返って、固まった。
便器からぬるりと出ている上半身。真っ赤なワンピースに黒いロングヘアーの少女が、下弦の月が如く唇を歪めている。真っ黒で光のない双眸がレミリアの瞳を覗き込む。
目が合い、レミリアは殺意がつま先から抜けていくのを感じた。同時に、得も言われぬ感情が込み上げてくる。
「う……」
「ネェ――」
ずるりと洋式の便座から這い出して、少女の顔が目の前に迫る。底なしの眼窩に呑まれそうになる中、黒い髪の少女がケタケタとやかましく笑い声上げた。
「アソビマショ――ワタシト――アソビマショウ――」
「ひ……うぁ……!」
ここで一つ、補足しておかねばなるまい。吸血鬼のレミリアは本当に強く頭も切れる。が、その精神は幼い少女そのままであった。最近まで館の外に出ることは少なかった上に、幻想郷以外で自分以外の妖怪を見たこともあまりない。
幻想郷の妖怪、特にレミリアの知る妖怪はその誰もが人間の少女のような容姿をしていたため、化け物らしい化け物に出会うのは今回が初めてとなる。
幼子が初めてお化け屋敷に足を踏み入れた時と同じ衝撃が、レミリアを襲った。抑えきれぬどころか抑えようとすることすらできずに、膨れ上がる感情のまま、
「びゃああああああああああああああっ! さくやぁぁぁぁぁぁっ!」
化け物を見つめた瞳と中途半端に上がったドロワーズをそのままに、絶叫した。先ほどの優雅云々は完全に消えさり、姿そのままの子供のように泣き喚く。
「しゃぁぁぁくやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「やったぁ! 大成功っ!」
先ほどの恐ろしい顔がすっかり変わり、赤いワンピースの少女が満面の笑顔を浮かべて便器の中へと消えていった。しかし、レミリアには自分を襲った恐怖が去ったことを理解するほどの理性は残っていない。
泣き声もピークに達しようという頃になって、ようやくトイレのドアが開けられた。咲夜の参上である。
「どうしました、お嬢様!」
尋常ではない主の悲鳴に、大慌てでやってきたようだ。その手には、銀製のナイフが握られている。
物騒な姿だが、今のレミリアには頼もしいことこの上ない。咲夜のメイド服にしがみつき、顔を押し付ける。
「変なの、変な奴がトイレから! にゅーって出たのぉぉぉぉっ!」
「な、なんですって? 妖怪の類かしら……」
咲夜がトイレの中を覗き込む。しかし、そこにはいつも通り便器が佇んでいるだけだ。
しばらく便器とレミリアを交互に見てから、咲夜はとりあえず主人を慰めることが先決と判断したらしい。
「お嬢様、もう大丈夫ですわ。落ち着いてください」
「手がね、手がお尻をぬるーってやったのぉぉぉぉっ!」
「怖かったのですね。私が追い払いましたから、もう安心ですよ」
わんわん泣き叫ぶレミリアは、誰が見ても吸血鬼であることを信じてもらえないだろう。レミリアがこんな姿を見せられるのは、咲夜と親友くらいなものだ。
「あぁぁぁぁぁぁん!」
「あぁ、どうか落ち着いてくださいまし、お嬢様」
我を忘れて号泣するレミリアと、その背中を優しく叩いて慰める咲夜。
高貴で優雅な吸血鬼が落ち着いたのは、事態に気づいたレミリアの親友、パチュリー・ノーレッジが駆けつけてからだった。
◇◆◇◆◇
早朝。外では昇りはじめた太陽がさんさんと光を注ぎ始めているだろうが、窓の少ない紅魔館、そのお手洗いともなれば、太陽光など届くわけもなかった。しかし、それでも花子の心中は真夏の浜辺が如き明るさに満ち溢れている。
なんと幸先のいいスタートなのか。花子はトイレの便器に身を潜めてほくそ笑んでいた。
何も本当に便器に入っているわけではなく、厠の妖怪である彼女は、そこがトイレもしくはそれに準ずる場所であれば自分だけの空間を作り上げることができるのだ。お世辞にも大きいとは言えない空間だが、誰にもばれずに隠れられる花子の住処だ。
紅魔館のトイレは、とても居心地がよかった。隅から隅まで綺麗に手入れをされているし、床にはマットが、そして便座にもふかふかなカバーがかかっていた。冷たい上に臭いもこもりやすい学校のトイレとは雲泥の差だ。
本当ならば『トイレの花子さん』という怪異には、呼び出すためのルールがあるのだが、手順を踏まなければ登場できないわけではない。あくまで子供達の恐怖心を煽るための手段にすぎなかった。
とはいえ、アドリブで誰かを驚かすのはとても久しぶりだった。うまくできる自信はなかったが、まさかこれほどの成果を得られるとは。
「私もまだまだ、捨てたものじゃないなぁ」
などと自画自賛しつつ、空間の外で便器の水面が揺らぐのを見上げる。お尻を触ってしまったのは花子としては失敗だったのだが、それも驚かせることに一役買ってくれたので、良しとすることにした。
なにやらフリフリしたドレスを着た幼い少女だった。自分も洋館ということで赤いワンピースとロングヘアーのかつらなど被っているのだが、足元にも及ばないほどの豪勢な洋服を前にして、少し恥ずかしい思いを感じていたりもした。
とはいえ、驚かすのにそこまでめかしこんでも仕方がない。いつかあんなドレスを着れたらと夢を見つつ、花子はいそいそとかつらを直す。
人の気配が近づいてきたのだ。トイレのドアの向こう側から、とことこ響く、二人分の足音。
「本当よパチェ、本当に赤いワンピースの女の子が出たのよ!」
「信じてるわよ。でもだからって、一人じゃ怖いからトイレについてこいだなんて。レミィ、あなた私より四百年も長く生きてるのよ?」
「仕方ないじゃない、本当に恐ろしかったのよ。あれは大妖怪……このレミリアをも凌駕するモンスターに違いないわ」
「はいはい。ほら、ついたわよ」
カチャリとドアノブが音を立てる。しかし回らず、ドアもまだ開かない。ためらっているようだ。
「待っててね。先に帰っちゃ嫌よ」
「分かったから、早く済ませてきなさいよ」
「絶対だからね。出てきていなかったら、絶交だからね」
「……この子、本当に吸血鬼なのかしら」
呆れた声が聞こえると同時に、トイレのドアが開かれた。入ってきたのは、前回と同じ少女。今は朝のはずだが、寝巻きに着替えている。
ふと、花子は気がついた。この少女――レミリアには、羽が生えている。そういえば、もう一人の声が吸血鬼だとかなんとか言っていた。彼女は人間ではないようだ。だが、花子にとっては人も妖怪も同じこと。寝巻きのズボンを下ろす手すら恐る恐るな少女を驚かすことなど、赤子の手を捻るより遥かに楽なことなのだ。
驚かすタイミングを今か今かと待っていると、おもむろにレミリアがズボンを上げて、ドアを開けた。
「うぅ、ねぇパチュリー……」
「何よ」
「扉、開けておいてもいいかしら」
「はぁ……好きにしなさいよ」
外の少女はどうでもいいと言わんばかりの顔だが、宣言通りレミリアは扉を開けたまま用を足そうとした。
再びいそいそとズボンを下ろすレミリアと、それを直視しないように目線を逸らしている友人、パチュリー。友達というより姉妹のように見えてしまうが、花子にとってはどちらでもよかった。
ちょうどいい、一石二鳥だ。パチュリーも一緒に驚かせてやろうと、花子は鼻息荒くやる気満々である。
その、刹那。
「レミィ、待ちなさい」
「へ?」
ズボンとパンツを中途半端に下ろした中腰のまま、レミリアは頓狂な声を上げた。
パチュリーが左手に持つ本は淡く輝いており、彼女の視線は鋭く変わって、レミリアの背後――つまり、花子を睨んでいる。花子はまだ、自分の空間に隠れている。視認はされていないはずだ。
なぜか、ばれている。今度は花子がうろたえる番だった。声こそ上げなかったが、頭の中が混乱してくる。やる気と共に妖気まで湧き出てしまい感づかれたのだが、花子はそれに気づくことができない。
レミリアはこちらに気づいていないようだが、彼女の場合は妖気云々の前に恐怖心が勝っているというだけだろう。
「水面に術式が施されてる。妖気も感じるし、向こうに空間ができているらしいわ」
「え、そうなの? じゃああいつがいるの?」
「そのようね」
パチュリーが告げると、レミリアはさっと寝巻きのズボンをはいて友人の後ろに隠れた。パチュリーの背後から顔を出して、
「このレミリア・スカーレットに挑むとは、いい度胸ね。でも、どんな卑劣な手段を用いても私には指一本触れられないわ」
「前に出て言いなさいよ。それにあなた、お尻触られたんじゃなかったの?」
半眼を後ろのレミリアに向けてから、パチュリーは掲げた右手に炎を召喚した。花子はいよいよ自分に訪れた危機に気づいて、空間内で息を呑む。
手中の炎を揺らめかせて、パチュリーが目つきを鋭くした。小学校で平和な暮らしをしていた花子にすら、彼女が本気であることが分かる。
「出てきなさい。それとも、トイレごと消し炭になる?」
「ちょ、まって!」
いつぞやの寺子屋を思い出し、爆発だけは避けなければと空間を解除、花子は慌てて便器の上に躍り出た。
急いだせいでかつらが大げさにずれてしまい、どういうわけか後ろ髪が前に回ってしまっている。ついでに空間解除にも少し失敗してしまい、上半身が濡れてしまった。
下半身はまだ空間の中にある。レミリアとパチュリーからは、黒く長い前髪を垂らしずぶ濡れになった赤いワンピースの少女が便器からぬるりと現れたように見えただろう。一瞬で涙目になったレミリアはおろか、さしものパチュリーもその気色悪さに後ずさりしている。
その上、中身はパニックに陥った花子だ。うろたえるあまり両手を伸ばして彷徨わせているのだが、それすらも紅魔館の世間知らずな少女二人にとっては、不気味極まりない。
「あぁ、あのその、あわわ」
うまく言葉にできず口篭る花子の声は、変化によって上ずった不気味なものに変わっていた。二人はさらに拒絶反応を見せる。
レミリアはパチュリーの背から一切動こうとせず、そのパチュリーはむしろ瞳を鋭く細めた。
「動かないで。焼き払うわよ」
「ままっ、ままってまってくださ――」
狭いトイレの壁に手をかけて立ち上がろうとする花子だが、濡れた手でびちゃりと壁を抑えるその様は、もはや化け物以外の何者でもない。
謝罪をするどころか深まる誤解を解くこともできず、パチュリーが炎をさらに大きくさせた。花子が動くたびに、レミリアの顔が泣き面に歪んでいく。
手が滑って、花子はその場に転んだ。かつらがさらに大きくずれて、レミリア達からすれば妖怪が不気味に蠢いたようにしか見えなかっただろう。
レミリアとパチュリーの感情の緒が、音を立てて切れた。
「びえええええええっ! しゃぁぁぁくやぁぁぁぁぁ!」
「気色悪い……! 燃え尽きなさいッ!」
吸血鬼の泣き声と魔法使いの怒声が響く。掌が滑って何度も起き上がることに失敗している花子は、視界を覆う長い前髪の隙間から赤い光が差し込むのを感じた。
「ま、待ってぇぇぇぇ!」
「問答無用!」
狭いトイレで起き上がろうとしつつ、許しを請うためにパチュリーを見上げ――
真っ赤な炎がぶつかる寸前で意識が途切れたのは、幸運だったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
フリルのついた洋服を着ることは、花子にとって夢であった。
妖怪として生まれた頃は人間の子供達もせいぜいが小奇麗なシャツやスカートを身に着けていた程度だったが、元号が平成となり十五年を過ぎた辺りになると、庶民の娘でも花子からすれば派手な衣服を身に纏うようになったのだ。
気に入っているとはいえ、普段の恰好は古びたもんぺとセーラー服。噂に合わせて時折赤いワンピースを着る程度という彼女にとって、平成の子供達は夢の国のお姫様のようにすら思えていた。
なので、今の花子は捉えようによっては幸せと言えるのかもしれない。その手に握っているのが雑巾で、必死になって床を磨くようなことをしていなければ。
「ふぅ、ふぅ」
それこそ一国の姫君が住まうような部屋で、花子は初めて着たメイド服に四苦八苦しながら雑巾がけをしていた。
レミリアの自室である。使うのは彼女だけだというのに、学校の教室程度の広さはあるだろうか。
「ほら、まだこっちが汚れてるわよ。しっかり働きなさいな」
豪勢な椅子に腰掛け偉そうにふんぞり返るレミリア。手にはティーカップを持ち、隣の咲夜に紅茶を注がせている。頬を膨らませながらも反論せず、花子は雑巾がけを続けた。
パチュリーの業火にやられ、目が覚めた花子を待っていたのは長時間に及ぶ説教であった。ふかふかなベッドに正座させられて、咲夜から延々二時間もお小言を頂戴したのだ。
ともあれ、説教が終わった花子は早々に紅魔館を立ち去ろうとしたのだが、大きな玄関ホールで運悪くレミリアに遭遇してしまった。
彼女は強い悪魔である。逃げてもあっという間に捕まり、驚かせた罰として、こうしてレミリアに奉仕させられている。
「誰にも気づかれず紅魔館のトイレに隠れて、よりにもよって私を驚かせるとはね。その手腕は褒めてあげるけれど、相手は選ぶべきだったわね」
「……」
短い足を組んで見下してくるレミリアである。あんなに怖がり泣いていた少女の偉そうな態度は、花子にとって面白いものではない。
そもそも、妖怪が誰かを驚かすのは当たり前のことではないか。犬に噛まれたと思って諦めてほしいものだと、花子は自分を棚に上げつつ雑巾を滑らせる。
「とほほ。なんで私がこんな目に」
「吸血鬼の館を選んだあなたのミスですわ」
「だって知らなかったんだもの」
咲夜に半ば助けを求めるように訴えるが、瀟洒なメイド長は笑顔を絶やさず、
「知りませんでした、は言い訳にならないわよ? 世の中そんなに甘くないの」
「だから謝ったじゃないですかぁ。もう許してくださいよ」
「そうそう、咲夜の言うとおりね。被害者は私だもの、私が満足するまで付き合うのは当然」
「そんなぁ」
目尻に涙を溜めながらも、花子は雑巾をバケツでゆすぐ。暖かい季節だというのに、濁った水は妙に冷たかった。
ここではもう誰かを驚かすことはできないだろう。さっさと他の家に行くなり公衆便所を見つけるなりしたいのだが、レミリアの新しい玩具を見つけたかのような顔。当面は見逃してくれそうにない。
「ほら花子、手を止めない。早くしないと日が昇っちゃうわよ!」
「ぐすん」
濡らした雑巾を絞りながら、花子は思う。自分だけは人も妖怪も見下したりしないようにしようと。驚かせ腹を膨れさせてくれた人には、ちゃんと感謝をしようと。
花子の吸血鬼への強制ご奉公は、その後三日間ほど続くこととなった。