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太郎くんへ
こんにちは。幻想郷は少しずつ暖かくなってきたけれど、そちらはどうですか?
紅魔館に来てから、もう三ヶ月くらいになります。とても楽しくて、あっという間でした。
春になるまでって約束だったから、次はどこに行こうかってレミィ達と話すことも増えていたのだけれど……。
ねぇ、太郎くん。大好きな友達に、ずっとそばにいてくれなきゃ嫌いになるって言われたら、どうする?
私は何も言えなかったの。自分の本音がどれなのか、分からなくなってしまったの。
せっかく春が近いというのに、こんなお話をしてしまってごめんなさい。
太郎くんは、ずっと一番の友達でいてくれると信じられるから、つい甘えちゃうんだ。えへへ。
今度はきっと、笑って読んでもらえるようなお手紙を書くね。
それでは。
花子より
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新年を迎えて時が過ぎても、紅魔館の賑やかさは変わらなかった。
冬の冷たい青空は、その澄み渡る空色の中に温もりを含み、幻想郷の住人達に近づく春を教えてくれる。気温こそまだまだ低いが、人々の心は早くも躍り始めていた。
妖怪といえど、うららかな陽気を嫌う者は少ない。花子もまた、春が好きな妖怪の一人だ。暖かな太陽に包まれる季節は、何をしてもうまくやれる気がする。
日の光を浴びられない吸血鬼にとってはつまらない季節かもしれないと思っていたが、「庭園の花が咲き始めたと美鈴が言っていたわ、月の綺麗な夜に見に行きましょう」と、レミリアはにこにこしながら話していた。
今夜も、春の気配に心を躍らせるレミリアは、満面の笑みだ。
「咲夜、今日のおやつはなぁに?」
妖精メイドが慌しく駆けているキッチンに、楽しげな声が響く。レミリアとフランドール、そして花子の三人は、館の主に導かれてここに訪れていた。
小首を傾げるレミリアの問いに、咲夜が苦笑する。レミリアの隣で、花子もまた同じような顔をしていた。
「さきほど、お食事を終えられたばかりですよ」
「だって、最近あったかくなってきたでしょ? そろそろ春の果物を使ったケーキが作れるじゃない」
「申し訳ございません、まだ季節の果実は仕入れできていないのです。今日はプディングにするつもりですわ」
不服そうに、レミリアが頬を膨らませる。とはいえ、キッチンの全権を握っているのは咲夜であるし、彼女が作るお菓子はどれも美味しいので、しぶしぶながら文句は言わないようだ。
鼻歌交じりにプディングを作る咲夜をしばらく眺めていた三人だが、料理の知識がほぼ皆無な少女達は、早々に飽きはじめてしまう。
結局レミリアの自室に戻ることになり、一同はのんびりと廊下を歩く。ふと、花子は一番後ろを歩いているフランドールがずっと黙っていることに気付いた。
お腹でも痛いのだろうか。振り返ってみると、フランドールの顔色はやはり優れていない。
「フランちゃん、どこか具合悪いの?」
聞いてみても、彼女は首を横に振るばかりで、答えてくれなかった。
階段を登りかけていたレミリアが、妹に駆け寄る。フランドールの顔を覗きこむようにして、
「何かあったの? お姉さまに言ってごらんなさい」
「……なんもない」
「何もないこと、ないでしょうに。フラン、元気ないわよ」
スカートの裾を掴んで、フランドールはそっぽを向く。今日はゲームで負けたわけではないし、花子にもレミリアにも、いじける理由が分からない。
ここ数日、あの天真爛漫なフランドールから口数が減っている。彼女は元々情緒不安定なところがあるので気にする者は少なかったが、いつも一緒に行動していたレミリアと花子は、たまにある癇癪とは少し違うことに感づいていた。
特に肉親であるレミリアは、言葉にこそ出さないものの、最近のフランドールをとても心配していたはずだ。
「隠し事かしら。お姉さま怒らないから、話してすっきりしましょ?」
「……そういうんじゃないの」
「ずっともやもやしてると、体に悪いよ。フランちゃん、私でも力になれるなら、何でもするよ」
花子も諭すように言うと、フランドールはしばらくもじもじとしてから、少しだけ顔を上げた。
廊下にある数少ない窓の一つに近づいて、フランドールがカーテンを開ける。少しばかり雲が出ているが、冬の寒さが残る空には、星と月が美しく輝いていた。
「まだ、冬だよね」
暦ではもう三月に入りかけているが、まだ寒さが厳しく、お世辞にも春爛漫とはいえない。
長く続く寒さに、嫌気が差しているのだろうか。とにかく慰めなければと、花子はフランドールの肩に手を置いた。
「すぐに暖かくなるよ。春はもうそこまで来てるもの」
「そっか。春、もう来るんだ」
元気になるかと思われたが、フランドールは小さな口から重い溜息を吐いて、目を伏せてしまう。
一体どうしたものか。レミリアと目を合わせても、二人揃って妙案は沸いてこない。
しばしの沈黙を置いて、フランドールが呟く。
「春なんて、来なきゃいいのに。壊しちゃおうかな」
「……え?」
春が嫌いなのだろうかと思った花子だが、レミリアがそれを否定する。
「どうして? フラン、毎年暖かくなると、喜んでいたじゃない」
「あったかいのは好きだよ。でも、今年の春はやなの」
「イヤイヤしててもしょうがないじゃない。ちゃんと言わなきゃ、分からないでしょう」
フランドールは答えず、ただその視線を、ちらちらと花子に向ける。
何かを言いたいのに躊躇しているような雰囲気を感じ、花子は首を傾げた。しかし、すぐに思い至る。
「あ……」
花子が気付いたことで踏ん切りがついたのか、フランドールが小さく頷いた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「春になって、あったかくなったら、花子は出ていっちゃうんでしょ?」
今度は、花子が俯いてしまった。フランドールの言うとおり、花子はもう少し暖かくなったら、旅を再開するつもりだった。
幻想郷を見て周り、もっと自分自身の可能性を模索したい。今でもその気持ちは変わらないが、すがるようなフランドールの視線を受け、はっきりと答えてやることができない。
きっと、フランドールは否定してほしかったのだろう。ずっとここにいる、そう言ってあげられたら、どれほど気が楽になることか。
だが、花子はその言葉を選べなかった。確かに、紅魔館は居心地がいい。誰もが花子を家族のように扱ってくれる。だが、レミリアとフランドールは友達であり、この館は友人宅にすぎない。花子にとっての我が家には、なりえない。
「やっぱり、行っちゃうの?」
涙ぐんでいるフランドールの声が、花子の心を締め付ける。元来が泣き虫なせいで、釣られて泣いてしまいそうだ。
できることなら一緒にいてやりたい。だが、花子の旅は娯楽ではなく、やるべきことを見つけるための、大事な旅なのだ。自分で決めたことを投げ出したくないという気持ちも、また強い。
「フランちゃん、私は――」
「フランドール、花子を困らせないの。春になったら出発するという約束だったでしょうに」
被せるように、レミリアがきつく言い放つ。花子は言葉がまとまっていなかったので、この助け舟には素直に感謝した。
しかし、身内の叱責は容易に反感を呼ぶ。パッと顔を上げたフランドールは、目じりに溜まった涙を散らし、レミリアに掴みかかる。
「約束なんて、私はしてないもん! お姉さまが、花子と勝手に決めたんじゃない! だったら、私がまた花子と約束する。ずっと一緒にいてって約束するの!」
彼女には、ほとんど友達がいない。それこそ、魔理沙と花子くらいなものだ。友達がずっとそばにいたのだから、この数ヶ月はきっと、五百年近い人生で一番と言えるほど楽しい時間だったに違いない。
これほどの人恋しさを妹に植え付けてしまった、その責任を感じているのだろう。レミリアが唇を噛む。
しかし、彼女はすぐに厳しく目を尖らせる。妹のために。
「ワガママ言うんじゃないの、花子はウチの子じゃないんだから。それに、もっと旅をしたいって言ったのは、花子なのよ。あなたは大切なお友達の気持ちを、ないがしろにするの?」
「そんなんじゃない。そんなんじゃないけど、お姉さまは寂しくないの? 花子が出ていっちゃったら、とっても静かになるわ」
レミリアの袖を掴んで揺さぶるフランドール。話の渦中にいる花子は、ただ口を閉ざして下を向いていた。
しがみつく妹の手を、レミリアはそっとどける。
「そうね。花子がいなくなると、寂しいと思うわ。でも、ずっとさよならするわけじゃないでしょう? また来てもらえるし、フランは最近いい子だから、外で遊ばせてあげてもいいのよ」
「でも、やっぱやだ。寂しいの、やだよ」
フランドールが、花子の方を向く。視線を上げると、彼女はまるで媚びるような、少なくともプライドの高い吸血鬼がしてはいけない表情をしていた。
こんなフランドールは、見たくなかった。
「ねぇ花子、これからも紅魔館にいようよ。おいしいご飯もあるし、ベッドもふかふかだし、それに――」
言葉の途中で、フランドールが顔色を変える。花子が、目を逸らしたからだ。
「ごめんね、フランちゃん」
「……なんで?」
ぽろぽろと、フランドールの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。普段はレミリアに負けないよう大人びた態度を取る彼女だが、その実は、姉よりはるかに幼く、感情の起伏も激しい。
ワガママを鵜呑みにしてしまっては、友人のためにならない。そう思っての拒否だったが、とんでもない引き金を引いてしまったことに、花子は気づいた。
なんで、なんでと繰り返しながら、フランドールは花瓶が置いてある小さな机に手をついた。衝撃で花瓶が落ち、陶器の割れる音が響く。
それをきっかけに、フランドールが叫んだ。
「お姉さまとは約束したのに、なんで私とは約束してくれないの? 花子は私のことが嫌いなの!?」
「そ、そんなことないよ! 私は、フランちゃんのことも大好きだよ。友達だと思っているよ」
「じゃあ一緒にいてよ。ずっと私と遊んでよ!」
「でも、だってそれは……」
口ごもる花子に、涙の混ざったフランドールのきつい眼差しが突き刺さる。
「友達だって言ったのに。花子の嘘つき! 大ッ嫌い!」
落雷を脳天から受けたような凄まじい衝撃が、花子の全身を駆け抜けた。これまで嫌われることの少なかった花子は、他人に面と向かって嫌悪の言葉を叩きつけられることに慣れていない。ましてそれが、とても親しい友人からのものならば、破壊力は凄まじい。
顔色が青ざめ、吐き気すらしてくる。言葉など出るはずもないし、頭の中は真っ白になっていった。
倒れてしまいそうになるほど薄れていく意識の中で、乾いた音が響く。
レミリアが、フランドールの頬を叩いたのだ。
「っ――」
獰猛な悪魔の顔つきで、フランドールがレミリアを睨みつける。しかし、その眼光をものともせずに、レミリアは吐き捨てた。
「フランドール、いい加減になさい」
静寂が、紅い廊下を包む。妖精メイドの姿は、どこにも見当たらなかった。
大ダメージを受けた心が徐々に落ち着きを取り戻し、花子はようやくフランドールを直視することができた。叩かれた頬を押さえて、呆然としている。
フランドールの中に満ちていた怒りが悲しみに変換されていくのが、花子には分かった。妖怪も裸足で逃げ出すほど怖ろしかった彼女の顔が、見る間に泣き顔へと歪んでいく。
限界に達するまで、そう時間はかからなかった。幼子の姿そのままに、フランドールが泣き叫ぶ。
「お姉さまの、お姉さまの――、馬鹿ぁぁぁぁぁ!」
感情が高ぶり制御しきれなくなった魔力が、廊下に吹き荒れる。吹き飛ばされそうになった花子は、レミリアに受け止められた。
身動きが取れない二人を見もせずに、フランドールが羽ばたいた。翼についている七色のクリスタルが、虹の軌跡を描く。
まさかと思った直後、花子とレミリアは同時に声を上げた。
「お待ちなさい、フラン!」
「フランちゃん、話を聞いてよ!」
しかし、言葉は届かない。飛び上がり、渦巻く魔力を纏った体当たりで、窓をぶち破る。ガラスが砕け散る音と共に、フランドールは夜の幻想郷へ消えた。
慌てて割れた窓に駆け寄ってみるが、時すでに遅し。吸血鬼が飛ぶ速度は、天狗にも匹敵するという。もう、彼女の姿は見えない。
「フランちゃん……」
「まったくもう、何を考えているのよ」
スカートについた埃を払って、レミリアが溜息をつく。
「仕方ないわ、手分けして探しましょう」
「……」
花子は自分を責めていた。事の発端は自分にあるし、出発を春から夏まで延ばしてやれば、フランドールの機嫌を損なわなかったのかもしれない。
罪悪感で胸がいっぱいになり、つい泣きそうになるのを堪えて、花子は夜空に浮かぶ半月を、祈るように見上げた。
「ごめんね、レミィ。私のせいで……」
「いいの、大丈夫よ。あの子がわがまま言っただけなんだから、あなたは悪くないわ」
レミリアが、優しく頭を撫でてくれる。気持ちよかったが、花子の心は晴れなかった。
箒やちりとりを持って、ようやく妖精メイドがやってくる。背後でせわしなく片づけが始まり、二人は揃って、割れた窓から夜空へ飛び出した。
花子と並んで飛ぶレミリアが、後悔の念を滲ませる。
「あなたによく懐いているものね、フランは。もっと早く気付いてあげられればよかった」
「私も、なんで分かってあげられなかったんだろう」
「でも、花子のせいじゃないからね。ちゃんと約束していたんだもの、気にしなくていいのよ」
「……ありがとう、レミィ」
弱々しい笑顔で礼を言いつつも、心の中には不安と心配しかない。
輝く半月に、どうかフランドールが見つかりますように、無事でいますようにと、花子はただただ、祈る。
だが、願いは届かず、フランドールはその日、帰ってこなかった。
◇◆◇◆◇
勢いで飛び出してしまったことを、フランドールはもう後悔し始めていた。
憧れた一人での外出が、まさかこんな形になってしまうとは。月に照らされる夜空を漂いながら、嘆息を漏らす。もう、涙は流れていなかった。
なぜあんな駄々をこねてしまったのか。思い出すだけで、恥ずかしくて仕方がない。
花子を困らせるつもりなどなかった。ただ、もう少しだけ一緒にいてくれと言うつもりだったのだ。それが、溢れ出る感情に押されて、とんでもないワガママをまき散らしてしまった。
挙句の果てには、花子に向かって「大嫌い」などと。きっと花子だけでなく、レミリアにも呆れられてしまったことだろう。
夜の幻想郷は、暗い。宵闇こそが吸血鬼の生きる世界だというのに、フランドールは明かりの灯る紅魔館が恋しくて仕方なかった。
しかし、戻れない。帰ったところで、姉と友にどんな顔で会えばいいのか。心のどこかで自分を探してくれているのではと思っていることもまた、なんとも虚しかった。
真っ暗な幻想郷の中に、光が密集している場所があった。人里だ。提灯などで照らされた町の明かりは、温もりに溢れている。
あの光の中で、多くの人間が、家族や友達と楽しく暮らしているのだろう。悪魔であるフランドールが、そこに馴染めることはない。そのことが酷く悲しく思えて、瞳にまたも涙が浮かぶ。
このまま、ずっと一人ぼっちで暮らすのだろうか。寂しくて寂しくて、たまらない。心が重石となって、フランドールは徐々に下降していく。
力なく着地した場所は、人里の近くだった。里の中には入る気になれず、とぼとぼと歩く。向かう先など分からず、紅い瞳は暗闇の地面を見つめている。
ふと、日傘を持ってきていないことに気がついた。このまま日が出れば、焼け死んでしまうかもしれない。太陽光に当たったことは一度もないが、とっても痛いとレミリアが言っていた。
消えてなくなれば、この気持ちもなくなるのだろうか。それもいいかななどと自嘲気味に考えて、フランドールはふと顔を上げた。
「……?」
そこそこの距離を歩き、もう人里の明かりが届かない場所まで来たはずだった。だというのに、目の前の建物には煌々と光が灯っているではないか。
門は夜だというのに開け放たれ、広い庭の先には立派な和風建築が佇む。寺と呼ばれる、仏教の聖堂。書籍で読んだことはあったが、見るのは初めてだ。
幻想郷の寺は妖怪が管理していると、魔理沙から聞いたことがある。寺のトップに立つ大魔法使いが魔理沙をとても気に入っているそうだ。花子もここを訪れたと言っていた。
明かりに吸い込まれるようにして、寺の境内に足を踏み入れていた。興味が沸いたということもあるが、魔理沙や花子と仲がいい人ならば自分とも友達になれるはず、という子供らしい確信が、彼女の背中を押していた。
しかし、フランドールは人の家を訪ねる術を知らない。作法はそれなりに知っているし、戸を叩けば誰かが出てくるだろうことも容易に想像がつくのだが、その勇気が沸かなかった。
なにせ、吸血鬼なのだ。妖怪からすらも嫌われている、強大すぎる悪魔。普段は誇りに思っていた事実も、今では不安材料でしかない。
ノックしようと伸ばした腕を、引っ込める。臆病風に吹かれてしまい、何度目か分からない嘆息を漏らした。
とはいえ、どこかに行くあてがあるわけでもない。明かりから離れるのが心細く、フランドールは境内の中を彷徨うように歩く。もしかしたら、誰かが気付いてくれるかもしれない。
しかし、現実は厳しかった。一時間以上経っても、独りぼっちで立ち尽くすことになる。さすがに気が滅入り、境内にある池を囲う大きな石を背もたれにして、地べたに腰を下ろした。スカートが分厚いおかげか、砂利は痛く感じない。
膝を抱えて、冬の寒さに耐える。寺の中からは、妖怪達の楽しげな笑い声が聞こえてくる。孤独感がフランドールを包み込み、思わず「お姉さま」と呟いた。
自分はなんと不幸なのだろうかと、両膝の間に頭を押し付ける。夜空で散々泣いたおかげか気持ちは多少晴れたものの、普段から大人ぶっていた反動か、すっかり自己憐憫に囚われてしまっていた。
物心がついた頃には家から出られず、父亡き後は地下にも幽閉された。あげく、信頼していた友にまで裏切られ、あぁ、自分はなんと悲しき吸血鬼なのか。
本当のことを言えば、地下に閉じ込められていた過去について、彼女は怒っても恨んでもいない。だが今のフランドールには、全ての過去が不幸に思えてしまうのだ。
有名歌劇に登場する悲劇のヒロインもかくやというほど悲哀に酔っていた、その時である。
「こんばんは」
突然声をかけられて、フランドールは固まった。こんなにそばまで妖気が近づいてきていたのに、まったく気付けなかったのだ。独創悲劇を演じていた感情は一転、焦りに埋め尽くされる。
なにせ、一人での外出は初めてのことだ。挙句、人様の敷地に無断で侵入している始末。出先で初対面の他人に声をかけられる経験も、当然ない。
強大無比な吸血鬼とはいえ、世間知らずなフランドールは、膝を抱えた格好のまま一言も発せずにいた。
「こんばんは」
二度目の挨拶に、苛立ちや不信感はない。どころか、親しみやすさすら感じてしまう。
おずおずと顔を上げてみれば、金に紫色のグラデーションが入った髪の女性が、フランドールを見つめていた。
月光を受けて美しく輝くその微笑は、悪魔のフランドールにすら女神を連想させる。呆然と、見入ってしまった。
「どこか、お加減でも悪いのかしら。人間ではなさそうだけれど」
「……あ、私は」
「いいんですよ、無理してお話にならなくても。ここは寒いですから、中へ入りましょう?」
差し伸べられる手を、知らず知らずに取ってしまった。立ち上がって、スカートについた砂利を払う。
名前すら名乗り合っていないのに、女性は縁側から上がり、おろおろしているフランドールも招き入れ、彼女の靴を手に歩きだした。
流れに飲まれて、後をついていく。初めて見る和風建築に心を奪われ、ついつい無遠慮に眺め回してしまう。しかし女性は怒らずに、終始ニコニコとしていた。
玄関にフランドールの靴を置いてから、女性が振り返る。
「自己紹介がまだでしたね。私の名前は、聖白蓮と申します」
「ひじり、びゃくれん」
おうむ返しに繰り返すと、白蓮と名乗った女性は「えぇ、そうですよ」と頷いた。どことなく咲夜と話している感覚に似ているが、それよりもっと大らかで、高貴な雰囲気だ。
彼女の前にいると、不思議なことにスカーレット一族の高いプライドが、胸の奥に身を潜めていった。自分でも驚くほど素直に、
「私、フランドール。フランドール・スカーレットよ」
「スカーレット……と言いますと、湖にある、真っ赤なお屋敷の吸血鬼さんだったかしら」
紅い館。その単語だけで一連の出来事を思い出し、俯く。笑みになりかけていた口元は、再び真一文字に結ばれてしまった。
白蓮はそれ以上詮索せず、フランドールの手を引いた。
「さぁさぁ、私の部屋でお茶でも飲みましょう。寒い所にいたから、お手てがとっても冷たいわ」
「で、でも私、ここの子じゃないから」
「もう上がっているんだもの。フランドールさんは、大切なお客様ですよ」
優しく言われては、逆らう理由などなかった。出て行ったとしても、今のフランドールには帰る場所など――彼女の妄想にすぎないが――ないのだから、好意を受け取らない理由もない。
なにより、今もなお傷心癒えぬフランドールには、白蓮の温かな手を放すことが、できなかったのだ。
◇◆◇◆◇
「今日もおいしく朝ご飯! いっただきまぁーす!」
「っさいわね! ちょっと響子、朝っぱらから私の鼓膜ぶち抜くのやめてくれない?」
「これで耳の具合が悪くなったら、響子のせいじゃな。わしらには謝罪と賠償を請求する権利があるのう」
「えぇっ、ぬえさんとマミゾウさん、酷い! 元気な声は私のチャームポイントなのに」
「その『ちゃーむぽいんつ』とやらで、厠を吹っ飛ばしたのはどこの誰だい」
「ナズーリン、いつまでも根に持つのは感心しませんよ」
「そうですね。響子はちゃんと修理したんですから、許してあげなさい」
「しかしですねご主人、聖。あの日から毎晩響子のトイレに付き合う身にもなってくださいよ」
「へぇー、ナズーリンがねぇ。結構面倒見がいいじゃん、何か企んでる?」
「こら村紗。ナズーリンは善意でやっているんだから、そういう言い方はよしなさい。他人のために何かをする喜びは、その当人しか知りえないのよ」
「一輪が言うと、説得力はんぱないわー」
ちゃぶ台を囲んだ賑やかな風景に、結局一晩泊まってしまったフランドールは、再び固まっていた。なれない正座も気にならず、膝の上で手をぎゅっと握り、すっかり緊張してしまっている。借りてきた猫のほうがいくらかマシかもしれない有様だ。
和気藹々とした空気で進む朝食の中、自分だけが完全に場違いで、今更和やかに食事を始める気になど、とてもなれない。湯気立つご飯や野菜中心のおかず、豆腐が浮かぶ味噌汁など、用意された朝食は美味しそうなのだが。
緊張のあまり頬も紅潮していると、隣に座るセーラー服と黒髪の少女、
「吸血鬼ちゃん、大丈夫? なんかしんどそうだけど」
「食事も進んでいませんね。和食は口に合わなかったかしら。それとも、箸を使えない? フォークを持ってきましょうか?」
尼のような頭巾を被った
「う、ううん! お箸、使えるよ」
「なんだい、喋れるんじゃないか。挨拶の一つもないもんだから、てっきり吸血鬼は口が聞けないものなのかと思っていたよ」
ネズミ耳のナズーリンが、とても嫌味っぽく言う。口の端を片方持ち上げ、実に憎たらしい笑顔だ。
一発殴ってやろうかと思ったが、その前に彼女の隣にいる金と黒が混ざった、虎のような髪の女性――彼女は聖と並んで、とても姿勢がいい――が、ナズーリンをきつく見据える。名を、
「ナズーリン、フランドールさんは聖のお客様ですよ」
「はいはい、分かりましたよ」
と適当に受け流して、ネズミ少女は味噌汁を啜った。
なおも遠慮がち、というよりも逃げ腰なまま、フランドールはほうれん草のごま和えに手をつけた。ごまの香り豊かで、ほうれん草もシャキシャキとしていて、野菜はあまり好かなかったというのに、面白いほど箸が進む。
膳に載せられた食事は初めて食べるし、和食のマナーにも疎いので、隣の村紗や対面に座る犬の耳を持つ少女、幽谷響子をチラチラと見つつ、真似をした。お椀を持ち上げて食べる習慣がなかったので、いまいち違和感が抜けてくれない。
ぎこちなく食事を続けていると、一番早く食べ終えてお茶を飲んでいた化け狸の二ッ岩マミゾウが、正座を胡坐にして、その膝に頬杖をついた。
「ときにお主、確か紅魔館とかいう面妖な屋敷のもんじゃったな」
「め、面妖……。うん、そうだけど」
「なによマミゾウ、あんたもしかして、あそこに住みたいの? ないわー」
趣味が悪いなと住人を前にどうどうと言ってのけたのは、マミゾウと隣り合って茶をすする、奇怪な翼を持つ少女だ。以前花子と一悶着あった、封獣ぬえである。彼女は誰もが正座で食事をする中、唯一最初から胡坐だった。
ほうれん草を噛むぬえの軽蔑するような視線を受け、マミゾウは半眼を向けることで対抗した。
「わしゃ純粋な日本育ちじゃ。ああいった洋館は好かん」
「じゃあなんでこいつが紅魔館の奴かなんて聞いたのよ。吸血鬼なんてあそこ以外にいないじゃない」
「ぬえ、喋るのは口に入れたものを飲み込んでからにしなさいよ」
一輪の叱りを、ぬえは完全に無視してのけた。フランドールよりも大人びた外見を持ち、実際も五百歳以上年上だが、彼女は躾がなってないとフランドールは断定した。
湯飲みを空けたマミゾウが、里芋の煮物に箸を何度も突き刺して遊ぶぬえの頭をはたいてから、質問に答える。
「紅魔館というと、おぬしが必死こいて追っかけておった
「あれ、そうだっけ。ねぇあんた、御手洗花子って知ってる?」
結局突き刺された里芋を口に運びながら、ぬえが訊ねた。
彼女と花子の騒動を知らないフランドールは、正直に首肯する。
「花子なら、うちにいると思うよ」
「ふーん。ま、もう追いかけてまでどうこうしようとは思わないし、どうでもいいかな」
「わしを巻き込んでおいて、よくもまぁ」
マミゾウが引きつり笑いなどしているが、ぬえは見て見ぬふりを決め込んだ。
以前花子が妖怪二人に絡まれたと言っていたが、どうやら彼女達のようだ。どうしてそんなことをしたのか聞いてみようと思ったが、対面の響子が上げた嬉しそうな声に、フランドールはそちらを向いた。
「花子、あなたの家にいるんだ! じゃあ、フランドールは花子の友達なの?」
うん、と答えようとして、それができない自分に愕然とした。
つい一昨日までは、確かに友達だった。しかし、大嫌いだと言ってしまったのだ。謝りもせずに飛び出してきたので、きっと花子もフランドールを嫌いになったに違いない。
箸を持ったまま、フランドールは悲しそうに俯いた。羽まで萎れるその様子を見て、響子が口を押さえる。
「わ、私、まずいこと聞いちゃったかな」
「そのようだね。まったく君は、デリカシーが絶無なんだから困るよ」
冷たく吐き捨てるナズーリンの言葉に、響子はいっそう顔色を青くする。
しかし、会話に割って入ったのが白蓮だったために、ナズーリンがそれ以上の追撃をすることはなかった。
「花子さんとケンカでもなさった?」
「……ううん、なんでもないよ。花子とは、友達だよ」
できれば、知られたくない。誤魔化すような明るい顔で、フランドールは白米を口に運んだ。自分の口から出た『友達』という言葉は、酷く空っぽだった。
皆がその強がりに気付いていながら、問いただすような真似はしてこない。そのことがありがたくもあったが、フランドールとしては、無理せずに言ってごらんという言葉をかけてくれることを期待していた。無論、優しくしてくれなどと言えるはずもない。
どことなく気まずい空気が流れ始めた居間だが、そんな雰囲気をなんとも思わないらしいぬえが、とうとう片方の膝を立てて、中年の男が酒を呷る要領で味噌汁を飲んでから、
「ま、どうでもいいじゃん。家での理由なんて大体くだらないもんなんだし」
「ちょっとぬえ、そういう言い方はないでしょ」
水蜜にきつく言われても、ぬえは平気な顔で味噌汁の椀を空にした。
「はーいはい、ごめんなさいね。反省してまーす」
「この世にこれほど信頼できない言葉があろうとはね。いやはや、驚いたよ」
真顔で毒を吐くナズーリンだが、彼女直属の上司である星は、たしなめることをしなかった。同意ということだろう。
どうやら、ぬえはかなりの問題児らしい。態度や言葉の節々からも自分勝手にイタズラを繰り返しているのだろうことが伺える。酷い言われ方をしたフランドールだが、腹を立てるどころか、ぬえに親近感を覚えていた。
会話はぬえが過去にやらかしたイタズラの話題に移っていき、食卓は賑やかなものに戻っていく。
安堵と共に、もう少し構ってもらいたかったという未練も芽生えたが、さすがに情けなさ過ぎる。昆布の煮つけと一緒に、飲み込んでおくことにした。
その後も、笑いの耐えない朝食が続く。フランドールの緊張も徐々にほぐれ、会話にも参加できるようになっていた。
響子が「朝日を浴びよう」と障子を開けかけ、慌てて逃げるフランドールを星が庇い一輪が響子を必死に止めるアクシデントもあったが、皆が朝食を済ませる頃には、すっかり打ち解けていた。
最近は花子も一緒にご飯を食べるようになっていたが、やかましいほど賑やかな食事は初めてである。悪くない喧騒だった。
一輪と響子が皆の膳を片付け、聖と星、そして星に付き従うナズーリンが退室し、居間にはフランドールと水蜜、ぬえ、マミゾウの四人が残った。
食事の時はそこそこくつろげたものの、過ごし方が変われば、慣れない場所の居心地悪さが再び襲ってくる。星が出て行き際に「くつろいでいてね」と言ってくれたので、正座は崩しているものの、なんとも落ち着かない。
頂戴した緑茶を、間を持たせるためにちびちび飲んでいると、外に干していたらしいスペアのセーラー服を畳んでいた水蜜がこちらを向いた。
「フランドールちゃんは、普段どういう生活してるの?」
「え? うぅんと、夜に起きて、ご飯食べて、遊んでるわ。朝日が昇る前にお風呂入って、それから寝るの。花子が来てから、夜に寝ることもあったけど」
「だから今朝も起きれたわけだ。朝型の吸血鬼なんて、おかしいと思ったんだ」
「朝型の幽霊も大概おかしいでしょ」
ぬえの突っ込みに、水蜜が苦笑する。食事をしたり物を触ったりとしていたので、フランドールは彼女が幽霊であるとは思わなかった。
しかし、本音を言えば少し眠い。緊張のおかげで誤魔化せている部分もあるだろうが、ベッドに入ったらすぐにでも寝入る自信がある。それでも我慢できるのは、フランドールの中にスカーレット一族としての誇りが少なからずあるからだろう。
「しっかしまぁ、羨ましいわ。毎日遊んで暮らしてられるなんてさぁ」
畳に寝転がり、ぬえが伸びをする。マミゾウがじっとりとした視線を向けているあたり、きっと彼女も大差ない生活をしているのだと思うが。
仰向けになったまま、ぬえはフランドールを見上げた。
「じゃあ花子も、今はあんたと同じような生活してるってわけか。あのおかっぱにゃ、もったいなさすぎるなぁー」
「私、花子って子にちょっとしか会ってないんだよね。一声かけたくらいでさ」
「別にいいんじゃない? 会う価値があるほどの奴じゃないよ」
「その割りに、追っかけ回しておったがのう」
話題が花子のことになると、フランドールは途端に気が重くなる。今頃、心配しているだろうか。もしかしたら、幻想郷中を探し回っているかもしれない。
しかし、確認する方法はない。深々と溜息を吐き出すと、場にいる三人が一様にこちらを見た。
「やっぱり、なんかあったんだ」
「なんかってほどじゃないわ。全部、私が悪いんだもん」
そう、だから、説明する必要などないのだ。自分にそう言い聞かせながら、フランドールはそっぽを向く。
しかし、さすがに幼すぎる意地だ。水蜜だけならずマミゾウやぬえにまで、内心は見透かされている。
マミゾウが胡坐に肘をつき、呆れ果てたと言わんばかりの顔で、
「おぬし、そりゃ『聞いてくださいお願いします』って言ってるようなもんじゃぞ」
「……違うもん」
「いるわー、こういう子よくいるわー。寺に来る人間のガキも、いじけるとこうなるよね」
ニヤニヤしているぬえに、水蜜が肩をすくめる。
「あんただって、たまに似たようなことしてるよ。それよりさ、フランドールちゃん。話してみなよ、聞いてあげるから」
「で、でたー、一輪の真似っこ! そんなにお姉さんぶりたいか、尊敬を集めたいか!」
「うっさい! ちょっと黙ってて!」
ぬえのちゃちを切って捨て、水蜜は真摯な瞳でフランドールを見つめる。力になりたいという気持ちが伝わってきて、口を閉ざしている理由が薄れていく。あるいは、最初からそんなものはなかったのかもしれないが。
それでもしばらく躊躇していたが、皆が待っているから仕方ないと、昨晩のことを少しずつ話し始めた。
一度言葉に出すと、必死にとどめていた感情は堰を切ったかのように溢れ出した。花子が自分よりレミリアを大切にしている――そう思い込んでいるだけだが――ことへの不満、身内には甘えっぱなしなくせに他人の前では偉ぶる姉の愚痴、なんでもかんでもボロボロと、片っ端から喋ってしまう。
五百年近くも幽閉されていたことを一時の苛立ちに任せて大げさに話すと、水蜜は目を丸くした。
「なにそれ、酷いことするねぇ」
「うん。私はもっと、みんなと遊びたかったのに。友達だって、魔理沙に会うまで一人もいなかったんだ」
唇を尖らせるフランドールに、水蜜はうんうんと頷いた。正確な情報を与えられていない水蜜には、レミリアは妹を虐待する極悪非道な悪魔としか映っていないだろう。下手をすれば、花子もその延長線上にいるかもしれない。
あくまで純粋に心配する水蜜が、同情を隠しもせずにフランドールの両手を取った。
「可哀そうにね。私がお姉ちゃんにズバッと言ってあげよっか?」
「え? でもそれは、そのぅ」
かなり偏った意見だと知りつつ吐き出していたので、フランドールは困った。今更、一部は大げさでしたとも言えまい。
水蜜の善意を受け取りながらも、内心で彼女に謝りつつ、辞退する。
「いいの。聞いてもらっただけでも、すっきりしたよ」
「そっか、力になれてよかった。私でよかったらいつでも相談に乗るからさ、また声かけてよ」
「うん。ありがとう、水蜜」
純粋な善意を他人から向けられることなどなかったので、フランドールはとても嬉しかった。こんなことなら、もう少し事実に近い内容を話しておくべきだったと、後悔すら覚える。
用事があるからと退室する水蜜は、とても名残惜しそうだった。相談役として誰かに礼を言われたことは、ほとんどないのだろう。
それもそのはずで、悩みを聞いてはげまし、時に手を貸すという役割は、本来ならば白蓮か星、あるいは一輪の仕事である。水蜜は嫌な仕事でも率先してやり、その明るさで元気を振りまくことが使命となっていた。聖輦船の船長という本来の役目は、現在必要とされていない。
経験の浅さが祟って、水蜜はフランドールの語りが子供特有の誇張表現だと気付けなかったのだ。
居間が静かになり、フランドールは昨晩のことを思い出していた。
あんな癇癪を起こしてしまったとはいえ、いつかは帰らなければならない家だ。どんな顔で皆に会えばいいのかと、不安で仕方がない。
マイナス思考の渦に沈んでいると、突然声がかかった。
「フランドールさぁ」
ぬえである。同情する気はかけらもなさそうな、涼しい顔をしていた。
「フランでいいよ」
「あ、そ。じゃあフラン、あんたさ」
ずいと身を乗り出して、ぬえは遠慮なく顔を近づけた。息がかかるほどの距離で、開口一番、
「これから、どうしたいの?」
今まさに悩んでいたことを単刀直入に聞かれて、フランドールは大いに狼狽した。
赤の他人とすぐに打ち解けられて、油断していたのだろうか。言葉がすぐに出てこない。
「私は、その、すぐには帰れないし、でも」
「じゃあしばらく、ここで厄介になるのかえ? 世話好きが多いから、嫌な顔はされんじゃろうが」
頭に乗せていた葉っぱを手の上で転がして遊んでいたマミゾウは、あまり興味がなさそうだった。
フランドールには、せっかく一人で外に出れたのだから、簡単に帰ってはもったいないという気持ちもある。もう閉じ込められることはないだろうが、外出する時はさすがに付き人がつくだろう。咲夜か美鈴かは分からないが、自由が制限されることに変わりはない。
命蓮寺の居心地はいい。仏門に下るつもりはまったくないが、しばらく世話になるのもいいかもしれない。
「……まぁ、聖はもう、うちで預かるつもりだったみたいだけどね」
「ほう、そうなのかえ」
「朝ご飯作るときに星達と話してたから、たぶん一輪あたりが、フランの家に挨拶しに行くんじゃない?」
「えぇっ、そんなのダメだよぅ!」
居場所がバレては連れ戻されてしまうと、思わず声を上げていた。
しかし、ぬえは手をひらひらと振り、
「だーいじょうぶよ。一輪達に任せておきゃ、なんとかなるって」
簡単に言ってくれるが、気が気ではない。下手をすれば、レミリアが迎えに来る可能性だってある。もしそうなったら、どんなおしおきが待っていることか。考えるだけでも怖ろしい。
身震いするも、フランドールはぬえの言葉を信じて、運を天に任せるしかなかった。
◇◆◇◆◇
咲夜は深々と頭を下げた。問題が問題だけに、そうせざるを得ない。フランドールの家出騒動が、よその家に飛び火していたのだ。
挨拶に来た一輪は非常に礼儀正しく、突然お邪魔したフランドールのことを一言も悪く言わない。豪勢な椅子で偉そうにふんぞり返っていたレミリアですら、今は花子の隣に移動してつつましく座っている始末だ。
一輪の顔を見ることすら憚られ、礼をした状態のまま、咲夜は心の底から言った。
「この度は本当に、妹様がお宅にご迷惑をおかけして、お詫びの言葉もありません」
「いえいえ、そんな。うちは賑やかになる分なら大歓迎ですし、フランドールさんだって、とってもいい子にしていますよ」
「そう言っていただけると、ありがたいのですが……。なにせ気性の激しいお方でございますから」
「あらあら、ご苦労なさっているのね。うちのナズーリンも、あれで結構感情に流されやすいんですよ。お互い、大変ですね」
なんという人格者なのだ。命蓮寺は夜中もうるさい妖怪寺と聞いていたが、一輪はそこらの人間よりずっと人ができている。
いっそのこと仏門に下りたいと考え始めた時、成り行きを心配そうに見守っていた花子が口を開いた。
「あの、じゃあフランちゃんは、まだ帰ってこないんですか?」
「そうですね。私見ですが、フランドールさんの様子を見る限り、今は帰りにくいのではと思います。命蓮寺としては、しばらくお預かりしても問題ありませんよ」
「でも、咲夜も言ったけど、フランは大変よ? ワガママだし、すぐ泣くし、怒るし、物にだって当たるわ。アレが欲しいと言い出したら、もう聞かないのよ」
レミリアの言葉は心底心配してのものだろうが、よくもまぁ他人のことを言えたものだと、咲夜と花子は胸中で同時に呟いた。フランドールの方が感情表現が豊かだが、似たもの姉妹なのだ。
しかし一輪は、妖怪であるはずなのにまるで天使か何かのように微笑み、
「まだまだ、幼いのでしょう。お姉様はよくできたお方でいらっしゃいますし、フランドールさんもきっと、素晴らしいご婦人になられるのでしょうね」
「そ、そうかしら。まぁ私の妹だから、当然素敵なレディになると思うわ」
昨晩のことを怒ってはいないらしく、レミリアは妹を褒められて上機嫌だ。
だが咲夜としては、まだ不安が残る。命蓮寺の妖怪には強い力を持つ者がいると聞いているが、フランドールは加減を知らないところがあるからだ。一度癇癪を起こすと、酷い時には地下の部屋が全壊することだってあった。
もしも命蓮寺を倒壊させるようなことになれば、いくら賠償金を払えばいいのか。いや、相手は妖怪なのだから、戦争が起きる可能性だって否定はできない。
一方、フランドールの成長を考えるのならば、今回はチャンスでもある。彼女が他人と触れ合い、その難しさとコツを学んでくれれば、姉と一緒にどこへでも連れていってやれるようになる。
「お悩みのようですね」
日常的に人の悩みを扱っている一輪は、さすがに鋭かった。苦笑いを答えとするも、結論には達せない。
そんな時、ぽつりと言葉を零したのは、花子だった。
「フランちゃん、まだ怒っているのかな」
フランドールが飛び出していってから、彼女は人が変わったのではというほど落ちこんでいる。フランドールとはレミリア以上に仲が良かったはずなので、自責の念を感じているのだろう。
この一月ほど、フランドールは咲夜や美鈴に「花子が構ってくれない」と愚痴を漏らすことがあった。花子にそのつもりはないのだろうし、咲夜から見ても三人で仲良く遊んでいたと思うのだが。
レミリアと遊ぶことがほとんどない魔理沙と違って、花子はどちらとも平等に付き合おうとする。もしかしたら、フランドールは花子を独占したかっただけなのかもしれない。
いつもは姉よりも冷静な物の見方をしていたので、こんなことになるとは咲夜にとっても予想外だった。レミリアの話では、彼女らの両親が健在だった頃は、今日のような癇癪を起こすことが多かったそうだ。
花子と過ごす時間が、彼女の素を引き出したのか。あるいは、レミリアと同じベッドで寝ることが増え、今までの反動で甘えてしまったのか。
どちらにしても、このまま無理に連れ戻したところで、何も解決はしない。例え花子が出発を延ばしたところで、問題を先送りするだけだ。
レミリアも花子もすっかり目を伏せ、フランドールに会いたい気持ちと仲直りできるのかという不安で揺れ動いているようだ。
従者として、また保護者として、どの選択肢が一番レミリアとフランドールのためになるのだろうか。
考えに考え抜いてから、咲夜はレミリアに告げた。
「お嬢様、妹様をお預けしてみたらいかがでしょう」
しょんぼりと元気なく、レミリアが顔を上げる。
「なぜ?」
「妹様は、他者との触れ合いが少なすぎたのです。花子と出会うまで、友人は魔理沙一人だけでした。フランドールお嬢様にとって、友達はおもちゃと同じ――所有物に近い感覚だったのではないかと」
あくまで、咲夜の想像だ。本当はこんなことを言いたくもないのだが、説得のためには仕方がない。
案の定、レミリアに睨みつけられてしまった。
「フランは、そんな子じゃないわ」
「では、なぜ妹様は花子の出立をあんなにも嫌がったのでしょう? もし本当に相手の気持ちを尊重できるのであれば、今回のようなことにはならなかったはずですわ」
「咲夜さん、でも――」
何かを言いかけた花子を、咲夜は視線で制した。
「私としても、妹様にはお帰りになって頂きたいですわ。ですが、今妹様をお迎えになって、また同じことを繰り返さないと、お嬢様は断言できますか?」
「うぅ……」
「花子は、どう? あなたは自分がやるべきことや他の友達を全て投げ出して、一生フランドール様だけの友達でいられる?」
「それは、その」
二人は揃って口ごもり、そのまま言葉を失ってしまった。
フランドールが帰ってくるまでの間、しばらくこんなレミリアを見なければならないのかと思うと、気が滅入って仕方がない。
しかし、これは彼女自身の成長にも繋がるのだ。心を鬼にして、咲夜は続ける。
「命蓮寺が信仰している宗教は、悪魔であるお嬢様とその従者の私達には縁が遠いもの。ですが、一輪さんを見る限り、信頼に値する方たちであると私は感じていますわ。
人里近くとはいえ、日が出ているうちは妹様も外に出られませんから、迫害されることもないかと」
あのフランドールに限って、人間やそこらの妖怪から酷い目に合わせられることはないだろう。これも、説得するためのカードだ。
考えている間も、そして今もじっと待ってくれていた一輪が、ようやく口を開いた。
「妹さんを案ずる気持ち、お察しいたします。ですが、楽しく過ごしていただけるように努めますので、ご安心ください。寺は修行の場ですから、最低限の仕事はしてもらうかもしれませんが、遊ぶ感覚で楽しんでいただけたらと思っています」
「妹様は人懐っこいから、外に出れば友達をたくさん作れるはず。お嬢様は、常日頃からそう仰っていたではありませんか」
じっと考え込むレミリア。その横顔を、花子が申し訳なさそうに見つめている。
山の頂上で行われた花子と文の決闘を応援しにいくときも、レミリアは最後までフランドールを連れて行くべきかどうか迷っていた。フランドール本人と誘いに来た萃香に押されて承諾したが、今も箱入り娘でいてほしいという気持ちがあるのだろう。
レミリアは、フランドールを愛しすぎている。たった一人の身内なのだから、決して悪いことではない。むしろ、喜ぶべきことだ。
だが、だからこそ、咲夜はレミリアに決断してほしかった。いつまでも妹を我が物にしようとしていては、誰も成長しない。
何よりそれでは、フランドールが花子に行くなと駄々をこねているのと、同じことではないか。
「お心は、決まりましたか?」
囁くようなその声は、いつもの咲夜らしい柔らかなものだった。これ以上レミリアにきつく言うのは、咲夜だって辛いのだ。
心配そうに様子を伺う花子にも気付かず、レミリアは紅茶とケーキが置かれたテーブルをじっと見つめた。まるで、何かがそこに映っているかのように、視線はまったく動かさない。
長い沈黙を経て、ふぅと一息つくと、レミリアは告げた。
「……分かったわ。フランドールを、預けましょう」
肺の空気を全て吐き出すように言い切り、紅茶を飲み干す。
彼女の付き人になってから、悪魔の側面に恐れたことは何度もあった。だが、こんなにもレミリアが大人びて見えたことは、今までに一度もない。
大きな壁を乗り越えた主を、咲夜は声の限り賞賛したかった。
「確かに、承りました。フランドールさんがお帰りになりたいと仰られるまで、うちで大切に預からせていただきます」
一輪の笑顔に、花子がなんとも複雑な表情を浮かべる。いまだ心の整理がついていないのは、彼女だけなのだろう。
しかし、これはもはやスカーレット一族の問題になりかけている。花子には申し訳ないが、今回は意見しないでもらったほうがいい。
「フランを、お願いね」
頭を垂れるようなことはしなかったが、レミリアは真摯に頼んだ。一輪が首肯する。
決断からの流れはあっという間だったが、その短いやり取りは、主の大きな成長があってこそのものだ。咲夜はそれが、ただただ嬉しかった。