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太郎くんへ
こんにちは。花子は今も紅魔館でお世話になってます。
太郎くん、私たちが初めて出会った場所、覚えていますか? 私は今もはっきり覚えてるよ。
あの時太郎くんに出会っていなかったら、きっと私はくじけていたんだろうね。本当に、ありがとう。
えへへ、どうしてこんなことを書いているか、きっと気になるよね。今日ね、太郎くんと初めて会った時を思い出すことがあったの。
誰にでも、大切な出会いがあるんだよね。私がレミィやフランちゃんたちに出会ったことも、いつか素敵な思い出になるんだろうな。
これからも辛い時は、太郎くんと一緒に過ごした時を励みにします。太郎くんも、私のこと、忘れないでね。
それでは、またおたよりします。
花子より
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「見える……。見えるわ、私の、選ぶべき道が!」
高らかな声と共に、レミリアは右手を振りかざした。強大な力を持つその手は、揺ぎ無い勝利の運命を宿している。
振り下ろす、右腕。狙う先は、縦三列目、横五列目。
勢いよく手にしたカードを、レミリアは迷わず引っくり返した。カードの絵柄は、スペードのジャック。彼が握る剣の輝きは、深淵の奥底までもを照らすだろう。
しかしその光は、レミリアが求めていたものではなかった。絵札を見るや、がっくりと肩を落とし、
「……」
先ほどまでの勢いは消え失せ、引っくり返したカードと、その前に選んでいたカード――ダイヤのキングを元に戻す。
その様子をにやにやしながら眺めていたフランドールが、迷わず二枚を選び取る。ひっくり返ったダイヤのキング二枚を手元に引き寄せ、悔しげに睨み付けてくるレミリアに舌を出した。
「間違ったお姉さまが悪いんだからねー」
「むぅー! 花子、敵を取ってちょうだい!」
ワインレッドのドレスがすっかり板についてきた花子に、レミリアは涙目で訴えた。しかし、花子は苦笑いを浮かべ、
「一応、私もライバルなんだけどなぁ」
「そ、そんな! 花子が私を裏切るなんて」
「別にそういうつもりはないけれど、三人で神経衰弱をやっているんだから。第一、私が一番負けているというのに」
手に入れたカードの枚数は、花子が一番少ない。次点でレミリア、そして二人を突き放す成績で、フランドールが一位となっている。
記憶力には自信があったが、まさか妹にこれほどの頭脳が備わっているとは。嬉しいような悔しいような、レミリアは複雑な気持ちになった。
館に篭っている時間が長かったフランドールは、進んで外に出ることのないパチュリーと共に、読書や魔法の研究に打ち込むことが多かったのだ。いつの間にか、頭の良さだけならばレミリアを超えていたらしい。
何はともあれ、負けっぱなしは悔しい。しばらく唸った後、レミリアは最良の手段を閃いた。思い出したのだ。自分には、ずばぬけた知能を持つ相棒がいるではないか。
「い、一時停戦よ。しかるべき後に仕切りなおしましょう」
「えぇー!? まだ途中じゃない、そんなのずっこいよぅ!」
フランドールの訴えを、レミリアは断固として受け入れない。そそくさとカードをまとめ、花子の今も消せていない苦笑を無理矢理肯定と解釈して、立ち上がる。
「図書館に行くわよ。決着はそこでつけましょう」
「あー、ずるい! パチュリーに手伝ってもらうつもりでしょ!」
「あなたも花子と組めばいいでしょ」
こうなってしまったら、レミリアが決定を覆すことはほとんどない。膨れているフランドールも、それ以上訴えることをやめてしまった。
大きく長い廊下を歩いていると、妖精メイドが花瓶を割るところと遭遇した。花子が慌てていたが、よくあることなので、レミリアとフランドールは揃って無視して通り過ぎる。すぐに咲夜が何とかしてくれるだろう。
地下へと続く階段を下り、上階よりも赤が少ない廊下を少し進む。すぐに、巨大な二枚扉が目に入った。高さだけならば、レミリアの身長三人分くらいはありそうだ。扉を開けようとして、ふと思い出し、レミリアは花子へ振り返る。
「そういえば、花子は図書館に来るの、初めてよね」
「うん。すっごい大きいんだよね。学校の図書館よりも、いっぱい本があるのかな」
「量だけならば、世界で一番かもしれないわ。読めるものとなると、香霖堂より少ないけれど」
「私はほとんど読めるけどね」
フランドールの自慢げな視線に、レミリアはそっぽを向いた。本など読めなくても、レミリアは魔法を使えるし、弾幕だってフランドールより強い。何も問題はないと、心の中で自分に言い聞かせる。
二枚扉を押し開け、毎度の事ではあるものの、紙とカビが混ざったような独特な臭いに、レミリアは少しだけ顔をしかめた。花子も隣で「うっ」と小さく唸ったので、同じ気持ちなのだろう。慣れているのは、フランドールだけのようだ。臭いを我慢し、三人は図書館の中に入っていった。
壁にかけられた、図書館のどこにいても見えるほど大きな振り子時計が、重いリズムで時を刻んでいる。この図書館に来るたび、レミリアは時間がゆっくり流れているような感覚を覚えた。魔法の力ではない、不思議な空間だ。
「……静かだね」
呟いた花子の声は、硬質な空間に阻まれるかのように、固く霧散していく。張り詰めた緊張感ではなく、騒ぐことが許されないような威圧感が、図書館を満たしていた。
もっとも、そんなことでひるむ紅い悪魔ではない。
「パチェー! いるんでしょ、どこー?」
無機質な空気を躊躇なく破壊し、レミリアは図書館を闊歩しだした。フランドールは慣れた様子で、花子はずいぶん戸惑いながら、後についてくる。
整然と並ぶ、縦にも横にも大きすぎる本棚。そのどれもが例外なく本で埋まっている様を見れば、妹の頭が良くなるのも致し方ない。どんなに時間があろうと、これだけ並んだ本を手に取る気は、レミリアには起きなかった。
「パチェー! パチェェェェ!」
次第に声を大きくしながら歩いていると、ようやく人影が現れた。目的のパチュリーではなく、赤い髪と悪魔の羽に似た耳を持つ少女だ。白いブラウスと黒いベストを着こなし、ネクタイもしっかり締めている。
大図書館の本を管理、整理する、パチュリーの使い魔。特定の名前を持たない、小悪魔だ。パチュリーは彼女を重用しているのだから、そろそろ名前くらいやってもいいのではないかと、レミリアは思っていた。
「あら、レミリアお嬢様」
「こあ、お邪魔してるわよ」
愛称で呼ぶと、小悪魔はにっこりと微笑んだ。悪魔のくせに、憎たらしいほど笑顔の似合う女だ。レミリアは、自室の鏡で彼女の笑顔を真似ようと練習したこともある。無論、誰にも口外していない。
「ねぇねぇ、パチュリーは?」
手短な本を本棚から抜き取りつつ、フランドールが小悪魔に訊ねる。小さく頭を垂れて「あちらに」と自分の背後に通す小悪魔を見て、やはり悪魔らしくないなと、レミリアは思った。
本棚と本棚の間にある小さな空間に、パチュリーはいた。彼女が向かっている机には山のように本が積まれ、座っている椅子の横にも本のタワーが何本もできている。
ちょうどレミリア達の目の前で、そのうちの一本が崩れた。同時に、パチュリーが立ち上がる。
「さっきから聞こえてた大きな声は、レミィのものよね」
「あら、そんなにおっきな声は出してないわ」
「十分大きかったわよ」
紫の長い髪を揺らし、パチュリーはレミリア達を見回した。いつもより一人増えていることに違和感があるのか、彼女が再び口を開くまで、いくらかの間があった。
「それで、
「そう、そうだったわ」
すっかり遊びに来たつもりになっていたレミリアは、ここに来た目的を思い出し、パチュリーの手を取る。
「パチュリー・ノーレッジ、我が生涯の友よ。私にその明晰な頭脳を貸していただきたいの」
「……どういうこと?」
「私は今、妹と友人の反逆によって窮地に立たされている。あなたの力が必要なのよ」
かなり真剣な面持ちだが、レミリアの手にはケースに入ったトランプが握られていたりする。背後のフランドールと花子が、そんな大層なことではないと手を振ってパチュリーに伝えた。
事情を察したらしいパチュリーは、レミリアの手をそっと握り返し、口元に微笑を浮かべ、
「嫌よ」
「な、なんでぇっ!」
悲鳴に近い声を上げるレミリア。まるで全てを失ったかのように、絶望に暮れる。
いつものパチュリーなら、レミリアの頼みはしぶしぶながら聞いてくれるのだ。しかし、今日はどういうわけか、すぐに後ろを向いて椅子に座りなおし、再び本に目を落としてしまった。
こうなるといてもたってもいられず、レミリアはすがりつくように、パチュリーが腰を下ろしている椅子に手をかける。
「パ、パチェ? どうしたの? お腹でも痛いの?」
「いいえ。むしろ、体の調子はいいわ」
「じゃあ、どうしたってのよ。私、何か怒らせるようなことした? ねぇってば」
背後のフランドールが、また始まったと呆れている。わがままで意地っ張りなレミリアだが、パチュリーの機嫌を損ねることだけは、どうしてか恐ろしく感じてしまうのだ。きっと、彼女以外に友人がいなかった時間が、あまりにも長すぎたからだろう。
「ねぇ、パチェ? もういいわ、トランプなんてどうでもいいもの。それより、紅茶でも飲まない? 咲夜においしいの、淹れさせるわ」
「いらないわ。喘息に効くハーブティーを、小悪魔に淹れてもらってるから」
「そ、そう。えぇと、じゃあ、ケーキ! みんなでケーキ食べない? 花子がいるから、彼女の口に合うものを作ってもらってるの。きっとパチェの口にも合うわ」
「お腹も空いてないの。今は大切な作業中だから、静かにしてくれない?」
必死に機嫌を取ろうと話しかけるレミリアに、パチュリーはむしろ苛立っているようだ。親友の無慈悲な言葉を受け、レミリアの目に涙が浮かぶ。
あわや泣き出すかというところで、花子がレミリアの横から顔を出した。
「ご、ごめんなさい。お邪魔してます。あ、私、御手洗花子っていいます。前に一度、会いましたよね」
「お手洗いでね。あれは大変だったわ」
「あの時はどうも、ご迷惑をおかけしました。それで、ええと、パチュリーさんがいいなら、少し休憩しませんか? ずっと本読んでるみたいですし、疲れちゃいますよ。レミィも、その、ね?」
花子の顔には、何とか二人を仲直りさせようという焦りが出ている。申し訳ないなと思いながらも、レミリアはいじけた気持ちを立て直すことができなかった。
このままでは埒が明かないと見たのか、パチュリーが背もたれに肘をかけ、やれやれと振り返る。
「あのねレミィ。私が今必死になってるのは、あなたのためなのよ?」
「ふぇ? どういうこと?」
我ながら情けないと思える声で聞くと、パチュリーは手元のハーブティーで唇を湿らせてから答えた。
「レミィのというより、この紅魔館のためね。最近、時計台の調子が悪いのよ。動かしてる魔力が足らないわけじゃないから、きっと魔術式の問題ね」
「そ、そうなの? でも、時間はちゃんと計れているじゃない」
「時計の針に問題はないのよ。おかしいのは、大鐘のほう。このままじゃ、鐘がちゃんと鳴らなくなってしまうわ」
紅魔館の時計台は、レミリアが動き出す夜中に鐘が鳴る。迷惑極まりないとよく言われるが、夜の帝王を自称する吸血鬼姉妹にとって、大切なものだ。
レミリアを押しのけ、フランドールが机に広げられている本を覗き込む。
「ふぅん。こんな仕組みだったんだねぇ、あの時計。ここに住んでたけど、知らなかったよ」
「作ったのは、レミィと妹様の先代ね」
「その時計が、壊れちゃったんですか?」
花子に聞かれ、パチュリーは首を横に振った。そんなに大げさなことではないのだろう。この時には、レミリアもだいぶ落ち着いていた。
フランドールが本から目を離したのを確認してから、パチュリーが分厚い本を閉じる。
「なんにしても、ここで本を広げてても分からないか。時計台の中を見たいのだけれど、一緒に来てくれないかしら」
「そういうことなら、構わないわ。みんなで行きましょう」
トランプをポケットにしまい、レミリアはパチュリーの手を取り、立ち上がらせる。
体が弱いパチュリーの歩幅に合わせながら図書館の出口に向かっていると、後ろを歩いていた花子が訊ねた。
「時計台って、夜中に鳴るんですよね。何時に鳴るんですか?」
「特定の時間に鐘が鳴るわけじゃないわ。それはレミィが決めるのよ」
「ふふん、その通り。この私の意志で、あの大鐘を自在に鳴らせるの。すごいでしょ」
自慢げに振り返ると、花子はとても感心したようで、感嘆の声を上げた。
「はぁー、レミィが鳴らしてたんだね。すごいなぁ」
「そうでしょ? もっと褒めてもいいのよ」
「どんな時に鳴るの? やっぱり、レミィとフランちゃんにとって特別な時間なのかな」
好奇心に目を輝かせる花子の問いに、パチュリーが歩みはそのまま、表情も変えずに、
「レミィが遊びを思いついた時。ようするに、この指とまれと同じね」
花子の眼差しから、尊敬の色が消えた。
◇◆◇◆◇
紅魔館の最上階へ辿りついた一行は、渡り廊下へと続く扉を開けた。
日はもう暮れていて、夜の空気はすっかり冷え込んでいる。花子は思わず身震いした。
「うぅ、寒い」
「ほんと、もう冬なんだねぇ」
横を歩くフランドールも、寒そうに身を縮こまらせている。パチュリーは自室が近かったので、これでもかというほど厚着をして、顔は半分ほどマフラーで包まれていた。先頭を行くレミリアは、まるで寒さを感じないとばかりに歩いているが、小さく折り畳まれて震えている羽は正直だ。
渡り廊下の先に見える時計台は、近くで見ると想像以上に大きく、花子は初めて紅魔館を見た時と同じ威圧感を覚える。学校の校舎にも大きな時計がかけられていたが、それとは比較にならないほどの大きさと豪華さだ。
「すっごいなぁ。立派な時計だね」
「そうでしょ? 先代から受け継いだ、紅魔館の宝だもの」
自慢げに言って、レミリアが時計台の内部に続く扉を開けた。あまり人が来ないのだろう、鉄扉は錆びた音を響かせながら、ゆっくりと開く。
中の空気は、酷く埃っぽかった。咲夜もここの掃除はしていないようだ。パチュリーが入る前にマスクをつけていたが、花子はそれがとても羨ましく感じた。
フランドールと二人して口元を抑えていたが、花子は驚きに目を見張っていた。絡み合う大小様々な歯車は、見えない何かに吊るされているかのように、空中に浮いているのだ。
埃が舞う空気を意に介さず、レミリアは目を細めて時計台の中を見回した。
「懐かしいわ。そう思わない? パチェ」
「……そうね」
マスク越しでも、花子にはパチュリーが微笑むのが分かった。
音を立てて回る歯車を、二人は愛おしそうに見つめている。この場所は、二人にとって思い出深い場所なのだろう。
レミリアとパチュリーが思い出に浸っているところを邪魔するのが申し訳なくて、花子は二人に話しかけられなかった。しかし、姉に負けないほどワガママなフランドールは、気持ちの赴くままに眉を寄せ、
「ねぇ、早くしようよー。埃っぽいしかび臭いし、寒いよぅ」
「そうね、喘息にもよくないし。見たところ、魔術式そのものが寿命みたいだから、新しく組みなおしましょう。妹様、手伝ってくれる?」
「りょーかい。ぱぱっと終わらせちゃお」
歯車がひしめき合う室内の中央、その床に煌く魔方陣に、パチュリーとフランドールは揃って手をかざした。
なにやら複雑な紋様が光っているが、花子にはどこが悪くなっているのかも分からないし、また二人が何をしているのかも理解できなかった。
妹と親友ほど魔術式に詳しくないらしいレミリアも、花子と一緒に二人をじっと見守っている。
パチュリーとの絆と時計台にどんな関係があるのかが気になり、花子はフランドール達の邪魔にならないよう、レミリアの耳元で、
「レミィ、この時計台って……」
「ん? あぁ、ここはね、私とパチェの『誓い』の場所なのよ」
宙に浮かんで回る歯車に、レミリアは優しい眼差しを向けた。
「花子にもあるでしょ? 手紙の、太郎といったかしら。彼と過ごした、一番大事な場所」
「……」
花子の心に、一つの景色が浮かび上がった。
トイレの妖怪として生まれたばかりで、まだまだ未熟だった頃のことだ。子供を驚かすために四苦八苦していた花子は、とにかく経験を積むために、各地の学校を転々としていた。
そんなある日、いつものように固有空間を通してやってきたのは、波の音が近くに聞こえる、海辺の丘に建てられた学校だった。
しかし、花子には初めて見る海にはしゃぐ余裕などなく、噂を流してはトイレに隠れて、呼ばれるのをじっと待つ毎日を過ごしていた。まだ噂の流し方も下手だったので、子供が花子を呼んでくれることは、一ヶ月を過ぎても一度もなかった。
すっかりいじけた花子が廊下の隅っこでべそを掻いていると、男の子の声がかかった。彼は優しい言葉をかけてくれるわけでもなく、花子の手を握って、「こっち」と花子を引っ張った。日が昇り始めた朝方のことだ。
少年は花子の手を引いたまま、階段をぐんぐん登っていく。必死についていく中、花子が「君は誰なの?」と訊ねると、彼は短く、「太郎。君と同じ」とだけ答えた。
太郎に導かれて辿りついた場所は、学校の屋上。丘の上に位置し、さらに学校の最上階から眺める朝焼けの海の、なんと美しいことか。
不器用な太郎は、花子に何も言わなかった。ただ、握った手だけは決して放さず、花子が何度も繰り返す「綺麗だね」という言葉に、ずっと頷いてくれていた。彼が慰めようとしてくれていることが、太郎の相槌と掌のぬくもりから、しっかりと伝わってきた。
花子が太郎と行動を共にするようになったのは、その日からだ。
トイレは男子と女子で別々だが、いつも同じ学校、同じ階の、隣り合ったトイレに隠れた。夜中には学校中を探検したり、校庭で遊んだり。二人はずっと一緒だったのだ。
あの朝焼けの屋上こそが、花子と太郎にとって、言葉なき誓いの場所といえるかもしれない。
「私にも――ある。そっか、レミィとパチュリーさんにとっては、ここがそうなんだね」
「えぇ。とても大切な場所よ。咲夜もそれを知っているから、この部屋だけは手をつけないの」
掃除くらいはしてもいいのにね、とレミリアは苦笑した。それでも、咲夜の気遣いに対する感謝の念が感じられる。
レミリアとパチュリー、二人の間にどんなことがあったのか、花子は気になった。おずおずと遠慮がちに、レミリアの顔を覗きこむ。
「レミィ、もしよかったら、その」
「ここで、私とパチェの間に何があったのか、かしら?」
「う、うん」
「ちょっと長くなるけれど」
どんなに長話になろうと、花子の好奇心が消えることはなかった。素直に頷くと、レミリアはパチュリーとフランドールの作業がまだ続いていることを確認し、壁際に積まれた古い木箱に腰掛ける。
花子が隣に座ると、彼女はゆっくりと目を閉じ、語り始めた。
「あれは、半世紀くらい前かしら。あの頃はまだフランを地下から出さなかったから、事実上、紅魔館には私しかいなかったわ」
◇◆◇◆◇
一九四二年、ルーマニア。世界中に大戦の戦火が広がる中、その館は悠然と佇んでいた。
広大で美しい大平原に建つ真紅の館は、その異様を持ちながら、存在をほとんど知られていない。否、知っているが故に、誰も近寄らないのだ。
その館には、吸血鬼が住んでいる。遥か千年以上前から伝わる伝承は、近代化が進むこの国においても、強く信じられていた。
吸血鬼は恐るべき悪魔だ。誰もがその存在から逃れるため、館がある平原には近寄らない。昔はヴァンパイアハンターなる者が館の住人を排除しようとすることもあったが、最近ではそれもすっかりなくなってしまった。
先代が死んでから、百数十年。吸血鬼のレミリア・スカーレットは、日々の大半を一人で過ごしてきた。力の制御ができない妹も、地下で似たような暮らしをしているだろう。
時々町に出向いては、人間をさらって食料にしている。恐怖の悪魔として恐れられながらも、レミリアにはもう食事以外で人を襲う気はなくなっていた。
その日も、町から攫ってきた身寄りのない若い女を殺し、血を味わった後、妹のために残った血液をワインの瓶に移していた。
先代が生きていた頃は、妹のフランドールとも一緒に食事をしたりしていたが、代がレミリアに変わってからは、それもなくなってしまった。フランドールの魔力は父譲りでとても大きく、またその能力は、使い方を間違えれば非常に危険な代物だ。レミリアには、妹が暴走してしまった時に止めてやる自信がない。そのせいで、半ば強制的に地下へ幽閉してしまったのだ。
バランスの取れた能力を持ち、力のコントロールにも長けていたレミリアが主の座を受け継いだが、姉としては最低だと、いつも唇を噛んでいる。
ワインの瓶に血を入れ終わり、蒼白になった女の死体に、レミリアは寂しげな笑みを浮かべる。
「……まったく、ダメなお姉さまよね。 そう思わない?」
屍は、一言も発さない。自分の行動に小恥ずかしさを覚え、レミリアは恐怖に見開いたままの女の瞼を、そっと閉ざした。
広いばかりで誰もいないキッチンに死体を放り投げてから、フランドールのいる地下に向かう。今は亡き父の巨大な書斎を通り過ぎ、粗く切り取られたような印象を受ける階段を下りる。
冷たい空気が充満している廊下の突き当たりで、レミリアは止まった。大きな扉の先には、妹のために用意した部屋がある。彼女が好きなぬいぐるみやおもちゃを、たくさん用意してやった。しかしそれも、百年以上前のことだ。あれから、一歩もこの部屋には踏み込んでいない。
入れてもらえないのだ。フランドールは、姉の入室を避けている。これ以上嫌われたくない、そのための拒絶だ。この部屋に来るたび、レミリアは胸が引き裂かれそうになった。
「フラン? 起きているかしら。血を持ってきたわ」
『ありがとう、そこに置いてて。あとで、お部屋でもらうね』
「えぇ」
扉に踵を返し、レミリアは早々に地下から去った。
妹の顔を見たい気持ちはある。いつだって、フランドールと一緒に仲良く暮らせたらと思っていた。きっとフランドールも同じ気持ちだろうし、だからこそ、何もしてやれない自分が悔しかった。
夜の帝王、永遠に紅い幼き月、恐怖の吸血鬼。そう呼んで恐れるのは人間ばかりで、レミリアとフランドールは、いつも孤独だった。館に満ちていく虚しさは、やがて二人の心を蝕み、食い尽くしてしまうだろう。
レミリアの足は、自然に最上階へ向かっていた。彼女の寝室がある階だが、自分の部屋には寄らず、レミリアは渡り廊下の扉を開ける。夜風が駆け抜け、思わずナイトキャップを押さえた。
風が収まり、視線を上げる。巨大な時計台が、ルーマニアの夜空を見上げていた。先代から受け継いだ、スカーレット一族の誇り高い象徴。父の魔力で動いていた時計台は、もう動かない。
時計台の魔術式は、ただ時刻を刻むためだけのものではなかった。複数の魔術が組み合わさり、それそのものをあらゆる魔術の媒体として使用できるほど、強力で複雑なものだ。レミリアの手では、到底扱えなかった。あるいは、魔術に長けているフランドールならば扱えたのかもしれないが、考えても仕方のないことだ。
「……情けない」
呟いた声は、レミリアの心にまた一つ、重石を載せた。静まり返った大時計は、吸血鬼姉妹の時間までも止めてしまったかのようだ。
もしも、知人に魔術に長けた者がいれば、時計は止まらなかったのかもしれない。しかし、スカーレット一族は強大すぎたがために、他の悪魔からすら避けられていた。
「スカーレットは、私の代でおしまいかしらね」
跡継ぎはいない。残すつもりもない。このまま孤独と死んでいくのが運命というのならば、レミリアは受け止めるつもりだった。
ただ、せめて妹だけは――。
「……」
時計台の扉は、酷く重かった。長年使っていなかったから、錆びていたのだろう。強く引いて壊れなかっただけ幸運と呼ぶべきか。
なぜ入ろうと思ったのかは分からない。それでも、レミリアは衝動的に、時計台の駆動室に足を踏み入れていた。
大小様々な歯車が、あちこちに転がっている。無機質な悲鳴が充満しているようで、思わず耳を塞いだ。父の魔力がわずかに感じられ、それがまたレミリアの胸を強く締め付ける。
この歯車がもう一度噛み合い、時計台の鐘を鳴らすことができれば、姉に戻れるのだろうか。先代が持っていた強力な力を受け継ぐことができていれば、フランドールをあんな目に合わせる必要もなかったはずだ。
悔しくて情けなくて、壊れてしまいそうだ。だが、どんなに心を黒いもやが覆っても、レミリアの目に涙が浮かぶことはなかった。
一番小さな歯車を一つ拾い上げたところで、レミリアは扉へ振り返った。
「覗き見とは、感心しないわね」
「声をかけたら通してくれたのかしら?」
扉に寄りかかっていたのは、少女だった。外見年齢は、レミリアよりいくらか上だ。紫の長い髪も目を引くが、眠たげな瞳が印象的だとレミリアは思った。
歯車を床に戻し、立ち上がる。この近隣では有名な悪魔を前にしても、少女は恐れもしない。
「ずいぶん埃っぽいわね。魔術式もだいぶ壊れてしまっているし」
「人間じゃないわね。何者? 何のようでここに来たの? 館にはどうやって入った?」
「いっぺんに聞かないの、躾がなってないわね」
レミリアの殺気をものともせずに、少女は前髪をかき上げた。
「私はパチュリー・ノーレッジ、魔法使いよ。まだ五十年も生きていないけれど。ノックをしたけど返事はないし、館の扉が開いていたから、勝手に入らせてもらったわ」
「何をしに来たの? 私を倒そうとでもいうのかしら」
「まさか。人間じゃあるまいし、悪魔を殺しても私には何のメリットもないわ。近くを通って、気になったのよ。あなたのお家、とても目立つから」
冗談に付き合うつもりはなかった。レミリアは、じっとパチュリーを睨みつける。
目があっても、パチュリーは動じない。落ちている歯車を見回して、
「この館には、面白い魔力が二つもあるのね」
「二つ?」
「そう。一つはこの場所にある魔術式から感じるもの。もう一つは、ここの地下に……あなたによく似た魔力があるわ。幼くて可愛らしい、女の子のものよ。不安定で、垂れ流しているような状態で……、そのくせとても大きく強い。手に負えないから、地下に封印しているのかしら?」
「あまり、知った風な口を聞かないでほしいものね。死にたいの?」
一歩近づき、レミリアは牙を剥いた。しかし、パチュリーは恐れるどころがレミリアを押しのけ、落下した歯車の下に書かれている魔法陣を見つめる。
「館に入った瞬間、時間のぬかるみに足をとられたような感じを覚えたけど、理由はこれだったのね。住んでいた者の思念を飲み込んできたこの魔術式が、館の時間を止めている」
「質問に答えてもらっていないわ。あなたはここに、何をしにきたの?」
「あぁ、そうね。私は、この時計台を使わせてほしいのよ」
思わず、眉を寄せた。パチュリーの意図が分からないし、彼女程度の魔女に時計台が扱えるとも思えなかったのだ。
こちらの心中など知らずに、パチュリーは狭い室内を歩き回り始める。レミリアは慌てて、その後を追いかけた。
「試してみたい魔術があってね。完成までは程遠いんだけど……。それを使うためには、どうしても巨大な魔術媒体が必要なの」
「その媒体に、この時計台を使うつもり?」
「えぇ、魔術式を直すだけなら造作もないし。それから、あなた達の魔力も少々借りたいわ」
さらりと言ってのけるパチュリーに、レミリアは思わず声を上げて笑った。こうも堂々と、吸血鬼に協力を求める魔法使いがいようとは。
根暗そうな雰囲気からは想像できない豪胆さが、すっかり気に入ってしまった。
「面白いわね。この私を利用しようと?」
「もちろんタダとは言わないわ。時計台の魔術式は、すぐにでも修復してあげる。時計はまた動き出すわ。それから――」
パチュリーの指が、下を指した。
「もう一人のお姫様に、力の使い方を教えてあげることもできる」
「……!」
自分の瞳が輝くのを、レミリアは感じた。もしもその言葉が本当ならば、もう一度フランドールと笑いあえる日が来るのではないか。
笑顔で頷くようなことはしなかったが、それでも一筋の希望を抱えたまま、訊ねた。
「もし、私がその要求を飲むとして……パチュリー、あなたはここでどんな魔術を使うつもりなのかしら」
「この世界は、もう私達魔に属する者には住みにくい。だから、ある場所に引っ越そうかなってね。この館ごと」
「ずいぶんと、突拍子もない話ね。やりにくい世の中になったってのは認めるけれど、一体どこに引っ越すっていうの?」
魔法陣に、パチュリーが手をかざした。五芒星が輝き出し、彼女の白い顔が淡い紅の光に照らされる。
歯車が浮かび上がり、一つずつ組み合わさっていく中で、パチュリーは続けた。
「東洋の端に、日本という国があるのは知っているかしら」
「知識だけなら」
「結構。その日本で、魔物が住みやすい結界世界を作った妖怪がいるの。名前は、幻想郷」
東洋の地名らしい、詩的な響きだ。どんな世界なのか、レミリアは想像を膨らませるも、まったく見当がつかなかった。
「私はそこに行きたい。あなたもどう?」
「どうって、私が断ったら、パチュリーも行けないじゃないの」
「まぁ、そうなんだけれど」
肩をすくめるパチュリーに、レミリアはもう一度笑った。
「仕方ないわね、まぁいいわ。このまま何もなく死にゆく運命だと思っていたけれど、幻想郷とやらに行ってみるのも楽しいかもね」
「運命、ね。あなたほどの悪魔が、運命程度に囚われるとは思わなかったわ」
感情が薄く、淡々と告げるパチュリーは、いたって真顔だった。まるで、本当にそう信じているかのようだ。
久々に他者と会話らしい会話をしたこともあって、レミリアはとても上機嫌だった。最初に抱いていた警戒心などは、もうすっかり吹き飛んでしまっている。
レミリア自身には分からなかったが、外見相応の愛らしい笑顔で、
「そうね。私は運命なんてつまらないものに縛られはしない。……いいえ、むしろ、運命すらも操ってみせるわ」
「あぁ、そのくらい傲慢なほうが悪魔らしいわ。ワガママが似合うしね、あなた」
パチュリーの言葉に優しさはなく、とげとげしさすら感じたが、そんなものでもレミリアには嬉しくてたまらなかった。
みるみる修復が進み、やがて全ての歯車がかみ合い、回転を始めた。魔法陣はよりいっそう美しく輝き出し、レミリアはその光に目を細める。
「……パチュリー・ノーレッジ」
振り返るパチュリーに、レミリアは言った。
「時計台を使うことと、私の館に住むことに、もう一つ条件をつけるわ。それが飲めるなら、館で何をしても構わない」
「なにかしら」
すっと、右手を差し出す。パチュリーはあっけに取られた後、首をかしげた。
気付いてくれないかと期待していたが、やはりそう簡単にはいかないらしい。仕方なく、レミリアは上目遣いに、
「友達になりましょう。生涯の友人になってほしいの」
「はぁ?」
「せっかく一緒に住むんだから、そうでもなくちゃ、うまくいかないじゃないの」
思ったままを言ったのだが、パチュリーにとってよっぽど予想外の出来事だったらしく、レミリアの右手は宙に伸ばされたまま止まっていた。
ややあってから、パチュリーは口元に笑みを浮かべる。
「……吸血鬼の友人。面白そうね。いいわ、あなたとの友情を誓いましょう。こんなところで、薄っぺらかもしれないけれど」
「そんなことないわ。ありがとう、とても嬉しい」
握ってくれたパチュリーの手を、レミリアは両手で包み込んだ。
不健康そうな冷たい手だが、どうしてか、とても暖かく感じる。勝手に、頬が緩んだ。
「私達、きっといい友達になれるわ。よろしくね、パチュリー」
「えぇ、よろしく。レミリア」
百年以上の時を超えて、時計台の鐘が、鳴り響く。
紅魔館の時間が、再び動き出した。
◇◆◇◆◇
「それから、パチェはお父様の書斎をそのまま図書館に使って、紅魔館に住み始めたの。フランの面倒を見るのも、地下の方が都合が良かったしね」
「友達になったのは、結構突然だったんだね」
「うぅん、そうね。でもそれは、私と花子も同じじゃないかしら」
言われてみれば、確かにそうだ。フランドールや萃香、こいしと仲良くなったのも、そんなものだったかもしれない。そもそも、どこまで仲良くなれば友達と呼べるのかも、花子にはいまいち分からなかった。
要は、気持ちが通じ合うかどうかなのだろう。友達になるのは簡単なのだ。その友情を深めた時に、出会いは宝石のような思い出になる。それは悪魔も同じのようだ。
「幻想郷に転移する魔術をパチェが完成させるまで、とても時間がかかったわ。その間に、パチェはフランの魔力を制御して、あの子に能力の恐ろしさを説いてくれた。おかげで、私は妹とまた一緒に紅茶を飲んだりできるようになったの。全部、あの子のおかげなのよ」
微笑むレミリアの顔は、とても幸せそうな顔をしていた。彼女とパチュリーの間にある絆は、きっと花子には考えられないほど強いものなのだろう。
羨ましさすら感じていると、一仕事終えたらしいパチュリーとフランドールが戻ってきた。
「ずいぶんと長いお話だったようね、レミィ」
「まぁね。思い出話に花を咲かせるのも、悪いものじゃないわね」
「なに年寄りみたいなこと言ってるのよ、あなたは」
「引きこもって本ばかり読んでるパチェも、大概お婆ちゃんよ」
くだらないことを言い合いながら、レミリアとパチュリーは渡り廊下に出ていってしまった。花子も立ち上がり、フランドールと一緒に後ろをついていく。
お互いを馬鹿にし合っているというのに、前を行く二人はとても楽しそうだ。
人差し指をくわえて、フランドールが呟く。
「いいなぁ、お姉さまとパチュリー」
「……そうだね。なんだかあったかそうで、羨ましいね」
「うん。いつか私にも、あんな友達できるかな」
花子に向けられたフランドールの視線には、明らかな期待が込められている。遠まわしに聞かれて率直に答えるのも恥ずかしかったので、花子は「必ずできるよ」とだけ返した。フランドールなら、分かってくれるだろう。
「だから、私が図書館で本を読み続けるのは、紅魔館とあなたのためなのよ」
「私のためを思うなら、もっといっぱい遊んでくれてもいいじゃない。最近また運動してないから、少し太ったんじゃないかしら?」
「なっ……! レミィだって、こないだ『昔のドレスが着られない』って騒いでたじゃない」
「あれは、私が成長したからなの! おっきくなってるの!」
「横に?」
「縦に!」
夜も深まる静かな湖畔に、少女の声はよく響いた。それを聞いている花子とフランドールも、楽しくなってしまう。
吹き抜けた北風は、ちっとも冷たく感じなかった。