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太郎くんへ
こんにちは、太郎くん。元気に子供を驚かせていますか?
私はなんとか元気です。太郎くんと一緒に遊んだ学校が少しだけ恋しいけれど、がんばっているよ。
東京の妖怪生活相談所に行った時は、もう妖怪としては働けないかなぁって思ってたけど、そこのおばさんがね、いい所を紹介してくれたんだ。
幻想郷っていうの。とっても綺麗な空気で、緑もいっぱいなんだよ。なにより、妖怪が天下を取ってる場所なの! 最近は他の妖怪をほとんど見てなかったけど、こんなところにいたんだね。私驚いちゃった!
ここでなら、私もトイレの花子さんとして、また活躍できるかなって思ったんだけど……
うぅん、太郎くんには本当のことを言うね。昔のように怖がられるのは、ちょっと難しいみたいです。
最初はね、いつもの三番目の扉をーって噂を流したら、子供達が怖い物見たさで呼んでくれたの。驚いてくれて、久しぶりに気持ちよく働けた気分だったんだけど……
ごめんね、思い出すだけでも泣きそうになるから、これ以上書くのはやめておく。許してください。
太郎くんも、巫女と魔法使いには気をつけてね。それでは、またおたよりします
花子より
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出された煎餅を無遠慮に貪りながら、
妖怪退治の依頼を受けて飛んできてみれば、そこの住人がすでに半分妖怪だったのだ。彼女としては複雑な心境だが、依頼主の半妖は人間の味方なので、一応話だけは聞こうというわけである。
何も半妖だから嫌だというわけではなく、依頼主の女性――ワーハクタクの
「なぁ、霊夢。頼めるか?」
青いメッシュが入った長い銀髪を揺らして、慧音が詰め寄る。鬱陶しげに払いのけつつ、霊夢は茶を啜った。
なんでも、慧音がやっている寺子屋で妖怪が出るという噂が立っているとか。厠の手前から三番目の扉を三回叩いてその名を呼ぶと、件の妖怪が襲ってくるらしい。
「花子さん、ねぇ。すっごい覚えやすい名前だけど、面白みがないわね」
「外ではメジャーな妖怪だったそうだよ。ともかく、人里に妖怪が入り込んでいるんだ。放っておくわけにもいかないだろう」
「ならあんたがやればいいじゃない」
遠慮なく眉間にしわを寄せて、霊夢は新しい煎餅を手に取った。もちろん、慧音が用意したものだ。
「寺子屋のお手洗いで人を驚かすなんて、チルノでもできるわよ。あんたが退治できないほどの妖怪じゃないでしょうに」
「それはそうなんだが、私が例の手順を踏んでも出てこないんだ。子供を狙っているらしくてな。霊夢なら襲ってくれるかもしれないだろう?」
「……まぁ、うん。大人とは言えない年齢だものね」
成長期とはいえ、霊夢の背丈はまだまだ子供と言える。意地になって否定するのも馬鹿らしかったので、煎餅を齧りつつ認めた。
とはいえ、面倒なものは面倒だ。そもそも人里にはそれなりに妖怪が出入りしているのだし、人命に関わる事態にでもなっていない異常、緊急を要する懸案だとも思えない。
「驚かす以上の危害は加えていないし、子供も楽しんでいるんでしょ? じゃあ放っといてもいいじゃない」
「そうは言うがな、霊夢。子供達が噂に夢中で、勉学をおろそかにしているんだ。このままってわけにもいかないんだよ」
「うぅん、そういうことかぁ」
子供に学を教えることを生き甲斐としている慧音からすれば、死活問題なのだろう。妖怪の仕業で困っている人を助けるのが霊夢の仕事でもある。
とはいえ、今日はもう妖怪退治をし終えてきたところなのだ。湖の館に住む吸血鬼が人間を無理矢理パーティに拉致しているという話を聞いて、一派をまとめて叩きのめした。その帰りの足で、慧音邸を訪れているのである。
「今日はもう疲れたしなぁ。神社に帰って寝ようと思ってたのよ」
「困ったな。引き受けてもらえると思って、報酬も用意してしまったんだが」
頬を掻きながら、慧音がぼやいた。霊夢の肩がぴくりと動く。視線だけで慧音の顔を覗きみると、彼女は眉をハの字にして、腕組みをして、確かに困り果てているように見えた。
「今年は豊作だったとかで、米が沢山あってな。博麗の巫女に頼むのだから、俵丸々一つを報酬にしようかと思っていたんだが――」
「……俵一表程度で私を釣ろうってわけ? まったく、博麗の巫女も舐められたものね」
ちゃぶ台に手を突いて、霊夢がゆっくりと立ち上がった。嘆息を一つ漏らして、慧音を上から睨みつける。
「報酬は先払いよさぁ早くお米の詰まった愛しい俵を私によこしなさい」
「……」
◇◆◇◆◇
夜も更け――というより、丑三つ時である。何も夜中でなくとも件の妖怪は出るらしいのだが、人がいないほうが暴れやすいという霊夢の独断で、この時間に仕事をすることにした。
こじんまりと設けられた寺子屋の前に、人影三つ。一つはもちろん霊夢だが、白と緑の巫女服と黒白の魔法使いの身なりをした少女が二人ほど追加されていた。
「なんであんたらまで来てるわけ?」
呆れつつ尋ねると、魔法使いの
「楽しそうだからに決まってるじゃないか」
「そうですよ!」
腰に手を当て、もう一人の巫女が目を輝かせた。妖怪の山、その頂にある守矢神社の風祝、
「トイレの花子さんが幻想郷にいると聞けば、見にこないわけにはいかないじゃないですか!」
「どこで聞いてたのよ」
「町で買出ししてたら、たまたま子供に聞きました。退治の話は、まぁ早苗ネットワークを駆使して」
「あっそ」
どうせ止めてもついてくるのだろう。下手に妨害しようものなら反撃されてややこしくなるだけなので、霊夢はしぶしぶ諦めることにした。彼女らは妖怪退治にも手馴れているし、邪魔になるようなことはないだろう。
「で、早苗。あんたはこの妖怪を知ってるの?」
「え、そりゃまぁ。って、二人はもしかして、花子さんを知らないんですか?」
「知らないぜ」
魔理沙に言われて、早苗はとても驚いたようだ。目をまん丸にして、口に手まで当てて絶句している。最近幻想郷に来たばかりの早苗が知っているということは、慧音が言っていた通り、花子さんとやらは外では名の通った妖怪だったようだ。
「どんな奴なのよ、その妖怪って」
「えぇと、トイレの花子さんは、小学校で多かった怪談話の一つですね。メジャーなのは、トイレの手前から三番目をノックして花子さんを呼ぶと、誰もいないはずなのに返事が返ってくるって話です。中に入ったら殺されるだったり、妖怪の世界に拉致されるって話もありますね」
「拉致って、紫じゃないんだから」
どこぞの妖怪の賢者を思い出しつつ、霊夢は鼻を鳴らした。なんとも子供が好きそうな怪談話だが、幻想郷では妖怪と対峙することが日常だ。時と場合によっては、妖怪共と手を組むことだって珍しくはない。
読んで字の如く、子供だましな話だ。ますます馬鹿らしくなってきた。しかし、早苗はやる気満々である。まるで憧れていたものにでも会うかのような、緊張と歓喜の入り混じった表情をしていた。
「花子さんかぁ、小学生の頃は怖かったな。三番目のトイレはいつも避けてましたよ」
「外の世界じゃそんな妖怪も怖がるのか? 貧弱な子供だな」
箒で素振りなどし始めた魔理沙が苦笑を浮かべた。彼女も外で言えば小学校を上がって数年過ぎた程度の年齢だろうが、半ば趣味で妖怪退治をしているのだ。外の子供と比較してはいけないだろう。
とはいえ、霊夢も似たようなもの――それ以上か――である。物心ついた時からすれ違いざまに妖怪をぶちのめしてきた霊夢は、最近外からやってきた早苗には想像もつかないほど、妖怪に対して耐性ができてしまっている。妖怪は恐れるものではなく、退治する対象か飲み友達程度の認識だ。
「まぁいいわ。さっさと終わらせましょ」
「驚かして満足する妖怪なんて、小傘と橙くらいなもんだと思ってたぜ」
「油断しちゃいけませんよ! 花子さんはパターンによってはとりついてきたり、念で殺してきたりもするんですから。後はトイレから手が出てきて引きずり込まれたり夜明けまでひたすら追いかけられたり、花子さんの正体が三つの頭を持つ体長三メートルの大トカゲで、声で油断させて食べてしまうって話も」
「そこまで来ると、トイレでやる意味ないわね」
失笑しつつ、霊夢は寺子屋に足を踏み入れた。
明かりなどついているわけもなく、窓から差し込む月光だけが頼りだ。深夜特有のひんやりとした空気が頬を撫で、木目張りの廊下は歩くたびに軋む音を立てる。雨が降っているわけでもないのに、どうしてか湿った木の匂いまでしてきた。
おおよそ普通の少女であれば、恐怖に怯えて逃げ出す雰囲気だ。しかし、彼女らの足取りに恐れや迷いはなく、堂々と足音を鳴らして歩いていく。忍び足も何もあったものではない。
一同はまるで自宅の廊下でも歩くような気楽さで、厠の前に到着した。なんの躊躇もなく扉を押し開け、霊夢は眉を寄せる。
厠にある窓が小さすぎて、外の明かりを少しも通していない。文字通り、一寸先は闇だった。うかつに歩くこともできなさそうだ。
「暗すぎて、どれが三番目か分からないわね」
「確かに真っ暗ですねぇ」
ひょっこりと覗き込む早苗が、厠の臭いに渋面を浮かべながら呟いた。
「魔理沙、魔法で光を出せたりできませんか?」
「あいよ。ちょっと待ってくれ」
なにやらカチカチと音がした後、魔理沙の持つミニ八卦炉に火が灯った。ピンからキリまで出力を調整できるその道具は、魔理沙にとっての宝物である。
淡い光にぼうと照らされた厠は、やはりどこか不気味だった。なるほど、妖怪が潜む所としては恰好の場所だったのかもしれない。
視界が確保できたところで、霊夢はさっそく仕事を始めた。厠の中にずんずん進み、いくつか並んだ木製の扉を見据える。
「さてと。手順は確か、手前から三番目の扉を三回叩くんだったわね」
指で数えて、三つ目の扉の前に立つ。左手の甲で、噂どおり三度ノックした。後は、妖怪の名を呼ぶだけである。
「……はーなこさん」
呟いた直後、霊夢は大幣を、早苗はお札を、魔理沙は八卦炉を構えた。間違いなく妖気が発生したのだ。
わずかに走った緊張。それに答えるかのように、厠の扉がゆっくりと開いていく。
目を逸らさず、開く扉を睨みつける。わずかな隙間から白い指が現れ、ついで出てきた少女の顔は、にたりと笑っていた。
「は……ぁ……い」
おかっぱ頭にセーラー服ともんぺという服装の少女は、人の子のような外見であるのに、それと分かるほどに妖怪であった。窪んだ眼窩に眼球は見えず、病的な白い顔に真っ赤な唇を不気味な笑みに歪める。霊夢達は、生理的な嫌悪感と危機感を感じた。
ケタケタと気味の悪い笑い声を上げて、扉から飛び出してくる。狂ったように両手を振り回し、若干後退した霊夢達に走り寄ってきた。
「ワタシヲヨンダノ、ダァレ――?」
上ずり濁った声で、『トイレの花子さん』が襲い掛かる。ここにいるのが普通の子供であったなら、今頃は泣き叫びながら脱兎の如く厠から逃げ出していたことだろう。
しかし、相手が悪かった。恐怖に慄くはずだった三人の少女は、次の瞬間には真顔に戻り、
「ルールを無視するなら、手加減はいらないわね」
と、霊夢が大幣を振り上げ、
「出力全開、巻き込まれるなよ!」
魔理沙が嬉々として八卦炉を少女に向け、
「キャー! 本物の花子さんだ、すごぉい!」
黄色い悲鳴を上げながら、早苗がお札を投げつける。
寺子屋の厠に閃光が満ち溢れ、それらは徐々に膨張していき、小さい窓から漏れて里までをも照らし出し――
「あれ?」
妖怪少女の間抜けな声と共に、寺子屋が爆発した。
◇◆◇◆◇
「あぁぁぁぁぁぁ」
早朝、瓦礫の山と化した寺子屋の前で、慧音ががくりと崩れ落ちていた。横目でそちらを眺めつつ、霊夢はぴしゃりと告げる。
「妖怪は退治したんだから、お米は返さないわよ」
「私の……寺子屋が……」
返事すらできない慧音を放置して、霊夢は魔理沙と早苗と共に、膝を抱えて座り込んでいるおかっぱの少女を見下ろした。
決闘ルールを無視してきたとはいえ、徹底的に痛めつけてしまったおかっぱの少女は、ぶるぶると怯えきっている。何度か話しかけているのだが、まともな返答は得られていない。
「霊夢、やりすぎですよ」
早苗に咎められるが、彼女だって嬉々として護符を投げつけていたのだ。言われてやる義理はないとそっぽを向いてから、もう一度少女の前にしゃがみこむ。
「ねぇ」
「ひぃっ!」
涙目で後ずさりする少女を容赦なく追いかけ、セーラー服の胸倉を掴んだ。あの怖ろしい形相は
妖怪なので、彼女が何年生きているのかまでは分かりかねた。少なくとも、強いと呼べる妖怪ではない。
胸倉を捻り上げて持ち上げ、少女の足が浮くか浮かないかの爪先立ちになるのを確認しつつ、霊夢は優しく告げた。
「怖がらなくていいって、もう何もしないから」
「胸倉掴んで言う台詞じゃないぜ」
「逃げる奴が悪い」
魔理沙の突っ込みにぴしゃりと言い切る。少女を締め上げながら、霊夢は誰よりもかわいいと自画自賛できる笑顔を作り、
「私の名前は博麗霊夢。見ての通り、優しい巫女さんよ。あなたのお名前は?」
「あわわ、誰かお助けぇー!」
「あなたのお名前は?」
「ひぃ、ひぃーっ! 太郎くんでもムラサキおばあちゃんでもいいから、助けてぇー!」
「あなたのお名前は?」
「もうやだ、怖いのも痛いのもやだーっ!」
両手を振り回して暴れる花子。彼女は本気で霊夢を怖がっているようだ。
あぁ、こんなにも慈愛の心で接しているというのに、なぜだろう。悲しみを背負った霊夢は、心を鬼にして胸ぐらをつかむ手に力を込め、正面から思い切り睨みつけた。
「名乗らないなら、もう一回退治するわよ。ちなみに私はそっちのが手っ取り早くてありがたいわ」
「みっ……、御手洗花子ですぅ……」
涙声で、少女――花子が絞りだすように答えた。満足げに頷いて、霊夢は少女を解放する。
「よろしい。で、あんたはなんで寺子屋にいたの? 人里で人間襲っちゃいけないってルール、知らないわけじゃないでしょう」
「そ、そうなの? 知らなかった……」
「……」
霊夢が眉を寄せると、それだけで少女はびくりと後ずさりして瞳を潤ませた。
まるでこちらが悪者のように思えてくるが、相手は妖怪なのだ。特に気にもせず、じっと見据える。
「だ、だって私、まだここに来て一週間しか経っていないもの」
「来たばかりの妖怪なの? だったらなおさら、他の妖怪にでもルール聞きなさいよ。スペルカードも知らないんじゃ、女の子はやってけないわよ?」
「スペ、え? でもだって、誰にも会わなかったし……。学校のトイレで驚かすお化けだから、とりあえずここに来たのだけれど」
「はぁん、それでね。でも、あんたはたまに人間を殺すこともあるんでしょ?」
早苗から聞いた予備知識だ。妖怪が幻想郷の住人を殺すことは、禁止されている。釘は刺しておかなければならない。
しかし、花子はぽかんと口を開いた後、首を傾げた。
「え?」
「いや、取りついて殺すとか、そこの早苗が言ってたのよ」
「ううん、人を殺したりなんてしないよ。せいぜい襲い掛かって驚いてもらって、後はトイレでほっこりしてたもの。人間を殺すなんて、考えたこともなかったよ」
「まんま小傘みたいな奴だな」
後ろで笑う魔理沙を放って、霊夢は花子を見つめた。おかっぱの頭を掻きながらしばらく唸った後、手をポンと合わせて、花子が頷く。
「そっか、そういうことになってたんだ。だから時々、子供が殺されるーとか言ってたんだなぁ」
「いまいち話が見えてこないんだけど、そういうことになってたって、どういうことよ」
「えっと、私こう見えて、ここ最近まで学校の怪談としてはすごく有名だったんだ。日本中で噂されてて、行く学校行く学校全部で子供達が私を知ってたもの。わざわざ呼び出す方法を広める必要がないくらい」
合点がいった。噂が広まるにつれて脚色され、取り憑かれるだの手が出るだの、体長三メートルの化けトカゲが正体だのと言われるようになったのだろう。それだけ有名な妖怪ともなれば、幻想郷に来ずともやっていけそうなものなのだが。外の世界では、さらに幻想が否定されてしまったということか。
ともかく、幻想郷のルールを知らないというのは霊夢にとっても都合が悪い。スペルカード以外にも教えなければならないことが出てくるだろう。
「とりあえずまぁ、元気出しなさいよ。ここは誰でも受け入れる世界、あんたもやり方さえ分かればうまくやれるわ」
「は、はぁ」
間抜けな声を上げる花子に、霊夢は人差し指を立てる。
「とにかく、人里で人間を襲うのは禁止。襲うなら里の外ってのが幻想郷のルールよ」
「悪さしたら、私らが退治にいくけどな」
「えぇっ!?」
悲鳴じみた叫びで困ったように顔を曇らせる花子。彼女の「えぇっ!?」には二つの意味があることを、霊夢は感じ取っていた。
すなわち、厠の怪である彼女にとって、厠のない場所で人を襲うことはとても困難であること。もう一つは、また霊夢達に退治されるかもしれない恐怖だ。
見た目は幼く可愛らしい少女であるとはいえ、花子は妖怪である。人を襲う妖怪に例外を認めてやるわけにはいかない。人里で飼ってやるわけにもいかないので、霊夢はとりあえずの提案をしてやることにした。
「家だったら、里の外にもあるわよ。そっちに住み着いたら?」
「あ、そうなんですか?」
「ちょっと、霊夢」
早苗が何かを訴えてくるが、無視する。しかし、言わんとしていることは分かっていた。
里の外にある住居といえば、そこの住人は大概が妖怪であり、人間だったとしても妖怪退治のプロだったりと、花子にとってはろくなことがない連中ばかりである。
もちろん、霊夢はそれを知っている。しかし、重要なことは花子には伝えない。花子も妖怪なのだから簡単に死んだりはしないだろうと考えていた。
新参妖怪一匹がどうなろうと、知ったことではないのだ。なぜなら霊夢は、人間の味方なのだから。
「じゃ、じゃあ……幻想郷を歩いて回って、住む場所を探してみようかな」
「そうそう、それがいいわ」
わずかに笑顔が戻った花子に、うんうんと頷く。後ろで魔理沙が「鬼だぜ」などと呟いているのが聞こえたが、妖怪相手に菩薩のような顔をしてやる理由はない。
「そうと決まれば、早速行動しなさい。さぁ立って、荷物を持って」
「は、はい」
言われるがままに古びたリュックサックを背負う花子。いそいそと準備をする彼女の顔には希望の光がキラキラと舞い降りており、霊夢はわずかに心が痛んだ。
しかし、わずかにである。次の瞬間には割りとどうでもよくなっていたので、躊躇いなく花子の背中を押した。
「ここから西に真っ直ぐ進みなさい。湖の近くに真っ赤な洋館が見えると思うわ」
「洋館かぁ」
「立派な館よ。お手洗いもすごく綺麗だったわ」
「わぁ!」
胸の前で手を合わせて、花子はとても嬉しそうだ。少なくとも、母のような面持ちで頷く霊夢の背後にいる魔理沙と早苗の、哀れみの視線には気づいていないだろう。
トントンとつま先で地面を叩いて靴を直し、花子が行儀よく頭を下げる。
「色々ご迷惑おかけしました。ありがとうございました」
「いえいえ。大したことじゃないわ、地獄はこれからだし」
「え?」
「ん?」
目が合って数秒、花子は聞き逃したことが重要なことではなかったと判断したのか、もう一度深々と一礼した。
「じゃあ、私行きますね。さようなら」
「さようなら。せいぜいがんばるのよ」
「……? はい!」
やはり何か引っかかるらしいが、とうとう彼女はその正体に気づくことができなかった。
朝日を浴びて、足取り軽やかに人里から去っていく後姿を見送って、霊夢はすがすがしい気持ちで振り返る。
「いやー、いいことした後ってのは気持ちいいわね」
「どの口でそれを言ってるんですか、あなたは」
半眼を向けてくる早苗。どこかずれたところはあるものの、彼女は根がとても真面目で、努力家だ。霊夢とは対照的な性格をしていた。
「あんたもまだ妖怪に甘いわね。幻想郷じゃあのくらい普通よ」
「普通ではないだろ。適当な廃屋でも紹介してやったほうがよかったと思うぜ」
同業者とも言える魔理沙に突っ込まれても、霊夢は大して気にならなかった。博麗の巫女としての責務は果たしのだから、とやかく言われる筋合いはない。
ゆっくりと伸びをしてから、宙に飛び上がる。睡眠時間は昼寝で補うとして、お腹が減ってしまったのだ。
「さぁ帰ろ。炊き立ての白米で素敵な朝ご飯よ」
「お、例の報酬か。私もお相伴に預からせてもらおうかな」
箒に跨り飛び上がった魔理沙が、帽子を押さえながら笑った。霊夢はそちらを横目で見つつ、
「一人につきおかず一品」
「きのこでいいなら持っていくぜ」
「あ、昨日作った山菜のてんぷらが余ってるんですけど、食べます?」
「いいわね、いただくわ」
厠妖怪の話はどこへやら。早朝の人里上空を飛んでいく霊夢達の興味は、次第に朝食へと移っていった。
少女達の声が遠のいて、朝日は徐々に力を増し人里に一日の活気を与えはじめる。人々の目覚めの時が近づいてくる、その中で――
「……私の寺子屋……」
崩れ落ちた寺子屋の前で、慧音は二度とあの巫女に妖怪退治を頼むまいと、強く心に誓ったのだった。