文が酒宴の会場に降り立つと、最初に駆け寄ってきたのはこいしだった。
「花子ぉ! あぁ、怪我してる! 萃香さん、みすちー!」
「落ち着いてください、死んでるわけじゃないんですから。弾幕をすれば、このくらいの怪我はいつものことでしょう」
一応告げてはみたものの、こいしは全く聞いていないようだった。嘆息を漏らし、花子をこいしに預ける。
「疲れて気を失っているだけです。無理に起こしたりしないで、ゆっくり寝かせてあげてください。あぁでも、水を少しだけ、無理矢理にでも飲ませたほうがいいかもしれませんね。喉がカラカラでしょうから」
「……っ」
眉を寄せて睨み上げてくるこいし。文は彼女を出しにして花子を奮起させたことを思い出す。今思えば、あの内容はあまりにも酷いものだった。両手を挙げて降参を示す。
「分かりました、負けです。花子のやる気を出させるためとはいえ、あなたを傷つけたことは謝りましょう」
「……ふん」
怒りは収まらないらしく、こいしは自分達がいた
体中傷だらけの花子を、ミスティアが手当てしていく。時々苦痛に顔を歪めるものの、花子が目を覚ますことはなかった。
少しやりすぎただろうかと、文は花子を見下ろした。弱小妖怪とは思えない粘りを見せられ、加減を間違えたかもしれない。
「でもまぁ、たぶん大丈夫でしょう」
「だろうね。花子は結構頑丈だから、この程度じゃびくともしないよ」
声に首を動かせば、あれもこれもと手当ての道具を取り出すこいしの横で、萃香がいつものように酒を呷っていた。彼女は言葉通り、そこまで心配していないようだ。
「……負けちまったか。がんばってたんだけどね」
「私にも立場がありますから」
「勝負なんだ、構わないよ。むしろわざと勝たせてたりなんかしたら、ただじゃおかなかっただろうね」
口元をにぃと歪める萃香に、文は「おぉ、怖い怖い」と肩をすくめた。
決闘が過ぎてもなお、酒宴はいつものように続いている。そのど真ん中を、二つの日傘が走ってきた。レミリアとフランドールだ。
レミリアは靴のまま茣蓙に入り込み、フランドールは文を蹴り飛ばし、花子へと駆けつける。加減を知らないフランドールの蹴りをもろに食らい、文は盛大に転がった。
「花子! こんなになるまで、私のために……!」
花子の手を取り、レミリアは俯いてしまった。
割りと遠くまで転がっていった文だが、適当なところで無理矢理立ち上がる。服についた砂や埃を払いながら戻ってくると、フランドールが頬を膨らませて待っていた。
「ちょっと天狗! よくも花子をこんな傷だらけにしてくれたわね! 花子に何かあったら、どうするつもりなの?」
「……私は今、あなたに軽く殺されかけましたけどね。というか皆さん、花子に特別な恩でもあるので? 彼女、なんだか気持ち悪いほどちやほやされてますが」
その問いに、フランドールは目をぱちくりとさせた。質問の意味が分からないとでも言いたげだ。
文の疑問には、ミスティアが答えてくれた。花子の手当てをとりあえず終えて、
「文さん、分かりませんか? 花子ちゃん、すっごく一生懸命で、素直で、優しいじゃないですか」
「若干押し付けがましい優しさだと思いますが、まぁ確かに」
「でしょ? 幻想郷にはあんまりいないタイプだから、なんだか自然と惹きこまれちゃうんですよね」
「ふむ、なんかあんまり釈然としませんが、まぁいいです。そういうことにしておきましょう」
ここにいる妖怪は、萃香以外、文よりもかなり年下だ。もしかしたら、文が忘れてしまった純真さを、彼女達は持っているのかもしれない。
こいしが花子の口に少しずつ水を入れ、ゆっくり飲ませてやっている。邪魔になると見たのか、その横にいたレミリアが、花子から離れた。
後姿ではあったが、レミリアの腕は目をこすっているような仕草を見せている。まさかとは思ったが、文は聞かずにはいられなかった。
「レミリアさん、もしかして、泣いているので?」
声にぴくりと反応して、レミリアが立ち上がる。彼女はあくまで後ろ向きのまま、何度も目をこすり、しゃくりあげながら、
「……ば、バガなごと言わないでぢょうだい! 誇り高ぎっ、吸血鬼の、私が、泣ぐわげっ――」
「あぁ、ごめんなさい。もういいです、ホントすいません」
軽く涙を見せている程度だと予想していたのだが、かなり本気で泣いていたため、文はなだめるようにレミリアを座らせた。これには、妹のフランドールも若干呆れているようだ。
駆けつけた咲夜がレミリアを慰めているのを眺めつつ、ミスティアに分けてもらった酒を口に含む。疲れた体に、美酒は沁みる。
ようやく体の力が抜け、溜息をゆっくりと吐き出してから、文は萃香に話しかけた。
「花子が私に決闘を挑んだ理由、ご存知ですよね」
「あんたが吸血鬼をボロクソに言ったからだろ? 花子から何度聞いたか分からないよ」
「そうですか、すみません。ところが困ったことに、決闘には私が勝ってしまった。私としては、レミリアさんへの侮辱は割りとどうでもいいことなので、取り消すつもりはないんですよ」
「なるほど。天狗らしいねェ」
「どうも。それで、花子に伝えてほしいことがあるのですが――」
コップを置いて、立ち上がる。全身のコリをほぐすために、大きく伸びをした。
「再戦はいつでも受け付ける、かい?」
萃香に訊ねられ、文は肩をすくめて答えとした。
日傘を咲夜に持たせ、花子の手を両手で包むようにしているレミリアは、自慢の大きな羽が気の毒になるほど垂れてしまっている。傲慢で残虐非道な吸血鬼はどこへやら、といった有様だ。隣に座るフランドールも、最初こそ姉と同じくらい花子の心配をしていたものの、今は「大丈夫だからそっとしておこうよ」と、レミリアの肩を叩いてやっている。
「レミリアさん」
声をかけると、レミリアはゆっくりとこちらを向いた。もう泣いてはいないものの、頬に涙のあとが残ってしまっている。こうして見ると、本当にただの幼子だ。
彼女がこんなに素直な性格だったことに驚きつつ、文は告げる。
「……いい友人を持ちましたね」
「そう、ね。本当に、そう思うわ。私にとっても、妹にとっても」
「うん」
フランドールも同意の首肯をした。嫌われ者の吸血鬼にとって、花子はオアシスのような存在だったのかもしれない。
ここにいる者は皆が皆、花子を大切にしている。分かってはいたが、文は途端に疎外感を覚えた。敵として戦ったのだから、無理もないが。
邪魔だと分かりながらも留まり続けるほど、射命丸文は空気を読めない女ではない。皆が座る茣蓙に背を向け、
「それじゃあ、私はこれで」
「どこに行くんだい、もっと呑んでいきなよ」
分かっているだろうにと、意地悪い萃香の誘いに、文は苦笑した。
「お誘いはありがたいんですが、私は天狗仲間と楽しむことにします。ここに私がいるのは、場違いですしね」
それ以上、引き止める声はなかった。わずかの間をおいて、文は歩き出す。
天狗が集まる鳥居付近は、とても居心地がよさそうに見えた。しかし、あそこに溶け込んだとしても、文は花子ほど大切にはされないだろう。
当然なのだ。文は誇り高い天狗一族で、過度な馴れ合いは好まない。もう千年もそうやって過ごしてきたのだ。
だというのに、文に残っていた少女としての心は、花子をとても羨んでいた。
「……あー」
頭を掻く。自分で抱いた気持ちだというのに、無性に恥ずかしかった。
「私も花子の純粋さとやらに、当てられたかな」
嘆息を漏らしながら、天狗仲間に合流する。皆口々に決闘の感想を述べながら、酒を勧めてくれた。
花子との決闘が終わったとはいえ、まだまだ日は高い。今日の宴会は、とても長いものになりそうだ。
◇◆◇◆◇
サラサラと、川の水は流れていく。水面に揺れる半月を、花子はぼうっと見つめていた。
何ヶ月も過ごしてきた、いつもの川原。当分戻ることはないと思っていたのに、まさかその日のうちに戻ることになるとは。何度目か分からない大きな溜息を吐き出した。
決闘の最後で気を失ってしまい、花子が目を覚ましたのは夕方だった。寝る場所を探すのもなんだか馬鹿らしいので、半分我が家となっていた焚き火小屋に戻ってきたのだ。
決闘に、敗れた。それは揺るがぬ事実であるし、花子もそれをしっかりと受け止めている。悔しかったが、負けは負けだ。
分かっているはずなのに、花子の心はぽっかりと穴が開いたようだった。何もする気が起きず、川原に戻ってからもう何時間も、ずっと膝を抱えて川を眺めている。
目が覚めた時には、まだ宴会が続いていた。しかし、紅魔館の皆は帰ってしまったあとだった。妖精メイドだけに任せているので、その後始末を総出でやらなければならないらしいと、ミスティアが教えてくれた。
「……あぁ、そっか」
心が空虚な理由に、花子はようやく気がついた。
足をぎゅっと抱き寄せ、膝と膝の間に顔を埋める。
「私、何もできなかったんだ」
友人への暴言を、撤回させることができなかった。白熱した弾幕ごっこの中であっても、花子は一瞬たりともその目的を忘れていなかったのだ。
負けてしまった。もう、文の言葉を取り消すことはできない。そのことが、酷く悲しかった。
「私は――」
「花子ぉ」
背後から聞こえた間延びした声は、そちらを見ずとも誰かがすぐに分かった。
「こいしちゃん」
「はい、これぇ」
こいしが差し出したのは、半分に折られて紙袋に入った、焼き芋だった。もう半分は、こいしが持っている。
受け取り、紙袋越しに伝わる温もりに、花子は目を細める。
「暖かい。こいしちゃん、これ、どうしたの?」
「花子が寝てる間にね、秋の神様がくれたんだぁ」
「……そっか。お礼、言わなきゃね」
「いっぱい言っといたよぉ」
元気いっぱいに答えてくれるこいしだが、彼女もまた、花子を奮い立たせるために利用されていた。酷いことを言われて、とても傷ついたに違いない。
謝罪の言葉が喉まで出てきたが、花子はそれを飲み込んだ。こいしは今、花子を慰めてくれているのだ。謝られても、きっと彼女は困ってしまう。
焼き芋を一口、そっと口に含む。とても熱かったが、甘くて、舌の上で溶けていくようだ。
「おいしいね」
「うん。おいしいねぇー」
川音の心地よい響きと焼き芋の温かさが、胸に沁みる。ただ隣にいてくれるこいしの優しさも、また。
ぎゅっと心臓を締め付けられるような心地になり、花子はたまらず、もう一口焼き芋を齧る。
「……おいしい」
「うん」
「ホントに……おいしいねっ――」
そこからは、もう声にはならなかった。溢れそうになる感情を、花子は必死に押さえ込む。
敗北の辛さが、今になって押し寄せてくる。レミリアとこいし、育ててくれた萃香にも、初めての外出で駆けつけてくれたフランドールにも、応援してくれた全ての人に、ただただ申し訳なかった。
何も、何一つ成し遂げられなかった。偉そうなことを言っておきながら、結局無様に負けてしまった。
視界が滲む。瞳に溜まる涙が零れないように、花子は半月を見上げ、今にも声が出てしまいそうに震える唇を、ぎゅっと閉じる。
悔しさはどんどん悲しみに入れ替わっていく。泣いてはいけない、こいしを困らせたくないと、無駄だと分かっていながらも目に力を入れてしまう。
耐えていた辛さが瓦解し、花子は今日までの何もかもを後悔し始めた。
レミリアはどう思っただろう。きっと幻滅にしたに違いない。
魔理沙達も、秋姉妹やミスティアも。もしかしたら、萃香とこいしも。
決闘なんて申し込まなければよかったのだ。そうすれば、こいしが傷つかなくて済んだはずなのに。
そもそも、強くなりたいなんて思わなければよかったのだろうか。もし特訓をしようなどと思い立たなければ、萃香や慧音にも、ミスティアや早苗にも迷惑をかけなかったに違いない。
あるいは、妖怪の山に登ろうとしたことが全ての間違いだったのかもしれない。文と出会うことがなければ、もしかしたら、何も起こらなかったのではないか。
いや、それよりも――
花子が、幻想郷に来さえしなければ――
「違うよ、花子。私もみんなも、そんなことちっとも思わないよ」
聞こえてきたこいしの声は、いつもよりさらに優しく、少し大人びて聞こえた。
すんと鼻を鳴らして、花子は少しだけ顔を上げる。
「あれ、声に、出てたかな」
焼き芋を抱えたまま、こいしの顔を横目で覗く。空を見上げて、穏やかな笑みを浮かべていた。
花子は気付いた。こいしはこちらを向いていない。緑の瞳は、間違いなく夜空の月に向けられている。
ただ、その胸元、閉じているはずの第三の目が、花子を見ていた。
閉ざしたはずの覚の瞳が、わずかに瞼を開けて、花子の心を見ているのだ。
「こ、こいしちゃん……!」
「えへ、久しぶりだと、ちょっとしんどいや」
苦笑いを浮かべるこいし。いつものこいしらしくない大人びた笑い方は、まるで彼女が別人に代わってしまったような印象を花子に与えてくる。
こいしが第三の目を閉ざした理由は、萃香から聞いていた。覚の力は嫌われる。嫌われたくないから、瞳を閉ざす。妖怪としてのアイデンティティを捨ててまで、こいしは他人に忌避されることから逃げたのだ。
心を読むことをやめたこいしは、覚であることを止めたようなものだ。並大抵の覚悟でできることではない。
だというのに、こいしは今、花子の心を読んでいる。
「私は、嬉しいよ。花子が幻想郷に来てくれて。吸血鬼さんと出会ったことも、山で天狗さんとケンカしたことも、それで萃香さんと修行を始めたことも、全部嬉しいよ。おかげで、私は花子と友達になれたんだもんね。
みんなも、きっとそう思ってるよ。心は読んでないけど、萃香さんもみすちーも、吸血鬼さんも、霊夢とか魔理沙もね。もしかしたら、あの天狗さんも。
みーんな、花子と友達になれたことを喜んでるよ。泣き虫だけど優しい花子のことが、きっと好き――うぅっ」
苦しそうに、こいしが胸を押さえる。花子は慌てた。
「こいしちゃん、なんで……」
手を差出し、それをどうすることもできず、右往左往するしかない。そんな花子の動揺を見て、こいしが小さく笑う。
「花子なら、信じられるかなぁって。覚の力を使っても、私のこと、嫌いにならないと思ったの」
「嫌いになんてならないよ。でも、あの、辛いなら、無理しないで?」
「うん」
短い返答のあと、こいしは再び瞳を閉ざした。ゆっくり重い息を吐き出し、
「えへへ。私はもう、覚に戻れないみたいだね」
「そんなこと……」
「いいのいいの。このままの方が気楽だし」
再び焼き芋を頬張るこいしに、花子は安堵した。いつもの調子に戻ったからだ。
温まった白い息を吐きながら、こいしは川に揺らめく半月を見つめる。
「元気がない花子はやだよ。花子は泣き虫だから、たまには泣いてもいいけど、やっぱり笑ってるほうがいいよ」
「……うん」
「私ね、最近までずぅっとつまらなかったんだぁ。でも、花子と友達になってから、毎日がすっごい楽しいの」
「うん」
「でもね、私だけが楽しいのは、ダメなの。花子も一緒に楽しくなくちゃ、ダメなんだぁ」
いつも何を考えているのか分かりにくいこいしだが、彼女ほど友達思いな少女を、花子は知らない。
嫌われる怖さを知っているからこそ、誰よりも繋がりの輪を大切にする。そんなこいしにこんなにも大切に思われていることが、嬉しかった。
「……ありがと、こいしちゃん。辛い思いしてまで、慰めてくれて」
「元気出たぁ?」
「うん、元気元気」
にっこり笑うと、こいしも満足そうに頷いてくれた。
それからしばらく、二人の間に会話はなかった。冷たい風と川の水だけが時間と共に流れていき、その沈黙は不思議と心地よい。
揃って川を眺めていると、花子とこいしの目前、空中に、突然切れ目が走った。両端がリボンで結ばれた不思議なスキマは、もう見慣れたものだ。
裂け目から上半身を出し、まるで窓の縁でもあるかのようにスキマに肘をかけ、
「ごきげんよう」
いつもの優雅さで、八雲紫が現れた。
「こんばんは、手紙のお姉さん」
「聞いたわよ。見事に負けたそうね」
「……うぅ、やっと立ち直ったところだというのに」
「おばさん、花子をいじめちゃだめぇ!」
当然のように放たれたこいしの言葉に、紫が片眉を吊り上げる。
「このっ――。まぁいいわ、素直に謝りましょう。ごめんなさいね、花子」
「い、いいえ」
「さぁ謝ったわ。だから古明地こいし、わかっているわね」
「はぁい、スキマのお姉さん」
どうやら、わざとらしい。こいしは、八雲紫の弱みを握る数少ない存在となったようだ。
咳払いを一つ、紫はスキマから薄桃色の封筒を取り出した。花柄の模様があしらわれており、いかにも女の子向けといった作りだ。
「花子。今日は、あなた宛ての手紙を届けにきたわ。残念ながら、太郎という少年からではないけれどね」
「私に、ですか?」
手紙を受け取ると、宛名の欄にはずいぶんと可愛らしい文字で、『親愛なる御手洗花子へ』と書かれていた。確かに、花子宛てだ。
封筒をひっくり返す。差出人の項目には、『あなたのレミリア・スカーレットより』とあった。
レミリアからの手紙だ。花子の心臓が大きく脈打った。緊張しつつも、酷い破り方にならないよう、慎重に封を開ける。
便箋には、宛名と同じとても可愛い丸文字が綴られていた。漢字が苦手らしく、ところどころがひらがなになっている。
~~~~
花子へ
ごきげんよう。そしてまず、ごめんなさい。
目がさめるまで花子のそばにいたかったのだけど、館に帰らなければいけなかったので、先に失礼しました。
今日の決とう、本当にすばらしかった。あなたがテングとたたかうと聞いたとき、どうなることかと思ったけれど、花子のだんまく、すごく美しかったわ。
負けてしまったけれど、どうか落ちこまないで。私もフランドールも、あなたのことを心からほこりに思っています。
私のためにたたかってくれて、ありがとう。だれかに大切に思われるのって、とてもうれしいのね。
もしも花子がひどい目にあったら、ちゃんと私に言いなさいよ。こんどは私がかたきをうってあげるわ。
それから、テングが言った悪口なんて、私は気にしてない。いざとなったら、私がじきじきにやっつけます。だから、安心してね。
なんども言うけれど、花子が私のためにスペルを作ってたたかってくれたのが、なによりもうれしかった。本当よ。
花子だから正直に言うけど、実は私、文を書くのって苦手なのよね。字も丸字だし、漢字もあまり書けないし。このこと、パチェしか知らないの。みんなにはないしょね。
そういうわけだから、お手紙はこのへんで。
お返事はいらないわ。ただ、また館へあそびにきてね。きっとよ。みんなといっしょに、まってます。
レミリア・スカーレットより
PS.私のことは、レミィってよんでちょうだい。もっと気楽にせっしてもいいのよ。私とあなたの仲なんだもの。
~~~~
手紙を読んでいくうちに、花子は知らず、ポロポロと涙を流していた。その量はだんだん増えていき、ついには手紙が見えなくなるほど溢れ出す。
こいしが「またいじめた」と頬を膨らませ、紫が「これはいい涙よ」などと言っている問答も、花子の耳には届かない。
「レ……ミィ――」
手紙を胸に抱き、花子は何もかも抑えられなくなり、大きな声を上げて泣きだした。
悲しいのではない。今までの苦労が報われたような、全てを許されたような、達成感やら嬉しさやらが入り乱れ、今はただただ、泣きたかった。
こいしと紫に見守られ、泣き声が夜の森に木霊するのも構わず、花子はひたすらに、泣いた。
それは、ようやく産まれた幻想郷の妖怪『御手洗花子』の、産声だったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
非常にいい気分で、文は体を湯船に沈めていた。
花子との決闘では大した疲労を感じていなかったが、いかんせん熱くなりすぎた感は否めない。格下相手に大人気ないかとも思ったが、たまにはああいった真剣な決闘も悪くないかもしれない。
足の筋肉を伸ばし、文は顔を綻ばせた。
「いやぁ、気持ちいい」
「おくつろぎのところ悪いんだけれど」
「どわぁぁっ!?」
悲鳴を上げて、文は浴槽の中で器用に飛び跳ねた。張っていたお湯が大量に零れ、湯気で浴室は真っ白になる。
原因を作ったスキマ妖怪は、スキマから上半身だけを出して、迷惑そうに湯気を手で払った。
「あらあら、お下品なこと」
「人様んちの風呂にいきなり入ってきて、下品もなにもないでしょうが!」
「そりゃすまないねェ」
「うひゃぁぁっ!?」
二度目の叫びは、さらに驚きを強めていた。誰もいなかったはず――いなくて当たり前のはず――である浴槽に、当然のように小さな人影が浸かっているのだ。
小さな外見に不釣合いな二本の角を生やし、その間にはご丁寧に折り畳んだ手ぬぐいを乗せて、服もきっちり脱いでいる、伊吹萃香である。
間違いなく幻想郷で五指に入る妖怪二人に挟まれて、文は湯の中にいながら冷や汗を掻いた。
「ななななんで、萃香さんが、こここここに」
「なんでって、そりゃあんた。落とし前ェつけてもらうためだよ」
「お、落とし前? 私が一体なにを――」
ぎろりと萃香に睨まれて、文はまさに蛇に見込まれた蛙。ぴたりと固まり動けなくなった。
そうだった。決闘の熱に浮かれていたのか、忘れていた。文は、萃香に嘘をついていたのだ。
「鬼に嘘をついたんだもの。相応の対価は払わなければならないわよねぇ」
不気味なほど美しい紫の笑顔が、今はただ恐ろしい。
ともかく、この状況から脱さねば。文は思いついた言い訳を口から滑らせた。
「そ、そうだ。今日の決闘、素晴らしかったでしょう? あれでチャラ、なんてことには」
「なるわけないだろう。あれは花子の戦いだし、私ゃあの子の決闘は酒の肴にしないってェ決めてたんだ」
「さようで……、はは。あー死んだなー私これ絶対死んだわー」
湯船の縁にもたれかかり、文はかなり本気で死を覚悟した。しかし、対面の萃香はケラケラと笑い、
「なに言ってんのさ。あんたの力は私らも認めるところだよ、文。簡単に命まで奪ったりはしないって」
「そうですわ。幻想郷では、無益な殺生はあまり得になりませんもの」
紫までもが、おかしそうに口元を押さえて笑っている。どうやら、生命の危機は脱したらしい。
命が助かるのであれば、どんな罰でも乗り越えられよう。千年の時を生きた射命丸文は、多少の困難ならば乗り越えてみせる自信があった。
「そ、そうですか。では、私は何をすればいいので? 萃香さんの気が済むのであれば、できることはなんでもしますよ」
「おォ、そうかい! そいつァよかった。実はね、あんたに取材を頼みたいんだよ。どうしても地元を有名にしたいってェ奴がいるんだけど、中々人が寄り付かない場所でさァ」
「なんだ、そんなことならお安い御用ですよ!」
天下一の情報源――自称である――、
「で、どこに行けばいいので?」
「地底」
笑顔のまま、萃香は言い切った。
端的に分かりやすく発せられた言葉だったのだろうが、文には何一つ理解できない。首をぎりぎりと傾げて、
「は?」
「だから、地底。正確に言うと、旧都だね」
「……まさか、取材相手は」
「うん、勇儀」
地底に住む、鬼の四天王が一人、
サッと顔色が青ざめ、文の脳裏に再び死の一文字がよぎる。勇儀は萃香より苦手な相手だった。彼女が地底に身を隠した時、自宅でこっそり祝杯を上げたほどだ。
「し、しかし不文律が! 地上の妖怪は地底に行けません、いや無念! そうですよねぇ紫さ――」
助け舟を求めて、文は紫の方を見上げた。しかし、
「地底から船まで出てくる始末なんだから、不文律なんてもう今更よ」
いつも通りの微笑を口元に浮かべたまま切って捨て、紫はスキマから木の板を取り出す。
「はい、特別通行手形。私の許可があるのだから、地底へは行き放題よ」
「おやおや、いいモンもらったじゃないか。なぁ文! それじゃ、取材頼んだよ。明日には向かうって勇儀には言ってあるから、よろしく」
無理矢理手形を手渡され、文は魂が抜けたかのように湯船に沈んでいった。
お湯の水面から、萃香と紫の笑い声が聞こえてくる。次第にそれは遠のいていき、やがて二人の気配も消えた。
数分沈んでから、文は呪われし湯船から脱出した。早々に浴室も出て、体を拭いて寝巻きに着替え、机に向かう。
適当な紙を取り出して、羽ペンにインクをつけ、さらさらと書をしたためる。その目には、光どころか生気すら宿っていない。
無言で書き終え、無言で立ち上がり、無言で明かりを消し、無言で布団にもぐりこみ、文は死んだように眠りについた。
夜の帳に包まれた部屋、その机に折り畳まれて置かれた書の表には、えらく達筆な文字で、『遺書』と書かれていた。