壱.幾ノ瀬 客室 (元茶の間)
今度こそは妹の報告にあった予約したお客だったと確認出来た。やって来たのは夫婦……というには、いや、何だか新婚旅行でやって来ましたと言わんばかりにLOVEオーラ隠し切れていない、というかむしろ満開で、だが同時に「長年もの間二人で人生を駆けたことが一番の幸せです」とでも語りそうな熟年の夫婦の如き男女だった。
女性の名は遠坂 凛 という。長い黒髪に青い瞳が印象的な、俺としては「美しき赤き炎の女王」とでも例えるべきだろうか。既婚者であることは確認するまでも無さそうだが、実は既に十歳になる子供がいる(⁉)そうだ。俺と妹の目には二十代前半、下手をしたら二十歳になったばかりにしか見えない程若い。若過ぎる。
男性の名は遠坂 士郎 という。彼が遠坂 凛さんの夫だ。元々別の名字だったそうだが、深入りに聞くことはしなかった。赤みの強い短髪が一番印象的で、(妹曰く) かなりの……一部の男前すら裸足で逃げ出すような美形だ。(俺? いや、もしイケメン戦争なるものがあったとしてもまず規約的にリングにすら上がっていないからな……うん、誰かは分からないけど 御免。)
……で、ここまで至極かしこまった(?)説明をして誤魔化していたのだが、
「あぁんぬぁのォにいぃ‼」
頭に両手を当て絶望のポーズをしてまるで取り憑かれかのように憤怒の咆哮を上げ続ける赤き悪魔大公(命名 by妹) と、
「お、落ち着け遠坂! 悪かった! 俺が悪かったからさぁ!」
それを慌てて鎮めんため彼女の理性を呼び戻さんと声をかけ続ける赤い髪の従者。(実質的に現在の状況の一因だが。)
今現在、俺と妹の目の前には先程得たばかりの情報(イマジン)をド華麗にBreakしてスクラップにしていく光景が広がっていた。
「あああああああああああああーーーー‼」
「戻ってきてくれ遠坂ーーーー‼」
「……どうしようこの状況」
〜一時間前〜
この惨状の発端はこの方、遠坂 士郎の一言だった。彼女、遠坂 凛の唐突に始めたとある話に対してかなりの苦労があったんですねえ。と、幾ノ瀬が答えた際に彼が
「……まあ、あの頃に比べればそりゃあまだマシ…」
「ええ、そうよね。ホントによ。全くもってあんなのに」
突然その言葉に反応した彼女は何故か少し俯くと、
「あんなのに。あんなのに。あんなのに、あんなのに、あんなのにあんなのに」
彼は後悔した。彼女、遠坂 凛には触れてはならないものがあることをすっかり忘れて閉まい込んでいてしまったからだ。
「あんなのに!あんなのに!あんなのに‼ あんなのに‼ あぁんなぁのぉにいいぃ‼」
トラウマ兼逆鱗たる心の古傷に触れてしまったらしく、謎の呪詛を最初は呟くように吐露し始め、段々声の声量を上げるとヒートアップして遂には顔を上げて絶叫するように発狂してしまったのだ。
「と、遠坂⁉ 一体どうした⁉ とりあえず落ち着け!何を思い出したんだ⁈」
大方の理由は一部の方々は知っているあの某愉快型迷惑犯(人外)ことなのだが……まあ、仕方のないことなのかもしれない。
〜そして現在〜
「ハァ、はぁっ、くっ……アレは思い出すだけで、もう……」
「……ホントにごめん。アレは俺、忘れてて…」
……とりあえずは落ち着いたらしい。いや、本当にすごいものを見せられた。色々と恐ろしい意味でだったが。
「ええと、も、もういいでしょうか……?」
「あっ……いっ、いえすみませんでした。大変見苦しいところを晒してしまいましたね」
うん、大丈夫だ。しかし、あの時かなりの憎しみを込めて連呼していた“アンナノ”とは一体何のことなのだろうか…?
「発狂した理由は気になるかもしれないが、出来れば詮索をしないで……いや、むしろ忘れてくれ。無理そうだが是非とも忘れてほしい」
さっきは大公様を鎮めるために多大に精神を削ってしまっただろうに、今度はこちらを気遣いしてくれて本当に有難う御座います。
だけども今回のことは次の日忘れられたらむしろ奇跡だと思います。神様の存在を一気に認めるでしょう、ある意味。
……そんなこんなで一騒動あった後、すぐに遠坂さんがこほん、と咳払いすると、
「ではーーー話を戻しましょうか」
一段落したこの部屋に真剣な口調が静かに響いた。
「確か、今回泊まる部屋を一ヶ月程借りたい、ということでしたね?」
さて……と続けるにはかなり離れてしまうが、実はこの二人、今回泊まる部屋を暫く使わせてほしいと俺達兄妹に申し出たのだ。
いきなりな申し出だった故に反射的にお断りしようとしたが、その前に「ああ、忘れてました」と、言わんばかりにこの大きめの卓袱台の上に恐ろしく分厚い札の束を一つ(間違いなく百万はある⁉)、戸惑うことなく置いたのだ。
……その時にあの殺伐とした空間を生み出し、小1時間程どうしようもなかったのは別の話だが、今はもう関係無い。
「料金は何割増しでも払います。どうかお願い出来ませんか?」
俺の経営する民宿は少しばかりの狭さ、風呂は最低限の設備のみ、朝夕の食事は別料金……等、お客様にかなりの制限をかけた上での驚きのお値打ち価格を提供している。
これに乗るかどうかはお客様が決めることだが、だからと言ってここは簡易なホテルではあるが、住み込めるアパートではない。長く泊まるとしてもここでは最高で一週間前後だ。不法占拠とまではいかないだろうが、その願い出は (次が何時来るかは今の所不明だが。) 他のお客に多大な迷惑へと成りかねない。
「……追加でも最高で一週間までです。それ以上は伸ばすことは無理ですので、それは受け取れません」
俺は結局、「否」と答えた。些か目の前の厚い欲望に目が暗んだが、こちらの決定を聞いてもらうしかない。
「そうですか……分かりました。…士郎」
諦めてくれたかと思った矢先、遠坂さんは士郎さんに呼びかけて……ま、まさか、実力行使という名のアレか⁉
……そんな俺の当て外れな思考を余所に、士郎さんは今回のために持ってきたであろうおおきな旅行鞄に手を伸ばし、中身を少しばかり漁るとそこから出て来たのはーーー
「……え? 肉じゃが?」
よく見る角の丸まった四角いパッドに入れられた一見普通の肉じゃがだった。
既に熱は無い冷たい状態だが、何故だろう、無性に食べたくなるような誘惑の色を放っている。
「まあ、まずは食ってみてくれ」
士郎さんは一度食してみるよう促してくるが……さて、どうするか。
(期待はしていないが) 何かしらの援護射撃を頼もうと妹の方に顔を向けると……予想通り、出された肉じゃがよりその後ろの士郎さんに熱い視線を送っている。既に陥落されていた。(自滅とも言う。)
おいバカやめろ。士郎さんが苦笑して困っているだろうが。後、それが関係あるのかは分からないが、何だか彼の隣の遠坂さんがまるで人を殺せそうな眼光をーー俺達にではないようだがーー放たれているから本気でやめろ。
「ああ、なんて素敵なんでしょう……あだっ⁉」
とりあえず、この馬鹿に脳天チョップを食らわせた俺は悪くないはずだ。
「うちの愚妹が本当に済みません。で……いいんですか、これ?」
この後、結果的にはその肉じゃがを食べることとなったが、一口入れた時に俺達の舌に電撃が走った。無論、驚きの意味で。 これがお袋の味って奴か……。
俺はこの交渉に負けはしたが後悔はしなかった。
今回のケースは未対応な部分も見受けられるということで、実行した場合どうなるのかを調べるため、連帯責任による実験ということで話を閉めた。(ちなみに料金に関しては割り増しせずに一ヶ月分、後々まで返金しないという形で決着はついた。)
肉じゃが、美味しかったです。士郎さん、ご馳走様でした。
大変遅れてしまいました。書き溜めを行っていたらこんなに…… それはそれとして、次回こそ「運命の夜」的展開です。お楽しみに。