漢女の拳   作:うみ

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のんびりいきましょ


病犬はこの時代から病犬

 扉から、控えめなノックが聞こえた。

 部屋の主である禿頭の黒人男性ラモス・マリンドは、ペンを走らせていた手を止め、扉を見やる。

 秘書のものとも、この部屋への立ち入りを許している職員のものとも違うノックだ。もう少し遠慮と親しみが混じったノックだ。

 はて、と首をかしげる。

 

「入っていいですかー?」

 

 悩んでいると、相手はしびれをきらしたのか、言葉を発した。

鈴のような、雀のような、綺麗で可愛い声が聞こえた。

 心当たりのある声に少し驚きながらも、マリンドは笑顔になる。

 

「どうぞ」

「はーい、失礼します」

 

 部屋に立ち入ってきたのは案の定カタリナだった。

マリンドは穏やかな笑顔で、五年ぶりの再会であるというのに何事もなかったかのように入ってきたカタリナを見つめる。

 久しぶりに会ったマリンドに対して、カタリナもまた笑顔をこぼした。そのまま来客用ソファに音もなく座り込み、足を組む。

 

「お久しぶりですマリンドさん。報酬はスイス銀行の口座にお願いします」

「すい……? すまないが、知らない名前だ。詳しく教えてはもらえないか?」

「あ、いえ、いつもの口座で、はい。なんかすいません」

「……たまに、君がなにを言っているのかわからなくなるな」

 

 カタリナは顔を若干赤らめて背もたれに沈み込んだ。ソファは来客用だけあって柔らかい作りのものが使われている。体がぐっと沈み込み、顔が少し上を向く。ネタ通じるわけないよなーと呟きながら恥じらう姿は、老境に入りつつあり、なおかつ何度もカタリナと会ったことがあるマリンドであっても生唾を飲み込んでしまいそうになるほど胸を締め付けるものだ。

 

(やあれ、やれ……)

 

 ヨハンバーグの市長であるラモス・マリンドは、眼前の少女を見て去来する思いを存分に噛み締めていた。

 祖父のような年齢であることからの庇護欲と、純粋な男性としての独占欲が入り混じった、不思議な感情に振り回される。カタリナと会うたびに、それはいつもやってきた。

 マリンドの年齢は六十を越している。性欲が枯れてきているのはもちろん、そもそも身体が衰えている。こうしていて目の前の女体を抱きたいとも思わない。いまの距離が自分たちにとって一番気楽で、しかも相応しいということはわかっている。

しかし、この女性が自分のものであればという想像が頭をよぎってしまうのもまた、確かなことだ。

 

「しかし、君と会うのは久しぶりだな。いくつになった?」

「今年で二十一ですね。前に会ったときは十九でした」

「そうか、まだ二十一か」

 

 やれやれと首を振る。それだけ若いと聞いても、頭から複雑な想いが霧散することはなかった。

 そんな市長のことなど露知らず、カタリナは我が家にいるかのように寛いでいた。普段はシニヨンにして纏めている髪は、一切の束縛から解放されて無造作に流れている。直立していれば尻のあたりまでくらいの長さだ。この長髪はカタリナが最も信頼する親友からのリクエストで伸ばしているらしく、切りたい切りたいとぼやきながらため息をつく場面を、マリンドは幾度となく目撃していた。

 ロクでもない思考から気持ちを逸らす意味もあって、マリンドは問題の部分を指差す。

 

「……髪の毛が後ろにはみ出ているよ」

 

 カタリナの髪は、ソファの後ろの床に接していた。もたれているせいで接地している髪の量が増え、背もたれの影からはみだしていたので、マリンドにも視認できたのだ。

 無論、市長室の床に埃があろうはずはない。しかしそれとこれとは話が別である。

 女性としての常識と、一般的な良識から、それを指摘しないわけにはいかなかった。

 

「ああ、これは失礼を」

 

 肝心の当人はというと、どうってこともないという態度で、煩わしげに髪を持ち上げてソファに乗せる。一端の淑女が見れば卒倒せんばかりの光景だ。

 この色気もなにもない行為を目にしたマリンドは、思春期の少年のような気持ちを抱いていたことがなにやら馬鹿らしくなって、さらに大きなため息をついた。

 

「もう少し見た目に気を使い給えよ。いくら男だと言い張ったところで、見た目は美女だというのに」

「善処させていただきます」

「君は政治家かね? ハンターがそんな言葉を使っては、信用を失うぞ」

「前向きに検討いたします」

 

 素知らぬ顔で視線をあらぬ方向へと向けるカタリナは、しまいに口笛でも吹き出しかねない空気を出している。ソファでなく普通の四脚椅子であれば、後ろ二本だけで立ち、ぷらぷらと足を揺らしていたことだろう。不真面目を絵に描いたと言っても過言ではない態度である。

 

(まるでマナーがなっていない孫を叱っているようだな)

 

 内心呟いたマリンドは、先程までは自分こそが思春期の少年のようだったくせに、と自嘲を込めた苦笑いを漏らした。

 思春期から大人へと成っても、変わらぬ心のままであり続けるカタリナへの安堵も含んでいた。

 

「もういい、わかった。好きにしなさい」

「あ、ついでに敬語もなくていいですか?」

「いつもはじっちゃんと呼んでいるくせに、なにをいまさら」

「こりゃあまたまた失礼をばいたしました。あっはは!」

 

 カタリナは片目をつぶり、いたずらっぽく笑う。

 マリンドとカタリナはビジネスパートナーであり、資本家と労働者であり、同時に祖父と孫に酷似した関係でもある。堅苦しいのは最初だけで、すぐに気安い会話となっていくのもいつものことだ。

 マリンドは足を組み、気楽な態度で口を開く。

 

「助かったよ、カタ。なにせこんな世の中で、こんな都市だ。警察が当てにならないのさ。当の市長が言うべきセリフではなかろうがね……」

「世はまさに世紀末、ってぇやつだね。ああ、まあとにかく、市長さんも大変だね、じっちゃん」

「世紀末とは独特な言い回しだね。だが的を射ている」

 

 そこで再びノックが響く。扉を開けて入ってきたのは、紅茶を持った職員である。

 運ばれてきた紅茶をすするマリンド、息を吹きかけて冷ますカタリナ。二人の会話が、一時的に途切れる。

 マリンドとカタリナは、ほうと息を吐き出す音が重なったので、顔を見合わせてクスリと笑った。

 互いにとって、かけがえのない大切な日常のひとコマ。

 

 マリンドがここまで心を許せる相手というのも、実はそうそういない。

 腐敗と暴力が跋扈し、支配すらも行き届かないこの都市では、市長という公職にありながらも他人に心を許すという芸当は非常に難しい。

 

 男は信用できない。富と権力を求めて腐るから。

 女は信用できない。市長である自分の醜聞を見つけ出そうと必死だから。

 友人は信用できない。友人を呼び出そうものなら、蜂の巣にされてしまうか誘拐されるかだ。彼らには自衛できるだけの力がない。彼らの情はありがたくとも、その安全を信じきれない。

 

 カタリナは信用できる。

 女の体でありながら、男の心を持ち。

 アマチュアハンターでありながら、心源流師範にしてハンター協会会長、アイザック・ネテロ氏のお墨付きをもらうほどに念能力に長け。

 念なしの格闘戦でも、天空闘技場の二百階を何度か勝ち進めるほどの実力者で。

 おまけに、マリンドがヘタを打ってマフィアに殺されかけた八年前、命を救われてからの付き合いだ。

 そんな二人は、極めて強固な絆で結ばれている。本物の家族とまではいかず、またギブアンドテイクの原則はもちろん守るが、互いの身に危険が迫っているならば損得抜きで動くことも辞さない程度の仲ではある。

 だからこそこうして、警察にもできない危険な仕事を任せることができる。

 

 ただし、それはあくまで事実だけを連ねているにすぎない。

 マリンドとて男であり、またカタリナを孫のように可愛く思っている老人でもある。カタリナのような、中身はともかく見かけや体はうら若き女性にすぎない友人に汚れ仕事や危険な任務を任せるのは、決して納得いくことではない。

 

「いつもすまない。君に頼りきりとは、我ながら情けないと思う。しかし――」

「いいよ、別に」

 

 なんてことない頼みさ、そう続けたカタリナはようやく紅茶に口を付け、美味い美味いと笑みを見せた。

残りが半分ほどになった紅茶のカップを置き、マリンドと視線を合わせて肩をすくめる。

 

「マフィア相手ならヨハンバーグの警察じゃ手に負えないのはわかりきってる。それに、ボクを知ってるじっちゃんが、これならおそらく大丈夫だと、そう思った案件だろ? ただし、今回のイレギュラー……コジロウについては割増料金で夜露死苦ぅ!」

「ああ、そうだね?」

「……また自爆」

 

 よろしくの発音が微妙に違うのでマリンドは首をかしげ、対するカタリナはまたも顔を赤らめた後、両手で顔を覆って俯いてしまう。

 マリンドにも、カタリナの意味不明な発言の数々がなにかしらのジョークらしいことは理解できている。それを切って捨てるようなつもりもない。ただ、そもそもジョークとしての面白さがどのあたりにあるのかがわからない。結果、つい反応に困ってしまうのだ。

 

カタリナ・スミスの欠点その一――ジョークのセンスなし。

 

「しかしフーマの一族がマフィアに身を崩すとは。まあ、返り討ちにしてしまう君も君だというべきか」

「じっちゃん、知ってるの?」

 

 話に食いついたカタリナの顔から羞恥の色が消えているのを見て、マリンドは内心ガッツポーズを決める。外側はそれらしく頷きつつ淀みなく話を続けていた。

 

「ジャポンにある暗殺者一族のひとつだ。イガ、コウガ、フーマ……これらの一族は人目に触れない隠れ里で生まれ、一部の子供達が暗殺や諜報のプロフェッショナルとして育てられるらしい」

「ふむふむ」

 

 カタリナは頷きながらマリンドを見つめる。

 マリンドは紅茶をまた一口飲み、味わいながら嚥下する。

 穏やかな沈黙が場に満ちた。

 そして十数秒後、カタリナはため息をついた。

 

「それだけ? こういうときは、もうちょっと核心に迫る情報がある感じだと思うんだけど……」

「おいおい、私は一介の市長にすぎない。裏社会につきものの噂話程度ならまだしも、秘されている事柄までは知りようがないさ。詳しくはハンター協会で情報を求めたほうがいいだろう。そうだ、たしかイックションペと知り合いではなかったかな?」

「あいつやだ。レアドロップせびってくるから。課金アイテムじゃないあたりゲーマーの誇りがあるのかもだけど、ね」

「レアドロップ、課金……ああわかった、またネットゲームか」

「あの引きこもり、自分の能力でハッキングすれば簡単にレアドロップ量産できるくせにさあ。めんどくさいとこでゲーマー根性据わってるんだよ」

 

 そこで、少しずつ飲んでいたマリンドの紅茶が空っぽになる。

 それを見たからか、カタリナも合わせるようにぐいと飲み干す。

 それが互のあいだで無言の合図となった。

 

「さて、報告に移ろう」

 

 マリンドは組んでいた足を戻し、雇用主であるヨハンバーグ市長、ラモス・マリンドとしての態度で、労働者の立場にあるアマチュアハンター、カタリナ・スミスと対面する。

 流石に、カタリナの背筋も伸びた。

 そのカタリナのところへ、バインダーに留めた数枚の書類を投げてよこす。そこには昨晩の顛末から経費までが細かく記載してあった。

 

「私の知り得る全ての記録から、昨夜の事件の痕跡は完全に消した。警察には君が作った死体に対して目を瞑るよう働きかけたし、マフィアに買収された汚職警官が粗探しを始めようものなら組織の膿を一網打尽にする心積もりでいる。実際、夜が明けるまでに一人、そこから現在――正午近くになるまでに三人の裏切り者の尻尾を掴むことに成功している。関連したマフィアの組織も強制捜査が入ったし、反抗したところはひとつだけあったが、警察隊が叩き潰した」

「へぇ。そいつは結構、よかったね」

「ところがだ、少々困ったことになった」

 

 最後に、あえて渋面を表に出した。どれだけの厄介事なのか、この顔を見れば推し量ってくれるだろうと考えてのことだ。

その信頼は正しい。カタリナもまた、眉根を寄せた。

 

「簡潔に、言ってしまうとだね……」

 

つい言いよどむ。

 マリンドとしては、市長たる自分が、女性の入口に足を踏み入れたばかりのカタリナにどれほど怒鳴られることやら、と頭が痛いのである。

 さりとて、言わないことには終わらない。

 

「抵抗して叩き潰された……まあ、大体の組員を射殺したという意味なんだがね。十老頭の関連組織だったんだ。もちろん、そこの組はボスから末端の構成員まで残らず抵抗し、ほとんどが死亡している」

「え゛ぇーッ!?」

 

 まず最初。

 鈴の音が、驚くあまりひび割れた。

 そして次。

 雀の声が、喉も枯れよと叫びだす。

 

「この……大馬鹿野郎!」

 

 マリンドは、友人の怒声に困りつつ肩をすくめた。

 そして思わず、しかし絶対に聞こえないよう注意を払った声量で、ぼそりと呟く。

 

「やっぱりね」

 

 

 

 

 

「十老頭に手を出すなんて、ホントに気でも触れたのか!」

 

 カタリナの顔は真剣だ。その内心は荒れ狂っている。

 十老頭の手先に、ヨハンバーグ市長であるマリンドが罪を問い、それを殺害する。これはつまり、全大陸を股にかけた巨大マフィアンコミュニティーと敵対するということだ。

 カタリナとて、決して悪を看過する性格ではない。しかしながら必要悪というものは認めているし、十老頭がそれであることも理解している。水清くして不魚住という諺の通りである。

 そして、その必要悪を排除するためには、そこいらの小国を超える力がなければ、たとえ命を懸けようとも届きはしないことも知っている。

 それはカタリナに限らず、マリンドも十二分にわかっているはずだった。

 だから驚きと怒りは大きい。

 

「まあ落ち着いて。老人に、君の叫びは堪えるよ。まず」

「まずもヘチマもへったくれもあるかッ! 危機感が足りなさすぎじゃい! そもそもなんで手ぇ出した!? そういう手合いは放っておくのが常識だ!」

「わかっているとも! だがまず最初に! 君に頼みたいことがあるのだ! それは――」

 

 そこで外から秘書が扉を叩く。

何事かと問う声が聞こえたことで、二人は口をつぐんだ。ややあってから、マリンドが問題はないと返して他者の介入を防ぐ。

 距離の近さゆえに、すぐに怒鳴り合いへと発展してしまう。これは二人の間柄を考察する上で見過ごせない欠点といえる。冷静さを保ち続けるのが難しいのは、ハンターとしても市長としても致命傷である。

 マリンドは深呼吸して、吐息と共に言葉を紡ぐ。

 

「……私とて、まだ死にたくはない。さりとて、死んだものは生き返らん。だから取引だ」

「取引ぃ?」

 

 カタリナは己の耳が腐り落ちたのかと、一瞬だが真剣に疑った。

 構わず話が続いていたので、口は挟まない。

 

「まず前提から話をするとだ。ここヨハンバーグには十老頭の力が及んでいない。それは彼らにとって気に入らないことだったろうね。だから今回の事件を起こさせた」

「……よくわからんけど、ハメられたと言いたいのは理解した」

「そういうことだ。組織の幹部連中が悠長に踏みとどまるばかりでなく、銃を乱射して突貫してきたと聞けば怪しみもしたくなる。しかも、上層部に繋がる証拠は全て抹消されていたしな。あの組織はトカゲの尻尾切りと戦端を開く口実、そのふたつを兼ねた生贄だったわけだ」

「なるほどねえ。となると、次に奴らが打ってくる手は――ッ!?」

 

 言いかけたカタリナは、お馴染みの感覚が頭に突き刺さると同時に全速力でマリンドの懐へと飛び込んだ。

 左腕一本で成人男性の体を造作もなく抱えると、扉へと転進。

 その瞬間、窓を突き破って飛び込む影がひとつ。

 黒い服を来た痩身の男の顎門が、二人に迫る。

 

(回避難、受け不可、反撃至難、逃走、軽傷仕方なし!)

 

 足に全てのオーラをかき集め、全力で床を蹴り、できる限り体勢を低くする。

 そして避けきれないであろう攻撃は、体を沈みこませた反動で長髪を叩きつけてかく乱しつつ、片腕を差し出す覚悟を決める。

 

「ぐぅっ!」

「待てやクソアマァーーーーッ!」

 

 左上腕を横三センチ、縦五ミリほど食い破られるという傷を負いながらも、カタリナはひとまずの逃走に成功した。最初の加速を失った男が着地して再加速するまでの間に、カタリナは部屋を出て廊下を走り抜け、外付けの非常階段入口にたどり着いていた。背中にぶつかる怒声からして、執拗な追跡が始まることを予想する。

 

「おいカ」

「黙れッ!」

 

 無駄話も説明も後回し。

 ドアノブを掴み、僅かな抵抗を無視して回しきる。

 ねじ切れたドアノブが地面に落ちたとき、カタリナは扉を蹴り開けて次の行動を取っていた。

 必要なオーラを必要な箇所にコンマ数秒で集中させ、着地点とそこに至るまでのルートを構築する。

 状況が理解できずに混乱していたマリンドだが、手すりに足をかけたカタリナの姿に次の行動を察したらしい。顔色が青くなる。

 

「目を瞑れ!」

「待――」

 

 マリンドの制止を無視して、手すりを踏み台にして跳んだ。カタリナとマリンドは重力の虜となり、みるみるうちに地上へと近づいていく。

 無論、カタリナにはミンチへの願望などない。第一、カタリナはともかくマリンドは着地の衝撃に耐えられない。周の要領でマリンドを覆えばその問題は解決するが、念を習得していない人間、しかも六十代ともなれば少なからぬショックが肉体を襲うことは確実だった。冒すには大きすぎるリスクである。

 カタリナが目的としていたのは、市庁舎十階の外壁に引っ付いていた、窓ふき用の足場である。

 手すりから足場までの距離、横幅にして十二メートル。それはカタリナからすれば、人ひとり抱えていることを考えても容易な距離。

 ダンクシュートを決めるような形で足場に掴まり、その勢いで窓ガラスを突き破って侵入を果たす。

 抱えていたマリンドを一旦下ろして自分が跳んだ非常階段を見上げれば、こちらを見る男と目が合う。

 数秒ほどにらみ合いが続いたものの、男は悔しげな様子で非常階段を飛び降りた。あちらは時々手すりに接触して巧みに減速しつつ、普通に降りるよりも確実に速く非常階段を進む。

 カタリナは舌打ちして身を翻す。

 

「迂闊に跳んでくれば空中で汚い花火にしてやったのにぃ! 雑魚っぽいくせに流石は陰獣だよまったくもう! 行くぞマリンド!」

 

 この位置ならば、まだこちらに分がある。地上に降りてしまえば向こうには知られていない隠れ家に逃げることなど容易である。市庁舎をそのまま利用して地下シェルターに逃げてもいい。

 ただし、相手が十老頭であることを考えれば――

 

市庁舎(ここ)は捨てる! いまは雌伏の時ってやつだよ!」

 

 傷の痛みもあってイライラと怒鳴り散らしながら、マリンドを担いだカタリナはエレベーターの停止している階を確認すると扉をぶち破り、シャフトをロープ伝いにするりと降りる。

 二階に止まっているエレベーターに着地し、天井を開けて内部に入り込む。そこで初めてマリンドが気絶してしまっていることに気づいた。

 しかし、わざわざ起こすよりはこちらのほうが良いとも言えた。二階から窓を使って地上に降り立ったカタリナは近場のマンホールをこじ開けてするりと身を隠し、蓋をした。

 先日の任務で下水道の構造は頭に叩きこんである。もしもの時には隠れ家に逃げ延びることができるようにである。

 破傷風にならないように祈りつつ、絶をしながら隠れ家への道を進む。鼻が曲がりそうだ、呟きながらカタリナは機嫌の悪さをごまかすために目を細めた。

 ただし。下水道の臭いを嗅ぐことなく、しかも勝手に気絶しているマリンドを恨めしく思って、ひとつだけ決意する。

 

(これからしばらくヒモ野郎って呼ぼ……あれ?)

 

 視界が揺れる。

 呼吸が乱れる。

 膝が震える。

 脳裏に、痩せ男――病犬に噛み付かれた傷が蘇った。

 

「あ……え、あ……」

 

 呂律が回らない。

 世界が回る。

 感覚が消失する。

 いつの間にか倒れていた。地面と接しているはずの頬はなにも感じない。

 落としてしまったマリンドが首を振りながら立ち上がり、こちらに駆け寄ってくるのはなんとか認識できた。

 

「あい……うぁ、ぃ、んろ……」

 

 マリンド、と呼んだつもりだったが、口から出たのは意味のない唸り。

 逃げろと言うはずが、意識までぼんやりと薄れていく。

 ぐるぐる。ぐるぐる。

 色が混ざる。はじけて混ざる。歪んで混ざって溶けていく。

 病犬の名を存分に味わいながら、カタリナの意識は落ちた。

 

 

 


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