遊戯王GX―とあるデュエリストたちの日々―   作:masamune

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第三十五話 〝I tell you what〟

 

 

 個人で事務所に呼び出された時点で、何かしらの話があるとは予測していた。そしてそれが、あまり良い話ではないということも。

 

「……アイドル、ですか?」

「……うむ」

 

 チームのオーナーが告げた言葉に対し、怪訝な表情をしながら返答した。普段なら猫を被るところだが、疲れもあってそんな余裕はない。

 そもそも、プロになることは手段の一つでしかない。それが達成された今、モチベーションが上がらないというのが現実だった。

 

「キミはルックスもいいし、ジュニア大会のインタビューを見る限りでは華もある。どうかね?」

「どうかね、って……プロ契約の話ですよね?」

「無論、キミには我がチームの戦力としても働いてもらう。だが、キミはジュニアチャンプとはいえ新人だ。すぐに活躍できるというわけではなかろう?」

 

 その言い草に、頭に血が昇りかけた。相手が誰であろうと、そう容易く後れを取るつもりはない。

 だが、自分は雇われる側なのだ。そう言い聞かせ、絞り出すような声でそうですね、と頷く。

 

「そこで、だ。キミをアイドルプロとして売り出したい。どうだろうか?」

「……つまり、客寄せパンダになれ、ゆーことですか?」

「理解が早くて助かる。経営も順調とは言い難くてね。特に我が横浜は最近低迷していることもあって客足が遠のいている。何か対策を講じなければならない」

「それが、アイドルですか」

「球場で会えるアイドル、ということだ。ただでさえキミは最年少プロとしても注目されている。どうだろうか?」

 

 問いかけ。それに対し。

 

「……考えさせて、ください」

 

 小さな声で、そうとだけ答えた。相手も、わかった、と頷く。

 

「だが、できるだけ早く返答が欲しい。キミのデビュー戦は二週間後だ。それまでに、な」

 

 

 …………。

 ……………………。

 ………………………………。

 

 

 目を覚ますと、全身を濡らす汗の不快な感触を感じた。思わず顔をしかめつつ、体を起こす。

 周囲を見れば、六畳一間の小さな部屋が広がるだけだ。元々大してすることもない身だ。このボロいアパートの一室だけで、生活は十分できる。

 

「……うー……」

 

 汗で張り付いた髪を掻き上げながら、時計を見る。今日は、予定が――

 

「…………嘘」

 

 現在の時刻は、正午。

 予定の待ち合わせの時間は、午前十時。

 

「嘘やろぉぉぉぉぉッッッ!?」

 

 飛び起き、シャワールームに駆け込む。急がなければ。いくら最近寝つきが悪いとはいえ、今日の様な日を寝過ごすとは思わなかった。

 急いでシャワーを浴び、服を着替える。折角髪形をセットしようと思っても、時間はない。

 慌てて部屋を出る。太陽はすでに昇り切っていた。

 

「急がな! タクシー!」

 

 自分の部屋は二階だ。そのため、外の階段を降りなければならないのだが――

 

「あうっ!?」

 

 思い切り躓き、転げ落ちてしまう。

 ……最悪だ、と思った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 随分と天気のいい日だ。そのためか、道行く人たちの数も多い。

 親子連れもいれば友人同士で連れ立っている者たちもおり、賑わいを見せている。

 

「……美咲、遅いなぁ……」

 

 駅前にある広場に設置された時計を見ながら、夢神祇園は呟いた。先日、プロ入りを決めた親友――桐生美咲に誘われて買い物に出てきているのだが、待ち人は未だに到着していない。

 

(二時間……でも、美咲も疲れてたみたいだし……)

 

 通常、プロチームへの入団はドラフトによって行われる。だが、〝史上最年少プロデュエリスト〟とすでに騒がれ始めている美咲はプロテストによる入団だ。また、ジュニア大会出の彼女の活躍に注目した各社がスポンサー契約を交わそうと連日訪問してきているという話もあり、疲れが溜まっているように見えた。

 来年度から中学生となる身分。しかし、彼女は温い生活を捨て、プロの世界に踏み込んだ。

 ――〝待ってる〟。

 そんな、小さな約束を自分などと交わしながら。

 

(……凄いなぁ……)

 

 改めて思う。憧れる、プロの世界。そこに踏み込める勇気と、同時にそれができるだけの力を持つ親友に。

 あまりにも遠いその背を、眺めることしかできない自分が……少し、惨めに思える程で。

 

 

「すまん、待ったか!?」

「遅い! 何してたのよ!」

「いや、悪い。お詫びに何か奢るから――」

 

 

 横手から聞こえてきた声に、思わず体が反応してしまう。今日何度目だろうか。自分と同じように誰かを待っている人が、笑顔で待ち人と合流する姿を見るのは。

 

「……飲み物でも、買おうかな」

 

 思わず声に出してそんなことを言ってしまう。最近どうも寝不足だ。いい加減、慣れなければならないと思うのだが……。

 

「あうっ!?」

 

 不意に、誰かとぶつかった。いきなりのことに体勢が崩れ、思わず尻餅をついてしまう。同時に、バッグからカードが散乱してしまった。

 

「す、すみません」

「Я сожалею」

 

 慌てて拾おうとすると、聞き覚えのない言葉が返って来た。思わず顔を上げると、そこにいたのは綺麗な白――いや、艶のあるそれは銀色にも見える髪をした女性だった。

 

「Ah,English ok?」

 

 正直英語でもわからない。思わず首を左右に振ると、相手は少し困った顔をしながらもカードを拾うのを手伝ってくれた。

 もともとカード自体は多くない。そのため、集めるのに時間はかからなかった。

 礼を言おうと顔を上げると、何やらその女性は一枚のカードに真剣なまなざしを向けていた。

 

(どうしたんだろう……?)

 

 どうしていいかわからず困惑する。すると相手はそんな自分に気付いたのか、カードをこちらへと渡してくれた。

 

「Это - хорошая карточка.」

 

 再び、聞き覚えのない言葉。思わず首を傾げてしまうと、相手はSoryy、と小さく告げて立ち去ってしまった。

 綺麗な人だな、などと思いながらカードを確認する。その中で。

 

「……あの人、何でこのカードを……?」

 

 正直な話、美咲から貰ったカードの中には高価なものもいくつかある。それで人目を引くことはあるが、あの女性が注目したのはそれらのカードではなかった。

 

「珍しいカードじゃないのに……」

 

 金髪の魔術師が描かれたカードを眺め、思わず呟く。だが、一度息を吐くと、そのカードもケースにしまった。

 ……待ち人は、まだ来ない。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 普段なら節約という意味でタクシーなど使わないが、今日は別だ。

 

「おっちゃんおおきに! お釣りはいらんからとっといて!」

「ちょっ、お嬢ちゃん!? 一万円なんて――」

 

 背後から何か聞こえる気がするが、無視だ。そんな余裕はない。

 すでに待ち合わせの時間から三時間は過ぎている。これ以上待たせるわけにはいかない。

 

(今日ほど自分のミスを恨むこともあらへんな……!)

 

 本当に最悪だ。楽しみにしていたというのに。

 必死に走る。周囲の視線を感じるが、気にしている余裕はない。

 

「……ッ、はっ……、はっ……、ぎ、祇園……?」

 

 周囲に視線を送る。こちらへ視線を向けてくる者は何人もいるが、その中に祇園の姿はない。

 

「…………ッ、そら、そう……やん、な……」

 

 荒い息を吐きながら、呟く。三時間だ。普通は約束をすっぽかされたと思う。

 

「…………ッ、ウチの……馬鹿………………」

 

 汗で髪のセットは乱れているし、服だって昨日考えた分が無駄になった。

 本当に、何をしているのだろうか――

 

 

「あ、美咲」

 

 

 ――だから、その言葉が聞こえた瞬間。

 本当に……泣きそうになった。

 

「……祇園……?」

「ごめんね。ちょっと飲み物を……って、汗が凄いよ? ちょっと待って、今タオルを……」

 

 鞄から小さなタオルを取り出す祇園。そのまま彼は、そのタオルを自分に被せてきた。

 

「大丈夫? あ、良かったらこの水飲む? 走って来てくれたみたいだし――」

「……なんで?」

 

 思わず、問いかけていた。顔を見ることができない。

 怒っているはずだ――そんな考えが、顔を上げさせてくれない。

 

「なんで、怒らへんの……?」

「……来てくれたから。なら、いいかな、って」

 

 優しく、こちらの頭をタオルで拭いてくれる。これでまたセットが乱れるが、気にはならない。

 ただ、今は。

 

「……ごめん」

「うん」

「ごめんな、本当、ごめん」

「うん」

「…………ごめ……」

 

 そのまま、感情が溢れてしまった。

 申し訳なくて、情けなくて。

 ただ、ただ溢れ出して――……

 

 ……嬉しかったのは。

 ずっと、何も言わず彼が側にいてくれたこと。

 それが――嬉しかった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 予定とは随分変わってしまったが、特にトラブルもなく買い物を終えることはできた。やはり買い物は気分がいい。隣に誰かがいるとなると尚更だ。

 

「祇園、やっぱりウチも持とうか?」

「ううん、良いよ。これぐらいなら平気だから」

 

 振り返りつつ問いかけると、そんな返答が返ってきた。両手に紙袋を下げた少年は、微笑を浮かべている。

 ここで食い下がっても意味はない。存外、頑固なのが祇園だ。

 

「ん、おおきに」

 

 だから、礼を言う。祇園はうん、と頷いてくれた。

 祇園の前を歩く。予定では映画でも見に行こうという約束だったが、寝坊してしまったせいでそれもできなくなった。本当に、失敗だ。

 

(……プロになったら、あんまり会えんくなるやろしなぁ……)

 

 既に入団が決まっているプロチーム『横浜スプラッシャーズ』。入ってしまえばシーズン中は勿論、オフシーズンでも各大会などに出場するため自由な時間は大幅に減るだろう。自分で選んだこととはいえ、やはり面倒だとか辛いだとか思う部分はある。

 更に言えば、KC社とI²社がスポンサーになろうと申し出てくれていることもある。そうなると、迂闊なことはできない。義務教育を受けている年齢であっても、社会的責任というものがある。

 そして、何より――

 

「……〝アイドル〟、かぁ……」

 

 思わずため息が漏れてしまう。人前に立つことは別に嫌いではない。だが、積極的に立とうとも思わないのだ。

 恩師であり恩人である人には、「お前には華がある」と言われたが……あの人は基本的に人を貶すようなことを言わないので、どうせお世辞だと思う。

 

「どうしたの?」

 

 答えの出ない迷い。それに気づかれたのか、背後から祇園がそう問いかけてきた。うん、と頷きを返す。

 

「何でもないよー。……あ、公園や。ちょっと休憩しよう?」

「僕は大丈夫だよ?」

「まあまあ。ちょうどええベンチもあるし」

 

 誤魔化すようにそう言って、祇園の手を引く。祇園は戸惑った表情を浮かべたが、頷いてくれた。

 ……その戸惑いを好意的に受け止めることぐらいは許されるだろうかと、ふと考える。

 

(まあ、考えても仕方あらへん)

 

 祇園は人の機微に聡い。とにかく他人の感情の変化には敏感だ。そして同時に、他者との距離感も絶妙な印象を受ける。

 それは彼の育った環境がそうさせるのだろうし、逆にそれができなければ上手く生きていけないのだろう。

 だが……その性格は、12、3の少年にしてはあまりにも大人び過ぎている。

 子供というのは『異端』というものに敏感だ。祇園の感覚はその年齢の子供が持っているものとはかけ離れており、同時に理解できないモノでもある。

 だからこそ、彼はどうしても一人になってしまう。

 距離が取れてしまい、そしてそれを受け入れてしまうから……夢神祇園は、一人でいることが多いのだ。

 

(他人の悪意には敏感なくせに、好意には恐ろしく鈍感やし。……まあ、多分防衛本能みたいなもんなんやろうけど)

 

 他人から向けられる好意に、祇園は怯えているように感じる。差し出された手を掴めばいいのに、それができない。自己評価の低さと、他人に対して距離をとれてしまうからこそ、素直に好意を受け入れられないのだろう。

 まあ、そんな彼だからこそ、隣にいてこれほどまでに心地良いのだろうが。

 

「今日はごめんな、寝坊して……」

「それはさっきも言ったでしょ? 気にしないで、って。美咲は忙しいんだから、しょうがないよ」

「……うん」

 

 祇園の言葉と口調からは、こちらを責める雰囲気は微塵もない。本当に人が良い。

 ベンチに座り、空を見上げる。快晴とは言い難い空だ。だが、雨が降りそうというわけでもない。ただ、曇っているだけ。

 まるで自分の心のよう――らしくもなく、そんなことを思った時。

 

「何か、悩んでる?」

 

 不意に、祇園がそんなことを言い出した。その言葉に対し、咄嗟に誤魔化す言葉を紡ごうとして……できない自分がいることに気付く。

 祇園の目を見る。そこに映っているのはこちらを案じる感情だけ。

 ……だから、だろうか。

 言わないと決めていたその言葉を、紡いでしまったのは。

 

「……ちょっと、な。ほら、ウチ、プロになるやろ?」

「うん。デビュー戦は二週間後だよね? オープン戦のチケットを美咲がくれたし……」

「まあ、それはええんよ。ただまぁ、ウチって色物やろ? 最年少プロ、とか。ジュニア大会優勝者、とか」

 

 それは自覚していることだ。話題性――そういう意味で、今年度の新人に自分以上の者はいないと思っている。

 その辺は自分も利用しているのでどうでもいい。むしろ、そういう話題がなければプロ入団などできているはずがないのだ。

 

「そんなことないと思うけど……」

「まあ、それはええんよ。実力で黙らせたらええだけやから。……でもな、チームはどうもウチの売り出し方について色々考えてるみたいで」

 

 ため息が漏れる。『客寄せパンダ』という言葉を創ったのは誰だったか。全く上手いことを言うものだ。

 今の自分が提案されていることは、まさしく『客寄せパンダ』になれということなのだ。

 

「売り出し方?」

「うん。――〝アイドルになれ〟、って」

 

 祇園が驚いた表情をした。当たり前だ。〝アイドル〟――これほど定義が不明確な存在もない。

 

「まあ、要するに話題性や。歌って踊れてデュエルもできる新人プロ――ウチの実力が足らんくても、それで採算を合わせるつもりなんやろうな。笑えるやろ? ウチなんかにアイドルやで?」

 

 あはは、と笑いながら言う。本当に滑稽な話だ。特にそういう訓練を受けたわけでもないド素人にアイドルになれというのだから。

 歌は好きだ。だがそれは胸の奥に秘めているだけのモノであり、決して他人に対して誇れるようなものではない。

 笑ってくれればいい。祇園は一度だけ、自分の歌を聞いたことがある。彼が笑い飛ばしてくれれば、それで――

 

「そう、かな。美咲なら……大丈夫だと思うけど」

 

 だが、彼の言葉は予測から大きく外れたものだった。思わず、えっ、と言葉を漏らしてしまう。

 

「な、何を言うとるん? こんなん無茶やん。ウチ、歌も踊りも何もかも素人やで?」

「でも、美咲の歌、凄く良かったよ?」

「……お世辞は止めてや。あんなん素人の――」

「――お世辞じゃないよ」

 

 こちらの言葉を遮るように、彼は言った。

 

「お世辞じゃない」

 

 真っ直ぐにこちらを見つめ、祇園は言う。思わず、うっ、という呻き声が漏れてしまった。

 

「で、でも、素人なんは事実やで? できるわけないやん」

「そうかなぁ……。美咲は可愛いから、できると思うけど」

「可愛いって……そう言ってくれんのは嬉しいけど、やっぱり無理やよ。できるわけない」

 

 誤魔化すように首を振る。顔が熱い。『可愛い』など、いきなり言われてこれほど困る言葉もないのだ。

 

「でも、美咲が嫌なら仕方ないとは思うよ」

「……嫌、っていうわけやないんよ。ただな、ウチが歌って喜んでくれる人がいるんかどうか、っていう話や。自己満足に意味はあらへん」

 

 そう、自己満足に意味はない。アイドルともなれば、相応の力を要求される。

 その力は自分にはない。人に聞かせるだけのものも、想いもない。

 

「僕は喜ぶけどな。美咲が歌ってくれるなら」

「……だから、お世辞はええって」

「ホントにお世辞じゃないんだけどな……。美咲、一度だけ聞かせてくれたけど、それ以来歌ってくれてないし。聞けるなら聞きたいっていうのは本心だよ?」

「じゃあ、歌おか?」

 

 試すように問いかける。まだ日が昇っている時間ということもあり、それなりに公園内に人はいる。祇園も驚いた表情を浮かべた。

 

「人が多いよ?」

「聞きたいんやろ? だったら歌うよ、どう?」

 

 立ち上がり、首を傾げて問いかける。どうせお世辞だ。こういう聞き方をすれば断ってくれるはず。

 だが、祇園の答えは予想から大きく外れたもので。

 

「……じゃあ、お願い」

 

 微笑と共に、彼はそう言った。思わずため息が漏れる。

 

「祇園がこんな、人に羞恥プレイを要求する人やったなんて……」

「ええっ?」

「まあ、ええよ。一度歌えばわかるはずや」

 

 本当にどうかしている。こんなところで歌う自分は。

 けれど……これでわかるはずだ。

 憧れは、憧れのままで。

 ただ、それだけなのだと――

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「……この間の話、お受けします」

「本当か? いや、ありがたい。プランについてだが、主に試合前に――」

「あの、その代わり一つだけお願いしてもええですか?」

「む、何かね?」

「ウチのデビュー戦で、歌わせて欲しいんです。そこで試したい。ウチにできるかどうかを」

「……まあ、デビュー戦で発表する予定はあったが……」

「お願いします」

 

 そう、それが自分が自分に課した試験。

 ここで受け入れられないようなら、それまでだったというだけだ。

 

「……まあ、いいだろう」

「ありがとう、ございます」

 

 頭を下げながら、何をしているのだろうと思う。

 目指す目的とは、何の関係もないのに。

 ……けれど。

 やってみたいと思う自分がいるのも、確かだった――

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 イーストリーグに所属するプロチーム、『横浜スプラッシャーズ』。

 チーム創設時は優勝争いを何度も経験したこともある、かつての名門チームだ。しかし現在、このチームは三年連続リーグ最下位という不名誉な成績を残し、『イーストリーグのお荷物』とまで言われる始末。

 観客動員も年々減り続け、ファンからも見放されつつあるチーム。オープン戦の初戦である今日、ここを訪れるファンたちも雰囲気はあまり明るくない。もしかしたら今年は――そんな藁にも縋るような気持ちでここにきているのだ。

 試合開始まで、後三十分。観客席もまばらではあるが埋まり始める時間。やはりというべきか、横浜のファンは少ない。多いのは敵チームの応援だ。

 ホームだというのにこの体たらく。チームがどういう状況か、これだけでよくわかる。

 

「…………」

 

 一度、大きく深呼吸をする。これを申し出たのは自分だ。そう言い聞かせ、歩み出る。

 

 

〝やっぱり、美咲は凄いよ。こんなに拍手をもらえるんだから。……本当に、良かったよ〟

 

 

 あの時、彼がくれた言葉が脳裏に響く。あの時、首を振って否定したが……嬉しかったのは、事実だ。

 自らの歌を喜んでくれる人がいて、褒めてくれる人がいて、認めてくれる人がいて。

 それが……嬉しくて。

 だから――

 

「…………」

 

 ざわめきの声が聞こえる。突然現れた自分に、驚きと戸惑いの声が広がっていく。

 視線が集まってくるのがわかった。そんな中、最前列の席でこちらを見つめている少年の姿を見つける。

 ……頷き。少年は、微笑と共に頷いてくれた。

 

 大丈夫、と唇だけで言葉を返す。

 ――そして。

 

 

「〝――Amazing Grace, how sweet the sound

  That saved a wretch like me〟」

 

 

 紡ぐ言葉は、想いのカタチ。

 技術は足りない。想いもきっと、まだ足りない。

 

 

「〝I once was lost but now am found」

  Was blind but now I see〟」

 

 

 けれど、届けたい想いがあって。

 大切な、気持ちがあって。

 

 

「〝'Twas Grace that taught my heart to fear

  And Grace, My fears relieved〟」

 

 

 歌とは、想いを届けるモノ。

 祈るように、捧げるように紡ぐモノ。

 

 

「〝How precious did that Grace appear

  The hour I first believed〟」

 

 

 ざわめきが、止んでいく。伴奏はない。ただ、この声だけで紡ぎ上げる。

 そうしなければ意味はなく――そして、そうしなければ届かない。

 

 

「〝Through many dangers, toils and snares

  We have already come〟」

 

 

 いつだったか、とある歌手に問うたことがある。

 ――〝何故、歌うのか〟と。

 

 

「〝'Twas Grace that brought us safe thus far

  And Grace will lead us home〟」

 

 

 その答えは、酷く単純で……簡潔で。

 笑みと共に、〝歌えばわかる〟とそう言われた。 

 

 

「〝When we've been here ten thousand years

  Bright shining as the sun〟」

 

 

 臆病な自分。彼にしか聞かせなかったのは、そういう理由から。

 怖かった。だから試すように、彼に対してだけ歌を紡いで。

 

 

「〝We've no less days to sing God's praise

  Than when we've first begun〟」

 

 

 そして、今。

 あの時の言葉の意味が、ようやくわかった。

 

 

「〝Than when we've first begun〟」

 

 

 これが、〝答え〟。

 この時、この瞬間に感じている全てが――真実。

 

 万雷の、拍手が。

 深々と頭を下げる、一人の少女の頭上へと降り注ぐ。

 

「ありがとう――ございました」

 

 想いを届けたい相手は、微笑んでいて。

 思わず、苦笑をしてしまった。

 

 

――◇ ◇ ◇――

 

 

 レコーディングを終え、スタッフに頭を下げる。〝ルーキーズ杯〟のために他の仕事の日程をずらしていたので、ここ数日は本当に忙しいのだ。

 一週間後のイベントのためにデッキを組む必要もあるため、余裕はあまりない。

 

「ああ、美咲ちゃん。今日も良かったよ」

「ありがとうございます♪」

 

 デビュー当時に比べると、こういった営業スマイルも本当に違和感なくできるようになった。月帆の流れとは恐ろしいものである。

 

「アルバムのボーナストラックはこれでばっちりだね。けれど、その、今回もやっぱり駄目かい?」

「あはは……すみません、やっぱり」

「ファンからの要望も強いんだけどねぇ……。ほら、キミのデビューコンサートの動画も色んなところで拡散されているらしいし。アルバムに入れる気はない?」

「何度聞かれても、今は無理です。アレはウチにとって凄く大事な歌で……ウチの中で一つの区切りがつくまで、NGってことで」

 

 両手の人差し指でバツを作りつつ、頭を下げる。相手のプロデューサーもいつものこととして苦笑した。

 

「そっか……残念だなぁ。一度生で聞いてみたいんだけどな。美咲ちゃんにとっての〝祈りの歌〟」

「祈る、ゆーことは何かの〝願い〟があるんです。願いとか夢って、あんまり他人に教え過ぎると叶わなくなってまうでしょう?」

「へぇ、美咲ちゃんの夢はなんだい?」

 

 その問いに、薄く微笑み。

 

「――乙女の秘密です♪」

 

 そう返事を返し、スタジオを後にした。そのまま外に出る。冬の冷たい風が、体を突き刺した。

 腕時計を見ると、今日も家に帰る余裕はなさそうである。KC社の仮眠室を借りるしかなさそうだ。まあ、家といっても文字通り『寝に帰る』だけの場所なので仮眠室であってもあまり関係ないのだが。

 

「うー、寒い。タクシーでも――」

「――美咲」

 

 不意に肩を叩かれ、体を跳ね上げてしまう。驚いて振り返ると、そこにいたのは――祇園。

 

「あ、ごめん。驚かせちゃったかな?」

「いや、それはええんやけど……どうしたん?」

 

 祇園はKC社で缶詰にされているはずである。何故ここにいるのだろうか。

 

「美咲を迎えに来たんだ。あっちに車があるから行こう?」

「迎えにって……わざわざ?」

「気分転換も含めて、ちょっとね。デッキ造りで詰まってて……」

 

 祇園が苦笑する。美咲は微笑んだ。

 

「そっか。……えいっ」

「わっ」

 

 手を掴む。お互いの手袋越しに、僅かな熱を感じた。

 

「どうしたの?」

「んふふ~。どうしたんやろね?」

 

 誤魔化しつつ、彼の隣を並んで歩く。

 あの日、捧げるようにして紡いだ歌。あの歌はあれ以来、公式の場所では紡いでいない。

 だって、そこには〝彼〟がいない。

 彼がいない場所で紡いでも……意味はないから。

 

「なぁ、祇園」

「うん。どうしたの?」

「ウチ、祇園の作ったご飯が食べたいなぁ」

「じゃあ、厨房を借りて何か作るよ。何が良い?」

「んー、えっとなー」

 

 今は、これでいいと思う。臆病者の私は、これ以上踏み込むことを恐れている。

 でも、いつか。

 いつか、きっと――

 

「なあ、祇園。もうちょっとくっ付いてええかな?」

「ええっ?」

「寒いんやもん。えいっ」

「えっ、ちょ、美咲?」

 

 彼の顔が赤いのは、寒さか、それとも別の理由か。

 私の心の内でなら、〝別の理由〟だと受け取ってもいいだろうと思う。

 

 想うことぐらいは……きっと、自由だから。









捧げる祈りは、秘めた想い。
受け取るべき少年は、未だその内を知らず――







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