雪原の希望   作:矢神敏一

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「大雪だ サァ閉じこもれ 命がないぞ」

昭和45年 民鉄連 鉄道安全標語 樺太の部 佳作


7.~第一仕業~1レ:第一閉塞、進行

 少女が一人、その列車が動き出すのを見ていた。

 

 その少女が見つめる先に、マスコンを握る大宮がいた。そして横には、大宮が思いを寄せる佐々木がいた。

 

 少女は、大宮の娘であった。

 

 少女は熱狂の中で、ひとり体が冷えていくのを感じた。

 

「いやだよ……。明雄さん。寒いのは……イヤだ……」

 

 走り去っていく電車に、置いてかないでと声にならない叫び声をあげた。

 

 その声は、高らかに鳴るモーター音にかき消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発鉄は順調に動き出した。

 

 初日からたくさんの乗客に利用され、3月22日の営業成績は見込みを大幅に上回った。

 

 まだ街は雪に包まれていて、行く末は白くかすんでいるが、それでも越谷はこの先を悲観してはいなかった。

 

「このままなら、増発も考えなければならないかもしれんな!」

 

 経理の瀬戸を捕まえて、越谷は豪快に笑った。

 

 神経質そうな顔の瀬戸も、この時ばかりは笑みをたたえてこくこくとうなずいた。

 

 発鉄全体に、希望めいたものが蔓延していた。

 

 だが反対に、越谷個人の先行きはあまり良くなかった。越谷の妻よし子が、転居以来機嫌が悪いのである。

 

 それは、娘の話になってさらに顕著になった。

 

「ああ、よし子。優香の転入手続きはどうなっている」

 

 夕方、晩酌の時に越谷は妻に聞いてみた。

 

「それはあなたがやってくれるんではなくて?」

 

「ん? お前がやってくれるんじゃなかったのか」

 

「それぐらい、ご主人様がやっていただかないと」

 

 そう言って、妻よし子はぽんと必要書類やらを越谷の前に出した。

 

「お願いしますよ」

 

 そう言われたはいいものの、勝手がわからない。

 

「どうすればいいんだ?」

 

「それぐらいご自分で調べてくださいな。主人でしょう?」

 

「ううむ……」

 

 そう言われては仕方がない。越谷は当惑した顔をしながら手をぶらぶらさせるほかなかった。

 

 一事が万事この調子なので越谷は困ってしまって、翌日桐谷に泣きつくことにした。

 

 

 

「と言う訳なんだ。桐谷君、何か知らんかね」

 

「と言われましても、自分も経験のないことですからねえ」

 

「うーん、そうだよなあ」

 

 頼みの綱の桐谷も、パッとしない答えだった。

 

 それもそのはず。桐谷の娘が中学を卒業するタイミングを見計らって転居したので、転入届の必要がなかったのだ。今、桐谷の娘は中卒で郵便局員をしている。学務系の手続きはさっぱりだった。

 

 転校の手続きなんてほとんどの人は経験がないだろうし。どのようにすればいいのかわからない。もしかして、東京に戻って書類の用意が必要なのだろうか。

 

「ああそうだ、確かこの手の事は大宮君が明るいですよ」

 

「大宮君、というと?」

 

「運転課のやつです。なんなら今呼びましょうか?」

 

「いや、それには及ばないよ。大宮……何君だい?」

 

「大宮明雄です。確か、今日は……ちょっと待ってくださいよ、えーっとここに」

 

 桐谷はわざわざ勤務表を出して確認してくれる。大宮、大宮明雄、どこかで聞いたことある名前だと記憶の中で反芻する。

 

「開業式で一番列車を運転した子ですよ」

 

「ああ思い出した。あの子か」

 

 越谷は顔と名前を一致させるのにしばらく時間がかかってしまった。

 

 部下の顔と名前は基本的に覚えておきたい越谷だが、人の顔を覚えるのが苦手な彼にとってそれはかなりの苦行だった。

 

「ああ、今日は今時分まで勤務でこっからは明けですね。えーっと、終業は尾羽運輸区ですね」

 

「尾羽運輸区と言うと、ここ本社から……」

 

「路面電車の第2系統で尾羽営業所前ですね」

 

「わかった。ありがとう」

 

 越谷はまだまだこの街の地理に疎く、桐谷に教えてもらってようやく目的地を得た。

 

 越谷は特に何も考えることなく、そのまま尾羽運輸区へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい!大宮!」

 

 一通りの勤務を終えて弛緩していた大宮に、尾羽運輸区長がすさまじい剣幕で怒鳴る。

 

「お前一体何をやらかしやがった!」

 

「え、へ?」

 

 豆鉄砲を食らった鳩の様にして大宮は固まる。

 

「今なぁ、社長が来なさってお前を呼び出しとるよ。一体何をしたんだ!」

 

「そ、そんな!?」

 

 大宮には全く心当たりがない。頭が真っ白になりながらも恐る恐る区長の後をついていく。

 

「まったく、本当に何をしたんだ!」

 

 一体本当に何をしたんだろうか。

 

 まさか開業式典でなにか粗相をしたのだろうか。それとも、何か他に咎められることがあるのだろうか。

 

 どちらにせよあの“英雄”越谷直々のお出ましだ。鬼のような形相で叱りつけてくるかもしれない。外見はそんな風には見えないが、そういう人間に限って怖いのだ。大宮は手の震えが止まらなかった。

 

 陸軍仕込みの折檻か、はたまた国鉄現場仕込みのシゴきか。戦々恐々としながら向かうと、いたって普通の面持ちでそこに越谷はいた。

 

「社長! 大宮を連れてまいりました!」

 

 軍隊もびっくりの敬礼で、区長は越谷に告げた。

 

「ああ、ありがとう。ええと、尾羽運輸区長の……」

 

「落合です!」

 

「ああ、落合君。もういいよ、ありがとうね」

 

 そういって区長を下げようとしたとき、区長は社長に向けて頭を下げた。

 

「社長! どうか大宮をお許しいただけないでしょうか!」

 

 突然の行動に、越谷も大宮も面食らう。

 

「大宮の奴が何をしたかはわかりませんが、しかしながらこいつは根は真面目でいい奴なんです。まだ若く、未来もある。どうか、寛大な処置をお願いできますでしょうか。彼は別に私の直接の部下ではないが、それでも仲間なんです。どうか、お願いします!」

 

 それを見て慌てて大宮も頭を下げる。

 

「社長、すみませんでした!!!」

 

 大宮は、胸が熱くなった。自分の為にそこまで言ってくれる人間が今まで他に居ただろうか。親でさえ言ってくれなかった、護ってくれなかった大宮にとって、区長の言葉は重く突き刺さった。

 

「き、君たち!」

 

 社長が声を張り上げる。

 

 大宮は、次の瞬間を覚悟した。

 

「何を勘違いをしているのかはわからんが、私は別に……別に叱りに来たわけではないのだぞ!」

 

「はえ?」

 

「は?」

 

 ガクン、と区長が肩からずり落ちる。眼鏡は耳から外れ中途半端な位置で止まる。

 

「で、では、なしてここまでいきなり……」

 

 震える声で尋ねると、当惑した表情で社長は答えた。

 

「少し大宮君に聞きたいことがあったんだ。それも、個人的な要件で……」

 

「個人的な要件」

 

「ああ、個人的な要件で」

 

「な、なんだあ……」

 

 真相を聞いた大宮は、半ベソをかいてその場にへたりこんだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、申し訳なかったね」

 

「いえ、こちらこそとんでもない早合点を……」

 

 大宮の仕事帰り、越谷に連れ出され二人は喫茶で茶を飲んでいる。

 

「ここは、てっちゃん通りに面しているのに静かでいいですね」

 

「そうだろう。私が見つけたんだ」

 

 欧風な店内はあえて木造で造られている。ところどころに和風な味わいが見え、さながら大正の建築のようだった。

 

「私がまだ若かったころには、東京にもまだまだこういう佇まいがあったんだがな。最近はめっきり減った。テロはやはり、東京の文化において痛い損失点だったよ」

 

 目の前を発鉄の電車が通り抜ける。それを見ながら越谷はつぶやいた。

 

「私は樺太産まれの樺太育ちで。あまりなじみはないですね」

 

「そうか君は、8年前はまだ学生か」

 

 8年前、それは帝都で痛ましいテロが起きた年のことである。

 

「一応、そうですね。まあ当時は中坊だったんで何が何だかわからなかったんですけど」

 

「まあそうだろうな。して君は、高校は出ているのかね」

 

「いえ、中学でそのまま郵便局に働きに出ました」

 

「ああなるほど。しかし、なんでまた郵政から鉄道業界に来ようと思ったんだね」

 

「……郵便列車に郵便物を積み込む仕事をしていまして、それで鉄道業務に興味を」

 

「ほほう、好奇心からと言う訳か」

 

 大宮は本当の理由を言うのをこらえ、とっさにごまかした。

 

「で、実際のところは?」

 

「お給金が良かったからですね」

 

「うむ、若い男子として実に健全で結構。労働とは斯くあるべきだ」

 

 いくら喫茶店の落ち着いた雰囲気といっても、関係は社長と末端社員である。自然と尋問のような空気になる。

 

「はは、そんなに硬くならないでくれたまえ……と、その原因は私の方にあるのだが、それは置いといてだね。大宮君、小学校の転校手続きについて教えて欲しいんだ」

 

「小学校の転校手続き、ですか?」

 

「ああ。なにぶん初めてのことでな。訳が分からんのだ」

 

「なるほど、それで俺を……。ええとですね、まずは学校の先生に相談した方がいいと思います。確か、転校先の先生と面談が必要だったはずですし」

 

「なに、それは本当か。弱ったな。時間を取れるかな」

 

「もう学校が始まるまで時間ないですし、早めの方がいいと思いますよ」

 

「……だいたい何カ月前にやることなのかね」

 

「一カ月前には連絡すべきものかと」

 

「まずったなあ」

 

 うーんと首をひねる越谷。大宮から見て、越谷も父親の顔をするのかとびっくりした。

 

「とにかく、一度学校に電話されてみては?」

 

「うむ、必ずそうしよう。ああ弱った」

 

「そういえば、娘さんってどこの学校に転校するんです?」

 

「ん? ああ、なんて言ったっけな、金庫通りの近くの……」

 

「安塚小学校ですか?」

 

「ああ、それだ。そうそう」

 

 越谷がそういうと、大宮は驚いた顔を見せる。

 

「驚きました。私のとこと同じ小学校です」

 

「ん? 君の娘っ子とかね」

 

「はい。今年5年になります」

 

「なんだって!?」

 

 今度は越谷が驚く番だった。

 

「私の娘と同い年じゃないか」

 

「それは奇遇ですね。今、5年生のクラスは一つしかないそうなので、きっと同じクラスですよ」

 

 なんとまあ、この世の中の狭いことだろうか。二人は仰天するが、所詮は大きな田舎町である。こんなこともあるのだろう。

 

「そうか。では、娘と仲良くしてやってくれ。知っている人間の娘が居ると、こちらも心強い」

 

「ええ、もちろんです」

 

 大宮は二つ返事で引き受けた。

 

「して、君は今いくつだい? 8年前に学生、と言うんだったら、子供を作るにはまだ早いだろう」

 

「ああ、いえ。ちょっと事情がございまして」

 

「そうか。ああ悪い、詮索をするつもりはないんだ。しかし、少し気になってね」

 

「お心遣い、ありがとうございます。まあ、正直、男手一つではいろいろと大変で」

 

「男手一つ、か。それは大変そうだ。うーん、誰か紹介してやってもいいんだが、申し訳ないが今は話がなくてなあ」

 

「ああいえ、お気になさらないでください。まだ21ですし。焦るような年齢でもないんで……」

 

「まあそれもそうだがなあ」

 

 ヒラの事情に肩入れしすぎるのも良くない、と自重する越谷だったが、それでもやはり気になるものは気になる。

 

「何かあったら言ってくれ。これからは娘の級友の親同士だ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 しかし、急ぐことでもないだろう。彼とは長い付き合いになりそうだ。越谷は偶然の出会いをうれしく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「1031レ、抑止かかったみたいです」

 

「原因は?」

 

「倒木との接触だそうです。跳ね飛ばした倒木が対向を支障したので防護発報、対向の4023レが非常停止して乗務員が撤去作業を手伝っているそうです」

 

「危ないなあ、救援車を出した方がいいんじゃないか?」

 

 尾羽駅の事務室では、そんな会話が繰り広げられていた。

 

「倒木って、そんな大ごとなんですか?」

 

「倒木自体はそうでもないんだよ、綱島君。問題はこの雪さ」

 

 事務室は地下にあるために見えないが、底冷えする寒さが降雪を物語っていた。

 

「雪で真っ白になって空間識失調にでもなったらおしまいさね。樺太では、こういう時は救援車を呼んで待機した方がいいんだ。もうじき日暮れだしね。ま、本土のウテシ(運転士)さんだったんだろうよ」

 

 男が切り捨てるように言った時、事務室の扉が開いた。

 

「すみません、マスター(駅長)はいますかね」

 

「ええと、どちらの駅長で?」

 

「ああ、発鉄の」

 

「いらっしゃいますよ」

 

 事務室の者が一斉に声の方を見ると、立っていたのは越谷だった。男は変なものでも見るような目で越谷を見つめた。

 

 越谷はそんな男に目もくれず、綱島を認めるとそちらに駆け寄った。

 

「お、君は確か、綱島君だったね。その節はどうもありがとう。そして、ああ、大場川駅長。ご挨拶に参りました」

 

 そしてその奥で硬い椅子に腰かけて仕事に勤しんでいた大場川に腰を折った。

 

「これは社長。どうもこんなところに。本日は何用で?」

 

「いやなに、この尾羽駅は北鉄との共用駅だと聞いたものですから、北鉄さんにご挨拶にと思いまして」

 

 越谷がそう言うと、先ほどまで胡散臭そうな顔をしていた男が急ににこやかな顔で握手を求めて来た。

 

「あなたがかの有名な英雄越谷殿でございますか! いやあ、そんな方とご一緒できるだけでなく、お仕事をさせていただけるとは、いやはやこの尾羽駅駅長大伴、光栄の至りと言ったところでございまして……」

 

オヤジさん(駅長)、そんなこといって、最初入ってきた時越谷さんだと気が付かなかったじゃないか」

 

「だぁらっしゃい! えー、あー、コホン。いやこれは失敬いたしました。改めまして、北鉄尾羽駅駅長をしております大伴と申します。何卒よろしくお願いいたします」

 

 大伴と名乗るその男を騒がしく面白い者だと思った越谷は、笑いを懸命にこらえながら握手に応じた。

 

「発鉄社長を拝命いたしました越谷です。ご挨拶が後になってしまって申し訳ない。お詫びとしてはつまらないものですが、これを……」

 

 越谷が土産を差し出すと、大伴は大げさに驚いて見せた。

 

「あいやまあまあまあ、まさか英雄様に土産を持たせてしまうなんてこの大伴一生の不覚でございます。いやなに、そちらの御事情は存じ上げておりますから本来ならばこちらからご挨拶申し上げるべきところでございます。いやはや、ありがたく頂戴いたします」

 

「すみません社長さん、こういう人なんです。発鉄の大場川駅長が慇懃な方だとすれば、こちらの大伴は慇懃無礼な方でございますので」

 

「そうそうって、だぁらっしゃい! 誰がだ!」

 

 女性の事務員がかわるがわる前に出てきては頭を下げながら毒を吐いていった。越谷は笑いをこらえるのでいっぱいだった。

 

「綱島君、いつもこんな感じなのかい?」

 

「ええ、だいたいこのような感じです。あの女性二人は、樺太の海原お浜・小浜と呼ばれている発鉄の人です。いつもこうしておやじさん(駅長)をからかっています」

 

「う、海原……」

 

 関西なまりの言葉でまくしたてられる笑いの応酬に気圧され、越谷は何も言えなくなってしまった。

 

「ほらほら、越谷さんが何も言えなくなってしまっているじゃないか」

 

 大伴の言葉で、笑いの嵐はやっと過ぎ去った。周りを見ると駅員たちが笑いながらのたうち回っていた。職場環境は良好なようだ。

 

おやじさん(駅長)、やっぱり救援車が出るそうです……っとと、松竹の演芸のお時間でしたか」

 

「構わん。また数分後には再演されるさ。で、どこから」

 

「佐保のキエ07を出すそうです」

 

「じゃ、数十分後には元通りかな。基山君、一応旅客案内の準備!」

 

 さっきまでのいい加減な面影はどこへやら。急に真面目に指示を飛ばし始めた。越谷は少しぎょっとしながらも、少し違和感を覚えた。

 

「そういえば、尾羽駅には発鉄駅長と北鉄駅長がいますが、呼び分けはどうなさっているんですか?」

 

 駅長は普通、駅員に「おやじ」と呼ばれる。しかし、この駅には駅長が二人いる。混同したりしないのだろうか。越谷はそこが気になった。

 

「ああ、大場川駅長はみんな、大駅長(グランドマスター)って呼びますから」

 

「だ、大駅長?」

 

 突拍子もない言葉に、越谷は肩からずり落ちた。

 

「ええ、尾羽駅の頂点ですからね。や、明治生まれには敵いませんや」

 

 振り返って綱島の顔を見ると、こくこくと頷いている。どうやらもうすでに浸透しているようだ。

 

 越谷は大伴の姿を計りかねていた。この男の像というものが全く見えてこなかった。

 

「とりあえず、邪魔してはいけない。今日はここで失礼いたします」

 

「ああ、こちらこそ大したもてなしもできず、すみません」

 

「「次こそはもっと腕を磨いて捧腹絶倒させますので」」

 

「だぁらっしゃい! ……お騒がせいたしました。また気軽に来てください。お待ちしています」

 

 越谷は、なぜか大伴に見送られながら駅を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は気苦労の多い日だった。弛緩の後に来る倦怠感を抱えながら、大宮は自宅へと歩みを進める。

 

 あの後、北鉄線内ダイヤ乱れの影響を引きずって乗務員が不足し、呼び戻されてしまった。おかげですっかり遅くなってしまった。

 

 大宮の家は、アパートの二階にある。疲れた体を引き吊りながら階段を上り自室の前にたどり着くと、トタトタトタと待ちきれない足音がした。

 

「ただいま」

 

 扉を開けると、足音の主が神妙な顔をして立っていた。きっと嬉しさをこらえてるんだろう。

 

「おかえりなさい明雄さん。お布団、敷いておきました」

 

「ありがとう幸子」

 

 そう言って、駆け寄ってくる義理の娘の頭を撫でた。幸子はのどをゴロゴロ鳴らして幸せそうだ。

 

「よく俺が帰ってくるのがわかったな」

 

 頭を撫でながら言うと、幸子は少し恥ずかしそうに

 

「階段を上る足音でわかりました」

 

 と言った。

 

 お前は猫か、と思った。だがある意味で幸子は猫のような存在なのかもしれない。しかし、その猫は猫でも捨て猫である。

 

 

 

 俺、大宮明雄。もうすぐ二十二歳。独身。童貞。生まれてこの方女っ気なし。憐れむなら憐れんで、どうぞ。同志は握手をしよう。

 

 この娘は大宮幸子(おおみやさちこ)。正確な年齢は分からないが、本人曰く10歳だそうだ。

 

 二人とも捨て子、被虐待児で、親からの愛を受け取れなかった悲しい人間だ。だからこうして傷をなめ合って生きてきた。

 

「ごはん、用意したので大丈夫だったか? 不味くなかったか?」

 

「もちろんです。明雄さんの料理はいつもおいしいですから」

 

 嘘だ。俺の料理はかなり味が濃いはずだ。ずっと自分の為に料理をしてきたから、自分に合わせて濃い目に作ってある。だから今でもその癖が抜けてない。幸子にしてみればしょっぱすぎるはずだ。幸子はこうやってすぐに遠慮する。

 

 俺が布団へもぐりこむと、幸子ももぐりこんできた。冷やっこい布団の中で小さな足が当たって暖かい。暖かさを求めて幸子がこちらに身を寄せてきて、ついつい抱きしめてしまった。

 

「寒いですね」

 

「寒いねえ」

 

 幸子がおでこをすりすりとこすりつけてきた。髪の毛の匂いがする。自分のものなら嫌な臭いも、幸子のものならいい匂いだった。

 

「明雄さん」

 

「ん?」

 

 俺の胸板にうずまりながら幸子は顔をあげた。上目でうるんだ瞳を見ると、守ってあげたい思いがこみ上げてきた。

 

「明雄さんのこと、その……まだお父さんって呼べなくて。ごめんなさい」

 

 しゅんとした顔でそんなことを言い出す。

 

 いいさ、そんなこと。親子なんて、両親なんて、そんなのくだらない価値観だ。

 

「気にするな。それに、呼ばなくったっていいさ。俺は俺。幸子は幸子だよ」

 

 俺はさらに強く幸子を抱き寄せた。幸子はくすぐったそうな声を出して幸せそうに笑った。

 

「さあ、もう寝なさい」

 

 俺は幸子の瞼を閉じさせた。幸子は俺の袖をぎゅっとつかむと、気持ちよさそうな寝息をたてはじめた。

 

 こんな子をすてるなんて、どうしたらできるのだろう。

 

 親子なんて、両親なんて。そんなものいらない。わからない。

 




キエ07
 救援車。
 ガソリン気動車キハ07形式0番台の余剰車を改造した救援気動車で、最高時速130キロをマークする。
 安全性の問題から本州ではディーゼル機関に換装されたが、樺太ではガソリン機関の高性能を買われ現役である。

救援車
 鉄道軌道内に置いて障害が発生した際に救援に赴くための車輛。
 様々な器具を搭載したり、人員輸送用の職用車となる場合もある。
 発鉄では通常の救援車としてエ73を導入しているほか、有事に備えキエ07も少数存在しているとされている。
 通常は使用されないことから、余剰となった旧式車や、もしくは普段は別の用途に供されている車輛である場合が多い。
 発鉄エ73は、平時は回送列車の牽引を行うなど、職用車としての趣が強い。

 なお、救援車に求められる能力は救援能力であり、牽引能力・自走能力ではない。故に旧型客車や旧式貨車を用いた救援車が数多く存在する。

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