果てのトロッコ本編はC96月曜西お44bにて頒布予定です。
今回は番外編となります。ご了承ください。
「しかしねぇ、私は思うわけですよ。もうすでに地域に根付いているものを、我々の一存で破壊していいものかどうか」
樺太庁議会 議事録コピー 日時不明
「私は、その鉄道を見に、東京から来たのです」
目の前の男がそう言いだして、宇佐美はさらに驚いた。あれは、そんな遠くから見に行くようなものに見えなかったからだ。
ことは、一人の男が尋ねてきたことからはじまった。
ある日の昼下がり。市役所の観光課からその男がたらい回しにされてきた。
久留米が応対すると、彼は東京からはるばる尾羽まで観光にやってきたらしいことを言った。
しかし、久留米では要領を得なかった。久留米は鉄道会社に勤めはいるが、別に鉄道会社の人間ではないのである。
彼女の本性は軍部から派遣されてきた海軍情報局の諜報員。彼女にとって、鉄道の込み入った話はその能力の範囲外の事柄であった。
そんな久留米の代わりに、絶賛暇を持て余していた宇佐美が応対したというわけだ。
そこで、宇佐美は驚くべき言葉を聞いた。
「増穢軽便交通を見たいんです」
最初、宇佐美は何かの聞き間違いだと思った。
まず、増穢軽便というのは確かに存在する。尾羽から隣村の小湾村を結ぶ鉄路である。
増穢というのは、小湾村の旧名。古く江戸時代に日本人で初めてこの場所を訪れた岡本勘輔によって名付けられた村だ。
現在は林業などが行われているその村とを、その小さな鉄道は結んでる。
宇佐美が驚いたのは、まず、その鉄道が本来ならば“誰も知らないはず”であったという点である。
この鉄道は正式な特許を得ていない、いわゆる勝手鉄道であった。
そして、同じ勝手鉄道でも、大きな地方公共団体、すなわち北海道庁が整備する殖民軌道とは違い、個人有志が指摘に運営管理を行う鉄道であるという特性を持つ。
そのため、彼の鉄道に関しては半ば黙認の形で存在が続けられていた。であるから、この尾羽に住まう人々でさえも、その存在はほとんど知らないのである。
それを、東京人が見に来た、というのだから驚きだ。もっとも、宇佐美が個人的に知らないだけで、市民は存外にこの鉄道のことを認知しているのかもしれないが、もしそうだとしたら宇佐美にとっては二重の意味で衝撃である。
そしてその次に、宇佐美にとってその鉄道がそんな価値のあるものに見えなかったというのがある。
ただ、ちいさな機関車と貨車が何もない草原や森の中を行ったり来たりしているだけである。
そもそも、宇佐美にとって鉄道は都市を構成するインフラであり、都市の開発において戦略的に活用すべき“道具”である。それに対し熱中するという行為の意味が分からない。
であるから、東京の人間がわざわざここまで見に来るほどの価値がある、というのが衝撃であった。
「私が言い出したことで大変恐縮ですが、やはり、たかが鉄道のためにこの尾羽まで来る人間がいるというのは衝撃です」
宇佐美の言葉に、それを後ろで聞いていた越谷が賛同した。
「宇佐美君の提案は、鉄道を目当てでやってくる客を利用して沿線に対し呼び水効果的に鉄道を利用しやすい環境を整えよう、であったな。確かに、これを達するには鉄道を目当てにわざわざ尾羽くんだりまでやってくる物好きが一定数必要なわけだが、まさか本当にいるとは。なんだか、確信が持てそうだよ」
「しかし、その増穢軽便、とはどのような鉄道なのですか?」
その鉄道があまりにも魅力的すぎるだけでは? と瀬戸は言いたげだ。
「増穢軽便交通。道路扱いで運行されている勝手鉄道ですが、実は歴史は古いんです。どのくらい古いかというと、北樺太ソ連時代にさかのぼります」
その言葉に久留米がひどく驚いた。
「ソ連!? まさか……」
「そのまさかで、実は、この鉄道はソ連によって建設された鉄道なんです。オハ=モスカリヴォ鉄道。軌間もソ連標準軌の1520㎜での建設でした」
「え、ソ連軌だったのか。それはびっくりだ。ソ連軌の鉄道が、まさか日本領内あったなんて」
「国内では世界標準軌、うなわち1432㎜より広い軌間の普通鉄道を見つけることは至難ですからね。まあですから、そういうのが珍しいという視点はあるでしょう」
なお、現在は日本標準軌に改軌されています、と宇佐美は付け加えた。
「小さなトロッコが、森や湿原をトコトコ走るだけの鉄道ですよ」
「いやしかし、それは観光路線として面白そうだな」
人はみな、尾瀬に行きたがるだろう? それと同じじゃないか。と、越谷が言う。
「尾瀬……? なんです、それは」
宇佐美の一言に、越谷は仰天する。まさか、自分だけ……? と思い後ろを振り返ると、幸谷もしっかりと仰天していた。
「オイオイ、本当に知らないのか?」
「え? ええ。そんな有名なところなんですか?」
「言うだろう? 〽夏が来れば思い出す。春かな尾瀬、とおい空~」
越谷がそう節を回すと、珍しいことに幸谷も歌い始めた。
「〽……霧の中に浮かびくる、優しい影、野の小径。ええ、有名な歌だと思っていましたが……」
そこまで言って、宇佐美が思い出したように手をたたいた。
「ああ、たまに聞くあの歌、尾瀬って言っていたのか。へえ、そんな観光地があるんですか」
「尾瀬は有名だと思っていたなあ。いやしかし、これも関東人の驕りかもしれん」
「尾瀬ぐらいは日本人全員知っていてほしいですがね……」
「ともかく、湿原や原野というのは、見たがる人が多いということなのだよ」
「へえ、そんなもんなんですね」
あんなの、そこらじゅうで見れるじゃない。これには、越谷も返す言葉がなかった。
「しかしそうか……。意外と面白い鉄道だったんだな」
「風光明媚な景色の中をトロッコが走る、という光景は長閑でいいかもしれませんね」
「それに鉄道趣味としても面白いと来た。さあ大変だぞ桐谷君。我が鉄道はこれに勝てるかね?」
越谷が少しおどけてそういうと、桐谷は胸を張った。
「もちろん。我が鉄道だって負けてませんよ」
「ほう、具体的にはどこが?」
幸谷が心底信じていなさそうな顔で続きを催促した。桐谷はむっとした顔をしながら話を続ける。
「例えば、軌道線だ。路面電車区間を大型の電車が走る、というのは非常に珍しい」
「そうなのか?」
「そうだとも。本土だと、名古屋鉄道や関西急行電鉄ぐらいでしか見ることができない」
「それ、普通に珍しくないのでは……?」
瀬戸が何事かを言ったが、桐谷は無視して続ける。
「そして、路面電車区間を貨物列車が走る。軍工場や関連工場からの貨物列車が日常的、それもかなりの頻度で路面電車区間を走る。特に南港線なんかしょっちゅう見ることができる。これは好きな者にとっては堪らないだろう」
「それ、日光軌道でもやっているだろう」
「待て。こちらは国鉄大型機関車が多彩な貨車を運ぶ。時には軍事物資、例えば戦車やなんかを運んだりする。こちらのほうが面白いはずだ」
「そうなのかねえ……」
幸谷は釈然としない。桐谷はお構いなしに話を続ける。
「そして、尾羽温泉駅へ向かう多彩な配給列車を見ることができる」
「どういうことだ?」
越谷はちょっと意味が理解できず、桐谷を問いただした。
「尾羽温泉駅では広大な側線群を利用して、樺太で発生した不要鉄道車両の解体などを行っているんです。なので、特に南部のほうから多種多彩な列車がやってきます。この間も大正時代の客車をつなげた列車がやってきていました。そういう列車が走ると、やはり撮影者が多いですね」
越谷はやっと意味が理解できた。
「鉄道目当てで、わざわざ尾羽へやってくる。我々には少し意味が分からんが、我々の鉄道に対し少しでも興味、そして好感を持ってくれているのなら、うれしいことだな」
「それはそうですね。ぜひぜひ、まずは市外の人に気に入って、そして使っていただいて。そしてその次は市内の人に……。ですね?」
「ああそうだ。ここは“マニア”の人たちの力をお貸しいただこう」
越谷はそう言って頷いた。
「そのためにも、こちらも頑張りませんとな」
「おい、桐谷。予算は出さんからな」
「ケッ!」
二人の“喧嘩漫才”に笑いが起きる。
発鉄は、今日も微速前進。しかし、着実に前へと進むのである。
殖民軌道
北海道庁に見られる簡易軌道。
北海道拓殖計画に則り建設されたが、鉄道としての法的根拠はあいまいである。
勝手軌道
樺太地域、または未開発地域にみられる私設軌道。
法的根拠がなく、完全に違法である。
道路状況が劣悪な地域において、道路の代わりに私道扱いで建設されることがある。
「果てのトロッコ」
一人の男が、尾羽にあるという「果てのトロッコ」を目指して旅するお話です。
モノクロ20Pコピー本を、今回先行公開いたします。
月曜西お44b「北部樺太開発鉄道」でお待ちしております。ぜひよろしくおねがいいたします。