フィラデルフィア:マーケットストリート・12st 雪・-15℃
米国で活躍する邦人実業家へのインタビュー
息せき切って本社に舞い戻った越谷は、「詳しいことは明日に」という幸谷に無事追い返された。
であるから越谷は悶々としたまま夜を迎え、そして夜明けとともに本社へ向かって駆け出したのであった。
本社に着くと、もうすでに久留米が書類の整理をしていた。
「お、久留米くん。今日の久留米君は“表面”か」
久留米の髪は自然にたらされ、表情は慈母の様に穏やかだった。
「ええ。今日は“仕事”がないものですから」
おほほ、と笑う久留米。やはり久留米はどのようなときにあっても久留米なのだなと、くだらないことを考える。
「さて、そんなことは良い。皆ももう知っているだろうが、陸軍が発鉄に対し不乗運動を開始した。開業当初から現在まで、乗車率が伸び悩んでいるのはこの影響であると言える」
「久留米さんは三軍委から……というのは建前としても、軍からの出向でしょう。何か情報はなかったんですか?」
宇佐美がそう言うと久留米は小さくなる。
「はずかしながら、察知することはできませんでした……ごめんなさい」
「どうやら公的な手順を踏まず、婦人会や町内会から浸透していったらしい。海情まで情報が来ていなくても当然だろう」
「海情は海軍であっても海軍とは違う組織です。そこに落とし穴がありましたが……。このような大きな動きを掴めていなかったとは、お恥ずかし限りです」
「しかたがない。君は今大きなヤマを追っているんだ」
慰めるように越谷が言うが、しかし久留米は顔を上げなかった。尾羽の中に自分の知らない力関係があったことが相当悔しかったようだ。
「しかし、まさか陸軍だけでなく、空・海が連帯してくるとは」
「三軍委……か。とうとう本来のお小言組織としての正体を現した、というところだが、しかしあれだな。最初に私と会った三軍委の人間は人当たりのいい海軍の人間だったもんだから、やはり少しびっくりするよ」
「大熊さんと海原さんですか?」
「そうだ。あの二人はどういう立ち位置の人間なんだ?」
「海原さんが三軍調整委員長で、大熊さんがその補佐です。我々によく絡んでくる颯田さんは発鉄担当ですね」
「颯田氏の暴走と言うことは考えられんかね」
「そうだとしても、こんなことをしでかす理由がわかりません。我が社には、陸軍からも出資を得ています。損をするのは陸軍です」
「……そこについては、金以上の事があるのではないかと、なんとなく心当たりはあるだろう。君も、私も」
そう言うと幸谷は目をそらす。
越谷の言う心当たりとは、陸軍の鉄道不信である。
「立川事故。大戦末期の大事な時に、首都圏の重要な基地を一つ吹き飛ばしたんだ。もっとも、被害の拡大に陸軍の責がないとはいいがたいが、少なくとも、陸軍人や近隣住民に死者が出るほどの大事故を引き起こしたのは我々国鉄だ。帝都テロにおいても、残念ながら一部協力者は国鉄から出ている。陸軍が鉄道に対し異常な反応を見せるのも、仕方のないことだ」
「それにしたって不毛すぎるでしょう。こんな陰湿なやり方」
「陸軍には陸軍のやり方がある、のだと私は思う。元陸軍人の私にはそれ以上は言えない。陸の英雄と言われておきながら、まったく陸の事は分からんな。一体どうなっているんだ」
「やはり社長でも本当のところはわかりませんか。では、そのあたりはのちのち詰めましょう。今は現状打開が先です」
幸谷の言葉で越谷の意識は目の前の問題に引き戻される。
中央の黒板には路線と地区名が書かれた地図が貼ってあった。
「実は、美里記者に手伝ってもらいまして旅客動向を調査していました」
幸谷が黒板に路線名を書き出す。
「黒字路線は各普通鉄道線と黒井・灰原線です。そこには軍基地へ向かう北尾羽線もしっかり黒字に含まれていますね。人に鉄道を使うな! と言っている軍さんが平気な顔して鉄道を利用していると思うと面白いですね」
皮肉たっぷりな幸谷の言葉に、瀬戸が噴き出した。
「瀬戸さんが笑うなんて珍しい。ああ、失礼。続けます。この北尾羽線も含め、黒字になっている路線には一つの共通項があることが分かりました」
「なんだ? それは」
「鉄道以外では到達が困難な地域ということです」
地図上で黒字路線の沿線を丸で囲っていく。
「どういうことだ?」
「黒井や灰原といった工場街は、近年治安の心配があり徒歩での移動は余り推奨されていないのと、地区内の道路は軍関係の車両が多かったり走行にいちいち許可が必要だったりで不便なんだそうです。新羽線の新団地の方は言わずもがな、尾羽市街へ出るには鉄道線しか利用できる交通手段がありません」
「北尾羽線は?」
「こちらは基地への通勤がメインの路線ですが、市街地から基地の正門までがかなり遠いらしく、鉄道でなければとても到達できないそうです」
「なるほどな。軍人でも、きちんと理由があれば乗るという事か。工業線の理由は?」
「悪水の方は、近年になってできた新しい工業団地なんです。黒井・灰原の工員は環状線の東側に居を構えていますが、悪水はもともと尾羽駅の西口に仮設の住居を置いていました。工場の本格稼働に伴い西口の仮設が撤去されたので、新団地に皆が越してきたのでしょう。そう言った経緯から、悪水勤務の工員は新団地からそのまま南尾羽で乗り換え、勤務先に向かうことが多いようです」
「それは到達困難であるというよりは惰性で、ということか?」
「それもあるでしょうし、悪水は比較的新しい工業地帯なので従業員のほとんどが最近尾羽に来た者が多いのもあるでしょう。彼らには地域のしがらみはあまり関係ありません。悪水は民需系の工業地帯でもありますから、軍の影響力も小さいでしょう」
「なるほどな。そして、最近尾羽に来た者であればそこまで歩く習慣もないから、到達困難であるようにも見えるわけか」
完全に理解した、という面持ちで越谷は膝を打った。しかし、そこでまた越谷は腕を組んでしまう。
「ここまでは分かった。問題はどうやって現状を打開するかだ」
「社長の話では、市民自体の感情はそれほど悪くはなさそうです。件の“お願い”さえ解消されれば利用してくれそうな気配です。軍に対し、丁寧に安全性を訴えましょうか」
幸谷の意見を越谷は否定した。
「いや、こういうときの陸軍はテコでも動かない。それは私がよく知っている」
「何故です?」
「私がそうだからだ」
身も蓋もない発言に幸谷はつい呆けたような顔をしてしまうが、目の前の人物が陸軍の英雄だと思い出して面構えを変えた。
「そうでした。社長は社長でしたね。しかしそうすると、政治的工作は使えません」
「市民に訴えかける必要があるだろう。“お願い”事態には法的な強制力がないわけだから、市民だって使えるものなら使いたいと思うはずだ」
「それはそうです。いくら歩くのに慣れていると言っても限度があるでしょう」
「だから、市民に対しての広告はかなり有効であると思うのだよ。向こうの心理的牙城さえ崩せてしまえば、きっと乗ってくれるはずだ」
「なるほど。根比べという訳ですね」
「そうだ。彼らが我々の誘惑に負けてこちらを利用するか、それよりも先に我々の資金が尽きるか、のな」
「縁起でもありませんが、その通りでしょう。では、どのように広告しますか」
久留米が手を上げる。
「ここは営業広報部の出番ですね。いろいろと考えてあります」
久留米の発言で、越谷は彼女が戦闘要員ではなく広報の人間であったことを思い出した。
「そうだった。君の本来の仕事はそっちだったな。どんな案だい」
「まずはチラシです。時刻表をチラシとして配るんです。宣伝文句に『冷暖房完備』『高頻度運行』などと入れておけば市民受けはいいでしょう」
「あ、それなら大きさは財布に入る程度にしましょう。財布に入れて持ち歩いてもらえば見る機会も多いでしょう」
「でしたら全線の時刻表じゃないくて、最寄り駅の時刻が分かる時刻表でもいいかもしれません。これならかさばりませんし」
「それ、いいな。すぐにやろう」
「早速検討します」
「あとは、何と言うかこう、鉄道を親しみやすくする工夫なんかをしたらどうでしょう」
次々に意見が出てくる。越谷は満足げに頷いた。
「それもいい考えだ。首都圏でも、国鉄より愛想のいい私鉄の方が人気が高かった」
「ようがす。運輸部の方でちょっと話してみます。みんな気のいい奴です。これぐらいならすぐにできると思いますよ」
「では、桐谷君。頼むよ」
「任しといてくだせえ」
「しかし社長。本当に市民に働きかけて効果はあるでしょうか」
「お、それはどういう意味だね」
宇佐美の顔を見る。ただの慎重論ではなさそうだ。越谷は目線で先を促す。
「感情論として、誰も乗っていない列車に乗るのはかなり抵抗がありますよ。何と言うか、にぎやかさを演出した方がいいのでは?」
「それは盲点だな。にぎやかさの演出は有効かもしれん」
ガラガラで誰も乗らない電車より、適度に人が乗っている電車の方がこういう状況では乗りやすいかもしれない。なにより「皆やってますよ」に弱い国民性であることは、自らが日本人としてよくわかっていることだ。
「という訳で、全国版の時刻表やなんかに広告を出すのはどうでしょう。発鉄に外部から人を呼びこむんです。外部の人間は現地のしがらみなんて気にせずに鉄道を利用するでしょう。現に、現地とは一切関係のないビジネス客やなんかは利用していると聞きます」
「いい考えだが、陸軍が承服するだろうか……」
幸谷の懸念に対し、宇佐美は笑いながら答えた。
「どーせ陸さんには嫌われていますから、このぐらいじゃ心象は変わらんですよ」
「それもそうか。社長、やりましょう。瀬戸さん、予算は大丈夫そうですか?」
「ええ、なんとか。補助金のおかげでまだ余裕があります。今後収支が回復すれば、多少の赤字で済みますから、財務的にはむしろ好都合です」
「久留米さん、どうでしょう」
「美里記者をたどれば時刻表に安価に広告を打てると思います」
「しかし、そんな程度でわざわざ尾羽にまで来ますかね……」
瀬戸の言葉に、みんな黙りこくってしまった。
「何か、尾羽に来たいと思わせる決め手が必要です。何かありませんか?」
越谷はそう言われて、頭の中を巡らせる。ビジネス……といっても限られている。その他の用としてもこれと言った名所は思いつかない。温泉は観光地と言うより軍の保養地(候補)であるし、神社も線路が境内の中まで引かれているだけであって特に首都圏から見行くようなものでもない。
そこまで考えたときに、越谷はふとあることを思い出した。
「そういえば、私が尾羽に来た時、とんでもない数の“鉄っちゃん”がいたな。あれは何か使えんのか」
「ああ、前までは時たまいました。ここは古い車両が多かったり、車輛の製造工場があったりでてっちゃんたちの観光ポイントらしいですわ」
「それ使えないか?」
「別に彼らは通年で尾羽に来てくれるわけじゃありませんし、時たまフラッと表れて写真を撮っては帰っていくだけですや。何かをなしてくれるわけじゃありません」
幸谷は冷ややかだった。
「いや、それで十分だ。にぎやかしになればそれでいい。なんとかして、そういった趣向者を呼び寄せられないか」
「なら、特別列車でも仕立てますか。余っている車両を使って何か企画でもしましょうや」
「企画、とは?」
「まあ適当に余っている車両か何かを装飾して走らせればてっちゃんも喜ぶでしょう」
「装飾というと……」
「例えば、色を人気のある色に塗り替えたり、ヘッドマークを付けたりだ。武蔵野鉄道では、ボロ電の急行にヘッドマークを付けて運転したらそれだけでよく人が乗ったし、よく撮られたもんだ」
「効果がありそうだとは思えんが、まあいいか。それぐらいならいいだろう」
「しかし、これだけやってもまだ課題は山積みですよ。そもそも、治安の悪いこの地域に来てくれるのか、という問題が付きまといます」
宇佐美の言葉の裏には、先日の武器密輸事件がある。そうでなくとも年がら年中どこかで撃ち合いが起こっているような街である。もともとの街のイメージもあいまって治安について余りいい印象は持たれていない。
「北九州や
「どうだい久留米君。治安的不安の解決の見込み、差し当たっては先の脱線事件についての解決の見通しは立っているのか?」
越谷にそう言われた久留米はただ首を振った。
「ダメです。あれからも度々、小荷物輸送を利用した密輸が発生しています。全て水際で食い止めている、と言いたいところですが真相は分かりません。それに、新たな手口で輸送される可能性も依然高く、やはり大本を叩かないと……。現状、しっぽすらつかめていない状況です」
「やはりそうか。こればかりは我々ではどうにもならんからなあ」
越谷は、先の見えない問題だと思った。いくら思考を重ねたところで、手詰まり感がぬぐえないままであった。
しかし、そんな中で越谷には、暗闇の中にクモの糸が一本垂れてきている、そんな感覚が確かにあった。
「これが勘違いとは言わせないぞ」
越谷は固くこぶしを握り締めた。
国鉄の営業改善運動
国鉄において、特に昭和28年から38年にかけての十合長官期に行われた国鉄現業態度改善運動。
長官自ら全国の現場を巡り、特に便所の清潔さをよく指摘したことで知られる。
この活動が実を結び国鉄現業の態度は向上したと報じられるようになり、また長官自ら現場を巡ることによって、現業と長官の信頼関係を構築したと報じられている。