教室に入った瞬間に、騒々しい声が一層うるさく感じられた。越谷は耳を塞ぎたい気持ちをこらえた。こうも耳をつんざくような音を聴くと、戦場を思い出してしまう。
教室に一歩入ってあたりを見渡す。保護者会の為にコの字型に机が並べられている。
そして、比較的教壇に近い方に今日は非番だった大宮が見えた。どうやら、出席番号順では大宮の丁度隣になるらしい。背の高い方ではない大宮が、一生懸命に身体を小さくするようにして席に収まっているのがいささか滑稽だった。
「やあ、君の言った通りだったよ」
越谷は身をよじるようにして席に着くなり、大宮にそう言った。
「あら、やはり芳しくないですか」
「ここだけの話、君の予想は全部的中だ。他の事にかまけていないで、もっと君たちからきちんと話を聞くべきだった」
ここのところ挨拶回りや調整、その他判を押す仕事に忙殺されていた越谷はそれを反省するが、大宮はそれに対し変な顔をする。
「お偉いさんって普通そんなもんじゃないんですかね。郵政時代、局長さんなんて一度も現場に来ませんでしたよ」
「まあ普通はそうかもしれんな。だが、これは私のやり方なんだ。私は今までこのやり方と幸運でのし上がってきたわけだから、当然私はそれを期待されているということだ。できませんでは済まされないし、私はこれ以外にいい方法を知らない」
そんな会話を繰り広げたところで、先生が入ってきた。
先生は神経質そうな女性だった。尾羽は全体的にこういった役職に女性が付いている割合がやはり高いなあとよそ事を考える。
「ええ、ではすみません。今から紙を配りますので、順番に回していただければと……」
消え入りそうなか細い声で先生はそう指示しながら、一番前の人間に紙を渡した。前から順々に紙が回ってくる。
プリントは三枚あった。うち2枚は学校だよりと連絡事項その他だった。学校だよりには校長の恐らくほとんどの人が読まないであろう挨拶文が大きく取り上げられており、その他に保護者会会長の挨拶、各先生の挨拶と続いていた。連絡事項には、こんな問題が起きただとか、三丁目で不審者が、だとか、父母会による通学路見守りに関する提言だとかが乗っていた。
越谷が気に留めたのは、その二枚では無く、最後の1枚だった。これは明らかに紙質が違い、越谷の注意を引いた。
「なんだこれは」
越谷が紙に視線を落とすと、それは三軍委の名前が書いてあった。
仰天して内容を見ようとすると、そこには「鉄道利用自粛の要請」と書かれていた。
「ええ、それでは~」
「すみません、少しいいでしょうか!」
保護者会を始めようとした先生の言葉を遮って越谷が手を上げると、先生は身震いして首を縦に振った。
「申し訳ない。ええ、皆さまこんにちは。はじめまして。北部樺太開発鉄道から参りました『越谷卓志』と申します」
一気に教室がざわつくが、越谷はそれを無視して続けた。
「先生、お聞きしたいのですが、この紙はなんでしょうか」
先生は慌てて三軍委の紙を見る。そしてそのまま、あわわわ……と口を覆って固まってしまった。他の奥様方も、なんだなんだと紙を見て、そして気まずそうに口を押えて黙ってしまった。
「先生、これはどこからどういった命令で出たものですか?」
「え、ええと、あの、その、えっと私は」
泣き出しそうになりながらうろたえる先生を見て、大宮が立ち上がった。
「辻先生、先生が悪いわけじゃないってのは社長だってわかってますよ。センセ、これどったんですか」
どうやら、大宮は先生と顔見知りのようだった。その大宮の方に目配せすると、「担任の辻先生です。このクラスは去年から持ってます」と耳打ちしてくれた。
その間も辻は完全に固まって話せなくなっていて、見かねた一人の母親が話し始めた。
「越谷さんね、これ、同じ紙が町内会にも他のところにも来てるのよ。たぶん、紙貰ってない人でも、軍に関係者がいる人なら知ってると思うわ」
「そうね、うちにも来ているわ。だから、先生は悪くないのよ」
「うちの亭主が悪いのよ。目くじら立てちゃってさ」
「言い出しっぺ、三丁目の日比野さんでしょう。あの人は昔っから……」
「6年の颯田さんの奥様が言っていたけれど、今回はかなりお冠だって……」
やいのやいのとそれぞれが口々にいろいろなことを言い出す。
「ああ、失礼。驚きの余り語気が強くなってしまったことをお詫びします。大変申し訳ない。そして情報提供感謝します。先生、失礼いたしました」
越谷は一旦身を引くことにした。再び、身体をよじる。
ホッとした表情を見せた先生は、それから予定通り保護者会を続行した。耳の端でそれを聞きながら、越谷はどうしたものかと思案する。
陸軍に乗り込むか、海軍や空軍に根回しをして陸軍のこの“制裁”を解いてもらうか。
ここで疑問が上がる。なぜ、陸軍と仲の悪い海軍や空軍はこの件に賛同したのだろうか。
きっと、この“制裁”は陸軍の独断専行であろうから、海軍や空軍が従う道理もないし、このような極端な物言いに対しては彼らもきっと反対してくれるはずだ。
しかし、実際にはこれは軍部を中心に深く受け入れられ、市民のほとんどが軍関係者で占められている尾羽において、現実として不買ならぬ不乗運動が成功しているわけである。
なぜだ。あんなに海軍は敵ではなかったか。あんな憎らしい相手とそう簡単に和解するものなのだろうか。海軍は陸軍を嫌っていなかった? いやそんなはずはない。
そこまで考えが至ったところで、ついこの前の会話が急に越谷の脳裏をよぎった。
『中央での政治的構造は、尾羽では通用しない、ということだ。君の眼には陸海空がいがみ合っているように見えるかもしれない。だが、それは東京病というものだよ。卓志くん』
『抽象的な話で済まないね。より具体的な話をしよう。君が思っているほど、昨今の尾羽現地の陸海空は仲が悪くない』
そうだ、つい先日十合がそう言っていたではないか。越谷はやっとこの言葉の本意を得た。思わず膝を叩いたが、それと同時に自らの考えの甘さを痛感させられた。
「ええと、これで本日は以上です。ありがとうございました」
越谷が思考に没頭している間に、保護者会は終わってしまっていたらしい。慌てて周囲を見渡すと、越谷の周りに人が集まり掛けていた。
「ダイジョウブ、日本の電車、
一番最初に駆け寄ってきたのは、白人然とした男だった。その後ろに、華僑系の男が続く。
「日本人、安全、気にしすぎ。電車事故するもの。発鉄は安全」
二人はそう言いながら握手を求めて来た。幸谷は苦笑いしながらそれに応じた。
気持ちはとてもうれしかった。だが、理由に少し引っかかってしまった。そう考えていると、日本人の奥様方も寄ってきた。
「まあそう言うことだから、がんばってくださいな。私たちももう地吹雪の中なんて、せめて街中では歩きたくないの」
「そうよ、許可が出たらいつだって乗ってやるんだから。ほんと、はやくいざこざが終わればいいのにね」
奥様方は越谷の肩を叩きながらそんなことを言う。少し、元気を分けてもらえた気がした。
「ありがとうございます。必ずや、我が発鉄は皆様の信頼と安心を得られますよう安全確保に全力を尽くしますので、ぜひとも我らが発鉄電車をよろしくお願いいたします」
越谷はもう一度頭を下げた。
今度は先生も近づいてきた。
「あの、私、ずっと越谷さんの事を本で一目見た時からお慕いしておりました。私明日から発鉄で通勤します!」
そう言いながら辻と名乗った先生は越谷の手を握り、ぶんぶんと手を振った。
越谷は苦笑いしながらも、なんだか元気をもらった気がした。
ともあれ、貴重な情報を得た。越谷は大宮に明日また会おうと約束を取り付けると、一目散に本社に向けて駆け出した。
「ああ、これは重大発見だ!」
今すぐに報告しなければ。越谷は夕陽に向かいひた走る。
この発見は、発鉄を揺るがしかねないほどに重要で、そしてすべてのカギになるかもしれなかった。
肺に冷気をいっぱいに含みながら、悲鳴を上げる足に鞭を入れて走る。
「見つけたぞ、幸谷君! これが、これが真実だ!」
目を輝かせながら、越谷は暮れなずむ街を駆け抜けていった。
保護者会(広辞苑 岩波書店)
学校の児童・生徒の保護者が学校と家庭との連絡を図り、学校の教育の成果をあげるために行う会合。父母会。父兄会。→PTA
regional(りーじょなる)
英語・形容詞。【意味】地域の
(文脈から察するに、男はregionalを