昭和44年 九州地区ダイヤ訂補にかかる会議にて。
「戸ジメ点灯、後方確認よし、軌道進行! 郵便局前発車、次停、尾羽中央停車!」
ハリのある声が運転室に響く。
本来なら混み合う朝時間帯、市街道路上を行くこの列車も普段は2両もしくは単行であるとこ、4両に増車されている。モーターも大混雑に耐えられるように大幅に増強された車両を使用している。
「地獄」と評される朝ラッシュに完璧なまでに備えたこの列車は、少々どころでなく力を持て余し気味に前へ前へと進んでいった。
そんな列車を運転する運転手、大宮明雄は今日も淡々とマスコンを握り、この5000系電車を堂々と前に進める。路上には自動車、バス、軍用車、そして歩行者がひしめき合う。
「いやあしかし、これが滑り出し好調な路線のラッシュ時間帯、なのかねえ」
横でぼやいているのは、業務の為に尾羽駅まで便乗する三田だ。
「……これ、ほんとに大丈夫なんですかねえ」
信号待ちの間に後ろを振り返る。軌道線での運用を前提としている5000系は客室と運転室との仕切りがなく客席を直に見る事が出来るのだが、利用客の姿を認めることはやはり、できなかった。
「ね、大宮君。今まで朝ラッシュ運転してて手ごたえあったこと、あった?」
「新羽線の朝ラッシュ以外はないですかねえ」
今、大宮が運転しているのは軌道線、つまりは路面電車線の環状線だ。この鉄道で一番の稼ぎ頭として期待されている路線で、初日の営業成績でも一番をたたき出した線区だ。
話に上がった新羽線は新団地と尾羽駅を結ぶ通勤路線。この鉄道で最も採算が合わないであろうと危惧されていた路線である。
「やっぱおかしいですよね。ここが一番混むから覚悟しろって、試運転の時からおやっさんにドヤされまくったのに」
「ほんとよねえ。私、開業の日以外で乗車率が二割を超えたの見たことないわよ」
「あ、僕もです。やっぱ乗ってないですか」
自動車用信号が青になる。割り込んできた交通違反の自動車を先に行かせて、ゆっくりと走り出す。
「ねえ、本当に大丈夫なの? この鉄道」
「大丈夫なんじゃないですか? お偉いさん方はなんか数字見ながらよかったよかった騒いでましたし」
「……それ、新羽線の数字だけ見たんじゃないでしょうね」
「さあ……。そう言われても……」
二人はそのまま押し黙った。振り返るとお客は3人しか乗っていなかった。
本来なら立客が出るほど混み合うだろうとされていた車内には、誰かが捨てた新聞紙が暖房の風に揺れているだけ。
そのまま止まったり行ったりを繰り返しながら、電車はやっとのことで終点へたどり着く。その頃には、もうお客は乗っていなかった。
二人は顔を見合わせて、首を傾げた。
「じゃあ、とりあえずの数字は明日出るんだな?」
「ええ、そのつもりです」
越谷は出社してきた瀬戸を呼び止めて話をしていた。内容は明日出るというとりあえずの鉄道運輸収支だ。
「開業一カ月の間の暫定の数値ですから、あまり意味のあるものではないでしょうが、とりあえずの動向ぐらいはつかめると思います」
「乗車率やなんかの話もそこで出るかい?」
「いえ、そちらは運輸部の方の話になるかと。桐谷さんの管轄です」
「あい分かりました。じゃああとで桐谷君に話を通しておくか。すみませんね、忙しい時に呼び止めちゃって」
いえいえ……。と瀬戸は力無さげに答えた。
越谷はそのままいつも通りに立ち去ろうとすると、その越谷を珍しく瀬戸が呼び止めた。
「あ、あとすみません。本日私は昼で抜けさせていただきますので……」
「ん? 何かご都合でも?」
「娘の病院に呼ばれていまして。すみません」
「瀬戸さんの娘?」
越谷が首をかしげていると桐谷がやってきた。
「ああ社長。瀬戸さんの娘っ子、今佐保の中央病院に入院してるんですよ」
「あら、それは大変だ。報告は多少遅れてもいいから今日は休みますかい?」
「いえ、それには及びません。病院からは夕方来るように言われておりまして……。定時だと間に合いませんが昼に出れば十分間に合いますから……。では……」
瀬戸は弱々し気な声でそのまま消え入るようにどこかへ行ってしまった。
「桐谷君。瀬戸さんのご息女の病気って?」
「ああ、ナンタラカンタラ症候群だか病だかいう難病だそうです。心臓手術が必要とか何とか」
「なんだって? そりゃあ大ごとじゃないか。大丈夫なのかい?」
「大丈夫じゃないからここに来たんですよ」
桐谷の言葉の真意がつかめず、越谷は困惑する。
「どういうことだ?」
「あの人、もともと復興道路建設って会社のお偉いさんなんですけどね、娘の世話ができるようにって忙しい本店幹部職を降りてこっちにきたんですよ。今はああやって何回か病院に通ってるそうです」
「復興道路建設?」
「飯田重工系の会社で、尾羽の道路だとかを作ったとこですよ。ああ、道路工事全般請負なんで、軌道線の線路敷設も請け負ってるはずです。まあ、飯田系ですから盤石な会社ですよ。そこの幹部職蹴ってきたわけですから……」
「そういうことか。なんだなんだ大変じゃないか。こちらとしても十分に配慮してあげなければいけない。しかし、よく幸谷君は文句言わなかったな」
「社長、貴方は私を何だと思っておいでですか?」
噂をすれば、奥の扉からひょっこり幸谷が顔を出した。
「私は悪魔や鬼畜の類ではないんですから。それに、彼は『経理の鬼』の二つ名をもつやり手ですよ。仕事さえまともにこなしていただけるのなら、こちらは何も言う権利はありません」
「いつもは社内秩序秩序うるさいくせに、珍しいこった」
桐谷が茶々を入れると、幸谷はムッとした顔をした。
「あの人は特別なんだ。貴様の何倍も優秀で謙虚で、なおかつ年上だ」
「おい。俺もお前の年上なんだが」
「社会人の、それも幹部職もなってまで歳の差なんて気にしているのか? 器の小さな奴だな」
「おい、お前今数秒前になんて言ったよ。ねえ社長、自分の今しがたの言葉さえ覚えてない奴に何が務まりますか。今からでも遅くないから国鉄に返品しましょう」
「まあまあそこらへんにしたまえ。ともかく桐谷君。君には乗客の利用状況の情報の用意を頼みたい」
面倒くさい方向に話が流れたのを悟った越谷は、半ば二人の話を無視するかのように話を切り替えた。
「ああ、わかりました。けど何をするんで?」
「初動の利用状況を鑑みて、列車のダイヤ修正を行う」
ガタン、とモノが落ちる音がした。一瞬の静寂の後に、発鉄本社4階フロアは騒然となった。
「ちょっとまってください。本気ですか?」
そう血相を変えて越谷に詰め寄ってきたのは、桐谷の部下、運輸部運転管理課計画掛の藤波だ。
「オイ待て藤波。お前さんは戻れ」
桐谷に制止され、藤波はひとまず引き下がった。越谷は、計画通りとばかりににやりと笑う。幸谷は何かおかしいと勘付き、社長席の前に立ちはだかった。
「みんな、仕事に戻りなさい。君たちが口を出すことではない」
幸谷が社長席に背を向けるとそう言い切る。社員は憎々し気な視線を幸谷に向けながら仕事に戻っていく。
それを確認すると、幸谷は振り返って越谷の前で仁王立ちをした。
「しかし、こればかりは社員たちの言い分も理解できます。社長、ありえません。せめて10月改正まで待つべきでは?」
滅多に社員の肩を持たない幸谷が、こればかりは社員の肩を持った。
「なぜ、そう思うんだい?」
越谷は幸谷に対して挑戦的な笑みを浮かべる。幸谷はあからさまに不機嫌な顔をしながら口ごもった。
「私は現場のことなど知らないので、ダイヤの策定に何カ月かかるのかは存じ上げません。が、しかし、制定から一カ月のダイヤを弄るなど正気の沙汰ではないことぐらい、私だって存じ上げています」
「なんにも知らない幸谷おぼっちゃまの代わりにあっしが答えましょう。通常改正であれば一年、小改正でも半年、白紙改正であれば5年を要して各部との折衝の末にダイヤ改正を行います。こんな『数週間単位』でのダイヤ修正は異例、というより、無謀ですな。旧東武管区の連中なら絶対に、旧西武管区の連中でさえも止めるでしょう」
歯切れの悪くなった幸谷を鼻で笑いながら、桐谷が越谷を諫めようとする。
「もちろん、承知している」
「ならばなぜ……!」
全てを判っている、といった面持ちの越谷に、幸谷は食ってかかった。
「しかし、それでは遅いのだよ。ここは樺太の最北。雪は6・7月まで残り続けるし、秋は10月くらいから雪が降り始める。そんな環境で、通年計算で造られたダイヤが役に立つと思うのかい?」
「それはそうですが……」
言いよどむ幸谷に越谷はまくしたてる。
「であるから、発鉄はこの通年ダイヤを基軸としつつ、きめ細かなダイヤ修正を行いダイヤの適正化に努める」
ついに幸谷は頭を抱え込んでしまった。そこに桐谷が珍しく幸谷の肩を持った。
「しかし、あっしも少し疑問に思いまさぁな。そんなことができるんで? ダイヤの修正なんてもんはさっきも言った通り楽なもんじゃないですよ」
桐谷の質問に、越谷は胸を張って答えた。
「国鉄西東京鉄道管理局というものがあるね? 君たちの中には知らない人間もいるかもしれないが、私はそこに居た。そこは中央線を始めとする首都圏中枢路線を管轄する部署なわけだが、私が居た時代、すなわちテロ後の復興輸送では、比喩でなく毎日ダイヤを変更して運行を行っていた」
「ああ、聞いたことがある。中央線奇跡の復興輸送!」
扉の隙間から盗み聞きをしていた藤波が勢いよく飛び出してきた。
「君、桐谷に帰るように言われていたのでは?」
「すみません幸谷さん、つい。社長、あれですよね。復旧状態や沿線の復興状態、その日の交通状況を見極めて毎日ダイヤを修正したっていう、あの伝説の復興輸送ですよね!」
藤波は幸谷を押しのけるように前のめりで話し始めた。
周囲からは、あれか、と思い出したような声が漏れだし、だんだんと空気の温度が変わっていくのが越谷には分った。
「そうだ。あれは有事の緊急対応であったし、あそこまでやれとは言わないが……。この作戦は日本屈指の過密路線たる中央線でやってのけたのだ。まさか、この鉄道で出来ないと言うまい?」
越谷の煽るような発言に、発鉄の社員たちは徐々に気色ばんでくる。その中で幸谷だけが険しい顔をしていた。
「しかし、非常時でもないのに非常時体制を敷けと言っているに等しいですよそれは」
幸谷の指摘に、越谷はまさに! と指をさした。
「考えても見てくれたまえ。夏は濃霧で、冬は大雪。落ち着いたころには大規模演習やらで特別列車をしたてろ、旅客は後回しだと陸軍が無理を言ってくる。常に非常時みたいなものだ。どうかね? ここでも十分通用しそうだろう?」
「私は反対ですね」
越谷の雄弁な語りに皆が我を忘れて目をきらめかせる中、幸谷は一人冷たく言い放った。
「今は、平時です。それに、有事であったとしても、その作戦は酷い混乱をまねいた。模倣すべきではないでしょう。まあ現場がどうなったとしても私の知ったことではないですが、しかし場当たり的な運行計画は、のちのちの車輛計画に支障をきたします。最悪、年単位で車輛繰りに支障がでることになります。これは問題です」
幸谷の真っ当ともいえる意見に、ここで桐谷が水を差した。
「いや、良いじゃないか。運輸部は協力しますぜ」
「何を勝手なことを」
「なんだよ。この件は運輸部が飲めばそれで終わる案件だろ? どうせ他社が絡むところは変えられないんだ」
桐谷は完全にその気のようだ。ひとり取り残された幸谷が怒りだす。
「だからなんだ!」
「大枠は変わらんのだからぐちゃぐちゃ言うなと言ってるんだ」
幸谷の激昂に桐谷は珍しく落ち着いて応えた。
「まあまあ幸谷君。君にも言い分はあるだろう。とりあえず、明日、数字が出る。その数字を基に話をしよう。桐谷君、感触では数字は良さそうなんだろう?」
「ええ、心配されていた新羽線の乗車率は良好です。一番の懸念線区が良かったので、まあ他の線区は見れていませんが一安心と言ったところでさぁ」
「こうなってくると、増発が必要かもしれん。今この街は急成長期にある。その流れを輸送量不足などで止めてはいけないんだ。もっとも、これが雪解けによるものなのか、尾羽の人口増によるものなのかの見極めもしないといかん。修正ダイヤを適用してからまた一カ月後にはダイヤを変更する。こうやって妥当な落としどころを探っていこうというものだ。こう聞くと悪くはないだろう?」
「それは……」
幸谷が言いくるめられようとしているのをいいことに、桐谷は調子に乗って動き出そうとする。
「車両繰りを考えにゃならん。こうなってくると眠ってる旧型国電も叩き起こした方がいいですかねえ。関係他社との折衝も必要になってくる。楽しくなってきますよう!」
「おい、桐谷!」
幸谷は口角泡を吹き飛ばしながら反対を表明し続ける。
「いけません。10月改正まで待つべきです。それに安易な増便は運営の破綻を招きます!」
「君の気持はよくわかる。だから、とりあえず明日出る数字を見よう。私も慎重論には賛成だ。それに、私が提案するのはダイヤの適正化だ。わかるね? 決して無鉄砲に増やそうって言うんじゃない。減らすべきところは減らそうということだ。それには君も賛成なんじゃないかい?」
越谷の、ある種の幸谷擁護とも取れる姿勢に憤懣やるかたないといった面持ちで押し黙ってしまった。
「という訳だ。とりあえず明日だ」
越谷は幸谷に申し訳ないと思いつつ、その場を締めくくった。
「大宮君すまない。待たせたね」
身支度を済ませた大宮のもとに越谷が小走りでやってきた。
「いえいえ。ただちょっと急がないとまずいかもしれないです」
大宮が懐中時計を見ながらそう告げた。その正確無比な鉄道時計は17時丁度を指示していた。
二人の目的地は、お互いの娘が通う小学校である。
なぜ、そんなところに行かねばならないのか。事は、昨日の晩にさかのぼる。
「明日の夕方は用事がありますから、優香の迎えはあなたがやってくださいね」
「迎え? なんのだ」
越谷が残業で少々遅くなって帰宅すると、すっかりぬるくなった夕飯と共に、そんな言葉で出迎えられた。
「優香の小学校での下校訓練ですよ」
妻であるよし子に、一枚のガリ版刷りの紙を渡された。そこには「下校訓練の為、父兄は迎えに来るように」と書いてあった。
下校訓練、とはこの時期の尾羽の小学校で行われるひとつの年中行事であった。
非常時を見越して児童を緊急帰宅させる訓練である。毎年入学式直後の4月に行われる。そしてこれは一週間ほど続き、その間保護者は毎日子供を迎えに行かなければならないのである。
越谷家も、そんな行事に巻き込まれた一つの家庭であった。
「用事……ならまあ仕方があるまい。わかった、私が行こう」
そして、どうせなら大宮君に会っていろいろと現場の事を聞いてこよう。そう考えながら越谷は下校訓練へと赴くこととなったのである。
「そうか。なら急ごう」
本社ビルを出て、二人は歩きだす。目的地は安塚小学校。幸子と、越谷の娘の優香が通う学校だ。
足元は湿っているが歩きにくいということはない。ただそれは大通りだけで、路地に入るとそうではなさそうだった。
もうすでに定時を過ぎた時間であり辺りは急に暗くなっていく。商店の親父がたまり水が氷にならないように
「尾羽の夕暮れは早いな」
「そりゃ、最北端ですから。じきにうんざりするぐらい昼の長い季節がやってきますよ」
尾羽の道路は整備されていて歩きやすい。が、ところどころに罠のようなくぼみがある。大宮の言葉に気の利いたことを返そうと思っていた越谷は、見事に転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「いやはや、
越谷はあたりを見渡して言う。
「尾羽の人間は慣れているんだな」
「尾羽の街は整備されていますし、それに街もまとまってますからね。尾羽は歩きでどこまでも行ける、とはよく言ったものです」
「その言葉は初耳だな。こんな極寒豪雪の地で、市民は歩きで移動するのか」
「もともと人通りが多い町でしたから、尾羽は。昔から身を寄せ合って生きて来た街ですよ。アジア人は寒さには弱いかもしれませんが、集まって重なり合えば耐える事が出来る……。と、恩師が言っていました」
「にわかには信じがたい話だな。しかし、見る限りそうなのだろう。冬でも街に活気があっていいじゃないか」
「まあ商店は不死鳥通の商店街以外はかなりの店が閉まっちゃいますけれどね。それでも、活気があることはいいことです」
コンクリート製の歩道を進む。ところどころでマンホールから蒸気が上がっている。
「欧米人はこういう光景に郷愁を感じるそうだ。そういえば、この街にもちらほらと見えるな」
「欧米人が見たきゃ佐保とか、もっと南の方が多いですけれど、確かに尾羽にもいますね。彼らは本当に寒さに強いんですよ」
「うらやましい限りだ」
そうこうしているうちに、校門の前に着いた。
「現在、17時42分。上出来なのでは?」
「何とか間に合ったな。さて、二人を迎えに行こう。きっと待ちくたびれている」
二人は小走りに校舎へ急いだ。
優香は、友達とおしゃべりに夢中になっていた。それとは対照的に、幸子は隅っこで一人ぽつんとしていた。
「越谷さんのお父さんと大宮さんのお父さんですね。明日は訓練の最終日でPTAがありますので、必ず父兄が参加なさるようになさってください」
これは明日も早退することになりそうだ。越谷は手早くメモを取った。
ともかく二人は自分の娘を引き取り、家へ帰ることとなった。
「しかし社長、気になることがあるんです」
帰り道、大宮は思い切って越谷に聞いてみることにした。
「ほう。ぜひ聞かせてくれ」
「前、桐谷さんがうちの会社は出だし好調だと言っていたのですが、どのあたりが好調だったんですか?」
大宮から経営に関する疑義が挟まれるとは思っていなかった越谷は、自分の考えを整理するがてらに話してみることにした。
「一番懸念材料であった新羽線において、沿線の新団地の入居者が当初予測を大幅に上回ったためか非常に乗車率が好調だった。であるから、おそらく運営は順調だろうという見立て、ということだ」
越谷がそう言うと、大宮は渋い顔をした。
「新羽線と、あと工業線その他と……鉄道線だけで収支は黒になるんですか?」
「新羽線だけでは無理だな。工業線を入れても不可能だ。なぜならこの二つの路線は通勤定期券利用が多いからな。割引率の大きい日本では、これらだけでは他路線も含めた収支を保つことはできない。そして、昼間の不定期収入も見込めない。市街地と基地を結ぶ各線も同じ理由で収益率は悪く、これを足しても収支はギリギリ赤といったところだ。やはり、市街を走る軌道線の収入があって初めて黒になるだろうな」
そこまで言って、越谷はハッとした。
「……軌道線の感触は確認していなかったな」
「やはりそうでしたか」
不安が的中した、という顔で大宮が越谷を見た。
「その顔から察するに、悪いのか?」
「ええ。朝ラッシュでさえ、定員の2割を超えたことがありません」
「なんと」
越谷は腰を抜かしそうになった。まさかそんなに悪いとは。
時計を見る。時刻は18時を回ったところだった。
「その話を今聞けてよかった。さぁ大変だ。対応を考えなくちゃあ。今から会社に戻れば幸谷君か桐谷君が……」
と、越谷が踵を返そうとして、足元にいる自分の娘にようやく意識がいった。
「お父さん……?」
「ああ、すまんな。 今日は一緒に帰る約束だった」
越谷は優香のあたまをくしくしと撫でた。
「とりあえず今日は帰ろう。帰って、明日のことを考えなければ」
越谷は胸に一抹の不安を抱えながら、優香の手を引いた。
翌日、越谷はいつもより早く職場に顔を見せた。
空はすがすがしく晴れており、何かの物語ならすべてがいい方向に転調し始める、そんな日和であった。
空気がひんやりと気持ちがいい。まだ暗くグラデーションがかかった街の色が、特別な非日常間を演出してくれている。見ているだけで幸せになりそうだったが、越谷の胸中は穏やかではなかった。
眠そうにあくびをする守衛に敬礼する。びっくりして眼鏡を落とした守衛に、いつもであれば笑いながら眼鏡を拾ってやりなにか声をかけるだろうが、そんな余裕はみじんもない。
小走りに階段を上がり、社長席のあるフロアへ行く。もうすでに何人かの社員は出社していた。
「瀬戸君はいるかね」
そう目の前に居た一人に声をかけると、遠くからどたどたと誰かが走りくる音がした。
「社長! 大変です!」
瀬戸の声だ。そう認識した瞬間、越谷は頭が痛くなるのを感じた。
状況は、限りなく悪そうだった。
復興道路建設
飯田重工系の道路建設会社。主に満州や樺太の道路の建設を行う。
また、道路建設に付随して軌道線(路面電車線)の併用区間(道路と鉄軌道が重なって存在する区間)の建設も行う。
著名な例では、尾羽市街地(発鉄)や豊原市電(豊原市交通局)、大連、哈爾賓などがある。
樺太の道路整備においては、欠かすことのできない重要な企業である。
出典:樺太鉄道便覧