俺と祭は一応の護衛を数人連れ、隊の事は賀斉と董襲に任せて砦の中へと入っていく。
砦の中は制圧されたにしては綺麗な状態だった。
圧倒的な実力差があったからか、黄巾党の死体はあるが討伐軍と思しき死体は見られない。
斬り付けるような一撃で命を奪われた死体が多いのは、雪蓮嬢や春蘭のような実力の高い武官が最前線を駆け抜けたからだろう。
しばらくして皇甫嵩将軍から直掩の任を解かれたらしい雪蓮嬢、冥琳嬢と合流する。
「皆、無事~~?」
「ご無事で何よりです」
緊張感のない雪蓮嬢とかっちりとした冥琳嬢の言葉に俺は自然と笑みを浮かべた。
「そちらも無事のようで何より。軽い報告ですが我ら側の被害は軽微ですな。怪我人の応急処置も既に終わっております。儂と刀厘については見ての通りじゃ」
祭の報告に冥琳嬢がほっと安堵の息を付いた。
「しかし首魁の首級を取り損ねました。申し訳ありません。曹孟徳らの誘導に気付かず利用された己の未熟を恥じるばかりです」
今回の遠征における最重要の目的を果たせなかった事を詫び、その場で頭を垂れる。
建業軍で最も張角たちに肉薄していながら、その顔を拝む事すらも出来なかった。
この失敗の罰、その沙汰を聞くために俺は頭を垂れたまま雪蓮嬢たちの言葉を待つ。
「それだけあちらが上手だったって事でしょう? 次に同じ事を繰り返さなければいいわ。貴方だってこのままで済ませるつもりはないんでしょ?」
「無論です」
「ならいいわ。そうね、罰があるとすれば今回の責を負って貴方が軍を辞める事を建業太守として、そして孫家当主として許さない。これが貴方への罰よ」
罰にもならない罰を告げると、雪蓮嬢は頭を垂れた俺の肩を軽く叩き立つように促す。
促されるままに俺は立ち上がり、してやったりと猫のように目を細めて笑う当主殿の顔を見つめた。
俺が決意を込めて笑い返すと彼女は満足したように頷く。
「既に撤収する許可は皇甫嵩将軍より頂いております。この砦は将軍麾下の兵が調査の上、接収するとの事。手早く軍をまとめて建業へ帰還いたしましょう」
俺たちの会話が一段落したところを見計らった冥琳嬢の言葉に全員の返事が唱和する。
即座に俺も含めた各員が撤収作業のために散る。
その慌ただしさの中、俺は雪蓮嬢のぼそりとした声を拾っていた。
「……曹孟徳。良いように利用してくれた借りは必ず返すわ」
本当に頼もしくなったものだと、俺は口元を綻ばせていた。
そんな朗らかな気分で撤収準備をしていると、公孫賛の軍勢とすれ違う。
無礼にならぬよう通行させるための道を空け、通り過ぎるのを待った。
先頭を歩く薄桃色の髪の女性が白馬長史と謳われる公孫賛か。
一軍を率いる姿に余計な気負いは感じられない。
自領で異民族や山賊を相手取っているが故の慣れか。
そんな公孫賛のすぐ後ろに見知った顔がいた。
彼女、趙雲もこちらに気付いたらしい。
面白そうに目尻を下げて、目線だけで頭を下げる。
俺も返礼するように軽く目線を下げると、それだけで満足したのか俺から視線を外す。
趙雲がどういう立場にいるかは知らないが、自分が会話するために軍の動きを乱すような真似はしないという事だ。
おそらく皇甫嵩将軍に会いに行こうというところなのだろう。
気持ち駆け足気味に目の前を通過していく彼女らを尻目に、俺もその場を後にしようとする。
公孫賛の一団の最後尾にまたも顔見知りがいる事に気付いた。
彼女とその麾下の者たちが堂々とした振る舞いをしているからか、最後尾にいる少女らははっきり言って浮いていた。
そう、何があったか公孫賛のところにいるらしい劉備たちだった。
正直なところ、以前の接触が接触だったために公的な立場を持った今のような状況では会いたくない手合いだ。
声をかけられ、あまつさえあの時の事を言及されるなどただただ面倒な事にしかならない。
俺は気付かなかったという事にして無視する、という結論を弾き出してその場を去って行った。
劉備は気持ち駆け足の公孫賛たちに付いていくのが精一杯でこちらに気付かなかったようだが、関羽と張飛はやはりこちらに気付いた様子だった。
しかし公孫賛軍の一員としての責任感か、または別の思惑からか声はかけてこなかった。
俺としては内心はどうあれ、この場で声をかけられなかったのはありがたい。
この後、絡まれる可能性を考えてさっさと撤収準備を終えてしまおう。
そう思った矢先に別の人物に絡まれてしまった。
隊の者たちの撤収を指示していたところ、彼女は背後から何の前触れもなく声をかけてきた。
戦場での鬼神が如き雰囲気は無いが、大体の兵が黄巾党相手に振るわれた武勇を見ているためにその正体を知っている。
「……ねぇ」
「! これは失礼をいたしました。なにか御用でしょうか、奉先将軍」
振り返りその人物が誰か理解した俺は膝を付き、頭を垂れながら用件を窺う。
あちらの方が圧倒的に立場が上のため、公的な軍人として動いている今は謙る必要があるが故の態度なのだが。
「顔上げて。礼も要らないから立っていい」
彼女はどういう訳か、俺の態度が不服らしい。
抑揚の薄い声だが、それでも声には会話する事が初めての俺ですら分かる不機嫌さが宿っていた。
「では失礼いたします」
何故という疑問はさておき、言われるままに立ち上がる。
俺の方が背が高いから彼女は立ち上がった俺を見上げる形になる。
人によっては見下ろされる事を嫌う事もあるが、この少女にはそういう事はないらしい。
凪いだような感情が読みにくい、義理の娘と同じ紅色の瞳がじっと俺を見つめていた。
「……」
それから彼女は何を言うでもなく、ただ穴が空きそうなほどと表現できるほどにじーっと俺を見つめてきた。
賀斉や董襲も最初こそ何事かと警戒していたが、本当に何もしないで俺と睨めっこしている呂布に困惑している。
気の済むまで眺め終わったのか、納得したように何度も彼女は頷いた。
「……似ているんじゃない、そっくり」
その言葉が何を指すのかは俺にはわからない。
「名前、教えて。私は呂布。呂布奉先」
改めてあちらから名乗った事に驚くが、硬直する事なくすんなりと名乗り返す事が出来た。
「姓は凌、名は操、字は刀厘と申します」
「わかった。……またね、凌操」
彼女は遠くから自分を呼ぶ声に気付き、俺にまた会いたいという旨の言葉を告げて去って行った。
妙に親しげな彼女の態度にこちらは混乱してばかりだ。
ただ彼女が言った『そっくり』という言葉から、俺は彼女の知る『誰か』に似ていて、だから気に入られたらしいのだという事は理解した。
三国志最強の彼女と意図せず結ばれたこの縁が今後どうなるかは残念ながら今の俺には予想も付かない事だった。
俺同様、呂布のよくわからない行動に困惑していた部下たちだがそこは日頃の訓練の成果か、すぐに気持ちを切り替えた。
撤収作業はその後の頑張りで予定通りの時間に終わらせる事が出来た。
その頃には陸遜や周泰たちとも合流、怪我人こそ多数いたものの死者はなく、兵士たちも実戦の経験として充分なものを得る事が出来たようだ。
撤収の最後の段取りとして、雪蓮嬢と冥琳嬢が皇甫嵩将軍へ挨拶に窺い、黄巾党討伐軍としてやることをすべて終えた俺たちは建業への帰路につく。
皇甫嵩将軍と会う機会は無かった。
ここまで来たら一目会えないかと思っていたのだが、そこまで都合良くはいかないようだ。
雪蓮嬢たちの挨拶に付いていく事も考えたが、今回の主役はあくまであの二人。
ここで出しゃばるような真似はするべきではないと考えて付いていくのは自重した。
そういえば俺たちが撤収作業をしている間、華琳が雪蓮嬢に会いに来ていたらしい。
雪蓮嬢、冥琳嬢から見た華琳たちの印象を聞いてみたが。
「出来る女だったわね。今まで見てきた限り、一番の強敵。あとあれね、友好を結ぶにしても敵対するにしても一度本気でやり合わないと駄目だと思ったわ。どちらが上かはっきりさせないと据わりが悪いもの。間違いなくあっちもそう思っているはずよ」
雪蓮嬢からは高評価だが、おそろしく物騒な感想が返ってきた。
「私たちに己の野心を隠そうともしない態度。彼女は私たちが自分の前に立ちはだかるだろう事を理解しています。同時にそれを望んでもいる。であるならばこちらも全力を持って相対するべきでしょう。今後の動向次第でどうなるかわからない皇甫嵩将軍や公孫賛殿よりも明確な敵、それもとびきりの難敵です。周囲を固める者たちも夏侯姉妹を筆頭に強者揃い、準備を怠れば飲み込まれるのはこちらです。まぁそうならぬように備えるのが私たち軍師の仕事ですのでお任せください」
冥琳嬢はあくまで軍師という立場から彼女を危険視し、最大限の警戒と戦うための準備を約束した。
結論として優秀である事は二人から見ても明らかであり、その野心から敵対は避けられないと感じたと言う事だ。
華琳たちと戦う事に躊躇いがないわけではないが、それでもあの子と戦う時は全力を持って相対しなければならない。
俺もより一層の覚悟を持たねばならない。
黄巾党の乱は終焉を迎える。
だがこの大陸での戦いはこれからも続いていく。
太平の世は未だに遠い。