西平軍が帰ってすぐのこと。
俺たちは留守を陽菜と冥琳嬢、雪蓮嬢、激たちに任せて曲阿に来ていた。
思春には建業で残った皆の護衛を任せているので今回は留守番だ。
子烈は俺の両親に預けている。
俺と似ている事が功を奏してか、両親に対して子烈は初めて会った時も怯える事は無かった。
そこからは二人の人柄のお蔭であっという間に懐いてくれている。
建業での生活でだいぶ他者に慣れてきたくれたようで、豪人殿たちにも出会えば近付くくらいにはなっていた。
今後にも期待できる良い傾向だと思う。
それはそれとして。
曲阿に来た目的は勿論、馬家の来訪によって先延ばしになっていた視察だ。
視察に参加する面々は蘭雪様、俺、蓮華嬢に加えて護衛部隊のみ。
かなり人数を絞っているのは本拠地の守りを手薄にするわけにはいかないというのが大きな理由だ。
今後も少人数を代わる代わる視察に出すという事になっていて今回はその初回になる。
今後の展望としては近いうちに曲阿を蘭雪様の後継である雪蓮嬢か蓮華嬢に任せる事になっている。
今回の視察はその為の準備の一貫と言うことだ。
美命たちの能力は信頼しているが、だからこそこの視察はしっかり念入りに各人の観点でもって行わせたい。
そう進言したのは陽菜と俺だ。
無礼者は手打ちに、気に入らない事は切って捨てるというのが当たり前な時代だ。
権力を行使するのは支配者側の正当な権利だが、その様が民にどう見えるかわからない。
畏怖ならばいい、だがいたずらに恐怖を振りまくような事になってはいけない。
ならばどうするか?
権力を行使するような要素を事前に排除する、だ。
だが俺や陽菜だけがいくら気をつけてもそんな不安要素を見つけられるわけではない。
ただでさえ不確定なものを探ろうとしているんだ。
見逃す可能性なんてものは絶対に無くならないだろう。
ならせめて見逃す可能性を極端に減らしたい。
その為の複数回に渡る視察というわけだ。
とはいえこの一回目に関しては少々、乱暴な手段を使わざるをえないんだが。
曲阿の城下は建業には劣るが、それなりに栄えていた。
この領土が与えられた頃は前領主のやりたい放題の結果、城下には浮浪者が溢れる笑顔とは無縁の無法地帯だったと聞いていた。
そんな場所をここまで立て直したのだという事実そのものがここに派遣された美命たちの並々ならぬ尽力を表している。
民は俺たちが城下を通過する際、どよめき遠巻きにしてこちらを窺っていた。
しかし事前に通達でもされていたのか、過度な反応ではなく俺たちに敵意や害意を持っているようには見えなかった。
城の玉座には曲阿に派遣した皆が揃って俺たちを出迎えてくれた。
「久し振りだな、祭、美命、慎、深冬」
空座になっている玉座に蘭雪様が座り、彼ら一人一人の顔を見て声をかける。
労いを受けた面々も含めて俺たちは皆が膝をつき、その言葉を聞いた。
「ここに来るまでに大通りを歩いたが中々景気は良さそうだったな。よくここまで短時間で復興してくれた。お前たちは建業の、そして私の誇りだ。これからもよろしく頼む」
「「「「はっ!」」」」
その場に集まった臣下の声が唱和し、広間を震わせた。
そして次の瞬間。
「ん、よし。堅苦しいのはもういいぞ。ほら、お前ら顔上げろ、顔」
「身内しかいないとはいえ仮にも余所の土地なのだからもう少し緊張感を保て、馬鹿者がっ!!!」
「へぶしっ!?」
美命の鞭が蘭雪様の頭部に叩き付けられた事でそれまでの緊迫した雰囲気は霧散し、建業の空気がその場を包み込んでいった。
「おい、美命。もう少し手加減してくれ。視界がまだ明滅してるんだが?」
「これから元からここにいた文官たちや仕官した者たちと目通りしなければならないというのに気を抜くお前が悪い」
涙目で訴える蘭雪様に、冷たい眼差しで冷たい言葉を言い放つ美命。
長い付き合いだからこその掛け合いなのだが、よく知らない者が見たら彼女の謀反を疑う所だろう。
「鋭すぎる突っ込みは健在だな。壮健で何よりだ、美命」
「お前たちもな、駆狼。そして蓮華。こいつと雪蓮の世話は大変だっただろう?」
「お気遣いありがとうございます、美命。でも冥琳たちもいましたからそれほど苦労はしていません」
「そうだな。あの二人から解放されたとはいえ慣れぬ土地の復興に当たっていたそっちの方が苦労していただろう。祭、慎、深冬が脇を固めたとはいえ、な」
名指しした妻と幼馴染み、そして古馴染みと言っていい付き合いの忠臣は俺の言葉に苦笑いを浮かべた。
「確かに。ここに来た当初、民は疲れ切っておった。お上が自分の事しか考えぬ輩であったという事実は儂らの想像以上であったよ」
「当時はどこから手を付けたらいいかも悩むくらいに問題だらけでしたし、民からも残ってくださった文官の皆さんからも信用なんて欠片もありませんでしたからね」
「何もない所から信用を得る事がどれほど難しいか嫌というほど思い知らされたもんじゃ」
祭と深冬が当時を思い出しながら重い言葉を漏らす。
報告書を読んで当時の惨状と言っていい曲阿の状況は俺たち全員が知っている。
城下を歩けば誰もが家の中に隠れ、城主の不徳によって家族を失った者など自暴自棄になり兵士や祭たちに石を投げつける事すらあったという話だ。
「だからこそ今、城下の人達が笑顔で生活出来ている事が嬉しい。僕らが頑張って、そして彼らが受け入れてくれんだって、そう思うんだよ。駆狼兄」
俺を兄と慕う男の顔には確かに事を成し遂げたという自負と自信が感じられた。
「そうだな。儂たちはやり遂げた。ああ、いや遂げた、などと終わらせたつもりになってしまってはいかんな」
慎の言葉に祭は頷くも、自分の言葉を否定する。
「これからもこの曲阿の治政は続くからな。お前たちの努力を思えば達成感を否定するつもりはないが、ここで満足してもらっては困るぞ。まだまだ先は長いんだ」
そう言ったのは玉座からこちらを見下ろしている蘭雪様だった。
「つい口走ってしまいましたな。もちろん心得ておりますとも」
「それは私たちも同じです。今後もたゆまぬ努力を続けていく事を」
「僕もです」
美命の下で曲阿の平定に尽くしてきた三人の言葉は力強く、そして重い。
俺はこいつらの言葉に身が引き締まるような感慨を抱いていた。
「俺たちも負けていられないな。蓮華嬢」
「はい……」
俺の言葉に噛みしめるように返す彼女の表情は、その心が俺と同じ物を抱いている事を雄弁に語っていた。
「こほん」
美命は俺たちの会話を区切るように咳払いし、場の視線を自身に集める。
「久方ぶりの語らいの中、すまない。深冬、慎。この場所の平定のために協力してくれた者たちを連れてきてくれるか?」
「「御意」」
二人は一礼すると玉座の間を出て行く。
「ここからは今一度、気を引き締めてくれ。彼らの大部分は今も尚、我々を見定めている所なのでな」
きりっと柳眉を立てる美命の言葉に、しかしよりにもよって彼女が背にしている玉座から反目する声が上がった。
「ほう。自分たちだけでは復興すら覚束なかったというのに、こちらを値踏みしようとはな」
「……彼らがいなければここまでの速さで復興出来なかった事は紛れもない事実だ」
「ふぅん。まぁいい……どうするかはそいつら次第だ」
不穏なやり取りに隣にいた祭は口元を引きつらせた。
「駆狼。まさかとは思うがこの視察……」
「あちらが建業を値踏みするつもりでいるように、こちらもまた彼らが使えるかどうかを値踏みし、既に値踏みが終わった者については切り捨てるつもりだ。お前たちにとっては苦楽を共にした仲の人間をこのように扱われて良い気分はしないだろうが……すまんな」
謝罪はするが、俺たちの方針は変わらない。
美命は手を貸してくれた文官たちに礼を尽くしつつもその裏を取っていた。
結果、何人もの人間が真っ黒な裏を持ち、今度はこちらに牙を剥く可能性がある事が判明している。
今回の視察の最も大きな目的は『そういう連中の排除』なのだ。
「いいや……確かに戦友と呼べる者、頼りになる先達、先が楽しみな者もおる。しかしこちらに取り入らんとしている者もかなりおった。そういう者を切り捨てなければいずれこちらに不利益をもたらすじゃろう」
深冬と慎が出て行った出入り口を見つめる祭の瞳は揺らがない。
「彼らの行く末は蘭雪様のご判断にお任せするつもりじゃが……もしも儂らが目をかけている者をも切り捨てんとした場合は直談判させてもらうつもりじゃ。……その時、お主はどちらに付く?」
祭はどこか挑発するような戯けた調子で俺の言葉を待った。
「もちろんお前と蘭雪様の間を取り持つ」
「……久方ぶりの語らいなのじゃからそこは全面的に儂に味方する、と言って欲しかったのぉ」
不満げな言葉を上げつつ、口を尖らせながら俺を睨み付ける祭。
だがすぐににっこりと笑いながら両手で俺の右手を取りそっと自身の頬に触れさせてきた。
「しかし……下手な慰めも言い訳もしない答えは実にお前らしいと思うぞ」
猫のように右手に頬摺りする祭。
俺はされるがままだった右手を自分の意志で彼女の頬をそっと撫でる。
いつの間にか蓮華嬢は俺たちからそっと距離を取っていた。
無言の気遣いが気恥ずかしいが今はとてもありがたい。
「元気そうで安心した」
「ああ。お互い様じゃ」
俺たちは離れていた時間を埋めるように僅かな言葉と触れあいでお互いの健勝を喜び合った。
「おい、そこぉ! もう少し人目を憚らんかぁ! と言うか美命もなんであやつらに鞭を振るわん!」
「あの二人はきちんと場を弁えてくれるからな。今この場には本当の意味で身内しかいないんだ。あの程度なら止めるほどではない」
こちらを指差して糾弾する蘭雪様だが、美命は俺たちの味方をしてくれるようであっさりとしたものだ。
「特に祭はこちらの都合で子供とも離ればなれにしているようなものだ。この程度で祭の頑張りに報いたなどと言うつもりはないが少し早い褒美の一貫だとでも思っておけ」
「ぐ……む? 来たようだぞ」
美命を苦虫を噛み潰したような顔で睨む蘭雪様だが、こちらに近付く気配にすぐに表情を改めた。
俺たちもそれまでのやり取りを収め、玉座に対して正面を空けて二列に並ぶ。
「文台様。お連れしました」
「ああ。入れ」
深冬の声に鷹揚に頷き、蘭雪様は入室を許可する。
入ってきたのは年配の男性が五人、俺や慎と同年代くらいの男性が三人、年配の女性が二人。
そして彼らに比べて一人だけやたらと若々しい、いや先の彼らと比較すると幼いとさえ言えてしまうくらいの少女が一人。
「……」
今この場はそれなりに緊迫した雰囲気だ。
現に他は例外なく顔を強ばらせ足音すら忍ばせながら腰を低くして歩いてきている。
そんな平身低頭の見本のような彼らと違い彼女だけはそれに感化される事なく穏やかな空気を纏っており、その薄緑色の髪も相まって一人だけ異様に目立っていた。
見知った人物の中では風に最も似ているだろう。
体つきは正反対のようだが。
「私が建業領主の孫文台だ。まずは復興に忙しい中、この場に集まってもらった事に感謝しよう」
感謝すると言ってはいるが、その雰囲気は戦闘時にも勝るとも劣らぬほどに殺伐としたものを感じさせる。
今この場で抜刀してもなんら可笑しくない、と思わせるには充分すぎるものだ。
少なくとも初対面の人間には。
彼らは俺や祭たちに挟まれる形で自分たちにとって領主の前へ歩み出て膝をついて傅いている状態だ。
蘭雪様を値踏みしようとしていたと思われる年配の男女は、彼女の圧力に負けて真っ青な顔をしている。
俺たちと同年代の男たちはさらに酷く遠目でもわかるほどの冷や汗で足ががくがくと震えていた。
ここでもやはりあの少女だけがのんびりと自分のペースを維持している。
「さて早速だがお前たちの今後の進退について話をしようか」
思わず顔を上げる少女以外の者たち。
今後の自身の栄達に関わる事となれば怯えてばかりではいられないという事なのだろうが、その判断は早計だったな。
蘭雪様の目は未だに彼らを見据えていた。
見据えられた彼らは彼女と目を合わせてしまい、哀れにも全員が「ひゅっ」というか細い呼吸のような悲鳴を上げる。
「ああ、安心しろ。別に捕って喰うつもりなどないさ。……ただ」
勿体ぶるように言葉を止めると蘭雪様は美命へ視線をよこす。
その意図を正確に読み取った彼女は眼鏡の縁に手を添え、冷たい視線で彼らを見据えその手に持っていた竹簡を広げた。
「貴様らの中に罪人が紛れている」
冷徹な視線そのままの平坦な語調で語られる言葉に、彼らのうちの何人かは呼吸すらままならぬ有様でありながらも動揺に視線を彷徨わせた。
「過去の領主を唆し、民からの搾取を誘導。領主の横暴の影で自らも配下を用いて民の財を不法に略奪、挙げ句に自らの罪をも領主になすりつけて追放した不心得者。その数、六名。名を……」
名を呼ばれ、さらにその罪科の具体的な内容までもを告げられた者たちは先ほどにもまして顔色が悪くなっていく。
一部はこの後に自分たちがどうなるかを予測し、ガタガタと震えている始末だ。
「貴様らは領主を、そして領民を食い物にする毒虫だ。そんな輩はこれからの曲阿には不要」
蘭雪様の淡々とした言葉は彼らにとっては正しく死刑宣告と言える。
「復興に積極的に手を貸せば、恩を売れると思ったか? 情けをかけてもらえると思ったか? あるいはこちらが隙を見せる、とでも考えていたのか?」
もはや彼女は殺気を隠そうともしなかった。
先ほどまでにもまして重い空気が場を支配する。
「……虎とその配下を侮った事、とくと後悔するといい」
その言葉を引き金に金切り声のような悲鳴を上げて名を呼ばれた六名が例外なくその場から逃げ出した。
妙に華美な装飾が施された服が乱れるのも気にせず、逃げ出す彼らを俺たちは見送る。
「彼らの処遇は如何様に?」
「捕えたら個人資産を洗いざらい吐かせろ」
恐怖から後先考えずに逃げ出した彼らだったが、そもそもここから無事に逃げる事など出来ない。
なぜなら俺たちの護衛として連れてきた建業の兵士たちが玉座の間を囲って警備をしているからだ。
『怪しい動きをする者は例外なく捕縛せよ』と命じてある。
身なりの良い文官だからと言って目こぼしをする事はない。
建業から直接連れてきた者たちであるが故に、曲阿の兵の何割かのように奴らに袖の下を握らされるなどの余計な心配も必要ない。
その場で見逃すよう交渉された所で応じる事はない。
そういう人材を選りすぐって連れてきたからだ。
「さて罪人の炙り出しは終わった」
これまでのやり取りで自分たちはどのような目に合うのかと不安がっていた彼らに蘭雪様は穏やかに声をかけた。
「改めて話をしよう。この曲阿と貴殿らの今後についてだ」
こうして曲阿の今後についての話し合いが始められた。
悪事を暴かれて逃げ出した末に捕えられたあの者たちには無い未来の話を。