曹孟徳、いや華琳たちとの会合の翌日。
俺たちは宿で朝食を取り、華琳が言っていた迎えが来るのを部屋で待っていた。
「駆狼様……なぜヤツの不躾な願いを聞き入れたのですか?」
納得行かないという思いが込められた不満げな声音で問いただす思春。
俺はなんとも子供らしい姿を見せてくれる彼女に苦笑いを返しながら答えた。
「建前としては彼女らからの頼みをたとえ非公式の場であっても断るのはまずいと思ったからだ」
それは建業の立場を考えれば自然と行き着く答えだ。
ただまぁ彼女らは本心からこれを気にするなと言ってくれていた。
自分でも言ったようにこれは建前でしかない。
「本音は単純に彼女の実力が知りたかったんだ」
曹孟徳の片腕にして陳留随一の武官。
彼女の力を知る事は、華琳たちの力を計る指針となるだろう。
「華琳たちは……昨日話した様子から見て、いずれ建業と敵対関係となる可能性がある。だからこそ春蘭の実力を測ろうと思ったんだ」
「なるほど。そのようなお考えが……」
納得する思春だったが実の所、これで理由の全てというわけではない。
むしろ言わなかった部分こそが最も大きな理由だ。
他所にいる同じ年の人間がどれほどの強さを持つのか、思春には出来るだけ多くを知っていて欲しい。
この子はそう遠くない将来、建業を担う武官になる。
その時に対峙する可能性がある相手が、どれほどの物か見せておきたかったんだ。
涼州ならばそれは翠や蒲公英たち。
この陳留ならば、それは春蘭と秋蘭だ。
華琳も相当な実力者だろうが、武官として前線に出る人間というわけではない。
流石に俺たちの方からああいう事を申し出るわけにはいかなかったから、春蘭からの申し出はまさに渡りに船と言えた。
「護衛として俺たちに危険が及ぶのを防ごうとするお前の気持ちはわかる。だがそこを押して今回は堪えてくれ」
「……わかりました」
思春はまだ不満げな語調ではあったが、それでも納得してくれたようだ。
「すまないな」
そんな話をしていると迎えとして秋蘭がやってきた。
「お待たせしました。参りましょう」
彼女は静々と俺たちに会釈し不快にならない絶妙な先導をしてくれる。
手馴れたその所作には、やはり年齢不相応の気苦労を感じさせた。
昨日も思った事だが、俺よりもおそらく十歳は年下のはずだと言うのにここまで気遣いが出来ると言うのはそれだけで一つの才能だと思う。
もっとも彼女の場合、周りを止めなければならない環境から自然とそうなった可能性が高いが。
「あの、何か?」
蘭雪様に振り回されている事が多い俺たちと被る部分があったからか、つい労わるように見つめてしまっていたらしい。
「なんでもないさ。そういえば彼女の調子は万全か?」
戸惑ったように声をかけてくる彼女に首を振って応え、話を変える。
わざわざ言う必要もないくらいに詮無い事だからな。
「え、ええ。近年稀に見るほどの気迫で夜明け前に起きて鍛錬場で素振りをしていました。屋敷の者たちが素振りの風切り音で軒並み起こされる程度には気合が入っております」
その時の様子を思い出したのか、秋蘭は年季の入ったため息を零す。
俺はそんな彼女の言葉から、あの子が俺との模擬戦をよほど楽しみにしている事を理解した。
「ソレは凄いな。俺も一層、気を引き締めるとしよう(少なくとも彼女の期待に沿える程度には)」
「そう言っていただければ幸いです。姉者も今の言葉を聞けば喜びます」
そんな話をしているうちに昨日訪れた華琳の屋敷へと到着。
既に持て成しの準備は出来ていたようで、俺たちはすぐに華琳の待つ部屋へと通された。
「本日はこの子のお願いを聞いていただき、本当にありがとうございます」
着いて早々に深く頭を下げる華琳。
こちらが了承したとはいえ、部下の突飛な行動をまだ気に病んでいたらしい。
彼女の礼に追随するように春蘭が勢い良く頭を下げ、秋蘭もまた静かに頭を下げた。
「こちらは了承しているんだ。そこまで気にする必要はないぞ」
「そう言っていただけるのはありがたいのですが、こちらの無作法は事実です」
「ではその謝罪を持ってこの件については終わりにしよう」
彼女らがこの一件に対して真剣な事は理解したが、いつまでも引きずられてはたまらない。
手打ちにする旨を伝えると、華琳は難しい顔をしながら渋々と頷いた。
こちらがこれ以上の謝罪を望んでいない事を理解してくれたのだ。
「……わかりました。皆様の広いお心に感謝します」
「ああ。それじゃあさっそくだが模擬戦をする場所へ案内してくれ」
俺が移動しようと腰を上げると、春蘭が目を輝かせて動き出した。
「!! ご案内します!」
先ほどまで身体を動かしたくてうずうずしている様子が見て取れていたが、なかなか欲に忠実な子だな。
「春蘭……貴女って子は」
「姉者……」
華琳と秋蘭の春蘭を見つめる目には呆れと諦めのようなものが入り混じっていた。
「ん? どうかなさいましたか、華琳様? どうしてそんな呆れたような顔をしているのだ、秋蘭?」
そして当の本人は色々と無自覚のようだ。
彼女の武官としての今後が心配になるが、まぁそこは華琳や秋蘭に頑張ってもらうとしよう。
既に諦めが入っているので矯正は望み薄のようだが。
「では春蘭、案内を頼む」
「はい!」
心底、嬉しそうな顔は実年齢以上に幼く見えた。
だがしかしその身のこなしを見ればよく鍛えられている事は理解出来る。
今のところ、思春や翠と同じ程度の実力と見込んでいるが……油断や慢心は即敗北に繋がるだろう。
スキップでもしそうなほどに楽しげに先導する春蘭を他所に、俺は気を引き締めた。
鍛錬場は屋敷の裏手にあった。
屋敷の敷地が丸々もう一つあるくらいの広さがあり、普段は彼女らの部隊の人間が鍛錬に勤しんでいるのだろう。
今はその広い空間には誰もいない。
おそらく華琳が事前に人払いをしておいたのだろう。
「これから行われる事は私事ですので。おおっぴらにならないように手を回させていただきました」
「私たちにも配慮してくれたのでしょう? ありがとう、華琳ちゃん」
「あ、いえ……どういたしまして」
背後で行われている陽菜と華琳の会話が俺の推測が正しいものだと教えてくれた。
「すまないが身体を動かす時間をくれないか? 少し身体を解しておきたい」
「それで万全の状態の貴方と試合が出来るのでしたら喜んで! どれほどお待ちいたしましょうか!!」
威勢よく話す春蘭に早くも慣れ始めてきたな。
「では四半刻で頼む」
気負い事無く最低限必要な時間を提示してすぐにその場で準備運動を始めた。
大きく息を吸い、そして吐く。
何もない空間に拳を、蹴りを繰り出す。
頭に浮べた仮想敵に対して間合いを計り、有効な攻撃を考え、そして放つ。
風を切る音を置き去りにする気持ちで身体を動かす。
付け入る隙を与えぬように動き続ける。
昨日の己よりも速く、鋭く。
昨日の己よりも強く。
見つめる視線を意識から完全に外し、俺は敵にのみ意識を集中した。
体内時計で四半刻が過ぎた頃、俺はぴたりと動きを止める。
大きく息を吐き緊張を維持したまま周囲を見回すと、陽菜と玖龍を除いた面々の食い入るような視線と目が合った。
「そろそろ時間か。待たせてしまってすまなかったな、春蘭」
「……」
声をかけられた少女はなぜかごくりと生唾を飲んだ。
「どうした?」
「あ……はい! さほど待っていませんでしたので大丈夫です!」
慌てて返答する彼女の様子に首を傾げるが、まぁいいだろう。
「それじゃあ始めよう。誰か審判を、それと開始の合図を頼めるか?」
「それでは僭越ながら私が……双方構えてください」
秋蘭が俺たちの間を区切るように立ち、右手を掲げる。
彼女の所作で気持ちを切り替えたらしい春蘭は刃引きがされた曲線型の大太刀を両手で握り締めた。
俺は肩幅ほどに足を開いて拳を握る。
「それでは……始め!」
合図と共に下ろされる右手。
俺たちは示し合わせたように同時に前へ踏み込んだ。
踏み込んだのは同時だった。
しかし春蘭が一歩踏み込む間に駆狼は両足で一歩ずつ、つまり合計二歩の踏み込みを行っていた。
「(速い……!?)」
同時に行われた動作の僅かな差。
しかしその一歩の差はそのまま行動の速度へ、そして攻撃の威力へと還元される。
「っ!!」
春蘭は咄嗟に大太刀を振り下ろさず刀身を地面に垂直に立てることで自身の胴体を守る盾にした。
真っ直ぐに胴目掛けて放たれた右掌底が盾となった大太刀とぶつかりあう。
次の瞬間、防御の上から響く轟音と共に彼女の身体は吹っ飛ばされた。
「がぁっ!?」
思わず声を上げるが、防御が間に合ったお蔭で痛みはない。
彼女は危なげなく着地すると同時にすぐさま体勢を整える。
正眼に構えた武器の切っ先は、威嚇するように右手を突き出した姿勢の駆狼へと向けられた。
おそらくただの兵士が対峙すれば戦意を喪失するほどの気迫を今の彼女は放っている。
だが目の前の相手はそれを感じ取っているかすらも定かではないほどに表情を動かさない。
ただ静かに相手である春蘭を見つめていた。
「(咄嗟の反応が速いな。初めの頃の翠なら今ので終わっていたんだが……)」
その表情の裏で、彼は春蘭の実力を分析していた。
「(現段階での身体能力はおそらく俺が関わった若者では雪蓮嬢と同等。様子見は長く続けられない。そして長期戦になればどうなるかわからん)」
彼我の戦力を比較しながら彼は次の行動を模索する。
「うりゃぁああああ!!」
気迫と共に放たれる横薙ぎの一閃。
徒手の間合いの外から放たれた一撃に対して、駆狼は後方へ飛び退く。
それを隙と見做した春蘭は、垂直に構えた大太刀で地面を割らんばかりに踏み込み、突きの一撃を放った。
だがその一撃は彼の手甲によって手応えもなく、彼の身体の外側へと逸らされてしまう。
「うっ!?」
視覚的には攻撃が当たっているはずなのに、その手には手応えがないという不可思議で未知の感覚。
春蘭は初めてのその感覚に呻き声を上げながら刀を引いた。
それがいけなかった。
彼女のこの行動を勝機と見た駆狼は、彼女が引いた太刀を追うように地を蹴る。
「っ(懐に入られるのは拙い!?)」
度重なる鍛錬と類稀な才能が生んだ直感が彼の行動の危険性を伝え、春蘭は両手で握り込んだ大刀を己が最も得意とする大上段に持ち上げる。
そこからの振り下ろしは彼女最大の攻撃だ。
最も信頼し、最も自信を持つ一撃。
太刀を引く際に一度は後ろに引いた足を彼を迎え撃つ為に前へ出す。
その踏み込みは日々の鍛錬で数えるのも馬鹿らしいほどに反復してきた基本にした理想的な物だった。
身体に叩き込まれた基本がここに来て活きたのだ。
「ずぁあああああっ!!!」
そして踏み込みの勢いを最大限活かした振り下ろしが放たれる。
多少の運に恵まれはしたが、それは彼女にとって過去最大の一撃と自負できるほどの一撃だった。
しかしその一撃は。
彼女が振り下ろす瞬間に彼女の懐深くに踏み込んだ男が振り下ろしたタイミングの二の腕を掴んだ事で無意味な物になった。
最大の一撃に高揚していた彼女の意識が目の中の自分が見えるほどに近い男の顔を見て急激に冷えていく。
春蘭の背筋に危険を知らせるぞくりとした感覚が走るが、彼女が反射的に動くよりも速く駆狼は詰めに入っていた。
踏み込んだ彼女の足が払われる。
浮かんだ身体は制御できず無防備になった襟首を蛇のようにしなった右手に取られてしまう。
彼女は本能的に首を後ろに引くが、がっちり握りこまれた右手はその程度の抵抗ではびくともしなかった。
二の腕を掴んだ左手、襟首を握った右手によって彼女の身体は彼が向けた背中へと引き寄せられる。
彼女の振り下ろしの勢いすらも利用した、無駄なくそれでいて鋭い勢いを持って戦いの中で昇華された駆狼の『一本背負い』が完成した。
「ごっ!? はっ……」
次の瞬間、背中から地面へ叩きつけられた春蘭は今までに受けた事のない衝撃にすべての酸素を肺から吐き出す事になる。
「うそ、でしょう」
そう呟いたのは華琳だった。
しかし審判を買って出た秋蘭も目を見開いて固まっている。
声にこそ出さなかったものの内心では華琳と同じ気持ちなのだろう。
頭は弱くとも武ならば曹操軍随一のあの夏侯元譲が、終始押され続けた上に何も出来ぬままに負けたのだ。
心に受けた衝撃に、彼女らは呆気に取られていた。
対して付き合いの長い者たちはこの結果がどういう物かを正確に察していた。
陽菜は楽しげな表情を浮かべ、思春は眉間に皺を寄せて対峙していた2人を見つめている。
「本気で撃退したわね。駆狼は春蘭ちゃんを手加減出来ない相手だと判断したって事かしら?」
「……それほどの実力を持っていると判断されたのだと思います」
思春の言葉は硬く、その真剣な面持ちにはどこか苛立ちのような物が見え隠れしている。
「単純に考えて翠ちゃんと同じくらいには強いのね、あの子。思春ちゃんや翠ちゃんたちもそうだったけれど、最近の若い子は凄いわね。頼りになるわ」
「いえ、私など駆狼様や慎様たちには遠く及びません」
二人の談笑を他所に、春蘭はふらつきながらも立ち上がる。
背を強かに打ち付けてはいるが、そこは元より常人以上に頑丈な身体。
一度投げられたくらいで動けなくなる事はない。
しかし己の最高と自負した一撃をあっさりと返された事実への精神的な衝撃は未だに収まっていなかった。
「……っ」
動揺から構えられた太刀の切っ先は揺れ、その表情からは焦りにも似た感情が鮮明に浮かび上がっている。
誰が見ても読み取れるほどに。
武器を構えてはいるものの彼女は完全に及び腰になっていた。
こんな春蘭は付き合いの長い華琳たちも見た事がない。
「落ち着け。致命傷を受けたわけではないんだ」
「っ……」
叱責する男の声からはその表情と同じく生来の気安さが抜け落ちており、どこまでも重く春蘭の心にのしかかる。
「両足には力が入るだろう? 両手で武器を握れるだろう? 相手の姿を見る事が出来るだろう? これは模擬戦だ。ならばやる事は一つじゃないのか?」
「……すぅー、はぁーーー」
春蘭は深呼吸をすると自分の額を右手で殴りつけた。
鈍い音が周囲に響き渡る。
「……ふぅ~~、申し訳ありませんでした。もう少し胸をお借りしてもよろしいでしょうか?」
駆狼に向けられた切っ先に揺れはもうなくなっていた。
「構わない。お前が満足するか俺の体力が尽きるまで付き合おう……」
「ありがとう、ございます!」
言葉が終わるか否かのタイミングで、春蘭は駆け出す。
「せいっ!!」
姿勢を低く保った状態で腰を狙った横薙ぎの一閃。
駆狼は迫る脅威に対してその場で垂直に跳躍。
「ふっ!」
跳躍の時に折り曲げた足の下を刀が通り過ぎていった。
「隙有り!」
「うぐっ!?」
横薙ぎの勢いを利用した回し蹴りが、中空にある駆狼の身体に突き刺さる。
咄嗟に両手で防御したが、浮かんでいた身体は衝撃によって吹き飛ばされた。
ごろごろと地面を転がるも彼はすぐに立ち上がる。
起き上がった彼が視線を春蘭がいた場所に向けると、大太刀を振り上げた春蘭の姿があった。
「(真正面から攻撃を返されたことを警戒したんだな。だから相手の体勢を崩し確実に当てる状況を作ってきた)」
その対応の早さに駆狼は内心で舌を巻く。
振り下ろされた大太刀に対して、彼は不完全な体勢のままだ。
「(カウンターで合わせるのは無理、か)」
「どりゃぁっ!!」
初手の一撃以上の気迫と共に放たれた一撃。
駆狼は迫る刃を凝視しながらも、右掌で刀の柄を殴りつけた。
目前にまで迫った刃はその衝撃で逸れてしまい、勢いのままに地面を打ち付ける結果になる。
轟音と共に訓練場に土煙が舞い、両者の視界が遮られた。
「くっ、しまった!?」
春蘭は駆狼がいただろう箇所に闇雲に武器を振るう。
しかし風を切る音と共に土煙が晴れるだけだった。
そこに駆狼の姿はない。
「どこ、にっ!?」
横合いから左脇腹に突き刺さった拳に、彼女の言葉が止まる。
春蘭は土煙の中から弾き出され、受身を取る事も出来ずに地面を転がった。
「まだっ!」
「ちっ!?」
しかし攻撃に吹き飛ばされる瞬間。
彼女が意地で繰り出していた蹴りが追撃しようとしていた駆狼の頭部を狙う。
その場から後方に飛び退いた結果、彼の目前を蹴りが通過しただけに留めた。
だがその意地は駆狼の追撃を防ぎ、彼女が立ち上がるだけの時間を稼ぐ事に成功していた。
「まだ、まだ……」
大太刀は未だに握られたまま、集中を妨げる脇腹の痛みを意志の力でねじ伏せ、彼女は真っ直ぐに駆狼を睨みつける。
「来い」
その意を汲んだ駆狼はただ一言告げ、その言葉に弾かれたように春蘭が動く。
「うおおおおおぁあああ!!!」
この後、模擬戦の域に収まらないほどに戦いは過熱。
食事も抜きに戦い続けた二人の身体を案じた思春、秋蘭、華琳が総出で止めるまで続く事になる。