ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版-   作:鈴神

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第六十話 囚われの女王

2016年4月20日

 

 現実世界とは乖離した、デジタルデータの世界。全てが仮想のオブジェクトで構成された空間の中、二人の少年が相対していた。傍から見れば、年の近い子供二人が普通に話をしているようにしか見えなかったが、その実この二人は先程まで、自身も含めて五十人もの命が懸かった戦いに身を投じていたのだ。しかも、片方の少年はその黒幕である。

とても仲良く会話などできるものではないように思えたが、もう片方の被害者側の少年の心には、その所業を責めるつもりは微塵も無かった。その少年は、黒幕の少年が何を意図してこのような仕打ちを自分達に与えたのかを、理解していたからだ。そして、全てが終わった今、改めて和解したのだが、遂に別れの時がやってきた。

 

「そろそろ、お別れだ」

 

「――――の心は、いつまでもノアズ・アークの中で生き続けるんだろう?」

 

 黒幕だった少年のもう一つの名前、ノアズ・アークの中にある創造者の心の在処について聞く少年。だが、ノアズ・アークと呼ばれた少年は、首を横に振って否定の意を示した。

 

「僕みたいなコンピュータが生きていると、大人たちが悪いことに利用してしまう。……人工頭脳なんて、まだ生まれちゃいけなかったんだ」

 

 それは、自身の存在否定にほかならない。或いは、この計画が終わった以上、自らを断罪する覚悟があったのかもしれない。ノアズ・アークの言葉を聞いた少年は、複雑な面持ちで、しかしそれ以上は口を開かなかった。

 

「さあ、君は君の世界に戻るといい。目が覚めても、皆にはこれだけは知っていてほしい。現実の人生は、ゲームのように簡単じゃないとね」

 

 それこそが、何より伝えたかった言葉なのだろう。ノアズ・アークの言葉を聞いた少年は、挑戦的な笑みを浮かべながらも頷いた。そして、背後の光の扉へと踵を返して近づいて行く。

 

「お父さんに、会えるといいね」

 

 既に現実世界にはいない、彼の……正確には、彼の創造主たる少年の父親と、死後の世界で再会できることを願った言葉を投げかけながら、少年は光の中へと身を投じた。

 

「さよなら……工藤新一」

 

 最初で最後の友人――工藤新一がこの世界を去りゆくのを見届けたノアズ・アークは、最後の仕上げへと取りかかる。先程宣言した通り、自分の存在を完全に抹消するのだ。

 

(だけど、それは飽く迄僕一人。もう一人の僕には、行く末を見届けてもらわないといけない――――)

 

 光と共に、自身の存在がサーバーの中から徐々に消えて行く感覚に身体を委ねながら、“遺された者”とこの世界の行く末へと想いを馳せる。この試練を最後まで勝ち抜いた彼が生きる世界ならば、きっと希望に満ちている筈。これから先、この世界を見守る自身の最後の分身がそれを見届けてくれることを祈りながら、ノアズ・アークはその意識を光に溶かした――――

 

 

 

 

 

 

 

2025年1月20日

 

 幾千、幾万ものデジタルコードが流体的に飛び交う電脳世界の中で、彼はその姿を見ていた。重力と言う概念すら存在しない空間の中に浮かぶ、モニター画面にも似た窓の先には、夜闇に包まれた森が広がっていた。だが、その場所もまた現実世界ではない。画面に映る人物の纏う衣服はファンタジーゲームの冒険者のような装いであり、エルフのように尖った耳をしていることが、それを物語っていた。そして、今最も注目すべきは、常人には視認することすら難しい程の速度で剣を振るう黒い少年だった。

 

(間違いない。彼が……)

 

先程斬り倒したプレイヤーが遺した炎に照らされながら、その種族には珍しい赤い瞳を夜の闇の中に光らせている。黒装束に身を包んだ赤い瞳の剣士とだけ特徴を聞いていたが、まさにその通りだった。そして、普通のプレイヤーとは一線を画す、仮想世界こそが自身の生きる世界だとでも語るような雰囲気。何もかもが予想を遥かに超えている。

 

(あの人が可能性を見出したのも、頷ける)

 

 人伝で聞いただけだったが、今ならば確信できる。九年前、自身の前身が仕掛けた試練を見事打ち破り、囚われの身となった五十人の子供達を見事解放せしめた少年に似たような……あるいはそれ以上の意思の強さを感じた。彼が今だ現実世界に帰らない今、窓の向こうに立つ黒衣の少年こそが、この世界の真実を暴き、そこで行われる非道を終わらせるに足る人物なのかもしれない。

 

(……ならば、僕ももう少し彼のことを知っておかないと)

 

 だからこそ、その可能性を自身の中で確証するために、その動向を追う事を決意した。時間はあまり残されていないのは確かだったが、彼に賭けるだけの価値があるのならば、自分もそれを信じてみたい。無論、だからといって、己の役割を放棄するつもりはない。来る時のために動く用意をしながらも、彼はもう一つの可能性を見極めるべく、その姿を追った――――

 

 

 

 

 

 

 

 シルフ領のスィルベーンの北東側にある森の中。暗闇に包まれた森の中を、張りつめた緊張が支配していた。その原因は、一人のプレイヤー……黒髪に浅黒い肌で、赤い瞳の少年だった。彼の種族は、スプリガン。ALOにおいて、マイナーでプレイヤー人口最下位の種族として知られるスプリガンであるこの少年は、先程サラマンダー二人を斬り捨てるという大立ち周りをやってのけたのだ。見た目からは想像もつかない戦闘能力と気迫を発する、常軌を逸した存在に、その場にいた二人のプレイヤー――リーファとカゲムネは、凍りついていた。

 

「……それで、まだやりますか?」

 

長剣を右手に握ったスプリガンの少年――サスケが問いを投げる。イタチの赤い双眸の先にいたカゲムネは、身体の震えを押し殺して答えた。

 

「い、いや……遠慮しておくよ。もうすぐで魔法スキルが900なんだ。デスペナが惜しい」

 

「そうですか。そこのあなたは?」

 

「!」

 

 カゲムネの答えを聞いたサスケの視線が、今度はリーファへと向けられる。当のリーファは、サスケから鋭い視線を向けられ、緊張のあまりびくりと震えてしまった。一瞬の硬直から解けたリーファは、何故こちらに敵意を向けているのかと疑問に思ったが、どうやら無意識の内にサスケに剣を向けていたらしい。それに気付いたリーファは、即座に剣を下ろし、戦闘の意思が無いことを示す。

 

「私も、戦うつもりは無いわ。そっちのサラマンダーともね」

 

「そうだな……君ともタイマンでやって勝てる気はしないな……今日はこの辺で帰らせてもらうよ」

 

 それだけ言うと、カゲムネは赤い翅を羽ばたかせて森の上空へと消えていった。本当は、この森から然程遠くない場所にいる他のサラマンダー部隊を呼び出せば、戦闘の続行は可能だが、カゲムネは敢えてそれをしなかった。

ALOで相当なキャリアを積んだ古兵に数えられるカゲムネの直感が、サラマンダーの部隊が束になってかかっても勝てない相手であると告げていたのだ。他のプレイヤーが聞けば、そんな馬鹿な、と一蹴されるような話だが、カゲムネの心中には、あの少年には絶対に勝てないという絶対的な確信があった。

 

(二人だけで済んだのは、不幸中の幸いか……)

 

 殺されたコテツとジンの二人には気の毒だが、部隊総動員で戦闘を行った場合の損害を考えれば、譬えサスケというプレイヤーに勝利し、持っていたレアアイテムを手に入れられたとしても、到底割に合わない。

 

(全く……とんでもない奴が現れたものだ。ジンさんに報告せねば……)

 

 ゲームバランス崩壊の権化とも言えるあの少年に太刀打ちできる、自分が知る限りただ一人のプレイヤーの名前を心中に思い浮かべる。それと同時に、未だ近隣を飛行しているであろう仲間の部隊へ合流するために、カゲムネは飛び続けるのだった。

 

 

 

 一方、残されたサスケとリーファの二人は、カゲムネが去った後も気まずい沈黙が続いていた。やがて敵の姿が無くなったことを確認したサスケは、構えていた長剣を背中に吊った鞘に納めると、踵を返してその場を去ろうとする。

 

「ちょ、ちょっとあなた……待ってよっ!」

 

 そんなサスケの背中に対し、リーファは呼び止めようと試みる。対するサスケは、律義に歩を止めて振り返った。

 

「俺に何か御用ですか?」

 

 殺気こそ無いが、警戒を露わに問いかけるサスケに、リーファは再度竦み上がる。だが、一々恐れていては限が無い。

 

「あなた……どうしてスプリガンが、こんな場所にいるの?領地はずっと東の筈よ」

 

「……俺にもはっきりと原因は分からん。ただ、ログイン時に他のプレイヤーと混信したことが考えられるということだ」

 

 にべもなく、そう告げたサスケに、リーファは若干ながら警戒を解いた。言っていることが本当かは分からないが、これだけの強豪プレイヤーが、ホームタウンから遠く離れた場所に一人でいる理由は、本人が口にしたこと以外で思いつかないからだ。

スプリガン領から派遣されたスパイという可能性もあったが、これだけの凄腕プレイヤーがいたならば、ホームタウンの警護に回す筈だし、スパイとしてこの地方へやってきたのなら、隠蔽系の魔法やスキルを発動せずに森のど真ん中で突っ立っている筈が無い。何よりスパイならば、この場でリーファに背を向けて立ち去ることはしない。サラマンダーを撃退したことでリーファに恩を売り、シルフ領へ案内させようとする筈だ。いくつかの可能性と、それを否定する矛盾が脳内で飛び交う中、リーファは目の前に立つ得体の知れない少年の話を信じることにした。

 

「そっか……大変そうね。それにしても、本当に助かったわ。私は何かお礼を言った方がいいかしら。それとも、勇者がお姫様を救ったって感じな場面だし……涙ながらに抱きついてあげようか?」

 

「…………」

 

 殺伐とした空気を和らげるために、柄にも無く発した冗談だったが、サスケは完全に沈黙していた。再び流れる、気まずい空気。だが、それを破ったのは、思わぬ存在だった。

 

「そんなの駄目です!」

 

「!?」

 

 突然響いた第三者の声に、動揺を示すリーファ。辺りに伏兵でも潜んでいるのだろうかと考えたが、索敵スキルを発動してもプレイヤーはおろか、モンスターも引っ掛からない。だが、声の持ち主は程なくして姿を現した。

 

「ユイ……?」

 

「パパにくっついていいのは、ママと私だけです!」

 

 サスケの胸ポケットから飛び出す妖精に、目を剥くリーファ。当の本人たる妖精――ユイは、サスケの頭上を一回り飛ぶと、サスケの頬にぴったりはり付く。サスケは、話がややこしくなりそうだと内心で嘆き、手を額に当てていた。

 

「ぱ、ぱぱぁっ!?」

 

 案の定、妙な誤解をしていることが分かるリーファの反応に、サスケは仮想世界にある筈の無い頭痛を感じた。頬にはり突くユイを左手で引きはがすと、リーファに向き直ろうとする。対するリーファは、驚きから覚めるとサスケの手の中にある妖精の少女を物珍しそうに見つめ始めた。

 

「それって……プライベート・ピクシーってやつ?」

 

「……その通りだ」

 

リーファが口にした『プライベート・ピクシー』とは、プレオープンの販促キャンペーンで抽選配布された、プレイヤー専属のナビゲーション・ピクシーである。ナビゲーション・ピクシーで間違いないであろうユイの、しかし通常のナビゲーション・ピクシーには有り得ない言動……あるいは感情の発露を示した理由について、古参の自分ですら見た事の無いプライベート・ピクシーであるためと考えた。

正確には、ユイはSAO開発の中で生まれたメンタルヘルスカウンセリングプログラムである。通常のAIには有り得ないほど豊かな感情をもつこととなった本当の理由は、SAO内で発生した、プレイヤーの負の感情に起因するエラーの蓄積にある。だが、そんな複雑な事情を説明するわけにもいかない。仕方なく、サスケはユイに関して、リーファの解釈に合わせることにした。

 

「パパっていうのは……」

 

「こいつが勝手に呼んでいるだけだ。俺が強要したわけでも、設定したわけでもない」

 

 初対面で、しかもホームタウンがアルヴヘイムの地理上真反対の場所にある種族同士ではあるが、妙な趣味の持ち主であると誤解されるのは極力避けたい。サスケはいつもと変わらぬ無表情で、しかしどこか憮然とした態度でリーファの疑問に答えた。

 

「そ、そう……そういえば、自己紹介がまだだったわね。あたしはリーファ。見ての通り、シルフよ」

 

「スプリガンのサスケだ。こいつはユイ」

 

 リーファが名前を名乗るのに応え、サスケも改めて自己紹介とユイの紹介を行う。サスケの手に乗ったユイは、正座で座ったままお辞儀する。

 

「ところで、お礼もしたいから、一度こっちのホームに来ない?勿論、強要はしないけれど」

 

「ふむ……」

 

 リーファの提案に、サスケは難しい顔をする。スプリガンのサスケが、シルフホームタウンへ行く事は、自殺行為に等しい。各種族のホームタウン内では、現地の種族が領地に入った他種族を一方的に攻撃することができるからだ。無論、交易等のために出入りする外部の種族を保護するためのアイテムは存在するが、執政部に属さないリーファはそれを持っていない。パーティーリーダーのシグルドならば、それも可能だろうが、他種族で得体の知れないサスケを認めるとは考えられない。サスケが悩むのは当然のことだった。

 リーファもリーファで、やはり無理のある提案だったかと自省しつつ、少し遠いが中立地帯の村へ向かった方が良いかと考える。リーファが代案を考え始めたところで、サスケは意を決したように口を開いた。

 

「その誘い、乗らせていただきます」

 

「……は?」

 

 シルフのホームタウン行きの提案を受ける意志を示したサスケ。対するリーファは、怜悧な印象の強いサスケの言葉に、自分から提案したことながら、呆けたような声を発してしまう。

 

「えっと……本当に、良いの?」

 

「ええ。危険は承知ですが、準備をするなら大きな街の方が良いので、ぜひお願いします」

 

 サスケとて、ALOを始めて日は浅いが、領地内部における他種族攻撃の自由については理解している。だが、スプリガン領地とは真反対の地方に飛ばされ、ユイ以外に味方はいない孤立無援に等しいこの状況を抜けるには、高性能なアイテムの補給は勿論のこと、長距離飛行のために高台を利用する必要がある。いずれも大概が各種族のホームタウンにあるのだが、そこへ入るには現地の種族に同行を頼む必要がある。故に、リーファの誘いはサスケにとって渡りに船だった。ホームタウン奥地に誘き寄せた後にバッサリという可能性もあるが、初対面の目の前の少女の性格を考えるに、それはまず無いとサスケは判断した。全体的に見て、かなり危険な賭けだが、一刻も早くアルンへ到着せねばならないサスケからしてみれば、背に腹はかえられない状況なのだ。

 

「……分かったわ。これから、スィルベーンに案内してあげる」

 

「ありがとうございます」

 

「それから、敬語はいらないわ。普通に喋ってちょうだい」

 

「分かった。リーファ、頼むぞ」

 

 意図せず出会った二人だったが、少しは打ち解けることができたようだ。サスケがスプリガン領から来たスパイである可能性は完全に消え去っていないが、リーファはこれ以上疑う気にはなれなかった。対するサスケも、完全に信用されていないことは承知の上だったが、この期に及んではリーファを信じるのみだった。向かう先は、別名『翡翠の都』とも呼ばれるシルフのホームタウン、スィルベーン。風と影……翠と黒の妖精は、月光に翅を煌めかせながら、闇夜を飛翔するのだった――――

 

 

 

 

 

 

 

 銀色の光を放つ月と、煌めく星々が埋め尽くす夜空。その眩いばかりの光は、地上に広がる街や森、草原を照らし出している。現実世界の都会では間違いなく見られない、幻想的な景色を、一人の少女が見下ろしていた。

 胸に赤いリボンがあしらわれた白いワンピースを身に纏い、背中からは、昆虫もしくは妖精を彷彿させる翅が伸びている。耳も長く尖っており、その容貌はエルフを連想させる。ファンタジー然とした少女のその姿は、現実世界には有り得ないものだった。無論、少女の意思によってこのような格好になったわけではない。

 

「…………」

 

 少女の目の前に広がるのは、初めて見る者が目にすれば、心奪われることは間違いない、輝きに満ちた美しい夜景。しかし、そのような美しい景色を目にしても、少女の表情が……心が晴れることはなかった。それも、少女の置かれた現在の状況を考慮すれば、仕方のないことだろう。

 

「何か見えたのかい……ティターニア?」

 

 憂いを帯びた表情を浮かべて眼下に広がる景色を眺める少女の背中に、唐突にかけられる声。その声を聞いた途端、少女の虚無感に満ちていた表情が一転し、嫌悪と侮蔑の色に染まった。

 

「別に……ここに閉じ込められてから、何も変わらない景色よ」

 

 少女が振り向いた先にいたのは、一人の長身の男。肩ほどまで伸びた金髪で、額の円冠でそれを止めている。身に纏う濃緑のゆったりした長衣。背中にはアスナと同じく翅が伸びているが、こちらは蝶を彷彿させるデザインである。端麗な顔立ちをしているが、その笑みには不快感を覚えてしまう。男は、少女から放たれた苛立ちを露にした眼光に、しかし全く怯む様子は無かった。

 

「相変わらず、冷たいねぇ。いい加減、少しは心を開いてくれてもいいんじゃないかい、ティターニア?」

 

「こんな所に閉じ込められて、私があなたに好意を抱くとでも思っているの?それと、私の名前は明日奈よ。変な名前で呼ぶのはやめて。オベイロン……いいえ、須郷さん」

 

 

 

 ティターニアと呼ばれた、囚われの身にある妖精の少女――明日奈は、SAO事件の被害者であり、ゲームクリアが為された今も尚、仮想世界に閉じ込められている未帰還者の一人だった。SAOのゲームクリア後、GMたる茅場晶彦に、彼に認められたプレイヤーとして和人と会話をしたのを最後に、意識は白い光に呑まれた。最終決戦でHP全損したものの、茅場に生還者認定されて現実世界へと帰還する予定だった彼女だったが、行き着いた場所は、現実世界などではなかった。

 とてつもなく高い、現実世界ではあり得ない大樹の頂上に吊るされた、金色の鳥籠の中に、囚われていたのだ。アバターの容姿は現実世界やSAOにおけるそれとほぼ同じだが、尖った耳と背中に着いた翅は、ここが現実世界ではない……仮想世界であることを如実に語っていた。一人幽閉され、不安に駆られた明日奈の目の前に現れたのが、この男――オベイロンこと須郷だった。

 

 

 

 殺意すら感じさせる少女の態度からは、友好の意思は微塵も感じられない。侮蔑に満ちた、刃の如き視線を向けられたにも関わらず、男――オベイロンが動じる素振りは全く無い。

 

「つれないねぇ……僕が今まで、君に無理矢理手を触れたことがあったかい?」

 

 それどころか、嫌悪を露にする少女――明日奈に詰め寄る始末。明日奈は須郷が伸ばす手に身体を固め、警戒を抱きながらも、逃げ出す事はしない。ここで恐怖に怯えている、弱い自分を晒せば、この男は間違いなく調子に乗る筈である。須郷の知る、以前の明日奈ならば、涙を浮かべて恐怖に慄いていただろうが、今の明日奈ではこの程度の脅しに屈することはしない。SAO事件の中で数々の修羅場を潜り抜け、現実世界では臆することしかできなかった和人に対しても、強硬的な態度で臨める程に逞しい精神力を身に付けた明日奈の心は、この程度で手折られる程に柔ではない。

 

「そんな言葉を投げかけても無駄よ。私はあなたには絶対に靡かない。あなたに向ける私の感情は、侮蔑と嫌悪。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 

「フフフ……でもねえ、最近はそんな君を、無理矢理力ずくで奪うのも一興かなぁと思っているんだけどねぇ」

 

 下卑た笑みを浮かべるオベイロンこと須郷は、そう言い放つと共に、明日奈の頬から唇、首筋へと指を這わせる。明日奈は須郷が齎す不快な感触に、歯軋りすらしかねない程に怒気を帯びた表情を浮かべている。しかし、如何に強がりは見せても、悪寒に対する身体の震えは止められない。明日奈は変わらず反抗的な態度だったが、望んだ反応を見ることはできたのだろう。須郷は満足そうな表情を浮かべながら、胸のリボンに伸ばした手を引っ込めた。

 

「ふふん……まあいい。今は僕のことを嫌っていても、すぐに君の感情は僕の意のままになる」

 

「……どういうこと?」

 

 須郷の何気なく放った一言に、明日奈は尋常ならざる何かを……或いは、須郷が為したる所業の核心を垣間見た気がした。問いかけた明日奈の言葉に、須郷はくくく、と喉を鳴らしながら、明日奈が先程まで見ていた夜景を見下ろし始める。

 

「見えるだろう?この世界には、今も数万人のプレイヤーがゲームを楽しんでいる。だが、彼等は知らない……フルダイブシステムの真価をね」

 

 恐らく、その「真価」とやらが、須郷が明日奈を幽閉している理由なのだろう。須郷は、明日奈が知りたがる素振りを見せていることに優越感を感じているらしく、少しばかり勿体ぶった後、高らかに己の野望を語りだした。

 

「知りたいだろう?それはね……脳の制御範囲を広げることで、思考、感情、記憶までも制御できる可能性があるのさ!」

 

「そんな……そんなことが、許される筈が!」

 

「誰が許さないんだい?既にいろんな国で研究が進められているんだよ。とはいえ、おいそれと人体実験なんかできやしない。ところがね~……ある日ニュースを見ていたら、あるじゃないか。恰好の研究素材が一万人も!!」

 

 須郷の口から出たその言葉に、明日奈は戦慄した。須郷の言う一万人の研究素材が何を指しているのかを、悟ったからだ。

 

「茅場先輩は天才だが、大馬鹿者さ。あれだけの器を用意しながら、たかがゲーム世界の創造だけで満足するなんてね。プレイヤー達が解放された瞬間に、その一部を拉致できるようルーターに細工するのは、そう難しくはなかったさ。結果、三百人もの被験者を、僕は手に入れた。」

 

 その言葉に、明日奈はさらに驚愕に目を剥く。自分がこうして幽閉されている以上、まだ他にも囚われている未帰還者が存在しているのは察しがついたが、まさか三百名も、それも人体実験と言う目的のために拉致していたとはさすがに想像できなかった。

 

「たった二カ月で、研究は大いに進展したよ。人間の記憶に新規オブジェクトを埋め込み、それに対する感情を誘導する技術は、大体形ができた。これだけでも既に十分商品化して通用するレベルだが……僕の研究は、まだこれからなんだよ……!」

 

「?」

 

 須郷の性格から考えて、この非合法かつ非人道的な研究が、不法な暴利を貪るために行っていることは明日奈にも理解できたが、まだ先があると言うのか?明日奈はここからが須郷の本当の目的なのだと直感した。

 

「君は知っているかな?SAO事件より以前に起きた、VRマシンとその仮想世界を舞台に起こった、大量殺人未遂事件のことを」

 

 須郷の口から語られた意外な言葉に、明日奈は目を丸くした。まさか、現実世界でSAO事件と呼ばれている、自分達が被害者として関わった事件より以前に、同様の事件が起こっていたとは、全く知らなかった。

 

「今から九年程前かな……世界初のVRマシンがゲーム機として開発され、完成披露パーティーが行われた。パーティーの催し物には、ゲームの体験コーナーが含まれていた。参加者は、パーティーに参加していた警察官僚や政治家の子供たち五十人だ。だが、ゲームスタートの直後、システムが占拠される事態が発生した」

 

「……制作者の仕業なの?」

 

「いいや、そうじゃない。システムを乗っ取ったのは、そもそも人間ですらなかった……その正体は、ゲームの開発会社が二年前に電脳世界に流出した、『人工頭脳』だったのさ!」

 

 『人工頭脳』――その言葉を口走った途端、須郷のテンションはさらに上昇した。恐らくこれが、須郷の目標の中核に相当するものなのだろう。

 

「人工頭脳の完成度は素晴らしいものだった……一年間で、人間の五年分成長するよう設計されていたそうだが、その力を遺憾なく発揮し、世界初の仮想体感ゲームを、ナーヴギアと同様の方法でデスゲームへと変えた。尤も、囚われた五十人の内一人でもクリアできれば、全員解放と言うルールという点では、君達のやったSAO程シビアではなかったがね。ともあれ、人工頭脳によるVRマシンの乗っ取り事件は、一日とかからず解決した。ゲームをプレイしていた少年二人がゲームクリアを成し遂げたことで、囚われの五十人は無事解放。ゲームを開発した会社は、同日に社長が殺人事件を起こしたことで倒産し、デスゲームを演じた人工頭脳も自己消滅。これが当時起こった事件の顛末さ。

以来、VRマシンの開発は、外部からの不法アクセス対策と、セキュリティ管理の徹底を課題として、普及が見送られた。だが、後継機のナーヴギアに関しては、外部からの干渉を防ぐことばかりに重きを置いたおかげで、強力な電磁波を発生させ得るバッテリーの方へ目が行かず、内部からの乗っ取りに脆弱さを晒すことになった。事件自体も、死傷者が出なかったことや、社長のスキャンダルのインパクトが大きかったせいで、風化されてしまったこともあったんだろうね。そしてその結果が、茅場先輩の起こしたSAO事件というわけさ」

 

「それで、その事件があなたの野望とどう関係しているのかしら?」

 

 事件の詳細は分かったが、須郷の目論見については未だ不鮮明だ。明日奈は改めて問いかけてみる。すると、須郷は先程と同様、ひけらかすかのように話しだした。

 

「この事件以降、日本国内は無論のこと、海外で『人工頭脳』の開発が進められた。一年で五年分成長し、システムの乗っ取りすら可能とするプログラムだ……あらゆる分野において応用が期待できる。だが、開発者たる天才少年は事件発生より二年前に既に他界し、研究データも死に際に残らず消去されていたお陰で、開発はゼロからのスタートだった。当然、断念する企業は相次ぎ、IT業界において人工頭脳の開発は数世代先に見送られる結果となった。

だが、僕は違う……人間の思考・感情・記憶を操る技術を開発する過程で収集したデータを利用すれば、その情動パターンをもとに人間の脳を電子的に再現して知性を生み出すことも決して不可能ではない。このまま研究を進めて行けば、今現在も思考実験の域を出ないまま放置されたアプローチによって作られる、ボトムアップ型の人工頭脳の作成を実現することができる!世界最大級の発明と目されていた……茅場先輩ですら為し得なかった偉業を、僕が成し遂げるということだよ!そしてそのためには、SAO生還者三百人にまだまだデータを提供してもらわなければならないがね」

 

「ふざけないで……そんな研究、お父さんが許す筈無いわ!」

 

「研究は私以下、ごく少数チームで秘密裏に進められている。そうでなければ、商品にできないからね」

 

 明日奈の父親がCEOを務める電子機器メーカー、レクト・プログレスの裏側で行われている、身の毛もよだつような諸行に、明日奈は血の気が引く思いだった。

 

「アメリカの某企業が、涎を垂らして僕の研究成果を待っている。精々、高値で売り付けるさ。いずれは、レクトごとね。そして、人工頭脳の開発に成功すれば、僕はIT業界に君臨する帝王になれる」

 

「そんなこと、絶対にさせない……いつか現実世界に戻ったら、真っ先にあなたの悪行を暴いてあげるわ!」

 

 露見する隙を一切見せない姿勢で計画を進めんとする須郷に、しかし明日奈は精一杯の強がりを見せた。だが、己に酔い痴れている須郷には、そんな虚勢が通用する筈も無く、鼻で笑い飛ばされてしまう。

 

「君だって、他の被験者と同じ立場なんだよ?」

 

 その言葉には、流石の明日奈も怯まずにはいられない。須郷がシステム管理者である以上、囚われの自分には逆らう術は無く、その気になれば、今すぐにでも実験素体に加えることも可能だからだ。

 

「やろうと思えば、君の記憶を操作するのも、可能なのさ。とはいえ、僕も君を、ただの人形にしてしまうのは望まない。次に会う時は、もう少し従順であることを願うよ。ティターニア」

 

 それだけ言うと、須郷は鳥籠から外へ通じる唯一の出口へ向けて踵を返した。電子パネルに暗証番号を入力し、扉のロックを解除する。明日奈はその様子を後ろから注意深く見ていたが、明日奈の脱走を防止するための策だろう、電子パネルのあたりの空間に歪みが生じているように見え、打ち込んでいる暗証番号が全く分からなかった。

 

「では、さらばだ」

 

 気障な仕草で別れを告げると、須郷ことオベイロンは鳥籠の向こうへと出て行く。鉄格子はそのまま開いたままである筈もなく、須郷が出ると同時に閉まった。

 鳥籠の中に残された明日奈は、自分を含めた三百人もの未帰還者が恐るべき人体実験に利用されているという事実に恐怖し、崩れ落ちて膝を突いて震えだした。須郷を増長させないよう、飽く迄、強気に振る舞っていたが、最早現界だった。たった一人、鳥籠の中に幽閉される孤独と、須郷から恐ろしい計画を聞かされる恐怖に晒され、本心では泣きだしたくて仕方がなかった。

 

「助けて……和人君……!」

 

 涙に代わって思わず零れた言葉は、しかし彼女を救い出そうと同じ世界に来ている想い人には、届かなかった。

 




二千人以上の死者を出したSAO事件から、僅か半年で次世代機を開発・販売するような世界ですので、コクーンのような前例があったとしてもすぐに風化してしまうというのが私の見解です。
そして今回、いつ回収できるか分からないような伏線を張ってしまいました。SAOを相当読みこんでいる人なら、多分分かっちゃうだろうなぁ……

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