ソードアート・オンライン 仮想世界に降り立つ暁の忍 -改稿版- 作:鈴神
東京都港区台場のお台場エリアに点在する海上公園の一つである、シンボルプロムナード公園。臨海副都心の様々な施設を繋いでいる公園であり、ウエスト、センター、イーストの三つの
そしてこのセントラル広場こそが、本日のオーディナル・スケールのバトルイベント会場であり……HALが仕掛けたゲームの最後の舞台だった。
「イタチはまだ来ていないのか……」
海から吹き付ける風に、長く艶やかな黒髪を靡かせながら、メダカが呟いた。彼女の周囲には、Lや和人の捜査に協力すべく駆け付けた他の面々――かつてのSAO攻略組プレイヤー達が揃っており、オーディナル・スケールを起動した状態で待機していた。ゲームイベント開始までは、残り十五分である。
「SAOの時とかは、一番に到着する筈なのに……」
「昼間の作戦会議にも来ていなかったが……」
「まさかとは思うけれど……何かあったのかな?」
レイドリーダーであるイタチが到着しないことに、アスナとシバトラは不安そうな表情を浮かべていた。SAO事件当時は勿論のこと、このオーディナル・スケールにおけるHALのゲームにおいても、事前の作戦会議には必ず参加し、集合場所には基本的に誰よりも早く到着していた。
そんなイタチが、今日に限って作戦会議を欠席し、いつもより到着が遅れている。考えられる原因としては、リアルの関係で急な用事が発生したか、捜査関係で別行動を取っているか……或いは、HALからの襲撃を受けたかだろう。特に後者は、HALのゲームが終盤に差し掛かっている関係上、可能性は高い。
「一度、Lに連絡を取った方が良いんじゃないかな?」
「……そうだな」
シバトラの提案により、一先ずは捜査本部にいるLへと取ることとしたメダカが携帯を取り出し、本部の番号へ掛けようと通話機能を起動しようとする。
だが、その直前。ふと顔を上げた明日奈の視界に、台場駅方面から歩いて来る人影を捕らえた。
「あ、イタチ君!」
明日奈の声に、他の面々も同じ方向を向く。それはまさしく、その場に集まっていた一同がその安否を案じていた、イタチこと和人当人だった。オーディナル・スケールを起動した状態でアスナ等パーティーリーダー達のもとへと近づくと、いつもと変わらぬ様子で挨拶をする。
「皆さん、お待たせしました」
「無事だったのか!」
「心配したんだよ!」
イベント直前にこうしてこの場に姿を現すまで、一切の連絡を寄越さなかったことについて咎める面々に対し、イタチは表情にこそ出ていないが、若干たじろいでいた。
「……申し訳ございませんでした」
「全くだよ。一体今まで、何をしていたんだい?」
「……急用が出来まして、今まで連絡を取ることができませんでした」
「HALからの襲撃を受けたというわけではないみたいだね。一体、どんな用事だい?」
先日のように怪我をした様子が見られないことから、戦闘はまず無かったのだろう。しかし、和人がこの重要な局面で打ち合わせを休んでまで向かった用事である。この事件に関わる重要な意味を持つことは間違いないと、シバトラは確信していた。
「……少々、昔の知り合いに会っていただけです」
「知り合い?」
「すみませんが、詳細は伏せさせていただきます。勝手な理由で事前の打ち合わせを欠席してしまったことはお詫びします。しかし、俺個人としては、どうしても外せなかったんです……」
詳細は説明せずに、ぼかした表現でしか答えなかった和人だが、心配を掛けてしまったことの自覚はあった。三人に対して深く頭を下げ、謝罪する。
「分かったよ、和人君。これ以上、僕等からは何も聞かないよ」
「お前が無事だったことは何よりだ。作戦についても、前回のボス攻略の時からある程度決まっていたんだ。特に変更も無い以上、特に問題は無い」
誠心誠意謝罪する和人の姿に、シバトラとメダカはそれ以上の追及をすることは無かった。アスナも含め、内心では和人の用事が何だったのかは気になる。だが、それよりも目先の問題であるボス攻略に集中すべきと判断したからだ。
「もうそろそろ時間だよ。早くカズゴ君やアレン君と合流して、所定の配置に付こう」
「了解です、アスナさん」
アスナに促され、イタチとシバトラ、メダカはセントラル広場に集結している仲間達のもとへと向かった。HALを護る最後の砦と目される、最後のクォーターポイントのフロアボスとの戦いへと臨むために――――――
イタチ等が電人HALの仕掛けた最後のゲームに挑もうとしていたその頃。HALの共犯者にして、計画の中枢を担っている重村もまた、計画の最終段階に向けた準備に勤しんでいた。計画を秘密裏に進めるため、重村は仮の拠点としていた大学の研究室内にここ数日間は籠もりきりで作業をしており、一切の面会を断り、会議すらも欠席していた。
(ようやくここまで来たか……)
そうして睡眠時間すらも削って作業を進めることしばらく。遂に計画の最終段階へと向けた準備は、八割程完了した。準備は大詰めだが、流石に年齢の割に根を詰め過ぎたらしい。これ以上は流石に厳しいと感じた重村は、一休みすることにした。
そうして、背もたれに体重をかけて一息吐こうとした重村だったが……思わぬ来客が、束の間の休息を遮った。
『重村教授、お久しぶりです』
「君は……」
重村の眼前に現れたのは、白衣姿の一人の男だった。そして、突然現れ、自身の名前を呼んだ男を見た重村の目は、驚愕に見開かれていた。何故なら、その男は本来、この場にはいない……否、この世界には生存していない筈の人物だったのだから。
「……そうか。計画が失敗したとはいえ、タダでは死なないとは思っていたが、まさかそのような形で望みを果たしていたとは……」
しかし、その驚愕も数秒程度のものだった。重村は自身の目の前に現れた見知った男の姿を象った何者か――又は何物かとも言う――の真なる正体と、そこに至った経緯を即座に導き出したからだ。
「千分の一にも満たないとされていた可能性を、よく掴み取れたものだね――――――“茅場”」
『もっと驚くかと思いましたが……流石ですね、重村教授』
“茅場”、と自身のかつての教え子であると同時に、今は亡き人間の名前を呼んだ重村は、しかし非常に落ち着き払った様子だった。生きている筈の無い人間が、目の前に立っているという矛盾。だが、それは重村にとっては謎などではない。無論、この茅場という男が幽霊であるなどというわけでもない。
それは、実に単純な理屈。茅場の正体が、生身の肉体を……実体を伴った人間などではないということ。彼の共犯者であるHALと同じく、デジタルデータによりその身を構成された、電脳世界の住人――電人なのだ。重村は、和人と同様に茅場晶彦の最期について知っている数少ない人間だった。故に、茅場が自身の脳に高出力のスキャンをかけたという事実と、その目的が己の意識を電子化することも知っていた。重村の言うように、成功する確率は極めて低いのだが、どうやら茅場はその可能性を掴み取ったらしい。ちなみに、重村の驚きが少ないのは、共犯者にである春川の分身たるHALの存在が大きい。
「それで、電脳となった君が、一体私に何の用なのかね?」
『大したことではありませんよ。ただ、教授が今進めている計画の……その中枢を担うシステムについて、懐かしいものを感じたので、伺った次第です』
茅場が放ったその言葉に、重村は目を細める。このタイミングでこの場を訪れた時点で既に重村は確信していたが、茅場は重村や春川が手を組んで水面下で進めている計画と、その目的を知っているらしい。
「……つまり、私達の計画を邪魔しに来たということかね?」
和人同様、茅場もまた探偵Lの仲間なのか、と警戒心を強める重村。大学構内で重村が使用している端末は、当然ながら強固なセキュリティで固められている。HAL本体を護るスフィンクス程ではないにしても、天才ハッカー・ファルコンやヒロキのような人工頭脳によるサイバー攻撃でも、簡単には破られない造りである。茅場の攻撃を受けたところで、システムは勿論、計画そのものは小動もしない。しかし、それでも侮れないのが茅場という男である。重村は最大限に警戒していた。それに対する茅場はというと、やれやれと肩を竦めるばかりだった。
『まさか。重村教授が警戒するようなことをするつもりはありませんよ。確かに桐ケ谷和人君……イタチ君は、私にとっては数少ない友人だと思ってはいますが、今回の件で彼に直接的に協力するつもりはありません』
「ほう……それでは、何の用かね?」
『先程言った通りですよ。私にとって懐かしい……かつて私が捨てたシステムが動いていることに興味を持って、この場を訪れた。それだけです』
「………………」
茅場のアバターの表情や声色には、嘘の色は見られない。既に現実世界に生きる人間ではない、完全な電脳と化した茅場の言葉の真偽をそれらから察することはできない。だが、かつての恩師として茅場のことを知る重村は、その言葉を一応は信じることにした。
「……4年前、私はアーガス社外取締役の立場を利用して、悠那にナーヴギアとSAOを与えた。娘に良い顔をしたかったばかりにな……」
『……』
「そしてそんな私の愚かさ故に、あの子は死んだ……!」
娘である悠那の死を思い出しながら話す重村の顔と言葉には、強い怒りが浮かんでいた。ただそれは、SAO事件の首謀者である茅場に向けられたものではない。悠那がSAO事件に巻き込まれるきっかけを作ってしまった重村自身に向けられていた。それが分かっていた茅場は、何も口を出さずに、ただただ黙って話を聞いていた。
「悠那の死を認められなかった私は、私なりの方法で娘を蘇らせる方法を探し始めた。まず考えたのは、人工知能としてあの子の魂を再現することだった。だが、脳はナーヴギアによるダメージで保存や修復は不可能な状態……流石の私も、もう不可能だと思ったよ。だが、諦めかけていた私のもとに……彼が現れた」
『……春川英輔、ですね』
茅場が口にした、この場にいないもう一人の天才の名前に、重村は静かに頷いた。
「彼は稀代の天才少年、ヒロキ・サワダが遺した僅かな資料をもとに、ボトムアップ型人工知能の開発のための研究を進めていた。初めて彼の研究成果を見た時には、驚かされたものだよ。C事件以降、世界中の研究機関が躍起になって着手し、それでいて誰一人として再現できなかったヒロキ・サワダの人工知能開発を、彼は独力で成し遂げたのだからね」
春川はその成果について、ヒロキ・サワダの研究の猿真似に過ぎないと言っていたが、その猿真似さえも世界の研究者の誰一人としてできなかったのだ。さらに春川はそれだけに満足せず、本命の目的を果たすために、重村をも計画に巻き込んだのだ。しかもその計画は、自身の命をも懸けた無謀に等しいものである。計画を持ち掛けられた当初、重村は春川がその内に秘めた天才としての矜持と執念に、薄ら寒いものを覚えた程だった。
「彼が提供してくれた研究データのお陰で、私の計画は息を吹き返した。人工知能を作る方法がわかったのならば、あとは材料を集めるだけのこと。SAOプレイヤーから悠那に関する記憶……その断片をかき集め、結合することができれば、あとはディープラーニングで、人工知能としての悠那を蘇らせることができる」
『それが、あなたが春川教授と手を組んで進めている計画の真なる目的ですか』
愛する娘を取り戻すためというならば、これ程までの計画を遂行した理由としては頷ける。但し、悠那を取り戻すというのは重村とエイジの目的である。HALの――正確にはHALのオリジナルである春川英輔の――目的は、また別にあるのだろう。
そんな茅場の思考を余所に、重村の独白は続く。
「基数によってアインクラッドを制御していたカーディナル・システムに対して、序数におって支配するのがオーディナル・システム。そして、オーディナル・システムのナンバー1は絶対。ナンバー1を与えられた者は、不死となる。そう設計したのは君だろう、茅場」
『だから『ユナ』……ラテン語の『1』というわけですか。そのために、先生はかつて私が捨てたシステムを見つけ出し、新たなゲームとして生まれ変わらせたのですね』
「……計画は既に最終段階だ。全てのプロセスが完了したその時には、多くの人間が犠牲になることだろう。だが……私は悠那を蘇らせるためならば、電人だろうと悪魔だろうと、喜んで魂を売ろう。譬え……君と同じ道を行くことになるのだとしてもね」
『………………』
愛する娘のためならば、大量殺戮も辞さない覚悟を固めているかつての恩師の姿に、しかし茅場は何も言わなかった。それは、自身が起こしたSAO事件が原因であることや、自身が遺したシステムがきっかけを作ってしまったことに由来する罪悪感でもましてや重村に対する憐れみからではない。元より、茅場は既にそのような感情は捨てているのだ。
オーディナル・システムに絶対の可能性を見出す重村を見る茅場の姿に……茅場は、かつての自分の姿を重ねた、懐古にも似た感情を抱いていた。
『確かに以前の私ならば、同じように考えたかもしれません。しかしね先生……私は信じているのですよ……』
一拍置いて、茅場は再び口を開いた。そのアバターの瞳には、重村にも迫る、強い意思が宿っているように……重村には、そう思えた。
『システムすら超越する力の存在を』
「………………」
『私が先生に言いたかったことは、それだけです。あなたの計画の終着点について干渉するつもりはありません。しかし、あなた方と“彼”との戦いは、その可能性を垣間見ることができるかもしれないと、私はそう思うのです』
「……彼というのは、桐ケ谷和人のことかね?」
重村の問いに、茅場は頷いた。しかし、重村には解せない。確かに和人はSAO事件を解決に導いた英雄であり、VRゲーム関連の事件をその後二度も解決した実績がある。しかし、それはあくまでVRゲーム内でのこと。ARゲームのオーディナル・スケールではVRのようにはいかず、エイジやHALの私兵との戦闘に際しては圧倒されていた。今更、この戦況を覆すような可能性を秘めているとは思えない。
そんな重村の内心を察したのか、茅場はフッと不敵に笑った。
『私自身も、彼に何ができるのか……それは分かりません。しかし、私個人としては信じてみたいのですよ。彼が秘めている、我々の理解の及ばない領域にある、可能性というものをね……』
それだけ言い残すと、茅場のアバターは重村の前からゆっくりと消えていった。残された重村は、先程まで茅場がいたその場所を――虚空を見つめ続けていた。結局、かつての教え子たる茅場が、自分に何をおうとしていたのかは、最後まで分からなかった。研究者としての妙に引っ掛かる……ある種の興味を抱かされるような話ではあったが、それ以上の意味は見いだせなかった。
「作業に戻らねばな……」
茅場の来訪というのは予想外の事態だったが、重要な情報が齎されたわけでもない。今優先すべきは、計画の最終調整なのだ。桐ケ谷和人に何かありそうだが、今更そんなことを一々探っている暇も無い。問題を――そもそも、問題なのかも疑問だが――を棚上げすることにした重村は、再び準備へと取り掛かっていくのだった。
『キシャァァァアアアアッッ!!』
「イタチ、スイッチだ!」
「メダカさん!右サイドに回り込んで!」
「シバトラ!尾の攻撃が来るぞ!回避しろ!」
お台場エリアのシンボルプロムナード公園、ウエストプロムナード中央のセントラル広場にて繰り広げられていたオーディナル・スケールのバトルイベントは、佳境を迎えていた。元攻略組のSAO生還者を中心に集ったレイドが対峙する、第三のクォーターポイントの守護者『スカル・リーパー』は、そのHP全量の実に九割を既に削り取られていた。
『キィィイイシャァアッ!』
「今度は上の両腕が繰り出されるぞ!」
「それが終われば、今度は下の両腕の連撃だ!気を付けろ!」
デスゲームさながらの緊迫感の中、プレイヤー達が対峙する『スカル・リーパー』の姿は、かつてアインクラッドで戦った時のそれとは違っていた。SAO時代、このボスは前足の両腕に装備していた大鎌を武器としていたが、今回はそれが
『キィィイイシャァァアア!!』
「範囲攻撃が来る!全員退避しろ!」
イタチの指示に従い、レイドメンバーは一斉にボスから距離を取る。だが、そんな中――――――
「きゃっ……!」
シリカが躓き、転んでしまった。そして、一人だけボスの攻撃範囲の中に取り残されてしまう。
「シリカっ!!」
「助けに行かないと……!」
「駄目だ!今行ったら巻き込まれる!」
何名かのプレイヤーがシリカに気付いたが、ボスは既に範囲攻撃のために鎌を振り上げていた。今飛び込んでいけば、シリカ諸共に大鎌の餌食である。
「アスナさん、後を任せます……!」
「い、イタチ君!?」
誰もが巻き添えを恐れて動き出せずにいた中、イタチが一人、駆け出していった。アスナに指揮を任せ、その返事を待つことなく、シリカのいる方向目掛けて一直線に駆け出していく。ボスが振り下ろしたのは、イタチが駆けだした数秒後だった。
「シリカ!」
「イタチさんっ!?」
迫るボスの刃と、駆け付けようとするイタチと、両者に挟まれる位置にへたり込むシリカ。三者が交差しようとする中……最初にシリカのもとへ辿り着いたのは、イタチだった。
「きゃぁっ……!」
シリカへとダイブする形で飛び掛かったイタチは、その勢いのまま彼女を押し倒し、地面を転がる。その結果、二人はボスの刃の下を潜る形で回避することに成功した。
『キッッシャァァアア!!』
「逃げるぞ」
「え?ふわぁあっ!?」
横薙ぎの範囲攻撃を避けても、ボスの攻撃は続く。しかも、手近にいたことでシリカとイタチへとタゲが移ってしまった。それを瞬時に察したイタチは、シリカを所謂お姫様抱っこで抱え上げた状態で駆け出し、離脱を開始した。
『キシャァアッ!キシャァアアッ!!』
「しっかり掴まっていろ」
「ひっ……!」
シリカを抱えたイタチ目掛けて、ボスの斬撃が次々繰り出される。しかしイタチは、それらをオーグマーから齎される聴覚情報のみで察知し、まるで背中に目が付いているかのような反応速度で避けていく。
『キシャァァアアア!!』
「くっ……!」
だが、回避を続けるイタチに限界が訪れた。ボスが繰り出してきた連撃の最後の一撃が、イタチの背中目掛けて放たれる。イタチ一人なら、全て余裕で避けられたであろう攻撃だったが、今回はシリカを抱えた状態である。腕の中に抱えていた人一人分の重さが、イタチの回避行動を僅かに遅らせた。
「イタチ君!」
「イタチ!」
イタチの危機に、アスナやシバトラが思わず声を上げる。他のプレイヤーも同様の反応を示している。だれもが絶望の表情を浮かべた、絶体絶命の窮地の中……しかしイタチは、諦めた様子は無かった。
「―――――」
「……?」
ボスの刃がイタチの背中に触れそうになったその時。周囲の音で良く聞き取れなかったが、イタチが口を動かして何かを呟いたのを、腕に抱かれた状態のシリカは見た。そしてその途端――――――
「――え?」
シリカは、思わず戸惑いの声を上げた。何故なら、自分のいた場所の風景が、先程までとは様変わりしていたからだ。さらに言えば、自分達を襲っていたボスの位置もおかしい。先程大鎌の一撃を受けそうになった時より、ボスは十メートル以上離れた場所にいたのだ。
何が起こったのかシリカには分からなかったが……それは、他のレイドメンバーも同様だった。回避不能だった筈の一撃を、イタチは避けてのけた。だが、回避するまでのプロセスが、目で追えなかったのだ。一体、何が起こったのかと、レイド全体が思考停止状態に陥っていたが……その静寂を破ったのは、イタチだった。
「ボスの攻撃が止んだ!今の内に畳みかけるんだ!」
イタチの言葉に、一気に正気に戻ったプレイヤー達が、思考をボス攻略へと切り替える。既にHPは九割まで削っており、あと一息なのだ。ここで攻撃の手を緩めるわけにはいかない。
「皆、最後の攻撃だよ!」
「突撃だ!」
『ウォォォオオオオオ!!』
アスナやメダカといった強豪プレイヤー達が正面から鎌四本を捌き、その隙に両サイドから他のレイドメンバーが次々攻撃を加えていく。最後の最後まで気の抜けない攻防の末……遂にボスは、限界を迎えた。
『キ、シ、シャシャァア……ァァア……』
か細い断末魔とともに、ボスはその長大な体を力尽きたかのように地面に横たえた。それと同時に、その体はポリゴン片を撒き散らして爆散した。例によってプレイヤー達の視界には、イベントクリアを知らせるメッセージと報酬が表示されていた。
「ようやくこれで終わり、か……」
長く辛い死闘が終わったことに安堵し、その場に次々にへたり込むレイドメンバー達。イタチやメダカは、エイジからの追撃を警戒し、ヒロキにソーシャルカメラのチェックとともに、自らも辺りを見渡していた。
『おめでとう、SAO生還者諸君』
「!!」
そんな声と共に、和人達の前に、ノイズと共に一人の男が姿を現した。その登場の仕方から分かるように、人間ではないその男を見た和人等に、再び緊張が走る。
「HAL……!」
『おっと、そう警戒しないでくれたまえ。これ以上、君達に攻撃を加えるつもりは無い』
唐突に現れた電人HALに警戒を露に、各々の武器を構えるSAO生還者達。対するHALは、そんな四面楚歌の状況にあっても、飄々としていた。
『ゲームは君達の勝ちだ。例によって、私の最後のスフィンクスは機能を停止し、当該施設を守護していた兵隊も全て解放した。まさか、ここまで一人の犠牲者も出さずに攻略してのけるとは、流石の私も驚いたがね』
「余裕でいられるのも今の内だ。スフィンクスが全て消えた今、お前を護る防壁はもう無い。お前の居場所も、ファルコンとヒロキがすぐに見つけ出す」
『フフフ……そんなに焦らずとも、私は逃げやしないさ。なんなら、この場で教えてあげても良いのだがね?』
「何だと?」
自身の防衛の要であるスフィンクスを全て失ったというのに、全く余裕を崩さないHALの態度に、SAO生還者達は不気味なものを感じていた。スフィンクスについては、これ以上数を増やされることを防ぐために、ファルコンとL、ヒロキの手により、これをインストールするための国内全てのスーパーコンピューターが既に押さえられている状態にある。故に、今のHALは丸裸同然であり、このように余裕でいられる筈が無いのだ。
『まあ、私の居場所については、後でヒロキ君にでも聞いてみるがいい。それでは、私はこれで失礼するよ……』
それだけ言うと、HALは再びのノイズとともにその場から姿を消した。残されたイタチ等は、HALが残した意味深な言葉に不安を覚えつつも、行動を再開した。
「一先ず、今日はこれで解散しよう」
「そうだな。流石に、これからHALの居場所に乗り込むことはできそうにないからな」
「皆、疲れてるもんね……」
レイドメンバーの疲労状態を鑑み、これ以上の捜査は不可能と判断したメダカとアスナ、シバトラは、イタチの言う通り、この場を解散することとした。
「Lとファルコンには、俺から連絡を取っておきます。HALの居場所については、明日お知らせします」
「そうしてくれ」
捜査報告についても後日に回すことを決めたところで、レイドのパーティーリーダー等は、各々のパーティーのメンバーにその旨を説明に向かうのだった。
「シリカちゃん、大丈夫だった?」
「はい。平気です」
和人の判断により、レイドを解散した後、明日奈と珪子、里香の三人はめだかが用意した車に乗せられて帰路に着いていた。ちなみに、他のレイドメンバーも、警護のためにめだか乃至Lが用意した車で家へと送ってもらっている。
「それにしても、良かったわね~、珪子」
「へ?」
「イタチにお姫様抱っこなんてしてもらって」
里香がからかうように口にしたその言葉に、当時のことを思い出した珪子の顔が赤く染まっていく。
「あ、あれは緊急事態だったんですから……しょうがないじゃないですかっ!」
「そうだよ、里香。珪子ちゃんだって、そのために転んだわけじゃないんだから……」
「あら?明日奈は羨ましかったんじゃなくて?」
「ち、違うわよっ!そりゃ、確かに、私はあんなことされたこと無いけど……」
迂闊に横から口を挟んで諫めようとした明日奈だったが、里香のからかいの対象が珪子からシフトしてしまった。完全な藪蛇だったが、里香の恋する乙女弄りは止まることを知らず、明日奈をどんどん赤面させていくのだった。
その一方、里香から逃れることに成功した珪子は……
(あの時のイタチさんの“目”……気のせいだったのかな?)
それは、抱き上げられた時、和人の顔を至近距離で見た珪子だからこそ気付いたことだった。和人のオーディナル・スケールのアバターは、SAOやALOのそれと同様、瞳の色を赤くカラーリングしている。だが、珪子があの時見た和人の瞳には、それだけではない……ある変化があったのだ。
(確か、“三つ巴”だったかな?瞳の形をそんな風にする設定、あったかな……?けど、あの後イタチさんの目は何も変化してなかったし……)
やはり見間違いだったのだろう。そう結論付けた珪子は、それ以上そのことに触れることはしなかった。その後は、隣で赤面して狼狽える明日奈と、それをからかう里香の方へと、関心は移っていったのだった。