偽物の名武偵   作:コジローⅡ

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今回、中国語や中国の地名や知識が出てくるのですが、ネットで調べたものばかりなので、正確性は保証できません。もし不快に思われることがあれば、ひとえに作者の知識不足ですので、この場で謝罪申し上げます。

※通算UA50万突破&お気に入り5000人突破。皆様、ありがとうございました。


29.4000年の大地を歩きましょう

「うわ、すっげ……あれが藍幇(ランパン)城か」

 

 俺はクルーザーの甲板で手すりに寄りかかりつつ、目前まで来た、洋上に浮かぶ異様な建物の様相に感嘆した。

 その建物を一言で表せば、派手。それにつきる。

 全高はおよそ500メートルの3階建て。奥行は50メートルほどだろうか。東京タワーが333メートルの高さを誇っていたことを考えれば、まさに威容と言わざるを得ない。

 形としては、俺たち日本人が思い浮かべる普通の城とは違い、どちらかと言えば塔の形状をしている。立てた鉛筆の上に、日本でいう寄棟(よりむね)の天井――台形2つに三角形2つをくっつけたみたいな感じかな――がくっついたと言えば少しわかりやすいかもしれない。

 まあ、しかしそんな構造をどうでもいいと思わせるくらいに、装飾はさらに華美だった。

 中国のカラーといえば思い浮かぶ朱色と金色が、その主な原因だろう。全体的には朱色を基調とした外壁に、金色や薄青緑、白などで装飾が入り、ところどころ――訂正、外壁のほぼ全面に四聖獣たちが彫刻されている。おまけに、屋根にはしゃちほこじゃなくて金の龍が乗ってるし。

 日本ではほとんど考えられないほどごてごてしていて……しかし、不思議と違和感はない。どころか、まさしく芸術と呼べるほど調和が取れていて、中国と言うお国柄にマッチしている。国が変われば、価値観が変わる。これもまたその一例だろう。

 ……で、だ。問題は、今が夜だということだ。

 つまりは、灯りに乏しいってことなんだが、ではなぜここまで詳細に描写できたかと言うと……ライトアップされてんだよ。城自体に取り付けられた照明で。

 派手すぎだろ。いろいろと。

 

「まあ……その派手すぎる場所に、俺は今からお邪魔するわけだが」

 

 と、俺は手すりに腕を乗せ頬杖をつきつつ、ぼんやりと呟く。

 ――あの後。

 カナさんが『藍幇』とかいう組織に連絡をとった後、ほどなくして夜闇の中から一艘の小型クルーザーが現れ、俺たちを迎えにきた……らしい。カナさんが言うには。

 で、その船に乗ってた人(『藍幇』の構成員だろう)と中国語で話をつけたカナさんに促され、船に乗り込んだ俺たちはそのまま海上を進み、今こうして『藍幇』香港支部の本拠地――通称『藍幇城』の至近まで迫ってきていた。

 香港に丸ごと根ざしている組織の本拠地が海上にでんと構えているというのは、意外にも思えたが、それを言ったら武偵高も似たようなもんか。人口浮島(メガフロート)というには小さいが、しかし構造は似通っている。クルーザーの中で暇つぶしにカナさんに聞いた話じゃ、『藍幇』の起源はもともと海賊だったらしいし、古くからの流れを受け継いでるってことなんだろう。ただ海賊らしく、藍幇城はタグボートでの牽引が可能らしい。まさに、船と城の融合だ。

 その船城こと藍幇城は、現在は藍塘(ラントン)海峡に停泊しているらしい。といっても、俺もいまいちわかってないんだが。

 ここでカナさんに習った香港の立地を簡単に説明しておくと、ぶっちゃけた話二つに分かれる。中国本土にくっついた九龍(ガウロン)、海を挟んでその南に浮かぶ香港島。間の海は、ヴィクトリア湾と呼ばれ、トンネルやフェリーでの行き来が可能になっている。

 そして藍幇城がある藍塘海峡は、香港島の東側の海域にあり、藍幇城からは九龍、香港島を一望できるそうだ。ここまで行くともう、組織の本拠地というより観光地みたいになってんな。見た目も一見の価値あるし。

 しかしまあ……九龍だのヴィクトリア湾だの、俺が知らない名前がポロポロ出てきやがる。こういうところで、見識の浅さが思い知らされるよなぁ。

 とてもじゃないが、武偵憲章9条――世界に雄飛せよ――は、まだまだ俺には難しいらしい。

 そんなことを考え、ついため息が出た時だった。

 

「――錬。なにしてるの?」

 

 背後から声がかかり振り返ると、丁度カナさんが船内から出てくるところだった。

 俺は手すりに背中を預けてもたれかかりつつ、

 

「んー……ちょっと、俺には世界はまだ早いなぁと感じてたところです」

「ふふっ、なにそれ」

 

 鈴の音のような小さな笑い声と共に、カナさんは俺の近くまでやってきた。

 海風に、ワンピースと長い茶髪が遊ぶ。それを上品に手で押さえつけるその姿は、まさしく女の人にしか見えない。

 だが男だ。

 

「カナさんこそ、どうしたんだよ。確か、さっきまで中でお茶飲んで無かったか?」

 

 俺はまるでホテルの一室みたいな豪華な船内の様子を思い出しつつ、カナさんに訊ねる。

 俺は別に喉がかわいてなかったんで断ったが、カナさんは『藍幇』の構成員に給仕してもらっていたはずだ。

 

「飲み終わったから、こっち来たの。藍幇城に着く前に言っておくことがあったし、ね」

「なにが?」

「ボストークを脱出した後であなたが寝る前に、私の事情で10日くらい身動きが取れなくなるって言ったの覚えてる?」

 

 んー……ああ、確かに言ってたな。そんなこと。

 あんときはスルーしたけど……10日って、冷静に考えると随分なげぇな。

 

「覚えてっけど……結局、事情ってなんなんだよ?」

「…………」

「カナさん?」

「……ん、ごめんなさい。ふわ……ぁ、今、なにか言った?」

 

 返事がなかったことを不審に思い呼びかけると、カナさんはあくび混じりにそう言った。律儀に、手で口元を隠している。

 あくび……? まさか今、()()()()()? 立ったまま?

 まあ……、そりゃそうか。なんせもう真夜中だ。俺はさっきまで潜水艇の中で寝てたからいいとして、カナさんはずっと操縦してたんだもんな。そりゃ眠くもなるか。

 

「その、ごめん。俺、カナさんが船の操縦してる間、ずっと寝てた。無理、させてたよな」

 

 申し訳なさを顔に表しながら、俺は謝罪する。

 しかし予想に反してカナさんは苦笑しながら、

 

「ああ、違う違う。これはね、起きてたから眠いわけじゃないのよ」

「? どういうことだ?」

「んーと……錬は、HSS……うん、キンジ風に言えばヒステリアモードのことは知ってる?」

「ああ。一応、ざっとは聞いてる」

「私の場合は、30分くらいの持続時間のあの子とは違って、それを長時間維持できるんだけど……代わりに、脳を休めるために、後でまとめて長い睡眠を取らなきゃいけないの。今のは、その前兆ってこと。だから、あなたが気にする必要はないわ」

 

 カナさんの説明に、俺は「へえ」と相槌を打つ。

 そういやキンジも、ヒステリアモードの後はちょっと眠くなるとか言ってたな。長時間ヒステリアモードになれる代わりに、長時間身動きが取れなくなるってことか。

 しかし……てことは、その間は無防備になるってことだろ? なのにわざわざ組織に匿ってもらうってことは、カナさんは割と『藍幇』を信用してんのかね? まあ、よしんばなにかあったとしても、そん時は起きるんだろうが。

 いずれにせよ、そんなこと「何が起こっても大丈夫」って自信がなきゃ無理だ。自分の()()をそこまで信じられるってのは……なんというか、羨ましい、な。

 

「…………」

「? どうかした?」

「……いや、なんでも。それより……そろそろ、だよな」

「ええ……そろそろね」

 

 二人、揃って船の舳先を見つめる。

 その、さらに先。

 中国最大組織『藍幇』――その本拠地である藍幇城は、すぐそこに迫っていた。

 

 * * *

 

欢迎(ようこそ)、藍幇城へ。到着をお待ちしていましたよ」

 

 そう言って俺たちに対して腕を広げながら歓迎したのは、カナさん曰く、『藍幇』香港支部のまとめ役、諸葛(しょかつ)静幻(せいげん)という男だった。

 なにやら色合いの派手な宮廷衣装に身を包んだ痩身の男、というのがまず彼の第一印象だ。ついで、丸眼鏡の下で糸みたいに細められた目と柔和な表情が、見る人に優しげな印象を与える。

 とてもじゃないが、大規模組織のまとめ役とは思えないほど、普通の人間に見えた。まあ、それを言ったら、キンジとかもパッと見は普通だしな。

 なんてことを俺は、藍幇城の正面玄関に横付けされたクルーザーから降りながら思った。

 まあ、だが……こういう奴ほど、案外侮れなかったりするんだよなぁ。東京武偵高の校長である緑松(みどりまつ)武尊(たける)も確か一見普通の男だが(というか普通すぎててどんな顔か思い出せない)、その実教職員すら恐れている。人は見かけじゃ判断できない。

 入口の両隣に立つ龍の像、その間に威風堂々と屹立する諸葛さんの姿に、俺はそう判断を改めた。

 そんな俺の前方、俺より先に降りていたカナさんが諸葛さんに右手を出す。

 

「ごめんなさいね、急にこんなことお願いして。迷惑だったでしょ?」

「いえいえ、他ならぬ遠山――ああ、いえ今はカナさんとお呼びしましょうか。あなたには、いろいろとお世話になりましたしね。()()()()()()という理由で、香港の犯罪史に残るような大事件を解決してもらったのですから、借りは返しておきませんと」

 

 その手を握り返しながら諸葛さんは薄く笑い、彼らは握手の形を崩した。

 

「気にしなくていいのに……と言いたいところだけど、今回は遠慮なくお世話になるわ。それで、あの4つ子ちゃんたちは?」

「なにやら『教授(プロフェシオン)』と個人的に……というか、姉妹的に契約したらしく、今のところは全面的に『イ・ウー』に協力しています。なので、ここに居させてはあなた方の迷惑になりそうだったので、上海『藍幇』の方へ仕事として出向させておきました」

 

 なにこいつ、怖。話の内容はいまいちわかんねぇけど、笑顔でえぐいこと言ってんぞ。

 

「ありがとう、と言うべきなんでしょうけど、ちょっとあの子たちにかわいそうなことしちゃったかしら? でも、いいの? 『イ・ウー』とはいろいろと共同歩調を取ってるんでしょ?」

「答えがわかってて訊ねるのはいささか意地悪と取られますよ、カナさん。共同歩調とは、仲間という意味ではありません。他に優先順位が高い案件の前には、あまり意味のない言葉です。『受人滴水之恩、当似湧泉相報(一滴の水のような恩にも、湧き出る泉のような大きさでこれに報いるべし)』。なにより受けた恩に対しては最大限の感謝を示し、これに報いる。中国人の思想の一つです」

「あなたが義理堅い人物でよかったわ、諸葛」

 

 カナさんが微笑みつつ、諸葛さんに礼を告げる。

 俺にはよくわからなかったが、とりあえず話はまとまったらしい。

 と、そこで今度は諸葛さんは俺の方に向き直り、

 

「あなたのことも、カナさんに窺っていますよ。有明錬さん、でよろしかったですよね? 私は、諸葛静幻と申します。『藍幇』香港支部のまとめ役を務めています。以後、お見知りおきを」

「ども。お世話んなります」

 

 日本的な挨拶と流暢な日本語で、諸葛さんはさっきみたいに握手を求めてきた。ので、それに応じつつ俺も挨拶しておく。『イ・ウー』から匿ってもらうってことは、この人は恩人だしな。てか、上手いな日本語。

 といった感じで一通りの挨拶が終わると、俺たちは揃って入城し、象牙や翡翠、珊瑚の彫刻で溢れた玄関ホールに通された。

 と、そこでカナさんが大きな欠伸を一つして、

 

「……ごめんなさい、諸葛。そろそろ私眠らなきゃいけないみたい」

「おや。まずは食事で饗応、と思ったのですが……そういうことでしたら、どうぞ入浴後にご就寝ください。室内に浴室がついている部屋に案内させましょう」

 

 頷いた諸葛さんはチャイナドレスの使用人らしき人を呼びつけ、カナさんに付ける。

 カナさんはそれに「ありがとう」と言うと、俺に向けて言った。

 

「それじゃあ、錬。おやすみなさい。後のことは諸葛に任せたから、なにかあったら彼に言ってね。変装するなら、街に出てもいいわよ」

「あいよ。んじゃあ、またな」

 

 若干ふらつきながら去っていくカナさんに、苦笑しながら手を振る。

 これから、例のヒステリアモード後の『睡眠』とやらに入るんだろう。

 俺はその間日本に帰ることはできなくなるわけだが……まあ、しゃあねぇか。どのみち、しばらくはほとぼりが冷めるまで隠れとかねぇと、な。

 まだまだ日本は遠そうだ、とため息をついた俺に、

 

「では、有明さん。カナさんの分まで、食事を楽しんでいただけますか?」

 

 と、諸葛さんがやはり薄く笑いながら聞いてきたので、

 

「よろこんで」

 

 俺は、腹を鳴らしながらそう答える。

 ……ぶっちゃけアドシアードの開催前から何も食ってなくて、めちゃくちゃ腹減っていた俺だった。

 

 * * *

 

 どこのパーティ会場なの? ってくらい広い大食堂で噂に名高い満漢全席をなりふり構わず食いまくった俺は、どこの王室なの? ってくらい広い大浴場で風呂をもらうことになった。

 いつだったか中国には湯船につかる習慣があまりなく、ほとんどシャワーで済ませるという話を聞いて、風呂好きな日本人としては若干不安ではあったが、ここはそんなことはなく、立派な浴室だった。まあ、やはり随所に金があしらってたり、彫刻みたいなのも多くて派手派手しかったが。湯口が金の龍だったのを見た時にはふざけてんのかと思ったが。

 

「んっ……く、ああー……。なんつーか、生き返るなぁ。身に染みわたるぜ」

 

 湯船によりかかり、背伸びをしながら俺は大きく息を吐く。

 実際、戦闘続きで久しぶりに安らいだ気がする。じんわりと熱が体を温め、ぼうっと視線を中空に揺らす。

 そんな中で考えるのは、日本にいる連中のことだ。

 特に、アリア。結局なにも言わずに日本を出る羽目になっちまったからなぁ。帰ったら怒られそうだ。

 電話も、携帯電話がぶっこわれちまったしなぁ。番号覚えてねぇよ。武偵高なら調べりゃ番号わかるだろうけど……報告したらしたで、芋づる式に俺が『イ・ウー』に深入りしたことが武偵高の上――つまりは、日本政府に行きそうだ。そしたら、俺消されるじゃん。日本帰れなくなっちまうよ。

 まあ……とりあえず、連絡はできそうもねぇなぁ。つか、そんな心配より今はとにかく日本に帰れるかを心配しとかねぇとな。

 そんな風にぼんやりと考えていると、

 

「――失礼します、有明さん。ご一緒しても?」

 

 と、腰にタオルを巻いた諸葛さんが、入室してきた。

 ちょっとびっくりしたものの、特に断る理由もないので了承する。

「失礼します」ともう一度断った諸葛さんは、浴室に身を沈めた。風呂にまでつけてきた眼鏡が、湯気で一瞬で曇る。

 

「いや、すみませんね。急にお邪魔してしまいまして」

「全然。お邪魔したのはどっちかっつったら、こっちなんで」

「それは、どうもありがとうございます。日本には、裸の付き合いというものがあるそうですね? 私も一つ、日本的な方法であなたと交友を図りたいと思いまして。……そうだ、お食事はいかがでしたか?」

「すんげー美味かったです。どれも、今まで食ったことないもんばっかりで」

「それはよかった。せっかくなので、拉麺(ラーメン)もお出ししようかと思ったのですが……日本にあるラーメンとは、だいぶ違ってしまうと思うので、今回は中国ならではのものを多く供させていただきました」

 

 へぇ、ラーメンって中国と日本でそんな違うのか。本場のラーメン、ちょっと興味あったんだけどな。

 

「それでも興味がおありでしたら、明日にでも街にお出かけになってみませんか? カナさんもああおっしゃってましたし」

「あー……変装してってやつですか? 俺、変装(マスケ)苦手なんだよな……。中国語もわかんねぇし」

「おや、それなら変装道具、といってはあれですが、いろいろお貸ししましょうか? 假发――カツラなどもありますよ。確か、日本語を喋れる者がいたので、お付にどうぞ。あなたと年も近かったので、親しみやすいかと思いますよ」

「それはありがてぇけど……なんで、そんないろいろやってくれるんですか? 俺はまあ、確かにカナさんの連れっちゃ連れだけど、それだけにしちゃ、なんつーか……破格の対応って感じなんですけど」

「……そう、ですね。正直な話を言うと、私はあなたになにかをする義理というのはありません。ですが……興味があるのですよ。あなたに」

 

 言って、諸葛さんは薄く歪んだ口元を、さらに歪める。

 それを見て俺は……反射的に体を腕で抱きこむようにして諸葛さんから体を引いた。

 

「あ、いや、その……すいません、勘弁してください。俺、そっちの趣味はないんで……」

「ちょっ、待ってください。なにかとても不穏な誤解をされてませんか……?」

 

 諸葛さんの頬がぴくぴくと動き、こめかみからたらりと一筋の汗が流れる。いや、どっちかってと冷や汗か。

 しかし、考えてもみてほしい。眼鏡を曇らせて目が見えない全裸の男が、笑いながら俺に興味があると言ってきたんだ。もちろん、そういう意味はないんだろうが、ちょっと怖い。

 なおも引き気味な俺に対し、諸葛さんは一度咳払いをすると、

 

「そうではなく、あなたがカナさんと行動を共にしていることが私の興味を引いたんですよ。あなたが知っているかはわかりませんが……彼女は、『イ・ウー』に入る前は、いろいろと各地で活躍していましてね。各国の難事件や怪人などを相手取っていた彼女が、あなたを『戦力』として見ている。それはもう、それだけである種の保障なのですよ。あなたがかなりの有能な人物だという、ね」

 

『戦力』……か。そういやさっきも、一緒に『イ・ウー』と戦ってみたいなこと言われたしな。

 まあ、命を救われた相手だ。手伝うのはやぶさかじゃないが……とりあえずこの人の誤解は解いておこう。

 別に俺はそんなに強いわけじゃない、的なことを言おうとし……しかしそれより早く、諸葛さんはとんでもない爆弾を落とした。

 

「もしかしたら、あなたに香港『藍幇』を継いでもらうことになるかもしれませんし」

「え……はあああああああああああああ!?」

 

 大理石の浴場に、俺の絶叫が響く。

 いや、え、この人何言ってんの!?

 

「あの、それってどういう……?」

「いえいえ、ただのたとえ話ですよ。ただ、こういう地位についていると、なにかと危険もありましてねえ。()()()()()というのも考えられるんですよ。そうなった時のために後釜を用意するのは、そんなに不自然なことではないでしょう?」

「いやいやいや。それを、なんで外部に求めてんですか。普通そういうのって、組織内から出すもんでしょ」

「リーダーとは、縁ある者ではなく才ある者がなるべきです。その点で言ってしまうと、今の香港『藍幇』は……いささか、不安が残ります。私の次に地位のある者……というか、者たちは少々過激でしてね。悪戯に香港を騒がせるだけの結果になりそうで、正直に言うと不安なのです。私は、今の香港『藍幇』を守りたい。地に根ざし、香港の平穏を守る今の『藍幇』を。ですので、できることなら、早急に()()()()()()が見つかることを望んでいるのですよ」

 

 諸葛さんの言ってることは……まあ、わかる。自分の次の代が不安だから、自分で次の代を探す。それは、おかしなことではないだろう。

 けど……なんか、焦ってる気がする。急に俺みたいな余所モンにこんな話をするくらいには。

 

「まあ、今のは話の種くらいに思ってください。将来就職に困ったらいつでも『藍幇』へどうぞ。歓迎しますよ」

「って、勝手に俺を就職難民にしないでくださいよ」

「ははっ、申し訳ありません。そういえば、知っていますか? 中国では――」

 

 そのあとは、諸葛さんと他愛のない話を続けた。まるで、さっきの話を本当になんでもないものにするように。

 香港を治める大組織のボスとこんな風に気軽に話してる状況には変な気分だが……不思議と嫌じゃないのは、この人の人柄故なんだろう。

 そんな彼と話をするのは存外に楽しく……湯船に揺蕩いながらの時間は、ゆったりと流れて行った――

 

 * * *

 

「ん……もう、朝か」

 

 窓から差し込んでくる日差しに目元を覆いつつ、俺はあくび混じりで呟いた。

 寝起きの気分はかなり良い。昨日までの体の疲れが吹っ飛んだみたいだ。

 それもそのはずと言うか、俺が寝室として用意された2階の貴賓室には、10人は寝られそうな天蓋付きのベッドがある。おまけに素材まで拘っているらしく、半端ないふかふか感。これで熟睡できなきゃ嘘だぜ。

 しかしまあ、本当に好待遇だよなぁ。この部屋も、バカ広い上に豪華だし。シャンデリアとか久々みたよ。しかも、鳳凰の形って。

 おまけの俺でこんだけもてなされるって、カナさんマジで昔何やったんだよ。

 

「とりあえず……起きるか」

 

 俺は珍しく寝起きのいい体をベッドから引きずり出し、ベッド傍の床に置いてあった靴を履く。

 それから、体を伸ばして眠気をさらに吹き飛ばしていると、自分の服装が普段の制服姿とは違うことを思い出した。

 

「そっか、昨日これ借りたんだっけ」

 

 俺は胸元の生地を指で軽く引っ張る。

 今俺が着てるのは、緑を基調とした中国服。それも、演服っていうのかな? カンフー映画に出てくるみたいなやつだ。昨日のバトルで制服が大分汚れてたからな。洗濯してもらう代わりに借りたんだ。ついでに、ブラドの攻撃で折れた背中の柳葉刀も処分してもらった。

 しかし……いいなー、これ。かっこいい。頼んだら1着くれねぇかな?

 そんなことを考えつつ、俺は小さな物置棚の上に置いていた武装を、制服と同じ要領で装備していく。ついでに、黒い巾着袋も腰に吊る。この中には、スタングローブが入ってるんだ。昨日風呂入る前に袋もらっといて仕舞ってたんだよな。

 武偵は常在戦陣。別に『藍幇』を敵視してるわけじゃないが、まあ警戒しておくのは悪いことじゃないだろう。『イ・ウー』が中国に入り込んでいないとも限らねぇし。

 横に4、5人は並べそうなでかい階段を降りて1階に向かう。

 と、そこには丁度諸葛さんと、その隣に一人の少女がいた。

 

「おや、有明さん。おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」

「おかげさまで。あんないい部屋貸してもらってありがとうございました」

「いえいえ。それより、丁度よかった。今、この子と貴賓室に向かうところだったのですよ――(ユアン)。挨拶を」

「はい」

 

 諸葛さんに促されて進み出てきたのは、俺より少し年下くらいの女の子だ。まあ、国が違う以上あてにはならんが。

 三つ編みでツインテールを作ったユアンというその子は、中国風にアレンジされたメイド服に包まれた体をぺこっと折り曲げ、

 

(ユアン)美詩(メイシー)です。よろしくお願いします」

 

 と、日本語であいさつしてきた。少し、訛ってはいたけど。

 つーか、よろしくって、何が?

 突然のバイリンガル少女の登場に困惑しているのがわかったのか、諸葛さんが説明してくれる。

 

「昨日、お話しましたでしょう? 日本語を喋れる者がいるので、お付きにと。まあ、それは街にでかけるなら、と言う話でしたが……何分、私も忙しい身でして。あまりお付き合いできないので、それならいっそ彼女をつけていたほうがなにかと都合もよろしいでしょう。カナさんが起きるまで、彼女に世話を任せてください」

「はあ……まあ、そういうことなら」

 

 こっちも中国語はしゃべれないから、その申し出は素直にありがたい。

 俺は、ユアン……ちゃん? まあいいや、ユアンに向き直り、挨拶を返す。

 

「えっと、こっちこそよろしく。有明錬だ。俺、中国語はしゃべれねぇんで、いろいろ迷惑かけると思うけど……まあ、その、よろしく頼む」

「はい。お気軽にお申し付けください」

 

 うーん……かてぇな、この子。

 ユアンの態度に頬をかいていると、諸葛さんが朝食はどうするか聞いてきた。昨夜みたいに大食堂で取るか、それともさっそく街へ繰り出してみるか。自由に選んでいいと。

 んー……そうだな。じゃあ、せっかくなら、

 

「それじゃあ、観光がてらちょっと外に出てみます。朝飯はそっちで……って、そういや金が無かったか……」

「ああ、それなら――これを」

 

 そういって諸葛さんが俺に手渡してきたのは、1枚の封筒。中には……げっ、お金入ってるよこれ。

 

「いや、さすがにお金を受け取るのはちょっと……」

「ははは、それは私からではありませんよ。カナさんが持っていたお金を換金したものです。あなたに渡すように、と」

 

 カナさん。あんた俺の母親かよ。

 しかしまあ、諸葛さんからもらうよりかは大分受け取りやすい。ここは、ありがたく受け取っておこう。

 その後、諸葛さんに案内された衣装室で適当なカツラ(茶髪のショートだ)を借りて変装……うん、まあ変装する。

 で、そのまま出発しようとすると諸葛さんに止められた。

 

「あの、その服装で外出なさるつもりで……?」

「え? ああ、一応そのつもりです。なんかこれ、動きやすいしかっこいいし、気に入ったんですよね」

 

 なにせ、日本じゃなかなか着る機会ないしな。しかも、本場中国だ。さすがに全員とはいかなくても、何人かはこういう服装の人もいるだろう。

 

「うーん……まあ、問題ないといえば問題ないんですが……そうですね。()()()()にもなるでしょうし、その方が都合がいいかもしれません」

「都合がいい?」

「ああ、いえ、なんでもありませんよ。では、楽しんできてくださいね」

 

 いまいちよくわからん台詞と共に、俺とユアンは諸葛さんに送り出された。

 藍幇城に停泊しているクルーザーに乗り込み、まずは深灣遊艇會(シャンワンマリーナ)と呼ばれるヨット・ハーバーに向かう。さすがにユアンに運転はできないのでそこまでは送ってもらい、そこからは二人で香港島をぶらつく予定になっている。

 で、深灣遊艇會からバスで移動する際、中国でのバスの乗り方は果してどんなだろうかと考えていた俺は、隣にしずしずと付き従う実に良妻的雰囲気を醸し出すメイドさん(改め学生さん。俺が変装道具を選んでいる間に、白い学生服に着替えたらしい)に顔を向け、

 

「なあ、ユアン。バスってどう乗ればいいんだ?」

「はあ? あんた、そんなことも知らないで中国に来たの?」

 

 んー……聞き間違いカナ?

 

「ほら、お金貸して。……はい、これ持って。もたついてたら怒られるから急いでよね」

 

 あきらかに出発前より冷たいユアンに急かされ俺はバスに乗り込む。

 こいつ……! これが本性か!

 

「あ、あのー、ユアンさん? なんかさっきと態度違う気がするんですけど……」

「そりゃ、諸葛様の前でこんな喋り方するわけないでしょ。でも、よそ者のあんたにまで気をつかう必要ないし。おまけに学校も休むことになったし。……それより、こういう態度取ってること、諸葛様に言わないでよ」

 

 じろり、と年下の女の子に睨まれる俺。

 しかし立場的に……は俺の方が客扱いなんだが、迷惑かけた分俺の方が低い。

 

「い、イエッサー」

「返事は(シー)、よ」

「……しー」

 

 中国に来てわかったことがある。

 俺はどうやら、ツインテールで小さな子には勝てないらしい。

 

 * * *

 

 深灣遊艇會からほどなく進むと、黄竹坑道という道路がある。

 とりあえずその道沿いにある店で朝飯を食べようということになり、俺とユアンは適当な店で向かい合って座りながら朝食にありついていた。

 俺が食べてるのは、朝飯と言うこともあり、お粥という軽いメニュー。昨日散々濃いの食ったからな。

 そこに油條(ヤウ・ティウ)とかいう揚げパンを浮かべ、なんかやたら細い焼きそばをセットで食っている。軽いは軽いんだが……美味いぞ、これ。するするいける。

 もそもそと食事を続けつつ、俺は向かい側で同じものを食べているユアンに訊ねる。

 

「で? なんで俺がお前の分も払ってんの? バス代もちゃっかり2人分だったし」

「いいじゃない、案内料よ。それに、あれ10日やそこらの滞在で消える額じゃないわよ。あんたが3、4人いても多分保つわ」

「そういう問題じゃねぇんだが……まあ、確かに案内役は感謝してるけどさ」

 

 なんせ俺だけじゃ移動すらままならねぇしな。

 しかしその代償に金入り封筒はユアンが管理することになってしまった。スリ対策でもあるらしいが……これ、今日おごらされ続ける羽目になるんじゃないですかねぇ……。

 あとでカナさんに怒られる予感にビビりつつ、俺は気になっていたことを訊ねてみる。

 

「しかし、あれだな。お前みたいな学生も『藍幇』のメンバーなんだな」

「メンバーっていうか……あたしはさ、『藍幇』が経営してる学校の生徒なの。そこは親がいない子のために開かれてて、学費がタダなんだけど、代わりに『藍幇』のために仕事するときもある。だからまあ……正直、メンバーとは言いづらいわね。『藍幇』内での位階(たちば)も低いし」

「……わり。変なこと聞いた」

「なんで謝るのよ。別に、孤児なんて珍しい話でもないし、あんたが、えっと……遺憾に思う? 必要ないわ」

 

 なんでもないように言いながら、ユアンは揚げパンを口に放り込む。

 本人がそういうなら、これ以上なんか言うのも逆に失礼か。

 なので俺は話をそらすために、ユアンの言葉尻を捕える。

 

「遺憾に思うって……こういう時に使う言葉じゃねぇぞ。無理に難しい言葉使おうとしなくていいって」

「むっ……別に、無理してるわけじゃないわ。あたし、いつかは日本に留学するつもりなの。だから、いろいろ日本語は使っときたいのよ。……だから、さっきみたいな訂正はありがたいわ。おかしなとこあったら、教えてね」

「へぇ、留学ねぇ……なあ、ユアン。日本語を教えるのはいいけどさ、その前に教えてくれ」

「なに?」

 

 小首をかしげるユアン。

 俺はそんな彼女に自分が着ている演服を指さし、

 

「……ぶっちゃけ俺、浮いてるよね?」

「まあね」

「ちくしょうッ!」

 

 即答で返ってきた答えに、俺は頭を抱えた。

 バス乗る時からなんとなく気づいてたよ! 誰もいねぇよこんな服着てる人! 日本とおんなじだよ!

 ああ、恥ずかしい。半端な知識でこの服着てるのが急に恥ずかしくなってきた。

 羞恥に悶える俺。そんな俺の肩に、ユアンはぽんと手をのせた。

 

「猿も木から落ちる、ね」

「ちげぇよッッッ!」

 

 * * *

 

 香港島は、4つの区分に別れている。

 中西区、湾仔区、東区、南区の4つの行政区画のことだ。俺たちが今までいたのは南区で、そこから中西区にある中環(ジョンワン)という街にやってきた。

 ここはユアン曰く、ビジネス街と、ごちゃごちゃした飲食店街や香港庶民の街が融合した街らしい。

 ビクトリア湾を望む、九龍とは目と鼻の先の港町でもある。

 そんな街中を、すでに慣れてしまった服装のままで、ユアンと練り歩く。

 

「錬は、あれでしょ? 高級料理とかより、もっと庶民的なの食べたいのよね?」

「庶民的っつったらあれだが……まあ、高そうなのは夕べいっぱい食ったしな。なんかこう安っぽいけどなぜか美味い感じのが食べたい」

「うっわ、贅沢。あんたそれ、絶対に贫民区(スラム)で言っちゃダメよ。日本語わかる人いたら、ぼこぼこにされちゃうわよ」

「……うん、確かに今のはねぇな。嫌味なやつだった」

「わかればよろしい。ま、そういうことならやっぱり中環(こっち)ね。金鐘(ガムチョン)とか上環(ションワン)はビジネス街の雰囲気が強いもの」

「雰囲気が強い……は、ちょっと微妙。正しいかはわかんねぇけど、あんまいわねぇと思うぞ」

「なるほど」

 

 そんなことを言いながら、ふらふらと歩いていく。会話は、思ったよりも弾んでいる。まあ、どっちかつったら旅行者とガイドさんみたいなもんだし、説明とかで自然と会話は繋がる。

 

「いやしかし凄ぇな、ユアンは。俺、自分が住んでるとこでもそんな説明できるかわかんねぇ。たぶん、訊かれても困る」

「それはいいこと聞いたわ。じゃ、あたしが日本に留学したら、あんたが案内してね。調べまくってオタク的なこと聞いてやる」

「なんでオタクとかは知ってんだよ。つーか、せめてマニアックと言え。……まあ、案内は別にいいけど」

 

 後は、同年代に近いってのも円滑にいく理由だろうか? いや、まあ諸葛さんとかでもそれはそれで楽しそうだが。

 ――と、そんなことを考えている時だった。

 近くに建っていたビルに(日本に負けず劣らずにょきにょき生えている)備え付けられた大型ディスプレイに目が留まった。

 なんとはなしに見ていると、それはどこかの動物園を映しているようだった。

 なんだろうか。動物園に取材とかか?

 

「――ああ、あれ。なんか、今日本からすっごい芸の上手い猿が来てるとかでこっちで話題になってるのよ。たしか、こーちゃんとか言ったっけ」

「ああ……そういやあったな、そんな話」

 

 俺の視線に気づいたユアンからの説明に、俺は思い出す。

 こっちでも、確かに話題になってた。東京武偵校からもそれなりに近い動物園にいた猿だ、確か。

 

「面白そうだな。俺、結局日本じゃ見てねぇからなぁ。暇あったら行ってみようかな?」

「止めた方がいいわよ。あたし一回テレビで動物園の様子見たけど、すっごい人だったもん。たぶん、行ってもまともに見れないわね」

「げっ、マジかよ」

「ただ、あの動物園って『藍幇』が経営してるらしいから、諸葛様に頼んだら閉まった後に見せてくれるかもね。……そんなことより、ほら。ここに来るまでにいろいろ周ってお腹も空いたでしょ? お昼ご飯食べましょ。お腹空いてるわよね? てか、空かしなさい」

「いや、それお前が食いたいだけじゃん……」

 

 ユアンの提案に乗って昼食に向かうころには、俺の意識はすでにまだ見ぬ昼食たちに移り変わっていた。

 

 * * *

 

 ――事件は、昼飯を食べている時に起きた。

 ユアンに手ごろな大衆店を紹介してもらい(ユアン自身も来たことはないらしいが、見た目でわかるらしい)、俺たちは昼時の喧騒渦巻く大衆食堂へと入った。

 運よく空いていた丸テーブルにつくなり、ユアンはメニューを取り出して、「注文は?」と聞いてくる。どうせ俺は文字も読めないので、おおまかな希望をユアンに伝え、そこから彼女がメニューを決めるんだ。

 なので俺は、満を持して言ってやった。

 

「ラーメンだ」

「……あんた、本当にいいの? 日本のラーメンをさらにおいしくした感じ、とか思ってたら想像と別物になるわよ?」

「構わねぇ。ラーメン一択だぜ」

「まあ、あんたがいいならいいけど……服务员(店員さん)!」

 

 どこぞの司令官みたいに両手を組んで机に立てつつ頼む俺に、ユアンは呆れ混じりにため息をつきつつ、店員を呼ぶ。

 

这个要一份(これ一つと)……还要这个(あと、これも一つ)

 

 やってきた店員に、メニューを指さしつつ注文するユアン。

 その姿を見ながら、俺は内心かなりわくわくしていた。

 だって、ラーメンだぞ? それも本場、中国だ。どんなすげぇのが出てくるんだろうと、俺の期待はうなぎ上りである。諸葛さんやユアンには諌められたものの、これを食わずして日本には帰れない。

 ほどなくして店員さんが運んできたのは、まずはユアンのワンタン麺。それも、ユアンが言うには海老ワンタンらしい。黄金色のスープに浮かぶ、大ぶりの海老ワンタン。実に美味そうだ。

 そして、

 

「――让您久等了(おまたせしました)

 

 来たぜ、ラーメン……!

 ゴトリ、と俺の眼前に大きな椀が置かれる。

 立ち上る湯気、ほのかな香り、そしてその奥には、待ちに待ったラーメンが存在した。

 ほう……具は、少ないんだな。ほとんど麺しか入っていない。

 しかし、ラーメンと言えば主役は麺とスープ。むしろそれのみで勝負しているところに、自信がうかがえるというものだ。

 いざ……実食……ッ!

 俺は、箸をゆったりと持ち上げ、まるで最高難度の手術に挑む執刀医のごとく、スルリと(メス)をスープに滑り込ませる。

 ――その時だった。

 

「――錬! 下がって!」

「は?」

 

 突如ユアンから鋭い声が飛び、俺がぽかんと彼女を見た瞬間。

 何者かが、俺たちのテーブルに突っ込んできた。

 ずがしゃあッ、と轟音をまき散らしながら倒れるテーブル。および……および……俺のラーメン……ッ!

 ふ、ふざけんな! どこのどいつだクソッタレ!

 腹立ちまぎれに箸を地面に叩き付けつつ椅子から立ち上がり、俺は吹き飛んできたおっさんに目を向ける。なんとも気弱そうな、普通のおっさんだ。

 じゃあ……問題はこいつを吹き飛ばしたやつ、か?

 そう思い、視線をおっさんと反対方向に移す。

 そこには、黒スーツに黒いサングラスをつけた、()()()()な連中が3人ばかりいた。ありゃ……ウラ(もん)だよな、どう見ても。

 俺は、そいつらに視線を固定したままで、いち早く席から離れ、おっさんを介抱しはじめたユアンに訊ねる。

 

「ユアン。誰だ、あいつら」

「わかるわけないでしょ……といいたいところだけど、スーツについてるバッジ、あれ『貴蘭會(グイランフィ)』の連中だわ」

「『貴蘭會』?」

「中国系マフィアのおっきなとこよ。まったく、こんな昼間っから暴れまわるなんて……あれ、多分下っ端な上に新入りでしょうね。彼らは、治安を守ったりするようなとこだもの。殴られた人に聞いたけど、強引に席を取られそうになって抵抗したら、いきなり殴られたそうよ」

 

 なるほど、だからあんな急に暴れるような連中は下っ端ってことか。しかし、やること小さいなー。敵地である学園島に単身乗り込んできたジャンヌを見習えよ。

 しかし……『貴蘭會』? どっかで聞いたことあるんだが……。

 ……いや、しかし問題は。

 

走開(どけ)! 你們妨礙的(邪魔だ)!」

 

 スーツさんがこっちに向かってなんか怒鳴ってるよ。

 

「なんて?」

「そこどけってさ。あんたがいつまでも逃げてかないから、邪魔してるって思ってるみたい」

「へー。で、お前は逃げなくていいのか?」

「あんたが怖がって逃げるようなら逃げてたけど、そんな平気な顔してるなら平気でしょ。諸葛様も、多分あんたは強いだろうから荒事は問題ないって言ってたし」

 

 何言ってくれちゃってんの諸葛さん。

 しかしまあ、確かにビビってはいない。だってぶっちゃけ、ジャンヌとかブラドとかに比べたら……なあ?

 しかも、それでなくともこちとら武偵高の生徒だぜ? 普段から、綴だの蘭豹(らんぴょう)だの頭おかしい連中に囲まれてんだ……ん? 蘭豹?

 

「……あ」

 

 思い出したぞ。

『貴蘭會』って、確か蘭豹の実家だ。確かそこのボスの愛娘だって話を聞いたことがある。

 ちっくしょう、あの野郎。こんなところでも嫌に迷惑かけやがって。いやまあ、さすがに関係ないけども。

 ……しかし、これはいい機会だ。せっかくならこいつら伝手に、蘭豹の親に告げ口してやろう。あいつが普段、どれだけ横暴か。マフィアのボスにそんなこと言ってもしかたないかもしれねぇが、治安維持に努めるような人なら、ワンチャンあるかもしれない。

 とはいえ、そのためにはまずこいつらを抑えねぇとな。襲いかかられたら話もできねぇ。一応、拳銃(ベレッタ)はあるが……勝てるかな?

 という風に心配してたんだが……なにやら様子がおかしい。俺に怒鳴った黒スーツ(黒スーツ1と便宜的に呼称する)が、別の黒スーツ(黒スーツ2以下略)に肩を掴まれて諌められている……っぽい。

 

「なあ、なにやってんだあいつら?」

「どうも、あんたの服に気付いたみたい。『藍幇』は『貴蘭會』より遥かにおっきいもの。そこのお客だってわかったから、怯んでるみたいよ」

「はあ? なんでそんなのわかんだよ。俺、『藍幇』の名前なんて出してねぇぞ」

「……服の後ろ、見てみなさい」

 

 ユアンの指示に従って、一度上着を脱いで背中を見ると……げっ、なんだこれ。かなり崩れちゃいるが、円の中に『藍』の文字が入っているデザインになっている。何ゴンボールなの。

 

「それ、『藍幇』のえっと……ひ、ひが? ひぎ?」

「庇護か?」

「それそれ。庇護下にあるって意味だからね。下手したら抗争になるから、連中も手を出していいものか言い合いになってるわよ」

 

 なるほどねぇ。諸葛さんが言ってた()()()()ってこのことか。

 ……じゃあ、丁度いい。笠を着るようだが、このこっぱずかしい服に、役立ってもらおう。

 俺はいまだにがやがや言ってる黒スーツどもに一歩踏み出し、

 

「おい、お前ら!」

『ッ!?』

 

 俺の声に、連中は振り返る。よし、注意は引けたな。

 いつの間にか介抱を終え、隣に来ていたユアンに視線をちらりと向けて、

 

「ユアン、通訳頼む。……お前らな、こんな昼間から暴れんな。『貴蘭會』ってのは治安を守ったりするんだろ? 言うなら、『藍幇』と同じなわけだが……()()は、お前らのボスが望むことか?」

 

 とりあえずまずは場を収める。そのための台詞を、俺は言う。

 同時通訳のようにユアンが口を開くと、連中は呻いた。『藍幇』とボスってのが効いたんだろう。俺が『藍幇』の貴賓なら、その立場からボスに進言されるかも……とか考えてんだろうな。

 マフィアやヤクザの世界は、厳しい。上司に害を及ぼすようなことがあれば、重い罰が待っている。そういう世界だと、前に蘭豹が酔っ払いながら言っていた。

 だからこそ動揺させられてるんろうが……さらに追い打ちだ。

 

「もめ事を起こしたくねぇのは、こっちも一緒なんだ。俺も、『藍幇』には世話になってる身だからな。問題があったら、報告する必要がある。そしたら、俺も迷惑かけちまう。『上』に迷惑かけたくねぇのは、そっちもだろ? だったら、この場は退けよ」

 

 譲歩しつつ、強く出る。こういう交渉術は、尋問科(ダギュラ)にいる鈴木時雨という同級生に習った。

 果たしてそのやり方は功を奏したようで、

 

「うまくいったっぽいわよ。一人冷静なやつ(黒スーツ2)がいたみたい。そいつが話を引き下がる方向に持ってってる」

 

 ユアンからの報告に、俺は内心で息をつく。

 よしよし、第1段階はうまくいったな。

 じゃあ、次は本題。あの暴力飲酒独身教師・蘭豹についての告げ口タイムだ。

 俺は一番冷静と思われる黒スーツ2に目線を向けつつ、

 

「おい。お前ら、蘭豹ってやつ知ってるか?」

「ッ! (おまえ)! 知道小姐嗎(お嬢を知っているのか)?!」

 

 っと、反応早いな。ユアンに訳してもらう前に黒スーツ2が言ってきた。

 なんとなく、雰囲気でわかる。なんで蘭豹のこと知ってんだよ的な感じだろ。多分。

 

「知ってんなら話は早い。お前らからボスに伝えとけ。蘭豹が日本で暴力的すぎるから、少しは大人しくさせてくれってな」

 

 と、俺は蘭豹の日本でのありのままを伝える。ついでに更生のお願いも。

 しかしまあ、これだけだとただの悪口にすぎないので、フォローも入れながらさらに詳細に語ろう。

 

「まあ、指導はちゃんとしてるから問題ねぇっちゃねぇが……俺は、何度も蘭豹に泣く目を見せられてんだぞ」

 

 実際実力はつくから困りもんだよ、あれ。ただ代償に辛すぎる訓練で、なんど俺は涙目になったことか。

 っと、それよりさっきのはちょっと日本的な言い回しだったか?

 いや……ユアンは普通に訳してくれてる。問題は無さそうだ。ちょっと間が開いたのは気になるが。

 そのことに一安心していると、今度は残った最後の一人、黒スーツ3がなんか言ってきた。しかも、なんていうか……信じられない、みたいな顔で、わめいている。

 なんだ? 俺、そんな変なこと言ったっけ?

 

「ユアン。あいつ、なんて言ってる?」

「えっと……『そんなわけあるか。そんなこと、できるはずがない』、って」

「――はあ?」

 

 俺は、思わずいらっとしてしまい、若干に声に剣呑さが宿ってしまった。

 できるはずがない……だと?

 

「……おい。お前ら、なんか勘違いしてねぇか? お前らには、そんなに優しそうな人間に見えたのか?」

 

 なにをふざけたことを言ってんだ、あいつらは。蘭豹のやつがどれほどドSなやつかまるでわかっていない。

 それともまさか、実家じゃおしとやかだとか? 「お父様、おはようございます。ほら、今日も小鳥さんが歌ってるわ」、みたいな?

 ……やっべ、想像したら笑えてきた。

 口元に浮かぶ笑みをなんとか抑えようと頑張りつつ、

 

「……なんなら、本当の姿を見せてやってもいいんだぜ?」

 

 と、俺は提案してみる。

 そうだ、普段の様子をビデオにとって『貴蘭會』に送りつけてやろう。そうすれば、いくらなんでも真実に気づくだろう。いや、それとも生中継できるようにするか? それも悪くないな。

 ……っと、いけねぇ。つい考え込んでた。

 頭の中でいくつか案を出した俺が思索から戻り、連中に詳しく俺の素敵計画を話そうとすると……、

 

(くそっ)! 返回報告(戻ってボスに知らせるぞ)!」

 

 それを聞くより前に、連中はそろって店を出て行った。

 ……え、なんで?

 唐突な遁走にぽかんとなる俺。そんな俺を、隣に居たユアンが見上げながら、

 

「あんた、結構すごかったんだね。ちょっと見直したわ」

 

 なんて言って、意外そうな、でも少し笑いながらそう言ってきた。

 ……まあ。

 もちろん、意味はよくわからなかったが。

 

 * * *

 

 院美詩は、己も形式上は属する『藍幇』の食客、有明錬の隣に佇みつつ、面倒なことになったなとため息をついた。

 ことの起こりは数分前。錬と食事をしていたところ、香港大手マフィア『貴蘭會』が起こしたトラブルが原因だ。

 もっとも、そのトラブル自体はすでに収まったと言っていいだろう。錬は『藍幇』の客人という立場を利用し、その場を収めて見せた。

 問題は。

 事態が解決した、後。錬が放った一言だった。

 

「おい。お前ら、蘭豹ってやつ知ってるか?」

 

 その台詞を、ユアンはいままでがそうだったように、中国語で通訳しようとした。

 しかしそれよりも早く『貴蘭會』のメンバー、その一人が反応したのだ。

 

『お前! お嬢を知っているのか!?』

 

 彼らは、日本語を理解していない。それは、今までの流れでわかる。

 だのに反応したということは、それは『蘭豹』という言葉に、だろう。それだけが唯一、人名として通じるからだ。

 そして、それに対する『お嬢』という呼称。

 つまりは、

 

(蘭豹……蘭? まさか……『貴蘭會』のボスの娘?)

 

 という推理を、ユアンは脳内で組み上げ、眉を顰めた。

 実際、その読みは当たっている。現在東京武偵高に在籍している蘭豹という女怪は、『貴蘭會』のボス、その愛娘に当たる。

 

(これは、面倒なことになってきたわねえ……。錬のやつ、なんでそんな人知ってるの? しかも、呼び捨てだし)

 

 なにやらきな臭くなってきた事態に、ユアンはもう一度ため息を小さくついた。

 そんなユアンに構わず、隣に立つ日本人はさらに言葉を重ねる。

 

「知ってんなら話は早い。お前らからボスに伝えとけ。蘭豹が日本で暴力的すぎるから、少しは大人しくさせてくれってな」

 

 そこまでを言って、一度考えるように言葉を切り、

 

「まあ、指導はちゃんとしてるから問題ねぇっちゃねぇが……俺は、何度も蘭豹に泣く目を見せられてんだぞ」

 

 と、続けて言った。

 

(って、早い早い。少しは手加減してよ、もう)

 

 そうは思いつつも、ユアンは慌てて錬の言葉を訳し始める。

 まずは、前半部。

 

『知ってるなら、話は簡単。あなたたちから、ボスに伝えて。蘭豹さんが日本で暴れてるから、おとなしくさせてもらうように、と』

 

 若干言葉が柔らかいのは、ユアンの独断だ。伝えるのは、なにせ自分だ。喧嘩腰で伝えて矛先がこちらに来ては困る。

 しかしそれはそれとして、後半部が困った。

 

(泣く目を見る……? って、なんだろう)

 

 既に錬には伝えているが、ユアンの日本語はまだ拙い。まだまだ日本語の言い回しに富んでいるわけではなく……今回も、その例に漏れなかった。

 しかし、単語区切りならば意味はわかる。ならば、とユアンは自分なりに解釈を始めた。

 

(泣く目を見る……泣く、目……涙目ってことかな? それを、蘭豹って人に見せられてるってことは……)

 

 復唱、分割、解釈。さらに、前文と結合して再解釈。

 ユアンは、いままでに得た知識を動員して、錬の言葉をできる限り正確に読み取る。

 確認している暇はない。現状は、わりと逼迫している。一刻も早く伝えることでこの厄介な状況を抜け出せるとユアンは考えた。

 だから、

 

『指導はちゃんとしてるから問題はないけど……俺は何回も蘭豹さんを泣かせてる』

 

 と、答え合わせというプロセスをすっ飛ばして、ユアンは錬の言葉を伝えた。

 これに慌てたのは、当然『貴蘭會』のメンバーである。

 なにせ彼らは、蘭豹の噂をそれこそ誰より聞いている。一例を挙げれば、()()()()出禁になるほど暴れまわったなど、枚挙に暇がない。

 だからこそ、目の前の少年が、女傑・蘭豹を()()()()などと、ましてや()()()()など信じられなかった。

 だから、彼らはその思いを素直にぶちまけた。『そんなわけあるか。そんなこと、できるはずがない』、と。

 それを、通訳を請け負っている少女が、少年に伝えた――その、次の瞬間だった。

 

「――はあ?」

 

 雰囲気が。

 明確に、変わった。

 

『――ッ!?』

 

 ユアンも、そして『貴蘭會』のメンバーも、一様に息を飲む。

 声には刃のような怒気が乗り、眼光は弾丸のように『貴蘭會』のメンバーを射抜く。

 只者では、ない。彼らは、一瞬でそれを理解した。あるいは、さきほどの戯言が真実味を持つほどに。

 そして。

 さらに、通訳の少女が、宣託を受けたかのように少年の言葉を伝える。

 

『あなたたちは、何か勘違いしていないか? そんなに、俺が優しそうな人間に見えたのか?』

 

 おそらくそれは、現実よりはずっと柔らかい言い方だったのだろう。それは、わかる。

 けれどもはや、意味がない。言い方一つでは変わらない、()()。それが、眼前の少年にはあった。

 そして、まるで止めを刺すかのように。

 少年は、不敵に……いっそ、凄惨とさえ言えるように()()()()()こう言った。

 

『……なんなら、本当の姿を見せてやってもいいんだぜ?』

 

 ――そこまでが、限界だった。

 もはや彼らは少年の言葉を信じ込み、彼らがボスへとこの危険な少年のことを報告することを決めた。

 追い立てられるように店を後にする『貴蘭會』。

 その姿を見送りながら、ユアンは呆然として錬を見上げる。

 そこにいるのは、まぎれもなく今まで一緒にいた少年だ。一緒にバスに乗って、香港島を観光して、ラーメンに一喜一憂するような、普通の少年だ。

 けれど。

 それまでの印象すべてを払拭するかのように、錬は悠然と立ち尽くしていた。

 だから、そのギャップが少しおかしくて……けれど、やっぱり意外に思えて。

 ユアンは、困ったような笑ったような顔で、錬に話しかけるのだった。

 

 ――後に。

 今回の一件について行われた『藍幇』と『貴蘭會』の話し合いにおいて、諸葛静幻から見た有明錬の印象が取りざたされ、さらに誤解は深まっていくのだったが……もちろん、錬がそれを知ることはなかった。

 

 * * *

 

「――で? いかがでしたか、お客様? 香港は」

「ああ、いいところだと思うぜ。すっげー楽しかった」

 

 後ろ手に手を組みながら、いたずら気に微笑むユアンに、俺は満足げに答えた。

 結局、『貴蘭會』に絡まれたあの後も、俺たちは香港島を周っていた。『彌敦道(ネイザン・ロード)』、『女人街(ノイヤンガイ)』、『レパルスベイ』、などなどいろんな観光エリアを見て回った。トラムにも乗ったし、九龍まではフェリーも使って移動した。宵夜(シウエー)……夜飯は、上環で食うことになった。香港の夜の街は、ネオンがそこら中でギラついてて、仕事帰りの人々で活気がすごい。見て回るだけでも楽しかったなぁ。

 トラブルこそあったものの……正直、大満足だ。素直に、来てよかったと思える。

 それもこれも、今隣を歩いている小さなガイドさんのおかげ、だよな。

 

「ありがとな、ユアン。いろいろ案内してくれて」

「別に、お礼はいらないって。こっちも仕事だったわけだし。……まあ、あたしもこんなに1日でいろいろ遊んだのは初めてだったし、楽しかったけどね」

「そりゃよかった」

 

 俺は、ユアンの言葉に胸をなでおろす。

 なんだかんだで、迷惑かけてたんじゃないかって、結構気にしてたからな。そういってもらえると、なんつーか、ほっとする。

 ――ああ、そうだ。

 

「お礼に、どっか行きたいところとかないか? 今度は俺が……」

 

 付き合うよ、と言いかけて気づく。よく考えれば、ここはユアンの故郷だ。行きたいところなんていつでも行けるだろうし、なんか物の方がよかったか?

 しかしそう改めて提案する前に、

 

「行きたいところ、かぁ……しいて言えば、『山頂(サーンデェーン)』、かな」

「『山頂』?」

「そ。英語で言えば、ヴィクトリア・ピーク、かな。太平山っていう山があってね。香港の中でも1、2を争う観光名所よ。そっちでも、100万ドルの夜景、とか聞いたことない?」

「ああ……まあ、聞いたことはあるよ」

「そこからの景色は、ホントにそう呼べるくらいの眺めらしいよ。特に、夜には。ビルの光が宝石みたいにキラキラ輝いてて……星の海を見てるみたい、だってさ」

 

 ゆらゆらとツインテールを揺らしながら、ユアンは人から聞いただけ、みたいな情報を俺に教えてくれる。

 ふむ……100万ドルの夜景、か。

 シメとしちゃ、悪くないんじゃないか? 口ぶりからこいつも行ったことないみたいだし、礼代わりになるかもしれない。

「じゃあ、そこ行くか」と、俺は気軽に言おうとして……しかしほとんど最初に遮られた。

 

「行かなくて、いいよ」

「なんで? 行ってみたいんだろ? じゃあ――」

「それじゃ、意味ないから」

 

 意味が、ない?

 被せるような言葉に、俺は眉をひそめる。

 そんな俺に、ユアンは苦笑のような、困ったような顔を見せて、

 

「……あたしが、孤児だって話したの覚えてる?」

「ああ、まあ……」

「だからってわけじゃないんだけどね……あたしが住んでるのは、香港島の北角(バッコッ)。その、路地裏……まあ、こういう言い方はあんまりしたくないけど、貧困街みたいなとこよ」

「…………」

「つまり、簡単に言っちゃえば、貧乏なんだぁ。だからあたしはいつか日本に行って、お金持ち……っていったら、ちょっと違うかな。なんていうか……()に行きたいの。あんまりうまく言えないけど。だからいっぱい勉強して、日本語も覚えた。まだまだ下手だけどね」

 

 日本に留学したいってのは……そんな理由があったんだな。

 でも、

 

「……それと、ヴィクトリア・ピークに行かないってのは、なんの繋がりがあるんだ?」

「……夢、なんだ」

 

 夢……?

 

「ヴィクトリア・ピークから香港を見下ろすとね、目に入るのは、キラキラしたビルばっかり。でもさ……そこに、あたしの居場所はない。見えない。光の奥の奥、そこが今のあたしの居場所で……だから、否定される気がするのよ。それを見ちゃうと、自分が」

「だから……見ないって?」

「そうよ。少なくとも、()()。いつか、あたしが『上』に行って、またここに戻ってきたら……その時に、あたしは自分の目で見て、言ってやるの。『あれが今のあたしの居場所なんだ』って。それが、あたしの夢。……一生叶わないかもしれないけどね。今貧乏だっていうことはハンデの一つだし……あたしは、特別頭がいいわけでもないから、きっとすっごく大変だと思うわ。正直、弱い人間だと思う。……でも、さ」

 

 そこまで言って、ユアンはたたっと駆け出す。

 止める間もない疾走に俺が目を丸くする中、急に立ち止まったユアンはくるっと俺の方へ振り返り、

 

「――弱いって、がんばらない理由にならないじゃん?」

 

 にっこりと笑いながら、ユアンはそう言った。

 色とりどりのネオンに照らされ、しかしそれ以上に輝いた笑顔。弱いなんてとんでもない……強い、輝きだ。

 それに魅せられた俺は、思わず立ち止まって彼女を見る。

 それが気恥ずかしかったのか、ユアンは手で俺を招きながら、

 

「あーもーなんか恥ずかしいこと言った気がする。これは、日本でやり返すしかないわね。――ほら、そろそろ戻るわよっ。あんまり遅いと諸葛様に怒られるじゃない」

「……ああ、わかった」

「ん、よろしい」

 

 再び体の向きを反転させたユアンは、先導するかのように歩き始める。

 俺は慌てて、その後ろを追いかけ始めた。

 その最中、俺は……カナさんに『睡眠』のことを説明された時のことを思い出していた。

 あの時俺は、よっぽど自分の強さに自信があるんだな、と思った。

 そして同時に、こうも思った。

 

 ああ――この人は、俺とは()()んだな、と。

 

 俺は、弱い。少なくとも、自分はそう思ってる。

 だから、カナさんみたいな生き方は、できないと思った。俺には、あんな強くはなれない。

 だから。

 きっと、どこかで諦めていた。頑張ることを、無意識に。いつも、なんとなくでのっぴきならない状況に追い詰められていただけで、自分から何かをできたことが、俺にはあっただろうか?

 きっと、ない。俺には、それがなかった。

 ――だから。

 もし、俺が、弱くても頑張るべき時が来たなら……その時は、ちゃんと頑張ってみよう。俺の前を行く、年下の……けれど、()()少女のように。

 異国の夜空の下、俺は一つの誓いを立てた。




読了、ありがとうございます。
ということで、中国編スタート。と同時に終了……が最初期のプロットだったのですが、またまたまとめ不足で2万文字超えてさえ2話構成に。そもそも一番初めはユアンの出番なんて一切なかったはずなのに、気づけばこんな感じになりました。
海外編は、ストーリーよりいろいろ調べるのが大変です。赤松先生すごいなぁ。
では、また次回。

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