――笑えない。
峰理子の現在の感情を一言で表すならば、まさにその言葉が適当であった。
笑えない。まったくもって笑えない。
学園島からそう離れてはいない、東京都内のホテル――その、一室に理子はいた。
あぐらをかいて座り込む彼女の眼前には、大小さまざまなモニターが並んでいる。たとえばそれはとある男子寮の様子だったり、学園島の各所だったり、録画していた深夜アニメだったりと様々な映像を垂れ流しにしている。
その中でも最も巨大なモニターに映るのは、リプレイ再生されている、有明錬という少年が撃たれるシーンだ。
それは、つい先刻の出来事だった。学園島内を運行する学園バスが、爆弾を仕掛けられ、UZI付きのオープンカーによってジャックを受けた。乗員を救出するため、そしてこの事件を解決しようと、4人の武偵(正しくはバス内の乗員も武偵のため彼らもだが)が挑み、事件は終着を見た。そしてその事件の顛末として、1人の武偵が負傷した。
その武偵こそが有明錬であり、負傷した場面が理子の視界に映るモニター内の光景だった。
そして。
錬に傷を負わせたUZI付きのオープンカーを遠隔操作し、ひいては爆弾を設置してバスジャックを引き起こした犯人――『武偵殺し』こそが、この峰理子という少女なのだった。
「……これは、ちょっとまずいかな」
普段の彼女を知るものならば思わず違和感を感じるほど、基本ハイテンションの理子は硬い口調で表情を曇らせる。
ただしその服装は下着の上にネグリジェを着ただけという、非常にラフなものだったので、ミスマッチの感は否めなかったが。
観客がいないのが惜しまれるほど洗練された肢体を悩ましげに揺らして。
理子はふうと一つため息をつき、スッと立ち上がった。
カーペットの柔らかな感触をファー付きのスリッパ越しに感じながら、彼女は雨戸が開け放たれたベランダへと向かう。
スリッパのままベランダに出ると、黒々とした雨雲が理子を出迎え、降りしきる雨の音が、理子を落ち着かせた。
彼女はベランダの手すりにしなやかな両腕を乗せて、内へ内へと思考を沈ませる。
(予想外も予想外、だねぇ。まあレンレンならあの場面で出張ってこないなんて選択肢はないと思ってたけど、まさかあんな形で出てくるなんて。狙いはアリアかキーくんだったのに、綺麗に庇われちゃった)
有明錬が被弾した理由を挙げるなら、それは神崎・H・アリアと遠山キンジを庇ったからだと答えられる。走行中のバスの屋根上に上がった両名を狙うUZIに気づいた錬が、2人の代わりに凶弾を受けた形だ。
それは理子にとって、想像の埒外にあった。まさか防弾制服無しで、つまりは一歩間違えば死ぬこともあり得る状態であんな行動に出るとはさすがに思わなかった。
でも、と理子は逆説を使い、
(これは
思考は軽い調子で進むが、しかしてその内情はとても芳しいとはいえない。
もし、この想定外の事態で運が良かったと評すことができる箇所があるとすれば、それはやはり錬に手傷を与えたことだろう。肩、それも利き腕を傷つけたとなれば、確実にパフォーマンスは落ちる。無論それでも強敵には違いないが、
一方で、運が悪かったとするならば、それもまた錬を傷つけて
それはまずい、と理子は思う。危険なほどに、まずい。
(とはいえ、もちろんここで退くなんて選択は取らない。突き進む。最後の最後、理子が
決意も新たに、理子はするどく眇めた眼光を銀糸のような雨の向こうに飛ばす。
この雨は、試練を表している、と理子は思う。見晴るかす晴天を迎えるための、これは『壁』なのだと。
そして自分は
確定要素も、不確定要素も全てを呑み込んで、それでも目的は果たすと、理子は強く誓う。
進む道にあるのは、衝突。
峰理子と、神崎・H・アリアとそのパートナー2人。
――『リュパン』と『オルメス』の決戦は、すぐそこに迫っていた。
* * *
そこは一面、『白』だった。
白い壁、白いカーテン、そして白いベッド。
白ばかりで構成されたこの部屋は、病室だった。
武偵病院・203号室。
学園島内には、数多くの専門棟がある。そして、
ということはつまり、その病室にしつらえたベットの上でぼんやりと天井を眺めている俺も、『負傷した生徒』ということになるわけだ。
ちなみに、同室の人間はいない。アリアが手配してくれたとかで、生まれて初めて俺は病院の個室というやつを味わっている。贅沢だな、おい。
「……なんてな」
我ながらくだらないことを考えながら、俺は自分がここにいる理由を思い出す。
――昨日のことだ。俺も乗り合わせた学園バスが、ジャックされたのは。
俺は右肩に巻かれた包帯に意識をやりながら、加えて頭部にぐるりと巻かれた包帯に左手を添える。
かさり、と病院着がすれる音を聞きながら、俺は記憶に没入する。
いまいち覚えてねぇんだが、俺はどうもバスの屋根で、ルノーについていたUZIが放った弾丸に被弾したらしい。右肩を1発貫かれて、側頭部に1発掠めたそうだ。
肩を焼いた痛みにか、側頭部を撃たれたからか、俺はその場で気絶。意識を失ったことでバスの上から転げ落ちてしまい、しかし運よくルノーの運転席に落っこちた。
――というようなあらましを、俺は目を覚ましたときに救護科の
ただ、その時彼女がふっと漏らした言葉が、俺の脳裏に違和感としてこびりついていた。
『よかったわ。2度目がこんなに軽症で』
だったか。
意味がよくわからなかった俺は当然先生に聞き返したんだが、はぐらかされてしまった。
2度目……どういう、意味なんだ? 俺が怪我をしたのが2度目? いや、そんなわけがねぇ。自慢じゃねぇが、それなりに怪我はしてきた。
となると……彼女に担当してもらったのが2度目、とか? いや、それもねぇな。俺が矢常呂先生に診てもらったのは、これが初めてだ。
というか、軽症って。割と重症じゃねぇかと思うんだが。それとも矢常呂先生からしたら、こんなもん傷の内に入らねぇんだろうか?
まあ、それは今は置いとこう。問題なのは、俺がこの怪我が原因で入院する羽目になったってことだ。
ちなみに、全治は1週間らしい。……ありえねぇだろ、それ。風穴開けられたんだぜ、俺の肩。一体俺の身体に何をされたのか、本気で怖くなるな。
あ、そうそう、後お見舞いも何人か来てくれた。あいつら、優しいな。いろいろ持ってきてくれたよ。
例えば時雨が持ってきた果物セットはおいしく戴いたし、レキの
しかし……だ。
俺はベットの上でごろんと寝返りをうち(間違って撃たれた肩を下敷きにしてしまい悶絶した)、
「……考えなきゃいけねぇことができちまったな」
と、小さく呟いた。
今回のバスジャック……いや、チャリジャックも一連の事件とすれば、この2つの事件について俺は、ある1つの推論を打ち立てていた。
それは――と、俺が脳内でもう一度考え直そうとしたとき、コンコンと病室の扉がノックされた。
その音に思考を中断させられた俺は、誰だと思いつつ、上半身を起こして、
「どうぞ」
と、入室を許可する。看護師さんかもしれないと考えて、一応丁寧語は使っておいた。
視線の先で、キィと扉が開く。
はたして姿を現したのは……制服姿のアリアとキンジだった。
俺は左手を軽く上げ、
「よう。見舞いに来てくれたのか?」
「あ、ああ」
「…………」
なんだおい、歯切れ悪ぃなキンジ。アリアに至っちゃ無言だしよ。
2人はつかつかとベットの傍まで近寄ってくる。
キンジは「あー」と、会話の起点を探して、
「怪我は、大丈夫なのか?」
と、当たり障りのないことを訊いてきた。
それに俺は頷いて、
「まあ、な。全治1週間だとよ。矢常呂先生が担当してくれたらしくてさ」
「ッ!? そ、そうか」
矢常呂先生の名が出た瞬間、キンジが顔色を変えた。
? そんな驚くとこか、今の?
いぶかしげにキンジを見ると、彼は慌てたように話を変える。
「来るのが遅れて悪かった。本当は、昨日来たかったんだけどな。理子を中心に探偵科と
「そっか。で? 何が
「いや……犯人が泊まったホテル部屋の調査とか、俺たちのチャリジャックの件も調べてもらったりしたんだが、犯人に繋がるようなものは一切出なかったらしい」
キンジの言葉に、俺は眉根を寄せて驚きを表現する。
おいおい……なんつー周到さだよ、例の犯人は。いくら高校生ったって、うちの
一体、どこのどいつが犯人なんだ?
「まあ、それならそれでしゃあねぇだろ。そんだけ、相手が
「ああ。アリアも、そう言っていた」
頷くキンジに、俺は視線を移す。
アリア、か。
そういやこいつ、なんでずっと黙ってんだ? おまけにうつむきっぱなしで、らしくねぇことこの上ない。
もしかして、なんか怒ってんのかな。……怖ぇな、それ。さすがに怪我人相手には無いと思いたいが、いつぞや言ってた風穴カーニバルとやらが開かれるんじゃねぇだろうな。
とりあえず、話しかけてみるか。
俺は、怒っていた場合のことを考え、なるべく優しい声音になるように口を開く。
「おい、アリ――」
が、その言葉が、言い終わるより早く。
アリアが一息に言った。
「錬。これで、約束の一件は終わりよ。あんたはもう探偵科に戻っていい。さよなら」
――は?
思考が、止まった。
あまりにも唐突な宣告に、心が付いていけない。
出鼻をくじかれ、俺が何も言えずにいると、アリアはくるりと身体の向きを反転させて、そのままドアに向かって歩き始めた。
「あ、おい、アリア!」
キンジが呼び止めるも、無視。一切止まることなくアリアは部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が、室内に響く。俺はなぜかそれを、
シカトされる形になったキンジは「悪い、また来る」と言い残し、アリアを追いかけて病室を後にした。
「…………」
無言。静寂が、空間に満ちる。
嵐のように去っていった2人を見送り、俺は一人病室に取り残された。
今起こったことを端的に言い表すことは容易だ。
――俺が、アリアに別れを告げられた。
ただ、それだけの単純な話だ。
「……まあ、そりゃそうだよな」
ぽつりと、呟く。
多分アリアは……怒っていたのだろう、俺に。あきれ返っていた、と言ってもいいかもしれない。
せっかく友達になるために押しかけたり、なるべく一緒にいるために
そりゃあ、さぞや頭に来ただろう。結局バスジャック事件も、あいつらはきっちりと片付けていた。俺は、足手まといにしかなれなかった。
おそらく、見舞いに来たのもさっきの台詞を言うためだろう。本当は、来たくもなかったのかもしれない。
つまりアリアは。
アリアは俺に――失望したんだ。
「…………」
おいおい、何を黙りこくってんだよ、有明錬。
わかりきってたことじゃねぇか、そうなることくらい。
所詮俺は、アリアやキンジとは比べるべくもない、雑魚武偵。そもそもが、期待をかけられるようなこと自体、あっていい話じゃねぇんだ。
お前はいつだったか、アリアに内心でキレたよな。いや、正確には、俺のことを勝手にもてはやす連中に、か。
だがなんで、そこに過剰に反応する? 期待をかけられるってのは喜ぶ場面だぜ、本当は。それに応えてやろうってのが、正しい感情だ。
じゃあ、なんでお前はそれを嫌がったよ?
答えは簡単、
一度失敗してるもんな、お前は。
今回だってそうだ。
アリアとキンジなら、ケンカしてようが放っておいても事件を解決できただろうよ。それをお前は、余計なことをしようとでしゃばって、挙句このザマだ。
だから、アリアに見放された。いや、強襲科の件もあったな。あんな無様な真似をしたんじゃ、そりゃこうなるわな。
それとも、なにか? アリアなら、なあなあで済ませてくれるとでも思ったか。
――ひとつ訊くぜ、有明錬。
お前。
そんなことで『約束』を守れんのかよ?
「うるせぇ!」
ゴヅッ! と。鈍い音と共に、額に痛みが走った。
理由は、わかってる。俺が左拳で、自分の額を殴ったからだ。
「わかってんだよ、んなことは……」
ボスッ、と後ろに倒れこみ、頭を枕に沈ませる。
殴った額が、ジンジンと痛みを発する。
「わかってんだ……」
もう一度呟いて、俺は瞳を閉じた。
これは、必然の結果だ。たとえバスジャックの件が上手くいって、アリアと組むことになったとしても、いずれはボロが出る。
だったら、そうなる前にこうなったのは、間違ってねぇはずなんだ。
これで、いい。これで、いいんだ。
「…………よし」
言い聞かせるように口にして、俺は思考を切り替える。
今は、それよりも考えなきゃいけないことがある。
俺は、アリアのことを一旦頭の端に寄せて、あいつらが来るまで考えていたことをもう一度考え始める。
それは、一言で言ってしまえば――
――例の犯人の狙いは、俺だということだ。
というのも、これには根拠がある。
チャリジャック。そして、バスジャック。その2つ共に、俺は巻き込まれている。
もちろんこれだけなら、根拠には弱い。なんせ、チャリジャックはキンジも、バスジャックは俺以外の大勢が巻き込まれたんだから。
だが、これに説明をつける言葉がある。
それは――ミスディレクション。
これは手品の手法でもあるんだが、ようは別の物に注意を集めて本命から目をそらさせる、という手のことだ。
あの犯人はおそらく、無差別に襲っているように見せ掛け、実は俺を標的にしているのだろう。
思い出して欲しい。キンジのチャリに並走していたUZI付きのセグウェイを。もしもキンジだけを狙っていたのなら、俺まで脅迫する必要はなかったはずだ。
きっと、奴は予想していたんだろう。キンジがああいう状況になれば、同じルートを通る俺に助けを求めると。
そして、さらに俺の考えを補強するのが、狙われたバスが7時58分発のものだった、ということだ。
なぜ何本もあるバスのうち、あれにだけ仕掛けられた?
学園バスは寮から一般校区までの道を何度も往復するから、爆弾はあらかじめ付けられていたと見るべきだ。が、どうして最終便になってジャックを始めた?
答えは一つ、犯人は知っていたんだ。俺が、あの便に乗ることを。推測になるが、多分俺の部屋に監視カメラか盗聴器でも仕掛けられていたんだろう。アリアがキンジの家に入り込んでいたように、こっそりと侵入して。
状況証拠だけしかないが、ここまでくれば可能性はかなり高いと見ていいだろう。
犯人は……この俺を、狙っている。
「問題は、なんで俺が標的にされたのかってことだが……まあ、ありえねぇ話じゃねぇ。俺はこの2年間で多くの事件に関わってきた。それ関連で、という可能性もある」
俺は考えをまとめるため、あえて口に出して思考を進める。
しかし……どちらの事件も、一歩間違えりゃ、俺以外の人間も死んでた。こいつは、目的のために手段を選ばねぇ、もっとも厄介なタイプの犯人だぞ。
「俺のせいで、みんなが危険に遭った……ってことか」
アリアのことに加えて、その事実が俺の心に影を落とす。
どうすりゃいいんだ、この状況……。
教えてくれる奴がいるなら今すぐすがりつきたい気持ちを抱えて、俺は答えを求めるように窓の外に視線を転じた。
憎たらしいくらい、澄んだ青空が広がっていた。
* * *
「おい。アリア。……おい!」
エレベーターを使わずに階段を駆け下り、武偵病院を飛び出したキンジは、一直線に去ろうとしているアリアに声をかけた。
それを聞きとめたアリアが、ピタリと足を止める。
キンジは小走りでアリアに駆け寄り、そして追いついた。
先ほどの一幕に憮然としながら、キンジはアリアの肩を掴んで詰問した。
「どうしたんだよ、お前。見舞いについてくって言い出したのは、お前のほうだろ。なのに、あんな――」
「うるさい」
キンジの台詞を遮り、アリアは一言で断じる。
あまりな対応にキンジは一瞬呆気にとられた。そんなキンジを置いて、アリアは肩にかかる手を振りほどいて、再び歩みを再開する。
キンジは慌ててそれを追いかけ、
「ちょっ、待てよアリア!」
「うるさいって言ってるでしょ! ついてこないで!」
「ッ! なんなんだよお前! もういい、勝手にしろ!」
意味がわからず、理由さえ説明されず、ただただ怒鳴りつけられたキンジは、さすがに頭に血を上らせた。
そもそもにおいて、今日はキンジ一人で錬の見舞いに行くはずだったのだ。錬にも言ったもろもろの諸事を済ませ、武偵病院へ向かおうとした段になって、アリアは「あたしも行く」と言い出し、そして実際こうしてキンジについて来ていた。
キンジは、アリアの言動を受けて、少し彼女を見直した。長い付き合いではないが、キンジもアリアのことは少し分かったつもりだった。プライドの高い、直情的な少女。概ねキンジの評価はそんなところだったのだが、そこに『根は悪い奴じゃない』という項目が加わった。
しかし、実際に見舞いに行って、病室で錬に放った言葉はどうだ。自分を――そこにはキンジも含まれるが――庇った錬に向かって、「さよなら」と一方的にそう告げただけだった。
その態度があまりにもあまりなものだったから、キンジはわざわざアリアを追いかけたのだ。せっかく心証を改めたというのに、それは間違いだったのかとどこか哀しげな気持ちになりながら。
だが、結局キンジにアリアが言い放った言葉もまた、辛辣なものだった。柄にも無く出した老婆心をにべもなく否定されてまだアリアを気にかけてやるほど、キンジの気性は穏やかな性質ではなかった。
(もう知らん。なんなんだ、あいつは)
武偵病院の敷地から出たアリアは、歩道を左へと進んでいった。
だからキンジは、義憤に駆られながら同じ歩道を右へと進む。
こちらに背を向けて歩いていくアリアに、自分も背を向けながらキンジは歩く。
(錬に……助けてもらった仲間に、あんなこと言いやがって。それともアリアにとっては、所詮錬は『駒』でしかなかったのかよ!)
* * *
もちろん、そんなことはなかった。
アリアにとって、キンジも錬も大切な仲間だ。未だパートナーになれてはいないけど、アリアは必ず2人をパートナーにしてみせると、意気込んでいた。
――昨日までは。
バスジャック事件において、キンジは自分に実力を見せてくれなかった。いや、より正確にアリアの心情を表すなら、『隠された』の方が正しい。なぜなら彼女は、半年前に一度、そして再会したあの日にもう一度、キンジの戦闘力を目撃しているからだ。
実力を隠蔽された、という事実はアリアの心を深く傷つけた。約束を、したのに。全力で事件に当たると、武偵としてそこだけは守ると、そう言っていたのに。裏切られた、と彼女が感じたのもむべなるかなといったところだろう。
そして、逆の意味でアリアを落ち込ませている要因は、言うまでもなく錬の負傷だ。自分を庇って怪我をさせたことに、大なり小なりアリアは負い目を感じていた。
きっと、錬は憤慨しているだろう。足を引っ張ったのは、明らかにこちらなのだから。
だから、アリアは少しだけいつもより自分に素直になった。キンジと一緒に錬のお見舞いに行き、本当はその場で錬に謝るつもりだった。せめて「ごめん」、とただ一言だけでも。
それでもやっぱり罪悪感はぬぐえなくて、アリアはうつむきながら入室した。
だが、
「よう。見舞いに来てくれたのか?」
病室に入っての、第一声。
錬は、なんでもないかのようにそう言った。そこに、こちらを非難するような色は一切無かった。あるのはせいぜい、見舞いに対する喜色だけだ。
(なんで……? 錬は、あたしたちのせいで怪我したのに……)
予想とは全く違った錬の態度にアリアが何も言えない中、キンジと錬は会話を進める。
全治1週間、というのは少し安心した。思ったよりも、重傷ではなかったからだ。
そんなことを思っていると、キンジが言った。
「ああ。アリアも、そう言っていた」
アリアの名が、出た。
そして、それに呼応するように、錬がこちらに顔を向ける気配を感じた。
ドクンッ、と心臓が跳ねる。今度こそ、錬はアリアを負の感情が篭った目で見てくるだろう。
蔑み、哀れみ、憎悪。種類がなんだろうが、それは関係ない。ただ、パートナーになれる、そしてなって欲しいと思っている少年にそんな目で見られるのかと思うと、アリアに恐怖が生まれた。
アリアは俯いた顔を少し上げて、顔にかかった前髪の隙間から、そっと彼の表情を窺い見た。
そして、
(なんで……なんで、そんな顔が出来るのよ……!)
どこまでも。どこまでも。彼の顔は、穏やかで優しかった。
全く持ってアリアに非はない、と。それどころか、誰にも非なんてないんだ、と。そう言われているような気がして。自分の罪悪感が、全て見透かされているような気がして。
だからこそ、アリアは怖くなった。どうしてここまで他人を
だからアリアは、
「おい、アリ――」
何かを言いかけた錬を遮り、
「錬。これで、約束の一件は終わりよ。あんたはもう探偵科に戻っていい。さよなら」
それだけを言って、引き止めるキンジにも構わず病室を後にした。
武偵病院を出てからも、アリアは自分がイラついていることを自覚した。だから追いかけてきたキンジにもきつく当たり、アリアは当ても無く学園島を歩くことになった。
ツカツカと足早に歩を進めながら、アリアは思う。
(おかしいわよ、あいつ。あれじゃまるで、自分より他人が大事みたいじゃない!)
思えば、錬は初めからそうだった。
チャリジャックのときも、バスジャックのときも。半年前にこそそういう場面は訪れなかったものの、いつも、自分の身を犠牲にして仲間を優先するような行動を取っていた。錬たちに『ドレイ宣言』する前に聞き込みしたところ、どうも昔からそういう節があったらしい。
その理由を、アリアは知らない。何かあるのかも知れないが、そこまで踏み込むまでには至れない。
自分だってまだ、あの2人に言っていないことがあるのだから。
そう――
「ママ……」
アリアの小さな呟きは、溢れ返る喧騒の中に溶けていった――
* * *
錬の見舞いに言った翌日、日曜日。
キンジは、チャイムの音で目が覚めた。
枕元に転がっている目覚まし時計によれば、現在時刻は朝8時。自分でも遅い起床だとは思うが、昨日までいろいろと大変だったのだ。疲れが出てしまったとしても不思議はない。
キンジはベッドから降り、寝巻きのまま玄関へ向かう。
「朝っぱらから、一体誰だ……?」
今日は休日。来るとするなら、武藤や不知火たちだろう。暇を持て余した彼らが遊びに来たという可能性がある。ちなみに次点で白雪が挙げられるが、彼女は今S研――
では一体誰が? と疑問に思いつつ、キンジは廊下を抜け、ガチャリと玄関のドアを開ける。
そこに立っていたのは――アリアだった。
ああそういやこいつを忘れてた、と思い出すキンジは、次いで目を白黒させた。
なぜなら、
「あ、アリア……? お前、どうしたんだその格好?」
そう。アリアの服装は、いつもの制服でも先日見たC装備でもなかった。
どういうわけか、アリアは私服姿で立っていた。薄いピンクの柄が入った白地のワンピースは目が覚めるほど似合っていて、その小さな足はファー付きのミュールが覆っている。
彼女の背格好も合わさって、どことなく妖精然とした雰囲気を纏っていた。
そんな姿のアリアを見たキンジは、昨日ケンカ別れしたことも忘れて、思わず魅入ってしまった。
が、アリアはそんなキンジには構わず、
「キンジ。今日はあんたに、付いてきて欲しい場所があるの。本当は錬にも来て欲しかったけど、あいつは今入院してるから」
「それは構わないが……どこだ。強襲科か?」
キンジのその問いに、「違うわよ」と断ってから、
「――新宿警察署よ」
と、アリアは答えた。
* * *
新宿警察署。
日本一の歓楽街である歌舞伎町や一日に70万以上の人間が行き交う新宿駅を管轄に置き、警察庁警察署の中でも郡を抜いて警察官の数が多いことで知られる、大規模警察署だ。
その入り口前に立ち、キンジは10階以上は優にあるその建物を見上げた。
キンジがこの警察署に来たのは、初めてのことだった。しかしこれは、武偵が警察とあまり上手く連携を取れていないという現実には起因しない。
まるで自分が犯罪者になってしまったみたいだ、と益体も無いことを考えるキンジの意識を、隣に立つアリアが引き戻す。
「ちょっと、なにぼーっとしてるのよ」
「――ん? ああ、悪い」
そっけなくはある返事だったが、そこに険悪な感情は見て取れない。昨日のことは、すでにお互い(というかキンジが)水に流していた。衝動的なケンカだった分、冷めるのも早かった。
だからキンジは特に遠慮することもなく、アリアに訊ねる。
「で? こんなところに何の用だ?」
「……入れば、わかるわ」
言外に、この場で告げる気は無いと伝えるアリア。近くに西新宿駅が敷設されていることもあってか、辺りの人通りは多い。誰かに聞かれたくない類の話か、とキンジは当たりをつける。
キンジは「そうかい」と軽く返し、アリアもそれを無言で受け取った。
いつまでもここにつっ立っていてもしかたないので、2人はそのまま署内へと入った。アリアは既に何度も来ているのか迷い無い足取りで受付を目指し、署員と二、三何かを話して、キンジに「こっちよ」と移動を促した。
やがて2人が辿りついたのは、普段眼にすることの無い部屋だった。いや、テレビや漫画などで見たことのある者は多いだろう。その部屋は、真ん中でカウンターとアクリル板で区切られていた。その無機質な境は、まるでこちらとあちらを完全に隔てた空間であるかのように、一切の隙間がない。
留置人面会室。ここは、そう呼ばれていた。
(アリアの奴、犯罪者に用があるのか?)
カウンターの前に置かれた2つの椅子にアリアと共に座りながら、キンジは居心地の悪さにみじろぎする。
こんなところに何を? と訝るキンジをよそに、やがてアクリル板の向こうから、警官2人に連れられた1人の女性がやってくる。
(――あれ。この人、どこか……)
向こう側のカウンター席に着席したその女性を見て、キンジは既視感を覚えた。正確には、隣にいる少女の姿が、女性とダブったのだ。
ゆるやかにウェーブした色素の薄い黒の長髪。柔らかな物腰。どことなくアリアに似た瞳(なのに優しく見えるのはなぜだろう)。美人、と十分以上に評すことのできる女性だった。
キンジは、気づく。この人は、アリアの拳銃・ガバメントのグリップに彫られた女性に似ていることに。
女性は、自身を神崎かなえ――アリアの、母だと名乗った。
彼女に内包される母性そのものの柔らかな雰囲気に、キンジは少々落ち着きをなくす。
そんなキンジの様子に目つきを険しくしながら、アリアはかなえに「ここにいる遠山キンジは『武偵殺し』の被害者なの」と説明した。
続けて、
「本当はもう1人、有明錬ってやつがいるんだけど、事情があって今はこれないの。だけど、聞いてママ。『武偵殺し』は最近動きが活発になってる。あたしはヤツを捕まえて、ママの懲役864年を742年にまで減らしてみせるわ」
(は、864年……!?)
なんだそれは、とキンジは胸中で驚愕する。そんなもの、終身刑と変わらないではないか。
そして次に、キンジは気づいた。神崎かなえという名は、去年の暮れにニュースで報道されていた。『武偵殺し』の逮捕、という文句と共に。
ピースがつながる。アリアが『武偵殺し』は誤認逮捕されたと言っていた意味が、これでやっとわかった。逮捕された『武偵殺し』とはつまり、アリアの母親のことだったのだ。
(いや、待て。それよりも、もっとやばいことがあるぞ……)
キンジの思考は、そこからさらに進む。『武偵殺し』が冤罪だと証明できれば、864年から742年まで刑期が減るということは、逆に言えばそれ以上は減らないということである。
つまり。
かなえには、まだいくつか『武偵殺し』級の冤罪がかけられているということにならないか――?
その推理に思い至ったキンジは、意識せず顔を青くした。
だが、当の本人は、「あら?」と依然柔らかい表情を崩さずに、
「遠山キンジさんに、有明錬さん? どこかで似たような名前を聞いたような……ああ、そうそう。確か、半年前だったわね。アリア、もしかしてこの方たちは、あなたが言っていた
かなえの台詞に、キンジは目をみはった。
それは確かに、半年前キンジたちが使った偽名だった。だが、それを知っているのは、キンジと錬、アリアを除けばアガンベン家の連中くらいだ。母といえど、本来ならかなえが知るはずが無い。
となると、アリアがかなえに喋ったということになる。おい、任務の守秘義務はどうしたとキンジはアリアにジト目を向け、アリアは「うっ」とイタズラがバレた子供のように目を逸らした。
そんな2人の様子を微笑ましく眺めながら、かなえはさらに、
「あの時、あなた嬉しそうに話してくれたわよね。面白い奴らに会ったって……最後には、『ドレイくらいにはしてもいいかもね』なんて、頬を緩めてたわ」
懐かしむかなえの瞳には、優しげな光が揺れている。キンジはそこに、彼女のアリアに対する愛情を見た気がした。
だがアリアとしてはたまったものではない。プライドの高いこの少女が、本人を前にして恥ずかしい発言を披露されたとなれば、その羞恥心たるや推して知るべし。
ぼぼぼっとアリアは頬を一気に赤く染め、
「ま、ママ! い、いいい言ってないわよそんなこと! あたしは変なバカたちに会ったっていっただけで……こ、このバカキンジ!」
「うごっ!? な、なんで俺が……」
照れ隠しのアリアの一撃が、キンジのみぞおちに突き刺さる。
苦悶の声を上げるキンジにアリアはフンと鼻を鳴らして、切り替えるように真面目な顔を作った。
「ママ。あたしは、絶対ママを助けてみせる。ママをスケープゴートにした『イ・ウー』の連中を、全員ここにぶち込んでやるわ」
「アリア……気持ちは嬉しいけど、『イ・ウー』に挑むのはまだ早いわ――『パートナー』は、見つかったの?」
かなえもまた、穏やかだった表情を困ったように曇らせて訊いた。
――『パートナー』。
それこそまさに、アリアが捜し求める存在だった。
アリアも血を引く『H』家は、代々優秀なパートナーを得てきていた。アリアの曽祖父も、祖母も、それぞれロンドンで自分の能力を何倍も引き出してくれるパートナーを見つけていた。
が、アリアにはまだパートナーが見つかっていない。アリアに、ついてこれる者がいないからだ。
しかし、アリアが敵視し、かなえに数多の罪を着せた『イ・ウー』という犯罪組織は強大だ。アリア一人では、とても太刀打ちできないだろう。
だからこそアリアは、ずっとパートナーを捜していたのだ。その結果としてキンジと錬に『可能性』を見出し、その末に
「人生は、ゆっくりと歩みなさい。早く走る子は、転ぶものよ」
焦るアリアに、かなえは母親らしいたしなめるような言葉をアリアにかける。
それから、自分の最高裁は担当弁護士が引き伸ばしていることを引き合いに出し――すでに二審まで有罪判決が決まっている――アリアを説得する。
「わたしは大丈夫だから、あなたはまず落ち着いてパートナーを見つけなさい。今はまだなんとかなっているとしても、この先一人では対応しきれなくなる時がくる」
その、言葉に。
アリアの脳内に、病室で見た錬の表情が蘇った。
白色に染められた部屋の中、錬は笑っていた。それが逆に、アリアが自己を呵責する原因になろうとは、おそらく思わずに。
アリアは、端正な顔をゆがめて、
「違うの、ママ。あたしは一昨日、危険な目に遭った。だけど、あたしを庇って傷ついた人がいた。――だからもう、あたしはパートナーなんていらない。ママを助けることができたって、その過程で誰かを犠牲にしたら、ママは喜ばないから……」
「アリア……」
かなえには、母には、アリアの気持ちがわかった。わかって、しまった。
本当は、つらくないはずがない。アリアはまだたったの16歳だ。今頃どこかの一般高校で青春時代を過ごしていても、なにもおかしくない、そんな女の子なのだ。
だが、現実がアリアにそれを許さない。アリアに、戦うことを強いる。
それでも、一人で戦うことがどれほど大変なことなのかは、言うまでも無い。アリアだって、パートナーを欲しているはずだ。
だからと言って、アリアはそれを目的達成のための踏み台にできる人間ではなかった。かなえは、そんな風にアリアを育ててはいない。
母親として、かなえにはそんなアリアの姿がひどく痛ましく映った。小さく、弱い。武偵高の生徒から見れば鬼人のごとき強さを持つアリアも、母の視点で見れば幼子にしか見えなかった。
もちろん、アリアの芯には折れない心があることを、かなえは知っている。それでも今この時は、かなえは母としてアリアに声をかけるべきだと感じた。
だからこそ、彼女は知らず身を乗り出して、
「神崎、時間だ」
しかし、無慈悲な宣告を受ける。
かなえを連れてきた警官2人が、彼女を脇から羽交い絞めにして、立ち上がらせる。
連れて、行かれる。
最愛の母が、自分の前から。
「ッ! やめろッ! ママに乱暴するな!」
アリアは、アクリル板に拳を打ちつけながら叫ぶ。だが、当然それは聞き入れられず、また妨害もできない。少女の細腕では、この壁を取り払うことなどできはしない。
遠ざかる最愛の母親の姿に、アリアの心を悔しさがいっぱいに満たす。
「アリア! パートナーを作りなさい! あなたを支えてくれる、パートナーを……!」
最後に、かなえはそれだけをアリアに伝え、奥の扉の先へと連行されていった。
ガチャン、と。
扉が閉まる音が、重々しく響いた。
* * *
キンジとアリアは、新宿警察署を出てから、学園島に戻るために新宿駅へと歩いていた。
雑踏に紛れ、前を行くアリアに、キンジは形容しがたい感情を抱えながらついていく。
空は曇天。今にも雨が降り出しそうだ。
――2人の間に会話はない。
(アリアに、あんな事情があったなんて……知らなかった)
キンジは一人、思考の海へと沈む。
少し、後悔していた。ヒステリアモードのキンジに期待するアリアに、通常モードの自分を見せて失望させよう、などと画策したことを。
あの、アリアに一件だけ事件に付き合うと提案した日。キンジは、そのつもりで持ちかけていた。キンジは知らなかったが、それは錬も見抜いている。
アリアが切実にパートナーを求めていたこと、そしてその理由を知り、キンジは応えられないと知った上で期待させた自分に、僅か嫌気が差した。こんなことならば始めからなんとしても突き放しておくべきだったと、忸怩たる思いが湧き出てくる。
だが。
だとしても、だ。だからといってアリアのパートナーになり――武偵という道を続ける気はキンジにはない。
二律背反。力になってやりたい、とは思う。それぐらいの正義感は、キンジにもある。だが一方で、それは絶対にできないとも思っていた。
どっちつかずの感情に、キンジは後者を取ることで無理やり答えを出した。
と、アリアが歩きながら言った。
「……キンジ。あんたも、約束どおりもう探偵科に戻っていいわ。あたしとあんたたちの契約は満了したの」
「……わかった。お前がそういうんなら、俺はそれでいい」
投げやりともとれるキンジの発言にアリアは「そう」とだけ返し、また黙る。
かと思いきや、すぐにまた口を開いた。
「ねえ、キンジ。やっぱり、錬の怪我はあたしたちのせいなのよね」
「……それは、そうだろうな」
正直に、キンジは答える。
実際その通りだった。錬が庇ってくれなければ、最悪キンジかアリアのどちらか……あるいは両方が、この世から去っていたかもしれない。
アリアは「お前のせいだ」という意味も含む台詞に、無言で返した。
キンジはそれを見て……思わず、言ってしまった。
「――だが、全部が全部そうじゃないんじゃないか?」
「え……?」
思わずと言った風にアリアは立ち止まり、キンジに振り返る。
彼女の顔には、ありありと驚きが浮かんでいた。まるで、一切考えていなかった可能性を突きつけられたかのように。
キンジは、続けた。
「錬にだって落ち度はあるだろ。俺たちに相談無しの独断先行、ろくな武装もしてなかったこと、防弾制服無しで銃口の前に立ったこと。どれも、武偵としてのセオリーを無視してる。これは、明らかに錬の過失だ」
「…………」
「だから……だから、アリアにだけ責任があるわけじゃない」
キンジはそう言って、話を閉じた。
最後まで聞き終えたアリアは、
「そう、かもね……」
とだけ言って、再び前を向いて歩き始めた。
アリアが今なにを思っているのか、キンジには分からない。どんな表情をしているのかさえ、確認できない。だから何と声をかければいいのかも分からず、キンジはただアリアに付き従うしかなかった。
が、
「キンジ」
「なんだよ」
「……一人にさせて」
当のアリアにそう頼まれ、キンジはそれを断ることができなかった。断ってまでアリアに付いていくような理由が、キンジにはなかったのだ。
一人去りゆくアリアの背中を見つめ。
その小さな姿が新宿の雑踏の中に消えるまで、キンジはその場に立ち尽くしていた――
* * *
アリアを見送ったキンジは、路地裏を歩いていた。
何か明確な目的があったわけではない。ただ、今はあまり人ごみの中にいたい気分ではなかった。もしからまれたりすれば、意味も無く当り散らしていたかもしれない。
しかしてその理由は何かと問われれば、そちらははっきりとしていた。
キンジは、先ほどとは比較にならないほど後悔していた。
アリアに語ったことを、口にすべきではなかったと。
遠山キンジは、自身の台詞を脳内で反芻する。
(錬にだって落ち度がある……アリアだけの責任じゃない……)
そう。キンジは確かにそう言った。
まるで、いつか見た野良ネコのように寂しげなアリアの背中に耐え切れず、キンジはそう言ってしまった。
確かにそれは、一側面を見れば正論だろう。セオリーとはすなわち、先人たちが築き上げた
だが、少なくともそれは、あのバスジャックの場面ではなかった。セオリーを無視した有明錬の行動を武偵の教科書に照らし合わせれば、浴びるべきは賞賛ではなく非難だ。
だから。
きっと、誰もがキンジに言ってくれるだろう。
――「お前はなにも間違っていない」、と。
「ふざっけんなッ!」
薄暗い路地裏に、キンジの慟哭と、鈍い音が響く。
キンジが、ビル壁を殴りつけた音だった。
ジンジンと痛みを発する右手にキンジが顔をしかめ、心中で悔恨する。
(錬に、落ち度なんてない。あいつなら、本当はもっと上手く立ち回れていたはずだ。それを俺が……俺の浅はかな判断が、あいつにあんな行動を取らせちまった)
アリアにも言われたことだ。錬が撃たれる直前、キンジは無防備が過ぎていた。
その結果として、錬がキンジを庇わなければならない状況が生まれた。
だとすれば。
これのどこが、遠山キンジは間違っていないなどと言えるのだろう?
「結局、全部俺のせいじゃねえか……」
アリアだけのせいじゃない、どころの話ではない。
つまるところこれは、遠山キンジのミスが親友を傷つけたという、ただそれだけの話だった。
キンジは思う。
もしかしたら、アリアに言った言葉は全て、自分に向けたものかもしれない、と。錬にも落ち度があると思いたかったのは、誰かだけのせいではないと信じたかったのは、自分の方なのかもしれない、と。
ならば、
「最低だ。俺は……」
一歩間違えれば、錬は死んでいた。これではまるで、あの時の繰り返しではないか。
そう、キンジが嘆いたとき。
――ポツリ、と水滴がキンジの頬を打った。
雨だ。雨が、降ってきた。
始めは数滴。しだいに強くなり、すぐに大雨に変わった。
千条の雨粒が、キンジを濡らす。それはまるで、キンジを責める天からの槍のようだった。
――心が、折れかける。
キンジは、右手をゆるゆると持ち上げ、拳銃を
その姿を、人はなんと称すだろう。少なくとも、勝者には見えないその姿を、人はなんと――
そして。
そして、キンジは、ついに俯き――
グッ! と思いっきり、右手を握り締めた。
「このままで、終われるか……!」
心を、持ち直す。
再燃させる。奮い立たせる。
キンジは、双眸を眇めて、顔を上げる。
このままじゃ、終われない。親友を傷つけて、知り合いの女の子一人助けられなくて、舐められっぱなしのまま終われない。
だが、そんなことは関係ない。今この時、この瞬間、遠山キンジは確かに
(『武偵殺し』……お前には、もう何発ももらった。きっちり、返してやるよ)
武偵は、一発もらったら一発返す。
キンジは、近い将来武偵をやめる。だが、
ならば、この借りは返さなければならない。
顎を伝う雨を、キンジはぬぐう。
降りしきる冷たい雨の中、しかしキンジの体は、静かに熱を帯びていった。
* * *
アリアはキンジとは裏腹に、変わらず雑踏の中を歩き続けていた。
その表情は、暗い。
そしてキンジ同様、心は内側に向かっていた。
(キンジはああ言ってたけど……それでもやっぱり、錬をパートナーにするわけにはいかない)
アリアは胸中で、本心を抑えてそう結論づける。
それは、錬を案じればこその決断だった。
アリアが挑もうとしている『イ・ウー』は生半可な組織ではない。世界に名だたる多くの犯罪者が所属している、恐るべき集団だ。たとえSランクのアリアでも、容易に太刀打ちは出来ないだろう。
当然、そんな相手に矛を向ければ、相応の危険が返ってくる。それはおそらく、命に関わる形で。
そしてアリアの命が脅かされた時、彼女の傍に錬がいたならば。
(また、錬はあたしの身代わりになろうとするかもしれない)
アリアの脳裏に、錬が撃たれた姿が浮かぶ。あれと同じことが、また起こったとしたら。
そうなれば、今度は肩の傷では済まない可能性がある。
今度こそ、失うかもしれないのだ――命を。
(そんなの、絶対ダメッ!)
最悪の想像に、アリアは叫びそうになる。
ダメだ。それだけはダメだ。そんなこと、アリアも、そしてかなえも許容できることではない。
だからこそアリアは、錬を突き放したのだ。
「さよなら」、と。別れを告げる言葉と共に。
本当は、せめてキンジだけでも、という気持ちはあった。しかし、それもバスジャックのことを思い出せば、心に躊躇いが生まれる。
だから、これでもう本当に終わりだ。
アリアは、2人のパートナー候補を一気に失った。
アリアとキンジと錬。いつかアリアが思い描いた未来予想図が現実になることは、これで完全に無くなった。
しかしアリアは、これでいい、と思う。あたしはこれからも一人で戦い抜く、と自分に言い聞かせる。
だけど。
「……ヤ」
今の今まで引き結んでいた唇から、小さく零れる。
そしてそれをきっかけにしたように、言葉があふれ出た。
「そんなの、イヤ。ホントは、あいつらにパートナーになって欲しい。一緒に、戦って欲しい」
それは、アリアの本心だった。錬にも、キンジにも、そしてかなえにさえ明かさなかったアリアの願いだった。
足が、止まる。
突然立ち止まったアリアを、通行人が迷惑そうに避けていく。
「一人はもうイヤだよ、ママ……!」
アリアが、そう言って。
――雨が、降り始めた。
曇天の空と、アリアの瞳から。
「……う……わぁ……うぁあああぁああぁぁああああぁぁ!」
突然の泣き声に、周囲の人間が好奇の目を向ける。
だけどそんなことも構わずに、アリアはただ泣く。
とめどなく溢れる涙が、感情と一緒に頬を伝う。
「ママぁー……ママぁあああああぁぁ……!」
世界でたった1人だけになってしまった、アリアの味方の名を呼びながら、彼女は泣き声を上げる。
傍らには誰もおらず、アリアは滂沱の涙を流し続けた。
雨は誰の上にも平等に降る。泣き暮れる少女だけを避けることも慰めることもしない。
自身を濡らす感覚に。
この雨がもしも、この悲しみも洗い流してくれたらとアリアは願った。
* * *
「…………ん」
と、一つ呻いて、俺は病室のベットの上で目を覚ました。
逆説的に、今まで寝ていたことに俺は気づいた。どうも、知らねぇ内に眠ってたらしい。
体が休息を求めているのか、それともただ考えることを放棄したかったのか。それは、わからなかった。
ふと、窓の外を見てみる。俺が意識を失う前は晴れだったんだが、いつの間にやら雨が降っていた。
窓を開けていたせいと、病室が静かなせいで、やけに雨の音がでかく聞こえる。
俺はその雨を眺めながら、ぽつりと言った。
「やっぱ、これしかねぇかな……」
降り続ける雨が、俺の行く末を表しているような気がした。
雨は、止まない。
――まだ、止まない。
では、また次回。