太陽が昇り、次の季節が待ち切れなかったのか春を飛ばして夏をもう迎えたかのような初夏の日差しが燦々と降り注ぐ。
風は先日までの寒さはどこへやら熱を帯びた風が強く吹きぬける。木々の葉と葉が擦れ合う音が轟音となって森から遠く離れているのにはっきりと聞こえる程度には風が暴れていた。
誰もいないアリアハンの教会の裏手の墓地には不規則な十字架の列が続く。
繁華街の喧騒も遠く、聞こえるのは少年の足音と吹き荒れた海風で騒ぎ立てられた木々の音のみ。黙する死者たちの前をアルトが花束を持って、歩く。
目的の場所まで歩き、その前でアルトが止まる。
並んだ二つの十字架の前で立ち止まり、アルトが花束を添える。
十字架の墓石には二人の英雄の生年月日と没日が刻まれていた。
一つの墓石にはかつて勇名を馳せ、世界に希望を示したオルテガの名が。
もう一つには、オルテガの後継者として、希望の再来を予感させたアゼルスの名が。
そしてこの二つの墓には共通して眠っている遺体が存在しない。オルテガは火口に落ち、アゼルスは光の中に消えてしまった。
「父さん……兄さん……」
アルトが穏やかな眼差しで、墓地を見下ろし、二人に語りかける。遺体はないが、その二人の魂は共に思い出の中に生きている。その過去の憧憬に対してアルトが語りかける。
「僕……勇者になったよ。二人みたいに」
春の日差しを浴びて、サークレットの翠石が静かに光を湛えている。サークレットを二人に見せるようにアルトがしゃがむ。
アゼルスの死後、色々なものが変わってしまった。
かつての楽師を夢見ていた少年はもういない。いなくなってしまった。
この二年は勇者になるための鍛錬と魔術の習得に費やされた。細く頼りなかった少年の身体にはすっかり筋肉が付き、二年前は剣を持つ度に振り回されがちだったが、今ではしっかりと握り締められる。楽師として腕を磨いたフルートも暫く触っていない。
今は旅装束でここに立っている。軽装として好まれる旅人の服の上から革の鎧を着込み、篭手や靴なんかも動き易く、丈夫な革のものを選んだ。青い外套を羽織り、柄にサルバオ王家を示す獅子の紋章が刻まれた鋼の剣を背負っている。そして、アリアハン王家が勇者として認めた証であるサークレットを被っている。
「まだまだ二人は全然追いつけないけど、僕なりにがんばってみるよ。自信はあまりないけどね」
少し、アルトが微笑む。
魔王討伐に臨み、幾多の武勲を挙げ勇猛だった父オルテガ。最期の瞬間まで敵に背を向けず、皆を守ろうとした兄アゼルス。まだまだ少年の眼差しはその二人の背中すらも見えない場所に立っている。その地平を目指して、少年もまた歩み、幾多の戦いを経るだろう。大丈夫か、と兄が失笑している様が浮かんだがアルトが優しく笑んだ。
「大丈夫。必ず追い抜くから、待ってて」
そう告げて、二人の墓石の前でアルトはきつく拳を握り締める。
「みんなの笑顔……僕が守り抜いてみせる。一度言ったことは守るよ」
その戦いに向かう度に今まで鍛錬を重ねて、勇者にまでなったのだ。その誓いを反故にするわけにもいかない。誰かの笑顔を守れるようになりたい。あの……遠い日の兄の戦いを見て、そう強く願ったのだから。
「じゃあ行ってくるね」
アルトが立ち上がり、二人の十字架を見つめる。
ここを訪れるのは、アリアハンに戻ってからになる。世界を旅して魔王を討伐し、二人を追い抜いてから堂々とまた墓参りをしよう。
「やっぱり。ここに来てたのね」
アルトが墓地を後にして、教会の囲いの門を過ぎようとして待っていた母クレアに呼び止められ、アルトが足を止める。
「旅立ちの挨拶をしてたのね」
「うん。次はいつ来れるかわからないし」
「そうね……お父さんも長らく時間がかかってたみたいだし。たぶん最低でも二年は戻れないんじゃないかしら」
「二年……」
二年という言葉にすればすぐのようだが、実際の経過は長い。それだけの期間、故郷を後にするのだ。
「何、不安げな顔してるのよ。自分で考えて、やると決めたんでしょう」
「うん……」
旅立つのに不安はあるが、それにも増して広い世界をこの目で見れるという楽しみも、多くの魔族や魔物との戦いに対しての緊張もある。だが、アルトが不安に感じているのはもっと別なことだ。
アルトが旅立つことで席がまた一つ空席ができる。
母や祖父は不安や恐怖を感じながら過ごすのではないかという不安を感じていた。家族が、自分の見知らぬ場所で命を落とし、帰ってくるのは遺品のみという悲しみをアルトは自身で経験してしまっている。
気丈な母だが、父が死亡したときに声を立てずに泣いているのをアルトは知っている。兄が死亡したときもどこかで泣いていたのだろう。それでも家族を心配をさせまいと穏やかにアルトを励まそうと元気に振舞っていた。
それがアルトもまた旅立ち、見送ることになった。それを心穏やかに迎えたとは考え難い。それでも旅立つアルトの決意に影を落とすまいと強く振舞っている母は本当に強い人だと強く思った。
「オルテガとアゼルスは戻らないけれど、アルティスは必ず戻ってくるんでしょう」
「うん……必ず戻ってくる」
クレアがアルトを優しく抱擁し、母の温もりが肌に直接伝わる。
「だったら私は大丈夫よ。あなたはあなたの道と人生を歩みなさい。無理して違う自分になろうとして、前の自分を押し殺そうとしなくていいのよ。後悔だけはしないようにね」
銀の横笛を手渡された後、アルトの考えていることなどクレアには最初から見透かされていたようだ。空色の瞳には悲しみではなく、決意と覚悟を秘めた眼差しがアルトの瞳を見据える。帰る家も、待っている家族もどこへ旅立とうともアリアハンの生家だけなのだ。ならば、必ず生きて戻ると強くアルトは誓える。握り締めた手には過去の自分の残滓みたいなフルートの冷たい感覚がそこにあった。だが、それは掌の熱で暖かいものに変わっていった。
「だからそんな顔しない。仮にも勇者でしょう。しゃんとしなさい」
「……うん」
アルトは潤みかけた目蓋を擦って涙を拭う。アルトの身体から温もりが離れ、クレアが優しく微笑む。己の人生を己の意思で歩む。躊躇いも決意も刻んで、少年もまた歩みだそうとしている。それに反対をするでもなく、背中を押してくれている。ならば、寂しさを理由に立ち止まるわけにはいかない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
いつもの挨拶を交わして母子はそれぞれの道を歩んでいく。アルトは前へと歩み、クレアは墓地へと歩いていく。
寂しさも郷愁も振り切って、アルトは自分の人生をもう既に歩み始めていた。
教会の前にシエルが立って、アルトのことを待っているようだった。それにアルトが小走りで駆け寄る。
「おはよう。待ってたの?」
「おはようございます。はい。お墓に参っているようでしたので」
シエルがにこりと微笑んで、肯定する。
短い時間ではあったが、シエルを待たせてしまったことに少しアルトは申し訳なく思う。尤も一緒に旅立つのだから、教会に迎えに行くつもりではあったが。シエルの服装は以前の十字架が刻まれた青い前掛けに黒い修道服であったが、靴は汚れ難い革靴で、小さめの背負い鞄を背負っている。先端に裁きを司る神獣が刻み込まれた裁きの杖を持ち、旅の準備は万全のようだった。
「先ほどお母様が墓地に入ったようですけど…」
「うん、墓地で会ったよ」
「お母様はなんと…?」
「自分の人生なんだから後悔しないようにって言われたよ」
叶わないな、と内心痛感した瞬間でもあった。寂しさや郷愁に引っ張られたのは母ではなく、アルト自身だったのかもしれない。
「わたしも神父様に似たようなことを言われました。心配もしてくれてるようですけど、それ以上にわたしの人生を自分の意思で歩んでいきなさい、って言われました」
シエルは遠く、言われたことを噛み締めるような眼差しをしていた。やはり、親というものの強さを感じさせられた。
「じゃあ、行こうか」
「はい、あ、アルト君」
アルトが歩みだそうとして、立ち止まる。おずおずとシエルが真摯な光を湛えて、アルトを見つめていた。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
かしこまって頭を下げてから、それに釣られてアルトも頭を下げる。その様子が可笑しかったのかシエルが微笑んだ。
城の外と中を隔てる城門前には既にバーディネと、それにルイーダが待っていた。バーディネもまた肩にかける手提げ鞄のみで簡潔なものだった。
アルトも簡単な手提げ鞄のみで、必要なものがあるのであれば旅先で補充していけばいいと動きやすさを重視した結果だった。鞄の中は数日分の干し肉や乾燥パンなどの携帯食とそれを食べるための食器、怪我をしたときのための薬草、着替えといったものだけだった。
いざ、正門前に立ってみると旅立つという実感がアルトの中にじわじわと沸き立ってきた。魔王討伐という名目で、辛いもの、悲しいものを多く見るだろう。それでも広大な世界を、まだ見ぬ不思議なもの、美しいものを見られるかと考えた瞬間にその胸を振るわせる。
かつて、父が旅立つ前もこんな風に希望と不安が綯い交ぜになった感情を抱いたのだろうか。
「準備は出来てるみたいね」
ルイーダが三人に聞き、それぞれで頷く。
「アルティス、シエル。これを」
ルイーダがアルトとシエルにアリアハンの国家を示す獅子を象った紋章を渡す。これがアリアハンでギルド登録された冒険者の証明となる。これで本当の意味で二人は正式な冒険者として国家から認められたことになる。
「これが身分の代わりとギルドの冒険者の証明になるわ」
「バーディネさんのは?」
「オレはアリアハン以外の場所で登録を済ませてある。だから、もう既に持っている」
バーディネが鞄から証明となる紋章を取り出す。海鳥を象った紋章であった。
「オレはポルトガのギルドで登録したからポルトガ籍のギルド登録者ということになる。それにさん付けしなくてもいい。呼び捨てでいい」
「じゃあ、バーディネ。君はポルトガの出身なの?」
アルトが問うものの、バーディネは応えなかった。その鋭い眼差しに怒気が篭もっていた様にも見えたが、ほんの一瞬だったので真意を尋ねることは憚られた。
「はいはいそこまでよ。冒険者なら詮索されたくないこともあるのよ」
ルイーダが釘を刺した。
冒険には人それぞれの理由がある。各地を流離わなければならない理由を人に知られたくない場合もある。脛に傷を持っている場合も珍しくないのだとルイーダがアルトたちを宥める。そう言われるとアルトもまた、深く追及する気はなかった。
「ごめん。聞かれたくないことを聞いて」
「いや……気にするな」
アルトが謝るが、バーディネが素っ気なく答える。気分を害しているようにも見えたが。
「いいや、バーディネは照れてるだけよ。この子不器用なだけよ」
「そんなんじゃない」
ルイーダがくつくつと笑って、バーディネがそっぽを向く。気のせいか、照れているようにも確かに見えた。
「それとこれ。アリアハン王宮からよ」
ルイーダが足元にずっと置いておいた小袋をアルトたちに差し出す。じゃらじゃらと硬質な音がしたことから金貨だと理解できた。
「先立つものは必要でしょう。貰っておきなさい」
「ご、五十ゴールドくらいかな」
「馬鹿か。もっとあるだろ。五千の間違いだ」
アルトが硬貨を受け取って、バーディネが冷ややかに口を挟んだ。今まで自分が持ったことない重さに眩暈がしたがルイーダの言うように金銭は確かに重要だし、好意で差し出されたものを断り辛くもあった。だから、素直に好意に甘えることにした。
「これで私から渡すように言われたものは全部よ」
「ありがとうございます」
アルトが深く頭を下げる。アリアハンの王宮も、ルイーダも自分たちが旅立つのにここまでの準備と手配をしてくれたことにアルトは深く感謝をした。
「じゃあ、そろそろ行くぞ」
「うん」
「はい、行きましょう」
バーディネに促されて、アルトとシエルが頷く。歩みだそうとした瞬間に
「待った」
背後から響いた声に制止されて、アルトたちが立ち止まる。背後に視線を向けたら、立っていたのは金髪の青年だった。小柄だった背はだいぶ伸び、逞しさすら感じられるようにもなったが、中性的だった雰囲気はそのまま残されていた。
「ルシュカ」
よう、と声を掛けた声は少年のような甲高さはなく落ち着きすら感じさせる。にか、と歯を出して笑う姿にアルトは驚いていた。
「どうしたの? 見送りに来てくれたとか」
「いんや、そうじゃない。俺も旅立つ事にしたんだ」
「でも、僕たちは……」
「魔王を討伐しに行くんだろ。そんなことは知ってる。だからさ」
憶測もなく、ルシュカが言い放つ。アリアハンに残り、生家である武具屋を継ぐとばかり思っていた。そう考えていたアルトは当惑し、そんなアルトを余所にルシュカは言葉を続ける。
「アリアハンだけじゃなくて、もっと広い世界を見てみたいんだよ。商人として腕を磨きたいってのもあるけどさ。ちゃんと準備はしたし、冒険者として登録はしてあるさ」
きつく拳を握り締めて、真剣な眼差しがアルトを射抜いた。
「親父みたいにアリアハンで生まれ、そこだけで商売をしていくのは古いんだ。もう成人したんだ。反対されたって俺は行くし、一人でだって」
このルシュカの様子だと父と喧嘩して、その衝動で飛び出してきたようだった。
現在、世界を取り巻く様子は各国間の国交は進み、新たな航路が発見され、船での貿易が栄えるようになった。
それまで積極的ではなかった国も貿易に乗り出すようになり、魔物の脅威は同時に冒険者をより強く鍛えることを国が推進し始め、結果各国間の貿易が進み、長距離航海が多くなったが故に魔物に備えて強い傭兵や冒険者が求められたというのはなんとも皮肉な話だ。
冒険者たちと貿易商やキャラバンへの円滑な取引を後押しするためにギルドという組織があるのだが。
この時代で、一番躍進を遂げたのも商人たちだった。陸路のキャラバン、船での貿易、それが栄えることで貴重なもの、その地方で手に入りづらかったものが入手できるようになり、各地を転々とすることで富を得ようとする商人も少なくないという。
その流れに乗って若き商人や駆け出しの商人が地方で商売をしていくのではなく世界に羽ばたき、ルシュカもまた若さ故に力量を試したいと願うのは無理からぬことだった。
「旅立ちをきっかけに自分を磨いていきたいんだよ。頼む」
「でも、やっぱり危ないし、何にも言わずになんて…」
「いいんじゃないか」
口を挟んできたのはバーディネだった。それに深々と嘆息混じりに、きつく睨み据えるようにルシュカを見る。
「ただし、足手纏いは置いてくからな。自分の選択だ。自分できっちり尻を拭けってことだ」
「お、おう」
バーディネの鋭い視線にたじろぎながらも、ルシュカが頷く。ルシュカは素直そうに見えて、頑固なとこがある。こうなれば梃子でも動かないというのは幼馴染ゆえに百も承知だった。
「わかったよ。一緒に行こう」
「結局、そうなるんですよね」
深く溜息混じりにアルトが失笑し、シエルがまるで先を読んでたかのように、にこにことしていた。
話が終わり、視線の先は自ずと正門の先を向く。その時が来たのだった。
「いってらっしゃい。必ず、帰ってくるのよ」
ルイーダがアルトたちに微笑みかけ、正門を守る衛兵たちは敬礼で、それを見守った街の人たちは暖かな拍手で祝福する。
「はい!」
アルトが歩みだして、振り返って大きく手を振る。シエルは頭を下げて、バーディネは素っ気なかったが軽く手を挙げて、ルシュカは手を小さく振っていた。
踏み出した。踏み出したのだ。
一際強い突風が吹き抜ける。
風が吹き抜けた先は草の海。どこまで続きそうな街道へと、少年たちは踏み出していくのだ。これからは、これから先は、立ち塞がる全ての困難は己の意思で立ち向かっていかなければならない。その道筋は目の前に広がっている。