Angel Beats! ―SCHOOL REVOLUTION― 作:伊東椋
射法八節は、弓を射る際の八つの動作を説明したものであるが、弓を射るまでに六つが説明され、七つ目で弓が放たれる。では、最後の八つ目は何を指しているのか。
それは、残心。すなわち矢が放たれた後の、一息付くような姿勢の事である。
彼女は今正に、その八つ目の“残心”に行き着いている。
残心。
弓を引き、矢を放ち、彼女は一息付くことが出来ているだろうか。
それは、彼女にしかわからない事だ―――
古式さんはゆっくりと弓を下ろし、姿勢を解くと、ゆっくりとあたしの方に振り返る。そして微かに微笑むと、彼女は言った。
「当たりました……」
古式さんが放った矢は、見事に的の真ん中を射抜いていた。ど真ん中というわけではないが、十分真ん中に近い位置を射抜いている。それでも十分過ぎる程、素晴らしいものだった。
緊張が解けて、安堵の境地に身を委ねた歳相応の少女の面影が、今の古式さんにはあった。下ろした手には、未だに弓が握られている。その手は、強く握り締められていた。
「良かったぁ……」
顔を上げ、ほっと安堵する古式さんの表情は、やり切った武道家の満足げな表情というよりは、少女そのものの綻んだ笑顔だった。
「やりました、沙耶さん……」
「うん」
あたしに視線を戻した古式さんの表情は、とても儚げで、美しいものだった。安堵し切った表情には、笑顔とうっすらと瞳から浮かべた涙が見える。心の底から嬉しそうな人間が、あたしの目の前にいた。
「おめでとう、古式さん」
あたしの口からは、それしか言えなかった。
後は、古式さん自身が決める道しかないことを、あたしは知っていたから。
「弓は……私の、全てだった」
あたしの祝福の言葉を聞いた古式さんは、静かに握った弓を見下ろすと、そっとそれを胸の方に抱えながら語り始めた。
「幼い頃から弓と共に生き、育まれ、私の存在を肯定してくれるものが弓でした。 でも、それを視力を失う事で、弓も失った私には、全てを失った事と同義だった。 弓を失い、殻に閉じこもった私には、二度と弓を引く楽しさを味わう事もないまま一生を終えると思っていた。 そう思うと、いつも絶望がそばにありました。 そして思った通り、私は再び弓を引く喜びを感じる事も無く人生を終えた。 でも、潰えた人生の先に、もう一度、その喜びを知ることが出来て―――私は、とても嬉しかったです」
絶望を思い、そして思った通りの絶望を生きた人生。確かに嫌な人生だっただろう。しかし、その人生を潰えたからこそ、その先に見つけた新たな可能性を掴み取り、再び自分の夢を叶えた事は、一つの現実として受け止めても良いのではないだろうか。
それもまた、自分の人生だったと、誇らしげに言っても良いのではないだろうか。
潰えた人生の先に―――見つけるものが見つけられた。
それは自らの人生の終着点であると、信じても良いのかもしれない。
「一度は失い、再びこの喜びを知る事が出来たのなら……もう、私に悔いはありません」
弓が引けなかった。それが彼女の人生を否定することと同等であり、全てだった。
弓を引く事が、彼女の願いだったのなら、彼女の人生もまた十分に報われた。
あたしは、そう信じている。
「沙耶さん……」
あたしの方に身体の向きを変え、正面から見据えるあたしを見据える古式さん。
木枯らしを揺らすような冷たい風が、あたしたちの辺りを通り過ぎた気がした。
「私、気付きました」
「気付いたって、何を……?」
「私の人生は、弓だけではなかったという事です」
古式さんはゆっくりとあたしのそばに歩み寄る。そしてあたしの前に立つと、そっとあたしの手を握った。
「私の周りには、かけがえのない大切な人がいました。 一緒に苦しい事も辛い事も背負っていってくれる人がいました。 私を命がけで助けてくれた時、私が私であってほしいと、言ってくれた人がいました。 私も、その人がその人であってほしいと願っていたんです。 そして、私はその人がとても大切でした……」
「古式さん……」
「私は、もう一度、その人に会いたい。 私である私として」
「……きっと、会えるわよ」
矢を放った時に、弱かった古式さんも一緒に吹き飛ばされた。そう思える程に、今の古式さんはとても強い少女に見えていた。
「今の古式さんを見たら、その人も喜ぶと思う」
古式さんが本当に想っている、そして相手も古式さんを本当に想っているだろう、その人を思い浮かべながらあたしは言う。
きっと、その人も古式さんと同じだと思うから―――
「……本当に、良かった」
安堵するような、瞳からうっすらと涙を浮かべながらも、しかし笑顔を浮かべるその表情は、彼女の強い証だった。
彼女の両目から、涙がこぼれる。
そして、一粒の涙が、頬を伝い、そして落ちる。
一粒の涙が、地に落ちた時。
ほぼ同時に、弓が乾いた音と共に倒れ伏せた。
あたしの目の前に、彼女はいない―――
矢を射止める全ての総決算である残心を終え、彼女は舞台から降り立った。
「……さようなら、古式さん」
彼女もまた、この世界からいなくなってしまった。
あたしの手で、この世界から退場した人は、これで二人目。
本当に、これで良かったのだと、信じたい。
この世界ではもう二度と出会えることはないけど―――
案外、彼女はすぐ近くでまた会えそうな気がする。
だから、それまでにあたしは代わりに残滓を背負ってこの世界に居続ける。
また弓を引く彼女と出会う時を、楽しみにしながら―――