25話 空高く
何千何万年もの間変わる事なく浮遊し続ける"雲の化石"とも呼ばれる。空高く積み上げても気流を生まず雨に変わる事のない雲だという説が有力視された。この雲が現れると日の光さえも遮断され、地上は真昼でも夜に変わる。
ブラック・フェルム号の上空に巨大な雲がのしかかり、辺りは暗闇に包まれた。
「ねェねェ、あれ見てよ」
甲板に出ていたケアノスは操舵室のマオを呼ぶ。空を見上げるマオは驚きを隠せない。
「ど、どないなっとるんや!?」
「プププッ、笑えるでしょ。あのオランウータンみたいな顔したロン毛」
ケアノスはすぐ近くを航行中の船を見ていた。その船には確かにオランウータンを彷彿とさせる男が乗っている。
「んなモンどうでもエエわ! 空や、空! 今は空見んかい!」
「あっ、もう一人は超猿顔じゃん! アッハッハッハッハ」
腹を抱えて笑うケアノスを見て、マオの額に青筋が浮かぶ。乱暴に顎を掴み、強引にケアノスの顔を上向けさせた。
「……空見ィ、言うとるやろ!」
「フフフ、分かってるって。積乱雲にしてはずい分厚いよねェ」
「グランドライン特有のモンやろか?」
イーストブルーでは見た事がないと言うマオ。
「雲も凄いけどさァ、ボクにはもっと気になる事が――」
「そやから猿はもうエエて」
「猿じゃなくて下だよォ。なんか海が荒れてきてない?」
そう言われてマオは初めて船の揺れが大きくなっている事を認識した。
ブラック・フェルム号は文字通りステンレス製の鋼鉄で補強されており、重心が安定していて荒波にも強い。そのせいで気付くのが少し遅れたのである。
「ホンマや……急に波が高なってきた」
「何か起こるのかもしれないよォ」
「なんで分かるん?」
「……慌てて逃げてるもん、あの猿面達」
ケアノスは先ほどの船を指差す。船はどんどん小さくなっていく。空と同じくマオの表情も曇る。
「ヤ、ヤバいんとちゃうか!?」
「かもねェ」
他人事のように返してくるケアノスを他所に、マオは一人操舵室に戻ってアレコレ操作し始めた。
「潜水モードに移行や、バラストタンクへの注水を開始。全速力でこの海域を抜けるで!」
「わお、流石は船長。素早い判断力と決断力に脱帽ですゥ」
「うっさいわ! はよこっち来な閉め出すで!」
クスクス笑うケアノスが操舵室に入ると、ブラック・フェルム号は海中へと沈んで行く。完全に水に浸かると、マオはスクリューを起動させた。プロペラが回り始めて船速が上がる。激しい海流のぶつかり合いで持っていかれそうになる舵をマオは必死に押さえた。
双子岬を離れてからケアノスはマオを「船長」を呼んでいる。ブラック・フェルム号は元々マオの所有物ではあったが、改造費は全てケアノスが出資している為に現在の所有者は明確にされていない。それでもケアノスがマオを船長と呼ぶのには理由があった。
マオを七武海の一席に座らせるには、彼女がケアノスの上に立つ人物であると政府や世間に知らしめる必要がある。一番分かりやすいのがこの方法、親分と子分になる事だった。マオを船長として『螺旋の海賊団』を名乗り、目に入る海賊団は手当たり次第に半殺しの刑である。確実に息の根を止めるのは敵船長だけであり、末端の構成員は殺さない。
また、彼らが狙うのは海賊のみである。民間船や商船を襲わないのはマオのポリシーであり、海賊を皆殺しにしないのはケアノスの思惑であった。
荒れ狂う海と格闘する事約1時間。
ブラック・フェルム号はバラスト水を排出し、新鮮な空気を取り込む。
「……」
「……」
素晴らしい景色にも関わらずマオに対するケアノスの視線は痛い程であった。
「あは……あはははは、真っ白な世界やね」
「そりゃあ、雲の中だからねェ」
「あははは、そらえらい所に来てもたな……あははは」
笑って誤魔化そうとするが、マオの冷や汗は止まらない。
「誰だっけ? ボクの忠告も聞かずに『ウチのフェルムちゃんなら大丈夫や!』って突っ込んだの?」
「……あはは」
荒れ狂う海は
九蛇の住まうアマゾン・リリーへ急ぎ行きたいケアノスにとって、これは道草以外の何物でもない。
「ツッコミ入れたかったの? 海流に? それとも雲に?」
「うう……か、堪忍やぁ」
小さくなったマオを放置し、ケアノスは周囲を探る。
(これだけ空気が薄いって事は、かなりの標高だろうなァ。ボクは低酸素に慣れてるけど、マオには優しくない環境かもねェ。さて、どうやって地上に戻ればいいのやら……おやァ?)
さらに目を凝らすと遠くに海賊船が見えた。
しかし次の瞬間、海賊船は炎と煙に包まれて空の
「ここにも人がいるんだ……こっちに来てるし」
「へ?」
状況を理解していないマオは首を傾げる。
「あの乗り物は何だろう?」
ケアノスが睨む方向に目を向けると、鬼のような仮面を付けた人らしきものが雲の上を走っていた。手には重火器と盾を装備しており、友好の使者には見えない。
「げげっ、アンタ誰や!? 何の用や!?」
それは雲から飛び上がると、明らかな殺意を向けた。
「排除する……」
男の声である。
たった一言だけ発し、男は襲って来た。
「くそっ、やる気かいな!?」
マオは槍を構えて臨戦態勢に入る。
空中で重火器を構える男のは目を大きくした。さっきまでマオの横にいたはずのケアノスがいない。視界に捉えていたにも関わらず、忽然と姿を消したのである。
そして、男は背筋を寒くした。
「何するって?」
なんと背後からケアノスの声が聞こえたのだ。
「ッ!?」
動きどころか気配すら感じさせぬケアノスに男は慌てた。
乱暴に盾を振り回して強引に距離を取る。
(背後を取られるのってスピードで負けた気がして精神的にくるよねェ。自分が嫌がる事を人にやりなさいっていう師匠の教えは守らなきゃ)
男が振るう盾はケアノスに掠りもしない。
ケアノスは常に男の死角へと移動する。
(んな仮面、視界が狭まって邪魔なだけだろうに……羽まで付けて、オシャレのつもりかなァ?)
男は左右に首を振ってケアノスを探した。しかし、動きそのものが速過ぎて目では追えない。当たらなくても男は盾を振り回し続けた。
男の名はワイパー。この空島に住まうシャンディアの戦士であり、大戦士と崇められるカルガラの子孫でもある。非常に好戦的で過激な性格の為、人は彼を『
その戦鬼は仮面で隠れているが、怒りの形相であった。
(くそっ、後ろ取ってるのになぜ攻撃してこない!? 俺を舐めてるのか!?)
そうなのだ。ケアノスはワイパーの背後に回りつつも、その実一度も攻撃を行っていない。
(これほどの屈辱は……エネル以来だ……絶対に殺すッ!)
ワイパーの殺意が格段に増し、それに伴い反応速度も上がる。
そして徐々にではあるが、確実にケアノスの動きを追えるようになってきた。やみくもに振り回していた武器も、ケアノスの動きを予測したものに変わっていく。先回りしたかのように放たれるバズーカにケアノスは感嘆の声を上げた。
「へェ、大したモンだ。まだ速くなるんだねェ、"君も"」
「なに!?」
先回りした攻撃であった。
ケアノスの動きを予測し、今度こそ当たるはずの攻撃であった。
しかし、そこにいたはずのケアノスの姿はまた忽然と消えている。途端に背中がうすら寒くなり、咄嗟に盾を向けた。
すると、とてつもない衝撃がワイパーを襲う。盾は粉々に砕け散り、自身も船に叩き付けられた。
「ぐはぁっ」
口から血が溢れる。衝撃で内臓を痛めたのだ。
(くっ……全身がバラバラになりそうだ……
排撃貝とは与えた衝撃を吸収し、その威力を10倍以上にして放出するという貝殻である。ワイパー自身も隠し玉として持っているが、ケアノスは明らかに無手であった。向けられた掌には何も握られていない。
ケアノスの底知れぬ実力に舌を巻くも、ワイパーは頭の切り換えが速かった。
(どうやったかなんて今はどうでもいい。また同じ技を使ってきやがったら、こっちが10倍にして返してやるだけだ)
ワイパーはゆっくりと懐の排撃貝に手を伸ばす。
しかし、切り換えが速いのはワイパーだけではない。
「動くな」
今度こそワイパーの背筋は凍り付いた。
ワイパーは油断なくケアノスを見ていた。悟られぬように細心の注意を払って行動していた。それにも関わらず、ケアノスは今彼の背後にいる。
(バカな!? 奴ならまだあそこに…………ざ、残像だとッ!?)
ワイパーが見ていたケアノスは蜃気楼のように消えてしまった。
「まだ何か企んでそうだけど、止めといた方がいいよォ。これで"チェック"だ」
懐に伸ばそうとしていたワイパーの左手を引っ張り出す。
そして涼しい顔をしたまま、躊躇なくワイパーの左手首をへし折ったのである。
「がぁ……っ!?」
「あっ、痛かったァ? 解るよォ、ボクにも経験あるからねェ。でもさァ、急に襲って来たワケくらい聞かせてくれるかなァ?」
額に大粒の汗が浮かぶワイパー。仮面のおかげでケアノスに苦悶の表情を見られずに済んでいるのは不幸中の幸いだろう。
(くそっ! もっと早く排撃貝を使っていれば……青海人だと思い、油断した俺がバカだった)
ケアノスはワイパーの折れた左腕を後ろ手にして拘束する。
ワイパーの負けが確定したわけではないが、状況は極めて不利であった。
その状況を確認して、安堵の表情でマオが復活する。
「お、終わりか? ウ、ウチの出番はなしやな?」
「フフッ、この程度の相手に……船長が出るまでもないでしょ」
何気ない二人の掛け合いを聞いたワイパーは戦慄を覚えた。
(……この男は強い。恐らく四神官以上……下手したらエネル級だ。それが二人もだと!? 何者なんだ、こいつらは!? くっ、どうにか――)
驚異的な戦闘力を前に自身の不覚を悟ったワイパーではあったが、彼はまだ諦めていない。勝ったと油断している者にとっては、今この瞬間が一番危ういのである。
そして、機は訪れる。
「ウ~ム、吾輩の出番もなしである」
上空より突如響いた声に反応して、マオとケアノスの意識はそちらを向く。その一瞬をワイパーは逃さなかった。轟音と共にバズーカ砲が火を噴く。
「ケアノス!?」
「むむっ!?」
立ち上った煙でケアノスの安否は定かではない。
しばらくすると、甲板を伝って血が流れて来た。
「こ、これって……?」
一抹の不安にかられ、マオの足は自然と血の流れて来る方向に向かう。
「ケホケホッ……ごめん。まんまと逃げられちゃった」
煙の中にはケアノスが立っていて、怪我を負った様子はない。ダメージと言えば、服が汚れたくらいであった。そして甲板には肘から先だけとなったワイパーの左腕が転がっている。
「じ、自分の腕ごと撃ちよったんか!?」
「殺気は感じなかったから、ボクを狙ったんじゃないと思うけどね」
「逃げる為だけにやったっちゅうんか!?」
「たぶん……ね。ところで
空を見上げて問う。
甲冑を着込み鳥に乗った老兵はゆっくりと降りて来た。
「吾輩"空の騎士"である。おぬしら青海人か?」
「……正解だよォ、クヒヒ」
「言うとる場合か! 青海人って何やの?」
ズビシッとマオのチョップが炸裂する。
空の騎士に話を聞くと、雲下に住む人達の総称だと言う。「やっぱり正解じゃん」と呟くケアノスにもう一発チョップをお見舞いしたマオは「此処がどこなのか」「あれは何者だったのか」矢継ぎ早に尋ねた。
苦笑する空の騎士であったが、質問には律儀に答えてくれる。騎士の話によると、此処は高度7000mの「白海」と呼ばれる層であり、ワイパーはゲリラの一味との事だった。
「ゲリラか。物騒な連中もおるんやな。ほんでおっさんがフリーの傭兵なんや」
「うむ、そうなのである。しかし……ビジネスの話をしたかったのだが、おぬしの強さには驚かされたぞ」
「……」
空の騎士はケアノスを褒めたが、ケアノスに反応はない。ただ一点を見つめて――。
「ピエー! ピエーッ!!」
「むっ、どうしたのだ? ピエールよ」
ピエールと呼ばれた水玉模様の鳥は怯えた様子で鳴く。それはまるで何かを警戒するかのようであった。
「むむ、まさか……おぬし、
空の騎士は訝しむ目でケアノスを見た。
「邪だなんて心外だなァ。ボクはただ……あの鳥は焼いたら上手いのか「ピエエェェェ!!」なって」
「お、落ち着くのだ。ピエールは吾輩の相棒である。焼き鳥になど断じてさせぬぞ!」
「アッハッハッハッハ、冗談だよォ……半分ね」
「ピエエェェェエエ! ピエエエエェェェエッ!!」
半ば錯乱状態に陥ったピエールを空の騎士がなだめるも、なかなか落ち着かない。
「このままでは話が出来んな。すまぬが一旦帰らせて貰うぞ」
「あっ、ちょい待って。おっさんの名前教えといてェや。ウチはマオ、こっちがケアノスや」
「我が名は空の騎士ガン・フォール! そして相棒ピエール!!」
「ピエエエエエ!! ピエエエエェェェエ!!」
ピエールは激しく翼をバタつかせた。
カッコ良く名乗りを上げたのに、ピエールが全てを台無しにしてしまう。
「さ、さよか……」
「……言い忘れたが、我が相棒ピエールは鳥にして"ウマウマの実"の「ピエエー!!」能力――ピエール!? まだ最後まで言い終わっておら「ピエェェエエ!!」ぬ――ピエールッッ!?」
ピエールは翼の生えた馬――ペガサスに変身して飛び立っていく。
「ま、まぁ何や……世の中には変わった生物がおるっちゅう事やな」
マオは少し空の騎士に同情した。
「あの鳥ってさァ……ぶっちゃけ、めっちゃキモいよねェ」
「……」
何も反論出来ないマオは、ピエールにも少しだけ同情するのだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。