我輩はレッドである。 作:黒雛
ポン――と、投げる。
ポン――――と、投げる。
レッドはベッドに寝転がり、お手玉のように“モンスターボール”を真上に投げていた。
西に落ちる太陽の陽射しは黄昏色に染まり、薄いカーテンを透かして室内を幽玄に染め上げる。窓の向こうから帰途についているだろう少年少女の賑やかな声が響いていた。
ほんの数日前までは自分もあの光景に加わってたんだよな、と郷愁の念を感じながら苦笑を滲ませ、“モンスターボール”を夕日に照らし合わせた。クリアになっている赤い上部分を覗き込むと、小さなボールの中にレッドの理解を超えた大量の機械部品が詰め込まれているのがわかる。“モンスターボール”の中は快適だと聞いたことがあるが、果たして本当だろうか。
このボールの中に、ラティアスを入れる。
言葉にするのはびっくりするくらい簡単だ。
しかし、実行するとなると難しい。
レッドはラティアスを野生に帰すべきだと思っている。
いや、思っていた。
ナナミに言われた言葉が頭の中でグルグルと回る。野生に帰した方がラティアスの幸せになるはずだが、人間がラティアスを放っておかない。珍しいポケモン。準伝説の枠組みに入る――強力なポケモン。入手しようとするトレーナーは星の数ほどいるだろう。その希少性に目をつけて黒い売買をするブローカーや生態調査をしたい研究員だっているかもしれない。その魔の手を掻い潜り、自由の世界に飛び出すなんて、とても彼女にできるとは思えない。
だけど、だからとラティアスを捕まえようとするのは違うんじゃないだろうか。
だってまるで事情を盾にラティアスを捕獲しようとしているみたいだ。もしラティアスに他の人間と同じ穴の狢であると、あの無邪気な瞳に冷たく見つめられてしまった場合、立ち直る自信はどこにもなかった。
結局――どうすればいいのか。
わかっているのだ。どうすればいいのか、そんなのわかりきっているのだ。
素直に口にすればいい。真っ直ぐ言葉にすればいい。
一緒にいたい――と。
これからもずっと一緒にいたい――と。
そして手を差し伸ばせば――それでいいのだ。
それだけの話なのだ。
――しかし、そのたったそれだけのことが、できない。
レッドは既にラティアスのことを家族同然の存在と思うようになっていた。
臆病なくせになにかと興味を示したがる幼い少女のような、手間のかかる温かな存在。
両親がいないレッドの心は密かにぽっかりと穴が空いていた。そのピースは決して埋まるはずがないと思っていた。
家族という温もりのピースは、もうどこにもありはしないのだと前世の記憶が甦る以前から諦めていた。
問題児として名を馳せたその行為は生来のものだが、同時に他者に構ってほしいという想いも強かった。大人たちがあまり強くレッドを説教しないのも、そうした背景をキチンと見抜いてのことだった。
しかし、ラティアスと出会うことにより埋まるはずのなかった空白が少しずつ小さくなっていったのだ。
おはようと言うたびに。
ご飯を食べるたびに。
同じ布団で寝て、おやすみなさいと言うたびに。
心に空いた穴が温もりに満たされつつあった。
手間のかかる彼女の存在が、とても愛おしく感じるようになった。
今も前世も、周りの大人や友に恵まれながら、唯一――家族にだけは恵まれなかったレッドには家族というものが、どういうものか正直言うとわからないのだけれど、
妹がいたら、こんな感じなのかな――なんて思う。
だからきっと――運命に出会ったと感じたのは間違いじゃなかった。
だけど、それはレッドの気持ちでしかなくて。
ラティアスは一体どう思っているのか、レッドは知らない。
だから踏み込めない。
この想いが一方的なものにすぎなかったらどうしよう、と逡巡してしまう。
伸ばした手を振り払われる可能性がどうしようもないくらいに怖いのだ。
拒絶されるのがどうしようもないくらいに怖いのだ。
「――――アホか。告白できない乙女じゃないんだから」
優柔不断な自らに自嘲を浮かべ、有りっ丈の嫌悪を込めて吐き捨てる。
握りしめる“モンスターボール”は、本当に――――重かった。
そして、ついにその日は訪れる。
◇◆◇
――レッド宅・庭。
身体に巻きついた包帯を取る。
最初は手間取った作業も今は随分と手馴れたものだ。包帯を巻き取ると、昨日まであった傷はすっかり塞がり、本来の美しさを取り戻した姿がそこにあった。
やっと傷と包帯から完全に解放されたラティアスは嬉しそうに飛び回り、元気良くこちらに戻ってくる。
レッドは感傷に浸りながらラティアスの頭を撫でる。心地良さそうに目を閉じるラティアスを見て、相反する嬉しさと哀しさが入り混じった複雑な気持ちになった。
「良かったな、ラティアス」
ラティアスは喜色に満ちた鳴き声と一緒に頷いた。
「そんじゃ――お別れだ」
「――――……?」
ラティアスはなにを言われたのか理解できず、その笑みのまま首を傾げる。
レッドは笑みを貼り付けて笑った。
「どうしてそこで首を傾げるんだよ。元々怪我が治るまで俺が預かるっつー話だっただろうが。で、今日を持ってお前の傷は完全に治った」
呼吸を一つ。
「だからここでお別れだ」
ラティアスの表情が、少しずつ変わる。
哀しい色に――変わる。
「そんな顔をすんなよ。お前はもう大丈夫だ。ここを飛び出したら、高度を上げて全力で空を駆け抜けろ。お前に秘められた才能はアホみたいに高いんだ。絶対にトレーナーに捕まるなんてことにはならないさ」
ふるふると首を振る。
その目は、別れたくないと語っていた。
揺らぐ――揺らいでしまう。
けど、ダメなんだ。
その選択はきっと、一時的な感情によるものでしかない。
人を恐れるラティアスは、ここにいるべきじゃないんだ。
「ラティアス、お前にはお前の帰るべき場所があるだろう? 生まれ落ちた場所があるはずだ。お前を産んだ親がいるはずだ」
ふるふると。
固く、目を閉じて――拒絶する。
嗚呼、そんな姿を見たくないから遠ざけようとしているのに。
言ってしまいたい。
己の本当の気持ちを。
だけどそれは、きっとラティアスの幸せに繋がらないから。
「お前の親は、きっとお前を探しているはずだ。親は、たぶんそういうものなんだと思うぞ? 俺の幼馴染の両親がそうだったからさ」
だけどラティアスはやっぱり首を左右に振って、
キュッと下唇を噛みしめたレッドは感情のすべてを水底に沈め、ラティアスを突き放すため、声を荒げようとした――――そのとき、
「――見ぃーつけた♪」
その悪を醸成したような粘着質な声音に、ぞくり――と背筋に悪寒が走る。
眼前にいるラティアスの視線がレッドの背後に向けられて、その表情が恐怖一色に染まり上がった。鮮やかな赤と白の体躯が恐怖の度合いを示すように打ち震えてしまっている。
振り返ることもなくレッドは理解した。
そいつがラティアスを傷つけた張本人なのだと。
カッと頭に血が昇るのを感じたレッドは即座に理性を取り戻し、激情を押し殺しながら振り返る。
あくまで平静を――鈍感な子どもを演じるようにきょとんを首を傾げて見せながら、男の姿を認める。
ずっと長旅をしていたのか、手入れをされず色んな場所に跳ねている乾燥した黒髪とくたびれた服装。長身痩躯の身体をひょこひょこと揺らしながら、男は醜悪な笑みを浮かべていた。
じとりと不気味に濡れた蛇のように猛禽な瞳は正確にラティアスを貫いている。
「まさかこんな田舎町に逃げ込んでいるとは思わなかったよ。おかげで色んな場所を探す羽目になっちまったんだぜ。これも偏にお前に抱く迸る愛情ゆえって奴だな~」
耳を塞ぎたくなるような不快な声だ。
ラティアスが男と距離を取ろうとしたところに、男はすかさず声を飛ばした。
「おーっと! もしかしてまた逃げるつもりだったのかなあ? ダメだよぉ。俺ってばお前を探すためにたくさんの労力を注ぎ込んだわけよ。なのに、また逃げ出したら今までの努力もぜーんぶ水の泡になっちゃうじゃない。さすがにそれは許容できないかなー? 許容できないよ? 俺ってば、そこまで裕福なわけじゃないからそんな余裕はありませーん」
きっとわざとやっているのだ、この男は。
わざと聞く者を不快にさせる喋り方をしている。
「というかお前を捕まえるのも金策のためだし? 俺、お前のことはもう少し賢いポケモンだと思っていたよ? ちょっとがっかりだわ。だってさあ――あれほど痛めつけてやったのに、まだ理解できないの?」
そして告げる。
「――お前は俺から逃げられないよ」
ラティアスの恐怖が限界を迎えようとした、その瞬間。
「レッドくんの攻撃! すなかけ!」
レッドの行動は早かった。ぐりぐりとかかとで地面を抉り、土を柔らかくしていたレッドは、男の視線がラティアスに集中していたのを良いことにギュッと砂を握りしめ、男の顔面に投げつけた。
「ぐあっ! テ、テメェ、なにしやがるクソガキ!」
男は顔を覆いながらもう片方の腕を振り回すが、身長差がありすぎてその攻撃は空を切るばかりだ。
即座に反転して逃げようとしたレッドは、しかし念には念を込めて追撃する。
「レッドくんの攻撃、その二。けたぐり! 急所に当たった! 効果は抜群だ!」
「はう――――――ッ!!」
もちろんわざとだ。男の急所といえば、一つしかない。
男は悲鳴を上げる余裕もなく崩れ落ちて悶絶している。
「天に召します我らが神よ。ここにまた一人、ある男の息子がそちらに向かいました。願わくば迷える子羊に容赦のない裁きの鉄槌を――ラーメン。あ、醤油味で!」
人差し指と中指を立て、ススッと十字を切る。
「逃げるぞ、ラティアス」
レッドはラティアスの手を引いて走り出した。
本当はまだ煽りたい。悶絶している男の頭を踏んづけて「NDK? NDK?」と嘲笑い、徹底的に仕返しをしてやりたかった。しかしラティアスを逃がすのが先決だった。
(どうする? どこに逃げる?)
走りながらレッドは考える。
人に頼るのは無理だ。ラティアスは未だ野生に分類されている。男が人々に野生のポケモンを捕まえようとしているんですと表情を取り繕うとアウトだ。男がしようとしていることは傍から見ればトレーナーのソレなのだから。
もしかしたらマサラタウンの人たちはこっちの味方をしてくれるかもしれないけど、ああいう相手がなにをしてくるかわからないし、このマサラタウンに凄腕のトレーナーなんていない。
迷惑はかけられない。
(やっぱこのままラティアスを逃がすしかないよな)
すっかり恐怖で縮こまっているラティアスに申し訳なさを感じながらレッドはマサラタウンを抜け出した。