我輩はレッドである。 作:黒雛
レッドとラティアス ①
切っかけは、一匹のポケモンと出会ったことだった。
その頃のレッドは、無邪気で好奇心が強く、自分のポケモンを持たないのに大人の言いつけを聞かず、頻繁に草むらに飛び込んでいた。
ポケモンを見るのが好きだったのだし、刺激が欲しかったのだ。
レッドの生まれ育ったマサラタウンは、豊かな自然に抱かれた純朴な田舎町であり、とても空気が美味しい穢れのない風土をしていた。ポケモン研究の第一人者であるオーキド博士がマサラタウンに研究所を構えたのは、彼がこの町の出身者であると同時に、こういう背景もあってのことだろう。
大人にとっては、とても過ごしやすい平和な町。
しかし、子どもにとっては、退屈な町だった。
だからレッドは刺激を求めた。
子どもながらの浅はかな思考。己の欲求を満たすためならオーキド研究所に向かい、博士の保管しているポケモンを見せてもらえば良かったのだ。
しかしレッドはそれをしなかった。オーキド研究所は町のはずれにあり、少し遠いし、レッドの家からは野生のポケモンが生息している外の世界の方が近かった。それに草むらに飛び込むと冒険をしているみたいな気分になるし、同い年の子どもに自慢すると羨ましそうな顔をしてくれるのがレッドの自尊心を満たしてくれた。
その日もレッドは大人の目を盗んで、しめしめと笑いながら外の世界――子どもが歩ける範囲の小さな世界を冒険した。
ポッポ、コラッタ、オニスズメ。
カントー地方においてもっとも生息数が多いと言われているポケモンたちだ。
今までは彼らをジーっと観察しているだけで満足していたのだが、次第に欲が出た。今日は張り切ってもう少し遠出をしよう、と歩を進めたのだ。
草原を歩き、草むらをかき分け、木をよじ登り、新しいポケモンとの出会いを求めた。
そして――“運命”と出会った。
そのポケモンは傷だらけだった。背の高い草むらに身を隠すように倒れ伏しているポケモンは明らかに瀕死であり、このまま放置していたら間違いなく死んでしまうと子どものレッドでも理解できた。
レッドは無邪気で好奇心が強く、悪戯っ子な少年だが、根は真っ直ぐで傷ついた相手には手を差し伸べることのできる優しさがあった。
だから手を差し伸べようとした。
しかしポケモンは、その手を振り払った。
レッドの存在に気づくなり威嚇するように唸り、傷だらけの身体に鞭を打ってレッドに敵意を向けていた。
――実は、このポケモンは、自分を捕獲しようと企む人間から必死に逃げていたのだ。人間の使役するポケモンに傷つけられながら、安息を求めてこの地に迷い込んだ。
だが、幼いレッドにそんな裏事情が把握できるわけもなく、正義感のまま行動した。
大人たちに後で怒られることになるだろうが、このポケモンをマサラタウンに連れ帰り、手当てしてもらおうと思ったのだ。
その結果、手痛い反撃を受けた。
――“サイコキネシス”。
強力なエスパーポケモンが使用する強力なエスパー技は、頭が割れるような頭痛を招き、レッドの意識を一瞬で刈り取った。
このポケモンは賢い生き物だった。
レッドの行為が純粋な厚意からきていることは分かったが、それでも、怖かったのだ。人間を信じることが、怖かったのだ。
反撃は反射的だった。あ――と正気に戻った頃にはレッドは気を失っていた。
ポケモンは罪悪感を抱きながら、なんとか起き上がり場所を移そうとしたのだが、ここで驚くべきことに気を失ったばかりのはずのレッドが目を覚ましたのだ。
驚異的な回復力だった。
目を覚ましたレッドは、どこか様子が違っていた。幼い顔立ちには不釣合いの――しっかりとした知性と落ち着きのある瞳をしていたのだ。
そして――レッドはポケモンを見るなり驚愕に目を見開いた。
真紅の双眸を丸くして、呆然と口にする。
その――知るはずのないポケモンの名前を。
「――ラティアス」
◇◆◇
はじめに言っておく。
これは断じてネタじゃない。
確かにネタとして頻繁に使用される文法だけど、今回ばかりはネタじゃないから萎えたりしないでほしい。お願いだから。
えーと――ありのままに今起こったことを言おう。
俺は、傷だらけのポケモンを手当しようと近寄ったのだが、“サイコキネシス”の反撃を受けた反動で前世の記憶……が甦ったんだ。しかも前世の記憶では、この世界は“ポケットモンスター”というゲームを舞台にしたRPGらしいのだ。な、なにを言っているのかわからねーと思うが――以下略。
そんなわけでレッドは奇妙な前世を思い出したのだ。
ここが――この世界が、前世において社会現象となるまでに至った国民的ゲーム――ポケットモンスターの世界であると。ポケットモンスターがどういう世界か――それを説明する必要はないだろう。大事なのはレッドが前世の記憶を思い出してしまったというところだ。
レッドは、その前世の記憶により眼前にいる傷ついたポケモンが何なのか理解した。
赤と白を基調にした戦闘機のようなシルエットのポケモン。
――ラティアス。
ドラゴンとエスパーの、二つのタイプを持つ“むげんポケモン”
いわゆる――準伝説と称される希少性の高いポケモンだ。
そんなポケモンがどうしてこんなところに――という疑問は、今追求するべきことじゃない。
そっち方面に回転しようになった思考に渇を入れ、レッドは素早く立ち上がった。
「お前――そう、ラティアス。お前は確か人間の言葉を理解できる生き物だったよな? だったら少し待ってろ。傷薬を持ってくるから!」
レッドの突発的な行動にびっくりしたラティアスだったが、レッドはそんな様子に目をくれず踵を返して全力でマサラタウンに引き返した。
「えーと、確かマサラタウンにはフレンドリィショップはなかったよな? チッ、もう頼りにならない田舎町だなぁ、ホント!」
どうする? どうする? とレッドはマサラタウンに急ぎながら思考を働かせる。
サイコキネシスの影響か、はたまた前世の記憶を取り戻した影響か、頭痛が酷い。ガンガンと殴りつけるように内側から悲鳴を上げる頭に顔を顰めながらマサラタウンに到着した。
「そうだ! ライバルキャラのおねーさんっ」
ゲームの設定か漫画の設定か忘れたが、確かライバルキャラの姉であるナナミは、ポケモンコンテストに優勝した実績を持つポケモンコーディネイターだったはずだ。
ポケモンコーディネイターならきずぐすり――もしくはコンテスト用にポケモンを育成する過程で、きのみを扱っているはずだ。“オボンの実”なんて贅沢は言わないから、せめて“オレンの実”があれば……!
こんな設定まで覚えている前世の自分にドン引きしながらライバルキャラの自宅――つまりオーキド博士の自宅へ急ぐ。前世の記憶だけなら目的地がどこあるのかわからないが、レッドとして生きた記憶もはっきりと存在する。好奇心旺盛だったレッドにはマサラタウンなど狭い庭のようなものだ。どこに誰が住んでいるかなんて記憶を探るまでもない。
全力疾走するレッドの尋常ならざる表情に何事か、と住民の視線を集めるが、レッドはそれに気づくことなく最短ルートでオーキド邸に到着する。
「頼む……っ」
どうかおねーさんが在宅していますように、と願いながらインターホンを押した。
肩で大きく息をしながら呼吸を整えていると「はーいっ」と玄関の向こうから女性の声がした。
ホッと安堵の息をこぼす。玄関の扉が開き、目的の人物であるナナミが姿を見せた。
茶色の長髪に翡翠の瞳を持つ優しそうな美貌の持ち主だ。
「あら? レッドくん、どうしたの? グリーンならまだシジマさんのところから帰ってきてないわよ」
先も言ったが、ここは田舎町だ。レッドがほとんどの住民を把握しているように、ここの住民もレッドのことを把握している。町一番の好奇心の塊なら尚更だ。
「グリーンのことが聞きたいんじゃありません! ナナミさんって確かポケモンコーディネイターでしたよね!?」
「え? そ、そうだけど……」
只ならぬレッドの表情に気圧されながら、
「――レッドくんが敬語!? あのレッドくんが!!?」
「いいから! そういうの、今めっちゃいらない件だから!」
夢でも見ているの? と目を擦るナナミに、レッドは数分前までの己の振る舞いを後悔する。いや、まだ八歳児だし、敬語を使わないのはおかしな話じゃないのだが……。
「さっき外で傷だらけのポケモンを見つけたんです。もし“きずぐすり”とか傷を治す木の実があれば分けていただけませんか!?」
「――分かったわ。すぐに持ってくるから!」
さすがオーキド博士の孫というべきか、ポケモンに注ぐ愛情はかなりのものだ。ほとんど反射的に頷いて家の中に踵を返した。
家の中でじたばたと騒がしい音が響き、ナナミが救急箱を持ってくる。
「レッドくんっ」
「ありがとうございます!」
「あっ」
レッドは救急箱を引っ手繰るように取り、走り出した。
「大丈夫!? 私もついて行こうか!?」
「だいじょーぶですッ!」
走りながら首を捻り、横目で後ろを見ながらナナミに一礼する。
レッドくんがお礼……!? 頭を下げた……!? と慄いているナナミに苦笑しつつレッドは現場に戻る。
「ラティアスは……いた!」
どうやらレッドの忠告を無視して逃げるつもりだったのか、ラティアスは身体を引きずるようにずるずると少しずつ移動していた。
「ちょ――ストップ、ストップ! これ以上はマジでやばいって」
慌ててレッドが駆け寄るとビクンと身を竦ませて抵抗しようともがくラティアスだが、とうとう精神が限界を迎えてしまったのかぱったりと倒れ込み、今度はラティアスが気絶することになった。
「おい、大丈夫か! おい!」
レッドは蒼白な顔色でラティアスに駆け寄り、生死の反応を確かめた。
命の灯火はまさに風前といったところだが、辛うじてまだ生きている。
「――ったく、心配かけさせやがって。……つっても無理ないか」
前世の記憶を取り戻したことにより、ラティアスがここまで傷だらけになった経緯を大体察したレッドは、ラティアスの頭を優しく撫でてから救急箱を開く。
「てきぱき、てきぱき」
とか言いながら、その実たどたどしい手つきでばい菌を洗い流し、スプレー式の“きずぐすり”を吹きかける。
「染みるかもだけど、我慢しろよ」
気を失ったラティアスの表情が歪んだことに心の痛みを感じつつ、額に汗を滲ませながらレッドは包帯を巻いていく。
最後にハサミでパツンと包帯を切り、
「よし、完了っと」
ふう、と額に滲んだ汗を拭い、尻餅をついた。治療なんてほとんどした経験がないから精神的にかなり疲れてしまったのだ。
木に背中を預け、空を見上げる。突き抜けるような青い空を悠々と泳いでいるのは、オニドリルだ。
「あ、不遇ポケモン」
実に失礼な発言である。もしオニドリルが聞きつけようものなら「メガ進化させろや公式ーッ!」と泣き叫びながら急降下からの“ドリルくちばし”がレッドの小さな身体を貫通することになるだろう。
「本当にポケモンの世界なんだよなー……」
しみじみと、呟く。レッドとしての記憶と前世の記憶が複雑に絡み合い、何とも言い難い奇妙な感覚が胸中に渦巻いていた。
前世の記憶はポケモンの世界に転生したことに喜び、今の記憶はこの世界に生まれ生きていることを当たり前のように捉えていて、互いの記憶と感情がまるで噛み合っていないのだ。
だから浮き足立つというか、微妙に現実感が沸かない。夢でも見ているのだろうか、と本気で勘繰り、試しに両頬をサンドイッチしてみる。
なるほど、痛い。現実ですね。わかります。
すりすりと頬を撫でながら近くの小池に歩み寄り、水面を覗き込む。
きれいな水面に映ったのは、あと十年も経過すればかなりの美男子になるだろう将来性が確約された少年の姿が。
さらさらと風に揺れる艶やかな黒髪に真紅の双眸。線の細い華奢な体躯――
「――って、pixivレッドかい!」
どうしよう。原点にして頂点の代表的存在だ。やだ、恥ずかしい!
レッドは泣きたくなった。公式の姿がよかった。これじゃただのパチモンだ。いや、中身がもうパチモンなんだけれども。
「これからどうすっかなぁ」
うーん、と頭を悩ませる。
それは将来の話ではなく、このラティアスの話だ。
最低限の手当てを施すことには成功したが、それではい終わり、と別れるのは気が引けた。もし、このラティアスが成熟していたら余計なお節介になるのだろうが、その赤と白の体躯は小さく、一目で幼生のソレだとわかる。
不安だ。とても放っておけなかった。
せめて無事に旅立つ瞬間を見届けたい。
治療を続行するなら、やはりマサラタウンに運ぶのが一番だ。幸い――という言葉は不謹慎だが、レッドは八歳ながら一人暮らしをしているので自宅に連れ込む自体は問題ないのだ。
問題は、このラティアスはレッドに“サイコキネシス”を放ったように、人間に強い警戒心――というか敵愾心を抱いているということ。人間の集落で目が覚めれば、パニックのあまり大暴れする可能性がある。
幼生とはいえ、ラティアスは高い能力値を保有する準伝説のポケモンだ。暴れ回る準伝説の猛威は、きっと恐ろしいものだろう。
「……けど、やっぱ放っておけないよなぁ」
怖くないと言ったら嘘になる。
だけど心配の方が上回った。
逡巡し――多少の被害は覚悟の上で、レッドはラティアスを抱きかかえた。
◇◆◇
「あー、つっかれたー……」
時は夜。
身も心もすっかりへとへとになったレッドはリビングのソファに身を投げた。ふかふかのソファに身を沈め「ウヴォァー……」と言葉にならない呻きを上げている。
もう色々と限界だった。
ラティアスを寝室のベッドまで運び、寝かせたのはいいのだが、おかげで肉体的疲労はピーク。明日は筋肉痛に苦しむことが決定したようなものだ。
へとへとのレッドに追い討ちをかけたのはナナミである。
オーキド邸に飛び込んだときは事情が込んでいたためナナミはあることをスルーしてしまったのだが、よーく考えるとレッドはまたポケモンを持たないまま外に飛び出す危険な行為をしていたのだ。レッドを見送ってからそのことに気づいたナナミは、救急箱を返しにのこのこやって来たレッドを捕まえてお説教を開始した。
両親がいないレッドは、マサラタウンの大人たちで面倒を見ることになっており、ナナミもレッドの面倒をちゃんと見ようと心に決めていたのだ。ナナミはまだ十代前半と若いが、女は心身ともに男より成長が早いものだ。しっかり者のナナミは既に責任感や子どもを慈しむ母性に目覚めていた。
そんなわけで精神的にも致命的なダメージを負ったレッドは死に体を晒していた。パトラッシュ、僕はもう疲れたよ……と若干デッドエンドに片足を突っ込んでいるような気がしないでもない。
このまま睡魔に身を委ね、熟睡したい気持ちが強いが、ラティアスの面倒を見る必要があるので、迂闊に寝入ることもできない。
溜め息をついて、レッドはまるで鉛を引きずるような鈍重な動きでソファを降りてキッチンに向かう。もう一挙一動が面倒くさそうだ。
「ポケモンって人間の食べ物でも大丈夫だったっけ?」
記憶を探るが、ポケモンを入手したことのないレッドに一般的なポケモンの育成の仕方などわかるわけがない。本当なら栄養満点の美味しい料理を作ってあげたいところだが、今日はナナミのところから頂戴した木の実で我慢してもらうことにした。
冷蔵庫を漁り、入っている食材を使い軽いものを作り、食べる。洗い物をしているところで――もうほとんど限界だった。
「あー、ねみぃ」
うつらうつらと舟を漕ぎ、今にも倒れてしまいそうだ。何度噛み殺しても欠伸は一行に止まる気配を見せない。
「もうダメだ。マジで限界」
キュッと蛇口を捻り、洗い物を中断したレッドはぼやけた視界のまま寝室に到着した。
「一筆くらいしとくか」
フラフラしながら一枚の用紙に文字を記し、その上に貰った木の実を四つ乗せる。もうほとんど意識はなかった。
ベッドはラティアスが占領しているのでもぐり込むことは不可能だ。
そこに不満は一切ない。もう寝ることができるならどんな場所でも文句を言わないレッドはカーペットに寝転がり、クッションを枕代わりにした。
意識は暗転する。
◇◆◇
ラティアスが目を覚ましたのは、時計の針が深夜二時を指した頃。
チクタクと秒針を刻む大きな古時計が心地良いSEとして優しく反響していた。
マサラタウンの夜はとても静かだ。窓を覗けば、そこは一面の夜。軒並みに明かりは一つとしてついておらず、深夜を徘徊するガラの悪い連中もいない。
穢れのない――居心地の良い静寂がそこにあった。
柔らかな――それでいて暖かな感触に相好を崩していたラティアスの目覚めは快適の一言だった。
しばらくこの温もりを手放したくなくて、起き上がることはせずうっとりとその温もりに身を預ける。
こんな心地良い環境で寝たのは生まれてはじめてだった。
一つ、身じろぎをしようとして――ズキンと走る痛みに思わず顔を顰めてしまう。
思い出す。
自分は人間が繰り出したポケモンの攻撃によって傷だらけになっていたのだ。
醜悪な笑みを浮かべてポケモンに指示を出すトレーナーの姿が脳裏を過ぎり、ラティアスはギュッと目を閉じた。
――怖い。とても怖かった。
自分が弱るたびに意気揚々と指示を続け、モンスターボールを握りながら嗤うトレーナーの姿に、ラティアスは反抗心をへし折られ、ただひたすら逃げることに集中した。
彼女は、ラティアスというポケモンは極めて高い能力を秘めている。幼生だろうと普通のポケモンくらいなら小蝿を払うように打ちのめせるはずなのだ。
だけどラティアスはそれをしなかった。
彼女は、臆病な性格だった。
傷つけるのも、傷つけられるのも嫌だった。
静かに安らかに、戦いとは無縁の静かな場所で暮らしたいのが本音だ。
ここはまさにその理想なんじゃないか、とラティアスは恐る恐る顔を上げた。
――そういえば、ここは一体どこなんだろう?
きょろきょろと周囲を見渡し、気づく。
ここは野生のポケモンなら一生目にすることのない人間の住処なのだと。
「――――――ッ!!」
ラティアスは一瞬で恐慌状態に陥った。
痛む身体を無視して飛び起きた彼女は形振り構わず窓から飛び出そうとする。
そのとき、ラティアスとは別のところから寝返りを打つ音が聞こえた。
振り返ると、床に敷いたカーペットに寝転んでいる少年がいた。熟睡に入っているらしくすやすや寝息を立てたまま起きる様子はこれっぽっちも見せない。
――この人……。
ラティアスは意識を失う寸前に出会った少年なんだと気づいた。
恐怖に昂揚していた気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻していき、ラティアスは逡巡した末、逃げることを止めて、おずおずとその場に留まった。
怖くないといったら嘘になる。だけど、自分のことを心配してくれた少年のことが気になった。
ラティアスは気配や敵意に敏感な生き物だ。
だから――わかる。
この人は打算を抜きに、自分のことを助けてくれたのだ――と。
どうして、と戸惑う気持ちが七割と、残り三割は素直な善意を向けられたことによる喜びだ。人に傷つけられたラティアスは人の好意と善意にどうすればいいのかわからなかった。
傷を負った身体はまだ痛い。しかし前よりずっと良くなっていた。少し過剰に巻いている包帯もきっとこの人がしてくれたのだろう。
少し、気まずさを感じてラティアスは視線を逸らした。
視線を逸らした先に木の実が置かれていた。そばには『食べていいぞ』と書きなぐった置手紙がある。
「………………」
そういえば逃走劇を繰り広げてから、逃げることに必死でなにも食べていなかった。
食べ物を認識すると、露骨なくらいにお腹が鳴り、ラティアスは恥ずかしくなった。
少し、迷い、手を伸ばし――意を決してしゃくりと木の実に齧りついた。
「――――!」
口いっぱいに広がる甘味に、思わず目を丸くする。幼いながら各地を点々としてきたラティアスは色々な食べ物を口にしたが、こんなに美味しい食べ物を食べたのははじめてだった。
ラティアスは知らないが、この木の実はポケモンコンテストで優勝経験のあるナナミが大切に育ててきたものだ。木の実がコンテストに密接な関係がある以上、ポケモンコーディネイターの彼女が手塩にかけて育てないはずがなかった。
あっという間に一つ目を食べると、二つ、三つ、四つとラティアスはぺロリと皿に乗っていた木の実を完食する。ぺろりと口元についた果汁を舐めて、満足げな吐息をこぼす。
それから、再び少年に目を向ける。
ジーと、見る。
人間のことはあまり好きじゃない。
自分を傷つけた。一度や二度じゃない。何度も、何度も。安息の地なんて――どこにもなかった。人間が取り上げてきた。物珍しさに、身勝手に、こちらの気持ちなどお構いなしに欲望の牙を剥く。
だから、嫌いだ。
でも――――だけど、この少年には、嫌悪感が湧いてこない。
助けてもらったから?
しかし自分はそんなことを頼んだつもりはない。少年も今までの人間と同じように身勝手に行動したのだ。
余計な、余計なお世話だと吐き捨てることは――――できなかった。
身勝手なベクトルが今までの人間と違うから?
たぶん、それもある。だけどそれ以上に――運命のようなものを感じていた。
「………………」
くしゅん、と少年がくしゃみをする。少年は掛け布団もなく薄着のまま熟睡していた。
自分が居座るベッドを見下ろす。そこには毛布と掛け布団が重なり合っていた。
ラティアスは厚みのある掛け布団を掴み、少年の身体にかけた。
まだ信頼しているわけじゃない。
だけど。
この少年のことをもっと知りたいと思った。