旅行から帰って来てから、いや正確には旅行から帰り、その日の夜に鉄心から声を掛けられてから百代は変わった。性格ではなく、普段の表情・行動が。まるで最上の獲物を得たかのように。そして同時に常に体の中の気を循環するようになった。
一思いに打ち込まれた気を洗い流すことなく、力任せにそのあまりに曖昧で捉え所のない気を自らに馴染ませ、認識し、自らの糧とするように丁寧に気を循環させていく。
ジジイから指摘されて初めて気付くことになるとはな……
旅行から帰り、風呂上りに祖父である鉄心に体を流れる気が変だと指摘されるまで百代は気づかなかった。静かに体の中に気を巡らし、自らに感知出来る範囲を広げるように集中すると自らの気に紛れ込むように巧妙に隠ぺいされた他者の気の流れが存在した。感知をより正確にしようと体内の気の流れを速めようとすればかなりの気だるさに身を包まれた。
「おい、ジジイ! 誰がやった」
「さてのー、モモの方がよくわかっているだろうに」
「思い当たらないから言っている!」
溜息を吐く鉄心。
「ホントに思い当たらんと言うのかの? 旅行に行く前はそのような状態にはなっとらんかったと言うのに」
その言葉で旅行中にあったことを思い浮かべていく。そして思い至ってしまった。いや、鉄心が指摘しなくとも自らの不調と旅行とを関連付ければそれだけで自分でも予想出来てしまっただろう。
「石蕗……一誠……いや! ちょっと待てジジイ! 確かに私は勝負をしたがそいつは手加減した私にも一撃も入れられずに負けたんだ。そんな奴が」
「出来るんじゃよ。既に剣聖にも儂の思惑が露見してしまっているから言うがの。モモ、一誠君はお前さんよりも強い。なんせ剣聖のトコの秘蔵っ子だからの」
「いや、でもジジイ! あいつは確かに本気だったんだ! それは私でもわかるくらいに。それでもか!?」
「……彼は剣聖の教えを受けながら黛の剣は継承しておらん。おそらくお前さんとの勝負の時は黛の剣術で相対したのではないのかの? そのような限定した状態であったのであれば確かにお前さんには本気で当たれるだろう。けれど本領を発揮した真剣な勝負はしておらんだろうがの」
そのようなことを言われても判断は付かない。確かに一撃入れる前の彼の動作は普段の由紀江のちょっとしたところに出る動作と酷似していた。だからこそ百代もあれが彼の全力だと判断したのだ。
考え込んでいた百代は祖父の言った一言を拾い上げ、顔を顰める。
「ちょっと待てジジイ! 剣聖から既にあいつのことを聞いていたってのか!? こんなことが出来るほどの相手ならなんで教えない!」
その一言にさらに重い溜息を吐き出す鉄心。既に大成からも十分に攻められたので正直孫娘からも問い詰められるのは遠慮して欲しいのだが、そうもいかないだろう。
「知っておったよ。他ならない剣聖自身からお前さんに彼と関わらせないようにという言葉つきでの」
その言葉になんで!と問い詰めれば返ってくるのは
「彼は戦いを好まぬそうじゃ。特にお前さんのように色々な人々に知れ渡っているような人物に付きまとわれたなら他の武術家にも目をつけられるだろうし、場合によっては九鬼のような企業がその武力を求めるだろうとの考えてのことだそうじゃ」
ならば何故今まで彼のことを自分に知らせなかったのかと。流石に自分もそう言われていれば
「一誠君のホントの実力を聞いていればお前さんは勝負を仕掛けなかったと言うのかの?」
と言われてしまえば黙るしかない。既にこのような気を自分に打ち込める人物というだけで昂ぶってしまっているのを自覚できる。相手が強いと言われていたら恐らく即座に勝負を挑んでいただろう。いや、しかし待って欲しい。彼の実力を知らされていたならば今回の旅行のように彼を侮ったりはせず、対等な相手として敬意を払って
「勝負を嫌っとる相手なんだから大した違いはないじゃろうが」
またも黙るしかない。だが今回のことで既に彼の自分に対する好感度は下降しているだろう。会う前から警戒されていた自分に下降するような好感度が存在するかどうかは甚だ疑問ではあるが。
「どうすりゃ彼と戦える! ジジイ!」
「さての。お前さん自身で考えんしゃい」
そしてそこで凹んでいたり黙っていたりしていたら彼女は武神などと呼ばれていないだろう。
「どうすればあなたと戦えますか!?」
「……え?」
深夜、マンションのベランダに面した窓が開き、出てきた言葉がそれだ。しかも相手は真剣な顔をした川神百代。就寝しようとしていた一誠としては固まるしかない。
「あなたの実力はうちのジジイから聞いた。どうしたらあなたと戦ってもらえるか教えて欲しい」
そう真剣な顔で聞いてくる百代を見て一誠としては困惑の色が濃い。もはや曖昧となってよっぽと特徴的なことしか覚えていないが彼女は傍若無人で相手の言うことなど聞く耳持たないという印象が強かった。事実、今回の旅行では自分の偽装に気付くことなく、侮ってくれたし、自らの武力を背景にした挑発までしてきた。
それが目の前の人物とうまくつながらない。目の前の人物は一体誰だ。
むしろここに来る場合があるのであれば一言目は恨み故にだとすら思っていたほどだ。それ以上に彼女では自分に思い至らないだろうとすら思っていた。いや、これは彼女を軽く見過ぎか。けれど彼女にしたことを考えるならば気の打ち込む量を誤っていれば再起不能になりかねなかったのだ。恨み言の一つくらいは覚悟していたのだけれど。
「あー、一体どういう経緯でまた戦いたいと思ったのかな? 知っての通り、俺は由紀江に追いつかない程度の実力なんだけれども」
彼女の目を見れば自分の実力に気付いているのだろうけれども誤魔化しの一言を添えればジジイから聞いたとの声が返ってくる。あの狸爺はホントに孫娘が可愛いらしい。
「……俺は戦わないよ」
「それは私があなたを侮ったからですか」
「いいや? 俺が剣術を収めたのはある目的のためだ。決して強くなるのが目的じゃない。それにしたって強くなりすぎてしまったけれど、俺は戦うことを楽しいとは思えない。剣術は目的のための道具、手段であって君みたいに強くなるのが目的そのものではない」
「それでもお願いです。戦ってもらえないでしょうか? あなたを侮ったことは謝罪します」
思わずため息が漏れる。これは決めたとなったなら動かない目だ。けれど一誠としても戦いたくはない。ならば、頭に思い浮かぶのは一月ほど共に鍛錬を共にした女性の姿。
「それじゃ、俺は戦うわけにはいかないけれども君に対抗できる人を紹介しよう。君も知っている相手だけれどね」
「え?」
そういってキョトンとした顔をする武神。
「ただし紹介する条件がある。今後、無差別に誰かしらに噛みつかない。俺の打ち込んだ気を君の膨大な気で押し流すのではなく、その違和感に慣れるようにする。そして俺が紹介した人物が一度負かした相手だったとしても決して侮らず、本気で相手をすること。それを守れたならば彼女の都合がついて君が俺の気に慣れることが出来たのならば彼女との対戦を組もう」
その言葉を聞いて百代の瞳が飢狼のように輝く。自らと対抗できる人物との勝負が先ほどの条件を守れば成立するのだ。しかも二つ目の条件は恐らく彼から百代へ送られた課題だ。これも一つの修行になるだろう。落ち着いた様子の一誠を見ればうなずいてくれる。彼ならばこの約束を違えることはないだろう。そして彼にそうまで言われる相手だ。十分百代を楽しませるだろう。
既に彼との対戦を望む心は彼から紹介された相手との勝負へと移り変わっていた。
それから、百代の気の循環は始まったのだ。
百代が部屋を出てから一誠は電話帳に登録された一人の女性へと電話を掛ける。以前とは比べ物にならない力を得た彼女に。
生憎と百代はヒロインの予定はありません。
今までの文章のタッチからしてお分かりだと思いますが。