【起】ボーイ・ステーア・アット・ボーイ
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一人目は
二人目は
そして三人目は
1
IS学園を震撼させた無人機襲撃事件から暫くした六月のある日、一夏は二ヶ月ぶりに地元へと帰ってきていた。
今や世界で有名となった一夏であるが、その身における拘束はその特異性に反して随分と低い。もちろん一般高校生に比べれば十分な拘束であるし、常に監視の目があることは言うまでもないが、それでも“織斑”と“篠ノ之”がいる以上一夏がモルモットにされることはまずないと言っていいだろう。それゆえにこうして一時帰宅が可能であり、一夏は織斑邸という聖域に帰還することができるのだ。
「はぁ……」
自室の中を監視されていないことを
『織斑一夏』という名の仮面を被ることには何ら抵抗はない一夏だが、だからといって疲労を感じないわけではない。
人は誰でも仮面を被るし、本心を隠す。偽りの顔で世界に接し、他人の本心を見透かそうとする。それは誰にでも当てはまることであるし、事実IS学園は間者と外交官の巣窟になっている。しかしそれでも普通は休息の場というものが存在する。IS学園の関係者が裏の顔を持つのは公然の秘密であり、重要なのは表の顔を擦り合わせることであるのだから、既に理解している裏の顔をわざわざ探る必要はなく、少女たちには気を休める機会が必ずあるのである。そもそも彼女たちはあくまで将来の外交担当候補者であり、所持している機密など“僅か十代後半の未熟者に持たせるレベルのもの”でしかないのだ。真に彼女たちがエージェントになり得るのはIS学園を卒業してからであり、今の段階はただの顔見せに過ぎない。探る腹もなければ探られる腹もない。
しかし、織斑一夏は違う。裏の顔を知られていないが故に、『織斑一夏』が見抜かれることはあってはならないのだ。だから、絶対に監視されていないと断言できる織斑邸と篠ノ之邸という聖域以外では一瞬足りも気を抜くことはできない。
もちろん、IS学園における一夏の部屋を盗聴することは最悪“災厄”を呼び寄せる可能性はある。おいそれと実行に移せるほど簡単なことではない。だが、後の報復さえ厭わなければ可能なことなのだ。事実、三年前の誘拐事件がそれを証明している。
「っと、あった……」
暫く宿主のいなかった織斑邸を彷徨きながら、一夏は目的の物を見つけた。
何でできているのかよく分からない(金属なのは確かなのだが)手のひらサイズの鉛色のケース。穏やかな色調で揃えられた調度品の中で、それは場違いに輝きを放っている。そして上に取り付けられた蝶番式の蓋の上には、これまた場違いに白の紙が添えられている。
その紙を視界に捉え、一夏は心臓が逸るのを感じた。
ケースが何であるかはわかっているし、紙に書かれている内容も予測できる。それでもそれがあるというただそれだけで、一夏は興奮を高めてしまう。
手を伸ばし、紙を取る。そして質のいい紙に流れるような達筆で書かれた託けをその目に納めた。
「……束さん――」
直筆された“彼女”の軌跡に手を這わせ、一夏はその名前を口から溢す。溢れんばかりの熱が込み上げて、じんっと一夏の胸を満たした。
織斑一夏が剣をとるのは、一重に“彼女”のためである。篠ノ之束という存在は人類を逸脱した技術力と行動力を兼ね揃えた至高の存在であり、本来一夏ごときの手助けを必要とはしない。けれどもそれは世界から孤立するということであり、事実、束は人類を敵になる一歩手前なのだ。
だから、一夏たちはそんな彼女を引き留める。織斑千冬然り、篠ノ之箒然り、“家族”である篠ノ之束が独りになることを良しとするはずもなく、三人は同じ目的のために世界に立ち向かう。
しかし、篠ノ之束はそれを望まない。束にとって隣立つ者とは、彼女と同じ次元に並び立たなければならないのだ。そして奇しくもその考えが、一夏たち彼女の“家族”に手を差し伸べる動機となる。
「…………」
一夏はケースの蓋を開け、中身を確認した。そしてシートに納められた白い錠剤を一つ取りだし、口に含む。
慣れ親しんだ味が舌の上で溶け、体内へと吸収される。そうして、『織斑一夏』は完成する。
『織斑一夏』を構成する要素のうち、現状において最も大きな役割を果たしているものを挙げるとすれば、この一言に尽きる。
そう。
織斑一夏にハニートラップは通用しない。
『織斑一夏』がハニートラップに通用さないのは、そういう“設定”にしたからであるが、だからといって織斑一夏自身にそれをそのまま適応できるかと問われれば首を傾げるだろう。
『織斑一夏』自体には実態はなく、あくまで思考上の仮想人格に過ぎない。偽りの顔である以上、そう演じればそうなるのだ。しかし、織斑一夏は違う。実体として肉体を持つ織斑一夏には、常に肉体の制約が付きまとう。どれだけ唐変木を演じようとも、どれだけ性衝動を偽ろうとも、物質世界に依存する肉体を意思の力だけで縛ることは不可能なのだ。直接性器を触れられれば、否応なしに反応するように身体はできているのである。
けれども、だからといってそれを受け入れるわけにはいかない。受け入れてしまえば、則ち敗北を意味する。だからこそ一夏は“魔女”の提案を受け入れ、束の支援を承諾したのだ。
性欲安定剤。それを服用することによって、織斑一夏は完全に性欲を無くすという異常状態に陥ることもなく、ハニートラップに掛かるような性欲の爆発を起こすこともなく、『織斑一夏』と織斑一夏を擦り合わせるのである。
(――『
一夏は篠ノ之束特製の性欲安定剤をケースごと、白式の『
ISの超科学的機能の一つであるこの『
勿論、重要施設はそれを許さない。いくら粒子化させようとも、『
しかし、一夏は検閲を欺き性欲安定剤を持ち込まなくてはならない。故に白式には『
表には決して表示されない『
本来ならば性欲安定剤は最初から白式に全て『
「さて、と……」
そろそろ夏物の服でも出しておくか、と一夏は押し入れへと足を進めた。
2
『織斑一夏』の性格上、久しぶりに実家に帰ったのなら地元の友人に顔でも見せていくのが当然である。しかし、織斑一夏自身としてはあまり気が進まない行為であった。
「だから、女の園の話だよ。いい思いしてんだろ?」
「してねえっつの――――」
中学時代の友人、五反田弾の言葉を一夏はあきれ顔で否定する。想定内の問い掛け、予定通りの返答である。
一般人である弾がIS学園の実情を認識していないのは当然であるが、彼とてまさか一夏が意図してハーレムを築き上げているとは考えていない。『織斑一夏』が無意識にその周囲に女性を集めることを知っているからこそ、弾は定番とでもいうべき台詞を吐くのだ。
「つうか、アレだ。
「ああ、鈴か。鈴ねぇ……」
弾は含みを持ってその名を口にする。
一夏はそんな弾の様子を捉えるものの、『織斑一夏』は答えに辿り着かない。そしてそんな『織斑一夏』を見て、弾は『織斑一夏』の恋愛感情が未だに未発達であることを認識する。
五反田弾という少年は、『織斑一夏』の中学時代の友人である。企業の回し者でもなく国家のエージェントでもない弾は、だからこそ色眼鏡なく『織斑一夏』という人物を認識する。故に、五反田弾は『織斑一夏』の歪さに気付いていた。
幼少期に両親に捨てられ、姉を親代わりに育ち。幼馴染みに“災厄”とその血縁者を持ち。姉は世界にその名を轟かす“最強”となる。そんな荒唐無稽な環境で育ってきた『織斑一夏』が抱える歪み。それを弾は“正しく”認識しているのだ。
しかし、そのことが二人の関係を引き裂く因子にはなりはしない。『織斑一夏』の友人を務めるということは、そういうことなのだ。
そして一夏としても、そんな弾との関係をそれなりに好ましく思っていた。仮面を被ってでの付き合いではあるものの、あくまで“友人”として付き合える弾との交流は、一夏の精神にほんの少しの安らぎを与えてくれることは確かだった。
故に。
一夏が五反田家に来たくなかった理由は他に存在する。
「いっ、一夏……さん!?」
ドアを蹴り開けて弾の部屋に入ってきた少女が、実兄と対戦ゲームをしていた一夏を目にし、硬直した。
タンクトップにショートパンツの格好を必要以上に恥ずかしがる弾の妹を眺め、ああ、やっぱり諦めていなかったのか、と内心で一夏は溜め息を吐く。
「い、いやっ、あのっ、き、来てたんですか――――」
あたふたと身体を小さくしながら会話をしようとするその様子は、分かりやすいほどに彼女の心情を表している。
つまるところ、五反田
その変わらない事実に、一夏と弾は癖易する。一夏は、蘭に靡くはずがないために。弾は、『織斑一夏』の異常性を理解しているために。
「……何で、言わないのよ……」
一夏が自宅に来ていたことを知らなかった蘭が、弾を咎める。
しかし『織斑一夏』に恋慕の情を抱くことの無意味さを理解している弾は、妹の恋路を応援するつもりはないのだ。一応謝りはするものの、再び同じ機会が訪れた際に蘭へ一夏の存在を伝えることはないだろう。
そんな兄の心を知ってか知らずか、蘭は一夏を昼食に誘った。
『織斑一夏』としてその好意に甘えながら、一夏は弾の苦労を少し憐れに思う。だから蘭が部屋を出て行ったところで、『織斑一夏』として唐変木を再び演じてみせる。
「――――なんというか、お前はわざとやっているのかと思うときがあるぜ」
弾の的を射た発言に無難に返答しながら、一夏は移動の準備を始める。
五反田家は食堂を営んでおり、中学時代に一夏と鈴音は度々定食の残りをご馳走になっていた。その習慣に従って一夏と弾は一階の食堂へと移動する。そして二人の予想通り待ち受けていた蘭と共にテーブルに着く。
運ばれてきたカボチャ煮定食に手をつけながら暫く雑談を交わしたところで、弾が蘭の恋心をへし折るべく一夏へと話題を振った。
「でよう、一夏。鈴と、えーと、誰だっけ? ファースト幼なじみ? と再会したって?」
妹の想い人の目の前で、わざと彼と親しい幼馴染みの名前を、それも彼女が知らない名前を挙げる。そこから弾が一体『織斑一夏』に何を望んでいるのかを悟った一夏は、望み通りの展開へと話を発展させる。
「そうそう、その箒と同じ部屋だったんだよ――――」
「お、同じ部屋!?」
五反田蘭の恋慕の情を消し去るためには、『織斑一夏』を取り巻く諸々の事情において自身がまったくの蚊帳の外であることを自覚させることが最も効果的であると、弾と一夏は判断する。仮に一夏が蘭を振ったところで、彼女はそれを一層励むためのバネにしてしまうだろう。蘭自身に諦めさせることが最も良い手段なのである。
「い、一ヶ月半以上同せ――同居していたんですか!?」
「ん、そうなるな」
蘭自身は『同棲』を『同居』と言い換えたが、『同棲』という言葉が先に出てきてしまった時点で、“自身が置いていかれて”いることを意識的にか無意識的にか自覚したことになる。
そして一夏の想像通り、蘭は最後に残された道を選びとる。
「私、来年IS学園を受験します」
「お、お前、何言って――」
流石にこの展開は予想していなかったのか、慌てて一夏に助け船を求める弾。しかし弾の願いとは裏腹に、蘭はIS簡易適正試験の結果を自慢気に兄へと差し出した。そして更に悪いことに、蘭は自分がIS学園に入学したら、『織斑一夏』に個人指導をしてもらうように約束を取り付けてしまう。
鬼気迫る表情で一夏に彼女を作るように迫る弾だが、それが無駄なことは彼自身がよく分かっている。それでも蘭を『織斑一夏』から引き離したい弾は心の中で、IS学園の女子生徒たちに最後の希望を託す。
しかし、そんな弾の心配が杞憂に終わるであろうことを、一夏は知っていた。知っていたからこそ、個人指導という特大の褒美を蘭の前にぶら下げたのだ。
IS学園はそもそも将来の外交関係者の顔見せ場である。だが『織斑一夏』という存在によってそこに、“世界唯一の男性IS操縦者と接触できる場所”という付加価値が生まれた。『織斑一夏』という“織斑”と“篠ノ之”の両方に深い関わりを持つ存在を各国が放っておくはずもなく、来年度の新入生は全員が何処かの回し者になることは容易に推測できる。特に今年度間者の準備が間に合わなかったところは、より力を入れてくることは疑いようがない。そこに五反田蘭という一般人が入り込む隙間などなく、彼女を間者に仕立てあげることは“織斑”の周囲への過度な干渉として“災厄”の報復を誘き寄せてしまう。
つまり、五反田蘭がIS学園に入学することは不可能なのである。
来年それを知った蘭はそのときにこそ完全に、自分が蚊帳の外であることを理解するであろう。彼女が『織斑一夏』争奪戦に参加することは、決して叶わないのだ。
それが分かっているからこそ、一夏は平然としていて。
それが分かっていないからこそ、蘭は沸き上がる期待に胸を弾ませているのだった。
3
学年別トーナメントで優勝すると織斑一夏と付き合えるらしい。
そのような噂が現在、IS学園のあちこちで真しやかに囁かれていた。
当然デマ情報であるのだが、しかし、一夏にとって事態は既に見過ごせないものになっていた。
そもそもは『篠ノ之箒』がラブコメのヒロインよろしく『織斑一夏』と交わした約束であり、結果がどうであれ『織斑一夏』と『篠ノ之箒』の仲を縮めるための“きっかけ”として作用するはずだった『学年別トーナメントで私が優勝したら、付き合ってもらう』という言葉をわざと第三者に聞かせたのは、見届け人を作り上げるためだった。だがIS学園の少女たちは学園中に広まったネットワークを利用して、意図的に約束の内容をねじ曲げたのだ。
最早IS学園の生徒全員が『学年別トーナメントで優勝すると織斑一夏と付き合える』と認識している以上、噂は事実となる。もちろん実際に一夏と付き合えるわけではないが、少なくとも『織斑一夏』との確かな接点が築かれることは間違いない。『織斑一夏』が何らかの形で優勝者に褒美を与えることになるのは確実であり、一夜の過ちを起こせる可能性がないわけでもないのだ。
そしてこの噂により最も得をするであろう人物は誰であろう、セシリア・オルコットその人であった。
現状、学年別トーナメントにおいて優勝の可能性があるのは専用機持ちであり国家代表候補生であるセシリア・オルコットと凰鈴音の二人だけ。しかし凰鈴音の方は先月の“先走り”の件がある以上、大きく出ることはできない。暫くの間は大人しくする“制約”が課せられているのだ。つまりセシリアが優勝することは既に確定事項なのである。
以上より、どのように他の女子を纏めたのかは知らないが、噂の件においてはセシリア・オルコットが黒幕である、というのが一夏の見解だった。
(どうする……?)
今はまだ『織斑一夏』が代表候補生を倒す段階ではない。いくら何てもそのようなことは不自然過ぎるし、事実として一夏は未だ思うようにISを使いこなせていない。実力を隠しているのはセシリアも一夏も同様であるものの、仮に“全力”でぶつかったとしても一夏にはセシリアに勝てるとは思えなかった。
セシリア・オルコットという女は、探れば探るほど底が見えない。伊達にイギリスの貴族社会を生き残っていないということなのだろう。
とにかく、今一夏にできることは“約束”の対処を考えることだ。まさか『篠ノ之箒』が覚醒するはずもないため(『篠ノ之箒』の覚醒舞台にしては学年別トーナメントは小さすぎる)、一夏がセシリアの相手をしないといけないのは確実である。
(逆に考えろ。オルコットが相手だと最初から分かっているのだから、策は探しやすいはず……)
クラスメイトと他愛のない会話(ISスーツについて)を交わして朝のホームルームを待ちながら、一夏は思考する。
そうこうしている間に時間は過ぎ、服担任の
一夏の周りに集まっていた少女たちは解散し、各々が自分の座席に着席する。
クラスが静寂を取り戻したことを確認して、千冬は真耶にホームルームを始めさせた。
「ええとですね、今日はなんと転校生を紹介します!――――」
突然の出来事にクラス中に動揺か走る。
それは“噂好きの自分たちが知らなかった”という“表向きの動揺”と、“本当に何の情報も与えられていなかった”という“裏の動揺”を合わせたものであり、少女たちの間を緊張が駆け抜けた。
「失礼します」
その中性的な声色と共に現れた人物を目にし、少女たちはまさかの事態に困惑する。
そこに居たのは“あり得ない存在”。
少女たちの親玉が推測する“ISの真実”を覆す存在。
そして『織斑一夏』にとって存在してはいけない存在。
だから。
ブロンドの髪を靡かせる二人目の男性IS操縦者の存在を。
仮面の下で睨み付けるのだ。