【旧作】腹黒一夏くんと演技派箒ちゃん   作:笛吹き男

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【承】クラス内人間関係決定戦!

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 三年前、セシリア・オルコットという名の少女を悲劇が襲った。

 両親の突然死。

 それが陰謀によるものなのか、事故によるものなのか、当時はイギリスのお茶の間を騒がしたりもしたが、セシリアにとってはどちらも同じこと。

 十二歳の身空で、大物貴族の当主を務める。

 両親の死の真相がどうであれ、その事実は変わらない。

 血を重んじる貴族の家柄は、そう簡単に捨て去ることはできない。事実として、周囲がそうさせなかった。

 オルコット家が取り潰されればその財産は国のものになるが、セシリア・オルコットと結婚すれば己のものとなる。

 両親という最も大きな後ろ盾を無くした十二歳の小娘に、欲に飢えた男たちが獣となって襲いかかる。

 流石に若干十二歳の少女に大の大人が婚姻を直接迫ることはなかったが、セシリアが成長すればそうもいかない。その時の為に、ハイエナたちはセシリアに恩を売り、彼女が逃げられないように退路を塞いでくる。他にも彼らの息子をセシリアに婿入りさせようとする勢力だって存在する。

 セシリアにとって、オルコットの家は両親が残した宝だ。

 セシリアの父は母に対して頭が上がらなかった。しかしそれは事実として母が父より優れていたからであるし、そして母はそんな父と自らの意識で結婚した。政略結婚が常の貴族社会でそれができるほどセシリアの母は力を持っていたのだ。

 ISの台頭によって世界は変わった。しかし、実質的に女が強くなったわけではない。それでも、世間は、イギリス社会は女性の立場向上を求めた。元々女王の統べる国である。男尊女卑への反抗が膨れた国とはまた違った形で、イギリスは女性に力を求められた。

 だからそのために、セシリアの父は自ら退いた。己の妻をより立てるために、イギリス社会が貴族社会に求める要求に答えるために、彼は弱い男を演じた。セシリアの前でさえもだ。

 当然セシリアの母はそれを理解していたし、セシリア本人も子供ながら両親の間に流れる機微を感じ取っていた。

 そしてセシリアの両親が仕事と偽って密会していたあの日、彼らは帰らぬ人となったのだ。

 その全ての現況は、彼らがオルコットの家を守ろうとしたから。

 ISそのものは関係ない。ISであろうと別のものであろうと、似たような状況になれば二人はそうしていただろう。

 セシリアにはまだ、両親がオルコットの家をどんな思いで守ろうとしていたのかは分からない。

 けれども、オルコットの家が奪われれば、それを知ることすらできなくなる。

 だから、彼女は何が何でも守らなければならない。

 セシリア・オルコットという名前を。

 オルコットの家を。

 だからそのために彼女は。

 心さえも捨てた。

 

 

 

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織斑(おりむら)くんって、篠ノ之(しののの)さんと仲がいいの?」

 

 IS学園入学式の翌日、一年生寮の食堂で朝食を食べていた一夏(いちか)に、同席していた女子生徒がふと尋ねた。

 織斑一夏と篠ノ之(ほうき)が学生寮において同室だということは、既に公然の秘密となっている。

 もちろん、学舎としては看過できない事態ではあるものの、この処遇に関しては誰も文句を口にはしない。

 なぜなら、篠ノ之箒は篠ノ之(たばね)の妹であり、実質何処の国家、企業組織にも属していないからだ。篠ノ之箒は篠ノ之束所属といったところだろうか。

 一夏のルームメートは織斑一夏争奪戦において多大なアドバンテージを得る。それ故に、国家、企業の人間は自身の手駒を送ろうと画策し、望み通りにならなければ反発する。

 他者が自分たちより有利になることを認める競争者はいない。しかし、篠ノ之箒は対象外となる。篠ノ之箒の所属先は、彼らの競争相手にはなり得ないのだ。

 

「お、同じ部屋だって聞いたけど……」

 

 一夏と箒の関係を探るべく、女子生徒が恐る恐る質問する。

 織斑一夏と篠ノ之箒が幼馴染みの関係であることなど、彼女たちはとうに知っている。けれども、公然の嘘だとはいえ“一般人”を装う彼女たちは、そのことを知らないかのように白々しい演技を見せる。

 そして、“そういう事情”を認知していない『織斑一夏』を演じる一夏は、“普通に”彼女たちの質問に応じるのだ。

 

「ああ、まあ、幼ななじみだし」

 

 そう答えながら、一夏は彼女たちの意図を推測する。

 確かに、“設定上”彼女たちは一夏と箒の関係を知らない。けれども、実際は既知なわけで、わざわざ改めて確認することではない。

 ならば、この問答にどんな意味があるのか。

 

(俺とあいつの仲の確認か? 確かに、六年経ってるから昔と同じ保証はない。だが、それは昨日の茶番で既に見せつけたはず)

 

 寮室の扉を開け放った状態で披露した一夏と箒の“ラブコメ”は、『織斑一夏』という人間性を示すと同時に、『篠ノ之箒』という存在を認識させる意味を持っていた。一夏と箒の間柄が公開され、箒自身の身体能力の高さと戦闘能力を見せつけることで、周囲への牽制の効果を表し、昨日の夜は一夏に夜這いを仕掛ける女エージェントは現れなかった。

 

(いや、あいつ自体が目的ではないとすれば、この会話は次へ繋げるためのもの。俺とあいつの関係性から発展する問いは――――まずい……)

 

 避けなければならない事態の早すぎる登場に、一夏は仮面の下で大いに慌てる。

 急遽話題を変えようと画策するが、それよりも先に女子生徒が口を開いた。

 

「え、それじゃあ――」

 

 

 

 「織斑くんって、篠ノ之博士とも仲がいいんだね」。

 

 

 

 と、その言葉が放たれることはなかった。

 その女子生徒が仕掛ける前に、寮長が手を叩いたからだ。

 

「いつまで食べている!――――」

 

 織斑千冬(ちふゆ)の恫喝により、一夏の周りに集まっていた少女たちは朝食の残りを急いで片付ける。一夏への質問が続けられる雰囲気でもなくなり、晴れて彼は危機を脱出した。

 

「また、あとでね」

 

 食事を終え、逃げるようにこの場を立ち去って行く女子生徒を一夏は見送る。

 急ぎ足で離れていく少女。いや、正しくは逃げていく少女。

 織斑千冬(世界最強)の怒りを買う前に退散したその女を、一夏は強く意識に留める。

 

谷本(たにもと)癒子(ゆこ)……)

 

 首元のおさげが特徴の一年一組生徒。

 彼女を要注意人物の項目にリストアップしながら、一夏は己れの未熟さに苛立った。

 千冬の視線を背中に感じながら、人の少なくなった食堂で一夏は茶碗の中身を空にする。

 助けられた。そのことを強く自覚する。

 織斑一夏と篠ノ之束の関係性。

 それだけは、幾ら推測されようとも、言質を、証拠を与えるわけにはいかない。

 もしそうなれば、正義は、世界の手に渡ってしまうのだから。

 だというのに。

 

(くそっ……なんてざまだ)

 

 握りこむ箸が掌に食い込む。

 そしてそんな様子の自分が冷笑されているようで、一夏はさらに苛立ちを抱える。

 織斑一夏は『織斑一夏』の仮面を以って道化を演じる。

 しかし、どれだけ一夏が戯けようとも、所詮その中身は十五歳の青二才に過ぎない。

 一夏は世界を知らない。籠の中の鳥でしかなかった一夏がどれだけ足掻こうとも、大空の覇者には到底及ばない。

 織斑一夏は、未だに織斑千冬に助けられている。

 その事実が、一夏を締め上げる。

 “彼女”に認められた、唯一の騎士の存在が、一夏をより惨めにさせるのだ。

 

 

 

 

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「――――次の時間では空中におけるIS基本制動をやりますからね」

 

 三限目の授業が終わり、山田(やまだ)真耶(まや)副担任が教室を出て行くと、一年一組の教室は十五歳の少女たちの活気で溢れかえる。

 その中でも最も騒がしいのは当然、一夏の周囲だ。

 異性に興味深々な娘を装い、中には夜の誘いを仕掛ける者まで。

 十分という短い休み時間は、そんな彼女たちの相手をすることですぐに使い切ってしまう。

 そして四限目が始まり、千冬が教壇に立った。

 

「ところで織斑、お前のISだが準備まで時間がかかる」

 

 千冬の連絡に、一夏はおや、と内心で首を傾げる。『織斑一夏』としても自体を把握してはいないので、久しぶりに織斑一夏と『織斑一夏』の行動が一致した瞬間であった。

 一夏の予想では自身のISは束が彼専用に作ってくれいるはずだった。ISコアを世界で唯一製造できる束のことだ。とっくに一夏の専用機は完成しているものだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 

「予備機がない。だから、少し待て。学園で専用機を用意するそうだ」

 

(学園の専用機を使うだと…………あぁ、そういうことか)

 

 篠ノ之束が作る織斑一夏の専用機。その存在は世界が求めるものとなる。恐らくは元々一夏に与えられる予定のISを、束がこっそり改造するのだろう。

 

(考えれば分かることじゃないか)

 

 朝の一幕といい、思うように働かない自身の頭に一夏は苛立ちが立ち込める。

 

(びびっているというのか、この俺が?)

 

 ふざけるな、と拳を握る。

 確かに、今までクラスメイト全員が、学校生徒全体が間者の学校で過ごしたことなどなかったし、織斑家と篠ノ之家という束により守られた聖域が存在した。織斑一夏には安全地帯が存在した。

 しかし、だからといって『織斑一夏』の仮面に穴があるわけではない。

 

(欠けているのは俺自身の覚悟だとでも……)

 

「あの、先生。篠ノ之さんって、もしかして篠ノ之博士の関係者なんでしょうか……?」

 

 口の中で唇を噛む一夏の横から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 

(谷本癒子……)

 

 横目でその存在を確認し、一夏は彼女の無謀さに冷静さを取り戻す。

 教室中の視線は千冬と箒の二人に注がれ、誰も一夏を見ていない。そのことも加え、一夏の頭は急速に冷えていく。

 

(そうだ。なにも決定的な失態を犯したわけではない。なんのための『織斑一夏』だ。多少のミスも補えるための仮面だったはず。そしてなにより……)

 

 谷本癒子は、“魔女”に手を出した。

 

「そうだ。篠ノ之はあいつの妹だ」

 

 千冬の言葉にクラス中の女子生徒たちが歓声を上げる。そして授業中だというのに席を立って箒の席に詰め寄っていく。

 

「ええええーっ! す、すごい――――」

「ねぇねぇっ、篠ノ之博士って――――」

「篠ノ之さんも天才だったり――――」

 

 口々に箒に言葉を浴びせる少女たち。

 幼い頃から転校を繰り返し、要人保護プログラムによって満足な対人能力も築けず、天才過ぎる姉を持つ篠ノ之箒の本音を語らせることなど容易いと踏む。

 それを千冬が止めることはない。

 今ここで制しても、どうせいつか同じ事態に陥るからだと、少女たちは千冬の行動に納得する。

 そして、四方八方周囲三百六十度囲まれ質問攻めにされた篠ノ之箒は、数秒もせずに耐えきれず大声で叫んだ。

 

「あの人は関係ない!」

 

 その様はまさに怒号。癇癪玉を抱えた子供のような有り様。

 篠ノ之箒という少女の十五年を鑑みれば、こうなるのも納得というものだ。

 もちろん、その精神形勢に他者の思惑が介していることは言うまでもない。操り人形として御しやすい女に仕立てることで、篠ノ之箒は篠ノ之束に対する楔となるのだ。

 少女たちは箒の反応から、IS学園入学に合わせた篠ノ之束の接触は無かったものと判断する。篠ノ之箒は感情が表に出やすく、そしてその精神は幼稚であるから容易に推測は可能なのだ。

 唯一注意すべきは篠ノ之束であるが、“人の心が理解できない”彼女の前で直接的な行動に移らない限りは問題はない。そして、織斑千冬は所詮一個人でしかなく組織に抗う力はない。何より、織斑一夏という決定的な弱点が剥き出しなのだから。まあ、その弱点を下手に刺激すれば思わぬ災厄を誘き寄せる可能性があるのだが。

 とにかくこうして、谷本癒子が先槍となって篠ノ之箒の操り人形としての価値が再認識された。

 だが。

 

 

 

(馬鹿がぁ!?)

 

 

 

 そんな彼女たちを横目に一夏は心中で嘲笑う。

 

(あの女が、お前らごときに図れるはずがないだろうが)

 

 織斑一夏は知っている。

 他の誰も知らない。

 織斑一夏だけが知っている。

 篠ノ之束ですら知らない。

 その事実。

 篠ノ之箒は『篠ノ之箒』を演じているという事実。

 世界で唯一ISコアの製造技術を保有する希代の人物、篠ノ之束。元来宇宙活動を主眼において作られたそれは、軍事転用によって世界最強の兵器へと変貌する。故に、現行百年単位で技術を先取りする狂気の科学者(マッドサイエンティスト)は、簡単に世界の敵へと成り下がる。正義は数であり、悪は篠ノ之束。そんな世界が容易に想像できるものだ。

 しかし、現実はそうではない。篠ノ之束は未だ“人類”の枠に収められ、世界は束を悪とは断じない。世界を支配できる力を持つ彼女に対して、なぜこうも世界は静かなのか。

 それは全て、“篠ノ之箒という決定的な弱点が存在しているから”である。

 篠ノ之束が篠ノ之箒を溺愛し、篠ノ之箒が篠ノ之束を拒絶し、篠ノ之束が篠ノ之箒の言いなりになる所存で、篠ノ之箒が篠ノ之束の本質を見誤っているからこそ、世界は篠ノ之箒に、篠ノ之束に利用価値を見出すのだ。

 そうでなければ二人はとうに、世界に淘汰されてしまっている。

 箒は、その絶妙なバランスをその身一つで操っているのだ。

 篠ノ之箒は篠ノ之束を求めてはいけない。さもなければ生きられない。

 篠ノ之箒は聡明であってはいけない。さもなければ生きられない。

 篠ノ之箒は愚かであってはいけない。さもなければ生きられない。

 だから、篠ノ之箒は『篠ノ之箒』を演じるのだ。

 実姉すら騙す、“魔女”となって。

 

「……大声を出してすまない。だが、私はあの人じゃない。教えられるようなことは何もない」

 

 彼女のその言葉に込められた本当の意味を、果たして誰が理解できるだろうか。

 “魔女”の正体を知っている織斑一夏ですら、理解することはできないのだから。

 

 

 

 

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 織斑一夏と篠ノ之箒の戯れを眺めながら、セシリア・オルコットは優雅に髪を靡かせる。

 セシリアには心はない。しかし、だからといって感情がないわけではない。

 いくら人間の感情が複雑だといっても、その一つ一つは極めて単純な思いから成り立っている。たとえ心がなかろうと、周囲を注意深く観察すれば対外の“心”を作り出すことは可能だ。

 言うならばそれは、赤子の精神形成の過程に似ている。

 だが、セシリアは赤子ではない。感情というものは知っているし、経験している。心だって捨てただけで記憶には残っている。

 ただ、そんなものは不要だったから捨てただけ。対外用の、他者との円滑なコミュニケーションを可能とすつ程度の“心”があれば、それでよかった。それ以上は、十二歳の少女が大人の中で戦うには重荷にしかならなかったのだ。

 セシリアは両親の死後、ただひたすらに二人が残したオルコット家を守ってきた。その手腕が評価されて今、彼女はイギリス国家代表候補生、実質の将来的対外用国家代表の地位を約束されている。けれども、果たして十二歳の小娘にそんなことが可能なのか。

 確かに、セシリアは天才だった。異才だった。だが、たとえセシリア個人がいくら優れていようとも、セシリアは子供でしかなく、子供ではどうしても戦えない戦場というものが存在するのだ。セシリアには仲間が、実績が、何より社会的地位が無かったのだから。

 もちろん、一度才覚を表せば自身の勢いだけで前に進み続けることができるだろう。だが、その勢いをつける段階において、セシリアは無力でしかなかった。

 そうして、彼女は多大な恩を売られることとなった。

 セシリアの目的はオルコット家を、両親の意志を守ること。今のところはなんとかそれができているものの、あくまで期限付きでしかない。その時がくれば恩を笠に着られ、オルコット家は奪われてしまうだろう。

 だからそれを防がなくてはならない。

 

(方法は、決まりましたわね)

 

 心のないセシリアだからこそ、躊躇せずに行える方法。そして、心のないセシリアだからこそ足元を掬われかねない方法、ではあるが。

 

「オルコットさん、私たちと一緒にお昼を食べようよ」

 

 クラスメイトがセシリアに声を掛けてくる。

 セシリアはにこりとした笑顔を崩さずそれに答えた。

 

「ええ、ご一緒させていただきますわ。谷本さん」

 

 セシリアと癒子らの計四名は、一夏と箒の後に続いて学食に向かった。

 三人と軽く会話をこなしながらも、セシリアの意識は視線の隅に移る一夏に半分以上が割かれている。けれどもそれが問題になることはない。他の少女たちも同じだからだ。

 織斑一夏と篠ノ之箒の関係性の把握。

 それは、織斑一夏と篠ノ之束の関係性へと繋がる重大事項である。

 食堂の係員から注文したイタリアンを受け取ったセシリアは、癒子が手を振る座席へと移動する。どうやったのか一夏と近い場所に陣取っていた三人に近づき、セシリアは腰を下ろした。

 肝心の一夏は三年生に声を掛けられ、そのやりとりに食堂中の生徒が注目しているところだった。

 

「代表候補生のコと勝負するって聞いたけど、ほんと?」

「はい、そうですけど」

 

 一瞬周りの視線がセシリアに移り、また一夏へと戻る。

 そんな中、セシリアは一夏と箒を注意深く見つめる。

 織斑一夏と上級生の会話、その一挙一動に顕著な反応を示す篠ノ之箒。

 何も不審な点はない。情報通りの、予想通りの人物像を覗かせる二人。

 けれども。

 

(なんでしょうか……)

 

 篠ノ之箒は問題ない。しかし。

 

(織斑一夏……。おかしな所は何もありませんのに、どうもしっくりきませんわね)

 

 セシリア・オルコットに心はない。けれども、それが他者の理解を妨げることには繋がらない。それどころか心がないぶん、セシリアはより純粋に他者を理解することができるのだ。人間の感情は、何も突然現れるものではなく、その要因となるものが存在する。他者を心で捉えないセシリアには、その感情の要因すらも見通すことができるのだ。心というフィルターを通さないそれは、膨大な情報処理能力を必要とするが、セシリアはそれをやってのける。

 そんなセシリアの脳が、織斑一夏を受け付けない。記憶の彼方に封印したはずの“心”を揺さぶるような、直感とでもいうべきものが、セシリアの中に徐々に渦巻き始める。

 

「篠ノ之って――ええ!?」

 

 上級生の女優以上の名演技を眺めながら、セシリアは一夏を見つめ続けた。

 

 

 

 

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 織斑一夏は『織斑一夏』の仮面を被っている。しかし、織斑一夏であろうと『織斑一夏』であろうと、その身体能力にそう違いはでないだろう。

 知的能力と違い、身体能力はなかなか偽ることができない。そのため一夏は下手に体を鍛えることができず、あくまで一般高校男児程度の身体能力しか持っていないのだ。

 対して篠ノ之箒は『篠ノ之箒』の人格形成に歪みを与える要素としてその身体能力は常人の粋を越えるに至っている。そもそもの箒の家系上、彼女が強くなるのは何もおかしな事ではなく、そして一夏が無理に強くなるのはあまり道化としてよくないことだったのだ。

 故に、実力を確かめるという名目で箒に剣道勝負を強制された一夏が、今こうして荒い息と全身を襲う鈍い激痛と共に剣道場の床に転がっているのは当然のことだった。

 

(くっそ、“魔女”め。これ幸いと好き放題やりやがって……)

 

 ギャラリーの白い目に晒されながら、一夏は霞む視界に天井を捉える。

 箒と手合わせをして疲労困憊な一夏だったが、実際のところ明日に響くような打ち身や怪我は一つもない。それこそが篠ノ之箒の実力の証であり、一夏が箒に弄ばれた事実であった。

 

「――なおす」

「はい?」

「鍛え直す! IS以前の問題だ! これから毎日、放課後三時間、私が稽古を付けてやる!」

 

(おいおいおいおい…………やはりそういう展開か! いいんだよ別に放課後は。すでに山田真耶とのIS補講が入ってるんだから)

 

 IS学園の女子生徒と過度な接触を控えたいのは何も一夏だけではない。篠ノ之束の妹である箒もまた、同様なのだ。当然一夏はそれを理解している。しかし、だからといって箒と共に一日中過ごすつもりなど一夏はない。

 なぜなら、箒は『篠ノ之箒』が『脳筋キャラ』だということをいいことに、一夏に“制裁”を加える気満々だからだ。ある程度の暴力性は必要だといっても、昨日の様子を鑑みるに箒はわざとその路線を突き進んでいる気がしてならない。

 しかしだからといって箒を邪険に扱うことは論外である。織斑一夏にとって篠ノ之箒は志を同じくするものであり、協力するべき相手であって対立するべき相手ではない。

 

(どういうつもりだ、この女。六年の間にSっ気にでも目覚めたか? しかし、利益がないわけではない。俺の肉体疲労を考えなければ、だが)

 

 一夏が受けられる真耶の補習がいつまであるかは分からない。それでも、あくまで一時的措置であり長期には望めないのが事実だ。

 一夏が箒と常に放課後を共に過ごすのならば、“ただの女子生徒”では間に入り込むことができず、二人の目的は達成される。しかし、『篠ノ之箒』は剣道部に入部することが決まっており、そしてここIS学園における部というのは派閥でもあるのだ。ISの訓練はともかく、肉体面での訓練を剣道場で行うとなればそれはそれで新たな問題を生み出すことになる。

 

(剣道部はどうするつもりだ? 『織斑一夏』と『篠ノ之箒』では分が悪いぞ)

 

 一夏と箒ならば、そのような障害を除くために動くことができなくもないが、生憎と二人は『織斑一夏』と『篠ノ之箒』なのだ。派閥争いを感知できるような“設定”はついていない。

 しかし、そんなことは箒の方も承知のはず。その上でこの提案をしてくるということは。

 

(対策済みとでも? いいだろう。お前のその策、乗ってやるよ)

 

 一夏は承諾の有無を箒に伝える。

 仮に一夏が反対したとしても箒が強制させるのは間違いなく。そもそも『織斑一夏』的に『篠ノ之箒』の頼みを大した理由もなしに断ることなどありえないのだが。

 

 

 

 

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 翌週の月曜日。セシリア・オルコットと織斑一夏のIS対決は、様々な思惑の下始まろうとしていた。

 そんな中、自身のISが運ばれてくるのを第三アリーナ・Aピットで待つ一夏に千冬と箒が声をかける。

 

「――――ぶっつけ本番でものにしろ」

 

 ISには搭乗者に合わせて自身を細かく設定しなおし、専用搭乗者とのリンクを強化するための一次移行(ファーストシフト)というものが存在する。通常一次移行(ファーストシフト)前の機体は反応が鈍く、実力の三割も発揮できない。一次移行(ファーストシフト)以前の状態で戦闘を行うなど、通常ではありえないのだ。

 しかし、千冬はそれをやれと言う。

 

「この程度の障害、男子たるもの軽く乗り越えてみせろ。一夏」

 

 今日のこの戦いの目的は、あくまで表向きはセシリア・オルコットと織斑一夏によるクラス代表の選別。

 しかし、この戦いを以って織斑一夏という人物のIS戦闘における位置づけが決まる。

 一夏が今までISを動かした合計時間は二十分ほどしかない。当然ながら、ISでの戦闘など以ての外。

 織斑一夏は現在、世界で唯一の男性IS操縦者である。但し、まだ“動かせる”だけだ。それだけではまだ、“織斑一夏自身が脅威に成り得ることはない”。

 織斑一夏が世間の注目を集めるには、“彼女”の負担を減らすためには、並以上の実力を示す必要がある。

 けれども、最初から強すぎることは『織斑一夏と篠ノ之束の共犯説』を導き出してしまう。

 弱すぎず、強すぎず、並ではなく、目に止まるように。一夏はISを動かす必要がある。

 この戦いを以って、織斑一夏の道筋が決まる。

 

(ああ、分かっているさ)

 

 一夏は己れの武器を、ISを、“白”を身に纏い、背中側にいる“魔女”に告げる。

 

「箒」

「な、なんだ」

「行ってくる」

 

 何やら迷った表情をしている箒を後に、一夏はアリーナへと向かう。

 ふわりと浮き上がったその機体、白式がゆっくりと前へ進み、鉄のトンネルの奥へと進む。

 短く機械音が走る。そして重く固く閉ざされた扉に光が差し込み、ピット・ゲートが開放された。

 途端に湧き上がる歓声。青い空が頭上に広がり、天へと続いている。

 半径一〇〇メートルの円形状のアリーナ。その中央で浮遊する“蒼”を見つめ、“白”は飛び上がった。

 

(セシリア・オルコット……。イギリスの大貴族、オルコット家の当主にしてイギリス国家代表候補生。初陣の相手にしては少々大物過ぎる気がしなくもない――――だが……)

 

 空中で対面した二人は意味のない言葉を交わし、開幕の合図とばかりにセシリアが主兵器である特殊レーザーライフル『スターライトmkIII』を一発撃ち込む。

 

「さあ、踊りなさい。わたくし、セシリア・オルコットとブルー・ティアーズの奏でる円舞曲(ワルツ)で!」

 

(踊ってもらおうか。この道化(ピエロ)の描く興行(ショー)で!)

 

 

 

 

     6

 

 

 戦闘開始から二十七分。試合はセシリアが一夏を蹂躙するだけのショーとなっていた。

 セシリアが纏う第三世代ISブルー・ティアーズ。レーザー発射口付き遠隔操作ユニットである自律機動兵器ブルー・ティアーズのテスト機体による中距離からの一方的な射撃が続くだけの試合となっている。

 しかし、見るべきところはそこではない。確かに、ブルー・ティアーズの性能はイギリスの力を示すことになっているが、注目するべきところはIS機動時間僅か二十分の初心者が三十分近くもの間銃撃の猛攻を凌ぎ続けているということだろう。

 もちろん、その場にいる全員、セシリアが本気を出しているとは思ってはいない。

 けれども、発射から僅か〇.四秒で目標に到達するレーザーの雨、それもスターライトmkIIIとブルー・ティアーズの四つのビット、計五射による雨あられの攻撃は、容赦なく白式を襲う。到底、初心者が躱せるようなものではないのだ。

 その力の片鱗を見せつつある一夏に、観戦者たちは純粋に驚く。素人にありがちな無駄な機動が目立つものの、一夏のそれは驚嘆に値するものだ。

 しかし、当の本人はそれどころではなかった。

 

(くそ、くそ、くそっ! ふざけるなよ、セシリア・オルコット!)

 

 叫びたいのをぐっと我慢しながら、一夏は白式が示す通りに次の移動地点に飛行する。なりふり構っていられない、無様な飛行だ。

 そして次の瞬間、先ほどまで一夏のいた場所にレーザーが走る。それがビットによるものなのかライフルによるものなのか、確認している暇すら一夏にはない。ただただ白式の指示通りに次のポイントにまで移動する。

 本来ならそれだけで評価される一夏だが、彼の心を占めるのは激しい怒りだった。

 

「っく……」

 

 レーザーを避け、白式の指示に意識を向ける。白式は常にブルー・ティアーズの射撃位置を教えてくれる。セシリアが攻撃するよりも前にだ。

 何故か。

 白式の予測機能が優れているからか?

 いや、違う。

 セシリア・オルコットから次の射撃データが事前に送られてくる(・・・・・・)からだ。

 白式がブルー・ティアーズの猛攻に耐えているのは、実力でも何でもない。

 ただそう踊らされているからだ。それこそ、セシリア・オルコットとブルー・ティアーズが奏でる指示(ワルツ)によって。

 

(おのれっ、おのれっ、おのれっ…………!)

 

 こんなはずではなかった。

 確かに、一夏のIS操作技術は拙い。しかし、それを補えるだけの知識を一夏は持っている。もちろん、そのことを知られるわけにはいかないが、“織斑一夏の華々しいデビュー”のために、それとなく技術は知識で補うはずだったのだ。そして仮にも束が関わったはずの機体である。そんじゃそこらのISとは一味も二味も違う。機体性能だよりになるものの、それでも適正がなければそれを使いこなすことはできない。そして相手は仮にも代表候補生。まさか初心者相手に全力を出すなどというみっともないことはしない。そもそもセシリアの実力は十分に知れ渡っているのだ。彼女が負けたとしても誰もが勝ちを譲ったと思うことだろう。

 道化にされることは一夏として問題はない。重要なのは織斑一夏自身の特異性を示すことなのだ。

 

「二十七分。持った方ですわね。褒めて差し上げますわ」

「そりゃどうも……」

 

 セシリアの言葉に一夏は苦々しげに返答する。

 セシリアの攻撃が止み、二人の間に暫しの静寂が訪れる。

 しかし、裏ではISコアによるデータ通信ネットワーク、その内の秘匿回線であるプライベート・チャンネルを通してセシリアから一夏に通信が入っていた。

 

『ごきげんよう、織斑一夏さん』

『オルコットか。何のつもりだ?』

『積もる話は後でよろしくて? それよりも、そろそろ何か動きがないとあなたとしては色々よくないのでは?』

『っく……』

 

 織斑一夏の特異性は、今の時点で既に示せたといっていい。実際のところは嘘ではあるものの、一夏の“可能性”の片鱗は見せつけることができている。

 しかし、それでは足りない。今の一夏のそれの価値では、彼が求めるところには届かない。

 もっと何かを。突出した何かを。“織斑一夏”だけの価値を。

 それを以って世界の一夏への認識を“織斑千冬の弟”でも“篠ノ之束の幼なじみ”でもなく“織斑一夏”自身に変えなくてはいけないのだから。

 当初、一夏としてはセシリアに何らかの劇的な方法で一矢報いればよかった。流石に代表候補生に打ち勝つほどの実力は必要ないが、一瞬でも危機感を覚えさせればいい。“急成長の可能性”さえ示せれば、その後いくらでも強くなれるのだ。

 しかし、問題が一夏の前に立ちはだかった。

 最適化処理(フィッティング)である。

 搭乗者に最適な状態になるために機体そのものが中身(ソフトウェア)外身(ハードウェア)共に変化・変身・変形する最適化処理(フィティング)中は、本来の機体性能の半分も出せない。それらいは一夏だって知っていたし、届けられたばかりのISを使う彼がこの試合中に最適化処理(フィッティング)を行わなければならないことはセシリアだって分かっている。

 問題は、白式の最適化処理(フィッティング)そのものにあった。

 白式のそれは既に通常のそれの基本時間を大幅に越え、なおかつ振り分けている処理容量が通常のそれを遥に逸脱していたのだ。早い話が、現在白式は本来のスペックを一割も発揮できていなかった。

 そしてこの予想外の事態が、一夏の精神を大きく削っている。

 だから一夏はISコアネットワークでの通信に応えるなどという失態を犯した。

 

『反論がないようなので提案させて頂きますわ。これからブルー・ティアーズの飛行予定座標を送りますので、その刀で破壊するのがよろしいかと。ああ、別に構いませんわよ、断っても。その場合は速迎撃した後に、あなたに射撃データを送った事実を公開しますから』

 

 ISコアネットワークは搭乗者の表層意識を以って行われる。それはつまり、嘘がつきにくいということだ。

 一夏のように仮面を被っているような人間にとって、表層意識は仮面の下そのもの。セシリアのように心を捨てたような人間か、“魔女”のように自身の心さえも偽りきるような人間でなければ、裏と表の顔を持つ場合どうしてもコアネットワークでの通信に違和感が生じる。もちろん普通の人間がそれに気づくことはできないが、心を捨てたセシリアだからこそその違和感に気づくことができた。そしてその前から感じていた“織斑一夏のぶれ”と合わせることで、セシリアは一つの事実に辿り着く。

 織斑一夏は、『織斑一夏』を演じている。

 そのことに気づいてしまえば、そこからは簡単だ。感情の原因を把握することはセシリアの得意とするところ。

 実際のところは賭けだったのだが、そのことを一夏が知る由はない。

 

『……何が目的だ?』

『対等な取引を。わたくし、あなたの力になれると思いましてよ』

 

 一夏に迷っている時間はなかった。

 セシリアの脅しの内容から、一夏は自身の仮面が見破られたことを理解する。

 断ることはできない。このままセシリアに堕とされれば、一夏の計画は破綻する。確かに最適化処理(フィッティング)の件を考えれば一夏が何もできずに堕とされても何ら可笑しくはない。しかしそれでは“織斑一夏はそこまで強くはない”という印象を与えることになる。そして“織斑一夏”が軽んじられれば、“織斑一夏”は“織斑千冬”の、そして“彼女”の付属品に成り下がる。そうなれば、“彼女”を世界から救うことが難しくなる。

 

『――――期待するからな』

『ええ、構いませんわよ』

 

 ISのコアネットワークは表層意識をそのまま通信する。故に、通常の口頭会話よりも短時間でやりとりが可能であるのだが、流石にそろそろ時間切れ。

 

(今は従うしかない…………だが、思い通りになると思うなよ)

 

 一夏は白式を上昇させ、セシリアは右手を横に動かす。

 

「では、閉幕(フィナーレ)と参りましょう」

 

 セシリアの宣言と共に、ブルー・ティアーズが予定通りの軌道を通りレーザーを放つ。そして一夏は示された道筋を通り、少しずつその身にダメージを受けながら配置場所に移動する。

 しかし、その前に。

 

「ぜああああっ!!!」

 

 一夏は白式をブルー・ティアーズに衝突させた。

 

「なっ……――――」

 

(白々しいやつめ……)

 

 IS同士の衝突時に声を上げたセシリアを一夏は冷静に見つめる。

 セシリア曰く、この接触を以って白式は反撃を始めるらしい。現在展開している四つのブルー・ティアーズを順に無力化したところを、残り二つのミサイル型であるブルー・ティアーズに撃たれて白式は墜落。そしてセシリア・オルコットの勝利。

 事前データ収集など『織斑一夏』がするはずがなく、勝負の展開としては決して悪くはない。本当はもう一枚くらい上手に出たい一夏だったが、最適化処理(フィッティング)が終わらない機体ではそれでも十分過ぎる異常な戦果と言える。

 そして舞台は順調に進み、セシリアの弾道型(ミサイル)のブルー・ティアーズが白式へと放たれた。

 

 

 

 

     7

 

 

 それはまさに最高のタイミングと言えた。

 演出するのなら、必ず選ぶであろう瞬間。

 絶対絶命の場面で、白式は最適化処理(フィッティング)を終えた。

 一次移行(ファーストシフト)により白式はその姿を本来のものへと変える。

 流石のセシリアもそのタイミングの良さに驚いたのか、一瞬指示が途切れる。しかしすぐさま復活して、通信を繋げてきた。

 

「ま、まさか……一次移行(ファーストシフト)――――」

『織斑さん。刀が大分変化したようですが、必殺技とかあります?』

 

 口と意識で別々の言葉を発するという高等技術を駆使して一夏にそう尋ねるセシリア。

 しかし肝心の一夏がセシリアに返答する様子はない。

 彼の意識は、その瞬間完全にその右手に握られた太刀に向けられていた。

 ――――近接特化ブレード・『雪片弐型(ゆきひらにがた)』。

 それは織斑千冬が現役時代に使用したISの専用武器と同種の太刀であり、そしてその特殊能力『零落白夜(れいらくびゃくや)』こそは、“彼女”に認められた“騎士”の証。

 ISのシールドバリアーを切り裂く最強の矛。それは、“彼女”の絶対の盾すらも例外ではない。

 だからこそ、この『零落白夜』は意味を持つ。

 “彼女”からのみ与えられる、“彼女”が授ける称号。

 姫を守る騎士のみが得ることのできる、栄光の証。

 一夏はそれを、強く、強く握りしめる。

 

「俺は世界で最高の(・・・)“姉さん”を持ったよ」

 

 初めて“彼女”を知ったのはいつだったか。

 思い出せないほどに、“彼女”の存在は意識の奥底にまで浸透している。

 たまに遠くへ行ってしまったように感じるときもあるが、それでもこうして絆は繋がっている。

 “彼女”を守ることこそが三人の至上。

 だから。

 

「俺も、俺の家族(・・)を守る」

 

 織斑千冬も、篠ノ之箒も、既に“彼女”を守っている。

 少し遅れてしまったけれど、織斑一夏も“彼女”を守る。

 

「とりあえずは――――」

 

 騎士の称号を譲ってくれた千冬に恥じないように。

 “彼女”騎士として笑われないように。

 

「――――千冬姉の名前を守るさ!」

 

 雪片弐型が、零落白夜が降り下ろされる。

 そして――――――――

 

 

 

 

     8

 

 

 誰もいないシャワールームで、セシリアは一人立ちつくす。

 頭上から降り注ぐ雫は、セシリアの肩を打ち、背を流し、髪を揺する。

 セシリア・オルコットにとって、織斑一夏の価値はそこまで高くなかった。仕事であれば接触するが、わざわざ積極的に触れ合うつもりなどなかった。そもそもセシリアは心を捨てた。現にセシリアの友人関係はすべて利害関係を含んだものでしかなく、織斑一夏といえどもそれは変わらない。

 セシリアにとって、織斑一夏の名前さえ手に入ればそれでよかった。オルコットの家を守り抜くために、男を排除するために織斑一夏の威光を着ることができればそれでよかった。そうすれば、もはや国内の有象無象ではセシリアに手が出せなくなる。そうすればオルコットの家を奪われることがなくなるはずだった。

 最初は任務だから近づいた。

 その次は何故か気になったから近づいた。

 そして、今。

 

(――――織斑、一夏――――)

 

 セシリア・オルコットは三年前より、両親の意志を守るためだけに生きてきた。

 幼い心に蓋をして、華奢な体で戦ってきた。

 

(――――家族――――)

 

 それはセシリアが亡くしてしまったもの。

 もう二度と戻ってはこないもの。

 セシリアの胸の奥が、じんと熱くなる。

 

(――――家族を、守る――――)

 

 全身が震える。

 その身を釣り上げられたように肌が張り、体中に熱が回る。

 

(――――家族を――――)

 

 暖かいものが次々に込み上げ、それは止まることを知らない。

 それは忘れていた感情。

 いや、忘れたかった感情。

 三年前のあの日から、押し殺してきた思い。

 セシリア・オルコットは“心”を殺した。

 何のためか? オルコット家を守るためか?

 確かにそうかもしれない。

 けれど、本当は。

 本当は。

 ただ、悲しかったから。

 認めたくなかったから。

 だから、心を殺して。

 セシリア・オルコットは自分を保とうとしたのだ。

 だというのに。

 

「織斑、一夏……」

 

 ああ、彼のせいで。

 セシリアの心は。

 捨てたはずの思いは。

 

「………………」

(……これは、責任を――――責任をとってもらわなくては、いけませんわね…………)

 

 そのまま暫く、セシリアはシャワーに打たれ続けた。


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