真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百五十八話 刻来たりなば、死線遠からじ

 なるほどね、と曹操は入城した沛の城内で感心した。戦で負けた軍勢が入ってきたところで怖くもなんともないと、一人一人の民の顔に浮かんでいた。しかも李岳からよく言い含められているのだろう、こちらが供出を望む物資は既に整えられていた。曹操はまるで物乞いになった気分さえ味わうことが出来た。李岳という男は本当に手を変え品を変え、様々な感情を与えてくれる。

 態勢を立て直した孫権軍が入城してきたのは五日が経ってからだった。孫権は真っ先に曹操に食ってかかった。

「なぜ援軍に来なかった!」

 ここに来るまでにどう文句を言ってやろうか、溜めに溜めた鬱憤だろう。

「みすみす離脱させるなど! 我らは八千もの兵を失った! 八千だぞ!? 敵はたった三千だったというのに……用意があれば負けなかった! 姉上の仇を討てたはずなのに!」

「あの時点で向かえば李岳も追撃を放った。そして呼吸を合わせて折り返してきた張遼隊と挟撃に遭ったはず。行けるわけなどない」

「くっ! だが知らせを送ることさえできなかったというのか!」

「論理的でないわね。どうやって先発した張遼隊を追い抜いて知らせを届けるというの? あの離脱作戦に際しては、我が軍も対応が万全だったとはお世辞にも言えないけれど、これは戦でしょう。そういうものだと、雪蓮なら言うはず」

「姉上の真名を、軽々しく口にするな!」

 背を向けて去る孫権を見送る曹操と、入れ違うようにやって来た周瑜。

「すまないな曹操殿。我が主君も少し動揺していてね」

「気にしないわ。でも、ネンネなのね」

「……聞かなかったことにする」

 暴言は一度まで、と周瑜の目がきつく訴えていた。

「付いてなくていいのかしら?」

「こういう時は歳の近い者の方がいい」

 周瑜が顎で示す先では、既に長い黒髪の美しい少女がそばに寄り添っていた。確か周泰と言ったろうか。

「それにああ見えて怒らせたら姉より怖い。激情型というのかな。本人は理性で戦う性格だと思っているようだが」

 確かに、先程の剣幕は曹操をしてもなお息を呑む程だった。気迫は姉を凌ぐのかも知れない。読みやすくもあるが、それを補うのが目の前の周瑜なのだろう。

「案外、妹の方が君主に向いているのかも知れないわね」

「さぁ、どうだろうか。姉妹が逆なら、運命はだいぶ変わっていたかも知れない」

「楽しい空想だけれど、用事を先に済ませましょう」

 曹操が声を潜めると、周瑜もそれにならうように顔を近づけて来た。

「被害は八千だと聞いたけれど?」

「戦力に問題はない。主力は温存している。それよりも、あの李岳の戦い方。まさか?」

 さすが音に聞く美周郎。曹操が懸念している要点について完全に理解していた。

「私もそれを危惧している」

「取りやめるなら今だが」

「代案があるのなら」

「……ふぅ。貴様もよくよく、君主の器だよ。私は所詮軍師に過ぎんな」

「やってみれば? 案外務まるかも」

「骨が折れる。勘弁してもらおう」

 不意に周瑜が手を伸ばして曹操の肩を掴んだ。背の低い曹操に合わせるようにかがみこみながら囁く。

「アレを使うべきではないか?」

 いい女だ、と曹操は己の肩を握る手指の力を感じながら胸にときめきを宿していた。あの孫策が信任しただけのことはある。煥発する才気に悲痛なまでの覚悟、そしてむせ返るような艶。これらを乙女の魅力といわずして何という。

「李岳軍は手強い。出し惜しみすれば機会も何もなくなってしまうぞ」

 曹操の沈黙を懸念と勘違いした周瑜。曹操は己の惚けに気付かれまいと意識を正した。

「……私も同じことを考えていた。李岳は我が軍の戦力を把握したつもりになっている。次は決戦の覚悟で来るだろう。余力を持って耐えられるとは思えない」

「使うのだな?」

「使う」

 束の間議論になった。李岳が用いてくるであろう戦術を予想する必要があったが、認識に大きな差はなかった。李岳は騎馬隊の力を最大化してぶつけてくるはず。であれば予想は難しくない。

 別れ際、周瑜の声は決然という他なかった。

「念を押しておく。孫権軍は作戦続行を支持だ。李岳を討つ機会はこれを逃せばない、と判断している。急がねばならない」

「貴方の顔色が優れないことも、急ぐ理由かしら」

 そしてその手指の異常な冷たさも。

 周瑜は顔色一つ変えずに答えた。

「人には与えられた機がある。だがそれは何度もあるわけではない。それだけのことさ」

 そう言い残して周瑜はきびすを返した。

 周瑜の健康不安については程昱の調べだった。呂蒙、陸遜といった腹心の部下に仕事を任せることが増えている。それだけではなく度々都督としての任務に顔を出さないことも増えているという。確信はない、と程昱は報告の際に付言した。それは機会があるなら確かめてみろ、という進言と曹操は捉えたのだ。

 結果は言うまでもない事だった。周瑜は生きてここにいる。余計な考えは不要だろう。

 曹操の脳裏になぜか張貘の顔が浮かんでいた。周瑜は機会は限られてると言った。しかし少なくとも、曹操が親友と共に天下を制覇する機会については永遠に失われている。同様に、周瑜もまた孫策との刻を失った女でもある。

「貴女に天下を手向けるには、後どれほどかかるのかしら」

 曹操は思う。李岳、こちらは手負いだ。多少の手傷では足踏みすらしない。貴様が首を刎ねない限り、喉笛を食い破る所存である。

 曹操は荀彧を呼んで作戦の変更を指示した。肩にはまだ周瑜の手の感触が残っている。

 

 

 

 

 

 

 張遼の渾身の突破は、己が知る史実の因果に期待して任務を委ねた李岳本人でさえ驚くほどだった。

 孫権の朱の牙門旗を肩に羽織って帰参した時などは陣全体が色めき立った。すわ総大将を討ったのではないかと。そうであれば孫権軍は崩壊し、この戦役の決着さえ早々見える事態である。

 張遼は肩の返り血を赤い湯気のように立ち昇らせながら言う。

「もうちょっとでいけたんやけどなぁ、クソ! 影武者に釣られてる間に逃げられてもうたわ……」

 どうねぎらうか、考えた末に李岳が発した言葉はなかなかに気の利いたものだった。

「兵三千は多すぎたな。次からは千でお願いするよ。孫権がかわいそうだ」

 この言葉に張遼は大いに上機嫌になり、終生の自負となった。

 張遼隊の帰着を待って司馬懿は軍を再編、移動を指示。そしてまもなく李岳軍本隊と袁術軍は合流した。当初の予定通り西に陣を移すのだ。可能な限り曹操と孫権を豫州の深くまで引き込み、撃ち破る。曹操らの撤退距離が長引けば長引くほど追撃は有利になる。沛に立て籠もるのであれば補給線を断って周囲を取り囲めば干上がる。是が非でもここで全ての決着をつけるつもりだった。それに関しては曹操も同じ意見だろう。

 やって来た袁術は張遼と違い、地団駄を踏んで立腹していた。ものすごい勢いで駆け寄っては噛み付くような勢いで李岳に食って掛かる。

「なんじゃあの者は! なんなのじゃ!」

 やはりか、と李岳は苦笑いを隠す。

 李岳にとって袁術軍は守り抜くべき友軍であると同時に強化すべき要所でもあった。強力な騎馬隊を擁する李岳軍に比べれば、重装歩兵を揃えているとはいえ鈍重な袁術軍は明らかに攻めたくなるような印象を受ける。そこで逆撃を展開できればかなり手痛い被害を与えることができるという思惑だ。

 そこで李岳の出した結論は戦力の貸与であった。黄忠、厳顔、魏延に一軍を預けて別働隊として派遣する――だけにとどまらず、自らもまた煮え湯を飲まされた益州随一の知恵者に協力を要請した。

「法正殿とはそんなにも気が合いませんでしたか」

 袁術は長い金の髪を両手でそれぞれむんずと掴んで訴える。

「気が合う合わないの次元じゃないのじゃ! やつは人の神経を逆撫でするのが趣味なのかや!? イー! イーなのじゃ!」

「しかし、そのヤなやつの力があったから、孫権軍を押し込むことも出来たのでございましょう」

「むぅ! むー!」

 李岳の言葉を認めつつ、それでも抗議の意を込めて精一杯に頬を膨らませる袁術。残念ながら迫力はさほどなく、かわいいとしか言いようがない。

 張勲も優れた軍師だが、その資質は謀略家向きの能力に偏っている。より戦場を知る軍師が必要だと李岳は考え、法正を長安から引き抜き袁術の元に就かせた。

 法正は益州の劉焉に仕え、長安を陥落させた軍略家。朱儁は殺害され洛陽は途轍もない危機に陥ったものの、だからこそその能力に異論はない。ただしその類稀な性格を除けば、であったが。

 

 ――李岳の知る史実においても法正の能力は抜きん出ていた。劉備が劉璋から益州を奪取する攻略戦において、法正の下ごしらえがなければ戦乱はより長期化したはずである。蜀漢立国の際にも諸葛亮を補佐してその辣腕を発揮している。

 極めつけは曹操と劉備の最後の直接対決となった漢中攻略戦での功績である。夏侯淵、張郃という第一級の将を向こうに回して度重なる献策で勝利を重ね、とうとう定軍山で黄忠に夏侯淵を斬らせた。こと軍事に関しては諸葛亮よりも華々しい戦績を残している。惜しくも夭折したが、そうでなければ歴史はどう変わっていただろうか。

 

 そしてその史実においても、陰湿とも言える性格の悪さが随所に散りばめられていた。袁術と反りが合わないのも想定の範囲と言える。

「有能かもしれんが、あの者めぇ! 妾を、妾をちんちくりんと言ったのじゃ! ちんちくりんなどと!」

 ふんぬー! と李岳の足を蹴っ飛ばす袁術。ちっとも痛くない。袁術はしばらく散々に愚痴をぶつけた後、もういいと叫んで戻っていってしまった。言いたいことを言い切って多少すっきりしたのかもしれない。

「うまくやれてるようで安心したよ」

「もしかして節穴さんなんですか?」

 そばで控えていた張勲が隠すことなく軽蔑の視線を向けてきた。彼女の辛辣な口ぶりもは法正に負けず劣らずだろう。

「うまくやれてなかったならもっと酷いことになってるさ。袁術殿の器量のおかげかな。だいぶ我慢強くなられた」

「美羽様はいつでも天下最高なのですから当たり前です」

「けど、法正は有能だろ?」

「それは認めます。周瑜擁する孫権軍を相手にしてあそこまで的確な指示を下せるとは、少々侮っていました。そちらの張遼さんの攻撃に合わせて攻め込んだのも見事の一語。実力は認めます。けどねぇ……」

 様々言いたいことはあるだろうが、結局まぁいいですと張勲は口をつぐんだ。袁術が存分に吐き出した不満にさらに重ねる気にはならないらしい。

「頼むというのも何だが、耐えてうまいことやってくれ。袁術軍の踏ん張りがこの戦役の肝なんだ」

「はーい、わかってます。わかってますから。なるべく早期に孫権軍を痛めつけるのでしょう?」

 

 ――曹操を斬れば孫権を見逃す。その密約を魯粛が拒否せずに持ち帰った時から李岳は標的を孫権に定めていた。孫権軍にどれほど早く打撃を与えられるか、それを作戦の骨子の一つ据えたのである。戦場で曹操を倒すことは至難。強いだけでなく逃げ足も早い。となれば謀略が最適だった。孫呉は同盟と裏切りを繰り返す勢力であることは今の孫権を見ても史実を見てもよくわかる。それが卑怯だとは思わない。だが付け入る隙であることもまた確かだ。

 

 孫権を追い詰め曹操を斬らせる。これが勝利への最短の道である。そのために標的になるように袁術に出てきてもらい、法正を派遣したのだ。逆撃で孫権を追い詰める。曹操を斬らないまでも撤退を決断するのであれば、曹操との兵力差は決定的なものになる。

 孫権が曹操ほどこの戦いを急いでいると李岳は思わない。曹操と違い強力な地盤を持つ孫権には撤退してやり直すことが可能だということも大きい。本場は水軍、と心の中のどこかで思っているのであれば、陸戦で負ける方は肯じられないはずだ……周瑜の健康状態だけが、李岳が口に出さない懸念ではあったが。

 それから両軍は譙に向かって進軍した。十日目にして曹操軍も沛を出立したとの知らせが届く。損耗を気にしない曹操の意欲を感じる。次こそ、決戦となるだろう。

 譙に入城する。部隊の大半は城外に展開したままなので供回り百騎だけの随伴である。物珍しそうにやってくる見物がどこか懐かしくさえ感じた。厭戦と反李岳の機運が高まっている洛陽ではもうお目にかかることは出来ない光景だ。

 城で李岳を待ち構えていたのは艶めかしい服に身を包んだ旅芸人の女だった。人相の悪い、背の高い護衛を伴っている。李岳には一目で張燕と廖化だとわかった。

「遅かったねぇ坊や」

「坊やはないだろ坊やは……」

「それもそうだね。ご機嫌麗しゅう、総大将の坊や閣下」

 この人を御すのは絶対に無理だ、と李岳は諦めた。李岳が偉くなればなるほど強気に出る。今の李岳など格好のカモなのだ。ただし、権威に傲然と歯向かうのが彼女の魅力でもある。

「廖化殿も、何だか顔を見るのは久しぶりな気が」

「李岳の旦那には負けますが、これでも忙しく飛び回っているもんでね」

「……二人揃っておでましとなると、嫌な予感がびんびんするわけだけど」

 うん、と笑って羽扇を仰ぎながら張燕は周囲に目線を走らせた。この場にいるのは李岳と張燕らを除けば司馬懿のみである。余人を交えて話すことの出来ない報告のよう。

「叛乱が起きて、鎮圧されたのさ。まぁ事後報告だけどお許しよ。事情があったのさ」

「……詳しく」

「驚くよぉ? 場所は梁」

「なんだと!」

 予想を上回る重大情報だった。李岳の背に一瞬で汗が浮かぶ。

 梁は洛陽から南に三十里の都市である。しかもいま李岳が戦っている豫州と洛陽のちょうど中間地点でもある。

 梁が崩壊すれば補給線は完全に途絶するだけでなく、李岳は洛陽までの帰路さえ失うことになる。北でこらえている楊奉も無惨なことになるだろう。

 一瞬でよぎった様々な悪夢を一旦保留し、李岳は問い質した。

「鎮圧されたと言ったな? つまり梁は無事だな? 洛陽から誰が出向いた?」

「賈駆のお嬢ちゃんが直々に出陣して叩き潰した。さすがに鬼気迫る、ってやつね。アタシが第一報を聞いたのは十日前の昼だけれど、半日後には安堵の知らせを聞いたよ」

 戦闘中である。張燕が報告を遅らせたのは動揺させまいとした配慮だろうか。いや、と李岳は思い直した。張燕の仕事は確かだ。虚報の可能性を潰すのに時間を割いたに違いない。その間に確たる第二報に接したというのがいきさつだろう。

「しかし梁か……危機一髪だな。詠を残して本当に良かった。梁となると黄巾か?」

「御明察。元白波賊との軋轢がきっかけ。免税の待遇が平等ではないと不満が高まってる。でも結局その原因の全ては李岳将軍にござい、というわけ」

「……劉虞を斬った恨みか」

「とはいえ、誰かが煽っているのも確か」

 張燕はその顔にわずかな屈辱感を滲ませた。

「曹操の手勢は手強い。このアタシが率いる永家の者が捕捉できる者もいるが、それをすり抜けて工作を仕掛けてきているとしか思えない。雲か煙か……諜報を指揮する程昱という女、相当の手練れと見た」

 自らの得物である双剣『銀翼』を曲芸の手技のように弄びながら、張燕は舌舐めずりするように笑った。

「坊や、アタシはあんたに言ったね? 好きなことをし、好きに生きることこそ人の生きる道だと」

 公孫賛の依頼で馬を運んだ際のことだった。もう遠い昔のことのように思える。

「ああ。飛燕将軍はいつだってそうして生きているように思えたけど?」

「アタシは生きているよ。それを感謝しようと思ってね」

 張燕が李岳の顎を掴み、その眼を覗き込みながら言った。人に感謝を伝える姿勢とはとても言えない。挑発しているようにしか見えないが、李岳はこれが張燕の照れ隠しと誠意なのだとなぜかわかった。

「坊や、死ぬでないよ。負けてもいい。負けたところで人生は驚くくらい普通に続く。けど死んだらオシマイさ。それを伝えておきたくてついでに寄ったのさ」

「……勝て。そう言われるのかと思った」

「誰か一人くらいは負けてもいいと教えてあげなきゃね。あんたにはまだアタシと悪巧みして金を稼ぐ生き方があるってことを、覚えててもらわなきゃいけないのだし?」

「再就職先に不安がないのはありがたいことだ」

 それだけさ、と言い残して張燕はいつもの如くあっという間に姿を消した。当然廖化も消えている。

「如月、どう思う?」

「不真面目な人です。私は冬至様の勝利を疑っていません。それに坊やなどと。懲戒すべきでは?」

 李岳は腹を抱えて笑った。司馬懿は李岳が梁の叛乱のことを聞いたのだと気づき、無表情のまま耳だけ赤くして続けた。

「……曹操が謀略で洛陽を落とそうと考えるのはとても自然な動きですが、同時に戦場での勝利も絶対的な条件です。次の戦いに全力を賭してくることは間違いないでしょう」

「お互い、戦場で勝つしかないということか」

 勝つか負けるか。決着の時が近づいていることだけは確かである。

 稀代の英雄、そして長い歴史においても燦然と輝く軍略家――曹孟徳がその人生の全てをかけて自分を倒そうとしている熱意を、李岳は今この時でさえ灼けるほどに感じていた。

 

 

 

 

 


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