真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百五十四話 豫揚の間で

 ――時はわずかにさかのぼり、豫州は許昌。

 

 袁術は蜂蜜が好きだった。

 口にした瞬間、広がる甘みとあのなんとも言えない香り。水に混ぜて飲み物とする蜂蜜水も好きだけれど、乳酪に混ぜるのも良い。近頃肉に塗って焼いても美味しいということに気づき、周りに広めたいと思うもののほとんどの者が目新しすぎて気乗りがしない様子。美味しいのに、と袁術は思う。

 蜂蜜はとてもすごい食べ物なのだと繰り返し思う。美味しい上に健康にもいい! 

 

 ――だからきっと、これを食べれば楊弘も快癒に向かうはず。

 

黄鸝(こうり)? 黄鸝(こうり)?」

 扉をそっと開けて袁術は中を伺った。誰もいない……よし。滑り込むように部屋に入ると後ろ手で扉を閉め、寝台に忍び足で近づいた。

「黄鸝!」

 袁術がそう声をかけると、寝台に横になっていた楊弘がうっすらと瞳を開けた。

「……おお、これは姫様。いけませぬ、このような所においでになられては」

「起きないでいいのじゃ黄鸝。そのまま、そのままにしておれ」

 上体を持ち上げようとした楊弘を押し付けるようにしながら、袁術は雑な仕草で腹や胸や足を撫でる。どうやら看病のつもりらしい。皮のすぐ下に骨が浮き出るようになっており、すっかり痩せてしまったな、と袁術は悲しくなった。

「こんな婆に……なんとお優しい」

「黄鸝には早く元気になってもらわねば困るのじゃ! そう思って参ったのじゃ、妾が治してしんぜよう!」

 袁術は後ろで隠していた小壺を取り出しては部屋にあった碗に何やら注ぎ始めた。部屋に奇妙な刺激臭が漂う。

「これを飲むのじゃ! 妾特性の薬湯なのじゃ!」

 それは蜂蜜水に生姜やら桂皮やら体に良いと耳にしたものを片っ端から入れたもので、もちろん味見などしていないし、袁術はこれを飲めば絶対に治ると信じている。根拠は特にない。

 楊弘は碗を受け取ると、にっこりと笑ってゆっくりとそれを飲み干した。

「んん、とっても美味しゅうございます。甘露でございます」

「黄鸝、これで治るかや? 元気になるのじゃな?」

「ええきっと……元気になりますよ、何せ姫様の薬湯を飲みましたのですからなぁ」

 深い溜め息を吐いて楊弘は眠りにつくかのようにうとうととし始めた。しかしその表情には後悔による苦悶が滲んでいた。

「お優しい姫様……この婆がこんな病に倒れていなければ……いいえ、元はと言えばこの婆が間違ってなどいなければ」

 顔に刻まれた深いしわに沿って涙が流れていく。

「姫様、まことに申し訳もございません」

「謝らずともよいのじゃ黄鸝。今は体を良くすることに専念するのじゃ」

「いつか必ず、姫さまのための安寧の地を……」

 それきり急に静かになってしまったので、袁術はひどく怯えつつ震える手を楊弘の口元にかざした。息はある。ほっとするが、楊弘はこうして度々話の途中に急に眠りに落ちるようになった。そしてその時間はどんどんと長くなっている。いつか、もう目覚めることのない眠りにつくのもさほど遠くないだろうということは、袁術にもわかっていた。

「美羽様、こちらにいらしたのですか」

「うん、黄鸝は寝た」

 

 ――楊弘はこの数年、すっかり老いた上に度々病を得た。それも全ては孫権に揚州を追われたことが原因だった。楊弘は己の判断の過ちで孫権という虎に翼を与えてしまったのだと責め続けている。謀略を担当している己が支持したからこそ張勲も孫権を利用したと――事実そうではあるが――結果として、袁術は危うく死ぬところであった。

 袁術にせっかく与えることが出来たはずの安寧の地を、こうも容易く奪われてしまうとは! 揚州から豫州を経て何とか脱出を試みる間、楊弘の心労は途轍もないものになり、すっかり気力も精根も使い果たしてしまったのであった。

 

「なんで、なんでみんなは妾を好きなのじゃろう」

 楊弘の部屋から軍務室へ向かう道すがら、袁術はぽつりとこぼした。

「……美羽様が世界で一番かわいくて素敵な方だからですよ」

「わかっておる。それはわかった上で、妾は皆の拠り所になれているのだろうかと……だって、頼りないじゃろ?」

「み、美羽様」

「いいのじゃ、七乃。妾ももう子どもではない。大人でもないがな?」

 発育十分とはいえそうもない胸を、自嘲めいた手付きで叩きながら袁術は苦笑いする。張勲は袁術が何をどこまで理解しているのか、不意にわからなくなった。張勲の知る袁術ではないのではないかとすら思えた。

 豫州牧の地位にある袁術はここ数年、積極的に多くの人と交わり友誼を得てきた。高飛車で傲慢だった少女も孫権軍の叛乱によって支配地を追われ、懸命に逃走を経た後では一皮むけたようにどこか様子を変えていたのである。道すがら助けてくれた人たちの仁義、優しさが彼女の心に沁みたのであろうか。

「七乃たちが頑張っていることを妾は知っているぞ? いっぱい苦労をしていることもな」

「美羽様。私達は私達がしたいことをしているだけなのです」

「うん。そうだとしても」

 少しだけ――ほんの少しだけ伸びた背。ほんの少しだけ大人び始めた表情。そしてほんの少しだけ芽生え始めた自覚。袁術は自らでさえ気づかぬうちに、君主としての表情を浮かべて張勲に対していた。

「戦いへは、妾も行こうと思うのじゃ」

 やがて開戦することが決定している李岳と曹操の決戦。その舞台が豫州であることはほとんど確定している。豫州全土を巻き込む壮絶な戦になるだろう。そこには曹操と同盟を組んでいる孫権も参戦する。袁術の存在は相当に目障りのはず、標的になるのは火を見るより明らかだった。張勲の想定では袁術は生地である荊州南陽に避難させる予定だったが――

 なりませぬ、とは言えなかった。張勲はただ感激に震えながら、ひざまずき頭を垂れることしかできなかった。

「……厳しい戦いになりますよ」

「孫権にとっては妾は邪魔者じゃからな。李岳もそれをわかっているのじゃろう。曹操も孫権も一度に片付けたい李岳にとって、妾はおあつらえむきの餌というわけじゃな」

 張勲は袁術の洞察にごくりと喉を鳴らした。ここまでとは。晩生の大器という言葉が脳裏をよぎる。袁術は幼年の時を終え、羽化を控え皮膜を破ろうとしている蛹のように張勲には思えた――美しい羽を広げて天空を泳ぐ、万の雀蜂を従える偉大な蝶になろうとしている。

「餌ならば餌らしく、なおさら敵の前にぶら下げねばなるまい。妾が出向く価値は十分にあろう」

「美羽様がいるとなれば孫権は本気で向かってくるでしょう」

「うん。守ってたも」

 張勲の手を取って立ち上がらせながら袁術は見上げて言った。

「七乃。迷ってはいかんからここではっきり言っておく。袁公路はこの漢に尽くす大名族の頭領となるのじゃ」

 袁術の手を取ったまま、張勲は再び片膝をついた。敬意が溢れて考えるより先に体が動いてしまうのだ。

「麗羽が……麗羽姉様がやり損なったこと、妾がやる」

 士大夫清流派の頭領と目された袁家にすり寄るものは多かった。中には邪悪の二字以外に評しようのない輩もいた。そのほとんどを張勲は陰に陽に排除してきたのであるが、袁術の目から全ての汚濁を防ぎきったとはとても思えない。嫌な思いも数え切れないくらいしたであろうに……張勲は感極まりながらも、それをこらえて厳しく唇を一文字に結んだ。

「……袁紹様は敗北されました。その道は苦しく、茨の中を泳ぐようなものですよ」

「七乃。この何年かで、この国には色んな人がいることを妾はよくわかったつもり。弱い人も強い人も、いい人も悪い人も、妾みたいに愛くるしい人も、蜂蜜をいつでも食べられない人もいるということをじゃ……」

 張勲の相槌を待たずに袁術は続けた。それはここ数年、胸のうちに溜め続けた彼女なりの国への想いであった。

「中には名族にすがることでしか生きていけない者たちもいる。あやつらは……いや、妾もかや? まぁいいのじゃ。そういう人たちは、弱くて寂しいくせに強い家に生まれて不安なのじゃと思う。そういう者たちの不安をよしよしと聞いてやり、ちゃんと見てやらねばならぬと妾は思った。これは李岳には出来ぬこと。多分もう、妾にしか出来ないことだと思うのじゃ。それをやり遂げたいと思っている……だから逃げたくないのじゃ。李岳と一緒に戦い抜くこの気持ち、七乃はわかってくれるかや?」

「美羽様がそのようなお気持ちをお持ちだとは、この張勲……察することができませんでした」

「李岳じゃ! あやつに会って妾は何となく自分が変わったという気がする。なんというか……頑張らねば、という気になるのじゃ。皆のために頑張ろう。そう思わせるのじゃ。黄鸝のために、七乃のために頑張らないと行けない……李岳を見るとそう思う……妾は変わったかの?」

 張勲は思わず李岳の横顔を思い浮かべた。戦場に強く陰謀にも長け、張勲を愉快にさせるほど張り合いのある男。しかしどこか甲斐甲斐しく人の面倒を見てしまうような優しさを併せ持つ――間の抜けたところもある男。その男が袁術を良い意味で変えるなど……誰が予想し得ただろう?

 己は変わったか? そう問う袁術への答えは、張勲には一つしかなかった。

「美羽様はいつも、いつまでも変わりなく! 世界で一番お可愛いです!」

「うむ! うむ!」

 そこでようやく張勲は立ち上がり、いつものように袁術の手を取って二人並んで歩き始めた。しかしこれまでよりも半歩――いや、四分の一歩ほどのわずかな歩幅だけ後ろから歩いていることに袁術は気付いているだろうか。

「お辛い事も多いかもしれませんよ」

「七乃の助けがいると思う」

 張勲の頷きに躊躇いは微塵もなかった。

「はいもちろん。この張勲、いつまでも美羽様のおそばに仕えると誓い奉りましたもの」

「うん。七乃がそう言ってくれること、妾はわかっていた」

「さっすが美羽様!」

「うむ!」

「それではそろそろ出立の用意をせねば。前線ですよ? 私達のお願いはキチンと聞いて頂けますからね。とはいえ……美羽様、蜂蜜はいかほどお持ちしましょう?」

 袁術はカラカラと笑った。

「李岳のやつに見つかったら怒られるからな! もちろんたんまりできるだけ! けど見つからず隠し通せる絶妙な量を手配せよ!」

「はぁい、美羽様!」

 二人が歩く先には今や遅しと待っていた紀霊たち袁術軍の将が待っていた。細々とでも袁術の幸せを守ることが出来れば何でもよかったとさえ言える張勲ら配下の将たちだったが、あらためて袁術の気持ちを聞くと全員が震えその満願成就を天に誓った。紀霊の凄まじく大きな男泣きは洛陽にまで届くのではないかとすら思える程だった。

 袁術筆頭、豫州軍総勢四万は寿春から向かってくるであろう孫権軍に対するため、その日のうちに進発を開始した。

 

 ――袁術の出立から三日後、楊弘は静かに息を引き取るのであるが、本人のたっての頼みで袁術に届けが出されることはなく、彼女が知るのは全ての決着がついてからのことであった。袁術は楊弘を第二の母と敬い、その弔いには最大の礼が尽くされることになる。それは紛うことなき事実として陳寿による立伝に記載され、臣下を尊ぶその姿勢は後年に至りなお高く歴史家に評されることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――豫州汝南郡細陽県、対孫権最前線の地。

 

 豫州での戦いは袁術軍との共同作戦になる。

 それが予見できる以上、袁術軍との連携のために当初より豫州に軍を派遣することは李岳にとって当然の選択だった。

 派遣された軍は歩兵のみが二万。この後、豫州軍を糾合して孫権軍に当たることになる。

 総指揮官には黄忠。その下に厳顔と魏延の二将。最前線である。間違っても暴発してはならない上、柔軟な対応力が求められる。度が過ぎて血気盛んな将が豊富な李岳軍の中で、比較的沈着冷静な対応が期待できる人選であった。魏延は厳顔が抑え、厳顔は黄忠が抑えるという目算である。

 厳顔と魏延は漢中と涼州の抑えに配置されていた将だったが、それを引き抜くあたり対曹操戦線に全力を傾ける李岳の覚悟を感じさせた。

「さぁて、桔梗?」

「わかっておるわ、紫苑」

 厳顔は奮い立っていた。黄忠の呼びかけが、高ぶる戦意のあまりに厳顔が暴走しないようにという忠告であることは重々理解できた。厳顔は落ち着いている。しかし闘志も満ちている――そして泣いていた。

「勘違いするなよ」

 先手を打つように黄忠に向けていった。これは武人の涙だった。

 

 ――厳顔はこの間、己を責めて悔やむ日々を過ごしていた。益州から討って出て、長安を撃破占領したあの戦いを悔いていた。

 武人として華々しく戦い、そして散ってしまいたいという己の考えがどれほど矮小で利己的なものだったか……戦うことそのものが目的となった己に何の正義があったろう。その中で死なせてしまった者たちに果たして十分な意味を与えることが出来たといえるだろうか。

 洛陽で過ごす中、陣営の皆と接するうちに厳顔は率直に恥じるに至るまでにその思索を深めていた。戦いで何が失われるのか、そして戦いの先にあるものが何も見えていなかったと思ったのだ。

 李岳軍には志があった。多くの者を救うという、この国を守るという大義があった。無様にも踊らされ、それに挑戦した愚か者こそ己であると認めるには恥を伴ったが、それから目を逸らす恥辱に比べれば甘い苦味であった。

 恥のあまりに自ら願い出て一兵卒より戦場を駆け回ることになった。次いで輜重隊、小部隊の隊長を歴任しこの地位にいる。

 厳顔の経歴を考えれば、いくら奮闘したとて栄達はないだろう。

 それでも、疑いなき大戦の現場に己が居合わせた幸運を感謝せずにはいられなかった。

 手にしている赤骨――皇甫嵩から渡された、朱儁の遺剣――を肩に担ぎ上げながら厳顔は涙を拭うこともなく笑った。

 

「紫苑、わしは大馬鹿ものじゃ」

「ええ。私も私をそう思うわ。まったく、似た者同士だこと」

 厳顔は苦笑し、晴れゆく秋空に浮かぶ羊の群れのような雲を見上げながら言った。

「以前、戦いなど全て狂うておるといったが、違ったな。狂っているかもしれんが、狂ってはいかんのだ。正気を保つべきなのじゃ。そしてそのためには、志と……それを信じさせる御方が必要なのだとわかった」

「それが」

「うむ。お館様よ」

 厳顔は李岳と深く話してはいない。勧めはあったが真名も交わしてはいない。それでいいと思っていた。見上げる程度には上と下を分けていた。心の距離があるわけではないが、それが自然と落ち着く関係なのだと厳顔は察していた。

「恥があるなら雪がなきゃいけないわね」

 厳顔と似たような葛藤が黄忠にもあったのだろうかと思う。あったはずだ。だから戦っていられる。

「ああ。気づいたが、恥というやつは重い。ずっしりとくる。一刻も早く下ろしたいものよ」

「下ろせる日はいつになるかしら」

「せめて、足掻かねばな」

 伝令が走り寄り、袁術軍本隊の接近を告げた。予定よりも早い。前情報よりも期待できる軍勢かもしれない。袁術は名門を鼻にかけたこまっしゃくれた小娘だという噂もあるが、さていかほどか。

 先入観を払いのけ、心の内を開けてみようと厳顔は胸を躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――揚州九江郡寿春、孫権私邸。

 

 薄曇り、さらにかき煙るほどに霧も濃い。

 雨はないが濡れるような湿気があった。この地域の夏の終りは常にこうだ。南に聳える雄大なる廬山もその中腹を霧に隠されてしまっている。

 いくつもの支流に別れた偉大なる長江は、この寿春の付近でそのほとんどを鄱陽湖(はようこ)に流し込むが――故に九江――波打つように激しいためにこうしてよく濃霧に包まれる。河北の人間が見れば驚くような光景だろう。風土も人も別の国だ、という思いが年々強くなっていく。

 孫権はしばらく前からこの対豫州の前線基地として築城された寿春に前入りしていた。本隊は本拠地である建業から水陸両方を利用して先日到着したばかりである。

「蓮華様、周公謹まかりこしました」

「入ってくれ」

 周瑜の分も含めて孫権は手ずから茶を淹れた。北で呑まれる生姜などの薬味を混ぜ込んだものではなく、ただ茶葉をそのまま蒸して突いたもので、混ぜものがなく澄んだ味がする。孫権はこの茶の方が好きだった。茶は南の方が断然品質がいい。

「全く……小蓮様には手を焼かされましたよ」

 周瑜は恨み節から入った。

「……難儀しましたよ。『シャオもいく! シャオもいく!』とそれはそれは大騒ぎしたものです」

 聞けば最後は張昭と程普が二人がかりで抑えつけてようやく出立できたとのこと。しかし周瑜の疑惑は中々晴れず、出立してしばらくは荷に隠れているのではないかと毎日点検が実施されるほどだったという。

「けれど、シャオを連れてくるわけにはいかない」

「承知」

 自分に何かあれば引き継ぐ者が必要である。まだ子のいない孫権にとっては、継承者は当然妹である孫尚香が該当する。程普、韓当、朱治の古強者の三人も居留守としている。彼女らがいれば何かあったとしても孫尚香を盛り立てて揚州を守り切ることができるだろう――後事に憂いはないということである。

 逆に言えばそれ以外の人員は全てこの場に集めた。周瑜、魯粛、黄蓋、甘寧、呂蒙、陸遜、周泰。孫権が頼りにする将たちである。本来なら水軍を率いて荊州を突破するための人材たちだったが、荊州水軍の頑強な防備を突破するのは並大抵のことではなく、今は全員が陸戦部隊を率いている。

 山越族に備えるための最低限の兵を除けばほとんどの戦力をここにかき集めた。城塞守備も多くて百程度に抑えることが出来ている。

 それもこれも全ては揚州の治安が限りなく安定し、孫家による統治が極めて順調に浸透しているからでもある。袁術への反感は表立ったものでなくても、不安という形で確実に存在していたのだ。それを汲み取った孫権の存在に民は強く惹かれている。長らく中央から保護の薄かった揚州は独立独歩の気っ風が育っており、中央からやってきた名家の袁術より地元から成り上がった孫権に、多少の判官贔屓も含むとはいえなびいたのである。

 ただし、揚州奪取の手法は諸子百家のどれに照らし合わしても道義的な擁護は難しい。袁術を斬ることは豫州を伐り取るだけにとどまらず、孫家にとって後顧の憂いを断つ重要な価値もある。この戦は孫権にとって姉への仇討ち以外の意味もあった。

「ところでご用向きは?」

「これからのことを少し相談したくて」

 用事は特にない、というのと同義だった。

 孫権は余人を交えず周瑜と話すのが好きだった。広い視野、深い洞察……それは孫権になかったはずの野心を刺激し、夢を見させてくれる。死んだ姉、孫策の魂が周瑜の中で生きており、その息遣いを感じるような気さえする。

 周瑜自身は孫策を死なせた負い目からか、孫権に遠慮がちな仕草を時折見せるが、それが孫権からすれば可愛い程であった。孫策が周瑜をからかい可愛がっていた気持ちがよくわかった。

「作戦目的をもう一度明確にしておきたいんだ」

 孫権の言葉に周瑜が頷き、まるで講義するように話し始めた。

「最上は李岳軍の撃破、および李岳の殺害です。次点で敵戦力を漸次後退させることによる豫州の奪取」

「李岳を打ち破った場合、その後どうなる?」

「洛陽を守護する軍勢はその大半が李岳の指揮下です。天子を守る力は一挙に失われるでしょう。洛陽に残る董卓と賈駆の元には皇甫嵩率いる首都防衛の親衛隊がおりますが、出来ることは精々敗残兵をまとめて長安に遷都する程度です……李岳が死んだとなれば、洛陽の放棄を奴らは躊躇わないでしょう」

 仮に李岳が生きて洛陽に戻ったとしても防衛は難しい。曹操は兗州から西を目指し、孫権は南からの北上を狙う。洛陽を南と東から挟み撃ちする形だ。まとまりのない連合軍ではない。李岳軍本隊を食い破った直後の情勢なのである。まず勝てるだろう。長安への脱出は現実味のある未来だった。

「長安への侵攻は長い戦線を維持する頑強な兵站が必須。これを構築するのには洛陽を得て五年はかかる目算です。労力に見合いません。しかし天子の身柄を手に入れねばいつまでも逆賊の(そし)りを受け続けることになります」

「……謀略か」

「それが手っ取り早いですね。洛陽を手に入れた後に兵は出さず少数精鋭で奪う。これが決まれば最も楽です」

「甘い考え、という風にも聞こえる」

「どう転ぶかわかりません。こればかりは数多くある未来の行く末の一つに過ぎませんので……洛陽を誰が取るか。どういう形で取るか。そもそも誰も取らないのか」

 周瑜ほどの才媛であれば、十も二十も未来図を描くものなのだろうか。孫権にはそれほどの絵図面を描く力はない。精々、長江流域を支配する程度の視野が限界だ。

「わかった……目先の話を聞きたい。李岳軍を撃破した直後の動きについて」

「豫州の北半分を曹操、南半分を我々が分割統治することで合意が取れております。これについては颯がまとめました」

 魯粛が動いているのは知っていたが、そこまでまとめていたとは孫権も知らなかったことである。孫権は周瑜と魯粛に関しては事後報告さえあれば良しとしてかなりの権限を与えていた。情報の伝達に時間をかけるよりも即断即決を重んじることが孫策以来の伝統である。

 そこから先は今の孫権でも想像がつく。豫州の南半分を平定した後は水陸両面から荊州を奪いにかかる。南荊も含めれば広大な土地である。そこまで得て初めて長江流域の支配は盤石の安定を得ることが出来る。その先には北上して洛陽か、遡上して益州か――

「お忘れ召されるな。ここまでは我々ではなく、李岳の思惑通りなのです」

 周瑜が釘を刺すように言った。

「曹操もそう感じているでしょう。李岳は恐るべき早さで全ての叛乱を鎮圧してきました……あらゆる戦に勝った無敗の軍神と謳う者がいるのもむべなるかな。今度はこの国の最後の不穏分子である曹操、孫権を一度に片付けてしまおう、という腹づもりでしょう」

「つまり我ら孫呉の軍勢は陸に釣り上げられた魚ということか」

「まさに」

 周瑜は小さく笑いながら茶に口をつけた。

 異民族である山越との戦いはその全てが陸戦だった。呉兵を弱卒と軽んじるのならこれほどやりやすいことはない。

「李岳は二軍に分けている。対曹操軍のための騎馬隊主体の軍、そして対孫呉用の軍。こっちは豫州軍との寄せ集めらしい」

 孫権もこの間に遊んでいたわけではない。魯粛の手の者たちを使って情報収集に努めていた。

 李岳からすればより警戒すべきは当然曹操であり、孫権などとりあえずの軍で防いでしまえばいいと考えて当然のことである。が、それでも孫権の腸は煮えくり返る思いだった。豫州軍を短期に撃滅し、返す刀で曹操と本隊を挟撃する――その夢想をここしばらく孫権は一人昼夜問わず弄んでいた。

「どうすればいいと思う?」

「当初の予定通り曹操軍との合流を優先しましょう」

 孫権の中で芽生えた戦術思想は周瑜に言下に否定された。孫権は口に出すかどうか迷ったが、結局言わないことにした。他愛ないと思われたくはなかった。

「例の兵器の件もあります。ここは合流し、共同作戦に徹した方が良いかと」

「うん」

 周瑜が合流を優先する合理的な理由を挙げてくれたおかげで孫権は自尊心をわずかに癒やすことが出来た。

 例の兵器――曹操と協力して作り上げ、運用に至っているものである。李岳が発明したという連弩や鐙を流用するのと平行し、孫権軍も極秘裏の環境下で訓練に訓練を重ねた。

 今のところ問題点は見当たっていない。しかし相手はあの李岳軍――大陸最強の騎馬隊を擁する国軍なのだ。

「無事に通じるかどうかは……」

「現段階では有用性を確認できていますが……まずは曹操に試させましょう。我々としてもその方が楽です」

「悪いやつ」

「軍師ですもの」

 おかわりをもらっても? と美しい黒髪をなびかせて周瑜が微笑んだ。


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