真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百五十話 勝利を求めて孤立を恐れず

 ――冀州を発った陳寿は洛陽に戻っていた。相も変わらず騒然とした大都市であるが、陳寿の自宅は静けさに包まれていた。母が死んだのだ。娘の帰郷を待っていたかのように、母は陳寿に看取られて逝った。陳寿はしばらく服喪に努めることとなったのである。

 

 弔いに幾人も人が訪れ、その中には生まれ故郷である益州ゆかりの者も多かった。陳寿も母も生まれは益州である。数日に渡って入れ替わり立ち替わりやってきた弔問客たちだったが、最後に顔を見せたのは羅憲であった。

 羅憲は生来の大らかな立ち振る舞いのまま霊を弔った。陳寿が共に茶でもと勧めると、羅憲は鷹揚に頷きながら答えた。

「羅憲殿。わざわざのお運び感謝の念にたえません」

「君を推挙したのは私だからね」

 それは事実だった。陳寿の今があるのは羅憲の推薦があったればこそだった。

「それで、これからどうするつもりだい?」

「郷里の地に母を埋葬するのが子の道ですので、旅に出ることになります」

 陳寿は儒の教えについての正道を述べた。しかし羅憲は陳寿の嘘を見抜いていた。

「とはいえ喪に従って仕事を控える、という様子ではないようだ」

「……そのようなことは」

「嘘をつかなくてもいい。誰に言うことでもない」

 陳寿ははぁとため息を吐くと喪服としてかぶっていた白帽を脱ぎ捨てた。

「大当たり。さすが羅憲様です。けど旅に出るのは本当ですよ。向かう先は違いますが」

「益州に向かったことにするけど行かない、と」

「だって、行かないと周りがうるさいじゃないですか?」

 儒教の道理は未だ強固である。服喪の儀礼を怠ったならば、鋭く指弾する者が後を絶たないだろう。陳寿は母の弔いと称して批判を躱しつつ、自らの望むところに出立するつもりなのだった。本音としては全くどうでもいいと思っている。母との絆に、余人が立ち入る理由がどこにある?

「向かう先は?」

「北へ。恐らく最後の旅になるでしょう」

「……どうしても行くのだね?」

 羅憲の様子に陳寿は居住まいを正した。思慮深く、面倒見が良い羅憲は司馬懿とも懇意だった。そして他の重鎮たちとも距離は近く、要衝の管理を任されてもいた。どのような苦境であれ冷静沈着、忠義に厚く堅守で実績のある羅憲は世間でも尊敬を受けている。

 その羅憲がわざわざ訪れて思わせぶりなことを言う。その意味を考えた上で、陳寿は前々から疑っていたことを切り出した。

「羅憲様は、李岳という人をご存知ですね?」

 細い目をさらに細め、羅憲は遠く西を見た。

「約束をした。私はそれを守りたい」

 羅憲は陳寿の言葉を肯定も否定もしなかった。それこそ、何より明快な答えだろう。

「その約束は如月様とされたものですか?」

「他にも多くの方と。私は誓いを破りたくはないのだ」

 羅憲が口を割る様子はない。それでもこの話を持ち出してきたということは、陳寿の調査を中断をさせようという思惑なのだろうか。

「私は書きますよ。如月様が亡くなられて十年。これに全てを費やしてきたのですから」

 十年。口に出して初めてその時間の長さを実感した。

 羅憲は寂しそうな、悲しそうな目で陳寿を見つめる。

「……多くの人の願いに背いてまで、君は書くというのかね」

「それが真実ならば」

「真実は、人の願いや想いよりも重大なのだろうか?」

「書くことは!」

 思わず語気を荒げてしまったことを訂正するように、咳払いをして陳寿は言い直した。費やしてきたことの重みが陳寿から容易に冷静さを奪ってしまう。

「……書くことは、我が生命です。真実は人の意によって捻じ曲げられてはいけません。私はそう思います。正しい記録を残すことこそが先人から受け継ぐべき最も偉大な叡智ではないでしょうか」

 陳寿の迫力に気圧されーーいや、陳寿をなだめるためにそう装っただけだろうーー羅憲はしばらくの沈黙の後に立ち上がった。

「もとより止めるつもりはない。ただこう言いたかっただけなのだ。君に平穏と安寧がありますようにと、そう伝えたかっただけなのだ」

「であるならば……私のことなどお捨て置きください」

 羅憲は真実、陳寿を傷つけるつもりなどなかった。訪れたことを少し悔いていた。かける言葉を見つけるために、当てどもなく目線を泳がせた時だった。羅憲は陳寿の手元に見覚えのある書を見つけた。

「それは」

 陳寿はそっとその書簡に手を添えながら答えた。

「……一番好きな文です。如月様の書かれたもので、一番好きなものです」

「そうか。私も好きだな。それを都度読み、気持ちを正している」

「ですが、今は疑っています」

 羅憲が初めて凍りついたように動きを止め、声を震わせた。

「……陳寿よ」

「これは如月様の文ですが、如月様が奏上したものではありませんね、羅憲様?」

 羅憲は陳寿を侮っていたことに気付いた。この少女はとうに全てに気付いている。ほとんど全ての事実を中華全土から回収し、掌中に収めている!

「私はすべての記録を改めました。全ての、です。そして気付きました。如月様は確かに素晴らしい功績を収め、道理に見合った出世をなされてます。しかし、しかしです! そうだとしてもある時を境に道理に見合わぬ地位が与えられていると感じました」

「……司馬仲達様を愚弄するつもりか?」

「いいえ、いいえ! 愚弄しているのは皆様です! 欺瞞に満ちたこの世界です! 例えばこの文をよくご覧になってください!」

 陳寿が開陳した書には所々に朱が入れられていた。それは陳寿が見抜いた、工作の痕跡である。

「天子に奉られた文が改竄されているというのかね!」

「その通りです!」

 陳寿の確信に動揺はなかった。巌のような頑強さでもって羅憲に相対している。

「……私は全てを読んだと申しました。慎重に読み進めれば、如月様の栄達の早さは不自然そのものです。ましてやこの奏上文を挙げられる地位に当時いたとは思えません。私が覚える程度の違和感、当時の文武を問わず高官であれば誰もが抱いたでしょう。宦官ならばなおのこと異論を問うたはず。儒学者ならば連座を覚悟で讒言したはずです。だというのに何一つ記録はないのです。何もない! それがまずもっておかしい。ですが同時に……これは間違いなく如月様の文でもあります。答えは一つ。これは、如月様が他の誰かのために書いたものです。そしてその誰かとは……」

 陳寿はそれ以上言わず、手元の書を広げて冒頭を朗読した――出師表と題字を掲げたその冒頭を。

 ただし陳寿は繰り返した。その冒頭に堂々と挿し入れられた朱の字でもって発話した。数十年前、おそらく本来そうであったはずの名に変えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冀州鎮圧から二ヶ月後、李岳は洛陽の最も巨大な南門である平城門をくぐっていた。

 表立った伴もおらず、歓迎もない。李岳は往来に号して練り歩くことなどせず、まるで敵地に潜入するかのように極めて密やかに洛陽に入城した。城内のそこかしこで熱に浮いたような興奮状態の人々が見て取れたが、李岳はただ速やかに屋敷を目指して歩いた。

 彼を待ち受けるは董卓、賈駆、司馬懿、徐庶、陳宮、張燕――それぞれ政、財、軍、物資、そして情報を掌握している面々である。李岳を中心としたこの陣営こそが軍事における洛陽の意思決定機関となって久しい。

 まず口火を切ったのは賈駆であった。

「まずはお疲れ様。よく勝ったわね。ま、ボクは心配なんかしていなかったけど」

「さすが丞相閣下」

「……フン。けど怒っているんだから。無茶をしたようね。今回ばかりは度が過ぎた無茶を」

 李岳自ら劉虞を斬り捨てたことを叱責しているのは明らかだった。確かにそれは思い返せば無茶なことだった。その余波は時を置いて洛陽を襲ってもいる。

「世間は話で持ちきりよ。陛下は祝勝の宴を催すとのこと」

「……聞いている」

 場は沈黙に包まれた。気持ちは皆同じである。宴など催している場合ではない、というのが実働部隊の本音だ。

 だが戦に勝利したことも事実。それも歴史に残るような大勝なのだ。偽帝を僭称した劉虞と大将軍を号して大兵を率いた袁紹の二名をたちどころに斬って捨てた――誰もが誇り、語り合いながら盃を酌み交わしたくなるような物語だ。その祝賀を無理に封じ込めたとて、反感を買いこそすれ得るものなどない。

 董卓がおずおずと手を上げながら言う。

「陛下は……ずっと気を揉んでらっしゃいました。ご心配だったんです、みんなが」

「わかっている。大丈夫だよ月」

 李岳が不在の間、董卓も皇帝の喜びぶりを諌めることはなかったし、盛大な祝宴についても否定することはなかった。帝もまた苦しんでいたのだ。李岳がいたとしても差し出がましい進言は控えただろう。

「本当にわかっているのかい坊や。今この洛陽の状況をさ!」

 煮え切らない李岳の様子に、逆に業を煮やした張燕が食って掛かるように言う。

「今やこの街は、アタシら黒山の連中でさえどうしたって御しようのない状況になってんだよ!? いつどこでどう暴発するかわからない。その時真っ先に狙われるのはアンタなんだ!」

 

 ――洛陽は戦勝の空気に狂喜の坩堝と堕していた。聖帝を僭称し、百万の黄巾を従え天下を乱した劉虞。その死を以って黄巾の乱が収束し、天下は再び太平の世に戻ったのだと喝采を上げている。民たちは鬱憤を晴らすように安堵して喜んだが、それゆえに李岳は未だ全兵の洛陽帰還を決断できずにいる。軍が凱旋すれば迎える民の熱気はいよいよ天を突き、地は震えるだろう。偽帝は討たれ邪教は潰されもはや天下に戦乱の種はなし、長き混乱の夜は終わりを迎え平穏が戻ったのだと口々に言い合うはずだ。

 しかしそれは今だけの話だ。

 喜色満面の者たちは勝利と平穏に喝采を上げるだろうが、しかしこれから再び戦を(おこ)そうと李岳が言い出せば敵に回ることは予想がつく。戦勝に増長したとして李岳を強く非難し糾弾する勢力となるであろう。曹操や孫権の危険性など、誰一人として真に受けることはない。

「わかってんのかい? えぇ?」

「わかっているからこうして集まってもらった。時間がないのは百も承知だ。だったらやることは一つ。急ぐだけだ」

「――曹操を討つのね」

 眼鏡の奥、鋭く眼光を輝かせながら賈駆が低くささやくような声で言った。

「ああ。上手く行けば大きな戦はこれで最後になるだろう。曹操、そして孫権を倒した時にこの国はようやく――乱世を終えて復興への道を歩み始めることになる」

 陰謀に巻き込まれるような形で戦乱の世に関わるようになった李岳。だがすでに確固たる目的を芯に持っていた。乱世を終わらせる。漢を再興し、再び平和な世を取り戻す――いつしか李岳に芽吹き、根を下ろしていた夢、志である。亡き友、公孫賛との誓いでもある。

 李岳の言葉がじわりと感慨を伴って広がった後、続いて手を上げたのは陳宮であった。

「で、いつ頃出兵のご予定なのですか?」

「なるべく早く。できればただちに」

「数は?」

「最低でも十五万」

 もちろん洛陽以外にも荊州や豫州からかき集めて総勢十五万という数である。曹操と孫権、可能であれば一息に撃滅することが最上である。

 ふむ、と陳宮は数字を諳んじるように天を仰いだあと、ニコリと笑って言った。

「むううううううううりいいいいいいいい! 無理寄りの無理! 無理の中の無理! 無理大王! 無理界の帝王級の無理なのです!」

 陳宮の絶叫――それも大手の往来にまで轟く大声――の反響が完全に静まるのを待って、李岳は答えた。

「まぁわかっていたことであるものの……どうにかして欲しい、というわけだ」

 厚かましいにも程がある李岳の言葉に張燕がケラケラと笑い、徐庶と司馬懿は黙と念じるばかり。陳宮は机をバンと叩いて立ち上がった。

「面白いことなど何もないのです! 冀州と幽州を支えるために国庫はカラカラ! 元黄巾兵の流民に割くための出費も増えるばかり! だというのにまた戦の相談ですか!? ちんきゅーもそろそろ堪忍袋の緒がチョッキンなのですよ! そもそもこのやりとりも何度目ですか!?」

「数えるのは途中でやめた」

「冬至殿ー! うがー!」

 飛びかかろうとする陳宮の首襟を掴んで、張燕がよしよしとなだめにかかる。

「……もちろん、ないとこからほじくり出せなんて言ってない。冀州の各地にはかなりの規模の蓄えがあった。民に配ってもまだ釣りが出るほどのね。冀州の底力というやつだ……それが期待できる。珠悠、あれを」

「こちらに」

 徐庶が取り出したのは李岳の指示に従い、二ヶ月の間に親友である諸葛亮、鳳統らとまとめあげた冀州、幽州全域の正確な数値を記した目録である。そこには当然ここ数年の収入、支出、蓄えの全てが記されている。袁紹自身には意図も才覚もなかったが、率いる文官らは見事に仕事をこなしており短期間で正確な記録をまとめあげることができた。

「これは……フンフン。ですが珠悠殿、こちら合計だけでございますですね?」

「ご指摘の通り、細目(さいもく)は陣営に置いてきております。二十巻ほどになりますが」

「ただちに届けてくださいませなのです」

 もはや本邦において国庫および財務に最も精通しているのが陳宮である。それについては司馬懿も徐庶も追随を許さない。この程度の資料などただちに読解し尽くすだろう。

「どうかな、ねね」

「そうですね、気になる点はいくつかございますですが、これを信じるならば……どちらかは可能かもしれませんですね」

「どちらか?」

 ゴホンと咳払いをして陳宮は続けた。

「冬至殿はただちに十五万とおっしゃいました。現時点での結論は、それは、無理なのです。たとえこれがあっても」

 目録をひらりと卓に放りながら、陳宮は苛烈な財務官僚の目で指弾する。

「ですのでどちらかです。ただちに八万。または半年後に十五万」

 これまで李岳の無理難題を押し通してきた陳宮。その彼女がここまで明快に否定と代案を提示してきたことなどない。つまりそれほど厳しい現状にあるということが言下に伝わってきた。

「……苦しいな。半年後になれば曹操はあと五万は兵を増強する」

「ここですぐさま動かないとまずいわよ。曹操に時を与えて良いことは何もないわ。強引でもただちに攻め込むべきよ」

 賈駆の指摘は全く的を射ている。強硬策は李岳も検討範囲だった。

 しかしそれに反対したのは、予想外の人だった。

「それは……り、理由もないのに、私達から戦をするということ……だよね」

「ゆ、月?」

「理由が、いると思います……でないと、反対です」

 董卓が異を唱えることも稀ですらなかったことだ。賈駆が驚きと感動の両方で眼鏡の奥に光るものをよぎらせている。

 司馬懿が董卓に賛同の意を示した。

「動機が必要というのは尤もです。曹操は善政を敷いています。だというのに矛を向ければ全土にあらぬ不安を掻き立てることになります。特に荊州、涼州、益州。ここがまた再び乱れれば目も当てられません。せっかく帰順の意を見せ始めている一部の元黄巾の民たちも不安になるでしょう」

 あらためて思い描くと、なんとも不安定な支配体制だった。至るところに破れがあり、破綻しかけて巻き起こった戦をどうにか抑え込んで体裁を保っているのがこの国だ。乱世を力づくで封じようとしている軋轢が、奇跡的な調和で破裂していないだけかのような緊張である。

「……そうだな。攻め込むにしても筋道が必要というのはもっともだ。ちょっと焦っていた」

 

 ――これまで、李岳は強権を使って戦に臨んだことは一度もない。多少強引な説得はあったとはいえ、必ず合意を得てから勅命を以って軍を派してきた。権力との関わり合い方に慎重な李岳にとって、それは必要な手続きであった。怠れば皇帝と民を私する暴君と何ら変わりがない。

 

 しかしそれは同時に、董卓、賈駆らと作り上げてきた権力構造の弱点とも言えた。皇帝以下の権力は永続しないという根本理念のもとに作り上げてきた政体である。ここで合意を得ずに武力行使に乗り出せばその建前までも吹き飛んでしまう。

 曹操はおそらくそれを見抜いているのだろう。袁紹との戦が決着した後も冀州を得ようとはせず、静かに治世に励んでいるのはそれが理由と李岳は見ている。曹操が短期戦ではなく長期戦を選んだ場合――つまり曹操が表向きは漢に忠誠を誓って治世に励んだ場合、李岳は攻め込む理由を失うのだ。

 この想定は李岳がもっとも恐れるところであった。もし曹操が十年でも二十年でも待ってやろうと考えているのなら、李岳は翼や四肢を一本ずつもがれるように窮地に立たされるであろう。曹操はきっと誰よりも能臣として治世に努める。天下はそれを評価せざるを得ない。

 一方、李岳には根拠地もなく皇帝の個人的な友誼を除けば確固たる権力基盤がない。所詮動乱の緊急時に抜擢された武官に過ぎない。いずれ異民族との騒乱が起これば西か北の防衛に回される。その時になって曹操に思いもよらぬ奇策がないと誰に断じ得よう? ただでさえ叛乱の芽がすぐにでも萌え得る地に囲まれている洛陽。曹操は遊戯を楽しむように策謀を走らせるに違いない。

 時は曹操に味方する。急ぐ必要があるのはあくまで李岳――そう、いま誰よりも戦乱を求めているのは、誰よりも平穏を求めているという彼自身という矛盾。

「……どちらになさいますか? それほど方策はありませんですよ」

「お嬢ちゃんの言う通り。なかなか難しいわよ、坊や」

 陳宮と張燕が苦慮した様子で言うが、李岳は首を振った。

「……戦の気運を盛り上げる、みたいな馬鹿なことはしたくない」

 恐怖を煽り、開戦を煽動する。それは権力を握る者にとって戦を実行する上で最も容易ならしむ手法だった――そして李岳が最も忌み嫌うものでもある。

「半年後に十五万を動員する」

「……御意なのです」

「少し皆で考えておいてくれないか。俺はちょっと出かけてくるよ」

 不安そうな目が差し向けられたが、李岳は一言明確な理由を告げて立ち止まらなかった。洛陽にはもう一つの約束を果たすべき事柄がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳が向かったのは洛陽でも指折りの屋敷であった。増築に増築を重ね、天子を除けば洛陽の誰よりも巨大になりつつある豪邸の主人――豫州牧袁術に会うために李岳は歩を進めた。

 袁紹への批判に反比例するように信望を集める袁術は、揚州を追われた経緯も相まって民衆の信を得た。不遜だがそれも含めて愛嬌だとばかりに民は少女を愛したのだ。決して権力争いに巻き込まれる類の世評ではないあたり、腹心張勲による手入れの行き届いた評判であることはわかる者からすれば明々白白であったが。

「はいはい。お待ちしておりましたよ」

 李岳が(おとな)いを入れると間もなく張勲が現れた。今日訪ねることは連絡を入れていたので驚く様子はいない。気休めのような戦勝祝いの言葉もそこそこに裏口から邸内に通された。

 長い廊下を経た先の応接の間には、落ち着かない様子の袁術がすでに待ち受けていた。いつもの無邪気な仕草はなりを潜め、そわそわと身動ぎしては現れた李岳を盗み見るように窺う。

「袁術殿」

「り、李岳……わ、妾は、そ、その、あの……い、色々な話を聞いて、その……は、はっきりとそなたの口から聞きたいことがあって」

「これを」

 李岳が手渡した包みを受け取ると、袁術は恐る恐るその結び目をほどいた。中に収められていたものを袁術が目にする前に、李岳は口を開いた。

「袁紹殿は落ち延びられ、今は徐州を抜けて合肥に向かっていると報告が上がっております。顔良殿と文醜殿と三人での旅ですが、苦労はされつつも何とかなっているとのことですよ」

 布包みからあらわになった金の髪の房を手に取ると、袁術はうつむくともなくスンと一息だけ鼻を鳴らし、すぐに笑顔と涙を浮かべて李岳の腰に抱きついた。

 李岳は袁術の柔らかい髪が綺麗に縫い上げられた側頭を撫でながらうそぶく。

「さてさて、どうなさったことやら」

「わからぬ。妾も何に感謝しているのかわからぬが……でもありがとう、なのじゃ!」

「何ほどのこともありませんよ。約束を守っただけです。涙をお拭きください」

「うん、うん!」

「さ、美羽様。そのあたりで」

 張勲にうながされ、袁術はぐしぐしと顔を袖で拭うと髪の束を大事に抱えて奥に戻っていった。見えるはずがないというのになぜだろう、袁術がその髪を綺麗な小箱に大事に収める様子が李岳の目に浮かんだ。

「あの程度のことしか出来なくてすまない」

「いぃえぇ。私からも感謝を。美羽様を泣かせてしまったのは、ちょっぴり悲しいですが」

 花丸です、と言いながら張勲は遠くを見るように窓に目を向けた。一歩間違えれば袁術こそが袁紹のように全てを失い路頭に迷うこともあり得た。いや、李岳だけが知る史実に照らし合わせればその危険はより高かっただろう。袁術と袁紹を分けた差は、運なのか、それ以外なのか。

「……これからどうされますか」

 仕草だけで着座とお茶を同時に勧める張勲。李岳は一拍を置いて答えた。

「曹操と孫権はすぐにでも討たねば」

「あらあらまぁまぁ……洛陽の状況はご覧になられましたよね」

 さすがに張勲は洛陽を覆う空気について理解をしている。李岳が人目を忍んで洛陽に戻って来た経緯(いきさつ)など全てわかりきっているだろう

「やむを得ない。外交や謀略で御せる相手でもない」

「下策ですねぇ。仕方がないとはいえ。とはいえ無理を押して勝てる相手ですか?」

「賭けだな」

「本当厄介ですねぇ、曹操さんは」

 やれやれ、と張勲は肩を竦める。

 李岳が不利な理由の一つは曹操が兗州、青州、徐州の三つを抑えていることにあった。十五万の兵を養うに値するだけでなく、冀州をただちに乱せる上に洛陽を急襲することもできる。しかも袁紹討伐に功のあった曹操を討つ大義名分を李岳は見つけられずにいた。

「そして孫権」

「正確には、孫権の抱える距離でしょうか」

 張勲が李岳の言葉を奪うように言う。李岳の講釈をただ聞くだけの愚かな生徒に甘んじるのは真っ平御免だとでもいうかのようだった。

「……曹操さんとは南北に長く接し、孫権さんとは長江全域で東西に向き合うことになる。この距離の長大さはそのまま付け入る隙の大きさと言えましょう。いつでもどのようにでも仕掛けて下さいと言っているようなものですね」

「その通り」

 曹操と孫権がさらに兵力を充実させれば同時に攻め上がってくることも考えられる。最大、南から孫権軍十万、東から曹操軍十五万の挟撃。対策を考えるだけで憂鬱極まる事態だというのに、いつどこから向かってくるのか見当もつかない。長大な防衛線はひどく薄く頼りないものにならざるを得ないだろう。

「三つ目は李岳将軍、貴方自身」

 張勲がいたずらっぽく指を立てて片目をつむった。李岳はただ茶をすすった。その仕草は処刑を待つ男が諦めのうちに最後の穏やかさを守ろうとする哀れな抵抗に似た。張勲は苛立ちを抑えきれないように言葉を続けた。

「貴方の弱さが、時を待てないのですね」

 張勲は李岳が強引な権力行使を忌避していることを揶揄している。刑を待つ男に、それについての弁解の言葉はなかった。

「……虐めるつもりではなかったのですが」

 李岳の沈黙を察し、バツが悪そうに張勲は言った。

「落ち込んでいるように見えたかな?」

「あら? 慰めているようにでも聞こえましたか?」

 フン、と鼻を鳴らしながら茶を注ぐ張勲。李岳はすっかり抽出されつくされた、苦味のある茶に口を飲み干して答えた。

「落ち込んでもいないし慰めも不要だ。こうなることはわかっていた。覚悟もしている。悔いもない」

「では、なぜそんなにも寂しそうなのです」

「さぁ……なぜかな」

 いつもならばとぼけた李岳に気を使い、誰もが言葉を続けない。しかし張勲は元は敵、そして寝返りを経て味方になった者である。皇帝でさえ配慮する李岳という少年に、もっとも気を使わない人だった。

「貴方には足りないからです、大事なものが」

「足りない? 兵も味方も多い。何が足りないっていうんだ」

「貴方に足りないものは一つだけ――自分自身の幸せです」

 私にはあります、と張勲は続けた。

「美羽様です。美羽様をお守りすることが私の幸せ。美羽様の幸せが、私の幸せ」

「……俺は」

 口ごもる李岳の答えをいつまでも待つ義理は張勲にはない。はぁ、とこれみよがしに大きなため息吐いてから李岳を睨みつけた。

「それは私に答えることではありません。さて、そろそろお帰り頂けます? 美羽様のご夕食の準備をしないといけませんので」

 李岳は屋敷を追い出されるように辞すると一刻ほどたっぷりと時間をかけて洛陽の街を歩いた。

 自分の幸せ。まるで立ち会いで不意の一撃を食った様な衝撃に襲われていた。頭はフラフラとし、ただ目眩だけがしている。

 街を覆う夕陽がかもす、うつろな郷愁も相まって、李岳は急に昔のことを思い出す気になった。

 初めは自分のことしか考えていなかった。父・李弁の言葉が李岳に翼を与え、この乱世に飛翔せよと促す前は己の身のことしか考えていなかった。

 しかし戦乱に身をなげうってから後、今度は自分の身のことなど何一つ顧みては来なかった。痛んでも傷ついても気にも留めなかったし、今でもそれを悪いとは思わない。

「なんというか、こんな極端な性格だったなんてな?」

 すれ違う人が、独り言をつぶやく李岳を怪訝そうな顔で見やった。

 李岳はいつの間にか洛陽のうちでも最も騒がしい繁華街を歩いていた。

 偽帝劉虞、そして袁紹の死を祝う人々の楽しげな声。敵を打ち倒す勇ましい兵隊ごっこを繰り広げる子供。広場では黄色い布を焼き払う者もいた。治安を乱す行為として取り締まられてもおかしくはなかったが、近くを通り過ぎる衛兵も見咎めることなく素通りしている。

 ここには喜びに姿を変えた憎悪に満ちていた。李岳の勝利により黄巾軍は壊滅したが、同時に黄巾に属した者たちへの排斥感情も相当に高まっていたのである。

 李岳は忸怩たる思いで、自分を責めるように人々の笑顔を眺め続けた。

 戦は手段であって目的ではない。勝って終わりなどということは絶対にない。

 戦は巨大な借金のようなものだ。戦後こそその真価が問われる。払うべき価値があった代償だったのか、それとも愚者の満足のために無碍に散らした命だったのか。

 人々の融和がどれほど達成できるかが、その最も大きな評価軸の一つだろう。戦の後に残ったものがただの差別であったのなら、そんなものは敗戦よりもなお救いがたいものだ。

 黄巾のみならず、李岳が再征服した地の民たちも多かれ少なかれ恨みを抱いている。その反発が爆発すれば今度こそ取り返しのつかない乱世になってしまう。そのためにも民の憎しみを可能な限りひとつどころに集約する必要がある、というのが李岳の考えだった。

 なるべく速やかな手立てが必要だろう。同時に軍を再び動員させるという効果も得つつ。

「……俺の幸せ、ね。張勲、お前はやっぱり詰めが甘い」

 だから負けるんだ、と李岳は笑う。

 俺に油断はない――全うすべきものから決して目をそらさない。そのためには全てをなげうつことが出来る。

 

 ――多くのものを捨てるからこそ、高く翔ぶことが出来るのだから。

 

 振り返ればやるべきことの多さに目眩がする。背負っている者の重さに体が悲鳴を上げ、去っていった者たちのことを思うと胸が軋みを上げるのだ。ああまったく――劉虞、お前が見抜いた通りだ。

 今まで何万人殺してきたと思う? 何百万人を悲しませてきたと思う? それを思えば勝利より優先すべきものは李岳にはない。自分の幸せなどそれら全てを秤にかけることさえおこがましい。己個人の幸福など、あらゆる全てを成し遂げた果てでのことでだ、もしそんな果てなどがあるのであれば――無性に、いま隣に呂布がいてくれたらと思った。

 歴史や物語で親しんだ英雄たちも、こんな儚い想いを抱いたのだろうか、と李岳はぼんやりと考えた。

 一つのことを成すために、賭けのような戦に討って出る――そこまで考えた時、李岳にはある人の名が思い浮かんだ。

「……貴方もこんな気持ちだったんですかね」

 その人の姓は諸葛、名を亮、字は孔明――李岳が知る史実の諸葛孔明であった。

 益州の地での蜀漢建国に尽力し、劉備死後はその遺志を継ぐべく幾度となく北伐を繰り返した。

 一つの見方によると、国力の差を無視して無謀な戦を繰り返したとして批判される向きもある戦略家としての諸葛亮の評価だったが、李岳の考えは違った。

 諸葛亮は攻め込まなければならなかった。魏に挑むことこそが蜀漢の存在価値だったのだ。

 漢の正当性を問い、挑戦し、逆賊を打倒するために打ち立てられた国――信念、志の元に人が集まったのが蜀漢なのである。

 諸葛亮の北伐がなければ蜀漢は延命できたであろうか? できたかもしれない。しかしきっと理想は失われ、より醜く、哀れな滅亡を迎えたに違いないというのが李岳の思うところであった。

 きっと諸葛亮こそ、誰よりも蜀漢と魏の力量差を把握していたであろう。それでも挑もうとした彼の想い――

 そう考えを巡らせた時、李岳の脳裏に一つの言葉が浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「皆は?」

「いま何刻だと……皆様すでに帰られました」

 すでに夕暮れもとうに過ぎ去り宵闇が訪れている。皆それぞれ山と仕事を抱える高官たちなのだ、一応の議題を話しきれば次は己が抱えた仕事に取り掛からねばならない、無用に時間をつぶすことなど許されない立場だ。

「何か決まったことは?」

「全土から動員できる兵数の再確認、そして諜報の戦略です。永家の戦力を曹操に集中させるのが良いということになりました。張燕殿直々に指揮して頂く予定です」

「その悪辣さは如月の発想だな」

「冬至様に言われたくありませんが」

 呆れたように言う司馬懿にむけ、李岳は困ったように笑った。

 司馬懿は静かに居住まいを正して李岳に向き直った。なぜだろう、司馬懿にはわかった。少年はいま再び――いや、何度でも――不利をはねのけて戦いに臨む時の表情をしている。困ったように首をかしげながら、しかし揺るぎのない強い光を宿した瞳。李岳のこの表情が、司馬懿は好きだった。

「……そのご様子ですと、策を思いつかれたようですね」

 李岳は窓の外に目をやりながらつぶやく。

「祝宴を逆手に取るつもりだ。言い方は悪いが、利用させてもらう。その方が流れとしても自然だろう」

「と、いいますと」

「曹操と孫権も呼ぶ」

 司馬懿は小さくうめき声を上げた。

「なるほど。それを断れば叛意ありと」

「それだけじゃない。ありとあらゆる形で褒め称え、参内を促す。官位を与える、天子直々にお会いする……なんでもござれだ」

「もし断らず、本当に来たら?」

「斬る。この期に及んでためらいはない」

 やはり困ったように小さく微笑む李岳に、司馬懿は身震いする。

「……曹操と孫権が来なかった場合は?」

「祝宴の場で奏上文を読み上げる。国を支える官吏が一つにまとまり、天下を安んじるために働くべきだと……その場に来なかった曹操と孫権を揶揄する形になるだろう」

「それは……陛下の不興を買う可能性もありますが」

「それは賭け金というわけだ。さて、今からいう言葉を書き留めてくれ。大胆に変えても構わない。なるべく多くの人の胸に届くような言葉にまとめてほしい」

 司馬懿の答えを聞く間もなく李岳は詠うように語り始めた。

 司馬懿はためらわず泣いた。

 その言葉はこの先天子に捧げられ、そして万民の耳目に届くだろう。しかし誓ってもいい、これより幾万の人がこの言葉に胸を打たれようと、今この時の己よりもなお震えることが出来る者などいようか――いや、いるはずもない。司馬懿は涙を拭いながら、一字たりとも書き記すことなく、ただし寸毫も違えることなく心の(うち)に李岳の想いを篆刻(てんこく)した。

 そして同時に確信した。李岳は再び己が望むままの戦場を作り上げるだろう。

 多く者の恨み、憎しみを背に負い――やがて全てを失うその日まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初夏である。

 偽帝劉虞討伐を祝した宴は盛大を極めた。人々は祝い、天下の往来は人で埋め尽くされることになった。

 そして宴席での一幕にて、ある一文が天子に奏上されることになった。

 その文は進み出た李岳によって直々に読み上げられた。

 李岳は説いた。天子のなすべきこと、この国のありよう、君臣ともに求められること、いまこの地に満ちる民の苦しみ、その苦難は国家の病であり、出自を問わず全ての者が幸福を分かち合えるよう努めること。

 それは国の指針、あらゆる地のあらゆる民の融和を説く願いの言葉であった。

 そして未だそれを成し遂げられぬのは全ての臣下の不明であり、その中でもこの地に参内しなかった曹操、孫権の二名こそが天下混迷の病巣であると断じた。

 李岳は二人に叛意ありと指弾、無用な軍備を進めていないか査察を受けるよう要請し、同時に天下安寧のため己にただちに軍権を与えるよう天子に願いでた。これぞまさに後漢光復最後の試練であると。

 臣岳申す――その言葉から始まった後に『出師表』と呼ばれる文を聞いた天子劉弁は、これぞ第一の名文であると評して涙したという。

 

 一方、再び天下に戦の種を撒いたとして、反李岳の声が市中に囁かれ始めた。

 世情はあれほど称えた李岳に対し、背を向け、非難の声を上げ始めたのである。




長らくご無沙汰しております。
2020年ですね。
今年初の投稿です。
わあ(白目)

一応年内に完結させる計画でしたが予想通り押し始めました。連載開始から8年? 9年? 経っているので俺が陳寿だくらいの気持ちなんですが、最後まで走りきれるようがんばります。
そしていつも感想、つぶやき、そしてハーメルンのプロフィールページに公開しているAmazonギフトページからプレゼントまで送って頂ける皆様には感謝の念にたえません(丁寧なご案内)
皆様最高のフレンズです。

というわけで次話もがんばります。押忍。

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