真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百三十九話 酔いの醒めたあと

 赫昭は城壁の上で戦況を見守っていた。

 短戟を握る手に思わず力がこもる。赫昭は耐えていた。耐えることには慣れているが、しかし懸命に走り、傷つく仲間たちを見守ることよりも辛いことはない。

 味方は寡兵ながらよく敵の攻撃をしのいでいた。高順と張遼の動きはさすがの一語で、馬超はじめ涼州の騎馬隊を見事翻弄している。見渡す光景は赫昭に在りし日の雁門関を彷彿とさせた。

「……屯長。今度こそ私は……」

 戦の面影は守れなかった人の横顔も容易に思い浮かばせる。同時に沸き起こった決意で身体に力が漲った。守りたいものがある者には、守れなかった者への想いが力として宿る。

 李岳から授かり自身で練り上げた仕掛けには不動の自信がある。後は相手の思惑次第……騎馬隊に向けて銅鑼を打ち鳴らしながら、赫昭は城内の兵にも大声で段取りを確認し始めた。

 やがて騎馬隊の間隙を縫うように敵の歩兵隊が動き始めたのが赫昭の瞳に映った。

「勝負だ。来い、厳顔」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 厳顔からは馬超が一騎討ちに臨むのがよく見えた。

 驚いたことに、蛮勇とも言える馬超の決断に母である馬騰は止めもしない。なるようになる、というようないい加減ささえ感じるほどだった。

 遠目であるが激突が熾烈であることは十分に伝わった。馬超は張遼を退けると、さらに高順と立て続けに干戈を交えたようである。下馬してまでの一騎討ちにとうとう決着はつかなかったようだが、さすがの錦馬超とはいえ消耗したのか動きを止めていた。

 全体としては敵の騎馬隊の動きが良くやや押されている。張遼と高順の旗が揺れる度ににわかに陣が崩されかけ、立て直すために涼州兵は浮足立つような形だ。特に眼を見張るのは李岳が荊州を攻めた頃より突如頭角を現した高順という将だった。馬超と一騎討ちを演じた力量の上に、敵陣を片っ端から突き崩していく軍略まで持ち得ているとなると侮れない。

 さしもの馬騰も本隊に指示を下し始めた。全軍を押し出して敵の動きを制限しようとする。

 厳顔はこの攻防が交差する瞬間を、戦機と見た。

「さて、出番というところかの……焔耶」

「はい、桔梗さま!」

「突っ込む! 貴様が鈍砕骨をどれほど扱えるようになったか、証を立てよ!」

 魏延の目に燃えるような気勢がよぎった。そして誰よりも先んじて戦場に身を投じるために駆け出していく。魏延はもはや鈍砕骨を完璧に扱い慣れていた。不安も気負いもなく戦場で力量を発揮するその姿は、もう一人前といってよく、厳顔は人知れず満足げに微笑む。小癪にもこの厳顔の道を切り開こうという心算(こころづもり)らしい。その甲斐もあり、厳顔は己の得物を全く隠し通したまま潼関への距離を詰めていく。

 蜀兵の動きに気づいたのか、張遼の騎馬隊も慌てて回り込もうとするが馬騰がいい動きをした。さらに強く突出する形で張遼の後背を狙う。戦場に復帰した馬超が連携を目論む高順に再度食って掛かる。束の間、蜀兵と城門の間に遮るものは何一つなくなった。

「蜀の命知らずどもよ! 勝機はここじゃ! 全速力で突っ走れい!」

 号令と共に蜀兵は速度を上げて潼関に取り付いた。横一列。梯子をかけてよじ登ろうとする兵たちに、守備側も頑強に応戦する。しかしそれらは全て囮だった。狙うは一手、城門のみ。魏延を露払いに押し進んでいた荷車の幌を取り払い、厳顔は地を蹴り最前線に躍り出た。

 大散関と長安は既に落とした。赫昭の守るこの潼関で三つ目。ここを落とせば天下に名高き函谷関、それを破れば洛陽に挑むことが出来る。酔いどれの武人には過ぎた夢と思えた天下への挑戦が、今まさに眼前に広がっているのである。

 

 ――城壁で酒、とうに飽いた口笛を何度も吹きながら天下の趨勢に指をくわえているしかなかったあの頃……行き場を失い燻っていた魂は、今この場に時を得て爆発する炎となっている。今こそ、持て余していた全てを叩きつける時だ。

 

「食らうがよいわぁ!」

 手にした巨大な鉄塊をものともせず、飛ぶように走った厳顔はとうとう潼関の門に轟天砲の先端を突き刺した。あと一手で耳をつんざく炸裂音とともに鉄杭が飛び出し、この潼関の門扉をこじ開け吹き飛ばすことが出来る。機工に指をかけた。手の平から全身に伝わるぞくぞくするような衝撃を期待した刹那――しかし厳顔の体は飛沫を上げて吹き飛んだ。

「なっ――!」

 身の丈を超える黄土色の濁流! 厳顔の頭は一瞬真っ白になった。そして体は抗いようもなく押し流される。得物だけは絶対に手放すまいとなんとか両手に全身の力を込めるが、混乱を立て直すことには手間取った。守備側が城内から水攻め? 聞いたこともない!

 やがて濁流がその勢いを止めた時、厳顔は水面からなんとか顔だけを上げた。水を吸って重い体を持ち上げ息を吸っては吐く。これが赫昭の用意した備えか? 水は多かったが溺死させる程ではない。轟天砲も手の内だ。意表を突かれてはいるがまだ敗れてはいない。一度引いて態勢を立て直せばいい。厳顔は両足を踏みしめようとして、直後に声を荒げた。

「くそっ! 泥か!」

 柔らかく沈み込む土。足は持ち上がらず満足に踏みしめることさえできない。それだけではなく厳顔の体はどんどん沈み、気づけば尻まで泥に浸かった。人ひとりであれば容易に抜け出せるであろうが、今厳顔の手には数百斤の鉄塊が握られており、それを手放さない限り体が沈みゆくのを止められそうにない。水だけではなくこの泥濘までもが罠なのか! 轟天砲の重量まで考え尽くされていたというのか!

(轟天砲を捨てなければ泥から抜けられず、轟天砲を捨てれば関所の攻略は無手になる、か!)

 厳顔は激怒と痛快さで顔を真っ赤に紅潮させた。まさに右を選んでも左を選んでも必死に至る、泥沼の二手にはまったのだ。

 そしてもちろん、この窮地を脱する起死回生の策を練る間を与えてくれるはずもなかった。

 太陽を裂くように横切る影。厳顔の左肩に装着された『酔』の肩当てに矢が突き刺さる。それはかつてあまりにも見慣れた飾り羽だった。

「……紫苑か!」

「桔梗――っ!」

 泥濘をものともせず、川面に踊る翡翠(かわせみ)のように身を翻し飛ぶ黄忠。

 理屈はいい。動機すらいらない。いつどの時期から李岳に付いたのか厳顔にはわからないが、しかし自分と戦うためにこの地にやってきていることだけははっきりとわかる。そして、甘い女だ、と厳顔は吐き捨てた。初手で脳天を射抜けたものを、情けで外してしまうとは、弓の名手が聞いてあきれる。親友だろうと手心を加えない、それが最大の親愛の表現だとこの厳顔の一撃で思い知るがいい!

 巨体をもたげる象のように、厳顔は泥濘の中から轟天砲を引き上げた。不十分な姿勢のために全身が悲鳴を上げたが、血管を何本も引き千切ろうとも厳顔は獰猛な笑みを浮かべて狙いを定める。そして些かの躊躇いもなく鉄釘を解き放った。全身を貫く衝撃に備えたが、期待を裏切りささやかで頼りない反動が戻ってきただけだった。城門から溢れてきたのがただの水ではなく、粘質の泥水だった意味に厳顔は最後まで気づけなかった。

 

 ――李岳は鍾繇と張既の報告を元に、轟天砲それ自体を無力化させることも含んだ策を考え赫昭に授けていた。鉄で出来た射出機であるならば仕組みはある程度想像できる。動力がまさかの火薬であろうとなかろうと、機構の目地(めじ)を詰まらせるほどの砂粒を含んだ泥水であれば、きっと轟天砲を弱体化できるだろうと考えた。そして当然、重量のある鉄塊を引きずりあげることは至難であり、撤退できたところで錆びや調整ですぐに使い物になることはないだろう、と。

 

 李岳の読みどおり、轟天砲は蒼天に勝ち鬨を叫ぶことなく――巴郡で地平を眺めていた遣い手のように――燻るに留まったのである。自身に放たれた四本の矢を四肢に受け、厳顔はとうとう鉄塊を手放し泥の中に膝をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 魏延は信じられなかった。轟天砲が炸裂する刹那、潼関は自ら開門して大量の水を吐き出したのだ。魏延の目には濁流に飲まれながらも懸命に立ち上がった厳顔の姿が見えたが、直後に矢を受け崩折れる姿までもが鮮明に見えてしまった。

「そんな……うそだ、桔梗さま!」

 敵兵を殴り倒しながら魏延は城門に駆け寄ろうとした。厳顔がこんなところで死ぬはずがないという思いと、まるで死に場所を探し求めるような寂しい師の後ろ姿が重なって魏延の胸を押し潰した。

 倒れた厳顔を捕縛するためか、群がる敵兵の姿が見えた。途端に魏延の感情は沸騰する。

「汚い手で桔梗さまに触れるな! 私を倒してからにしろ! お前ら、くそ! くそぉ!」

 耐えきれず指揮さえ放り出して飛び出した魏延。しかし予想だにせぬ背後からの衝撃でもんどりうった。何事だ、と叫んで振り返る。押しまくっていた蜀兵に敵の騎馬隊が追いついたとでもいうのか。

 しかし僚兵の報告はさらに悲惨なものだった。

「魏延様、涼州軍が裏切りました!背後から攻め寄せてきてます!」

「そんな!馬騰……! あいつ、裏切ったってのか!」

 怒声を叫ぶ間もない。雲霞の如き騎馬隊に押し込められ、あっという間に蜀兵は包囲され、陣形は叩き潰された。厳顔の心配と戦況の混乱の中、魏延は為す術なく押し倒されあっという間に馬騰の前に引っ立てられた。

「この、くそ! 裏切り者! 卑怯者! 嘘つきめ!」

 馬騰はなんとでも言え、とばかりに涼しい顔をしている。

「別に卑怯でもなんでもない。元から言うていたであろう。天子の危機と聞いて参じた、とな。偽帝のためとは一言もいうとらん」

「お前……はじめから!? 恥ずかしくないのか!」

「まぁな、だが仕方ない。博打に負けた、賭けた金を払わんことにはな」

「なんのことだ!」

「おう。紹介しようか。お前らを踊らせた張本人たちをな」

 馬騰に呼ばれ、二つの影が姿を現した。それは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――三月前。

 

 長安を目指していた李儒一行のうち、鍾繇と張既は隊を離れて一路涼州の頭目・馬騰が居を構える雲陽に向かった。

 雲陽は長安から北西、京兆尹のほとんど端にあたる街であり、これより先は涼州といっても差し支えない。

 逆に言えば、馬騰は州境を超えて長安の支配領域に実力部隊を伴ってやってきているというわけだ。益州による長安奪取から速やかな軍勢の配置……なんらかの思惑、あるいは密約があるのは明らかだった。

「そこに……二人で乗り込むわけなのですね……」

「はい」

 先に待ち受ける悲惨な運命を予測し、げっそりと頬を()け落とした鍾繇が言う。

「馬騰は敵対した部族の長を親族まで含めて根絶やしにしたという噂もある……残忍な将です……これより先、我らがどんな目に遭うか……」

「大丈夫です」

「後継ぎの馬孟起は親を上回る乱暴者とも言われます……怒りに触れれば我らは筆舌に尽くしがたい拷問を……!」

「大丈夫です」

 いつもと変わらぬひばりが囀るような声で鍾繇の不安を切って捨てる張既に、さしもの鍾繇も年長の取るべき態度をかなぐり捨てて食って掛かった。

「なぜそんなに自信がおありなのですか! 李儒殿に授かった策も完璧とは言い難いのですぞ! 少しは不安になったりしないのですか!?」

 あっちを指し、こっちを指し、自分を指し、背中の荷物を指しながら鍾繇は忙しなく言う。それでもまだ言い足りないのか、頭を抱えて腹をおさえ、天地を仰いでは張既に詰め寄る。

「馬騰の機嫌を損ねれば途端に首を切られてもおかしくはない。あるいは今回の作戦で最も危険な任を押し付けられているのやも!」

「大丈夫です」

「ですからなぜ!?」

「雲母ちゃんの考えはきっと正解です。それにここにいらっしゃるのは、鍾繇様ですから」

「そ、それがなんの答えに……」

「まぁまぁ、いいではありませんか」

 何はともあれ、と張既は続けた――雲陽はもう目前なのですから、と。

 結局鍾繇の心配が解消されることは微塵もなく、雲陽にたどり着いて正式に訪問の手続きを行うとさほど待つこともなく迎えが寄越された。もともと長安から涼州、敦煌、そしてさらに西方へと目指す旅団の中継地点でもある雲陽は異国情緒に溢れ、中華はもちろん西方の大月氏、豊かなひげを蓄えた商胡(※ソグド人)など数多くの胡人の往来で目に飽きなかった。

「これはまた……なかなかに……」

「色んな方がいらっしゃるのですねぇ」

 物見遊山に来たわけではないと知りつつも、張既は内心に秘めたる好奇心旺盛な性分を隠すことも忘れて目を輝かせた。鍾繇はううむと唸りながら馬車の中でつぶやく。

「これは……やはり我ら漢人の考えを押し付けるようではいけないでしょうなぁ……」

「鍾繇様?」

「李岳将軍のおっしゃりようは甚だ慧眼……」

 

 ――鍾繇が李岳に会ったのはたった二度に過ぎない。一度目は長安陥落から何とか逃げ延びた直後、轟天砲と呼ばれる兵器の詳細を報告した折。そして二度目は今回の作戦の指示を受けた時だった。その雑談の中で李岳が言った言葉を鍾繇は覚えている。涼州は武力では抑えることは出来ない。粘り強い対話と譲歩、理解と懐柔、裏表のない友好と協力……西涼の発展は全土の発展につながるのだから。

 

 鍾繇は李岳の言葉を思い返しながら確かに、と頷いた。未だ京兆尹であるというのにこの雑多ぶり。涼州はさらに混沌としているだろう。安易に力で支配せよ、というのは無茶というものだ。聞けば李岳もまた匈奴の生まれであるという。だからこその発想なのだろうが、それにしても遠く長安より先を見通す眼力は生半なものではないと、鍾繇はこれから会う馬騰よりもなお深い恐ろしさを李岳に抱いた。

 やがて二人はそのまま馬騰の陣営に案内された。建前上、庁舎は正式な県令のものであって『昵懇の友人』としてやって来た馬騰が使うわけにはいかない、という体裁だ。だがいずれにしろ野外の幕舎の方が気が休まるのだろう、と鍾繇は会ってみてすぐに思った。

「鍾繇殿か」

 巨躯の女であった。実際の体躯以上に大きく見えるのは、身にまとう鎧のせいだけではない。涼州の難解な戦場を渡り歩いてきた経験に根ざす、人格の太さのようなものであろうか。こういう偉丈夫を前にすると鍾繇はどうしても縮こまってしまう性分であった。実際よりより小さく見せるかのように背を丸め、鍾繇は拱手した。

「は、はっ……お目通り叶い感謝いたします……そ、それがしは、姓は鍾、名は繇、字は元常と、も、も、申します……」

「そこもとは?」

「姓は張、名は既。字は徳容と申します。鍾元常様の伴として参上仕りました」

 ふむ、と馬騰は頷き着席を進める。饗応の礼として酒を勧めたが二人とも固辞したので茶を用意させる。

「涼州の蛮族とて茶は飲むのだ」

「は、ははは、ご、ご冗談を」

「蛮族が冗談を言うのは面白いか?」

「い、い、いえ! そ、そういう、い、意味では……!」

「……鍾繇様は真面目な方。少し緊張されているのであって他意はございません」

「これは失敬した。洛陽からの賓客に粗相があってはいかんとこちらも色々考えていてな」

「恐悦至極」

 あわあわと動揺する鍾繇を挟んで、馬騰と張既が鋭い視線を交差させる。なるほど、こちらが本命か、と馬騰は手元の書簡を広げながら思う。

「さて、用向きを伺おう」

「李岳将軍から送られた書簡の回答、賜りたく」

 馬騰は懐からさらにもう一巻の書簡を取り出した。この二人から面会の依頼が来るしばらく前から、馬騰の元には洛陽から連絡が来ていた。書簡の差出人はもちろん李岳である。

 馬騰はその李岳から受け取った書簡を一読し始めた。流麗な文体で書かれた書には天子への日頃の忠臣ぶりに疑いはないこと、偽帝の非道を退ける戦陣に加わってくれると信じていること、先だっての反董卓連合軍に馬超が参加したことは不問に付すこと、などが記されていた。そして最後に長安回復に功があった場合、涼州の正式な牧としてあらためて馬騰を任じること。さらに多くを報いる用意がある、とも続いていた。

「洛陽きっての実力者である李岳将軍ならではの内容といったところだな」

「で、返答やいかに」

「丁重に辞退する」

 泡を食ったように胡床を蹴って鍾繇が立ち上がった。

「そ、そのような! そんなあっさり!?」

「なぜか、理由をお聞きしても?」

 冷静さを崩さない張既に、馬騰は一瞥することなく返した。

「保証がない。逆に聞くが、このような書簡がなんの証拠になる? そなたら洛陽の者たちと我ら西涼、心から信用しあえると思うのか? 口約束ではないとなぜ言える? 仮に長安をこの馬騰が取り戻したとしよう。意気揚々と洛陽に出向いたとしてだ、李岳将軍がそのような約定など知らぬ、と言い出したらどうなる?」

 何か言い募ろうとする鍾繇を遮って張既が口を開いた。

「もちろん、口約束などではありません。西涼の安定は国家の重大事です。馬騰様を騙して長安を平定したとして、その後は大きな混乱が待ち受けるのみ。天下の騒乱収まらぬ中でかような危険を押し通す意味がどこにありましょう」

「後のことは後でなんとかする。よくあることだ」

「……そのような」

「だが真実、李岳将軍の約束でなければどうする?」

 馬騰の言葉に怪訝そうに首をかしげる張既。馬騰は懐の書簡を取り出し卓に放り出した。ほどけた竹の板がバラバラと音をたてる。

「李岳将軍の書と貴様らの書簡、あまりにも字体が似ているではないか?」

 馬騰は一字一字指を指しながら書簡と勅書の字の特徴を指摘する。一字一字、その度に鍾繇の表情が青ざめていくのを馬騰は見逃さなかった。

「このはね、この止め、いずれも全く同じように見えるがどうだ? 鍾繇殿?」

「は、はい……え、ええ、これは……」

「どうだ、と聞いている……西方の蛮族、胡人であれば簡単に騙せると思うたか? あいにくだったな。これでもこの馬騰、生き馬の目を抜く涼州で生きてきた女だ。この程度の他愛ないいかさま、見抜けぬと思うてか」

 おそらく、この二人は長らく長安にいた。その間に李岳が書いたと思わせる書簡を書いて送り、さらにもっともらしい間を置いてこの馬騰への訪問を企てた。李岳は自身がしていない約束ならいくらでも裏切れる。いや、当たり前のことだがこの二人の仕業も全て李岳の指示に違いない。なんとも馬鹿にしてくれるものだ、と馬騰は怒りをにじませた。元より西涼を使い捨てるつもりなのだ。

 洛陽の者たちはいつもこの西涼の民を見下す。長安を回復した際は体よく切り捨てるつもりだったのだろう。その浅はかさ、この二人の首級を前にして脂汗一つかかずにしらばっくれることが出来るか?

 いよいよ馬騰が腰の剣に手をかけようとした時、鍾繇が震えた声で何かを言った。

「ほ、ほ、本当なら……こ、これ……本物なら……」

「なに? 鍾繇殿、声が小さくて聞こえんぞ。男ならば肚から声くらい出してみよ」

「これが、本物ならば! いかがするというのです!」

 今度は泣く子のような金切り声だった。見れば涙も溜めている。馬騰は妙に気圧された気になった。

「い、いかさまとおっしゃいましたな……では賭けようではありませんか! こ、ここに! 正式な勅書がござる! この懐にでござる!」

 鍾繇が自分の胸を叩いてむせる。

「これは勅書にて、もちろん玉璽での印がござる! こ、この勅書の真偽を賭けましょう! 李岳将軍の文と同じことが書かれていれば真! なければ偽!」

「ほう。その懐に勅書があると? で? 何を賭ける?」

「命を賭けましょう」

 鍾繇でも馬騰でもなく、張既の言葉だった。鍾繇を押しのけて言う。

「鍾繇様の言葉に、私の命を賭けます」

「ひゅ、ひゅっ!」

 息を呑んだのか、鍾繇が素っ頓狂な声を出して喉をつまらせている。

「ちょ、張既殿!? ひぃ……ひ、ひのち……って! い、命!?」

「鍾繇様がそれは玉璽の押された勅書とおっしゃいました。だったらそうなのです。私は疑いません」

「言ったな?」

 馬騰は十中八九はったりだと見抜いた。勅書があるならば先に出している。あの胸にどうしてそのような大事なものがあろうか。

 それに皇帝が勅書まで書いてこの涼州と約定を結ぶわけがない。そのような危険なことをするはずがないのだ。涼州は反骨の地。中央に逆らい天下を荒らし、貧しい土地を潤すために様々なものを奪い合って生きる世界だ。洛陽もそのことは当然良く知っている。それを知った上で西涼に向けて約定を書いた勅書を送るなど、よほど頭が悪くおなりか、よほど人がいいかである。

 それにこの鍾繇の焦りと張既の落ち着きぶり。馬騰は一瞬だけ考え、もう一度二人をよく見た……張既の額に浮かんだ汗を見て馬騰は結論をつける。

「乗った。そこに何もなかった時、どうなるかわかるな?」

 馬騰の怒気に背筋を凍らせ、溜めた涙を押し流しながら鍾繇は跳ねた。そして自分の服を無茶苦茶にまさぐる。

「さあ、見せてみよ!」

「鍾繇様、どうか」

「ヒィィ、ヒィィィィ!」

 なんとも形容しがたい声を上げて、鍾繇は懐から何かを取り出すと卓に叩きつけた。

 叩きつけられたのは間違いなく一巻。装丁は流麗、されど華美ならず――時の皇帝劉弁の勅書に相違なかった。

 馬騰は黙ってその書を取り紐解いた。朕、と間違いなく書かれている。先程の書体とは明確に違う。書かれている内容をいちいち朗読はしなかった。馬騰はただ通読すると、丁寧に巻き直して紐まで結んだ。

「……なるほど。恭しく拝読いたした」

「ううううう! この鍾繇……書を書く以外はなんの取り柄もございませぬ……! はばかりながら、訪問の書体は李岳将軍に似せてたばからせて頂いた次第……! ですが勅書をどうして偽造できるでしょう? それだけは出来ませぬ! これはほ、本物なのです! 洛陽は……西涼のために尽力は、惜しまぬのです!」

 膝をついて伏す鍾繇。張既も続いた。天子の勅書には最大限の敬意を示すべきだったから。

 やがて馬騰も書簡を卓に置くと、膝をついて拱手した。だが頭の中にあるのは全く違うことだった。

 

 ――整理すると、事実は至極単純であったことに気づく。李岳の書簡は真筆だったのだ。鍾繇がその字体を丁寧に真似て訪問の書簡に書き写しただけのこと。なんの得もないかもしれない小細工といえばそれまでだが、鍾繇は馬騰がこの小細工を見抜くことを信じた。そしてこの博打になることを読んだのだ。まんまと踊らされたのは自分の方である。

 

「……私の負けか」

「はい。ドキドキしましたね」

 まさか、と馬騰は驚いた。

「張既殿。勅書があることを知らなかったのか?」

「はい。何かお持ちであろうことは知っておりましたが……」

 この胆力! 馬騰は鍾繇と張既を一気に気に入った自分を発見した。

「お主らは……」

「あまりお気になさらず。些細な戯れでした。命をどうこうとは申しませぬ」

「張既殿。それでは私の気が済まん」

「我らはただの使者。どうか李岳将軍の願いを聞いてくださるだけで良いのです。それに元から先頭に立つ必要もありません。無理な戦に出ろとは言いませぬ。我らが軍が、益州軍の秘密兵器を止めた時で結構、ご助力ください。まずは長安から益州軍を引きずりだすことが大事なのですから」

「……本気で長安に協力せよ、というのだな。おびき出す手伝いをせよ、と」

「ええ。焚き付けてくださるくらいでよいのです」

「しかし蜀にはあの兵器がある。自信があるのか、あれは相当な代物だぞ」

「さぁ、私には……自信があるのは、我らの上司ですので。喧嘩の勝ち馬に乗って頂ければそれで良いのです」

「……此度の使者は、これまでと違って話し甲斐のある方々のようだ」

「洛陽の意志です。涼州を侮る者はおりません。胸襟を開いて今後の行く末、存分に語り合いましょう」

「楽しみだ。ところでだが」

「ええ。鍾繇様の介護をさせて頂いても?」

 気を失い、目を回している鍾繇を抱き寄せながら、張既と馬騰はひとしきり笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――潼関の戦い、決着後。

 

 厳顔が目を覚ましたのは三刻ほど経ってからだった。四肢を射抜かれた痛みはかなりのもので、とても起き上がれる気はしなかった。

「目が覚めた?」

「紫苑か」

 燭台の明かりが目の端に映る。厳顔は身じろぎせずに天井を見上げ続けていたが、寝台の隣に座る黄忠の姿が手に取るようにわかった。

「負けたわね」

「完敗じゃ」

「満足した?」

「ああ。斬れ」

 黄忠の手がそっと伸びて首に触れた。そして優しく、真綿よりも柔らかく絞められた。

「死にたいのね?」

「満足した。もう未練はない」

「でしょうね」

 黄忠の手が離れる。さほど絞められたわけではないというのに、強い息苦しさを覚えて厳顔は大きく胸を上下させた。

「英雄として死にたい? さぞや気持ちいいでしょうね。もろとも巻き添えにし、自分は敗れて首を断たれてそれで終わり」

「戦いを挑んで、負けた。当然の結末じゃ。言ったろう? わしは戦人じゃ。戦い、果てるが本望」

「だめ。私は許さない」

 黄忠の拒絶は固く強い響きを伴った。

「私が私を許したように、貴方も貴方を許してもらう。清々しい英雄として死ぬのではなく、無様で惨めな降将として貴方には仕事をしてもらう。時代に埋もれたくない、武人として戦い抜きたいという愚かな自己満足を私は許さない」

 黄忠の声は冷たく装っていたが、隠しようもない情がこもっている。結局厳顔を殺せてもいない。

「わしにどうしろと」

「私と洛陽に行き、私の敬愛する方にお会いして頂きます。その方と話して今後を決めてもらう」

「……厳しいな、紫苑」

 この時初めて厳顔は首を曲げて黄忠を見た。燭台の火に照らされる旧友の顔はどこか泣きたそうで、嬉しそうであった。手は胸に当てられている。いつもの胸の開いた旗袍だったが、ひときわ大きな見慣れない傷がそこにはあった。その傷に手を当てながら黄忠は言葉を続ける。

「ええ……私も貴方と同じ立場ですもの。これが私の償いなの。ねぇ、喜んで時代に埋もれて行きましょうよ。次の世代の子たちの幸福のために。時代に埋もれることを不幸だと思わないで」

「敗北の罪を償うために、敵に降れということか」

「いいえ。勝敗にこだわり、本当に苦しむ者たちを見ることの出来なかった罪。もっと言うならそうね……酔って人に迷惑をかけた罰、でどうかしら」

 厳顔は大声で笑った。確かにそれには思い当たる節がある。これまで何度も大罪を重ねてきたものだ。

「魂の隅まで、とことん泥酔する、か……よくぞ言うたものだ」

「貴女は私に言ったわよね。この世は狂っている、って……私もそう思う。でもそれを許さず、正そうとする人がいるの。その手伝いをしないなんて、やっぱり嘘なのよ。私たちが守りたい人たちのために」

「しかしわしには、お前と違って子は……」

 やれやれ、と黄忠は肩をすくめて視線を後方に差し向けた。

「誰がなんですって? あなたにもいるじゃない、ほら」

 釣られたように厳顔も振り返る。そこには泣きじゃくりながら立ちすくんでいる魏延がいた。

「き、桔梗さま……わ、ワタシ……ワタシ!」

 戦場での勇猛ぶりが嘘のように、みっともなく童子のように泣き始める魏延。

「ね? 桔梗」

「……クッ、参ったな。まだ勝手に死ぬのは許されんか……ほら、来い焔耶。全く、お前は武器の扱いは慣れてきたというのに、全く餓鬼のまんまじゃなぁ」

「す、すみません桔梗さま! き、桔梗さまを助けられなくて、ワタシ!」

「泣くでない、馬鹿め」

 ガサガサの腰の強い魏延の髪に、満足に動かない左手を載せながら厳顔は黄忠を見た。言葉はなかったが意志は十分に伝わった。道理のない喧嘩をしかけ、無様に敗れた。それを許され、次の使命を与えられようとしている。屈辱はある。悔しい思いもある。次こそは、という思いだってなくはない。けどなぜか、それらの気持ちは、この黄忠が会わせたいという男に会いたいという気持ちほどには強くなかった。

 会ってみようと思う。それから決めればいい。斬られるのならばそれまでだし、斬りたいと思えばそれも良い。共に戦いたいと思えたのなら……それはきっと最高だろう。

「だが良いのか? わしは劉焉様に従って天に背いた謀反者。簡単に許すことはできまい」

「貴女さえ許された。ならば他の兵とて許される」

「そういうことか……謀反、寝返り、降参の期待が高まるというわけじゃな。劉焉様は……」

 黄忠が首を振るのを見て、厳顔も察した。長生きした。賭けにも出て帝位まで名乗った。思い残すことがあったとて、人に惜しまれるようなことではないだろう。

「……桔梗。これから辛いことも多いはず。立場は悪く、恨まれることも多いでしょう」

「その時は、一杯飲みに付き合ってもらうとするか」

「ええ。いつでも付き合うから。親友でしょう?」

「腐れ縁のな」

「桔梗サマァァァ」

「わかったわかった」

「かわいいわね、貴女たちの取り合わせ」

「やかましいわい」

 

 ――後日、厳顔と魏延は董卓、李岳と面会し正式に許しを得ることとなる。その後本人らのたっての希望により皇甫嵩の麾下に配属、一兵卒という最底辺への降格を受けて戦場を駆け回ることになる。しかし一軍を任されるまでにさしたる時間はかからず、以後信頼厚い将として活躍していくこととなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――潼関の戦いの以後、西方戦線は急転直下の展開を見せる。主戦力を失った長安はやがて李儒の策略により反乱を誘発させられ、内外から攻撃を受け間もなく陥落、降伏した。長安を統括していた法正は縛につき、洛陽へと護送されるを許されたが、偽帝劉焉の第一子劉範、次兄の劉誕は合切を許されず処断された。後日、馬騰は第一等の勲功ありとして洛陽に招聘を受け、天子直々の歓待を受けることとなる。

 また一方、長安の急変を知らされぬままに洋々と成都から出立していた皇帝劉焉は、漢中に至る道程で落石に遭い呆気なく命を落とした。襲撃を企てたのは李確と郭祀であるが、その二名の名が露呈することはついぞなかった。劉焉の跡を継いだのは一人成都に残っていた第三子の劉璋。しかし漢の攻撃を恐れて帝位を継承することはなく、ただただ益州牧を名乗るにとどまった。

 ここに劉焉帝の騒乱は呆気なく幕引きとなるのであった。

 




これにて長安編完結です。もう少し綺麗にまとめたり、ダラダラ書きたいシーンもあったんですが……さくっと切り上げました(これが何より難しい)
本編には書いてませんが轟天砲は破壊されます。厳顔は後日、皇甫嵩から朱儁の武器だった赤骨という大剣を授かります。鈍砕骨そっくりのサイズで手にしっくりくるはずですから、焔耶と二人で頑張ってくれると思います。

次回、ビューンと時間が飛びます。多分。

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